ロイヤルカルテット

第五話

 エリアルドたちと合流してから、三日が経過した。内海にしては珍しく天候が荒れ、横殴りの雨が降っている。海面は上昇と下降を繰り返し、船を大きく揺らした。

 午後の三時過ぎになって、雨足が少しは弱まる。それでも空は依然として分厚い雲に覆われ、大粒の雨を吐き続けていた。

 エマイユとタチアナは、チトセの部屋で雨風を凌ぐ。

「ようやく一息つけそうですね」

「ええ。ほんと、生きた心地がしなかったわ」

 夜明け前から嵐に見舞われ、目まぐるしい有様だった。両肩に疲労感が圧し掛かっており、しばらく立つ気になれない。

 しかし武装商船団のメンバーは、大雨に晒されようと冷静でいた。ギュスターやチトセの指示も的確で、船は五隻とも、事なきを得ている。

 チトセも部屋に戻ってきて、バスタオルを無造作に被った。

「ふーっ。嵐はもうじき抜けそうだよ。今回はよく降ったね、まったく」

「お疲れ様。風邪ひいちゃうわよ、着替えたら?」

「いいよ。どうせ、またすぐ濡れるし」

 ごろごろと雷が鳴る。

 まだ油断はできなかった。乗組員はほぼ全員が配置につき、風向きや波の高さに細心の注意を払っている。それには特別な勘が必要なようで、エマイユでは役に立てない。

 姉さんが海で生きていけないはずよ。

 エマイユには海が荒れているようにしか見えなくても、ギュスターやチトセは、何かしらの兆候を直感した。海上の生活が長いと、肌で感じるようになるらしい。

 海面の様子をチトセは小窓から睨んでいた。

「……おかしいね」

 すぐさま伝令管を開き、ギュスターに報告する。

「兄貴! さっきから雨と波の動きが一致してない。なんか変だよ」

『俺もさっき気付いたところだ。くれぐれも警戒を怠るな』

 ギュスターのほうも緊迫しているのが伝わってきた。

『おそらく海中だ。何かいやがる』

「まさか、内海にサーペントが出るなんてこと……」 

 チトセが雨風の吹き荒ぶ甲板へと出て、薄暗い海を眺める。

 声をあげたのは見張りの男だった。

「うわあああっ! お、お嬢! 北の方角にとんでもないやつがいます!」

「なんだって? ……おいおい、冗談だろぉ?」

 嫌な予感がして、エマイユも飛びだす。瞬く間にびしょ濡れになってしまったが、もう嵐どころではなかった。

海面から巨大な影が現れ、鎌首をもたげる。

なんなの? あれが、魔物?

 その巨躯は魔物などというスケールを超越していた。灯台ほどの大きさがある巨体が、海水をひきずるように身をうねらせる。

 ギュスターもエリアルドとともに甲板に出て、声を震わせた。

「あれは……間違いあるまい。リヴァイアサンだ!」

 魔界の海竜リヴァイアサンが、耳をつんざくような咆哮をあげる。

 巨竜の出現によって、船員らは俄かに浮足立った。

「なんってぇサイズだよ? あれに比べりゃ、サーペントなんてトカゲじゃねえか」

「お頭、逃げましょう! この船の武装じゃ、勝負になりませんぜ!」

 リヴァイアサンが海中に潜ると、船の揺れが大きくなる。

 どこからともなくエマイユと同じ声が聞こえた。

『やっと見つけたわ、ギュスター! わたくしを裏切った報いを受けなさい!』

 再び海面へと現れたリヴァイアサンが、両目を赤々と光らせる。

 クラン王女の報復だった。計画をふいにしたギュスターを恨み、フランの力でリヴァイアサンを内海に放ったらしい。

 ギュスターは見張り台にひらりと登って、号令を発した。

「戦闘用意! リヴァイアサンを牽制しつつ、この海域を離脱するぞ!」

 船員らも決死の覚悟で、弾丸のように動きだす。

「お頭、この雨です! 火薬がしけっちまってて撃てません!」

「さっさと取り替えろ! 全砲門、装填急げ!」

 頭領の判断に対し、賛成も反対もない。一丸となって事に当たらなければ、誰ひとり生き残れないことを、おそらく海の男たちは身をもって知っていた。

 ギュスターがエマイユにも指示をくだす。

「エマイユ、ウィル・オ・ウィスプを海上に配置しろ。少しでも足止めするんだ」

「ええ! やってみるわ」

 すかさずエマイユは指輪をかざし、念を込めた。しかし船の揺れが激しいうえ、リヴァイアサンの接近に戸惑って、なかなか魔力を発動できない。

 ふらつくばかりのエマイユを、誰かが支えた。

「しっかりするんだ、エマイユ」

「エリアルド? お願い!」

 彼とともに踏ん張りを利かせて、ウィル・オ・ウィスプを召喚する。

 光体の群れは膨張しつつ、リヴァイアサンに向かって飛んでいった。船団を守るように会場で陣を張り、海竜の進行を食い止める。

 リヴァイアサンの頭部がウィル・オ・ウィスプに激突すると、しぶきがあがった。

「おおおっ? 嬢ちゃんのアレか!」

 ウィル・オ・ウィスプの堅牢さに、船員たちが歓声をあげる。

「今のうちだ! フォーメーションデルタで、南に舵を取れ! リヴァイアサンが接近次第、全火力をもってこれを叩く!」

「了解っ!」

 ギュスターの号令のもと、一号船を先頭に、リヴァイアサンから離脱する。残りの船は左右に若干広がりつつ、砲台の向きを揃えた。

 三角形の陣形で、中に入ってきたターゲットを一網打尽にする作戦らしい。砲撃の射線は辺の外側に逸れるため、作戦通りなら、同士討ちの危険もない。

「兄貴っ! あたいは二号船に移るよ!」

 チトセはロープを伝って、後ろの船舶へと飛び移った。

 エリアルドに支えられながら、エマイユはウィル・オ・ウィスプを追加する。

「大丈夫かい、エマイユ」

「平気よ。ウィスプの扱いには慣れてるもの」

 しかしリヴァイアサンに潜られると、追いきれなくなった。巨体から繰りだされる体当たりの威力も凄まじく、ウィル・オ・ウィスプが弾き飛ばされる。

 さらに船が揺らいだ。転びそうになりながら、タチアナがロープを持ってくる。

「エマイユ様、エリアルド様! この縄で身体を」

「僕は手を離せない、頼む!」

 エマイユたちは身体にロープを巻き、丈夫なメインマストに繋いだ。さらに踏ん張りが利くようになったことで、ウィル・オ・ウィスプの操作に集中できる。

 リヴァイアサンが海面を突き破って、唸りをあげた。

「撃てェーーーッ!」

 ギュスターの号令とともに、ありったけの大砲が火を噴く。

 海竜のうねるような動きは捉えにくく、半分は外れた。それでも数発は命中し、リヴァイアサンが苦しげにのたうつ。

「全速前進!」

 その隙に船団はスピードを上げ、海竜から距離を稼いだ。幸い嵐が追い風となって、船はマストを軋ませながら、海面を駆け抜けていく。

 だが、リヴァイアサンもみるみる速度をあげた。滑るように加速し、一番後ろの五号船に追いついてしまう。

 五号船は突撃を食らい、真っ二つに割れた。

「早く四号船に移れっ! 海に落ちたら、おしまいだぞ!」

マストが倒れ、船体をひっくり返す。

 波は荒れに荒れ、真っ二つの五号船を容易く噛み砕いた。四号船は減速し、不安定に揺れながらも、ロープを海に放つ。

 続けざまにリヴァイアサンは、チトセの二号船へと肉薄した。

「チトセ、そっちに行ったぞ!」

「わかってらぁ! 直撃させてやるっ!」

 海竜の体当たりを受ける寸前、二号船の後方が赤黒い爆発を起こす。

 その反動は海面を走り抜け、エマイユたちの一号船もぐらぐらと揺れた。エマイユはエリアルドに掴まり、悲鳴をあげる。

「きゃあああっ!」

 船体が斜めになってもエリアルドは踏ん張り続け、タチアナの腕も掴んだ。

「あ、ありがとうございます、エリアル――」

「ロープを離すんじゃない! リヴァイアサンはどうなった?」

 二号船の爆発はチトセが仕掛けたものに違いない。船は半壊したものの、リヴァイアサンにダメージを与え、動きを鈍らせた。

 しかしリヴァイアサンの猛攻は止まらない。むしろ傷を負ったことで、より凶暴化し、落雷のような咆哮を轟かせた。

 このままじゃ……みんな、やられちゃうわ……。

 エマイユは戦慄し、ごくりと息を呑む。

 勇敢な船員らも戦意を喪失しつつあり、リヴァイアサンの接近に慄いた。

「も、もうだめだ……」

「どうしようもねえよ、あんなやつ。くそっ!」

 クランの笑声が木霊する。

『あなたの大好きな海で死なせてあげるのよ。クククッ、感謝して欲しいわね!』

「クランか? 俺が憎いなら、俺だけを殺せばいいだろう!」

 ギュスターは灰色の空を見上げ、歯軋りした。

 エリアルドも屈辱を噛み締めながら、エマイユを抱き締める。

「僕では君を守れないのか……」

 全員が敗北を悟っていた。一号船へと戻ってきたチトセが、甲板を殴りつける。

「あれで仕留められねえって、どういうことだよ!」

 しかしエマイユの下僕であるウィル・オ・ウィスプは、懸命にリヴァイアサンの突撃を阻み続けていた。ウィル・オ・ウィスプたちはまだ諦めていない。

「……エリアルド、支えてて!」

「エマイユ?」

 エマイユは意を決し、左手の指輪を掲げた。

 甲板の中央に魔方陣が浮かび、光り輝く存在がゆらりと降臨する。その白馬は槍を咥えながら、一対の翼をはためかせた。

 幻想的なペガサスの雄姿に、一同が目を見張る。

「ペガサスだ……!」

 リヴァイアサンを撃退できるかもしれない、最後の切り札だった。ギュスターが見張り台から降りてきて、にやりと唇を曲げる。

「よくやった、エマイユ。お前は召喚の維持に集中していろ」

「ええ……でも、誰かが乗らないと」

 ペガサスは騎手が搭乗するのを待っていた。

ギュスターが乗ろうとするのを、エリアルドが制する。

「待て、僕がやる。ここは任せてくれないか」

「……下手をすれば、死ぬぞ」

「指揮官のあなたは船を離れるべきじゃない。……そうだろう?」

 ギュスターとエリアルドは真剣な表情で、対峙でもするように睨みあった。

 ペガサスはギュスターではなくエリアルドを見詰めている。天界の存在であるせいか、魔界の末裔であるギュスターでは、相性が悪い。

その点、イズルード帝国は天界の系譜にあるため、エリアルドはペガサスナイトに打ってつけだった。

「危険すぎるわ、エリアルド」

 エマイユとて、恋人を死地に送るような真似はしたくない。

 エリアルドは自信を浮かべ、はにかんだ。

「必ず戻ってくる。守り抜いた君を、存分に抱き締めるためにね」

「な、何言ってるのよ? こんな時に」

 エマイユは顔を赤らめる。

 彼を信じてみようという気になった。エリアルドと一緒にこの死地をくぐり抜け、抱き締められたい。そのためには、戦わなければならない。

「……そうよね。ペガサスはあなたに託すわ」

「よし! ギュスター、あとは頼む」

 エリアルドはペガサスの食んでいる槍、グングニルを手に取った。その背に彼を乗せたペガサスが、白い翼を広げ、嵐の中を駆けあがっていく。

 ギュスターは見張り台に上がり、右手をかざした。

「残りの船を集めろ! リヴァイアサンにもう一度、砲撃を浴びせる!」

 一号船とともに三号船、四号船が九十度旋回し、リヴァイアサンを待ち構える。

 海竜はウィル・オ・ウィスプを蹴散らし、真正面から迫ってきた。チトセがタイミングを読みきって、その顔面に一斉砲撃をぶつける。

「今だよ、撃てェ!」

 リヴァイアサンがわずかに怯んだ。

その後方へとまわり込んだエリアルドが、片手でペガサスの手綱を引く。

「エマイユ、僕に力を!」

 右手にある槍が眩いほどに輝いた。それを振りあげるだけで、黄金色のエネルギーが雨雲を引き裂き、リヴァイアサンを夕暮れの陽に晒す。

「逃がさないわっ!」

 海中に潜んでいたウィル・オ・ウィスプが、狂える海竜にまとわりついた。のけぞるリヴァイアサンに目掛けて、エリアルドが怒涛の一撃を放つ。

「でやぁああああああーーーッ!」

 光線じみた一撃は、リヴァイアサンのうねる巨体を、同時に三か所も刺し貫いた。海竜がのたうちまわって、断末魔をあげる。

 雨雲は散り散りになり、やがて雲間からオレンジ色の陽が差した。

エリアルドはペガサスとともに夕空を駆け、悠々と一号船へと舞い戻ってくる。

「やったぜ! おれたち、助かったんだ!」

「もうだめかと……嬢ちゃんのおかげだよ、ありがとう!」

 船員たちは歓喜に沸いた。生き残れたことを仲間と喜びあって、涙を流す。

 エリアルドの雄姿に感極まって、エマイユは彼に抱きつこうとした。

「エリア……」

「エリアルド様、よくご無事で!」

 ところがロープが解けず、タチアナに先を越される。

「ちょ、タチアナ? そんなに泣かなくても……いや、エマイユ? これはちがっ」

「はっはっはっ! 勇者殿は馬の扱いは得意でも、女の扱いは苦手と見えるな」

 ペガサスナイトの初心な慌てぶりに、ギュスターは大笑いした。

 

 ウィル・オ・ウィスプやペガサスの召喚で、疲れ果ててしまったらしい。エマイユは数時間ほど眠り込み、深夜になって目を覚ます。

「んぅ……ぁ、あたし……?」

 そこはタチアナと共用している客間の、質素なベッドの上だった。頭を転がすと、誰かが傍にいるのが見える。

「よく眠れたかい? エマイユ」

「エリアルド?」

 エリアルドは椅子に腰掛け、楽な姿勢で足を崩していた。

 エマイユと同じベッドには、タチアナがもたれ掛かり、静かに寝息を立てている。エリアルドは彼女の頭を撫で、起こさないように囁いた。

「君がギュスターにさらわれた時から、ずっと君のことを心配してたんだよ、彼女は」

「……あなたにもタチアナにも、心配掛けちゃったわよね。ごめんなさい」

 エマイユもタチアナを撫でようとして、はたと気付く。

 自分の身体には下着しかなかった。

「きゃあああっ?」

 エマイユは涙目になるまで真っ赤になって、布団の中に肌を隠す。

 エリアルドもびっくりして、赤面しつつ顔を背けた。

「え、えぇと……びしょ濡れだったから、脱がせたんじゃないかな? 多分」

「あなたが脱がせたんじゃないでしょうね?」

「違う違う! 僕だって知らなかったんだ、君が、はだ、裸だなんて」

 それきり沈黙が流れる。

 しかし海で再会した日のような気まずさはなかった。熱い高揚感が胸の内側をひっきりなしに叩き、恥ずかしいはずなのに、期待めいたものを抱かせる。

エリアルドになら、あたし……。

 エマイユは胸元を念入りに隠しつつ、エリアルドの横顔を覗き込んだ。

「ねえ……抱き締めてくれるんじゃなかったの?」

 恋人からの魅力的な色仕掛けに、エリアルドは困惑する。

「へ、変なことを言わないでくれ。君は今、その、ほとんど裸なんだし……」

「ふふっ。言ってみただけよ」

 エマイユは舌を先だけ見せて、微笑んだ。けれども内心、あと少しの勇気を出し損ね、チャンスを棒に振ってしまったことを悔やむ。

 彼に触れたい。触れてもらいたい。そんなはしたない欲求が自然と込みあげた。

 エリアルドがわざとらしい咳払いを挟んで、仕切りなおす。

「僕らの船団は今、内海を南にくだってるんだよ」

 リヴァイアサンの襲撃を振りきったあと、部隊を再編成すべく、ギュスターは武装商船団の本部へと向かっていた。

 第一部隊の船舶は二隻も沈み、怪我人も大勢出ている。

とはいえ、奇跡的に死者はひとりもいない。それはギュスターの冷静な判断と、一丸となって力を合わせた船員たちが引き寄せた、最高の結果だった。

 エリアルドがエマイユの額をそっと撫でる。

「もちろん君のおかげさ。ペガサスの力がなかったら、僕らは全滅していた」

「あなたが戦ってくれたからよ。でも……もう、無茶はしないでね」

 エマイユは布団を鼻まで被りつつ、上目遣いでエリアルドを見詰めた。今回は運よく生還してくれたが、次も無事とは限らない。

「君を抱き締めるためなら、何だってするよ。さあ、今夜はおやすみ」

「……んもう。ばか」

 エリアルドは得意げにはにかむと、タチアナに毛布を掛け、部屋を出ていった。

 エマイユは顔を赤らめつつ、寝入っているはずのタチアナを睨む。

「起きてるんでしょ? タチアナ」

「ぐ~。ぐ~」

 やっぱり狸寝入りね。

 タチアナはゆっくりと顔をあげ、エマイユを睨み返した。

「エリアルド様を誘惑なさるなんて……ペッタンコの分際で、生意気ですよ」

「あなたもあたしと、ほとんど変わらないじゃないのっ」

「何をおっしゃいますか。AカップとBカップには天と地ほどの差があるんです」

 この野暮なメイドは、エマイユとエリアルドが接近しようものなら、邪魔するつもりだったに違いない。Bカップのバストを誇りつつ、しれっと開きなおる。

「メイドの様式美ですよ。愛人くらい、許容なさってください」

「だめったら、だめ。いい加減に諦め――」

 喧嘩していると、外から甲高い悲鳴が聞こえてきた。

「キャアァアアアッ!」

 俄かに船内が騒がしくなる。

「……何かしら?」

「まだ眠れそうにありませんね。様子を見に行きましょう」

 エマイユはすぐに着替え、タチアナとともに騒ぎの中心へと向かった。

 悲鳴の主はチトセだったらしい。蒼白になって、自分の部屋に入ろうとしない。

「どうしたの? すごい声だったわよ」

「き、着替えてたら、変なのが鏡に映って……」

 そこを覗き込むと、姿見が奇妙な気配を漂わせていた。鏡の向こうでエマイユの見知った顔、もとい見知ったドクロが笑っている。

『ヒッヒッヒ! 無事で何よりじゃ、フランの子……エマイユよ』

「ウォーロック?」

 チトセは後ろからおずおずと様子を窺っていた。

「え? エマイユ、知り合いなの?」

「一応ね。顔は怖すぎるけど、危険はないから安心して」

『酷い言われようじゃな。とりあえず、もうちょいと広い場所に出してくれんか』

 船員らに混ざって、ギュスターやエリアルドも駆けつける。

「何があったんだい?」

「彼が話してくれるはずよ。手伝って」

 エマイユたちはチトセの姿見を甲板へと運びだした。

 骸骨のなりをしたウォーロックが、鏡の中で暢気にパイプを吹かせる。

『ようやっと、おぬしの位置を補足できてな。クランに先を越されたようじゃが、おぬしら、よく生きておるわい』

 ギュスターは歩み出ると、ウォーロックの前で律儀に会釈した。

「そちらは魔界の重鎮とお見受けするが……」

『ヒヒヒ、違うな。わしはあくまで傍観者よ。天と魔の天秤を見詰めるだけの、な』

 姿こそ古ぼけた骸骨だが、ウォーロックの言葉には叡智を感じさせる。

 その風貌の異様さと、饒舌な話しぶりに、誰もが静まり返った。リヴァイアサンやペガサスを目撃したこともあって、ウォーロックの存在を今さら否定する者はいない。

『天秤は今、黒き魔に傾いておる』

 冗長になりそうな流れを察し、エマイユは強引に割り込んだ。

「ウォーロック、今夜は小難しい話はなしにして。用があるんでしょ?」

『いかにも。おぬしの姉、クラン王女についてじゃ』

 鏡の向こうでウォーロックがパイプを休める。

『クランはフラムツォバで、魔界の魔物を次々と召喚しておる。リヴァイアサンもそのひとつよ。このままではゲートが開放され、冥王クラスも出てくるかもしれん』

「冥王……だって?」

 その言葉にエリアルドが顔を顰めた。

『いやいや、冥王っちゅうては聞こえが悪かったか。安心せい、地上に出て来たからといって、侵略戦争を始めるような輩ではのうて。じゃが……魔界の王が現れれば、天界も黙ってはおらん。主神クラスが地上へと出張ってこよう』

 エマイユたちは顔を見合わせ、口を噤む。

 ウォーロックは低い声で囁いた。

『そうなれば、再び天界と魔界の戦争が始まろう。地上のすべてを戦場として、な』

 かつて地上をことごとく荒廃させた、天界と魔界の勢力争い。天界の王女と魔界の王子の間にフランが誕生したことによって、双方は地上から軍を退いている。

 だが、そのフランの末裔は今、魔界に傾倒しつつあった。

 フランの子が魔界の王を迎えるような事態になれば、地上の『中立性』は完全に失われる。同時に、天界は地上に軍を派遣する、大義名分を得るだろう。

 事の深刻さを、エマイユは直感した。

「……なんとなくわかったわ。姉さんを止めないと、大変なことになるのね」

『クランの混沌の力に対抗できるのは、おぬしの秩序の力だけよ。じゃが心せよ。主神や冥王どもが現れる前に、決着をつけねばならぬ』

 ウォーロックが人差し指を立てる。

『もうひとつ。クランを殺しても、地上はおしまいじゃぞ』

 一同は神妙な面持ちで押し黙った。船体に波が打ちつける音だけが響く。

 チトセは腕組みの姿勢を取り、タチアナも口を開いた。

「よくわかんねぇんだけど……ふん捕まえろ、ってことかい?」

「クラン様を倒してしまいますと、我々は天界に恭順したとみなされるのでしょう」

 地上の平和は、天界と魔界の不安定なパワーバランスの上に成り立っている。このままクランが魔界の力を拡大しても、逆に消滅しても、バランスは崩壊した。

『天と魔の盟約は、あくまで休戦に過ぎんよって』

 地上が天界のものとなれば、今度は魔界が進軍を開始しかねない。

『なぁに、簡単じゃ。エマイユ、おぬしの指輪を、姉の指輪に接触させるだけでええ。さすれば混沌の力は相殺され、魔物どももおとなしくなる』

 エマイユの左手で指輪が鈍く光った。

 フラムツォバ王国のため、そして地上のため、エマイユに課せられた使命は大きい。眩暈がしそうになる。それを支えてくれたのは、恋人のエリアルドだった。

「僕も行くよ。君をひとりで戦わせはしない」

「……ありがとう」

 エリアルドと一緒なら、どんな困難にも立ち向かえる。エマイユの勇気はエリアルドの存在によって、力強く、鋭く、一直線に針路を取った。

『使えそうな魔導書を送っておいた。指輪があれば、読めるじゃろうて』

「ありがとう、ウォーロック。あなたって、意外に世話焼きよね」

 エマイユに茶化され、ドクロの相貌が微笑む。

『ヒッヒッヒ! 天と魔の末裔どもも、死ぬでないぞ』

 ウォーロックの映像は消え、姿見だけが残された。船員らがざわざわと騒ぎ始める。

「天界と魔界が戦争を始める……だって? お嬢、さっきの話は本当ですかね」

「あたいにも何が何やら、だよ。エマイユは納得してるみたいだったけど」

 エマイユはエリアルドとともに次の行き先を提示した。

「行きましょう、フラムツォバへ」

「……待て。俺は行くとは言っとらんぞ」

 ところが、頭領のギュスターが乗ってこない。

 まだ乾いていない前髪をかきあげ、ギュスターは一笑に伏した。

「悪いが、お前らをフラムツォバまで送るという話は、なしだ。リヴァイアサンみたいな化け物が出る海を進め、と?」

 エリアルドがギュスターににじり寄り、声を荒らげる。

「もはやフラムツォバだけの問題ではない! 地上のために戦う時じゃないか!」

「生憎、俺はお前のように、青臭い正義感は持ちあわせていないんだ」

「何をっ? あなたがクランを裏切るような真似をしたから、こうなったんだろう! 今さら無関係とは言わせないぞ」

 険悪な雰囲気が漂い始め、船員らは口を噤んだ。

 ギュスターの顔から皮肉屋の笑みが消える。

「聞け、エリアルド。お前らはここにいる全員に、命を懸けろ、と言ってるんだ。しかし部下には、妻や子どもがいる者も多い。それでも地上のために死ね、と?」

「うっ……」

 エリアルドは何も言い返せず、俯いた。

 船団は窮地を脱したばかりであり、リヴァイアサンの脅威は誰もが体感している。フラムツォバ王国に近づけば、もっと危険な目に遭うかもしれない。しかも海上では逃げ場がなかった。エマイユの都合のために、彼らを巻き込むわけにはいかない。

「俺とて、お前らと行きたくないわけじゃない。だが頭領の俺には、部下を家族のもとへ返してやる義務がある」

 船員の命を預かる者として、ギュスターの言葉には重みがあった。

 それでもエマイユは、エリアルドを脇にのけ、ギュスターに正面から歩み寄る。

「……だったら、取引しましょう」

「エ、エマイユ?」

「ほう? 俺たちが命を懸けるだけの報酬に、あてがあるのかな?」

 一同がエマイユの、屹然とした物言いに注目した。

「まずは損害よ。姉さんがいる限り、あなたたちは二度と内海で商いができない。武装商船団がビジネスをご破算にされて、このまま黙ってていいの?」

「ふむ……確かに。海上交易の権利があっても、あんな怪物がいてはな」

 東西を結ぶ内海は、大半がクランの魔力の影響下にある。クランの怒りを買った武装商船団では通行できない以上、商売の続行はもはや不可能だった。

 外海に逃げたからといって、これまで通りの商売ができる保証もない。武装商船団には『逃亡者』や『敗者』などというイメージがつきまとい、信用を失うだろう。

「だけどここで戦えば、どう? ギュスター、あなたはフラムツォバ王国の半分を手に入れて、内海を支配することだってできるわ」

 エマイユの豪胆な言葉に、エリアルドは慄いた。

「半分だって? エマイユ、君は一体、何を考えて……」

「ギュスターが姉さんを手に入れるってことは、そういうことでしょ」

 エマイユがしれっと言ってのけると、ギュスターが噴きだす。

「わーっはっはっはっ! なるほど。俺はクランを妻に迎え、フラムツォバ王国の実権に近づき、内海を得る。ふふふ、武装商船団にとっては最高のシナリオだな」

 武装商船団は内海の一大勢力とはいえ、陸上では抑圧され、沿岸部での商いしか認められていなかった。そんな彼らがフラムツォバという『陸』の拠点を得ることは、勢力の拡大に直結する。おまけに国家レベルの地位さえ獲得できた。

「武装商船団、改めフラムツォバ商船団か。ククッ、悪くない」

 己の利益を確信したらしいギュスターがにやつく。

「それにいい覚悟だ。血を流そうというのだ、それくらいの気概がなくてはな」

「ギュスター、あなた……」

 力強い号令が反響した。

「者ども、聞けっ! これより我々はフラムツォバ王国に向かう。だが、命が惜しい者、家族のもとに帰りたい者は、下船を許可しよう」

船員らは意気揚々とこぶしを振りあげる。

「水臭いですぜ、お頭ぁ! 俺たち、どこまでもおともしやす!」

「こうなったら、息子にビフテキ食わせてやりますよ!」

 チトセも小粋にはにかんだ。

「あたいはもちろん付き合うよ。クランのやつを引っ叩いてやんないとね」

 皆がエマイユの勇気を称え、賛同する。しかし当のエマイユは不安にも駆られていた。

 本当にいいのかしら、これで……。

 フラムツォバ王国は危険に違いない。戦いになれば、皆も無事では済まないだろう。責任感が背後にずしりと圧し掛かってきて、脚が震える。

 そんなエマイユの肩を、エリアルドが優しく抱き寄せた。

「船に乗せろと言い出したのは、僕だ。君が気に病むことじゃないさ」

 胸中は打ち明けるまでもなく、彼に感じ取られてしまっている。それがエマイユの恐怖を和らげ、身体の震えを止めてくれた。

「戦いに行くんじゃない。取り戻しに行くんだ、僕らは」

「ええ。……行きましょう、あたしたちの国へ」

 かくして武装商船団は内海を北上し、フラムツォバ王国を目指す。

 エマイユのまなざしは遠い故郷へと想いを馳せていた。

 

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