ロイヤルカルテット

第六話

 ギュスターの率いる『王国突入部隊』は、二十隻もの船で編成された。エマイユの呼びだしたサーペントに牽引させることで、最大以上の船速を維持する。

 昼間はエマイユの力が、夜間はクランの力が強まるため、一行は早朝のうちにフラムツォバ王国の沿岸部へと辿り着いた。陽が暮れるまでに決着をつけなければならない。

エマイユにとっては懐かしい、小さな港町が見えてくる。

しかしこちらは『海賊』であるせいか、商船団を出迎えたのは港の住人ではなく、大勢の騎士だった。エマイユたちが桟橋に降りると、団長が駆け寄ってくる。

「エマイユ様! お待ちしておりました!」

「アイザック? 無事だったのね」

 騎士団長のアイザックは部下とともに膝をつき、エマイユに敬意を払った。

「クラン様はご乱心され、国王陛下も負傷なさいました。我々にはもう、あなた様しか残されておりません。よくぞ……くうぅ、よくぞ、お戻りに……」

 彼らの涙に胸を打たれながら、エマイユは尋ねる。

「……教えて、アイザック。王国は今、どうなってるの?」

「はい。どうぞ、こちらへ」

 エマイユ、エリアルド、ギュスターの三人は、作戦を決めるため、町の広場へと場所を移した。タチアナは負傷者の手当てにまわり、チトセは現地での編成を指揮する。

 町の皆が次々とやってきて、エマイユの帰還に驚いた。

「エマイユ! 本当にエマイユなの?」

「ジーナ! ごめん、心配掛けて」

 父も港の友人らと再会を果たし、笑みを交わす。

 港町サノンは形こそ変わっていないものの、重々しい雰囲気に包まれていた。子どもたちが外で遊ぶ姿もなく、路面には千切れた木の葉が散らかっている。

 港には武装商船団のもの以外に、船は一隻も残っていなかった。エリアルドとタチアナのように、フラムツォバ王国から脱出を図った者たちが、すべて持ち去ったという。

 魔物は王城から出現し、城下町はさらに悲惨な状況らしかった。地方の村に逃れることのできた住民がいる一方で、大半の民はまだ城下町に取り残されている。

 アイザックはがっくりと肩を落とした。

「我々騎士団は城に残り、クラン様の説得を続けていたのですが……クラン様のお怒りに触れ、ここまで撤退することになったのです」

「……ごめんなさい、アイザック。肝心な時にいなくて」

 エマイユよりもエリアルドが大きく頭をさげる。

「すまない! 僕は……お前たちを見捨てて逃げたようなものだ」

「気にしないでくれ、エリアルド。こうしてお前は我々の最後の希望、エマイユ様を連れてきてくれたじゃないか」

 アイザックら騎士団は戦力を集め、今一度の蜂起に備えていた。

 戦う者は騎士に限らない。男女を問わず、港の住人さえ武器を手にしている。

「クラン様を……倒すしかございません」

 王女打倒の決起は、内乱の火蓋を切ることと同じだった。フラムツォバで内乱など勃発すれば、間違いなく他国も軍を派遣し、泥沼化する。

「それには及ばないわ。あたしに任せてもらえないかしら」

 エマイユはウィル・オ・ウィスプを召喚し、指輪の力を見せつけた。

 アイザックたちが目を見開く。

「こ、これは?」

「クランと対を成す力だ。向こうが悪魔なら、こちらは天使を呼べばいい」

 ギュスターが割り込んできて、淡々と語った。

「作戦は至ってシンプルだ。チェスと変わらん。ただ、俺たちはエマイユを守りつつ、エマイユをクランにぶつけねばならん、ということだ」

 作戦の詳細が決まっていく。

「第一波で魔物を散らし、第二波を城の正面に重ねる。エマイユは第二波に入れ」

「待つんだ、ギュスター。城下町にはまだ大勢の民がいるんだ。彼らがいては、戦うものも戦えないぞ」

「うむ……わかっている。問題はそれを、どうクリアするかだ」

 クランの召喚次第では、リヴァイアサン級の怪物と街中で交戦する可能性もあった。作戦を知らない民には大多数の犠牲者が出る。

「それには及ばぬよ。ヒッヒッヒ」

 悩むエマイユたちのもとへ、奇妙な風貌の男が近づいてきた。黒ずくめのマントを羽織り、顔にはサーカス団員にありそうな面を被っている。

 その正体をエマイユは一目で察した。

「あなた、ウォーロックね」

「いかにも。わしの素顔は、ちと刺激が強すぎるからの」

 びっこを引くような足取りで、ウォーロックも作戦会議に加わる。

「天界や魔界との盟約上、わしは戦いで手を貸すわけにはいかんのじゃが、サポートくらいはしようと思うてな。要は城下町の人間に、情報が行き渡ればええんじゃろ?」

 マントの袷から骨の手が少しだけ出てきて、一枚の手鏡を覗かせた。

 その鏡面に赤い文字が浮かぶ。

「ご覧の通りよ。多少時間は掛かるが、鏡を介せば、伝わるじゃろうて」

「さすがね、ウォーロック。これでいきましょ」

 先に作戦の内容が伝わりさえすれば、民も何かしらの対応は取れるだろう。

「避難経路への誘導は、我々騎士団にお任せください。城下町は慣れておりますので」

「頼んだよ、アイザック。……ギュスター、僕たちはどうする?」

「エリアルド、お前はエマイユと第二波に入るといい。第一波は俺が指揮する。クランも俺をターゲットにするだろうしな」

城下町の住人にエマイユたちの情報が行き届くまで、時間が掛かる。作戦決行は三時間後と決まり、一旦解散となった。

「長生きはするもんじゃな、ヒッヒッヒ! さぁて、始めるとするか」

「無理はしないでね、ウォーロック。あなた、すごいお爺ちゃんなんでしょ?」

 騎士のひとりがエマイユを呼びにくる。

「エマイユ様。会って欲しい方がいらっしゃるのです。お父上のクレハ様もご一緒に」

「お父さんと? すぐ行くわ」

 エマイユはエリアルドたちと別行動を取り、父とともに町長宅へと向かった。

寝室のベッドでは、顎髭を蓄えた、強面の男性が横になっている。その表情は玉の汗を浮かべるほど疲弊し、息を乱していた。

 父が跪いて、心配そうに男の顔を覗き込む。

「お久しぶりです。陛下」

 エマイユも何度か会ったことのある、フラムツォバ国王だった。

 国王がかろうじて横を向き、エマイユたちを一瞥する。

「お、おぉ……そなた、クレハか? では……ま、まさか、その娘は……」

「はい、エマイユです。お父様」

 エマイユとして、初めて実の父と対面できた。王の疲れきった表情が、ふっと緩む。

「こうしてお前に会えるとは……夢のようだ」

 国王は数日前、城で娘のクランと対峙し、指輪を奪おうとしたらしい。しかし手痛い反撃を受け、ほかの誰よりも重傷を負ってしまった。

「お前のほうが残っておれば、こうはならんかった、かもしれん」

「お気を確かに、陛下」

 もはや王としての威厳はなく、父としての声も弱々しい。

「すまぬ……だが、クランも大切な娘なのだ。エマイユ、どうか、あやつを……」

「お父様っ? しっかりなさって!」

 エマイユは王の手を取り、念じるように握った。

「クランとともに……王国を」

 父親の優しいまなざしが、娘に焦がれる。

 それきり国王は気を失ってしまった。胸に穴が空いたような感覚になって、心の置き場がわからなくなる。

 実の父に代わって、育ての父がエマイユを抱き締めてくれた。

「おれも戦うぞ、エマイユ。元騎士団長の斧さばきを見せてやるとも」

「お父さん……ありがとう。あたし、頑張るから」

 エマイユの小さな双肩にはフラムツォバ王国の命運が掛かっている。しかしエマイユには、ともに支えてくれる仲間がたくさんいる。

 ギュスター、タチアナ、チトセ。

 アイザック、騎士団の面々、港町の人々。

 そしてエリアルドも。

「負けないわ、絶対」

 エマイユの決意は熱く滾っていた。

 

 

 午後三時。

 煙が充満しているかのような曇り空のもと、ギュスターは声高らかに先陣を切った。

「日没までに決めるぞ! 全軍、突撃!」

 武装商船団の精鋭が、勢い任せに城下町へと切り込む。

 フラムツォバ城の麓には、夥しい数の悪魔が控えていた。醜悪な姿で咆哮をあげ、我先に打って出てくる。羽根を持った小悪魔は、上空から奇襲を仕掛けてきた。

「おれたちの王国を取り戻すんだ!」

「悪魔どもを追い出せっ!」

 武装商船団に続き、町の志願兵らも怒涛の勢いで突き進む。城下町の住人も、逃げなかった者は武器を構え、果敢に参戦した。

 アイザックら騎士団も戦列に加わり、悪魔の群れを突破する。

「騎士様! 教会にまだ、子どもたちが……」

「了解した。三番隊はただちに救出に向かえっ!」

 しかし敵の軍勢は強固な防衛網を張っており、簡単には城に近づけそうになかった。

 ギュスターらの第一波が戦線を押しあげていくのを、第二波の隊は後方で見守る。エマイユはエリアルドと一緒に陣形の中央で待機していた。

「怖いかい? エマイユ」

エリアルドがペガサスの手綱を引いて、肩肘の張っているエマイユに近づく。

「ううん。みんなが……あなただっているもの」

 エマイユは軍の士気をあげるため、華やかな純白のドレスをまとっていた。ブロンドの髪を優美に波打たせ、正統な姫としての存在感を強調する。

 その風貌はウォーロックによって、王国じゅうの鏡に送信されていた。タチアナはウォーロックのサポートにまわっている。

 エマイユ王女の愛馬は、いつぞや牧場でともに草原を駆けた、リチャードだった。

「あなたも一緒に戦ってくれるのね。頼りにしてるわ」

 黒ずんでいた馬が光り輝いて、美しい白馬となる。その額には一本の角。

神話に名高いユニコーンの雄姿に、歓声が沸く。

「おおっ! エマイユ様!」

 エリアルドはグングニルの槍を掲げ、声を張りあげた。

「我々も行くぞ! 力の限りを尽くせ! エマイユ=フラムツォバの名のもとに!」

 怒号のような雄叫びとともに、エマイユの軍も進撃を開始する。

 クランの悪魔に対抗すべく、エマイユは機械仕掛けの天使を召喚した。天使の大部隊が節々で歯車を回転させながら、先行して飛んでいく。

「エマイユ、君はまっすぐ走れ!」

「ええ! エリアルド、城で合流しましょう!」

 エリアルドもペガサスとともに空を駆け、悪魔の群れに切り込んだ。リヴァイアサンさえ葬ったグングニルの槍を振りかざし、敵を何匹もまとめて薙ぎ払う。

「彼女には僕が、指一本触れさせないぞ!」

 それと同時に、エマイユはユニコーンで市街地を駆け抜けた。みるみる第一波の先頭と距離を詰め、ギュスターに追いつく。

「ギュスター!」

「来たか! お前が切り札だ、やれ!」

 ユニコーンが唸りをあげ、額の角にエネルギーを集めた。そして閉ざされた城門へと真っ向から突撃し、かんぬきごと突き破ってしまう。

すかさずギュスターの部隊が続き、ルートの確保に入った。

「門を制圧しろ! 敵を寄せるな!」

 空からエリアルドも降りてきて、フラムツォバ城への侵入を果たす。

「僕がまわり込んで開けるまでもなかったね」

「油断するなよ? エリアルド。恋人を抱く前に死なせたくなければ、な」

「そんなヘマはしないさ、ギュスター!」

 中庭には一対の守衛が待ち構えていた。一つ目の巨人サイクロプスが、エマイユたちを睨みつけ、象のようなサイズの棍棒を振りあげる。

「お任せください! ここは私が!」

「あたいを置いてかないで欲しいもんだね!」

 熾烈を極める最前線に、アイザックとチトセが合流した。

エマイユは指輪をかざし、彼らに天使のビジョンを投影させる。

「ワルキューレ、あなたの力をアイザックとチトセに!」

 召喚された大型の剣を、ふたりは楽々と手に取った。身体能力も一時的に強化され、常人離れした腕力と脚力を発揮する。

 動きがのろい巨人に、アイザックが跳びかかった。

「貴様の相手は私たちだ! でやあっ!」

「ほら、こっちこっち!」

 チトセは死角へとまわり込んで、巨体の横っ腹を引き裂く。

 左右の巨人はほぼ同時に膝を落とした。エマイユはユニコーンの首筋に掴まり、その隙間を一気に突破する。

「ふたりとも、無茶はしないで! あんまり長くはもたないから!」

「オッケー! クランを引っ叩くのは、あんたに任せたよ!」

 エマイユの一行はついに城内へと躍り込んだ。

 

 いつものベッドで、はっと目覚める。

「……あれ? あたし」

 エマイユはびっしょりになるほど汗をかいていた。

窓からは朝日が差し、父がかまどを準備している音が聞こえる。ぼうっとしていると、母の大きな声が飛んできた。

「エマイユー! いつまで寝てるの、起きなさーい!」

「は、はーいっ!」

 ひとり娘のエマイユは顔を洗って、普段着にエプロンを重ねる。

 クレハ・ベーカリーの朝は早い。一家は手短に朝食を済ませ、開店の準備に入った。間もなく町の皆がパンを買いにやってくる。

 この小さな港町では、クレハ・ベーカリーのトーストと、レイモンド・カフェのコーヒーで朝を迎えるのが恒例だった。

お昼が近くなると、エマイユはバスケットに焼きたてのパンを詰め、配達に出る。

「じゃあ、いってきまーす!」

「気をつけるんだよ」

 ここ数日は天気もよく、空は青々と晴れていた。内海は波も穏やかで、港のほうは今日も交易品の荷降ろしで賑わっている。

 ……あれ?

 ふと違和感があった。エマイユはひとり、首を傾げる。

「どうしたんだい? ぼうっとして」

 そんなエマイユを、恋人のエリアルドが呼びとめた。彼はベンチに腰掛け、気ままにリュートを奏でている。けれどもその音色は珍妙で、明らかに音を外してばかり。

「相変わらず下手ね。やっぱり向いてないのよ」

「下手の横好きくらい許してくれないか」

 エマイユは彼とハロウィン祭で出会い、交際を始めた。父はまだ渋っているものの、母は娘の恋人を歓迎し、早くも結婚の話が挙がっている。

 隣に座ると、エリアルドは穏やかにはにかんだ。恋人の肩に手をまわし、周囲に見せつけるかのように距離を詰めてくる。

「デートに行こうよ。城下町にいいお店があるんだ」

「あとで、ね。まだ配達が残ってるから」

 エマイユからも彼に寄りかかって、一息ついた。

 城に住むお姫様のような暮らしではない。しかしエマイユにとって、港町での日々は幸せに満ちていた。優しい両親がいて、素敵な恋人がいて。あと数年もすれば、エリアルドとの間に子どもができて、家族も増える。

「待てないよ、もう」

「きゃっ?」

 急にエリアルドが前のめりになって、エマイユを押し倒した。

 屋外のベンチにいたはずが、いつの間にかベッドの上にいる。枕元ではピンク色の灯が輝き、ふたりだけのムードを高めた。

 窓の外はとっくに陽が暮れ、静かな夜が満ちている。

 あたし……エリアルド、と……?

配達の途中だったことは、頭から抜け落ちてしまった。魅惑的なムードにあてられ、エマイユはうっとりと微笑む。

 エリアルドは服を脱ぎ、逞しい胸板を晒した。

「ほら。君も脱いで」

「う……うん」

 期待と恥ずかしさに頬を染めながら、エマイユもおずおずと肌を見せていく。

 怖くないわけではなかった。それでもエリアルドと結ばれることに喜びを感じ、興奮さえしてしまう。身体が燃えるように熱い。

「エリアル――」

「だめですよ、エリアルド様ぁ」

 ところが脇からもうひとり、エリアルドに抱きつく女性がいた。ヘッドドレスをつけた同い年くらいの女の子が、エリアルドの胸元に頬擦りする。

「今夜はわたしが先って約束でしたのに」

「ごめん、ごめん。忘れたわけじゃないよ、もちろん」

 下着しかつけていない彼女に、エリアルドからも腕をまわした。遠慮のない手つきで肌を撫でまわし、曲線のついた柔らかさを楽しむ。

「ちょ、ちょっと……誰よ? あなた」

「あら? お忘れでございますか、エマイユ様?」

 エマイユの頭に痛みが走った。

 どうなってるの、これ?

額に焼きごてでも押しつけられるかのように、頭痛がする。

「大丈夫だよ、エマイユ。どっちも平等に可愛がってあげるからさ」

 違和感が大きくなった。あの純情なエリアルドが、女性を玩具にするわけがない。

「エマイユ様はお疲れみたいですね。さあ、エリアルド様……」

「しょうがないな。じゃあ、今夜は君からだ」

 目の前のふたりが、淫靡な表情で唇を重ねようとする。

 エマイユの左手で何かが光った。

「ち……違うっ、あなたはエリアルドじゃないわ!」

 

 指輪をこぶしで突きだすと、今度こそ目が覚めた。

「キャアアアアアアアッ!」

 悪魔の女性が悲鳴をあげ、失神する。

 エマイユは城の回廊で、エリアルドとともに倒れていた。敵の幻術に嵌められていたらしく、懐の手鏡からウォーロックの声が聞こえる。

『危ないところじゃったのう、ヒヒヒ。メイドの嬢ちゃんに感謝せい』

「……タチアナ、が?」

 ウォーロックの傍らで、タチアナもこちらを覗き込んでいた。

『まさかエマイユ様が、あんな卑猥な夢をご覧になるとは、思いませんでしたよ』

「違うってば! さっきのは……多分、そこの悪魔が」

 おかしな淫夢にたぶらかされそうになったが、意識ははっきりとしている。

『そやつは魔界の夢魔、アスタロッテじゃな。お前さんでいうなら、ペガサスよりも上位のランクじゃ。クランもなかなかやりおる』

 罠とはいえ、単なる夢とも思えなかった。エマイユの願望が如実に表れ、絵に描いたような光景だったのだから。

 もしエマイユが双子の王女ではなく、エリアルドも王子でなかったなら、小さいなりに幸せな家庭を築いていたかもしれない。自分は王女の片割れで、天使の軍を率いている今の現実のほうが、むしろ『夢』に思えてきた。

 ……進まなくっちゃ。

 エマイユは顔を引き締め、前を向く。

「起きて、エリアルド」

 エリアルドも目覚め、おもむろに身体を起こした。

「僕は一体……エ、エマイユっ?」

エマイユを見るや赤面し、慌てて顔を背けてしまう。エマイユと同様に、いかがわしい淫夢を見せられていたに違いない。

「気にしないで。今のは敵の罠だったのよ」

「そ、そうだったのか。……ん? 僕たちだけなのか?」

 ところがギュスターの姿が見当たらなかった。

クランの怒りはギュスターに向けられている。エマイユたちが淫夢に落ちている間に、彼だけ連れ去られてしまったようだった。

「ウォーロック、タチアナ。あたしたちは姉さんを目指すわ」

『じきに陽が暮れそうです。お急ぎください』

 エマイユとエリアルドは頷きあって、回廊を駆け抜ける。

 城内は馬に乗って進めないものの、エリアルドの手にはグングニルがあった。壁を破ってショートカットし、登り階段へと直行する。

 一時間ほど眠っていたのか、雲は薄れ、陽は傾きつつあった。

茜色に染まった夕空では、天使と悪魔の両軍が交戦を続けている。夜になれば、悪魔のほうが力を増し、均衡は崩れるだろう。

 最上階の大広間まであがると、ギュスターが横たわっているのが見えた。

「ギュスター、しっかりして!」

「くっ……すまん、しくじった……」

 剣を取ることもできないほど痛めつけられている。

 そんなギュスターの背中を踏みつけたのは、エマイユと同じ顔の女性だった。華奢な身体に漆黒のドレスをまとい、ブロンドの髪を波打たせる。

 その美貌は高貴さと高慢さを兼ね備えていた。切れ長の瞳が妹を睨みつける。

「来たわね、エマイユ」

「姉さん……」

 エマイユはエリアルドと一緒に、クラン王女と対峙した。

 エマイユとクラン。フラムツォバの王家に生まれ、フランの力を二分した双子が今、天界と魔界の軍勢を従え、睨みあう。

「まさか、あなたにここまで抵抗されるなんてね」

 クランの後方で突如、爆発が起こった。

「軍を退いて、姉さん。終わりにしましょう」

 エマイユの後ろでも爆発が起こる。

 天使と悪魔は魔法を苛烈にぶつけあい、王城さえ傷つけていた。下で戦っているはずのアイザックたちも、おそらく限界まで疲弊している。

 魔物のほかに兵のいないクランは、邪悪な笑みを浮かべた。

「そろそろ陽が暮れるわよ。知ってるんでしょう? 夜になったら、天界の下僕は弱り、魔界の下僕が優位になる……」

「させないわ。その前にあたしとエリアルドで、決着をつけるもの」

 エマイユを守るようにエリアルドが前に出て、グングニルをクランに向ける。

「クラン、君もわかっているはずだ。君とエマイユはどちらが欠けてもいけない、と」

「ふん、関係ないわ。わたくしはすべてを壊したいだけ」

 クランの瞳が赤々と光った。

「わたくしに自由を許さなかった、この王国を壊し! 内海が枯れゆくさまを、こいつに見せつけてやるのよ!」

 憤怒の表情となって、ギュスターを足蹴にする。

 クランが右手を掲げると、巨人が使うようなサイズの魔剣が現れた。宙に浮き、彼女が手を取るまでもなく、刃を振るう。

 黒い刀身には赤いラインが血管のように巡っていた。

「覚悟なさい、エマイユ。わたくしにはこの魔剣カラドボルグと……ククク、まだ、とっておきの切り札があるのだから」

 生きた魔剣『カラドボルグ』に続いて、巨大な存在がクランの呼びかけに応じる。

 その巨体を制しきれず、瞬く間に城が半壊した。柱が折り重なるように倒れ、天井は中央から崩れ落ちる。

「伏せるんだ、エマイユ! ……あれは?」

「呼んだんだわ、姉さんが」

 夕暮れの太陽を遮って、黒き冥竜が天に咆哮を轟かせた。一対の翼を広げると、その全長は王城の外堀さえ優に超えてしまう。

「アーッハッハッハ! すべてを灰燼となさい、カオスドラゴン!」

 カオスドラゴンが尻尾を振るだけで、城の麓にある外壁が根こそぎ削れた。巻き添えを食った悪魔が打ちあげられ、天使は四方へと散開する。

 壁や天井がなくなったことで、ペガサスとユニコーンが駆けつけてくれた。

「リチャード! あなたはギュスターを守って」

「だめだ! 君も一旦離れたほうがいい!」

 エリアルドはペガサスに跨って、エマイユの腕を掴む。

 カオスドラゴンの巨影を見上げ、エマイユは息を呑んだ。天使は歯車の回転を早め、上空で迎撃の布陣を敷くものの、カオスドラゴンを包囲しきれない。

 ユニコーンはギュスターの首根っこを咥え、脇を走り抜けていった。

「逃がすと思って?」

クランが魔剣カラドボルグで剣閃を垂直に放つ。

 半壊状態だった城が、あたかもケーキのように真っ二つに割れた。ユニコーンもろともギュスターも割れ目から落下してしまう。

 姉の顔は狂気に満ちていた。

「さあ……エマイユ。天と魔のバランスを崩す時よ」

カオスドラゴンもエマイユを見下ろし、低い声で唸る。

 唖然としていたエリアルドは、思い出したようにエマイユの腕を引いた。

「急いでくれ! どうしたんだ?」

「大丈夫よ。エリアルド、あたしを信じて」

 しかしエマイユは撤退をよしとせず、残忍な姉に向きなおる。

 足元で真っ白な魔方陣が輝いた。旋風が生じ、竜巻を空の上まで巻きあげる。

「往生際が悪いわね、妹ッ!」

 カオスドラゴンが口から紅蓮の炎を噴いた。その炎をまとった魔剣カラドボルグが、エマイユに目掛けて振りおろされる。

「エマイユっ!」

 だが、魔剣は届かなかった。魔法の防壁がエマイユとエリアルドを包む。

 エマイユは機械仕掛けの翼を四枚、背中で広げた。純白のドレスと合わさって神々しくも可憐な姿に、エリアルドが目を見張る。

「……エマイユ、それは?」

 クランが舌打ちした。

「その身に召喚したようね。大天使を……!」

 エマイユが双眸を開くと、翼の歯車が四つとも回転を始める。

「ウラヌス! あたしに力を貸して!」

 最高位にして天空を統べる大天使、ウラヌス。それはカオスドラゴンの黒き巨体を白く染めあげるほど、膨大な光のエネルギーを放出した。

 四枚の翼が起動し、エマイユを夕焼け空の頂へと運ぶ。

エリアルドもペガサスで夕空を駆け、エマイユとともに、クラン王女に狙いをつけた。

「いきましょう、エリアルド! 姉さんを止めて、王国のみんなを救うために!」

「ああ! クランの魔剣は僕に任せてくれ!」

 エマイユの指揮に従い、残ったすべての天使も空の一面に整列する。

 カオスドラゴンは仰向き、火炎弾を次々と吐いた。自軍の悪魔を巻き込みつつ、天使の布陣に炎をばらまく。

 それをかわし、機械仕掛けの天使たちは一斉に槍を放った。

 カオスドラゴンの硬い皮膚には、棘程度にしか刺さらない。それでも隙は生じ、エリアルドがペガサスで猛然と突っ込んだ。

「クラン王女! まだわからないのか、君はっ!」

「ちいっ! 帝国の下種が!」

 エリアルドのグングニルとクラン王女のカラドボルグが擦れ、火花を散らす。

「君が僕を相手にしなかったのは、僕が見栄のために君を口説いてると、感じたからなんだろう? 何より君の心はギュスターにあったはずだ!」

「知ったふうなことを言わないで! あなたにはわからないわよ!」

 魔剣はグングニルを受けつつ旋回し、エリアルドもろともペガサスを弾き返した。しかしペガサスが空中で踏ん張り、前のめりの体勢を保つ。

 そこに追撃を仕掛けようとする冥竜に、エマイユが仕掛けた。光のエネルギーをその身に集束させて、一発の弾丸となる。

「あなたの相手はこっちよ! はあああッ!」

その軌道は物理法則さえ超越し、減速なしに直角に曲がった。四枚の翼を駆使して、橙色の夕日を横切りながら、カオスドラゴンへと肉薄する。

ウラヌスの突撃は音速に達し、空気の壁を突き破った。カオスドラゴンの背面から横っ腹を抉って、燕のごとく急上昇し、続けざまに真下から顎をかちあげる。

 冥竜のよろめくさまに、クランは慄然とした。

「なっ? エマイユにこんな力が……?」

「エマイユだけじゃないっ!」

 再びエリアルドがクラン王女に仕掛け、グングニルで今度こそカラドボルグを弾く。

 崩壊した城の中から、エマイユの仲間も飛びだしてきた。アイザックがギュスターを抱え、離脱していく。

「エマイユ様、エリアルド! ギュスターは無事です!」

 ユニコーンは瓦礫を前足で蹴りあげ、高らかにいなないた。その背にチトセが乗って、カオスドラゴンの後方へとまわり込む。

「ワルキューレの残りの力、全部くれてやるよ!」

 ユニコーンは冥竜の尻尾を伝い、羽根の付け根まで駆けあがった。ドラゴンの運動神経が集中するらしい脊髄の急所に、チトセがワルキューレの大剣を突き立てる。

 カオスドラゴンは激痛に身悶え、火炎を吐き損ねた。

「次で決めるぞ! ペガサス!」

 エリアルドがペガサスを駆り、放物線を描くように空まであがって、急降下する。

「しつこいやつね、カラドボルグッ!」

「うおおおおっ!」

 青いエネルギーをまとったグングニルが、クラン王女の魔剣と三度、交差した。一合目と二合目で亀裂が入っていたカラドボルグを、気合の一閃でへし折る。

 クランは驚き、たじろいだ。

「な、なんですって……?」

魔剣の刀身が砕け、クラン王女をがら空きにする。

 その遥か上空で、エマイユはボルテージを最大まで高めていた。ウラヌスの翼が一段と大きく展開し、回転の早すぎる歯車が煙を噴く。

「ウラヌス、お願い! あたしと一緒に!」

 夕空から流れ星が落ちた。

空気の壁を何重も破りながら、エマイユの突撃はなお加速する。その流星はカオスドラゴンの大きな口を逆に食い破って、喉笛を千切るように引き裂いた。

「これでおしまいよ、姉さんっ!」

「エ、エマイユ……あなたは、フランの……」

 己の劣勢に呆然としているクランに、エマイユの左手が届く。

 ふたつの指輪がこつんと当たった。不意に輝きが増し、双子の姉妹を飲み込む。

 血のあぶくを吐き散らしていたカオスドラゴンが、灰となって崩れ落ちた。夕空を埋め尽くしている悪魔と天使の両軍も、次々と消えていく。

 エマイユの力とクランの力が相殺され、互いにゼロとなったらしい。

 西の山間に夕日が沈む。フラムツォバの城下町は、それまでの激戦が嘘であったかのように静まり返った。

 瓦礫となった城の天辺で、クランがくずおれる。

「そんな……この、わたくしが」

 翼を失ってふらつくエマイユに、エリアルドが肩を貸した。優しい笑みには、まだ夕日の暖かさが残っている。

「終わったんだね」

「あなたの……ううん、みんなのおかげよ」

 エマイユにはたくさんの仲間がいた。一方で、クランはひとりだった。その差が勝敗を分けたのだと、エマイユは確信する。

 けれども、姉の気持ちもわからなくはなかった。

「姉さん……」

ひとりの女としてギュスターを愛し、ひとりの人間として自由を求めたに過ぎない。だが、そのために多くの者を騙し、利用し、ひとりぼっちになってしまった。

 クランは両手をつき、放心している。表情には生気がない。

 アイザックの肩を借りて、ギュスターが瓦礫の山をよじ登ってきた。

「……もういい。クラン」

 彼の声にクランが怯え、背中を震わせる。

「……………」

「顔を見せてくれないか。俺の恋人よ」

 ギュスターは彼女の前で膝をつき、ニヒルな笑みを噛んだ。

「もとはといえば、俺のせいだ。お前は城で生きるべきだと決めつけ、切り捨てた。どうやら俺は、女心がまるでわかってなかったらしいな」

 クランがこわごわと顔をあげ、頬を濡らす。

「どうして? どうして、あの時……連れていってくれなかったの?」

「すまない。だが、これからはずっと一緒だ。海でもどこでも連れてってやる」

ギュスターはクランをそっと抱き締め、震える声で誓った。

「愛してるんだ。お前を」

「……ひぐっ、ギュスター、わたくし……」

 クランの瞳から大粒の涙が零れる。

 王女としてではなく、ひとりの女として、姉は恋人に抱かれていた。ギュスターの胸で涙を飲むほどに泣きながら、嗚咽と息継ぎを繰り返す。

 エマイユとエリアルドは互いに目配せして、疲れながらも笑みを交わした。

「最後は持ってかれちゃったわね」

「仕方ないさ」

 アイザックが意気揚々とエマイユ王女を導く。

「エマイユ様、みなが待っております」

「……みんなって?」

 瓦礫の城には大勢の民が集まっていた。新しい王女の姿が見えると、歓声が沸く。

 アイザックは敬礼を取り、声高らかに勝利を宣言した。

「このお方こそ、フラムツォバ王国の第二王女、エマイユ=フラムツォバ様であらせられる! みなの者、エマイユ様の御名のもと、忠誠を捧げよ!」

「エマイユ様! エマイユ様!」

 新たな王女の名が大合唱となって響き渡る。

 エマイユは照れ臭くなって、場慣れしていそうなエリアルドに寄り添った。

「お姫様になっちゃったわ、あたし。柄じゃないのに」

「君は僕のお姫様だったよ。ずっと」

 気障な恋人と一緒に、フラムツォバ王国の懐かしい夜空を眺める。

 一番星を見つけて、エマイユは満面の笑みを浮かべた。

 

 

 フラムツォバ王国の内乱は集結した。

乱心したクラン王女に対し、妹のエマイユが勇敢にも決起し、王国を救ったことは、すでに皆の知るところとなっている。その奇跡のシオリオに人々は酔いしれた。

だが、犠牲者も多い。クランの付き人だったメイド長を始め、民間にも死傷者が出てしまっている。それだけ苛烈を極めた、激しい戦いだった。

城は跡形もなく崩れ、町の家屋も半壊が目立つ。

 今夜のところは港町サノンへと戻り、久しぶりの我が家に泊まることに。エマイユの素朴な実家は、ハロウィン祭の夜から何ひとつ変わっていなかった。

「どうぞ。入ってきて」

「それじゃあ、お邪魔するよ」

 今宵の客人は、恋人のエリアルドだけ。

 エリアルドはクレハ・ベーカリーを興味津々に眺めていた。エマイユの育った家であることに、感じ入っているらしい。

「君はここで十七年、ずっと暮らしてたんだね」

「ええ。ちょっと狭いけど、お城よりも居心地いいんだから」

娘の部屋には小さな机とクローゼット、それから堅いベッドがひとつ。客人用の椅子はないため、エリアルドには寝台に座ってもらった。

「お茶を淹れてくるわ」

「気を遣わないで。それより今は……僕と一緒にいてくれないか」

 エリアルドの手招きを受け、エマイユもおずおずと同じベッドに腰を降ろす。

 魔界の軍勢は撃退できたものの、勝利の余韻などなかった。

「……フラムツォバはどうなるのかしら」

 この戦いでは犠牲者も少なくない。エマイユたちが扇動したことで、民までもが武器を手にしてしまった。明日から王国の復興も始めなくてはならない。

 俯きがちなエマイユを撫でながら、エリアルドは諭すように語った。

「命を落とした者がいることは……君だけじゃない、みんなで一緒に乗り越えていくしかないよ。だけど僕も、みんなも、家族や恋人のために戦ったことは、忘れないで」

 エマイユの溜息に安堵が混じる。

 後悔はあった。罪悪感もあった。しかし、前に進むためには避けられなかった。民が王女を信じてくれたように、エマイユも皆を信じる。

「残されたあたしたちで王国を立て直さないと、申し訳が立たないものね」

「そういうことさ。もちろん、僕も手伝わせてもらうよ」

 ふたりで静かに耳を澄ませて、港町の皆が、今は誰も起きていないことを期待した。エリアルドがエマイユの肩に手をまわし、やんわりとはにかむ。

「しばらくここで暮らそうか。ふたりで」

「お城がないものね」

 エマイユからも彼に寄り添った。

 父は騎士団に戻ることが決まり、母を迎えに行くため、明日には港を発つ。この家はエマイユが自由に使ってよい。

「ねえ、エリアルド。お城で夢を見たでしょ?」

「……見たよ。君の夢だった」

 エリアルドにもたれながら、エマイユはうっとりと囁いた。

「あたしの夢だと、あなたは王子じゃなかったの。あたしは配達に出掛けて、あなたは気ままにリュートを弾いてて……とても幸せな夢だったわ」

 エリアルドも頬を染め、エマイユの髪を梳く。

「僕の夢は違ったよ。クランがいなくて、君が王女だったんだ。僕は君との婚約にすっかり舞いあがって、でも、君も喜んでくれて……すごく幸せな夢だった……」

 ふたりの願望は内容が少し異なっていた。エマイユは庶民の暮らしの中にエリアルドを求め、エリアルドは王族の暮らしの中にエマイユを求めている。

 きっとギュスターとクランも似たような関係だった。

ギュスターはクランを捨てたのではなく、彼女のため、手を引くことを選んだ。それが恋人を傷つけると知りながら。

そしてエマイユとエリアルドにも、すれ違いがないわけではなかった。

「あたし……あなたを騙してたのよね、ずっと」

 彼の純情をないがしろにした事実は、今でも後ろめたい。

 しかしエリアルドは事を荒立てようとせず、エマイユの罪を許してくれた。

「いいんだよ、エマイユ。僕はこうして、あの夜の君を捕まえることができたからね」

 エマイユは部屋で置き去りになっていた、ウサギの耳飾りをつけてみる。

「吟遊詩人さん、お久しぶりね。相棒のリュートはどうしたの?」

「これは失礼。今夜は忘れてしまったな」

 互いに瞳を覗き込むように見詰めあいながら、ふたりは唇を近づけた。エマイユの吐息にエリアルドの吐息が強引に割り込む。

「ん……っ」

 彼の唇はエマイユを慰めるように、熱い囁きを漏らした。

「愛してるよ、エマイユ」

 息継ぎのついでに、恋人の耳たぶを甘く噛む。

 敏感に震えながら、こちらも唇を返した。エリアルドの唇に欲張って吸いつき、蜜とともに舌を絡みあわせる。

 キスを終えても、エマイユは陶然としていた。身体が芯から熱くなる。

 しかしエリアルドは息を飲みながら、それ以上を続けようとはしなかった。

「明日から忙しくなるからね。今夜はもうおやすみ、エマイユ」

「エリアルド……?」

 彼の手がエマイユの顎を取り、視線を拾いあげる。

「僕なりのけじめってやつさ。王国が復興を果たしてからにするよ、君を抱くのは」

 意気地なし、などと思ってしまった自分が恥ずかしい。

 エマイユはドレスのまま、枕を抱っこするように寝転んだ。

「でも今夜くらい、一緒にいてくれるでしょ?」

「君が眠るまで、ちゃんと傍にいるよ」

 

 夢の中で恋人が囁く。

「僕と旅に出ないかい、ウサギさん? 僕は演奏して、君は歌うのさ」

 頷いてしまいそうになった。

 

 


 

 

 

   エピローグ

 

 

 フラムツォバ王国の復興が始まった。民は一丸となって、仕事に精を出している。

武装商船団と良好な関係も築かれ、王国は転換期を迎えつつあった。内海の貿易に参入し、東西の国々と健全に凌ぎを削っている。

エマイユも王女として多忙な日々を送っていた。エリアルドとの結婚は正式に決まったものの、当分は甘える時間もない。

 その夜は思うところがあって、エマイユは城の庭園へと向かった。迷路を抜け、ウォーロックの書斎を訪れる。

ところが客人を迎えたのは、ウォーロックだけではなかった。

「……あなたも来たの?」

 姉のクランが目を丸くして、妹との邂逅に驚く。

 ウォーロックは双子の姉妹を見比べ、低い声で笑った。

「ヒッヒッヒ! クランよ、妹に力を譲渡するなど不可能じゃ」

「そう。ならいいわ」

 姉の思惑を察し、今度はエマイユが驚く。

 おそらく彼女は混沌の力を妹に渡すことで、自ら落とし前をつけようとしていた。しかしウォーロックの叡智をもってしても、できないことらしい。

「で……エマイユ、おぬしは何用かな」

「これを」

 エマイユはクランに並んで、ウォーロックの眼前に左手を差しだした。

「この指輪を外して欲しいの。あたしにはもう必要ないから」

「わたくしの指輪もお願いするわ」

 クランも同様に手を出し、指輪を見せつける。

 ウォーロックはやれやれと肩を竦めた。

「言っておくが、指輪は端末に過ぎん。指輪を外したからといって、おぬしらの力がなくなるわけではないぞ。修練次第で如何様にもなろう」

「そうなの?」

「うむ。現におぬしのペガサスやユニコーン、そっちのアスタロッテは、地上に残っていよう? 指輪を手放そうと、おぬしらがフランの力を捨てきることはできんよ」

 エマイユとクランはそれぞれ、自分のてのひらを見詰める。

「……しょうがないわね。でも指輪は外しなさい」

「なぜじゃ? あって困るものでもなかろう」

 エマイユは溜息をついて、世間知らずの骸骨に切実な事情を明かした。

「こんなのがあったら、婚約指輪も結婚指輪も嵌められないの。エリアルドに誤解されたことだってあるのよ? あたし」

「おぉ、それは悪いことをした。では、外してやろう」

 ウォーロックが念じると、ふたりの薬指から指輪が抜け落ちる。

 裸になった指を撫で、エマイユはほっとした。これで恋人に渋い顔をされずに済む。

「ヒヒヒ、またいつでも来るがよい。次はフランの話でも聞かせてやろう。天界の王子と魔界の王子を従え、かつての主神と冥王を打倒した、自慢の娘の話をな」

「長くなりそうね。その時はあなたが出てきてくれる? お茶くらい出すわよ」

「ほお、それもよいのぅ」

 エマイユだけウォーロックに一礼し、姉妹は書斎をあとにした。

 クランがすたすたと先に歩いていく。

「待って、姉さん!」

 呼びかけても、姉は振り向いてくれなかった。それでも足は、ふと止まる。

「馴れ馴れしいわね。あんなことがあったのに、あなた、わたくしと仲良くできるとでも思ってるのかしら」

「それは……そう、だけど」

 依然として姉妹の間には深い溝があった。反発するほどではないとはいえ、和解に至ることもない、ぎこちない関係が続いている。

 きっと姉のほうも、妹との距離をどう取ればよいのか、戸惑っていた。

「わたくしはね……復興が一段落したら、裁判を受けるつもりなの」

 クランの言葉は淡々として、感情のぶれを感じさせない。

「王国を滅茶苦茶にした張本人だもの。当然でしょう? そうなれば……王女の権限はすべて、あなたのものになるわ」

 姉の覚悟を、エマイユがとやかく言う権利はなかった。クランは第一王女として責任を感じ、ギュスターに依存することなく、役目を果たそうとしている。

「わたくしに拘るのは、もうやめなさい。あなたにはあなたの幸せがあるでしょう」

 これが最後になるかもしれない。そう思って、エマイユは声を振り絞った。

「けど……それでも、あなたはあたしの……」

「そうね。わたくしはお姉さんだから」

 クランが振り向き、妹のエマイユに初めて微笑みかける。

「いつか、あなたたちを祝福してみせるわ」

 それはエマイユと同じ顔だった。

 

 

 フラムツォバ王国の内乱から、一年後。

城下町の隅にある小さな教会で、ささやかに結婚式がおこなわれた。ウエディングドレスをまとったクランの優美な姿に、妹のエマイユはうっとりと見惚れる。

「あたしじゃ絶対、あんなふうに着こなせないわ」

「そんなことないよ。君にも似合うさ」

 エリアルドも結婚を祝し、はにかんでいた。

 クランとギュスターの結婚式には、ほかにも見知った顔が参列している。フラムツォバ商船団の面々も、新郎であるギュスターのために駆けつけた。

妹のチトセが緊張気味に挨拶に立つ。

「えっ、聞いてないよ? 何しゃべれってんだよ、兄貴」

「お前というやつは……」

 朗らかな祝杯ムードの中、タチアナはふたりの主人に問いかけた。

「……で、エマイユ様とエリアルド様のご結婚は、いつのご予定なんです?」

 エリアルドは笑顔で即答し、エマイユは溜息を漏らす。

「僕はいつでも。明日でもいいくらいさ」

「あ、あたしだって! ……忙しいのよ、王女って」

 第二王女エマイユの日々は多忙を極めていた。エリアルドをパイプとして、イズルード帝国と交易の内容をすりあわせる一方で、商船団と連携も取らなければならない。

 おかげで毎日のように、クランに戻ってきて欲しい、と思っている。

 しかしクランは内乱の責任を取り、権限のほとんどをエマイユに譲渡した。決して妹に責務を押しつけたのではなく、王女の矜持がそうさせたのだろう。

 今日から彼女は、愛するひとの妻としてだけ、生きる。

 それが少し羨ましくもあった。

 挨拶を終えたチトセが、エマイユのほうにまわり込んでくる。

「やれやれ……あたいとしては、兄貴はエマイユとくっついて欲しかったんだけど」

「わたしもですよ。そうなったら、エリアルド様はフリーになりますし」

 タチアナの発言は相変わらず冗談が過ぎていた。

 エリアルドがエマイユを抱き寄せて微笑む。

「僕が結婚するのは君だけだよ」

「当たり前でしょっ!」

 彼の無自覚なたらしぶりを知っているからこそ、エマイユはむっとした。

 ギュスターの腕の中から、クランが嬉しそうにブーケを投げる。

「わたくしの幸せ、特別に分けてあげるわ!」

 ブーケは風に乗って、チトセのもとに落ちてきた。

「えっ、次はあたいの番ってわけ?」

「わたしにくださいっ!」

 それをタチアナがかっさらおうして、チトセと揉みくちゃになる。

 ブーケは再び宙を舞い、アイザックの手に渡った。

「あー、私、来月結婚するんです」

「うそっ? そんな気配、全然なかったのに?」

 エマイユは驚きの声をあげる。

 婚約してから早一年、エリアルドと進展がない原因がわかった気がした。燃えあがっているうちにゴールインしなかったせいか、今の関係に慣れすぎてしまっている。

「エリアルド、あたしに冷めたりしてない?」

「今夜、証明しようか? ウサギさんにも会いたいし、ね」

「ばか」

 照れ隠しにエマイユは恋人の頬を抓ってやった。

 

 

 

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