ロイヤルカルテット

第四話

 ベッドが一定の間隔で揺れる。

 だんだんと意識が明瞭になってきた。瞼に眩しいものが当たっている。

「う……ん、あたし……?」

 エマイユはおもむろに起きあがり、顔をもたげた。口角には涎を垂れたらしい跡が残っていて、夜会のためのヘアスタイルはぐちゃぐちゃになっている。

 その部屋は簡素なベッドひとつで三分の一が埋まっていた。机には地図と羅針盤が置いてある。どうやらここは船舶の一室らしい。

 エマイユは昨夜、クランの代わりにギュスターに連れ去られてしまった。

 あるはずのものがないことに気付き、エマイユは赤面する。

「あれっ? やだ、ドレスは?」

 昨夜は着ていたロイヤルドレスが忽然と消えており、身体には下着とタイツくらいしか残っていない。慌ててシーツをかき集め、肌を隠す。

 男に誘拐され、服を剥ぎ取られているのだから、嫌な予感がした。おぞましい想像ばかり浮かんでしまって、冷や汗をかく。

 しかし部屋から逃げるにしても、服がない。

 まごついていると、大きな人影が扉を開け、入ってきた。

「目が覚めたか、クラン」

 武装商船団の頭領、ギュスター=リューリック。

彼は昨夜と同じ恰好のまま、エマイユのベッドへとにじり寄って、酷薄な笑みを浮かべた。服を着ていないエマイユを、ぎらぎらとした視線で逆撫でする。

「こ……来ないで」

 エマイユはベッドの上で、壁際まで後退した。

「ふっ。こうしたくて、俺のもとに来たんだろう? 王女も所詮は女だな」

 同じ距離を、ギュスターが前のめりになって詰めてくる。

「さあ、クラン。俺に甘えてみせろ」

 会話はまるで噛みあわなかった。ギュスターはエマイユを『クラン』と呼び、当然のように身体を求めてくる。

 もしかして、あたしを姉さんと間違えてるの?

 彼が恋人を取り違えた、とは思えなかった。だが時間が限られる状況で、焦って間違えてしまった、と考えられなくもない。

「違うの、あたしは姉さんじゃ」

「黙っていろ。今日は俺も気分がいいんだ、たっぷりと可愛がってやる」

 ギュスターは睨み顔で凄みを利かせ、エマイユを追い詰めた。

 ここでクラン王女のふりを続ける必要などない。けれども身体が竦んでしまって、逆らってはいけないと、抵抗することそのものに恐怖を感じる。

 震えることしかできないエマイユの肩に、ギュスターの大きな手がそっと触れた。

「……くっ、くくく」

 ところが彼のほうも震え、何かを堪えるように俯く。

「わははははっ! ふはっ、はーっははは!」

 いきなり大笑いされた。

「え……?」

 エマイユは目を点にして、きょとんとする。

彼の手はあっさりと離れた。

「いや、すまん。お前の反応が面白くてな。からかってみたに過ぎん」

 ひとしきり笑ってから、ギュスターが男物のシャツをベッドに放り込む。

「脱がせはしたが、何もしてないさ」

「……そ、そう」

 エマイユはそれを取って、シーツの中でもぞもぞと着替えた。

 脱がせただけでも大問題じゃないの……?

 拍子抜けして、怒る気にもなれない。それでも彼を警戒し、細心の注意を払う。

「俺としたことが……間違えて、妹のほうを連れてきてしまうとは、な」

「冗談言わないで。あなたはどっちが姉さんか、わかってたはずよ」

 ギュスターは小窓を開け、気怠そうに煙草を噴かせていた。しかし一本を吸いきることはせず、半分くらいで灰皿に押し込む。

「辞めたいんだよ、煙草は」

「質問に答えてったら。あなた、あたしをどうするつもり?」

 ひとまず状況は読めてきた。ギュスターはおそらく意図的に、クランではなくエマイユのほうをさらい、内海まで逃げおおせたのだろう。

「間違えてしまったものは仕方なかろう? しばらく考えさせてくれ」

「そんな悠長なこと!」

 エマイユが噛みついても、ギュスターは素知らぬ顔で応じようとしなかった。

 あれからエリアルドやクランがどう判断し、どう動いたのか、想像がつかない。焦燥感に駆られ、一刻も早く戻らなければと、気持ちが急く。

「帰してちょうだい」

「それは無理な相談だ。仕事があるんでな」

 ギュスターはエマイユの要望をあしらいつつ、机の脇にある伝令管を開いた。船内じゅうに張り巡らされた管を通して、会話ができる仕組みらしい。

「チトセ、来てくれ。……ああ、今すぐだ。そんなものはあとでいい」

 やがて扉が勢いよく開け放たれた。

「なんだい、兄貴? こんな朝っぱらから」

 小麦色に日焼けした、ポニーテールの女性が腕を組む。彼女、チトセはギュスターの部屋にエマイユがいるのを見つけ、露骨に顔を顰めた。

「……げえっ! なんでまた、その女がここにいんだよ?」

「本人に聞くといい。今日からお前が面倒を見てやれ」

 チトセの視線が客人を訝しむ。男の部屋で、男物のシャツを着て、ベッドなんぞに腰を掛けているのだから、誤解されて当然だった。

「だーれが。クラン王女の世話なんて、二度と御免だって言ったじゃないか」

「ん? 俺はクランを世話しろとは言ってないぞ」

「はあ? 何言って……」

 エマイユは立ちあがり、シャツの裾を押さえながら、自己紹介する。

「あたしはクラン王女じゃないの。妹のエマイユ、です」

「い、いもうとぉ?」

 チトセは目を見開き、大きな瞬きを繰り返した。

「あいつに妹がいたわけ? へぇ」

「詳しい事情は本人に聞け。任せたぞ」

 彼女と一緒にエマイユは部屋を出て、早朝の潮風に晒される。

 ギュスターの一行は船団を成し、同じ針路を取っていた。どの船舶も物々しい大砲を並べ、海面を睨みつけている。

 空はやや雲が多いものの、青々と晴れ渡っていた。内海らしい穏やかな天候で、地平線にはぽつぽつと陸地も見える。東の方角では太陽がぎらぎらと輝いていた。

 先行するチトセが早足で歩いていく。

「潮風は我慢するこったね。髪だの肌だの、言ってられないよ」

「それなら大丈夫よ。ずっと港町に住んでたもの」

 久しぶりの潮の香りに、エマイユの気分は高揚しつつあった。今だけは悩みも吹き飛んで、甲板の端から、コバルトブルーの美しい海を眺める。

「こんなに大きい船に乗ったの、初めてだわ」

 エマイユの素朴な感想に、チトセは首を傾げた。

「あんた、お姫様なんでしょ?」

「えぇと……ちょっと違うの。とりあえず、服を貸してもらえないかしら」

「王女が使ってたやつでいいなら、あるよ。こっちにおいで」

 彼女の部屋に行って、服を貸してもらう。

 以前クランが着ていたという洋服は、庶民でも充分に手が届きそうな品だった。おかげで肩を張らずに済む。

「足のサイズも同じみたいだね」

「あ、ほんとだわ」

 エマイユは手頃なワンピースを着て、サンダルのストラップを締めた。姿見の前で試しにターンし、ぴったりのサイズであることに納得する。

 ついでに髪も梳いておくことにした。

「チトセ、櫛も借りていい?」

「あたしは構わないけど……エマイユ、だっけ?」

 エマイユの何気ない言動に、チトセは驚いでばかりいる。

「あんた、姉のほうとは全然違うんだね。クランはもっと我侭だったよ。ずっと兄貴の部屋にこもっててさぁ」

 ここで一ヶ月ほど生活していたクラン王女の印象は、相当悪かったらしい。チトセがエマイユを見て、最初に『げっ』と声をあげた理由も、わかってきた。

「クラ……姉さん、海の生活が気に入ってるみたいだったけど」

「まっさか! 飯もろくに作れないし、役立たずもいいところだったよ。ほんと、兄貴の趣味を疑ったね、あの女がいた頃は」

 チトセが険しい表情で舌を吐き、まくしたてる。

「でもあんたのほうは、ちょっとは道理がわかってそうで、安心したよ。悪いんだけど、ここにいる以上、手伝いくらいはしてもらうからね?」

「望むところよ、チトセ」

 エマイユは両手でガッツポーズを取った。

 じっとしていたら、エリアルドのことで思い煩ってしまうに違いない。強引に連れてこられたとはいえ、焚き出しのひとつでもしているほうが、気が紛れそうだった。

ここでやるべきこともある。

「……そうだわ、お父さんを探さないと」

「何のことだい? あたいでよかったら、相談くらい乗ってやるよ」

 チトセの厚意に甘え、エマイユはこれまでの事情を明かした。

 パン屋の娘として平凡に暮らしていたこと。クラン王女のふりをして、城にいたこと。そしてクラン王女の代わりに、自分がギュスターにさらわれてきてしまったこと。

 チトセは櫛を取り、エマイユの髪をポニーテールに仕立ててくれた。

「兄貴のやつ……怒っていいよ、エマイユ」

「ええ。心の整理がついたら、文句言ってやるわ」

 髪を結ってもらいながら、エマイユはチトセの部屋を眺める。

 姉御肌のイメージとは裏腹に、部屋は小奇麗に片付いていた。窓辺には、ずんぐりと肥えた白クマのヌイグルミが置いてある。

「変わった模様のクマね、あれ」

「ん? パンダっていうの。可愛いでしょ」

 しかし一番に目を引くのは、部屋のどこでもなく、彼女の豊満な胸。エマイユの後方で揺れ弾むさまが、姿見に移っている。

 エマイユもクランも、谷間と呼べるものがあるかどうかも疑わしいのに。きっとチトセなら、デコルテのロイヤルドレスも魅惑的に着こなすことができた。

「はいっ! こんな感じでどう?」

「ありがと。チトセの髪もやってあげよっか?」

「いいんだよ、あたいのはテキトーで」

 チトセが自前の大雑把なおさげをかきあげ、勝気にはにかむ。

「あなたとは気が合いそうだわ」

「こっちはあんたの仕事ぶりを見てから決めるよ。……と、親父さんだったね。新入りでゴツイのがいるんだ、名前は……と、なんだったっけ」

 クレハ夫妻について、彼女には心当たりがあるらしかった。

 エマイユたちは板切れ同然の危なっかしい船橋を渡って、隣の船へと乗り移る。

「おーい、新入り! ちょっと来な!」

「お嬢? どうしまし……」

 一番に出てきた大男の髭面に、エマイユは仰天した。

「おっ、お父さん?」

「……エ、エマイユなのかっ?」

 向こうも目を丸くして、駆け寄ってくる。

 髭こそ伸びているものの、毎日顔を会わせていた、パン職人の父親に相違ない。ずっと不安や寂しさでたわめられていた家族への想いが、一息のうちに弾け、涙ぐむ。

「お父さぁあああんっ!」

 エマイユは父の胸に飛びつき、ひっきりなしに嗚咽をあげた。

父も感極まったように娘を強く抱き締めてくれる。

「無事でよかった、エマイユ……本当に」

 そんな親子の再会を見せつけられ、チトセはたじたじになっていた。

 

 チトセに休み時間を融通してもらい、エマイユは父親と甲板で海を眺めていた。互いにこれまでの経緯を報告し、無事を喜びあう。

「そうか……クラン様に会ったのか」

「うん。あたしにそっくりで、びっくりしちゃった」

 父はかつてフラムツォバ王国の騎士団に所属し、国王とも親交があった。国王の信頼もあって、王女であるエマイユを秘密裏に預かることになったという。

 ハロウィン祭の夜、武装商船団の一隊がクレハ・ベーカリーを訪れた。しかし標的のエマイユはまだ帰ってきていなかった。

「クラン様と入れ替えさせまいと、ギュスター殿はお前を保護しようとしたんだ」

「あのひとがそんなこと……」

 クレハ夫妻は王女に双子の妹がいることを知っている。いずれ口封じに消される危険もあったため、保護の対象となり、武装商船団へと迎えられたのだった。

「いきなりのことでな。お前に一言伝えておきたかったが、時間もなかった」

「でも商船団が怪しいとか、思わなかったの?」

「力ずくも辞さない連中だ。俺はよくても、母さんが危ない」

 それから半月ほど、父は商船団の一員として、荷揚げなどを手伝っていたらしい。元騎士団長だけあって体格がよく、力仕事は何でもこなせる。

「それで……お母さんはどこに?」

「心配しなくていいぞ。母さんは船酔いが酷かったんでな、沿岸部の支部にいるよ。明後日には近くに寄るはずだし、会いに行こう」

 片方は海上、もう片方は沿岸というウォーロックの情報は正しかった。やはりあれは夢や幻ではなく、エマイユが実際に体験した『現実』なのだろう。

ウォーロックのほかの言葉も真実味を帯びてくる。

 あたしと姉さんは、フランの半身で……動物や魔物を操れるんだわ。

 父が娘の背中をとんっと叩いた。

「俺も母さんも、お前のことを本当の娘だと思ってるよ。ほとぼりが冷めたら、また一緒に暮らそう。まあ、フラムツォバに戻るのは難しいかもしれんが」

「え? ……いいの?」

 当たり前の言葉なのに、エマイユは戸惑う。

「当然じゃないか。時間もあるし、ゆっくり考えるといいさ」

 血の繋がりはなくても、これまでの十七年はクレハ一家を固く結びつけていた。両親とともに平穏な生活に戻れることは、素直に嬉しい。

 しかし自分にはクランという、血を分けた双子の姉が存在するのも、事実だった。国王もエマイユを捨てたことを後悔し、今でも気に掛けてくれている。

 何より城には、愛するひとがいた。

 このままフラムツォバを離れたら、二度と彼に会うことは叶わない。エリアルドの存在はエマイユにとってあまりに大きく、割りきることなどできなかった。

 彼がいるか、いないかで、世界の色まで変わるのだから。

 エリアルドの赤い髪に触れたい。宝石のような瞳で見詰められたい。恥ずかしくなってしまうくらい抱き締められたい。

 エマイユは海の向こうにあるフラムツォバに、望郷と恋慕の想いを馳せた。

 

 

 その夜、エマイユはギュスターのシャツを抱え、彼の部屋を訪れた。

「いいかしら? ギュスター」

「構わん。入れ」

 ギュスターはデスクで海図を広げ、交易のスケジュールを立てている。ぶっきらぼうな印象だが、仕事に関してはストイックな職人タイプらしい。

 船員からの評判もよく、『お頭』と慕われていた。

「これ、ありがとう。返しに来たの」

「そのへんに置いててくれ」

 借り物の服を返却に来たのは、口実に過ぎない。エマイユは緊張しつつ、部屋の隅にある、来客用の椅子を手に取った。

「……少し話したいことがあるの。あなたに」

「いいだろう。こっちもちょうど一段落したところだ」

 ギュスターが振り向き、相槌を打つ。

 彼はエマイユと対面できるよう位置を変え、間に小さな台を置いた。そこにチェス盤を広げ、黒の駒を並べていく。

「ついでに付き合え。俺は仕事先で、よくこいつを打つんだ。ルールはわかるな?」

「お父さんとやったことあるから、大丈夫よ。強くはないけど」

 エマイユも白の駒を並べ、ギュスターの布陣と向かいあった。横一列の兵卒が進軍を開始し、黒と白、戦線を交互に押し込んでいく。

 進む駒を見詰めながら、エマイユはおずおずと感謝の意を伝えた。

「その、お父さんたちのこと……ありがとう。助けてくれたってことよね」

 腕組みで戦略を練りつつ、ギュスターは皮肉を口ずさむ。

「おかしなやつだな。ひとさらいに礼を言うのか?」

「一応、ね。方法はどうかと思うわ」

 盤上の戦局は序盤のうちから、ギュスターの優勢へと傾いていった。何となしに進めるだけのエマイユと違って、彼の手はおそらく定石を踏んでおり、勘も鋭い。

「で……お前はこれから、どうするつもりだ?」

「ま、まだギブアップはしないわよ」

「チェスのことじゃない。お前自身のことだ、エマイユ」

 エマイユは顔をあげ、チェス盤ではなくギュスターを見据えた。

 続けざまに駒を取られてしまったが、勝負に来たわけではない。ギュスターもチェスの手を休め、したり顔でにやつく。

「親と一緒に船を降りて、どこかに移るもよし。俺の商船団で働くもよし。もうお前は自由だ、お前のやりたいようにするがいい」

 姉が欲し、もぎ取ろうとした自由という果実は、妹の目の前に転がってきた。

 内海を出て西に行こうと、東に行こうと、エマイユを阻むものは何もない。ギュスターの厚意を受け、武装商船団で新しい生活を始めることもできる。

 白のキングを、黒のナイトが捉えた。

「……俺の勝ちだな」

 予想通りの完敗を喫し、エマイユは呆れる。

「強すぎるわよ、あなた。こんな、弱い者いじめみたいな真似……」

「ふっ、俺にとってはリベンジだったのさ。お前の姉には一度も勝てなかったんでな」

「姉さん、と?」

 驚くエマイユに、ギュスターは獲得したばかりのキングを見せつけた。

「こいつはただの盤ゲームだが、意外にそいつの物の考え方や、性格が見えてくる。これが王族になると、たまに独特の動きをするやつがいるんだよ。クランもそうだ」

 そのキングがルール無用で、残りの駒を次々と倒していく。

「統制のセンス、洞察力……あいつは城で生きてこその人間だ。いや、城でしか生きられん、と言ったほうがいいか」

 クランを海に連れだすと約束しながら、ギュスターは土壇場で裏切った。その理由が見えてきた気がする。

「あなたは姉さんを海に逃がす気なんて、なかったのね」

「ああ。あいつが海で生きていけんことは、俺もチトセもよく知ってる」

 この男のことが嫌いにはなれなかった。

彼の豪胆にして理不尽なやり方に、エマイユは巻き込まれ、クランもきっと傷ついた。しかし根底には『クランのため』という筋が通っている。

「説得するんじゃ、だめだったの?」

「あいつがひとの話を聞くと思うか? ……今回の件は、いい薬になっただろうさ」

 平然と振舞っているものの、彼の言動には罪悪感が滲んでいた。

「……恋人なんでしょ?」

「それも、向こうが燃えあがってるだけさ」

 クランを突き放すようで、躊躇いも匂わせる。

 ギュスターは物憂げな表情で、背もたれに体重を掛けた。

「まあこれで、フラムツォバには正真正銘のクラン王女が健在なんだ。あとはヒーニアス王子と結婚でも何でもして、王国を盛り立てていくしかないだろう」

 愛しいひとの名に、エマイユは顔を強張らせる。

 エリアルドはクランのフィアンセであって、婚約も大々的に執りおこなわれた。本人らの意志はどうあれ、ふたりの結婚は国家間のレベルで決まっている。

 ただし王女が入れ替わっていた件について、この先、エリアルドが不服を申し立てる可能性もあった。フラムツォバ王国がイズルード帝国を欺いたことに変わりはない。

 エマイユとエリアルドの距離は遠くなる一方だった。

「お前は城のことなど忘れて、好きにしろ。なあに、身の振り方が決まるまで、俺の船で面倒くらいは見てやる」

 それでも、諦めきれない想いがある。

「ごめんなさい、ギュスター。あたし……お城に戻りたいの」

 エマイユはギュスターをまっすぐに見詰め、正直な気持ちを打ち明けた。

 ギュスターがほくそ笑む。

「……ほう? 王女の地位を自分のものにしたくなったか。ふっ、軽蔑するつもりはないさ。俺はそういう野心を持ったやつが好きなんだ」

 姉から王女の座を奪いたがっている、と勘違いされてしまった。しかし、まだそのほうが、フラムツォバ王国に帰る理由としては正当かもしれない。

「もっと悪いことだと思うわ。あたしは……」

 男ひとりのためだけに、国を引っ掻きまわす覚悟が必要だった。

エマイユは果敢に胸を張る。

「あたし、エリアルドを愛してるの。あのひとを姉さんなんかに渡したくない」

 ギュスターは目を丸くして、のけぞるほどに大笑いした。

「はーっはっはっはっは! それはいい、エマイユ、お前は最高の女だぞ! 家族よりも国よりも、男を選ぶというのか。こいつは傑作だ!」

「わ、笑わないでったら。あたしは真剣なのよ」

 エマイユは真っ赤になり、ふてくされる。

 温かい家族と平穏な生活を取り戻せる寸前まで来ているのに、おかしな選択をしている自覚はあった。下手に王国の権謀術数に関われば、次は命の保証もない。

 かといってエリアルドを諦めることなど、できるはずもなかった。

 ギュスターがにやりと唇を曲げる。

「いいだろう。時期が来たら、フラムツォバに送るくらいのことはしてやる。あとのことは知らんがな……お前もその力を使えば、何とでもなろう」

 その視線はエマイユの左手にある、フランの指輪を見据えていた。

「あなた、まさか……知ってるの?」

「俺もお前たちと同じ、昔話の後継者だからな。俺はかつて天界と戦った、魔界の王族の末裔らしい。イズルードの王家とは逆の立場になるか」

 フランの伝説は血となって、エマイユの身体にも流れている。

 地上を戦場とした天界軍と魔界軍は、フランの誕生を機に撤退した。その時、一部の者や子の世代が地上に留まったのかもしれない。

 イズルード帝国は天界軍の末裔の国家であるため、帝国の神話は天界寄りの内容になっていた。同様に、魔界の血筋が地上で息づいていても、おかしくはない。

 ギュスターの笑みは邪悪ですらあった。

「俺には少々、魔導の知識がある。クランに手ほどきもした。……どうする?」

 悪魔の囁きと知りながら、エマイユは慎重に頷く。

「あたしにも教えて」

「俺とお前とではアライメントが違う。だが、基礎を教える分には問題なかろう」

「……アライメントって?」

「天界は秩序を尊び、魔界は混沌を欲す。お前が使役できる魔物と、クランが使役できる魔物とは、性格が異なる……とりあえず、これくらいに考えておけばいい」

 ギュスターは立ちあがり、エマイユに『外に出ろ』と手招きした。

「焦ることはないぞ。じきに王国のほうで動きもあるさ」

 フラムツォバ王国に戻れば、再び姉と対峙することになる。エマイユは指輪の力を疑いつつも信じ、魔導を習得しなければならなかった。

 

 

 船上での生活が始まってから、一週間あまりが過ぎた。

「嬢ちゃん、これも持ってってくれ」

「はーい!」

 エマイユは船員たちとすっかり打ち解け、『嬢ちゃん』と親しまれている。

 仕事はおもにギュスターのいる一号船で、炊事と洗濯を受け持っていた。夕食のあとはギュスターのもとで魔導の訓練に励む。

 武装商船団は二十もの部隊から編制され、一部隊ごとに五隻の船舶が割り当てられていた。頭領のギュスターが直々に率いるのは当然、第一部隊となる。

 父親は別の船で働いており、いつでも会えた。先日は母とも再会を果たし、クレハ一家の面子は元通りになりつつある。

 両親の件が解消されたおかげで、気分も晴れるようになった。

 陽が西に傾き始めたら、厨房で夕食の支度を進める。食材は定期的に一新され、新鮮かつ栄養価の高いものが豊富に揃っていた。

 鍋が炊きあがる頃合いを見計らって、エマイユはギュスターを呼びに行く。

「ギュスター! もうじきご飯よ」

「……またか」

 ギュスターはげんなりとして、海図に溜息を落とした。

「俺はひとりで食うと言っただろうが」

「でもみんな、海ではチームプレイが大事って言ってたわよ。船長が部下を疎ましがってちゃ、だめじゃないの」

「わかった、わかった。……うるさいやつめ」

 どうやら彼は一匹狼のタイプらしい。部下と世間話をする様子もなく、港で商談に出る以外は大抵、船長室にこもっている。

「姉とは大違いだな、お前は。クランはしとやかで従順な女だったぞ」

「チトセに聞いて、知ってるんだから。姉さんにやらしいことばっかしてたんでしょ」

「……あいつの言うことを真に受けるな」

 そんな彼を引っ張りだすのが、エマイユの日課になっていた。コミュニケーションを何かと渋りがちなギュスターを、船内の食堂まで連れていく。

 ギュスターは性格こそぶっきらぼうだが、海上においては優秀な指揮官で、船員から厚い信頼を寄せられていた。統制も王国の騎士団並みに取れている。

 天井が低い食堂には、船員らが集まり、頭領が上座につくのを待っていた。

「お疲れ様です、お頭」

「ああ。お前たちもご苦労だ」

 ギュスターはやや不機嫌そうに席につく。

「かりかりしないでったら。はい、あなたの分ね」

「誰のせいだと思ってる」

 お手拭きを渡しながら、エマイユは意地悪な笑みを弾ませた。

 彼が苛立っている原因は、煙草がないため。前々から煙草を辞めたがっているのを知って、エマイユは彼の煙草を隠している。

「お頭、一本どうぞ」

「気を遣わんでいい。それより酒だ」

 部下が勧める分はどうしようもないが、彼の喫煙量は順調に減りつつあった。頭領の立場から部下に『煙草をよこせ』などと、せこい真似もそうできない。

 しかしギュスターのほうも、やられっ放しではいなかった。

「エマイユ、お前が注げ」

「はいはい。今持っていくから」

 夕食の際は必ずエマイユを呼び、お酌をさせる。

 頭領の妹であるチトセは別として、エマイユのほかに年頃の女はいない。そのエマイユに自分だけ酌をさせることは、彼に大きな優越感をもたらすようだった。

「……どうぞ、ギュスター」

 周囲には、俺の女に手を出すな、という意味合いにもなるらしい。

美酒に口をつけ、ギュスターはいくらか機嫌をよくした。

「ふむ……。では、いただくとするか」

「お頭ぁ! 聞いてやってくださいよ、ケニーのやつが昨日、港の女に……」

 和気藹々と談笑が始まって、賑やかになる。

「で、女に財布をすられちまいやがったんでさあ」

「本当なの? それ」

 エマイユもギュスターの隣について、相槌を打ったり、笑ったりした。大人数で一緒に食べるのが楽しくて、頬が緩む。

 フラムツォバ王国では『海賊』扱いされている武装商船団も、その実態は何ということのない、堅気な集団だった。

 ほかの国の港では受けもよく、少年少女が沿岸まで見物に来るほど。

 少し遅れて食堂にやってきたチトセが、口を尖らせる。

「もう始めてんの? あたいのことも待っててくれたってさあ」

「ごめんね、チトセ。一緒に食べましょ」

 彼女も加わったところで、積み荷や日取りのことが話題に挙がった。食事のほうは待たなかったが、仕事ではチトセを待っていたらしい。

「……ギュスターとチトセって、兄妹にしてはあまり似てないわね」

 仕事とは関係のないエマイユの疑問にも、チトセは律儀に答えてくれた。

「そお? あー、あれだ、お母さんが違うからじゃない?」

 重大な事実のようでも、口ぶりは平然としている。

 ギュスターは呆れつつ酒を舐めた。

「親父はふたりの女とずっと交際していてな。どちらか選べんからといって、両方と結婚してしまったんだ。しかも、母はふたりとも合意の上で、だ……」

 素っ頓狂な三角関係に、エマイユも口元を引き攣らせる。

「一夫一妻はどうしたのよ。信じらんないわ」

「まあねえ。でもそれがなきゃ、兄貴かあたいのどっちかは、生まれなかったんだし」

 常識人のチトセさえ、両親の事情ないし情事には割りきっているようだった。

 もちろん、エマイユには到底信じられない。仮にエリアルドがエマイユのほかに、タチアナも一緒に恋人にするなどと言いだしたら、怒るに決まっている。

 タチアナはどうしてるかしら……。

 城のほうが心配になってきた。考えないようにしているつもりでも、ふとした拍子にエリアルドやタチアナ、アイザックの顔がちらつく。

「そんなわけで、俺とチトセは違うのさ。アライメントもな」

「あらい? なんかの暗号かい、兄貴……って、それはあたいが食おうと!」

 余った料理は早い者勝ちになっていた。

 魚肉を頬張りながら、チトセがギュスターにフォークを向ける。

「そういやさあ、今日の定期連絡で、おかしな噂を聞いたんだ。フラムツォバからひとがどんどん逃げてるっていう」

 エマイユは手を止め、顔を曇らせた。

「え……?」

「詳しく話せ、チトセ」

 ギュスターも眉を顰める。

 チトセは少し仰向いて、顎に人差し指を添えた。

「どこの隊だっけ……あー、思いだしたよ。第六と十三、あとは十七だったかな? そのへんの部隊が、フラムツォバの難民を海で拾った、っていうんだよ」

 ほかの船員たちも一様に押し黙った。中央のギュスターが腕組みを深める。

「……ふむ。そいつは怪しい雲行きだな」

 フラムツォバ王国の民がわざわざ内海をくだって、武装商船団のテリトリーを通過する必要などなかった。王国の領内は魔物が比較的おとなしいため、余所に行きたいのなら、遠まわりでも陸路を選べばよい。

「戦争でもおっ始まるんかねぇ。武器は運びたくないってのに」

「いえ、お嬢。フラムツォバでドンパチとなっちゃあ、オレたちも船を出す羽目になるんじゃねえですかい?」

「上手くすりゃ、あのあたりの港は丸ごと手に入りますぜ」

 エマイユの前で、不穏な意見も飛び交う。

「よせ。まだ情報が足らん」

 ギュスターは部下を黙らせ、残りの酒を飲み干した。

「難民の話が本当なら、ひとりかふたり、捜してみるとしよう。今夜から北寄りに針路を取って、適当に見張りも増やしておけ」

 情報収集に当たっての的確な指示が、エマイユの気持ちを落ち着かせる。

 フラムツォバ王国の異変を聞いても、エマイユでは不安を募らせるだけで、どうにもできなかった。それをギュスターが汲み取り、対策を打ってくれたのかもしれない。

「チトセ、明日の定期連絡は……」

「あ、あのっ! 伝書鳩なら、あたしに任せてもらえないかしら」

 エマイユは前のめりになって、手伝いを志願した。

「ん、慣れてんのかい?」

「こいつは動物の扱いが上手なんだ。やらせてみるといいさ」

 さり気なくギュスターのフォローも入る。

チトセや船員らは何事もなかったように食事を再開した。

「まっ、その話はそれくらいで。二号船の積み荷が、ちと多いみたいなんだけど?」

「大砲を減らしちまえばいいんですよ。どうせ使わねえんですから」

 エマイユも平静を装って、聞き手にまわる。しかしフラムツォバのことが気になって、話の内容など、ほとんど頭に入ってこなかった。

 

 

 フラムツォバ王国の異変を耳にしてから、早二日。

 空と海が茜色に染まりきった頃、見張りが急に大声をあげた。

「お嬢! 妙な船が近づいてきますぜ」

「貸しな。……なんだい、ありゃ」

 チトセが双眼鏡を覗き込んで、首を傾げる。

 エマイユも甲板から海上を探し、そう遠くない距離に小型の漁船を見つけた。四、五人で運用するものだが、それほど乗ってはいない。発煙筒が煙を噴いている。

「武器は持ってないようだし、引きあげてやるとすっかね。準備しな」

 チトセは部下に指示をくだしつつ、縄梯子を投げ降ろした。

 しばらくして、一組の男女がよじ登ってくる。

「タチアナっ?」

 見覚えのあるメイドの姿に、エマイユは目を見張った。

「エマイユ様なんですか? よくご無事で」

「こっちの台詞よ。どうしてここに」

 彼女と顔を会わせるのは、婚約パーティーの夜、アイザックを呼びに行かせて以来となる。あの夜は魔物だらけだったが、見たところ、怪我をしている様子もなかった。

 タチアナに続き、もうひとりも縄梯子を登ってくる。

 ……まさか?

 その人物の顔にエマイユは言葉を失った。貴族然とした風貌の男が、赤い髪をかきあげながら、チトセに律儀に礼を述べる。

「助けてもらったこと、感謝する。船長はどちらに?」

「うちでは『頭領』っつーんだけどね。どこのお偉いさんだい、あんた」

「僕はイズルード帝国の第三王子、ヒーニア……」

 向こうもエマイユに気付いて、絶句した。

 目の前にエリアルドがいる。焦がれてならなった、愛するひとが。

「……エリアルド……」

「エマイユ……」

 しかしお互い、相手の名を呟くだけで精一杯だった。嬉しいはずなのに、後ろ髪を引かれてしまって、胸に飛び込むことができない。

 タチアナがわざとらしくエリアルドの腕にしがみつく。

「エリアルド様、怖かったですぅ」

「も、もう大丈夫だよ」

 エリアルドはたじたじになって、エマイユから顔を背けた。

 やっと会えた、けど……。

 ふたりの間に気まずい空気が流れる。

その雰囲気にチトセは気付いていないようだった。

「知り合いみたいだね、エマイユ。紹介してよ」

「え、ええ。メイドのほうがタチアナで……そちらの方がヒーニアス、よ」

「あれ? さっき、エリアルドって呼ばれてなかった?」

 エリアルドが初めて恋人に向きなおる。

「君は本当に……エマイユなんだね」

「うん。お姫様じゃないほうの、あたしなの」

 騙していた女と、騙されていた男。エマイユとエリアルドの間には、深い溝ができてしまっていた。

 

 チトセの部屋に戻ってからも、タチアナの自慢話は止まらない。

「愛の逃避行だったんですよ。エリアルド様が『一緒に逃げよう、タチアナ。僕が愛しているのは君だけだよ』とおっしゃって……ぽっ」

 エマイユは柄にもなく青筋を立てた。

「エリアルドはそんなひとじゃないでしょ。いい加減にしてったら」

「冗談ですよ、冗談。昨夜は不可抗力とはいえ、同じベッドで寝ましたけど」

「……そのへんは、あとで詳しく聞かせてもらうから」

 チトセも戻ってきて、ざっと部屋を見渡す。

「三人で一部屋は狭いだろーけど、今夜だけ我慢して。タチアナ、でいいんだっけ」

「お気遣いありがとうございます。チトセ=リューリック様」

「そっちも気軽に『チトセ』でいいよ」

「了解しました。チトセお嬢様」

 相変わらずタチアナには掴みどころがなかった。ひとを食ったような、それでいてユーモアとしてはいまいち弱い言動に、チトセが頭を掻く。

「まっ、いいさ。エリアルドのほうは兄貴んとこに連れてったよ。……なんか、おかしな雰囲気だったけどね」

「女性絡みのことですから、仕方ありません」

 タチアナの言動に、エマイユは内心ひやひやさせられた。

 城での出来事はチトセにも一通り話してある。ただ、エリアルドと恋仲だったことは話しておらず、お茶を濁していた。

チトセ自身、恋愛事には鈍い性分らしい。

「兄貴らのことはいっか。フラムツォバで今、何が起こってんだい?」

「……お聞きになりますか。わかりました、お話しましょう」

 タチアナは表情を引き締め、今回の経緯を語りだした。

「お城に魔物が出るようになったんです。狼だけではありません。悪魔が出た、などという者までおりまして……」

「悪魔っ?」

 エマイユとチトセは驚き、顔を見合わせる。

 フラムツォバの領内で魔物が暴れることは、あまりない。おそらくそれはフランの契約が今なお生きているおかげだった。

かつてフランは地上の生きとし生けるものを統率して、天界と魔界の干渉を退け、国家を建設している。そのため、魔物さえもフランの血統には本能的に敬意を抱く。

 ところが一週間ほど前、王城から怪物の群れが現れたという。

「お城はそうでもありませんが、城下町には被害も出ております。アイザック様も騎士団を率いて、休む暇もなく出撃されておりました」

一部の民は魔物が増えつつある陸路を避け、海へと逃亡した。しかし大半の者は、海には武装商船団という『海賊』がいることを恐れ、踏み留まっている。

タチアナは俯き、声のトーンを落とした。

「クラン様のお世話をしていたメイド長が、自殺をなさって……エリアルド様が、王女の秘密を知る者は危険だとおっしゃって、昨夜、わたしを連れだしたんです」

 エマイユの顔から血の気が引く。エリアルドたちが小さな漁船で危なっかしく波に揺られていたことにも、それだけの理由があった。

 チトセがひとり首を傾げる。

「ちょっと待ちなよ。双子の秘密がどうこうって場合じゃないでしょ? クランはどうしてんの。とっとと脱出しちゃった、とか?」

「……クラン様が黒幕だからよ」

 エマイユはそう確信し、スカートをぎゅっと握り締めた。

「あたしたち姉妹は、フランの力を受け継いでるの。クラン様……姉さんは魔物を呼びだしたり、操ったりできるわ。多分、その力が働いてるんだと思う」

「ほ、本当かい?」

「あたしも今、ギュスターに教えてもらってるもの」

クラン=フラムツォバは城で魔界の軍勢を統べつつある。それが恐ろしい兆候であり、いずれ大きな災厄をもたらすことは、火を見るより明らかだった。

自由な海へと出る彼女の計画は、失敗に終わっている。その報復として、ギュスターを狙うことも充分に考えられた。

「タチアナ、お城には何人くらい残ってるの?」

「ほぼ全員です。敵は……魔物だけではありませんので」

 ずけずけとものを言うはずのタチアナでさえ、口ごもる。それほど状況は悪い。

「お城から逃げようとした方々が、城下の者に捕縛されたんです」

「そりゃそうだろうね。民を見捨てて自分らだけで逃げよう、なんて虫のいい話、通用するわけないじゃないか」

 魔物を放つ王城に対し、民衆は不信感を抱き、怒りを膨張させつつあった。

「皮肉な話でございますが……お城に魔物がいるおかげで、民が突入してこないような状態なんです。アイザック様もご無事かどうか」

 タチアナの顔色は疲労に満ちている。

「……ありがとう、タチアナ。大体の事情はわかったわ」

 エマイユは話を切りあげ、胸の中の息を吐ききった。

 エリアルドに再会するため、フラムツォバ王国へと戻るチャンスを窺っていたが、事態はそれどころではない。

 町のみんなが、ジーナたちが危ないわ。なんとかしなくちゃ……。

 ほかの全員を見捨てて、エリアルドと一緒に逃げるほど、愚かにもなれなかった。

 今頃はギュスターのほうもエリアルドから同じ事情を聞いているだろう。彼らと情報を共有し、手を打つのが賢明に違いない。

「お夕飯にしましょ。よかったら、タチアナも手伝ってもらえる? あ、今日は休んでてくれても構わないわよ」

「じっとしていては気が滅入りそうですし、お手伝いさせていただきます」

 エマイユはタチアナを連れ、厨房へと向かった。

 

 夕食の席は、そう大きな騒ぎにはならなかった。ギュスターの計らいで、フラムツォバ王国の異変については明日の早朝、改めて船員に伝えることになっている。

 ギュスターが杯をかざす一方で、エリアルドは受けなかった。

「エリアルド、いける口だろう?」

「言っておくが、僕はあなたを許したわけじゃない」

 ふたりの視線がばちばちと火花を散らす。

 ギュスターは確信犯的な笑みを浮かべ、エマイユを呼んだ。

「エマイユ! 客人に酌をしてやってくれないか。俺が勧めても、飲んでくれん」

「……ええ。すぐ行くわ」

 戸惑いつつ、エマイユはおずおずとエリアルドの左隣に腰を降ろす。

手元が狂い、お酒は少し零れてしまった。

「ど……どうぞ」

「あ、ありがとう。エマイユ」

 互いにぎくしゃくとして、遠慮ばかりが行き違う。

 そんなエマイユを尻目に、右側のタチアナはエリアルドに堂々と仕掛けた。

「エリアルド様、どうぞ、こちらもお召しあがりくださいませ」

 甘い声で囁きながら、彼の口へとフォークを近づける。

「いや、ちょっと……タチアナ?」

 エリアルドはうろたえ、タチアナのアプローチをやんわりと拒んだ。女性に慣れていない分には嬉しいが、それだけ隙が多く、心配になる。

 ギュスターはほくそ笑むと、妹のチトセに意味深な視線を投げつけた。

「お前もエリアルドに酌のひとつでもしてみたら、どうだ?」

「い、いいよ、あたいは」

「まったく……いつまでも淡泊な調子で、どうする? いい加減、男でも作って、俺に兄貴として挨拶くらいさせてはくれんか」

 チトセが俄かに真っ赤になって、テーブルを揺らす。

「べべっ、別にいいでしょ? そういうの興味ないんだってば、あたいは!」

「え、そうなの?」

 エリアルドはきょとんとして、チトセの容姿を一瞥した。

「大丈夫だよ。君みたいな美人なら、すぐにいいひとに出会えるさ」

 エマイユとタチアナのこめかみに青筋が立つ。

 エマイユは堪えたものの、タチアナがエリアルドの太腿をぎゅっと抓った。

「いっつ? どうしたの、タチアナ」

「エマイユ様にお聞きください。きっと、わたしと同じことを考えておいでですから」

 女性に免疫がないのはいいとして、たらしぶりに自覚がなさすぎる。

 チトセは珍しく頬を染め、まんざらでもなさそうだった。

「美人なんて……やだもう、冗談でしょ?」

「いや、冗談というわけでは」

 当のエリアルドは困惑してばかり。

 チトセが照れ隠しに話題を逸らそうとする。

「そうだよ! あたいに男ってんなら、兄貴こそ、さっさと身を固めたら?」

「……俺が?」

「ほら、エマイユとさ」

 一同の視線がエマイユに集まった。

けれどもエマイユには心に決めた男性がいる。

「あ、あたしは……」

「兄貴の女になりなよ。あたいも、あんたみたいな妹なら大歓迎だし」

 エマイユとエリアルドが恋仲にあるのを知らないチトセに、他意はない様子だった。しかし船員らも『それはいい』と賛同し、陽気に盛りあがる。

 エリアルドはエマイユの横顔をちらっと見るだけで、押し黙ってしまった。

 違うのに……勘違いしないで?

エマイユは後ろめたくて、彼の顔を直視できない。

 ギュスターは呆れ顔で言いきった。

「誰がこんな女と。お断りだ」

「あたしだってお断りよ。あなたみたいなひと」

 彼の台詞に乗っかって、エマイユも頑なに否定しておく。

 ギュスターと結婚など、それこそ考えられなかった。悪人ではないにしても、エマイユを巻き込み、クランを裏切った男なのだから、今でも『味方』とは言いきれない。

「あー、気を悪くしたんなら、ごめん。ちょっと言ってみただけだからさ」

 チトセはあっけらかんと笑って、話題を流した。

 先にギュスターが食事を終え、席を立つ。

「今夜の訓練はなしだ、エマイユ。甲板にウィル・オ・ウィスプの配置だけ頼む」

「了解よ。任せて」

 エリアルドは訝しそうに眉を顰めた。

 

 

 夕食の片づけを終えて、エマイユは一号船のデッキに出る。

 今夜はよく晴れ、星座のナイトパレードをぐるりと見渡すことができた。雲も少なく、金色の三日月がくっきりと映えている。

 エマイユはフランの指輪を掲げ、光体『ウィル・オ・ウィスプ』を呼びだした。甲板の四方に一体ずつ浮かべれば、夜間の照明になる。

 ギュスターの指導もあって、力の扱いにも慣れつつあった。

 フランの力は操る以前に『呼びだす』ものであって、召喚が基本となる。今はまだウィル・オ・ウィスプくらいしか呼べないが、熟練することで、さらに高位の存在も召喚できるようになるという。

 魔界寄りのクランとは対照的に、エマイユは天界寄りの力を行使できた。イズルード帝国の神話に名高いペガサスも、いずれ従えることになるかもしれない。

 エマイユはひとり星空を仰いだ。

 城で暮らそうと、海に出ようと、空だけは港町に住んでいた頃と変わらない。星の瞬きは富めるひとにも貧しいひとにも、平等に降り注ぐ。

 潮の香りに包まれながら、エマイユは童謡を口ずさんだ。

ハロウィン祭で子どもたちやエリアルドと一緒に歌った、あの楽しい曲を。だがひとりで歌っていても、孤独感ばかりが募ってしまう。

 不意に拍手が鳴った。

「今夜は月が綺麗だね、エマイユ」

 同じ星空の下で、エリアルドが微笑む。

「……エリアルド」

「隣、いいかな」

 ふたりは肩が触れそうな距離で一緒に、星空のグラデーションを眺めた。光の濃淡がさながらカーテンのように幕を降ろし、星々を波打たせる。

 隣にいるエリアルドに何と切りだせばよいのか、わからなかった。エマイユはおずおずと口を開き、悔恨に満ちた懺悔を漏らす。

「……ごめんなさい。あたし、あなたを騙してたの」

 エリアルドは星空を見上げたまま、まるで独り言のように呟く。

「双子の妹だと知った時は驚いたよ。フラムツォバ王国は、イズルード帝国の主賓である僕を謀ってくれたわけだ」

 クランの企みはフィアンセをないがしろにし、エリアルドのプライドをずたずたに打ちのめした。のみならず、イズルード帝国に不義を働いたことにもなる。

「聞いて、エリアルド」

 エマイユは彼に初めて、エマイユ=クレハとしての身の上を打ち明けた。

 港町サノンで生まれ育ったこと。パン屋の娘だったこと。ハロウィン祭の夜、友達には恋人ができたのに、自分はひとりだったこと。

 おかげで、吟遊詩人のエリアルドと出会えたこと。

「でも、あなたは……あたしを姉さんだと思ってたのよね」

「そうだよ。僕は本当に嬉しかったんだ」

 エリアルドも懺悔を始める。

「僕は己の誇りのために、クランを手に入れなければいけなかった。フラムツォバの国王になって、父さんや兄さんたちを見返すことばかり、考えてた。そういう気持ちが、彼女には伝わってたんだろうね。全然相手にされなかったよ」

 彼の手がエマイユの髪にそっと触れた。

「だけど、お祭りで君に会って……何もかもが変わった。僕は君に、王女なんかじゃない君の素顔に、惹かれたんだ」

 エマイユの胸に熱いものが込みあげてくる。

 いつしかふたりは見詰めあっていた。夜風がエマイユの、ブロンドの髪を舞わせる。

「王女でいる君の姿に、ずっと、あの夜の君を探してたよ。エマイユ」

 エリアルドの優しい瞳が、エマイユを溶かすように映し込む。

「やっと見つけた。本当の君を」

しかしエリアルドはエマイユを抱き締めることなく、かぶりを振った。震えがちな声で荒れた嫉妬を吐きだす。

「……なのに君は、また僕の知らない君になってしまったみたいで……不思議な力を使うし、ギュスターとも仲がよさそうじゃないか」

 婚約パーティーの夜、彼はエマイユがギュスターに連れ去られるのを、その目で見た。ところが今、エマイユはギュスターと一緒に平然と生活している。

「君は誰なんだい? 僕だけのエマイユでは、いてくれないのか……?」

 エリアルドの悲痛な叫びは、エマイユの胸に深く刺さった。

ずっと彼を騙し、傷つけてきたことを痛感する。それがエマイユの意志ではなかったとはいえ、エリアルドの不信を買うには、充分すぎた。

「あたしとギュスターは何でもないの。本当よ、エリアルド」

 言い訳がましい言葉しか出ない。そのもどかしさにエマイユは唇を噛んだ。

 ……どうして、信じてくれないの?

エマイユの気持ちは、目の前のエリアルドにだけ向かっているのに、それをありのまま伝える術がない。

互いに真実を語り終えても、わだかまりは消えることなく残った。以前のように恋人同士の一時を過ごすことなどできず、星空を眺めていても、感動が来ない。

そんなエマイユを後ろから、エリアルドが遠慮がちに抱き締めた。

「……君が無事でよかった」

彼の腕に掴まり、エマイユは涙を滲ませる。

「あなたもよ。また会えて嬉しかった」

こうして彼と話せるだけでも、奇跡に近い。彼に再会できなければ、切ない気持ちに悶えることもなかった。昨日までとは世界の色が、また変わっている。

 エマイユの耳たぶにエリアルドの吐息が触れた。

「君はどうするつもりだい? 僕と一緒に帝国に来てくれるなら、歓迎するよ。クラン王女としてじゃない。エマイユ王女として、君を迎えたい」

 プロポーズ同然の言葉にどきりとする。

 彼と再会を果たせた以上、フラムツォバ王国に戻る理由はなかった。わだかまりも、きっと時間が解決してくれる。エマイユとエリアルドには理想のゴールがあった。

 だがエマイユには、やらなくてはならないことがある。

「もう少しだけ待って、エリアルド。姉さんを放ってはおけないの」

「クランは君を、いいように使ってたんだよ?」

「わかってる。でも、あたしのお姉さんなんだもの。それに……王国のみんなを見捨てて逃げるなんて、あたしにはできないわ」

 クランの暴虐によって、フラムツォバ王国は崩壊しつつあった。その混乱は、そう遠くないうちに大陸じゅうに広がる。

 対抗できるのは、同じフランの半身である、エマイユだけ。

 エマイユの決意を感じ取ったらしいエリアルドも、語気を強めた。

「僕だって、フラムツォバの民を見捨てるつもりはないさ。ともに戦わせてくれ」

「ありがとう。一緒に行きましょう……フラムツォバへ」

 エマイユは身体の向きを変え、エリアルドの顔をもう一度見詰めなおす。

「君は僕が守るよ、必ず」

 さらに唇が近づいたところで、誰かのくしゃみが聞こえた。

「へっくし!」

「ちょっと、チトセ様? 静かになさってください」

「あーごめん、ごめん」

物陰に二名ほど、覗き魔が隠れている。

 エマイユはむっとして、ウィル・オ・ウィスプに命令を送った。光体が体当たりを仕掛け、タチアナとチトセを追っ払う。

「な、なんだい、これ? わわっ、ちょっと!」

「助けてください、エリアルド様~!」

 甲板にはエマイユとエリアルドだけが残された。互いに赤面し、背中を向ける。

 せっかくのムードが台無し。しかし、おかげで今夜の三日月が格別に綺麗なことに、やっと気付くことができた。

「……エリアルド? 昨夜はタチアナと一緒だったそうじゃない」

「説明させてくれ。僕と彼女は何でもないんだよ、本当に」

 色男にありがちな言い訳が始まる。

「だったらあなたも、あたしとギュスターの仲を疑うのは、もうなしよ」

 そんな恋人にエマイユはしっかりと釘を刺した。

 

 


 

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