ロイヤルカルテット
第三話
クラン王女とエリアルドの婚約を正式に執りおこなう日がやってきた。今夜はそのためのパーティーが催される予定で、使用人らは朝から準備に追われている。
夕刻になって、エマイユはパーティー用のドレスを手に取った。
「もっと明るい色のほうが、よくないかしら」
用意されたのは、妖艶な紫色のドレス。デザイン自体はロリータ系の路線だが、バイオレットの色調がアダルティックな印象を醸しだしている。
「エマイユ様には白やピンクより、寒色系のほうがお似合いです」
「そんなふうに言われたの、お城に来てからよ?」
ドレスはまだよかった。それに合わせて着用しなければならない、同じ色合いの下着がとんでもない。サイドを紐で結ぶショーツなど初めてで、仰天してしまった。
これでは下着としての機能も疑わしい。
「ねえ、タチアナ。まさか……」
「念のためです。パーティーのあと、そういう流れにならないとも限りませんから」
大きなお世話よ、とエマイユは心の中でふてくされた。
エリアルドとの関係は良好とはいえ、そのような段階には至っていない。先日も庭園で会った時、お互いの気持ちがすれ違ってしまった。
「主役が遅刻するわけにもまいりません。早く着替えましょう」
「わかったわ。手伝って」
エマイユは『ウサギさん』のパンツを採用しつつ、腰のラインをコルセットで絞った。夜会向けのドレスは豪勢な作りのため、ドロワーズでスカートの膨らみを確保する。
次は頭から被るようにして、メインのドレスに身体を通す。デコルテによって胸元が強調されてしまうのが、未だに慣れず、恥ずかしい。
靴はダンスを見越して、比較的動きやすいミュールを履くことにした。
タチアナが残念そうに、第一候補だったハイヒールを仕舞い込む。
「こちらのほうがエリアルド様もお気に召すと思いますのに」
「転んだりして、迷惑掛けたくないの」
問題はウォーロックに貰った、例の指輪だった。外そうにも外せず、これでは同じ指に婚約指輪を嵌めることができない。
そのため『エリアルドからの贈り物』で誤魔化すしかなかった。指輪については、エリアルドにも口裏を合わせてもらっている。
ドレスアップの仕上げに、タチアナがヘアメイクに取り掛かった。慣れた手つきでエマイユの髪を梳き、まとめていく。
ドレッサーの鏡と向かい合いながら、エマイユは呟いた。
「いつもありがとうね、タチアナ」
「王女がメイドにお礼を言うものではありませんよ」
「ふたりの時くらい、いいでしょ? あたしはあなたのこと、友達って思ってるもの」
ヘアメイクは彼女に任せて、一息つく。
いきなり城に連れてこられて、混乱するしかなかったエマイユを、タチアナはかいがいしい働きで支えてくれた。主人の気持ちを汲むのも上手で、頼りになる。
だからこそエマイユは、仕事の関係以上に彼女を信頼していた。
「わたしはそんなふうには思っておりません」
ところが、タチアナはかぶりを振る。
押しつけがましいことを言ってしまったらしいと、エマイユはお茶を濁した。
「あ……ごめん。気に入らないところとか、あった?」
「ええ、たくさんありますね。まず、そういう八方美人なところが嫌いです」
タチアナの言葉は淡々として、感情の起伏が感じられない。
さすがにエマイユも苛々してきた。
「八方美人って……そんな言い方、ないでしょ?」
「美人でいらっしゃいますから、余計に腹立たしいんですよ。ですけど、何よりわたしが気に入らないのは、あなたがエリアルド様と恋人同士、ということです」
思いもよらない告白が、エマイユの思考を止める。
「あなた、もしかして彼のこと」
「動かないでください」
振り向こうとすると、頭をがっしりと押さえられた。エマイユのためのヘアメイクを続けながら、タチアナは平然と言ってのける。
「ご心配なく。エマイユ様の邪魔をするつもりはありませんので」
「で、でも……」
返す言葉が思い当たらず、黙るしかなかった。
エマイユとエリアルドのデートを、彼女はいつも傍で見守っている。顔にこそ出さないが、ずっと嫉妬していたのかもしれない。
そのことに気付かずにいた自分が、猛烈に恥ずかしくなった。
「エマイユ様にも、周囲を見る余裕はないようですし」
姉の企みを知りつつ、今もエマイユは誰に相談することなく、エリアルドを優先してしまっている。そういった余所余所しさを、一番傍の彼女が見逃すはずもなかった。
気まずい空気が漂う中、タチアナが口を開く。
「……意地悪が過ぎましたね。ですけど、ちゃんとエマイユ様のよいところも存じておりますから。クラン様よりは十倍、いえ百倍は素敵なお方です」
「それ、姉さんが知ったら怒るわよ」
「どうってことありません、あんなブス」
エマイユはげんなりとして、溜息を漏らす。
「……同じ顔してるあたしも、ブスってことにならない? 前から思ってたんだけど、あなた、口が悪すぎるわ」
「エリアルド様には内緒にしててくださいね」
張り詰めていた空気が和らいだ。
タチアナが引いてくれたことで、関係を破綻させずに済む。
「誠心誠意、応援いたしますから、愛人の座くらい許容していただければ、と」
「そんなことになったら、あたし、エリアルドを張っ倒しちゃうわ」
彼女のおかげでヘアスタイルも完璧に仕上がった。ブロンドの髪がいつにも増して流麗に波打ち、輝きを放つ。
「さあ、参りましょう。皆様がお待ちです」
「そうね。今夜は頑張らなくっちゃ」
エマイユはタチアナとともに部屋を出て、堀沿いの回廊を抜けていった。
今日の婚約で、クランとエリアルドの結婚も確定する。だが、本物のクランは離宮に身を隠し、影武者で済ませようとしている。
クランがエリアルドに冷たいのは、ほかにギュスターという恋人がいるため。それこそギュスターではない男性との婚約など、望むわけがない。
近いうちに姉は逃亡し、武装商船団のもとに身を寄せるつもりだろう。そのことを知っているのは、妹のエマイユだけ。これ以上は黙っていられなかった。
「タチアナ、パーティーが終わったら、アイザックと一緒に来てくれるかしら。姉さんのことで、あなたたちに話しておきたいことがあるの」
「了解しました。そのお顔から察するに、ただごとではないようですね」
「うん。エリアルドにも聞いてもらうわ」
タチアナが声のトーンを落とす。
「……正体を明かされますか、エリアルド様に」
彼女はクランの部下であって、エマイユの部下ではない。その視線も、口ぶりも、エマイユに自重を促しているように感じられた。
それでもエマイユは決意を込める。
「そのつもりよ」
沈黙のあと、タチアナは肩を竦めた。
「了解しました。アイザックにも伝えておきます」
「いいの?」
エマイユは拍子抜けしてしまい、疑問符を返す。
「残念ですが、わたしはエマイユ様の友人でもあるようですから。今夜のところは空気を読んで差しあげます」
「敵なのか、味方なのか、はっきりしてくれないわけ?」
掴みどころのないメイドの言い分に、主人の口元が引き攣った。
やがてパーティー会場へと到着する。クラン=フラムツォバが晴れ姿で登場すると、一同は総出の拍手で迎えた。
「姫様、ご婚約、おめでとうございます!」
「今夜のドレスもとてもお似合いでございますわ」
称賛を浴びながら、エマイユは右にも左にも会釈しつつ、一番奥の席へと向かう。
ダンスホールは目が眩みそうなほど煌びやかに彩られていた。中央をダンスのためのスペースとして、テーブルは壁際で等間隔に並んでいる。
キャンドルには火が灯され、格式の高いムーディーな空間を演出していた。
王国の名だたる紳士と淑女が一同に会し、挨拶ひとつにしても、優美な振る舞いを忘れない。市井出身のエマイユは気後れしそうになる。
「姫様? 緊張なさっておいでですか」
「あ、タチアナ。なあに?」
「わたしはそちらにおりますので、ご用の際は何なりとお申しつけください」
タチアナはエマイユに一礼し、メイドの列に加わった。パーティーの間はこうして主人の指示を待つものらしい。
すでにエリアルドは会場入りを果たし、恋人の到来を待ち侘びていた。傍まで来たエマイユの手を取り、紳士然としたエスコートを決める。
「クラン、今夜は一段と素敵だね」
「ありがとう、エリア……あ、ヒーニアスって呼んだほうがいい?」
「エリアルドで構わないさ。みんなも知ってる名前だし」
彼は恋人を見せつけるように抱き寄せながら、耳元で囁いた。
「でも、君のもうひとつの名前は、僕たちだけの秘密にしていよう。エマイユ」
名前を呼んでもらえただけで、胸がときめく。
エリアルドの前で『エマイユ』でいられることが、たまらなく嬉しかった。
ほかの貴族には千の言葉で称賛されたところで、何も感じないのに、エリアルドの声だと甘い刺激になる。
ふたりの婚約を、家臣らは好意的に受け止めている様子だった。
頑なにフィアンセに靡こうとしなかったクラン王女が、こうしてエリアルドと手を取りあい、フラムツォバ王国の未来を見据えている。
フラムツォバ王国では敬遠されがちだったエリアルドも、評価が見直され、貴族らの手厚い祝福を受けていた。
「ヒーニアス殿の凛々しさ、娘たちも噂しておりましたぞ」
「それは困るなあ。僕にはクランがいるからね」
可憐な令嬢たちはエリアルドを遠目に眺め、楽しそうに囁きあっている。
エリアルドの顔立ちは眉目秀麗として、赤い髪にも美しい艶があった。百七十センチをくだらない長身は、姿勢もよく、フラムツォバ風の正装が凛然と決まっている。
「今度わしらと一杯、いかがですかな? じじいだけではございますが」
「もちろん。後学のために、女性の失敗談なんかを聞かせてもらえると、助かるよ」
「ではヒーニアス殿にも話していただきませんとなあ? 姫様」
誠実な人柄でありながら、真面目一辺倒にはならないユーモアのセンスも持ちあわせており、皆に好かれた。メイドのタチアナが憧れるのもわかる。
国王もやってきて、娘たちの婚約を祝った。いつもの強面が若干緩む。
「はっはっは! 感無量とはこのことだ。娘をよろしく頼むぞ、ヒーニアス殿」
「はい。フラムツォバ王国のため粉骨砕身、力の限りを尽くします」
エリアルドはエマイユの肩に手をまわし、はにかんだ。
このまま『クラン』でいたくもなる。王女となってエリアルドと添い遂げる未来は、エマイユにとって誘惑的な魅力に満ち溢れていた。
ところが、祝杯ムードだったパーティー会場が急にざわつく。
「おい……あいつだ」
貴族たちは一様に声を潜め、不穏な空気が立ち込めた。その人物から全員が距離を取るせいで、花道のように中央が空く。
「お招きいただき、光栄だ。フラムツォバ国王陛下」
「ご、ご足労……感謝する。ギュスター=リューリック殿」
国王は屈辱を噛み殺しつつ、社交辞令を返した。
武装商船団の頭領ギュスター=リューリックの威容に、エマイユは目を見張る。
上質な革製のコートには張りがあり、裾の丈はくるぶしまであった。ゆとりのあるズボンは膝の位置で絞られ、ブーツの機能性を優先している。
金色の肩章は彼の地位の高さを示していた。襟元にはクラバットを結び、貴族風の体裁を整えてもいる。
「まさかご招待いただけるとは思わなかったよ。ククク……」
ギュスターは遠巻きの貴族らを一瞥し、鼻で笑った。
城の者にとって彼は、一ヶ月もの間、クラン王女を海上に拉致した張本人である。
それでもフラムツォバ王国には、今夜の宴にギュスターを招待しなければならない理由が、いくつかあった。
ひとつは、国際的な地位を持つギュスターを、第三者の立場で同席させることで、クランとエリアルドの婚約に正統性を持たせること。
もうひとつは、彼がクランを介してフラムツォバ王国に手出しできないよう、エリアルドとの婚約を見せつけるためだった。
ギュスターがエマイユのほうを向き、にじり寄ってくる。
「半年ぶりかな、クラン。お祝い申しあげよう」
「え、ええ……」
下手なことを言えず、エマイユは口を噤む。しかし腹の中は煮えくり返っていた。
目の前にいる男は、間違いなく両親の件に絡んでいる。今すぐ胸ぐらを掴みあげ、父と母の居場所を問いただしたい。
ウォーロックも『片方は海の上に』と言っていた。それが本当なら、武装商船団の船に乗っている可能性が高い。
怒りと悔しさを堪えきれず、エマイユの肩がわなわなと震えた。
それを感じ取ったらしいエリアルドが、前に歩み出る。
「お初にお目に掛かる。僕の名はヒーニアス=イズルード。君の活躍は聞いてるよ」
「こちらこそ存じあげているとも、ヒーニアス。俺のことも気軽に呼んでくれ」
エリアルドの気さくな自己紹介に、ギュスターが少し柔らかくなった。
「貴公とは長い付き合いになりそうだ」
「同感だよ、ギュスター」
ふたりの握手が、会場の張り詰めた空気を払拭する。
ここで国王や家臣がギュスターと敵対しても、墓穴を掘る真似にしかならなかった。おそらくエリアルドは自ら緩衝材となって、場を和ませようとしている。
「おっと、すまない。挨拶にまわりたいのでな」
「仕事熱心だね。あとでゆっくり話そう」
ギュスターは挑発的な顔でにやつくと、エマイユたちから離れていった。
エリアルドが小声でエマイユにだけ聞かせる。
「やっぱりあのひとが怖いんだね」
クラン王女が以前ギュスターに誘拐されたことは、エリアルドも知っていた。表向きは友好的に振舞っていたが、その実、エマイユ以上に怒り心頭に違いない。
「僕が守るよ、必ず」
「うん」
エマイユはギュスターを視界の枠から外し、パーティーを楽しむことにした。
面子が揃ったところで、国王が婚約の儀を執りおこなう。婚約指輪はすでにエマイユの薬指にあり、その輝きをかざすと、拍手喝さいが巻き起こった。
エリアルドが高らかに締め括る。
「みなさん、今宵はフラムツォバの繁栄を願って、踊り明かしましょう!」
楽隊の中央で指揮棒が振りおろされると、風雅なワルツが始まった。エマイユとエリアルドはいの一番に飛び出し、ドレスのスカートを旋回させる。
ワルツなど、まともに踊れる自信はなかった。昨日もタチアナと小一時間ほど練習しただけで、エマイユの足取りはどうしても拙い。
「大丈夫だよ。僕に合わせてごらん」
初っ端からリズムを踏み外したエマイユを、エリアルドは巧みにフォローしてくれた。なるべく簡単な動きをスローで繰り返し、エマイユのステップを導く。
「こうかしら?」
「うん。上手だ、その調子で」
リズムのついた動きにも慣れ、エマイユは顔をあげた。エリアルドは微笑みながら、恋人の肩と背中に手を添え、ダンスに緩やかな波をつける。
彼の顔には疑惑も疑念もなかった。
「ワルツは初めてなんだね」
「そ、それは……」
「いいんだよ。無理に誤魔化さなくても」
エマイユを見詰め、満ち足りた表情ではにかむ。
王女がワルツのひとつやふたつ、踊れないわけがなかった。それでも彼は、王女らしくない目の前のエマイユを、ありのまま受け入れようとしている。
「パーティーが終わったら、すべてを話すわ。あなたに」
「……わかった。聞かせてもらうよ」
これまでの罪を、彼に懺悔する時が来た。
その告白はエリアルドの、クラン王女への愛を裏切ることになるかもしれない。恋人が正統な王女ではない事実は、少なからずエリアルドの矜持に傷をつけるだろう。
けれども、優しい彼なら許してくれる気がした。
「また君の歌が聴きたいな」
「いいわよ。ここでだって、歌ってあげる」
見詰めあっているだけで、胸が熱い。口を開くと、エリアルドへの想いが一気に溢れてしまいそうになる。
やがて一曲目のワルツは余韻を残しつつ、幕を閉じた。しかしエマイユはダンスをやめず、エリアルドの手を引いて、定番の童謡を歌いだす。
貴族らは驚いたものの、すぐに手拍子を取った。
「おぉ! 美しい歌声ですなあ」
「姫様があんなに楽しそうに……うふふっ」
エリアルドもエマイユに合わせ、弾むようにステップを踏む。
楽隊も楽しげにメロディを奏でた。
夢みたいだわ……!
エマイユはエリアルドと一緒に手を繋いで、まわって、はしゃぐ。
歌い終わると、盛大な拍手が起こった。貴族らが笑みを浮かべ、エマイユたちふたりの即興を口々に褒め称える。
「素晴らしい! なんと華やかなダンスでございましょうか」
「ヒーニアス様のリードも、さすがでしてよ」
エマイユも満面の笑みで拍手に応じた。そんな恋人のあどけないさまを見て、エリアルドが穏やかにはにかむ。
「君は最高だよ、エマイユ」
「あなたも素敵だったわ、エリアルド」
休憩を挟むことにして、ふたりはダンスのエリアから外れた。通りがけの給仕係に手頃なドリンクを注文し、一息つく。
エリアルドは会場を見渡し、急に険しい表情になった。
「……ん? ギュスターはどこに行ったんだ?」
輝かしいパーティー会場をぐるりと眺め、エマイユも気付く。
「いないわ。あのひと」
パーティーの最中に席を外すことくらい、誰にでもあることだった。しかしギュスターとなっては、何やら悪い予感がしてならない。
ガシャーン!
いきなり会場の窓が割れ、ガラス片が散乱した。絹を裂くような金切り声が響く。
「きゃあああっ! 狼よ、狼の群れだわ!」
割れた窓から続々と、黒い狼が躍り込んできた。統制の取れた動きで散開し、手当たり次第、貴族たちに襲い掛かる。
「エマイユ、こっちへ!」
「え、ええ!」
咄嗟にエリアルドがエマイユの手を引き、駆けだした。
その後方を守るべく、警備に当たっていた騎士団が陣形を組む。団長のアイザックは剣を抜くと、怒号のような大声で号令を発した。
「クラン様とヒーニアス様をお守りしろ! これ以上の侵入を許すな!」
狼の群れと騎士団が真っ向から激突する。
瞬く間にパーティー会場は混乱に陥った。テーブルクロスは引き裂かれ、キャンドルの炎が燃え移ってしまう。
扉のほうからも狼がなだれ込んできた。
何が起こってるの……?
エリアルドに庇われながら、エマイユは息を呑む。
冷や汗のせいか、背中にぞっと寒気が来た。さっきまでの祝杯ムードは、一転してパニックとなり、獣の咆哮と貴族らの悲鳴がごちゃ混ぜになっている。
暴れまわっているのは、ただの狼でもなかった。魔物と呼べるサイズで、爪や牙もより鋭利なものを有している。
「エリアルド、おかしいわ。フラムツォバの魔物はおとなしいはずなのに」
「まさか……じゃあ、これは人為的な状況だって言うのかい?」
「多分。誰かが操ってるのかも――」
そう言いかけて、エマイユはウォーロックの言葉を思いだした。
『その力を持ってすれば、秩序に組する者を、思うままに使役できよう』
フランの血を引く者は、下僕に当たるものを使役、つまり命令で動かすことができる。エマイユ自身、これまでに暴れ馬などを簡単に手懐けたことがあった。
確かクランは夜間に伝書鳩を飛ばしていたはず。しかし鳩は夜行性ではない。
ひょっとして、姉さんが……?
エマイユの左手では例の指輪が無言で輝いていた。これを使えば、動物だけでなく魔物さえ操ることができるのかもしれないが、俄かには信じ難い。
だが、その推測は否定しきれなかった。これと同じ指輪をクランも持っていて、今まさに力を行使している可能性はある。
お願い、指輪よ!
エマイユは強く念じながら、指輪を魔物の群れへと向けた。すると狼たちの動きにぶれが生じ始め、隙ができたような気がする。
「エリアルドはここにいて。国王陛……お父様をお願い」
「エマイユ? よせ、危険だ!」
エリアルドの制止も振りきって、エマイユは会場を飛びだした。重たいスカートでも強引に駆け、回廊の手すりを飛び越え、庭園に直行する。
指輪の力が働いているのか、魔物がエマイユに迫ってくることはなかった。
「エマィ……姫様、お待ちください!」
「タチアナ? よかった、あなたはアイザックを呼んできて」
エマイユは離宮を目指しながら、追ってきたタチアナに指示を出す。
「姉さんは今夜、城を出て海に逃げるつもりよ。時間がないわ、急いで!」
「クラン様が? ……ただちにアイザックに伝えます!」
彼女は一瞬のうちに状況を判断し、エマイユと別行動を取った。
クラン王女はギュスターとともにフラムツォバ王国を脱出しようとしている。例の伝書鳩は、その段取りを連絡しあっていたものに違いない。
早く姉さんを止めなきゃ!
今夜はやけに月が明るいおかげで、本殿を離れても充分、道が見えた。庭園の迷路へと入り、いつもと同じルートを辿っていく。
ところが迷路の形が変わっていた。
「あれ? はあっ、こっちで行けるはずなのに」
右折したいところで左折しかできず、行き止まりに何回もぶつかる。
城のほうからはまだ悲鳴や物音が聞こえてきた。その一方で迷路は不気味なほど静まり返っており、エマイユの息遣いだけが大きい。
しばらく走っていると、迷路の途中で開けた場所に出た。中央では円形の噴水がしぶきをあげ、黄金色の月光を散らしつつ、せせらぎを奏でている。
その縁に腰を掛けている女性が、エマイユに気付いた。
「来てくれたのね、ギュ……」
振り向いたその顔は、エマイユと同じ。立ちあがった拍子に、淡いピンク色のドレスがスカートをふわりと波打たせる。
クランは絶句し、エマイユが待ち人ではなかったことに眉を顰めた。
「どうしてあなたがここにいるの? 今夜は婚約パーティーに出てるはずよ」
彼女の左手で、フランの指輪が禍々しい輝きを放つ。
「クラン様、それは」
「っ! ……まさか、あなたも?」
妹の手にある指輪に、クランのほうも驚きを隠さなかった。
エマイユは姉の愚行と暴挙に確信を持つ。やはりギュスターと結託し、今夜のうちに逃亡するつもりだったらしい。おそらく庭園の迷宮にも細工が施されていた。
「ギュスターのことが好きなんですか? 姉さんは」
「馴れ馴れしく『姉さん』だなんて呼ばないで。あなたには関係のないことよ」
クランの高慢で素っ気ない態度に、エマイユは苛立つ。
「関係あります! あたしはあなたの身代わりになってるんですから」
語気を強めると、クランも口を尖らせた。
「……構わないでしょう? わたくしは海に出て、自由を得る。あなたは王女となって、富を得る。ヒーニアスのことも好きにすればいじゃないの」
その物言いが一国の王女にしては、あまりに幼稚で、失望させられてしまう。
パン屋の娘だった頃、確かにエマイユは今よりも自由だった。使用人や騎士につきまとわれることはなく、結婚の相手を強引に決められることもない。暖かい家族や親しい隣人に囲まれて、幸せな時間だったことを、今になって痛感している。
しかし自由な暮らしのためには、誰しも働かなければならなかった。両親の庇護があっても、年頃になれば、家業の手伝いくらいはするようになる。エマイユも日中はパン屋の配達を受け持ち、走りまわっていた。
そのことをクラン王女はまったく理解できていない。
「城を出たら、二度とそんなドレスを着ることもできないんですよ? ギュスターはどうか知りませんが、あたしは、あなたが海で生きていけるとは思えません」
「海の生活なら、もう経験済みよ。問題ないわ」
だが妹が何と言ったところで、姉は聞く耳を持たなかった。
何者かの気配が姉妹の口論に割り込む。
「エ、エマイユ……?」
ぎくりとして振り向くと、パーティー会場にいるはずのエリアルドと目が合った。恋人を追って、ここまで迷宮を突破してきたらしい。右手の剣は魔物の血で汚れている。
「なぜ君がふたりいるんだ? ……エマイユ、君は一体……?」
エリアルドは驚愕し、両目とも強張らせた。
クランが妹を睨んで舌打ちする。
「どうしてあいつが、あなたの名前を知ってるのよ? しゃべったわね?」
愛する彼に疑惑の視線を向けられ、エマイユは唇を噛んだ。
真実を打ち明ける時が早まっただけ。覚悟ならとっくにできている。それでもエリアルドを前にすると、不安と恐怖で震えを禁じえなかった。
「クックック……お揃いのようだな」
別の道から、もうひとりの男が現れ、吸いかけの煙草を放り捨てる。
「……あなたは」
「そう睨んでくれるな。確か……エマイユだったか」
ギュスターは酷薄な笑みを浮かべつつ、エマイユ、クラン、エリアルドを一瞥した。そしてエリアルドを見据え、真相を明かす。
「お前は知らなかったと見えるな。まあ、見ての通りだ。クラン王女には双子の妹がいたのだよ。赤子の時分に城から追いだされた、エマイユという名の妹が、な」
「なんだって?」
エリアルドは同じ顔つきの姉妹を見比べ、慄然とした。
背徳を暴かれ、エマイユはスカートをぎゅっと握り締める。
とうとう彼に知られてしまった。今の今まで彼を騙し、彼の好意を欲しいままにしてきたことを、エリアルドの前で晒される。
「ばかな、クランに妹がいるなんて、誰も……」
「イズルード帝国がフラムツォバ王国にまんまと欺かれた、というわけだ。そういえば、クランが俺に誘拐された件も、お前には秘匿されていたんじゃないか?」
ギュスターの言葉はすべてが真実で、エリアルドにとって最大の侮辱となった。
種馬として迎えられたうえ、王女の偽者をあてがわれたのだから、彼が名誉のために戦争を始めてもおかしくない。イズルード帝国も開戦を望むだろう。
今になってクラン王女が青ざめた。自分の企みがフラムツォバ王国を窮地に追い込むとまでは、考えが及ばなかったらしい。
「そ、そうはならないわ。ヒーニアスとエマイユが結婚すれば、済む話でしょう?」
それを辛辣に窘めたのは、迎えに来たはずのギュスターだった。
「甘いな。お前は男というものを軽んじ、辱めた。一国の王子を相手に、だ。……まあ依頼はこなしてやる。あとは自分で考えるんだな」
その手が強引に、クランではなくエマイユを引いていく。
「ち、ちょっと? あたしは」
「黙ってろ。舌を噛んでも知らんぞ」
ギュスターはエマイユを軽々と抱え、駆けだした。
クランとエリアルドは虚を突かれ、次の行動が遅れてしまう。
「ギュスター? 待ちなさい! わたくしはこっちよ!」
「ま、待て! まだ話は終わっていない!」
エマイユはギュスターの肩をよじ登るようにして、必死に手を伸ばした。
「助けて、エリアルド!」
「エマイユーッ!」
エリアルドも手を伸ばし、エマイユの名を切に呼ぶ。
しかしギュスターは止まらなかった。疾風のごとく迷宮を駆け抜けていく。
堀に降りたところで、エマイユはボートに乗せられた。猿ぐつわを嵌められたせいで、まともに声を出すこともできない。
「頭領! 連中が魔物に気を取られてるうちに」
「わかっている。いくぞ」
ギュスターの部下も合流し、城からエマイユを運び去る。
……助けて! 助けて、エリアルド!
いくら願っても、彼は来てくれなかった。ボートがエマイユを乗せて動きだす。
エリアルドぉ!
闇夜の中、エマイユの慟哭は誰にも届くことなく、消えていった。
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