ロイヤルカルテット

第一話

 潮の香りがする。青い海は近い。

 うららかな午後の日差しが今日も港町サノンを満たしていた。しかし大型の船舶は内海に出ることなく、桟橋の脇で静かに波に揺られている。

 フラムツォバ王国の玄関港として栄えていたのも、昔のこと。今では小さな漁船や貨物船がささやかに航行するのみ。

それでも人々は景気のよい声をあげ、仕事に精を出していた。

今夜はお祭りがあるため、子どもたちは準備のうちから、はしゃいでばかり。

「お姉ちゃんは仮装、決まった?」

「あたし? うーん、どうしよっかなあ」

無邪気に走りまわる少年少女をかわしつつ、エマイユは注文のパンを常連客のもとまで送り届けた。

「こんにちは、おばさん! クレハ・ベーカリーです」

「おっ、早いね! そっちだってお祭りの準備で忙しいだろうに」

港町サノンの一角に、ウサギの看板が目印のベーカリーショップがある。

クレハ・ベーカリーは早朝から夕方頃まで、煙突から緩やかに煙を噴いていた。店先にはいつでも美味しそうなパンの香りが漂っている。

エマイユ=クレハはそのパン屋で育った、ひとり娘だった。

父はパン職人で、母はおもに店番を担当している。エマイユは看板娘として、幼い頃から配達などの仕事を手伝っていた。それなりにパンを焼くことだってできる。

 配達を終えて戻ると、ちょうど次のパンが焼きあがっていた。母が伝票を書き足す。

「帰ったらカボチャパイ焼くの、手伝ってね」

「はーい。いってきまぁーす!」

 実家のパンは評判がよく、いつも昼時は配達のために走りまわっていた。バスケットを片手に、町中の階段をリズムよく降りていく。

 煌びやかなブロンドの髪は、市井の港町ではよく目立った。その髪質は細いなりに強いらしく、潮風に晒されても、さらさらの質感を保っている。

 日焼けしないように麦わら帽子を被ると、避暑地を訪れた令嬢みたいな容貌になった。秋物のワンピースが風に煽られ、スカートをふわりと捲りあげる。

「きゃっ! と……」

 十七歳にもなって『ウサギさん』を穿いている自分が、いい加減恥ずかしい。

 クレハ・ベーカリーのマスコットがウサギのおかげで、看板娘の持ち物もウサギのグッズだらけ。バスケットにも子ウサギのストラップをぶらさげている。

 町の広場では、急ピッチで櫓が建てられていた。

「みなさーん! クレハ・ベーカリーです。お昼ご飯ですよー!」

「おっ、エマイユちゃん! ありがとうよ」

 男たちが作業を中断し、集まってくる。

 今夜のハロウィンは、このフラムツォバ王国で民がもっとも自由に遊べる、年に一度の祭典だった。ほかにもクリスマスなど、大陸では定番の祝祭は存在するものの、宗教色の強いものは、隣国の目もあって盛大には催せない。

 フラムツォバ王国はかつて、大陸内海の玄関港として栄えた。

 外海に比べ、内海は気候が安定して穏やかであり、頻繁な往来に適している。陸路よりも一度に多くの物資を運べるというメリットも大きい。

ところが東西の大国を相手取って敗戦したために、フラムツォバ王国は制海権を剥奪されている。王国船は自由な航行ができず、海上貿易から隔離されてしまった。

 東西の貿易を牛耳っている『武装商船団』に見つかろうものなら、船舶ごと人員まで差し押さえられる羽目になる。

 この港町サノンも、近年は漁で近海に出るだけだった。

 エマイユは焼きたてのパンを配りつつ、営業スマイルで挨拶を交わす。

「今年で十七だっけ? そろそろいいひとは見つかったのかい」

「いませんよ、そんなひと。んもう」

 最近は恋人について聞かれることが多い。

年に一度のハロウィンは、年頃の男女にとって大きなチャンスであって、同世代の友達はどことなく浮ついていた。エマイユも決して、期待していないわけではない。

 けれども筋肉質の父親が怖いらしく、エマイユを口説こうという勇敢な男子はなかなか現れなかった。珍しい金髪も宝の持ち腐れになっている。

 その髪を指に巻きつけ、エマイユは首を傾げた。

 お父さんもお母さんも、髪は黒に近いのになあ。誰に似たのかしら?

 自分の顔立ちや髪の色は、親戚の誰のものでもない。ただ、母方の祖母が銀髪だったとは聞いている。

「何ならお城で働いてみたら? エマイユちゃんなら、騎士だって簡単に落とせるさ」

「いーえっ。あたし、パン屋になってくれるひとじゃないと、イヤですから」

 無難に流しつつ、一介の町娘は北の方角を見上げた。

 仕切り程度の外壁の向こうには、城下町が延々と広がっている。さらにその中央にあるのが、壮麗なフラムツォバ城だった。

今日のように天気がよければ、城の尖塔まで小さく見える。

 お城なんて、行けるわけないのにね……。

 エマイユはてきぱきと仕事を終え、踵を返した。

 女の子なら誰でも、一度は騎士との結婚に憧れる。理由は単に『素敵だから』。

それがエマイユくらいの歳になると、『収入は文句なしだけど、現実味がない』などという味気のない感想にしかならなかった。夢は夢、現実は現実。エマイユも王子様を夢想する時分はとっくに過ぎている。

 

 父と一緒にカボチャパイを焼いているうち、陽も暮れた。広場のほうでランタンが火を灯し、夜の街並みをオレンジ色に照らす。

 群青色の夜空では星々が瞬いていた。月にうっすらと雲が掛かる。

 ハロウィンがどこから来た風習なのか、詳しく知っている者は少ない。それでも『仮装をして、お菓子をもらったり、悪戯したりする』程度には共通の認識があった。

 オバケの仮装など、見ようによっては悪魔崇拝にもなりそうだが、大陸教会の管轄とされるクリスマスほど問題にはならない。

 エマイユは北の夜空をぼんやりと眺め、イメージしてみた。

 今頃はお城でもパーティーしてるんでしょうね。

 空は真っ暗で、王城は影も形も見えない。

 フラムツォバ王国に対する民の忠義心は揺らぎつつあった。二十年ほど前、勇み足で敗戦を喫して以降、領土は東西の戦勝国によって分割が進められている。

にもかかわらず、貴族は抵抗をよしとせず、隣国の要求を呑む一方だった。自分たちの保身を優先するばかりで、民の生活はおろか、愛国心に顧みることもしない。

 遠からず港町サノンにも強国の大使館が建てられる。ハロウィンで大はしゃぎできるのは、今年で最後になるかもしれなかった。

 そうとは知らない子どもたちは、オバケの恰好で無邪気に駆けまわっている。

 エマイユも気分を変え、自慢のカボチャパイを配った。クレハ・ベーカリーの看板娘として、今夜はウサギの耳をつけ、仮装に加わる。

「ねえ、エマイユ! ちょっといい?」

その途中で、今夜一緒に遊ぶ予定だった友達が、両手を合わせてきた。

「どうしたの? ジーナ」

「それが、その……急にデートすることになっちゃって……」

 デートの相手ができたから、女だけで遊んでいる場合ではなくなった、ということらしい。エマイユは詳しく聞かず、柔らかい笑みを浮かべた。

「わかったわ。待たせてるんでしょ?」

「ほんとごめん! ありがと。……あっ、カボチャパイも貰ってくわね」

 彼女はエマイユに一言謝ってから、向こうで同い年くらいの男の子と合流する。

女の友情って、こんなものよね。

 今夜は独り身の女同士で、と言い出したのは彼女のほうだったのに、見事に裏切られてしまった。相手のいないエマイユは溜息をつく。

 そんなエマイユを、オバケの恰好をした少年少女が取り囲んだ。

「エマイユねえちゃん、あそぼー! いっしょにおうた、うたってよ」

「いいわよ。みんなで歌いましょうか」

 子どもたちとエマイユで手を取りあって、大きな輪になる。

 エマイユが童謡を口ずさむと、あとから木管楽器の演奏も加わった。オーボエの音色がアルト調となって、エマイユのソプラノを引き立てる。

 子どもと同じ調子で踊っていると、ウサギの耳がひょこひょこと揺れた。そのコミカルさもあって、手拍子はどんどん増えていく。

「エマイユねえちゃん、もっかい!」

「はいはい。じゃあ、次は森のネコさんで……」

 賑やかな合唱会の場で、ひとりの青年が名乗りをあげた。

「僕も演奏、いいかい?」

 使い古されたリュートを見せつけながら、エマイユに微笑みかける。

 初めて見る顔で、おそらく港町の住人ではなかった。二十歳になるかならないかくらいの顔つきで、目鼻立ちが整っている。

 ランタンに照らされ、赤い髪は燃えるように輝いていた。

 身なりは吟遊詩人の仮装が決まっていて、違和感がない。衣服は新しいのにリュートは古いあたり、演奏の腕のほうは確かに思えた。

「それじゃ、お願いします」

「森のネコさんだね。僕の十八番さ」

 彼が得意げにリュートを構え、弦をかき鳴らす。

 ところが、出だしから旋律は『べべ~ん』と乱れた。音がずれまくる。

 エマイユたちはびっくりして、ダンスを止めた。珍妙な演奏に子どもたちは大笑い。

「にいちゃん、へたすぎー!」

「おっと? 子どもには難しかったかなぁ」

思わず噴きだしてしまった。

「ふふっ、変なひとね。何やってるの?」

「……おや?」

 麗しい吟遊詩人がエマイユの前で膝をつき、そっと手を差しだす。

「どうかな、レディー? 今宵は僕と、流れ星の軌跡でも探そうじゃないか」

「えぇと、ごめんなさい。あやしいひとには、ついてっちゃだめだって」

 どっと笑いが巻き起こった。

「にいちゃんもいっしょに、あそぼうぜ」

「やれやれ……振られてしまっては仕方ない。ご一緒しよう」

 彼も輪に加えて、小粋なダンスを再開する。

 それから小一時間ほど、エマイユは子どもたちと踊っていた。次から次へと子どもの面子が変わるため、休む暇もない。

少し屈みながら踊っていたせいで、腰の後ろも痺れていた。

 やっと解放されてベンチで休憩していると、吟遊詩人の彼が歩み寄ってくる。

「お疲れ様。ふう……思った以上にハードだったよ」

 てっきり二、三曲のうちに、彼は根負けするものと思っていた。過去にエマイユ目当てで参加し、子どものパワーについていけなかった男の子もいる。

「好きなんですね、子ども」

「そりゃもちろん。僕も中身は子どもだからね」

 彼はリュートを脇に置くと、気さくにはにかんだ。

「僕はエリアルド。君の名前も教えてもらっていいかな、ウサギさん」

「あたしはエマイユよ」

 エマイユも自己紹介して、笑みを返す。

 吟遊詩人に扮しているエリアルドの衣装は、美麗な光沢があった。袖口は金色の装飾で縁取られており、民間の仕立屋によるものとは思えない。

 ハロウィンの仮装に心血を注ぐ者でも、ここまで凝っているのは珍しかった。

 まさか貴族だったりして……。

 お祭りを眺めつつ、エマイユは彼に問いかけた。

「あなたって、どこから来たの? この町のひとじゃないでしょ」

 エリアルドが唇に人差し指を添える。

「仮装パーティーだからね、その質問はなしだよ。今夜の僕はあくまで『吟遊詩人のエリアルド』でしかないのさ」

 ハロウィンの間は役に『なりきる』のが、彼なりの趣向らしい。

「そうだね……今夜の僕は、さる劇団のマネージャーでね。君の歌声を聞いて、スカウトせずにはいられなくなったんだ」

エマイユも面白く感じ、調子を合わせてみることにした。

「あたしは不思議の国から来た、ウサギかしら。人間のお祭りを見に来たの」

「いいね。ウサギの友達なんて、初めてだよ」

 お互い出鱈目な自己紹介を付け加えて、相槌を打つ。

 高名な劇団に所属している吟遊詩人と、不思議の国出身のウサギ。ちぐはぐなコンビは冗談を交えながら、談笑を弾ませた。

「だから言ってやったのさ。胡椒くらいちゃんと用意しとけ、って」

「あははっ! 結局、演奏はどうなったの」

 エリアルドの言いまわしが愉快で、エマイユの表情も緩む。

 やがてお祭りも佳境に差し掛かり、花火があがり始めた。七色の光が夜空で散る。

「綺麗……」

 赤、青、緑と、夜の色合いが変わっていった。大きな音が振動となって、身体にびりびりと伝わってくる。

 しかしエリアルドは花火ではなく、エマイユの横顔を眺めていた。

「どうかしたの? エリアルド」

「今夜は驚いてね。君がそんな顔をするなんて……」

 初めて会ったはずなのに、おかしなことを言いだす。冗談には聞こえない。

「あら、あなたも不思議の国に住んでたの?」

「そうだった気がする。僕は不思議の国を出て、劇団に入ったのさ」 

 エマイユが笑いかけると、エリアルドも役に徹した。

 皆が花火を見上げているのをいいことに、エリアルドの唇がエマイユの頬に触れる。

「……エリ、アルド?」

「君なら、愛せる。その証と思って」

 俄かに顔が熱っぽくなった。花火に照らされながら、エマイユは赤面する。

 キスを受けた頬には柔らかい感触が残っていた。異性とこんなスキンシップをするのは初めてで、どう答えればよいのか、わからない。

 こ、これも、演技ってことよね?

 緊張しつつ、エマイユは彼を見詰め返した。

「あ……ありがとう」

 初対面でいきなりキスをされたのに、嫌な気がしない。とくとくと胸が高鳴る。

「またね、ウサギさん。次はワルツを一緒してくれると嬉しいな」

 エリアルドは立ちあがると、恭しい会釈を捧げてくれた。ついでに帽子の羽根飾りを外して、エマイユに手渡す。

「今夜の記念に。君が望むなら、いつでもお聴かせするよ」

 エマイユはそれを抱き締めるように受け取った。

「エリアルド……」

「またね、ウサギのお姫様」

 彼の背中がランタンの向こうへと消えていく。

 それが見えなくなっても、エマイユは呆然と佇んでいた。ほんの一時だけ、エリアルドと恋仲でいたような気がして、こそばゆい。

 キス……されちゃった。

 見詰めあって、甘い言葉を囁いてもらって。それだけのことで舞いあがっている、自分の女の子らしい一面に驚いてしまう。

 夢のようだった。さっきまで素敵な男性と語らっていたことに、現実感がない。

 また会えるかしら?

 エマイユは夜空の月を仰ぎ見て、ウサギの耳を揺らした。

 

 遅くなった言い訳を考えながら、家路につく。

 ハロウィンのパーティーもお開きの頃合いになっていた。子どもたちはお菓子の包みを手に、親とともに帰っていく。

 クレハ・ベーカリーのカボチャパイもなくなり、エマイユのバスケットには羽根飾りしか残っていなかった。

 ……変になっちゃってるわ、あたし……。

エリアルドの笑みが網膜に焼きついて、今夜は眠れそうにない。

 ところがクレハ・ベーカリーのあたりは騒ぎになっていた。隣人の女性がエマイユを見つけるや、血相を変えて駆け寄ってくる。

「エマイユちゃん! あんた、無事だったのかい?」

「おばさん? 一体何が……」

 店の扉は開きっ放しで、蝶番が外れ掛かっていた。よほど乱暴に開かれたらしい。

 店内は照明が落ちており、厨房のほうでは小麦粉が煙になっていた。父と母の姿はどこにも見当たらない。

 お父さんたち、まだ帰ってないのかしら?

 と、最初は思った。しかしそれなら、隣人がこうも狼狽するわけがない。

異変に気付き、ひとが集まってきた。

「海賊が来たんだよ! あいつら、クレハさん家に乗り込んで」

「ばかな、海賊がパン屋を襲うわけないだろ? どこかにいないか?」

 口々に騒ぎながら、クレハ夫妻の行方を捜し始める。

 海賊……?

 エマイユはバスケットを落とした。羽根飾りも地面に転がる。

 フラムツォバ王国でいう『海賊』とは、内海の交易を独占する武装商船団のことだ。大国から権限を認められ、この港の南方を我が物顔で往来している。

 決して犯罪者の集団ではないが、フラムツォバ王国にとっては、ほとんど海賊と変わらない。不公平な権限のもと、王国船が積み荷を没収されるといった事件も多発した。

 そんな連中が祭りの喧騒に紛れて、エマイユの実家に踏み込んだらしい。

 目撃者の女性は真っ青になるほど怯えていた。

「旦那さんも奥さんも連れていかれちまって……ごめんよ、エマイユちゃん。見ていることしかできなかったんだ」

 エマイユは彼女よりも蒼白になってしまい、放心する。

 お父さんとお母さんが……海賊にさらわれた? う、嘘でしょ……?

 視界がぐらりと傾いて、倒れた自覚もなかった。

 

 

 ジーナの家に泊めてもらうことになり、エマイユは眠れない一夜を過ごした。窓から差し込む朝日は眩しいはずなのに、沈みきった心は一向に晴れない。

「エマイユ、朝ご飯は食べられそう?」

「うん……ごめんね、ジーナ」

 エマイユはジーナとともに、味のわからない朝食を済ませた。それからクレハ・ベーカリーの様子を見に行く。

 クレハ・ベーカリーには現場検証のため、朝から騎士団がやってきた。店の周囲をロープで囲み、立ち入り禁止の札を掛けている。

港の住人は騎士団の、要領を得ない仕事ぶりに苛立っていた。

「今頃出てきて、こいつら、なんだってんだ?」

「しっ! 声が大きいよ、あんた」

事件が起こったのは昨夜のことなのに、とっくに夜は明けている。犯人の追跡など間に合うはずもない。そのくせ、聞き込みは決めつけを前提とし、威圧的だった。

付き添ってくれているジーナが、エマイユに耳打ちする。

「海賊の仕業にはしたくないのよ、多分ね」

 武装商船団が港に乗り込んで誘拐など、前代未聞の事件に違いなかった。にもかかわらず、騎士団は五、六人の小隊が派遣されてきたのみ。

 事情聴取で、目撃者の隣人が声を荒らげる。

「だから海賊だよ、武装商船団! 剣に反りがついてたし、靴だってありゃ、船上で履くもんさ。何度も言ってるだろ?」

「武装商船団がわざわざここまで上がってきて、パン屋を狙うかね?」

「理由なんか知らないよ。クレハさんを助けりゃ、わかることじゃないのかい!」

 エマイユたちからすれば、海に出る者と、そうでない者は、簡単に見分けがついた。潮風に強い衣服は当然、髪型や日焼けの状態でも判別できる。

 騎士団がそれを認めたがらないのは、武装商船団と事を構えたくないからだろう。衰退期にあるフラムツォバ王国では、武装商船団を相手取ることも難しい。

 これでは両親の救出も期待できなかった。

 それでもエマイユは一縷の望みを掛けて、事情聴取に割り込む。

「おばさん、落ち着いてください」

「エマイユちゃん? そんなこと言ったって、さらわれたのはあんたの……」

「あたしなら平気です。少し眠りましたし」

 本当はまともに寝ておらず、疲労感のせいで足がもつれた。

担当の騎士がエマイユに目を見張る。

「……あなたは?」

「エマイユ=クレハです。……このパン屋の娘です」

 名乗ると、相手は急に柔らかい物腰になった。

「失礼。お気の毒とは思いますが、調査にご協力いただけますか」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 港の住人らが心配そうに見守る中、エマイユだけ店の奥へと案内される。

 店内は昨夜のまま、何ひとつ動いていなかった。足元には小麦粉が積もっている。

「アイザック団長! この店の娘を連れてきました」

「ご苦労」

 アイザックと呼ばれた騎士は、精悍な雰囲気をまとっていた。

彼もエマイユを見て一瞬、驚いた顔をする。

「……お名前を聞いても?」

「エマイユです。エマイユ=クレハ」

 現場検証に携わっているのはアイザックのほか、一名だけで、残りはクレハ・ベーカリーの周囲を固めているようだった。

「あなたはハロウィン祭りに行って、難を逃れた、と聞きましたが」

昨夜の出来事について、いくつか質問される。

 しかしエマイユは堪えきれず、アイザックに願い出た。

「あのっ、海に! 海のほうを調べてください。きっと、どこかに手がかりが……」

 両親を海賊などにさらわれ、平静でいられるわけがない。生きた心地がせず、不安に押し潰されそうになる。

「ご安心ください。すでに手配しております」

「で、でも! 海の向こうまで逃げられたら、追いかけることなんて」

 勢いづくエマイユを、アイザックがどうどうと鎮めた。

「今回の事件、我々騎士団は深刻なものと認識しております。明日には声明を発表し、隣国の協力も得られることでしょう」

 それが単なる気休めに過ぎないことは、エマイユにもわかっている。弱小のフラムツォバ王国が声明を出したからといって、東西の大国が協力するはずもなかった。

 しかしアイザックの真摯な顔つきは、信用できる気がする。

「情報が掴めましたら、すぐに報告しましょう。どうか、ご安心を」

「……よろしくお願いします」

 エマイユはこれからしばらく友人の家に泊まることを告げ、連絡先を交換した。

 ここで怒ったって、何にもならないわ。

 騎士団が今すぐ出陣しないのは、フラムツォバ王国が国際的に弱い立場にいるせいであって、彼らのせいではない。恨むのは筋違いだと、自分に言い聞かせる。

 アイザックと別れ、店を出ると、ジーナが駆け寄ってきた。

「エマイユ! 酷いこと言われたりしなかった?」

「大丈夫よ。アイザックさんは……誠実なひとだと思う」

 彼女に心配を掛けまいと、エマイユはぎこちない笑みでやり過ごす。

 いつの間にか近所の子どもたちも集まっていた。エマイユの両親が海賊にさらわれたと聞いて、様子を見に来てくれたらしい。

「エマイユねえちゃん、かいぞくなんか、おれがやっつけてやるよ」

 少年のガッツポーズは、成人した騎士よりも頼もしかった。

「ありがとう。でも、海には出ちゃだめよ」

 小さな頭を撫でながら、エマイユはジーナとともに海岸へと降りていく。

 

 今朝は特別に見張り台に上がらせてもらえた。港の住人たちはエマイユの心境を察し、気を遣ってくれている。

「そっちの双眼鏡も好きに使ってくれ。まあ、その……元気出しな」

「ありがとうございます、おじさん」

 エマイユはジーナと並んで、南方に広がる海を眺めた。コバルトブルーの海面が無限に揺らめいて、きらきらと光を放つ。

 地平線には数隻の商船があった。双眼鏡で窺うと、シャチの紋章が見える。それこそが内海を股にかけて荒稼ぎしている、武装商船団のエムブレムだった。

 同じものを見て、ジーナが呟く。

「あいつら、わざとこの近くを通っていくのよ。このあたりの下見も兼ねて」

 フラムツォバ王国が東西の大国に屈するようなことになれば、港町サノンはおそらく武装商船団の拠点となる。

 ただ、それは港にとって、莫大な利益になるかもしれなかった。造船所は営業を再開できるうえ、関税こそあれ、海上貿易に大手を振って参加できる。

 しかし、これまでに奪われたものが、すべて戻ってくるわけではない。エマイユの両親も二度と帰ってこない可能性があった。

 潮の香りに包まれているうち、気分が落ち着いてくる。

「どうして……あたしのお父さんとお母さん、だったのかしら」

 エマイユは双眼鏡を外し、疑問を口にした。

 パン職人などさらっても、武装商船団の利益にはなりえない。まだ漁船を奪っていくほうが、海賊としての辻褄は合った。

「エマイユのお父さんにパンを焼いて欲しいとか……? ごめん、違うわよね」

「ううん、気にしないで」

 海上では栄養が偏りがちになるため、腕のいい料理人が必要になる。それでもコックを雇えばいいはずで、パン屋の夫妻を強引に連れていく理由にはならなかった。

「……そろそろ戻りましょ、ジーナ」

「もういいの? 今日は何時間でも付き合うわよ、私」

「そんなことしたら、風邪ひいちゃうってば」

 だだっ広い海を眺めていても、己の無力さを痛感するばかり。三十分ほどしたら見張り台を降り、海岸から踵を返す。

「ごめん、ジーナ。先に戻ってて」

 思うところがあって、エマイユは再びクレハ・ベーカリーに向かった。

 お父さんたちのこと、もう一回お願いしてみよう。

 多忙な騎士団長に念を押すような真似は気が引けるものの、エマイユにも余裕がない。彼らが城へと帰還する前に、もう一度だけ会っておきたかった。

 人払いがされたのか、クレハ・ベーカリーの周囲に港の住人は残っていない。騎士たちは店の中で、何やら打ち合わせをしている。

「……やはり、商船団に先を越されたようですね」

 エマイユは咄嗟に口を押さえた。会話の内容に驚き、ぎくりと顔を強張らせる。

「一体どこで情報が漏れたんでしょうか」

「わからん。だが、エマイユ様が無事だったのは不幸中の幸いだ」

音を立てないよう、エマイユは忍び足で裏手にまわった。

何のこと? あたしが……無事?

しゃがみ込んで、アイザックらの話に耳を澄ませる。

「とにかく事態は急を要する。今夜にはエマイユ様をお迎えして、城に戻るぞ。ただしほかの住人には気取られるな。……心苦しいが、海賊の仕業にしてしまえばいい」

 彼らの狙いはエマイユだった。

情報が断片的なせいで、企みの全貌までは見えてこない。しかしアイザックがエマイユを特別視し、城へ連れていこうとしているのは、充分に理解できた。

早く逃げなきゃ……でも、どこへ……?

 アイザックにはすでにジーナの住所を教えてしまっている。彼らが今夜、本当に現れるとしたら、エマイユよりジーナのほうが危ない。

 エマイユは静かにクレハ・ベーカリーを離れた。浜辺まで逃げて、へたり込む。

「どうすればいいの……?」

 恋人ができたばかりの親友を、巻き込むことなどできなかった。かといって、ほかの誰かに頼れば、今度はそのひとを巻き込んでしまうことになる。

 しかも相手は武装商船団と、王国騎士団。抵抗は無意味に等しいどころか、下手に刺激しようものなら、報復されるのは目に見えていた。

 無力感に打ちひしがれるエマイユの胸を、潮風が吹き抜けていく。

 

 その夜、エマイユはジーナと同じベッドで眠っていた。

ここを出るつもりで、寝台の下には自分の荷物を置いてある。

「……ジーナ、まだ起きてる?」

「え? 起きてるわよ、どうかした?」

 まだジーナには気づかれていないようだった。

 耳を澄ませていたエマイユは、何者かが階段を上がってくる足音に気付く。

「お願いがあるの。何があっても、そのまま寝たふりしてて」

「……エマイユ? あなた」

 扉が開き、どたどたと男たちが躍り込んできた。カンテラをかざしつつ、反りのついた白刃をぎらつかせる。

 ジーナは飛び起きてしまった。

「なっ、何よ、あんたたち? まさか海賊っ?」

 エマイユも身を起こし、彼らのおかしな風貌を一瞥する。

 連中は帽子を目深に被り、さらに覆面で口元を隠していた。ブーツは馬に乗るためのものであって、海賊の恰好としては間違っている。

「……アイザックさんですね」

 リーダー格の男は驚き、覆面を外した。

「お気付きでしたか。このような形でお迎えにあがり、申し訳ありません」

 ほかの面々は正体を明かさず、じりじりとエマイユを取り囲む。

「待ってください。準備はできてますから」

 エマイユはベッドを降り、荷物を引っ張りだした。

寝巻に手頃なケープを羽織って、隠し持っていた靴を履く。

「エマイユ、どうして……」

「ジーナ、今夜のことは忘れて。……いいでしょう? アイザックさん。この子はもちろん、港の誰にも絶対に手を出さないでください。それが条件です」

「仰せのままに」

 アイザックは膝をつき、エマイユに敬意を表した。

 ジーナは布団に包まって、愕然としている。

「だ、だめよ、エマイユ……こんなの、おかしいわ。何がどうなってるの?」

「……ほんとにごめん。今までありがとう、ジーナ。元気でね」

 泣きたいのを堪えながら、エマイユは気丈に別れを告げた。

 アイザックとともに外に出て、夜の町を駆け抜けていく。

 もう二度と戻ってこられないかもしれない。その予感がエマイユの視界を滲ませた。

「この先に馬車を用意しております」

「……はい」

 寂しさを紛らわせたくて、エマイユは羽根飾りを握り締める。

 エリアルド……。

 昨夜のハロウィンは、最後の楽しい思い出。

 心地がよいだけの夢は覚め、苛酷な現実が始まった。

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