ロイヤルカルテット
第二話
城下町の中心に、フラムツォバの王城が聳え立つ。その壮麗な姿は、築百年を経ても色褪せることなく、王国の歴史を体現していた。
砦としての機能は低いが、華やかさでは東西の大国にもひけを取らない。
四方を堀で囲まれており、日中の間は、正門である南方に跳ね橋が掛かった。荷馬車や騎士隊が物々しい様子で行き来する。
エマイユはアイザックとともに、昨夜のうちに堀からボートで城に入った。離宮の一室へと案内され、そこで目が覚めてから、、かれこれ二時間は待たされている。
部屋はひとりで使うには広く、豪奢な作りだった。上質の絨毯が足音をかき消す。
アンティーク風のドレッサーには、高価に違いない化粧品やアクセサリが並べられていた。ベッドは天蓋つきの一品で、枕元にはランプまで備わっている。
大きな窓には厚めのカーテンが掛かっていた。向こうはベランダのようだが、アイザックから『出ないように』と釘を刺されている。
テーブルの上には朝食として、トーストとミルクが用意されてあった。それなりにお腹は減っていたが、不安で胸がいっぱいのせいで、齧る程度にしか食べていない。
アイザックさん、まだかしら……。
壁の時計は朝の十時過ぎを指していた。
やがて数人分の足音が近づいてきて、扉が開く。
「お待たせてしまって、申し訳ありません、エマイユ様」
騎士団長のアイザックと、メイドがひとり。
それから最後に入ってきた人物の顔に、エマイユは驚愕した。
「……あ、あなた、は……?」
目の前にもうひとり『自分』がいる。ブロンドの髪も、碧色の瞳も、少し丸みのある顔つきも、エマイユと瓜二つ。姿見が運ばれてきたのではない、らしい。
彼女は純白のドレスをまとい、ピンク色のラインでアクセントをつけていた。額には銀製のティアラを嵌めている。
向こうもエマイユの顔立ちに目を見張った。
「本当にそっくりね。これが、わたくしの妹……」
「い、いもうと?」
アイザックが間に立って、エマイユに彼女を紹介する。
「驚かれるのも無理はありません。このお方はフラムツォバ王国の王女、クラン=フラムツォバ様。エマイユ様……あなた様の、双子のお姉様でいらっしゃいます」
突拍子もない事実を突きつけられ、エマイユは唖然とした。
双子の姉など聞いたことがない。自分はクレハ夫妻のもとに生まれ、十七年間、パン屋の娘として生きてきた。
「まだ説明してなかったの? アイザック」
「姫様とお会いになってからのほうが、よろしいかと……」
クラン王女が前に出て、エマイユの顔を覗き込む。
「初めまして、妹」
「あ、はい。……初めまして」
無遠慮な視線は、さらにエマイユを脳天から爪先まで、まじまじと観察した。服の違いはあれ、細身の体型もほとんど変わらない。
「あなたの本当の名前は、エマイユ=フラムツォバよ」
「フラムツォバ……」
自分の名前に国名がつくことには、違和感しかなかった。困惑するのもエマイユばかりで、クランのほうは平然と落ち着きを払っている。
「説明してあげなさい、アイザック」
アイザックは敬礼すると、エマイユに事の真相を明かし始めた。
フラムツォバの王家に双子の女子が生まれたのは、十七年前。しかし古くより『双子』は、国が割れる兆候として権力者に忌み嫌われていた。
そこで双子の片割れを秘匿し、城から追放することになった。その際に赤子の世話役を買って出たのが、当時騎士団に所属していた、クレハ団長だったという。
「知りませんでした。お父さんが、騎士だったなんて……」
「クレハ殿は私の父の友人でもあります。海賊に後れを取るはずがありません」
だが、今になってエマイユは城へと呼び戻された。この動きを知ってか、武装商船団は先んじてエマイユを狙ったらしい。
「どうして海賊……商船団が、そんなことを?」
エマイユが首を傾げると、クランが淡々と語った。
「武装商船団がフラムツォバに目をつけたんでしょうね。王女が本当はふたりいることが発覚するだけでも、フラムツォバにとっては大きな危機になるわ」
フラムツォバ王家は直系の男子に恵まれず、王を継承できる者がいない。そのため、王女の配偶者が将来的に国王に就くことが予想されていた。すでに大国から、婚約者として王子が派遣されてもいる。
クランはエマイユを見詰め、不敵に微笑んだ。
「あなたにはしばらく、わたくしの代わりを務めて欲しいの」
「代わり……ですか?」
「そう、このクラン=フラムツォバとして、お城で生活するのよ。わたくしと同じ顔だもの、それほど難しいことじゃないわ」
思いもよらない話に、エマイユは戸惑う。
顔が同じとはいえ、クラン王女の真似事などできるはずがなかった。もし入れ替わっていることが発覚すれば、それこそ大騒ぎになってしまう。
しかし『できません』と拒否できる相手でもなかった。クランのまなざしはエマイユを妹ではなく、部下としてしか見ておらず、冷たい。
「タチアナ、この子をフォローなさい」
「かしこまりました」
脇に控えていたメイドが、スカートを少しだけ持ちあげ、会釈した。
「タチアナと申します。エマイユ様、お見知りおきを」
「とりあえずタチアナの言う通りにしていれば、問題ないわ。お昼までには身なりくらい整えて、わたくしのふりを始めなさい。細かい命令はアイザックに届けさせるわ」
クランは早々に踵を返し、去ろうとする。
「ま、待ってください! クラン様」
「……何かしら?」
呼び止めたものの、エマイユには言葉が浮かばなかった。
どうして王女のふりなんてさせるんですか、お父さんとお母さんを探してください、など、言いたいことは山とある。けれども、蛇に睨まれた蛙のように動けない。
エマイユに代わって、アイザックが進言してくれた。
「姫様、エマイユ様はまだ混乱なさっておいでです。ただちに姫様の代わりがお務まりになるとも思えません。せめて一週間、エマイユ様に猶予をお与えください」
「相変わらず生意気ね、あなたは」
王女の溜息は妙に悩ましい。
「わかったわ。あの男も国に帰ってることだし、一週間あげる。その間にわたくしの真似が完璧にできるよう、しっかり教育しておきなさい、タチアナ」
「……かしこまりました」
タチアナの礼に目もくれず、クランはすたすたと退室していった。アイザック、タチアナ、そしてエマイユの三人が部屋に残される。
タチアナは横目でアイザックをじとっと睨んだ。メイドの割に遠慮がない。
「わたしの仕事が増えてしまったではありませんか、アイザック様」
「悪いとは思ったさ。とにかく今日から一週間、頼むぞ」
アイザックは片膝をつき、エマイユに敬意を表した。
「エマイユ様、重ね重ね申し訳ございません。ですが、姫様……クラン様はフラムツォバ王国を立てなおすため、エマイユ様のお力を必要となさっているのです」
エマイユの手を取り、忠誠の口づけを捧げる。
「ア、アイザックさん? 顔をあげてください、あたしは」
「ふっ。こういう挨拶にも慣れていただきませんと」
慌てふためくエマイユを見て、タチアナは他人事みたいに呆れていた。
☆
城での生活が始まり、早一週間が過ぎた。当初は不安しかなかったが、それなりにクラン=フラムツォバの真似に慣れつつある。
アイザックが両親の捜索を固く約束し、毎日のように情報を伝えてくれるおかげで、少しは気が楽になった。その信憑性は別にしても、味方がいるのは心強い。
エマイユが城にいるのを知っているのは、アイザックを始めとする一部の騎士のほか、タチアナだけ。なぜクランがエマイユに身代わりを命じたのかは、わからない。
クランの婚約者に実権を奪われるのは時間の問題であるため、もうひとり王女を立て、権力を分散させるのが狙いなのかもしれなかった。
それでも、エマイユがクランと入れ替わる理由としては、まだ弱い。
タチアナはエマイユに二十四時間体制で付き従っていた。今朝も彼女にドレスの着付けを手伝ってもらう。
今日もコルセットをきつめに絞められた。
「も、もうちょっと緩めてくれない?」
「何をおっしゃいます。確かにエマイユ様ほど括れていれば、コルセットなんて必要ありませんけど、様式美というものがございますから」
「いらないんなら、外したっていいでしょ? い、痛い痛いっ!」
次はパニエを穿いて、ドレスの基本となるプロポーションを整える。
そのうえで黒のドレスをまとうと、スカートが自然と膨らんだ。背中の紐をタチアナに結んでもらいながら、エマイユは手前のラインを確かめる。
デコルテのため、胸元は大胆に開けていた。
切れ込みの入ったアームカバーをつけ、踵の高いミュールを履く。
しかし仕上げはこれからだった。ドレッサーの前に座って、髪を梳いてもらう。
「綺麗な色ですね」
タチアナの感想は淡々としていた。
エマイユはじっとして、毛先まで櫛が通されるのを待つ。
ブロンドの髪をストレートに降ろしたら、漆黒のバラの髪飾りをワンポイントに。
額に銀のティアラを当てると、クラン=フラムツォバの姿となった。タチアナが王女の表情を念入りにチェックする。
「もう少し仏頂面にできませんか? 興味ないワって感じです」
「お姫様のことを仏頂面って、あなたね……」
クランは白やピンクを好むのに、エマイユには黒や紫のドレスばかり用意されていた。見た目に大きな差異をつけておくことで、些細な違いを誤魔化す狙いがあるらしい。
この一週間でエマイユは、一通りの礼儀作法や貴族の常識を身につけた。今日から本格的に『クラン=フラムツォバ』として生活していくことになる。
「ヒーニアス様も昨日からお戻りになってますし。失礼のないようにお願いします」
「えぇと……あっ、クラン様の婚約者っていう?」
「準備はできたの?」
本物のクラン=フラムツォバが、アイザックとともにやってきた。エマイユのドレス姿を眺め、満足そうに頷く。
「……ふぅん、なかなか上出来じゃないの」
そうかなあ……。
エマイユには、王女のお眼鏡に適うほど美麗なつもりはない。しかし本物のお墨付きが貰えたことで、踏ん切りはついた。
「これなら大丈夫だわ。あなたは今日から、わたくしの部屋で暮らしなさい」
ここは離宮であって、王宮の本殿からは隔離されている。かつては国王や王子が美しい女性を集め、ハーレムを作っていたこともあるとか。
「お城の上のほう、ですか?」
「そうよ。アイザック、タチアナ、案内してあげなさい」
クランは無造作に靴を脱ぎ、ベッドにぼすっと腰を降ろした。本物のほうはここで生活するつもりらしい。
「それでは行ってきます、クラン様」
「その名前で呼ばれたら、あなたが返事をするのよ」
エマイユはぺこりと頭をさげ、アイザック、タチアナらと一緒に部屋を出た。
離宮と本殿を行き来するには、庭園の迷路を決められたルートで抜けなければならない。そのルートを進みながら、タチアナがぼやいた。
「わかりましたよ、姫様の目的が」
「本当に?」
「はい。おそらくエマイユ様に王女の仕事を押しつけて、ご本人は離宮で遊び暮らすおつもりなのです。はあ……なんとうらやま、いえ、嘆かわしいことでしょう」
馬鹿馬鹿しい冗談ぶりに、アイザックがげんなりする。
「そうであれば、どれだけよかったか……正直、私にも姫様のお考えはわかりません。昔から掴みどころのないお方でしたが……」
「いいの、アイザック」
王女の批判を始めかねないアイザックを、エマイユはやんわりと制した。練習の甲斐あって、アイザックにも目上の王女らしく振舞える。
「こんなことになっちゃったけど、頼りにしてるわ。もちろん、タチアナもね」
「クラン様ご本人より接しやすいので、わたくしも助かってますよ」
これまでに失ったものは多かった。両親は行方不明となり、港町にも帰れない。きっと今頃、親友のジーナは心配してくれている。
それでも、ここでアイザックやタチアナという新しい友人に出会えた。
何より双子の姉、クランに会えた。
あのひとがあたしの、お姉ちゃん……だもんね。
まだ打ち解けてもいないが、血を分けた姉のためなら、一肌脱ぐくらいの覚悟はある。
エマイユは王宮の本殿へと入り、幅の広い階段を昇っていった。
王城は地上六階建てで、尖塔はさらに上へと伸びている。その六階の一室が、クラン王女のプライベートルームだった。
一歩踏み込んで、エマイユは呆気に取られる。
「……………」
お姫様の部屋にしては、随分と散らかっていた。ドレッサーでは化粧品が散乱し、ドレスも脱ぎっ放し。ベッドの天蓋にはブラジャーが引っかかっている始末。
アイザックは目を覆い、入室さえ拒んだ。
「で、では、案内はいたしましたので、私はこれで……」
タチアナは飄々と室内を一瞥し、吐き捨てる。
「あ~、きったねえ」
「ちょっと、タチアナ? 思っててもそういうのは」
「あの方なりの反抗なんですよ、きっと。お城の生活が窮屈でならないようでして」
口の悪いメイドだが、フォローもあった。しかし今日からエマイユがこの部屋を使うというのに、何の段取りもできていない。
「掃除しましょ、タチアナ」
エマイユは腹を決め、ぱんっと両手を合わせた。
いくら立ち入る人間が限られているとはいえ、一国の王女の生活空間が散らかし放題ではまずい。タチアナと協力して、目についたところから片付けを始める。
「下着なんかは、あたしのと交換しないとね」
「おっしゃる通りですよ。ほんとにもう」
ドレス姿では細かい作業がしづらかった。できることなら、メイドのタチアナと同じ給仕服に着替えたい。
とりあえず服をクローゼットに、化粧品をドレッサーに収納するだけでも、空間が広くなった。やがてお昼になり、正午の鐘が鳴り響く。
「そうそう、エマイユ様。食事の際にトマトが出てきたら、必ず残してください。姫様はあの赤い野菜を一切、お召しあがりになりませんので」
「……美味しいのに」
昼食はタチアナが部屋まで運んできた。
本日のメニューはサンドイッチ。これまで離宮でエマイユが食べていたものと、さほど変わらず、見るからに栄養価が高い。パン生地と具材も黄金比で食べやすかった。
「お茶もどうぞ」
「ありがと。タチアナは食べないの?」
「わたしはあとで済ませますので、お気になさらずに」
味がわかるのは、元気が出てきた証拠かもしれない。王女との交換生活に、食が進むくらいには前向きになっている。
昼食後も部屋の片付けを続け、ようやく一通りの作業が終わった。
「えーと……タチアナ、次は何をすればいいの?」
「本日は特に予定もございませんが、お夕飯は国王陛下とご一緒していただきます」
フラムツォバ国王は紛れもなくクランの父親に当たる。それは同時に、エマイユの実の父であることも意味した。王妃は双子を出産後、間もなく亡くなったらしい。
あたしの本当のお父さん、か……。
今まで当たり前のように一緒だったクレハ夫妻が、遠のいていく。
ふたりはエマイユを本当の娘として可愛がってくれていた。しかし、本当は彼らの娘ではなかったという事実が、思い出を物悲しいセピア色に染める。
目の前の光景が、今のエマイユにとって現実だった。
「お城を一周してみてはどうでしょう?」
「そうね。まだほとんど歩いたことがないし」
メイドと午後のスケジュールを相談していると、ノックの音がする。
「わたくしが応対いたします。エマ……クラン様は、じっとしていてください」
タチアナはエマイユに目配せしてから、慎重にドアを開け、来客に応じた。一旦廊下に出て、誰かと挨拶を交わす。
「いらっしゃいませ、ヒーニアス様」
「こんにちは、タチアナ。……彼女はいるかい?」
クランの婚約者、ヒーニアスが来たらしい。
ヒーニアスという男は西の大国『イズルード帝国』の第三王子で、第六位の帝位継承権を有していた。フラムツォバ王国への婿入りは、彼にとって『左遷』に近い。
本人も帝国では活躍の機会がないため、フラムツォバでの権限の拡大を図っているようだった。クラン王女のもとにも足しげく通っているという。
誤魔化せるかしら、あたし……。
クラン=フラムツォバを演じる、最初のステージとなった。エマイユはごくりと息を呑んで、タチアナを待つ。
「姫様、ヒーニアス様をお招きしても、よろしいでしょうか?」
「構わないわ。お通しして」
廊下のほうで男性の声が弾んだ。
「本当かい? 今日は会ってくれるんだね、嬉しいよ」
タチアナに導かれ、ひとりの紳士が花束を持って現れる。その顔にエマイユはあっと声を上げてしまった。
「エリアルド? どうしてここに……」
そこまで言ってから、慌てて両手で口を塞ぐ。
ま、まさか……ええっ?
目の前の彼こそ、ハロウィン祭で出会った赤髪の吟遊詩人に違いなかった。今日は貴族然とした正装のスタイルで、腰にレイピアを差している。
「おや? そんなに驚くことかな。イズルードからは昨日、帰ってきたんだよ」
「そ、そうだったの……ごめんなさい、大きな声出しちゃって」
エマイユは頬を染め、感激した。正体を偽っていることも忘れそうになる。
本当にエリアルドなんだわ!
どこの誰とも知れなかった吟遊詩人と、こうして再会を果たせた。運命じみたものさえ感じ、舞いあがってしまう。
「あら、でも……お名前は『ヒーニアス』じゃ?」
「エリアルドっていうのは、幼名でね。親しい友人にはそう呼んでもらってるんだ」
タチアナがびゅっと手を挙げた。
「わたしもそうお呼びしてよろしいでしょうか? ヒーニアス様」
「もちろんだよ。改めてよろしく、タチアナ」
エリアルドが膝をつき、パンジーでいっぱいの花束をエマイユに差しだす。
「どうぞ、我が姫君」
「あ、ありがとう。飾らせてもらうわ」
パンジーの花言葉は『私を想ってください』。上流階級ならではの気障な口説きぶりに、エマイユは少し気後れしてしまった。
「すごく綺麗ね」
それでもエリアルドからの贈り物だと思うと、嬉しい。
パンジーを花瓶に移すのは、メイドのタチアナが引き受けた。
「姫様、エリアルド様とご散歩されてはいかがです? いい天気ですよ」
エマイユは二つ返事で決める。
「いいわね! 行きましょう、エリアルド」
「じゃあ、ご一緒させてもらおうかな」
エリアルドも乗り気で、にこやかに応じてくれた。
エリアルドとふたりで部屋を出て、王宮を適当に歩きまわってみる。
地図は頭に入っていたが、どこがデートコースに相応しいのか、わからなかった。とりあえず中庭に出て、池のあたりをうろつく。
エリアルドの機嫌は上々。よほどクラン王女に惚れ込んでいるらしく、視線が熱い。
反面、エマイユは少しずつ事情を理解し、俯きがちになった。
あたしのことが好きってわけじゃ、ないのよね……。
エリアルドはクラン王女の婚約者であって、クラン王女に好意を向けている。そこにはフラムツォバ王国の実権をものにしたい、という意図もあるのかもしれない。
城の中庭ではほかに貴婦人のグループも談笑していた。エマイユたちを見つけ、何やら興味津々に囁きあっている。
……あれって、馬鹿にされてない?
訝しむような表情といい、陰口を叩いている雰囲気だった。
エリアルドがマントで彼女らの視線を遮りつつ、エマイユを包み込む。
「ふふっ、僕が滑稽で、おかしいんだろうさ」
「どういうこと?」
「この国でのしあがらない限り、僕は一生、帝国のお荷物だ。そうならないために、君にこうして尻尾を振ってるわけだからね」
自嘲の言葉をまくしたてながら、彼は爽やかに笑った。
フラムツォバ王国でも彼の評価は低い。クラン王女が跡継ぎを産むための『種馬』扱いされているようで、男性にとっては最大級の屈辱に違いなかった。
それでもエリアルドの瞳は愛しの王女を映し込む。
「前は我慢ならない時もあったけど……本当の君に会って、どうでもよくなったよ」
一方のエマイユは気恥ずかしくなって、顔を背けてしまう。
「本当の……あたし、って?」
「君だって、わかってるくせに。町のハロウィン祭で一緒に踊ったじゃないか」
彼の言葉に偽者の王女ははっとした。
ハロウィンの夜、一緒に歌ったり踊ったりしたのは、目の前のエリアルド。けれども彼は、相手がエマイユと知らず、クラン王女だと思い込んでいる。
「お城のパーティーで笑われるのが癪でね。君を誘って、少し足を伸ばしてみたんだ。まさか、君が先に来てくれてるとは思わなかったけど」
エマイユはぼろを出さないよう、話を合わせた。
「こ、婚約者のあなたに誘われたんだから、当然でしょ?」
「今までそんな素振りなかったじゃないか。花を持っていっても、受け取ってもらえないし……それこそ、あの夜みたいに笑いかけてくれることなんて、一度も……」
エリアルドは悲しそうに視線を落とす。
おそらくクラン王女はエリアルドを煙たがっていた。政略結婚を押しつけられ、面白くなかったのは想像に難くない。
「ごめんなさい、その……冷たく当たったりして」
あてずっぽうでクラン王女のふりをしてみると、エリアルドが顔をあげた。
「僕のほうこそ、ごめん。君を責めるつもりはなかったんだ」
エマイユの手を取り、真剣なまなざしを向けてくる。
「正直に言うよ。僕は、君に心を奪われた」
突然の告白にエマイユはあとずさる。
「ちょっと、エリアルド?」
「聞いてくれ」
しかしそれ以上に踏み込まれ、顔が近くなった。
「子どもたちと遊んでいる君を見て、あの歌声を聴いて……気持ちがとても楽になったんだ。政略結婚だって構わない。本当の君に出会えて、世界が変わったよ」
ありったけの愛の囁きに、エマイユのほうも胸を高鳴らせる。
ど、どうしよう……?
告白されているのは姉のクランであって、妹のエマイユではないと、わかっていた。しかし頭では理解できていても、心は敏感にときめく。
「あたしも……夢みたいだった、けど」
唇から本音が漏れた。エリアルドに気付いて欲しかったのかもしれない。
あたしはクラン様じゃなくて、エマイユなの。
「夢じゃない、現実さ。僕と君で素敵な現実にしよう」
エリアルドは嬉しそうに微笑むと、エマイユの手を引いた。
「今から城下町に繰りださないか? アイザックに、いい店を教えてもらってね」
「アイザックと仲がよか……ったのよね、そういえば」
「一度あいつが帝国に来たことがあってさ」
エマイユの世界にも鮮やかな色がついていく。
☆
毎日のようにエリアルドはクランの部屋を訪れた。
一緒に出掛けたり、お茶をしたり。時にはアイザックやタチアナも加わって、順調に親交を深めている。
今日は天気もよいので、北方の草原までピクニックに出掛けることになった。アイザックが御者となって馬車を進ませる。後方には護衛として、騎士の一隊も続いた。
「今日のお昼は姫様の手作りなんですよ」
「それは楽しみだね。料理が得意だそうじゃないか、クラン」
「うふふっ。あなたにもきっと気に入ってもらえるわ」
今朝のうちにエマイユはパンを焼いて、バスケットに詰めてある。正体はベーカリーショップの看板娘なのだから、これくらいはお手の物。
「エリアルドには特技って、ないの?」
エマイユの問いかけに、御者のアイザックがくくっと笑った。
「そいつのリュートは天才的ですよ」
「……あの腕では、ねぇ」
相槌を打つと、エリアルドが不服そうに眉を曲げる。
「下手の横好きくらい、大目に見てくれたっていいじゃないか。なあ、タチアナ」
「申し訳ございません、エリアルド様。わたしにはフルートの心得がありまして……」
タチアナは真顔でしれっと流した。
イズルード帝国の第三王子エリアルドには、目立った強みがない。
教養は深いが、それも王族としては過ぎるも欠くもないラインだった。武芸のほうは平均以上にこなせるため、騎士団長のアイザックと早々に打ち解けたらしい。
ところが感性を問われる分野になると、評価は急降下した。描く絵は落書き、奏でる曲は騒音。自覚はあっても、一向に改善の兆しが見えない。
そのマイナス評価をプラスで塗り替えるため、彼は今日のピクニックを提案した。
しばらく馬車で草原を駆けると、山の麓に牧場が見えてくる。フラムツォバ王国では数少ない羊毛の産地のひとつであり、軍馬の飼育もおこなわれていた。
「さあ、僕の乗馬テクニックをお見せする時が来たよ」
エリアルドと一緒にエマイユも高揚する。
「あたし、馬に乗るのって初めてなの」
「えっ? 王女なら、子どもの頃から乗っているものでは……」
うっかり出してしまったぼろに、タチアナがすかさずフォローを入れた。
「姫様は動物が苦手でして、ずっと敬遠なさっていたんです。最近は犬や猫にもお慣れになったご様子ですので、ぜひ乗馬にも挑戦したい、と」
「だったら、いい機会だね。僕が手ほどきしよう」
エマイユはほっと胸を撫でおろす。
国王や家臣が相手だと上手くやり過ごせるのに、鋭いわけでもないエリアルドには緊張させられた。純朴な彼を騙しているという罪悪感が、後ろ髪を引くせいもある。
間もなく牧場に到着し、エマイユはエリアルドに手を引かれながら、馬車を降りた。芝生の踏み心地は柔らかく、空気も澄みきっている。
柵の向こうでは羊が放し飼いにされていた。
「羊って、もっと高地で飼われてるイメージだったけど」
「そんな童話もあったね。ここにいるのは、品種が違うのさ」
アイザックらは水場の近くで馬車を停め、馬に水を与えている。
「あの馬で走るの?」
「いや、ここで借りよう。馬車馬は疲れてるだろうし」
見るものすべてが新しくて、エマイユは質問ばかりしてしまった。それにエリアルドがひとつずつ丁寧に答えていく。
風が吹くと、若草色の芝生が波打った。のどかな光景がエマイユの心を癒す。
「いい気持ちね」
「フラムツォバならではの景色だなあ」
大陸のあちこちでは魔物が出没し、被害が出ることも多々あった。ところがフラムツォバ王国の領内では、不思議と魔物がおとなしい。
おかげで牧場も魔物の対策いらずで、開放的に芝生を広げていた。
「じゃあ、馬を見せてもらおうか。こっちにおいで」
エマイユはエリアルドとともに厩舎を訪れ、相棒になってくれそうな馬を探す。飼育員が最初に勧めてきたのは、白い毛並みが美しい、貴族然とした馬だった。
なんだか派手すぎるし……あっちのほうが。
けれどもエマイユは、ふたつ隣にいる、黒ずんだ馬に惹かれる。やや小柄で、ほかの馬より脚の肉付きがよい。
黒目がちな瞳が『走りたい』と訴えかけてくるように思えた。
「こっちの子じゃだめかしら?」
「う~ん……その馬はね、気性が荒いんですよ。姫様が振り落とされて、お怪我でもされては大変ですし……あぁ、近づいてはいけません!」
飼育員が制するより先に、エマイユの手が馬の額に届いてしまう。ところが暴れ馬は素直にそれを受け入れ、エマイユに頬擦りで返した。
「大丈夫よ。とてもいい子じゃない」
飼育員が目を丸くする。
「リチャードが初対面の相手に懐くなんて……」
「リチャードっていうのね、この子。ふふっ、よろしく、リチャード」
相棒に微笑みかけるエマイユを、エリアルドは陶然とした表情で見詰めていた。
「クラン、君は……」
「エリアルドも選んだら? あたしはもう決まったわよ」
「そうだね。僕はさっきの白馬にしよう」
二頭の馬それぞれを外に出し、鞍をつけてもらう。
先にエリアルドが手本として、白馬に跨った。一国の王子らしい凛々しさで絵になったのも、ほんの一瞬。馬が気ままに歩きだし、『こんなつもりじゃ』と慌てる。
「いや、違うんだよ? 今日はたまたまさ」
「そういうことにしておいてあげる」
続いてエマイユも鐙に足をかけ、馬の背によじ登った。乗馬のため、あらかじめスカートの短いドレスを着てきたのは、正解だったらしい。
ただ、脚を広げるのは恥ずかしかった。
「えぇと……こう?」
「怖がらないで、もっと背筋を伸ばして。うん、いい感じだよ」
手綱を手に降り、慎重に姿勢を正す。
エリアルドは横に並んで、乗馬の指南を始めた。さっき慌てて見せたのは、彼なりの冗談だったようで、白馬は従順に彼の指示に従っている。
「それじゃあ、歩かせてみよう。鞭で軽くお尻を叩くんだ」
両手で手綱を持っているせいで、エマイユは鞭まで手がまわらなかった。動物に鞭を入れる、という乱暴じみた行為に抵抗もある。
「鞭じゃないと、走らない?」
「難しいと思うよ。長年連れ添った騎手と馬なら、ともかく……」
そのはずが、苦笑するエリアルドを尻目に、エマイユの馬はおもむろに歩き始めた。
「ほら! やっぱりいい子なのよ、リチャードは」
楽しくなってきて、自然と笑みが弾む。
馬に乗ってはしゃぐエマイユを、エリアルドは朗らかな顔で見守っていた。
「……参ったね、どうも。僕には君の魅力が計り知れないよ」
声が小さくて、エマイユにはよく聞こえない。
会話どころでもなかった。
「あっ、エリアルド? 方向ってどうやって変えるの?」
「落ち着いて、曲がりたい方向に手綱を引いてごらん。君ならできるさ」
芝生の香りがふたりを優しく包む。
ひとしきり遊んだら、お腹が減ってきた。大木の陰ではタチアナがシートを広げ、てきぱきとランチを準備している。
遊び疲れたエマイユとエリアルドは、昼食ついでに休憩することにした。
「お疲れ様です、姫様、エリアルド様。紅茶をご用意いたします」
「ありがとう、タチアナ」
エリアルドが感心したように頷く。
「君はメイドにもお礼を言うんだね、クラン」
「え? そ、そうね」
ぼろを出してしまったが、疑われているわけではないらしい。
「君と一緒にいると、僕の今までの暮らしが、どんなに画一的で味気ないものだったかがわかるんだ。相手の顔色を窺うことしかしない、ね」
「褒めすぎよ、あなたは」
フラムツォバの城内では最近、エリアルド王子の評価が上昇しつつあった。分け隔てをせず、誰とでも対等に付き合おうとする謙虚な姿勢が、好感を得ている。
そんな彼を疎ましく思ったり、八方美人扱いする者もいた。
しかしそれ以上に『あの堅物王女を口説き落とした』色男として、噂されている。当初はエリアルドを種馬だのと侮辱していた声も、徐々に好意的なものに変わっていた。
「今日のランチは自信作なのよ。ふふっ」
エマイユは木陰で腰を降ろし、バスケットを開く。
エリアルドが席につくのを見計らって、アイザックら騎士団も加わった。彼らは少し距離を空け、質素な弁当を広げる。
「アイザック! たくさんあるから、あなたたちもどうぞ」
「これは姫様、お気遣い大変恐縮でございます」
エマイユは手作りのパンを、彼らにも快く振舞った。タチアナもエマイユの判断を予想してか、水筒を多めに用意してくれている。
狐色に焼けたパンを頬張りながら、エマイユたちは談笑を弾ませた。
政治や政策の話は抜きにして、和気藹々と盛りあがる。
「クランは乗馬が上手だね。初めてとは思えないよ」
エリアルドは王女の騎手ぶりを褒めちぎった。エマイユ自身はもっと手こずるものと思っていたが、相性のよい馬に会えたおかげで、走るくらいの基礎はできている。
とはいえ鞭を使わないため、さほどスピードは出なかった。
「なんていうか、君は馬の心が掴めてるのさ」
「あなただって上手じゃない。招待してくれただけのことはあるわ」
謙遜しつつ、エマイユはエリアルドに称賛を返す。
実際、エリアルドの馬術は卓越していた。エマイユが牧場を一周する間に、あっさり二周してしまうほどで、ジャンプもこなす。
アイザックが横から茶々を入れた。
「その男は動物と同じレベルなのですよ。馬とも会話ができるのでしょう」
「おかしなことを吹き込まないでくれ。君は僕を応援してくれてるんじゃないのか?」
悪友の物言いに、エリアルドが口元を引き攣らせる。
「冗談はさておき、イズルード帝国の王家は『ペガサスに乗って戦っていた』とも言いますし。エリアルドが乗馬をそつなくこなせるのも、血筋かもしれません」
その物語は大陸全土に伝わっており、エマイユも子どもの頃から聞かされていた。
かつて地上の覇権を巡って、空の天界と地中の魔界が激突したこと。
ところが天界の王女と魔界の王子が恋に落ち、地上へと逃れた。そして地上に住まう者とともに第三勢力となって、果敢にも徹底抗戦を繰り広げた。
王子と王女は戦場で散り、その場には無垢な赤子の泣き声だけが残された。天界と魔界の両軍は、戦いに虚しさを感じ、未来永劫の不戦を約束したという。
その赤子の名は、フラン。フラムツォバという言葉には『フランは中立なり』という意味が込められていた。
「帝国とは少し話が違うね。天界が魔界の軍勢を駆逐し、赤子を保護したのさ」
「そうなの? アレンジされちゃってるのかしら」
かつてのフラムツォバ王国が神話の主人公を気取って、フランという名をこじつけたのかもしれない。一種の英雄譚として、とりわけ少年には人気が高かった。
「僕だって昔はペガサスナイトに憧れたよ」
「ですけど、エリアルド様。翼のある馬って、どうやって乗るんでしょう?」
タチアナの疑問に一同が押し黙る。
「た、多分……なるべく足を前に出して、翼に触れないように?」
「え? 翼が前にあるから、足は後ろに来るんじゃないの?」
「どちらにせよ、鐙を踏み込めませんね。うぅむ……」
残念ながら、ペガサスは見てくれだけの、幻想の生き物らしい。
神話の真偽はどうあれ、フランという女性がフラムツォバの建国に関わったのは、事実のようだった。その血筋はクラン、そしてエマイユにも受け継がれている。
エリアルドは悠々と紅茶の香りを堪能した。
「この国は茶葉なんかも良質のものが多いね。羨ましいよ」
フラムツォバ王国はそれほど広大ではないものの、肥沃な土地を有している。さらに魔物の被害が滅多にないおかげで、野菜や果物のほか、紅茶などの嗜好品も豊富に生産された。庶民にとっても手が届きやすく、愛好家も多い。
やがてバスケットが空になった。騎士らは早々に席を立ち、見張りにつく。
「ごちそうさまでした、姫様。午後もごゆっくりお楽しみください」
「姫様、わたしも少し失礼します」
タチアナはランチの食器をまとめ、馬車へと運んでいった。
大木の木陰で、エマイユとエリアルドのふたりだけになる。芝生の香りのする穏やかな風が、何とも心地よい。
満腹感のせいか、眠気が忍び寄ってきた。
「……ねえ、エリアルド。聞いてもいいかしら」
エマイユはぼうっとしながら、エリアルドの肩にもたれる。高さもちょうどよい。
「どうしたんだい? クラン」
クランと呼ばれるのが、もどかしかった。
このひとにもう一度『エマイユ』と本当の名前で呼んで欲しい。くすぶっているだけの切ない心に、気付いて欲しくて、たまらなかった。
「お祭りの夜、あたしがなんて名乗ったか……憶えてる?」
「もちろんだよ。エマイユ、だったね」
眠る体勢になったエマイユの髪を、エリアルドが優しく撫でる。
「あれは君の幼名か、何かかい?」
「……ええ。だから、その……ふたりきりの時は、そう呼んで欲しいの」
エリアルドが複数の名を持っているおかげか、後ろめたい嘘は簡単に通じた。彼がエマイユを柔らかく抱き締め、耳元で囁く。
「わかったよ、エマイユ」
それだけでエマイユの胸はいっぱいに満たされた。
あたし、エリアルドのことが好きなんだわ。
恋の気持ちを自覚し、胸を高鳴らせる。
初恋の相手が王子様などという夢物語が、自分にとっては現実となった。エリアルドの赤い髪が、端正な顔立ちが、宝石色の瞳が、エマイユを陶酔させる。
「……エマイユ? ふっ、もう寝ちゃったのかな」
幸福感に包まれながら、偽りの王女は眠りに落ちた。
☆
牧場から城へと戻った頃には、陽が暮れた。
エマイユは『クラン』として、フラムツォバ国王とディナーをとる。王は顎鬚を蓄え、強面の風貌を誇っていた。娘たちとはあまり似ていない。
実の父親であるという実感は、未だに薄かった。
もともと会話の少ない親子関係だったそうで、食事の間は黙りがちになる。
「……お父様、聞いてもよろしいですか?」
「なんじゃ?」
エマイユは思いきって、姉妹のことを問いただした。
「あたしの……妹のことです」
「おぉ、エマイユのことか。妹がどうかしたか?」
国王の口から娘の名がすらっと出てくる。
エマイユは不安に駆られ、弱々しく声を震わせた。
「その、エマイユのこと……気になったりしたこと、ありませんか?」
聞いてよいことなのか、わからない。それでも『エマイユ』が城でどういった扱いをされてきたのか、無性に知りたかった。
クランではない、もうひとりの王女に存在意義を見出したい。
「妹の話を聞きたがるとは、珍しいのう、クラン」
「ちょっと気になりまして……」
「お前は姉だからな、そういう時もあろうて。話してやろう」
国王は食事の手を止め、しばらく目を瞑った。
「……わしとて、ひとの親じゃ。子の心配もしよう」
言葉の節々には悔恨が滲んでいる。
「男子と女子の双子であれば、片方を捨てる真似などせんかったが……わしは家臣らの言うがまま、あの子を手放してしまったのだよ。何より妻が賛成してしもうてな」
「お母様が、ですか?」
「うむ。王女であれば、人生の大半を捨て、重荷を背負うことになる。ならばひとりだけでもと、あやつがエマイユをクレハ団長に預けよう、と決めおった」
エマイユは口を噤んで、父の懺悔に聞き入った。
「そうそう……エマイユという名は、妻がつけたものでな。『笑顔』という意味じゃ」
王家に生まれた双子は、災厄の兆候として忌み嫌われる。しかしエマイユの両親は、決して厄介払いをしたわけではなかった。それがわかっただけでも嬉しい。
国王はグラスの酒を飲み干し、一息ついた。
「お前がやつに誘拐された時は、エマイユを呼び戻すことも考えたが……」
いきなり出てきた物騒な言葉に、エマイユは目を点にする。
「ゆ、誘拐っ?」
「おっと、すまんすまん。誘拐ではなく視察という話だったな、お前にとっては」
クラン王女が誘拐されたなど聞いたことがない。そのような事件があれば、王国じゅうが大騒ぎになっているはず。
詳しく聞きたかったが、エマイユは踏みとどまった。クランのふりをしている以上、そのクランが当事者となった事件について、何も知らないようではおかしい。
クラン様が誘拐って……何のこと?
ぞっと悪寒がした。
姉の言いなりになって影武者を演じるのは、危険かもしれない。おそらくクラン王女はエマイユにとって重大なことを隠している。
武装商船団がエマイユを狙った件も、真相は不明のままだった。
就寝する頃合いになってから、エマイユはタチアナを連れ、離宮を目指す。
「姫様へのアポイントは取っておりませんが、よろしいのですか?」
「いいの。大事なことだもの」
庭園の迷路を順序よく抜けると、離宮に辿り着いた。その一室をノックし、王女の『入りなさい』の一言を待ってから、静かに扉を開ける。
クランは窓を開け、伝書鳩を夜空に放とうとしていた。一羽の鳩が羽根を広げ、海の方角へと、弧を描くように消えていく。
「今日は来なさいなんて、言ってないわよ。こんな時間にどうしたの?」
「恐れ入ります。エマイユ様が、どうしてもクラン様に直接お聞きしたいことがある、とおっしゃいまして」
タチアナはお辞儀だけして、すぐ退室した。メイドの立場では聞いてはならない話だと察し、席を外してくれたらしい。
クランは面倒臭そうに髪をかきあげ、妹を迎えた。
「しょうがないわね。座りなさい」
エマイユは適当な椅子を借り、腰を降ろす。
向かい合っていると、自分がもうひとりいるような錯覚がした。クランのほうはすでに寝巻に着替えており、案の定ドレスは脱ぎ散らかされている。
昼食などの世話は、高齢のメイド長がひとりで受け持っていた。にもかかわらず部屋が片付いていないのは、メイド長さえ、入室を拒まれてしまうためだろう。
典型的なお姫様なのね、クラン様って。
部屋の観察もほどほどに、エマイユから切りだす。
「国王陛下……お父様から、クラン様は誘拐されたことがある、とお聞きしたんです。そのこと、詳しく教えていただけませんか?」
「お父様と何の話をしてるのよ、もう。まあいいわ、教えてあげる」
クランは窓際に立って、カーテンを半分まで閉じた。夜の色をしたガラスに、彼女の不愛想な表情がうっすらと映る。
「わたくしは武装商船団のギュスターに連れられて、海に出たことがあるの」
両親の行方を追って情報を集めるうち、エマイユもその男の名を知った。
ギュスター=リューリック。武装商船団の若き頭領であり、その豪胆な手腕は、内海の海上貿易を強圧的に統制かつ支配している。
クラン王女はふうと溜息をついた。
「誘拐なんて言ってるのは、お父様と城の連中だけ。わたくしはギュスターの船で一ヶ月を過ごし……あの海に自由があることを知ったわ」
離宮の窓から夜空を見上げ、さらに遠くへと視線を投げる。
無法者ではないにしろ、武装商船団は『海賊』などと揶揄されていた。そのような連中と一国の王女が、海上で一ヶ月もの間、寝食をともにしたという。
これが世間に知られれば、大問題になるのは火を見るより明らかだった。フラムツォバ王国が武装商船団に屈し、ギュスターに王女を差しだした、などと噂になる。そうなれば東西の大国も大手を振って介入し、混迷を極めることは、想像に難くない。
「……大丈夫だったんですか? 商船団と一緒にいたりして」
両親をさらわれているエマイユには、武装商船団を肯定できなかった。同時に、武装商船団を肯定する相手には苛立ちを募らせる。
「ギュスターは立派な頭領よ。ふん、あなたにはわからないでしょうけど」
クランの言葉は自信に満ちていた。まるで自慢でもするかのように、声が弾む。
エマイユは俯き、唇を噛んだ。
ここへ自分が呼ばれた理由が、わかった気がする。クランは王女の地位を捨て、武装商船団のギュスターと添い遂げようとしているのかもしれない。
そのために妹を城に呼んで、クラン=フラムツォバのふりをさせて。
「クラン様、まさか……」
「ふふっ、あなたも構わないでしょう? 王女になれるのだから」
ところがエマイユの中で、天秤が傾いた。両親への想いや、人並みの正義感よりも、エリアルドの存在がエマイユの心を大きく揺らす。
今後もクラン=フラムツォバになりすましていられるのなら、エリアルドとの関係も続けることができた。クランとエリアルドの結婚はすでに決まったようなものであり、近いうちに婚約パーティーを開催する運びになっている。
「好きなのでしょう? ヒーニアスが」
姉は妹の本心を見抜いていた。
「あなたも一度抱かれてみれば、わかるわよ。わたくしの気持ちが……」
クランの思わせぶりな一言に、エマイユは顔を赤らめる。
抱かれるって……そんな。
エリアルドと結ばれたかった。キスをして、キスをされたい。そんな欲求がエマイユの奥底に芽生えつつある。
「あなたはわたくしになるのよ。この国の王女、クラン=フラムツォバにね」
その命令を、エマイユは拒否しきれなかった。
離宮を出て、タチアナとともに庭園の迷路を抜けていく。さすがに四六時中一緒にいるタチアナには、調子が狂っていることに気付かれてしまった。
「……黙り込んで、どうなさったんですか?」
「ううん。何でもないの」
クランが秘密裏に自分の代理を立て、武装商船団へと身を寄せようとしているなどと、言えるはずがない。エマイユは後ろめたいものを背中に感じつつ、口を噤む。
しかしアイザックやタチアナも、いずれ気付いてしまうに違いなかった。もしくはクランの企みを知ったうえで、知らぬ存ぜぬを演じている可能性もある。
いけないわ、こんなこと……。
本物の王女は逃亡し、偽物の王女が跡継ぎを産む。恐ろしい計画の全容を想像して、エマイユは顔面蒼白になった。
いっそ自分の出自を暴露してしまおうか。いや、アイザックあたりに相談して、理性的に行動を決めるべきか。そんな選択肢が頭の中を循環する。
『お前のしたいようにすればええぞ、エマイユ』
不意に老人の声が聞こえた。迷路の途中でエマイユは立ち止まり、振り返る。
「……エマイユ様?」
「今、声が……」
タチアナは首を傾げるが、その声は確かにエマイユを呼んだ。
『ヒッヒッヒ! 血は薄れても、フランの末裔よのぅ。フランの名を継いだ姉より、おぬしのほうが素質があると見えるわい』
何者かがエマイユを誘っている。挑発的なようで、友好的な物言いでもあり、善とも悪とも区別がつかない。
『まだ眠れんのじゃろう? わしのもとまで来るがよい』
エマイユは覚悟を決め、まわれ右した。
「タチアナ、先に戻ってて」
「ですが、この迷路は少々厄介ですよ? おかしな力が働いてるんです」
「心配しないで。迷ったって、城の中ではあるんだし」
タチアナは渋りながらも、エマイユの指示に従い、去っていく。
「どうか、お気をつけて」
エマイユは来た道を戻り、声の言う通りに針路を取った。
『行き止まりじゃが、突き当たりまでゆけ』
『次は引き返して、二番目の角を曲がれ』
迷路はだんだん複雑になる。
この庭園には何かしらの力が作用していた。離宮を目指そうとしても、正解のルートを知らない者は、いつの間にか入口へと戻されてしまうらしい。
十分ほど歩いて、ようやくエマイユは終点に辿り着いた。目の前では地下への階段がぽっかりと口を開けている。
もしかして、怪物が出るっていう地下迷宮……?
恐怖はあったが、その奥にいるはずの人物に会ってみたかった。
『怖がるでない。ようこそ、我が居城へ』
老人の声はどことなく懐かしい。
階段を降りていくと、両隣で灯がついた。エマイユを案内するように、炎が一定の間隔で奥へと伸びていく。おかげで、あとは迷うことがなかった。
突き当たりの古めかしい扉を開けると、黒い人影がもぞもぞと動く。
「よく来たのう、エマイユ」
そこは大きな書斎で、壁は一面が本棚になっていた。部屋の主は小さなデスクで本を広げ、すらすらと文字を書き込んでいる。
黒いフードを被った彼の容貌に、エマイユはさっと青ざめた。
「あなた、は……?」
「ヒッヒッヒ! やはり驚かせてしもうたか」
その顔には、皮膚もなければ肉もない。しゃれこうべが目の窪みを赤々と光らせる。
「わしの名は……ふむ。最初の名が本当の名とも限るまい。おぬしにはウォーロック、とでも呼んでもらおうかね」
骸骨は謎かけみたいな言いまわしで、『ウォーロック』と名乗った。
「ウォーロックって、魔法使い……?」
「己の名前とは、他人が己を見分けるために使うもの、つまり他人のものじゃ。おぬしがわしをウォーロックと呼べば、わしはおぬしにとってウォーロックとなろう」
ウォーロックの物言いはいちいち難解で、要領を得ない。
それでも彼の小話に、エマイユは筋が通っているのを直感した。
「おぬしにも経験があろう? ひとがおぬしをクランと呼べば、おぬしはクランとなり、エマイユと呼べば、おぬしはエマイユとなる」
「あたしはクラン様でも、エマイユでもあるってこと?」
「その通り。そして、どちらでもない」
謎かけに意識が向いたせいか、最初ほどウォーロックのことが怖くなくなる。
骸骨は本を閉じ、エマイユのほうに向きなおった。
「あえてわしは、おぬしをエマイユと呼ぼう。エマイユ、座るがよい」
エマイユは促されるまま、揺り椅子に腰掛ける。その椅子が緩やかに揺れるせいで、夢を見ているかのような心地になってきた。
目の前の骸骨が、表情もないのに『笑み』を浮かべる。
「さあて……おぬしは今、わしの正体を知りたがっておるじゃろうて。では、昔話を思いだして、よぅく考えてみい。わしは天界の使者か? それとも魔界の死兵か?」
この謎かけはおそらくエマイユを試していた。
エマイユは黙って目を瞑り、フラムツォバ王国の伝説を思い描く。天界の王女と魔界の王子が駆け落ちしたこと。それが地上で第三勢力になったこと。
残された赤子がフランと名付けられ、地上で育ったこと。
「はてさて、おぬしはわしを何と呼ぶ?」
ウォーロックでしょ、と言葉が出掛かったところで、はっとした。
彼はウォーロックであって、ウォーロックではない。エマイユはエマイユであって、クランであり、またエマイユではなく、クランではない。
「あなたは多分……天界のひとでも、魔界のひとでもないわ。そうでしょう?」
ひねくれた回答にウォーロックは感心した。
「いかにも。わしは天界も魔界も差し置いて、いの一番にフランを拾ったのじゃ。そしてフランが十六になるまで、この迷宮で育ててやった」
奇妙な問答が導入となって、エマイユの意識を引きずり込む。そこから先は彼の話を聞いているようで、頭の中でじかに語りかけられるようにも感じた。
古の物語がエマイユの記憶に響く。
戦場で産声をあげたフランの魂を尊重し、天界と魔界は地上から軍を引いた。そのフランを保護し、地下迷宮へと匿ったのが、ウォーロック。
フランはウォーロックから、ありとあらゆる魔導を学んだ。その後、地下迷宮から地上に出て、フラムツォバ王国を建国したという。
「わしの一番弟子でもあるフランはのう、素晴らしい魔導士となった。相反する理さえ持ち合わせ、行使することができたのじゃ。すなわち、秩序と混沌を」
再び意識が明瞭になってきて、エマイユは目を覚ました。
「……よくわからないわ」
「言い替えれば、平等と自由。……ふむ、まだしっくり来ぬか」
ウォーロックがしゃれこうべの顔を近づけてくる。
「ならば、火と水を想像してみい。火は熱く乾き、水は冷たく濡れておる。それを一緒くたにすることは、できんじゃろう?」
「それなら……なんとなく」
目覚めてからも、エマイユは半ば呆然としていた。身体に力が入らない。
「いい子じゃ。で、フランは火と水を両方とも持っておった。ここまではわかるな?」
「……ええ」
「そしてフランの直系は代々、その力を継承した。じゃが、おぬしらの代で双子が生まれたことで、力が分かたれてしもうた。火の力はおぬしに、水の力は姉のほうに」
ウォーロックは暗示めいた調子で、さらに語った。
「話を戻そうか。火と水は、どちらか片方が消えれば、どうなると思う?」
「火……火だけあっても、パンは作れないわ。水がないと、生地ができないもの」
「うむ。それがおぬしたち姉妹の関係じゃ」
話の半分も理解できていないはずなのに、エマイユは納得する。
フラムツォバの王家には代々、森羅万象を司る力があった。ところが、クランとエマイユという双子の出生によって、その力がふたつに分かれてしまっている。
「おぬしらはいわば、フランの半身。今のままでは、おぬしが消えても、姉が消えても、地上はバランスを崩すじゃろうて」
左手の薬指で何かが鈍く光った。エマイユは頭をもたげ、それを見つける。
いつの間にか、オレンジ色の指輪が嵌められていた。
「フランが持っておったのと同じものだ。おぬしにもなくては、不公平だと思うてな、作っておいた。その力をもってすれば、秩序に組する者を、思うままに使役できよう」
「ちつじょ……?」
「お前はものを結びつける力を持っておるのじゃ。逆に姉は、ものを引き離す力を持っておる。なあに、難しく考えることはない」
エマイユはふらりと立ちあがり、その反動で揺り椅子を揺らす。
「だったら、もっとわかりやすく話してちょうだい」
「ヒッヒッヒ! 言いたいことを人間の言葉にするのは、難しいのでな」
おしゃべりな骸骨は机へと戻り、黒フードの背中を向けた。用件は済んだから帰れ、ということらしい。
「よいか? フランの子、エマイユよ……わしはおぬしの敵でも味方でもない。おぬしがウォーロックと呼ぶ者だ。今夜話したこと、ゆめゆめ忘れるでないぞ」
エマイユは別れの挨拶も思い浮かばず、踵を返す。
ところがエマイユの去り際、ウォーロックは人差し指を立てた。
「……おっと、言い忘れるところじゃった。おぬしの育ての親なら無事じゃぞ」
「本当に?」
「ひとりは海の上……もうひとりは、東の沿岸沿いにおる」
「じゃあ、お父さんとお母さんは別々に――」
ウォーロックに詰め寄ったつもりが、エマイユは庭園の入り口で佇んでいた。肌寒い夜風がひゅうっと吹き抜けていく。
さっきのは、夢……?
冷えた身体をかき抱きながら、エマイユは自問した。
ウォーロックとの会話は、夢にしてははっきりと憶えている。秩序などという聞き慣れない言葉も、しかと耳に残っていた。
両親の行方についても、今までになく具体的な情報で、現実味がある。
何より左手の薬指では橙色の指輪が輝いていた。引っ張ってみても、外れない。
「これ、呪われたりしてないでしょうね?」
骸骨に貰った指輪だけに、不安になってきた。
ウォーロックや指輪のことは、クランなら知っていそうな気がする。しかし夜も更けている頃合いであり、ひとりで庭園の迷宮を突破する自信もなかった。
「……エマイユ?」
不意に誰かに声を掛けられ、エマイユは振り向く。
そこには愛しの恋人が立っていた。
「エリアルド……エマイユって、どうして……?」
「ふたりきりの時はそう呼んで欲しいって、君が言ったんじゃないか」
エリアルドがマントを広げ、エマイユを小脇に包み込む。
一瞬、ばれたのかと思った。エリアルドにとって自分が『エマイユ』でいられる条件を作ったことを思いだし、安堵する。
「こんな時間にどうしたの?」
「僕の台詞だよ。中庭に君がいるのが見えてね」
エリアルドの部屋は中庭沿いの三階にあった。正式に婚約が決まったら、エマイユの隣へと移ることになっている。
「ちょっと……変な夢を見ちゃって」
「ふぅん。どんな夢?」
エリアルドのマントを肩に掛けながら、エマイユは夜の庭園をあてもなく散策した。まだ城のあちこちで照明がついているおかげで、真っ暗というほどではない。
「怖い夢、かしら? 骸骨が動いて、しゃべったりするの。でも、夢の中だとそんなに怖くなくて。フラン……フラン様の伝説を教えてもらったわ」
「お昼に牧場でも、そんな話をしたせいかな?」
そう遠くないあたりから、噴水の音が聞こえた。夜風が吹いても、エリアルドがマントでエマイユを庇い、暖めてくれる。
「顔は怖いけど、親切だったわ。お父さんたちのことも教えてくれて……」
「国王陛下のことを?」
彼の優しさについ気を許してしまって、エマイユはミスを増やす。
エリアルドはエマイユの左手に指輪を見つけると、怪訝そうに顔色を変えた。その手を掴み取って、眉を顰める。
「……なんだい、これ。どうして指輪なんて嵌めてるんだ?」
「え、それは……」
「誰に貰ったんだ、エマイユ」
決して怒鳴るような調子ではなかったが、彼の物言いには苛立ちが滲みでていた。エマイユの動揺を見抜き、誠意を持ったうえで責めてくる。
恋人が見知らぬ指輪を嵌めていることが、我慢ならないらしい。
「君にだって事情があるのは、百も承知してるさ。以前は僕に冷たかったのも、王女の立場ではそうせざるを得なかったんだろう。でも……隠し事はもうやめてくれないか」
エマイユはぎくりとして、エリアルドから目を逸らした。
クラン王女のふりをしている偽者とまでは、ばれていないにしても、彼を欺き、騙していることには変わりない。罪悪感がエマイユを苛む。
「……ごめんなさい」
できるものなら、今すぐ『あたしはクラン様じゃないの』と打ち明けたかった。しかし自分がクラン王女ではなくなったら、彼の花嫁になることも叶わない。
エリアルドはエマイユの両肩を掴んで、逃がさなかった。
「聞いたんだ。君が以前、武装商船団に誘拐されたって。……そのことかい?」
エマイユをまっすぐに見詰め、声を震わせる。
彼はきっと、質問することに躊躇し、不安を募らせていた。恋人がどこぞの悪党にさらわれ、一ヶ月も一緒に暮らしていたなどと知っては、穏やかでいられるわけがない。
それをエマイユは、純潔を疑われているようにも感じ、かぶりを振った。
「違うの。そのことじゃなくて、これは……あたしの問題で」
思うように伝えられず、涙が滲む。
正直になりたいのに、言葉は欺瞞ばかりを語る。
「この指輪も何でもないのよ」
左手を掲げると、フランの指輪が月明かりを弾いた。
「だったらこんなもの、捨ててくれ。……ん?」
エリアルドがそれを抜き取ろうとするものの、まるで外れない。指輪は呪いじみた力をもって、エマイユの薬指と一体化している。
「どうなってるんだ? エマイユ」
「遠いご先祖様……フランの指輪よ。ウォーロックがそう言ったの」
無性に切ないものを感じ、エマイユはエリアルドの胸元にしがみついた。母親に置いていかれそうになった幼子が、そうするように。
「これだけは信じて。あたしは……あなたが好きなの」
「エマイユ……」
エリアルドは戸惑いながらも、エマイユを遠慮がちに抱き締める。
このひとと一緒になりたい。そのためには、このひとを騙し続けなくてはならない。そのジレンマは彼との溝を深めつつあった。
エマイユのブロンドを撫でながら、エリアルドが耳元で宥めるように囁く。
「君を……信じるよ」
彼の胸元からエマイユも仰向いて、熱い視線を交わした。エリアルドの瞳に自分がいることに、鼓動がビートを奏で始める。
「もうすぐ婚約パーティーだし。喧嘩してる場合じゃないだろ?」
「うん。あなたと踊るの、すっごく楽しみ」
「ハロウィンの夜以来になるね。僕も楽しみだよ」
今度のパーティーが終わったら、話そう。あたしはクラン様の妹なんだってこと。
彼の前ではもうクラン=フラムツォバではいられなかった。
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