千夜一夜の寵愛
第4話
砂漠ならではの乾いた暑さが、朝のうちから地面をじりじりと焼く。
離宮のハレムでルージュは、ほかの寵姫らとともに縫い物を楽しんでいた。最近になって仲良くなったシンシアが、ルージュの器用さに感心する。
「すごく上手! 教えてあげようと思ってたのに」
「ふふっ、褒めすぎよ」
謙遜しつつ、ルージュも柔らかく微笑む。
裁縫くらい、アルカーシャの下働きで毎日のようにこなしていた。型紙からドレスを起こし、仕上げたこともある。
「でも……こんな衣装、何に使うの?」
「お城の夜会で、ちょっとした劇をしてるのよ。友達と一緒にね。よかったらルージュも参加してみない?」
「面白そう! 是非見てみたいわ」
シンシアとはすっかり打ち解け、談笑も弾んだ。シエラを始め、控えのメイドらも肩の力を抜いている。
カサノアの件が引き金となって、ハレムに三十人ほどいた寵姫は、十人弱まで減った。国王を種馬などと考えていた浅はかな連中は、もう後宮にいない。ルージュは王の恋人として、充分に役目を果たしたことになる。
反面、意識の高い寵姫は残った。次代の王妃に相応しい美貌と才覚を自負しつつ、奢ることのない女丈夫だけが、ハレムに優美な花を添えている。
「ここも過ごしやすくなったわね。ルージュ、あなたがやったんでしょ?」
「た、大したことはしてないのよ」
残った寵姫らはルージュの特異性に勘付いていた。
ルージュがアルカーシャ出身ということは、シエラやロイを除き、ほかの誰にも知られていない。その素性については今なお、さまざまな憶測が飛び交っている。
知り合いに魔法使いがいるらしい、とか。
だからといって、シンシアらが身を引くような気配はなかった。あくまでライバルとして、気丈に牽制もしてくる。
「まだまだ勝負はこれからよ? ルージュ。アスタル様を射止めるのが、このまま順調にあなたで決まり、とは限らないんだもの。うふふっ」
アスタル王を巡る女の戦いは、今こそ始まったのかもしれない。
ルージュは気を楽にして、談笑がてら、ネリザとともに情報収集に励んだ。
「ねえ、シンシア。太后様のこと聞いてもいい? あたし、何もしてないんだけど、睨まれちゃってるみたいで……」
シンシアたちがまずそうに声を潜める。
「あの方には関わらないのが一番よ。ヒステリーをお持ち、というか」
「シャニ様のこととなったら、目の色を変えるのよね。だから私たちも、シャニ様とは距離を取るようになって……カサノアの好き放題になってたわけ」
メナス太后は誰彼構わずに当たり散らす、という話は、今や城じゅうで共通の認識になっているようだった。にもかかわらず、太后派は依然として勢力が大きい。ファウストに続き、カサノアが戦線を離れても、影響力を維持している。
(太后にとり憑いてるやつが、上手くやってんのさ)
ネリザの物言いには含みがあった。
(ネリザ、あれが誰か、知ってるんでしょう?)
(……まあね。今日こそ話すよ)
豪胆な彼女でも言い渋るような真相があるらしい。
ルージュは裁縫の手を休め、話題を変えた。
「あなたたちは、その……国王派になるのかしら」
「どっち、というわけじゃないわよ。でも太后派でないことは確かね」
太后派が弱ったからといって、国王派が一気に勢力を拡大する気配もない。シンシアのように中立の立場を取る者も多く、アタヴィナの国政は未だ分裂している。
「アスタル様には事情がおありだから……」
そう言いかけ、シンシアは口を噤んだ。
(探りばっか入れてたら、怪しまれるかもね。これくらいにしときな)
(わかったわ。ありがと)
ルージュは作業を再開し、スカーフの仕上げに掛かる。
「そういえば……アスタル様が、隣国の方々にアタヴィナの楽曲を披露したいって言ってたの。シンシアにも話が行ってるんじゃない?」
「お父様から聞いたわ。でも面子を集めるのが大変そうで……」
先日、アタヴィナで国際会議が開かれることが決まった。アタヴィー河の流域にある諸国が一堂に会し、貿易や治安において、足並みを揃えるのが狙いという。
主催国のファマール朝アタヴィナとしては、自国の強大さを見せつける絶好の機会となる。アスタルが軍艦の整備を進めるのも、そういった情勢を踏まえてのことだった。
(アルカーシャで受けちまいなよ、ルージュ)
(またその話? やっぱり娼館だもの……難しいわよ)
ネリザの言い分に呆れつつ、ルージュはちくちくと針を進める。
古い劇団の名残でもあるアルカーシャには、充分なポテンシャルがあるかもしれない。しかし娼館の女が舞台に立つとなれば、猛反発に遭うのは目に見えていた。
午後はシャニの誘いを受け、地下の書庫へ。
シャニ王子は護衛の騎士とともに、書庫の前で待っていた。
「ごめんなさい! 遅くなっちゃって」
「いえ、ボクが早いだけです。さあ行きましょう」
以前のように女性を極端に怖がることもなく、歳相応に愛らしい。その顔立ちは、アスタルよりも先代の国王に似ている印象だった。
メナス太后は不眠を患っており、日中は部屋で休んでいることが多いらしい。おかげでシャニはのびのびと羽根を伸ばした。
「兄上も来てくれるんですよね? 今日は」
「そのはずよ。仕事が一段落したら、って言ってたわ」
懐っこい王子のはしゃぎぶりを、護衛の騎士も温かく見守っている。
今日もシャニはアタヴィナの地図や資料を広げ、ルージュに勉強の成果を聞かせた。本当は兄にこそ一番に聞いて欲しいのだろう。
アスタルとシャニの関係は冷えつつある。そこでルージュは今日の機会を設け、ふたりの仲を改善させたいと思っていた。ネリザも賛成してくれている。
(王様の言うこともわかるけどね。王子様の気持ちだって尊重してやらないとさ)
(うん。このままなんて、絶対によくないもの)
ルージュはシャニの隣の席についた。
「ご隠居様……お父さんのところには、あまり行かないの?」
「父上ってば、ボクに剣の稽古ばかりさせるんだもん」
少年の情けない言い分には、騎士も苦笑する。
こうして話していると、普通の子どもと変わらなかった。椅子に乗っかるように座り、足をぶらぶらさせながら、声を弾ませる。
「あとで兄上にもお話するつもりなんですけど……ボク、アタヴィナでやりたいことがあるんです。ルージュさんは知ってますか? 北にある、砂漠のこと……」
ところが、その元気な声が急にトーンを落とした。
「死の砂漠って呼ばれてるんです」
「……知ってるわよ」
地獄のような砂漠は、アタヴィナを大陸から孤立させている。
東西に抜ける分には距離が短く済むうえ、キャラバンなどの同行も望めた。ただし相応の身分証や金額が求められるため、気軽には利用できない。
アタヴィー河から出入りするにしても、近隣諸国の緊張もあって、航路は一向に安定しなかった。国外の下流には、奴隷商船が平然と行き来するような地域まであるという。
アタヴィナで生きる術をなくした者は、やはり北の砂漠へと挑むしかなかった。
「シャニこそ、よく知ってたわね。アスタル様も知らなかったのに」
「兄上が? そんなはずありませんよ」
シャニが地図をなぞり、問題の砂漠のあたりを指で囲む。
「サイアム朝の頃まで、ここには道があったんです。それを作りなおせば、昔みたいに行き来できるんじゃないかって……」
その地点を見詰め、ルージュは俯いた。
「あたしの友達がね、死の砂漠を越えたの。でも一緒に行ったひとは、半数以上が途中で亡くなったそうよ。そのひとも……本当に危ないところだったみたいで」
「……そうだったんですか」
シャニの指が砂漠を越え、北の王国を指し示す。
「近年はスピキオのほうから、少しずつ開発が進んでるんです。向こうのキャラバンもアタヴィナと直接交渉できるルートを探してる、というお話ですし」
「タバサさ……そのひとも調査隊に助けられたって、手紙に書いてあったわ」
国内外を問わず、キャラバンという隊商は砂漠越えの技術に長けていた。タバサのような素人が装備もなしに行くのとは、生存率がまったく違う。
シャニは自信満々に持論を展開した。
「ボクは死の砂漠を、自由な交易の場にしたいんです。そうなったら行き来だって簡単になって、雇用だって増えます」
専門家ではないルージュには、国政の是非までわからない。しかし年配の貴族が建前でやっているような嘘八百の政策より、ずっと応援する気になれた。
(そうさねえ……。死の砂漠は、誰かが挑戦しなくちゃならないんだ)
ネリザも少年の意気込みを買っている。
「あなたは立派な王子様ね」
「そ、そんなこと。兄上に比べたら、ボクなんてまだまだですよ」
ルージュに褒められ、シャニは顔を赤らめた。
ようやくアスタルが合流する。
「待たせたな、ルージュ。……ん? シャニも一緒か」
「兄上! 今ちょうど、新しい政策の話をしていたんです」
シャニは顔をあげ、無邪気な笑みを弾ませた。
ところが弟のひたむきな勢いに、アスタルは片手を突きだし、『待った』を掛ける。
「父上が呼んでいたぞ。また稽古をサボったな?」
「う。それは……」
「早く行ってこい。剣もまともに振れんようでは、誰もついてこんぞ?」
シャニがここにいるのは、高潔な兄を待ち侘びてのこと。それは控えの騎士やルージュのみならず、おそらくアスタルにも伝わっている。
それでもアスタルは弟の頭を撫でるだけで、突き放してしまった。
「話なら、また今度聞いてやる」
「……はい」
シャニがしょんぼりとして、椅子から降りる。
王子の一行は地図や資料を片付けると、早々に引きあげてしまった。ルージュは唇のへの字に曲げ、アスタルの、兄にしては心ない態度に文句をつける。
「少しはシャニの気持ちも考えてあげたら、どうなの? あんな小さい子を相手に、大の大人がみっともないわ」
「言ってくれるじゃないか、ルージュ」
辛辣な調子になってしまった物言いに、アスタルは眉を顰めた。その手がルージュの赤い髪にそっと触れ、指を絡ませる。
「俺とて、懐いてくるシャニは可愛いと思うさ。だが、周囲はそれを許さん」
「そんなの屁理屈よ。お母さんが違っても、弟は弟でしょ?」
「シャニは聡い子だ。とっくに気付いてるさ……」
アスタルとルージュの言い分は平行線のまま、決着しなかった。シャニに関して、彼はルージュの言葉に頑なに耳を貸そうとしない。
弟は兄を慕っているのに、兄は弟を煙たがる。血を分けた兄弟の異様な関係に、ルージュは寂しさともどかしさを感じていた。
理解ある恋人にはなれない。
(ちょっとは話を聞いてくれたって、いいと思わない?)
(しょうがないよ、ルージュ。男ってのは無駄に頑固だからさ)
言葉数が少なくなったルージュを連れ、アスタルは書庫の奥へと進んだ。
さらに下へと降りていくと、『禁書保管庫』というプレートのついた扉に突き当たる。
「……ここって?」
「見られては少々困るような本を置いてある。あぁ、俺と一緒なら入って構わん」
アスタルとルージュは鍵を開け、禁書保管庫に足を踏み入れた。あまり掃除されていないのか、少し埃っぽい。書斎のようになっており、奥にデスクもある。
(おっ! いいものがあるじゃないかい)
その机に魔法の水晶玉を見つけ、ネリザが喜んだ。
(あの傍まで行っておくれよ、ルージュ。王様に挨拶できそうだ)
(ほんと? ちょっと待って)
ルージュはアスタルの前に出て、青い水晶玉の埃を払う。
「紹介するわ、アスタル。これがネリザなの」
水晶玉の中に、女性の上半身がおぼろげに浮かんだ。二十半ばの、艶めかしい風貌の美女が、挑発的にウインクする。
『よう、ハンサムな王様。初めまして』
「……お前がネリザか」
『おや? 一目惚れでもしちまったかい?』
アスタルは水晶玉を覗き込んで、大きく瞬きした。危うい色香をまとったネリザと、健全無垢なルージュを見比べ、溜息をつく。
「ルージュ……面倒臭そうな女と一緒だったんだな」
「あ、わかる? 性格の悪さが出てるでしょ、顔とか言動に」
ルージュが相槌を打つと、水晶玉の中でネリザがふてくされた。
『あんたら、随分と仲良くなったねえ』
「ごめん、ごめん。怒らないで」
水晶玉の傍には、歴史や宗教関連の書物が積んである。
アタヴィナに現存する『歴史』は、常に時の王朝に都合よくまとめられてきた。例えば抵抗勢力をことごとく処刑した事実など、国家の正当性を揺るがしかねないものも多い。そういった機密は閲覧を禁止されたうえで、ここに保管されている。
「さて……太后に憑いてる悪霊のことだったな」
アスタルは歴史書を開き、水晶玉のネリザに、あるページを見せつけた。
「お前はサイアム朝の最後の王妃、ネリザ=サイアムだろう?」
その指摘を待っていたように、ネリザがにやりと微笑む。
『ご名答。……悪いね、ルージュ。あたいはこのアタヴィナの王妃だったのさ』
五歳の頃から彼女と生きてきたルージュにとって、衝撃の事実だった。アタヴィナの歴史や文化に造詣が深いのも、王妃だからこそ。
「トレジャーハンターっていうのは嘘だったのね」
『王家の墓で死んだのは本当だよ』
サイアム朝とは今よりひとつ前の王朝で、アタヴィナの領土を史上最大に広げた。当時はアタヴィー河の全流域を支配していたという。
『どっから話そうかねえ』
「太后様にとり憑いてる、悪霊のことを教えて。知ってるんでしょ」
『そのつもりさ。よく聞きな、ルージュ、王様』
ネリザが神妙な面持ちで口を開く。
サイアム朝は支配圏こそ広がったものの、数十年後、各地で反乱が相次いだ。特に北方の勢力は連合軍を結成し、アタヴィナ本国にも迫る勢いだったらしい。
ところが連合軍は一夜にして壊滅した。時のアタヴィナ国王サイアム7世が、忌まわしい呪術を用い、魔物を放ったからである。
その影響によって不毛の土地はさらに荒れ果て、やがて『死の砂漠』となった。
死の砂漠は異常気象がもたらしたものではない。近年になるまで他国の隊商が寄りつかなかったのも、残忍な王の呪いを怖れてのことだった。
『王様は知ってるんじゃないかい? 死者戻しってやつを』
「ああ……死人の魂を誰かにとり憑かせて、現世に呼び戻す、古い風習か」
アスタルは俄かに顔を顰めた。その言葉にルージュもぎくりとする。
「とり憑かせ……それって!」
「読めたぞ。太后は死者戻しを使って、サイアム7世を呼んだのだ。サイアム7世の呪術があれば、何でもできると思ったんだろうな」
ルージュの全身で肌がざわついた。おぞましい寒気がして、震えずにいられない。
まさか……あたし、あの時……?
記憶の奥底にあったビジョンが、思考の水面に浮かびあがってくる。
ルージュは五歳の時、何者かによって王家の墓へと誘拐された。そして次に目が覚めた時、ルージュにはネリザの霊が憑依していた。
「十年以上前、王家の墓で子どもの遺体がいくつも見つかったことがあったな」
『そう、あの女がサイアム7世……あたいの夫を冥界から引っ張りあげるために、餌にしたのさ。そのひとりが、そこにいるルージュでね』
「あ……あた、し?」
ルージュの平衡感覚がぐらりと傾く。
「しっかりしろ、ルージュ!」
アスタルに抱きとめられても、倒れた自覚はなかった。
暗がりで子どもたちが列になっていたのを、思いだす。そこでルージュは、サイアム7世ではなくネリザの霊魂を宿した。
『あたいも外に出なくちゃいけなかったのさ。夫を止めるために』
「そんなことが……」
ルージュはようやく自分の足で立ち、水晶玉と向かいあう。
ネリザに恨みなど、あるはずもない。ただ驚愕のあまり、呆然としてしまった。
「あなたがアスタル様に近づきたがってるのも、このためだったのね」
『そうさ。あたいの旦那のことだ、ひょっとしたら王様に憑いてんじゃないかって』
アスタルの表情は険しい。腕組みも深くなる。
「では、義母上にはサイアム7世が憑いていると考えて、間違いないのだな」
『残念だけどね。あの太后さん、このままじゃ長くないよ。まあ、先にアタヴィナが丸ごと砂漠になっちまうかもしれないけどね』
メナス太后の奇行ぶりからして、主導権はおそらくサイアム7世にあった。自分を呼びだした太后を逆に支配し、この時代でも暴虐の限りを尽くさんとしている。
ネリザは忌々しげに唇を噛んだ。
『王家の墓であたいは、相討ちのつもりで罠を作動させたのさ。だけどあいつは、とうとう化けて出ちまいやがった』
「ネリザ……サイアム7世ってひとは、何が狙いなの?」
『あたいが言うのも何だけど、悪霊の考えることなんて、わかんないよ』
ルージュは額を押さえ、止まりかけていた思考に回転を加える。
昔の王様が今になって……?
サイアム朝の最後の王は呪術を用い、北方の反乱軍を虐殺した。そのせいで大地は枯れ果て、無慈悲な死の砂漠が広がっている。
ファマール朝のメナス太后は、そんなサイアム7世の呪術に目をつけ、彼の霊魂を呼び戻そうとした。そのためにルージュは幼い頃、王家の墓へと誘拐され、そこでネリザの霊魂と邂逅を果たしている。
若き王の手が水晶玉に触れた。
「協力してくれるな? ネリザよ。お前の知識と情報、すべてを俺にくれ」
『もちろんさね。あたいの旦那が原因なんだし』
「お前がいてくれると、心強い。……無論、ルージュ、お前もな」
アスタルがルージュへと向きなおり、凛然と微笑む。
しかしルージュには、協力の意志はあっても、自信はなかった。所詮は偽者の恋人に過ぎず、アスタル王やアタヴィナのためにできることなど、ひとつもない。
「……どうした? ルージュ」
「あ、驚いちゃって……大丈夫よ、あたしも頑張るから」
声が裏返りそうになった。
☆
夜、ハレムの大部屋で、ルージュはアスタルに酌をしていた。ウイスキーを氷で割るのも慣れ、アスタルが満足そうに香りを仰ぐ。
「ふむ。美味いな」
砂漠の夜は冷え込むとはいえ、彼はウイスキーのロックを好んだ。風味が変わり、ちょうど好みの口当たりになるらしい。
「今日も政務のほうは大変だったんでしょ?」
「いつものことだ。まあカサノアの件以来、落ち着いてはいる」
ルージュは酌をしつつ、アスタルの横顔を眺めていた。家臣の前では厳めしい表情も、ルージュとふたりの夜は、口元が少し柔らかい。
「……お酒のせいよね」
「何か言ったか?」
「あなた、ほんとにウイスキーが好きなんだなって、思っただけよ」
アスタルは美酒で唇を潤わせた。
「お前も少し飲めるようなら、相伴させてやるんだがな」
「ごめんなさい。お酒はまだちょっと……」
ふたりきりのせいで、ルージュは緊張してばかり。
しかも大きなベッドに腰掛けており、いつ押し倒されてもおかしくない。ハレムの主が寵姫と愛欲に耽るための場所であって、平静を装いたくても、意識してしまう。
「そう怖がるな。手は出さんさ」
アスタルは恋人の不安を見抜き、はにかんだ。
あくまでルージュは恋人を演じているだけ。ハレムの寵姫は三分の一まで減ったが、アスタルはまだ結婚を望んでいないため、ルージュの仕事も終わらない。
その恋人も、彼の気分次第でハレムを出ることになる。
「嫌ってわけじゃないんだけど……これ、いつまで続けるの?」
「……そのうち、な」
アスタルは漠然と答えたが、ルージュにはそう遠くない予感があった。
一国の王が二十三歳で未婚というのは珍しい。政敵に次男もいる以上、世継ぎを作り、己の血筋を王の系譜とすることは、急務となる。
それこそ、王位継承に際して腹違いの兄弟が対立した例は、大陸じゅうにあった。
内乱によってアタヴィナの国力を低下させないためにも、アスタルには、権力基盤を盤石のものにしておく義務がある。彼が花嫁を迎える日は近い。
にもかかわらず、今夜もアスタルは、愛人に過ぎないルージュの腰に手をまわした。
「俺の妻になる女のことが、気になるか?」
脇腹を撫でつつ、ドレスから覗く小さなおへそに、指を近づけてくる。
「そ、そういうわけじゃ……」
「嘘をつけ。自分が用済みになると、考えていたんだろう?」
ふたりきりの時にまで触られることは、仕事上の契約にはなかった。まだ人前のほうが恋仲のアピールになるため、理に適っている。それでもアスタルは酔っているのか、ルージュを我が物のように抱き寄せたがった。
「もどかしいな。こうして腕の中に引っ張り込んでも、お前を手に入れた気がせん」
艶笑を浮かべながら、ルージュのおへそに狙いをつけ、指を滑らせようとする。しかしルージュは両手をお腹に当て、それを頑なに拒んだ。
「だ、だめ」
恋人にしては意固地な抵抗ぶりに、アスタルが眉を顰める。
「……嫌なのか?」
アスタルに求められること自体は、純粋に嬉しい。それが今夜限りの気まぐれであれ、身体が目当ての欲望であれ、受け入れてしまえそうな自分がいた。
あたしはこのひとのことが……好き、なんだもの。
「ごめんなさい。嫌とか、そういうのじゃなくって……」
だが、受け入れられない部分もあった。実の弟さえ冷たくあしらう冷徹さは、ルージュの価値観と真っ向から食い違っている。
ファウストやカサノアを皆の前で厳罰に弾劾したことも、一国の王としては正しい振る舞いかもしれない。おかげでルージュもタバサの無念を晴らすことができた。しかし国王の容赦のない理知には、ルージュでは到底ついていけない凄味がある。
押し黙っていると、アスタルが手を離した。
「すまん。酔いが過ぎたな」
一線を越えつつあった彼のほうが退いてくれたことで、ルージュの意地は尊重される。その代わりアスタルには我慢を強いてしまい、ぎくしゃくした。
「お前をからかうのが、前ほど簡単にはできなくなったみたいで、な」
「あなたのせいじゃないわ。あ、あたしが鈍感なだけで……」
「まあいいさ。俺が国王だからと、何でもかんでも許容されても、興が醒める」
アスタルが意地悪くにやつき、ルージュの頭を撫でる。
ルージュの中でネリザは呆れていた。
(アルカーシャでハンナたちに教わったろ? 駆け引きってやつを。寂しいふりして寄りかかるとか、あるじゃないか)
(話を飛躍させないで。いいのよ、あたしは別に)
(やれやれ。事なかれ主義なんて……あんた、若いんだからさ)
ネリザの小言をいなしつつ、アスタルに酌をしていると突然、扉が開け放たれた。
「陛下! まずいことになってますって!」
ロイが血相を変え、飛び込んでくる。
アスタルは眉間に皺を寄せ、ぶしつけな密偵を睨んだ。ルージュは慌ててアスタルから離れ、わざとらしく姿勢を正す。
「……俺のハレムに、男のお前が何の用だ? ロイ」
「それどころじゃないんすよ! 太后派の連中に嗅ぎつけられちまったみたいで」
ロイは遠慮せず、ベッドまでにじり寄ってきた。長い溜息のあと、思いきりがついたように声のトーンをあげる。
「お嬢さんの素性がばれました」
ルージュとアスタルはぎくりとして、顔を見合わせた。
あたしの……ことが?
アスタルが寵愛している恋人の正体は、アルカーシャの娼婦。うっかりシエラに話してしまったこともあったが、それは王の秘密であって、誰にも知られてはならない。
「どこから漏れた?」
「太后がアルカーシャに使いを出して、ドンピシャだったようです」
ネリザの舌打ちが聞こえた。
(サイアム7世だよ。あたいの気配を辿って、アルカーシャに気付いたんだ)
ルージュは立ちあがり、震える右手でこぶしを作る。
「な、なんとかしなくちゃ……!」
今に心ない侮辱や軽蔑を浴びせられるのは、火を見るより明らかだった。娼婦の扱いなど、世間では家畜に等しい。特に女性は、身体を売り物にする者を徹底的に蔑む。
タバサが死の砂漠に挑む羽目になったのも、娼婦の身の上によるところが大きかった。娼館を出れば、色で金を取るような『不埒な女』に居場所はない。
ルージュともどもアスタルも槍玉にあげられるだろう。
「待て。まだ状況がはっきりしとらん」
しかしルージュばかり焦る一方で、アスタルはベッドに腰を降ろしたまま、動こうとはしなかった。毅然とした面持ちで、命令をくだす。
「ロイ、お前は引き続き、情報収集に当たれ」
「了解っす。ファウストあたりが絡んでるかもしれませんし、ちょいと調べてみます」
ロイは敬礼で応じ、すぐに踵を返した。軽い駆け足で部屋を飛びだしていく。
アスタルは戸惑うルージュの手を引き、隣に座りなおさせた。
「ルージュ、お前はしばらくハレムから出るな。何かあったら、俺に言え」
「……わかったわ。ごめんなさい、あたしのせいで……」
ルージュは不安に駆られ、俯きがちに自嘲する。
自分の出自がアスタルの足を引っ張るのは間違いなかった。彼を巻き込んでしまうことが後ろめたくて、傍にいるのもつらくなる。
そんなルージュの額を、アスタルの指が弾いた。目頭が熱くなるくらいには痛い。
「きゃっ? 何するのよ、こんな時に」
「辛気臭い顔をしているからだ。安心しろ、お前は俺が守ってやる」
状況は悪いはずなのに、アスタルは余裕の笑みを浮かべ、小憎らしいほどだった。頭の中でネリザがルージュを茶化す。
(お熱いねえ。王様の言う通りさ、悪いほうに考え過ぎだよ、ルージュ)
(悪いほうにしか考えられないわよ、こんなの)
ルージュは顔をあげられず、重々しい溜息を重ねた。
☆
王城では今日も噂が飛び交っている。
アスタル王の恋人は、有力貴族の隠し子だとか、隣国の姫などと囁かれていた。ところが娼館の娘であったことに、家臣らは驚きを隠せない。
もとよりアスタルは潔白を旨とする人柄のため、娼館に出入りしているなど、誰も思わなかった。国王派は疑心暗鬼に陥り、太后派にも動揺が広がっている。
ハレムのシンシアたちも戸惑っていた。今日の茶会はルージュとシンシアのふたりだけになってしまい、茶菓子が余る。
ルージュは紅茶に手をつけず、口ごもった。
「シンシア、あなたは大丈夫なの? あたしと一緒にいて……」
「気にしないで。みんな、あなたにどう接していいのか、わからないだけなの」
シンシアが屈託のない笑みで場を和ませようとする。
ハレムに残っている十名ほどの寵姫は、表立ってルージュを批難することはなかった。いたずらに女性を『売女』と罵ることは、かえって己の品位を下げると知っているのが、ひとつ。また、もうひとつの理由として、ルージュに気を遣ってくれていた。
「昨日はターナがお菓子を焼いて、持ってきてくれたの」
「あの子はそういうの、好きだから。ルージュもお菓子作りは得意なんでしょう?」
アスタルがルージュを選べば、彼女らは娼婦ごときに負けたことになる。それでもルージュを責めず、穏便に済ませようとする気高さには、感服した。
だからこそ、彼女たちに迷惑を掛けたくない。
「本殿のほうはどうなの? シンシア」
「少しは落ち着いたけど……噂好きなひとが多いから。でもアスタル様の手前、罵詈雑言が飛ぶような事態にはなってないから、安心して」
シンシアは瞼を伏せ、紅茶の香りを仰いだ。
ルージュへの侮辱は、彼女を寵愛するアスタル王への侮辱にもなる。特に国王派は様子見に徹する者が多いらしい。
一方で太后派は、誰が最初にアスタルやルージュを糾弾できるかという、チキンレースの様相を呈しているようだった。両陣営ともに膠着が続いている。
「それにアスタル様は、もともと……」
言いかけたシンシアが口を噤む。
「どうしたの?」
「ごめんなさい、今のは忘れて」
首を傾げつつ、ルージュは琥珀色の紅茶に視線を落とした。
こんなことになっちゃって、どうしたらいいの?
娼婦だという事実が、両肩に重たく圧し掛かる。自分自身が惨めに思えてくる。
アルカーシャでの生活は、普通の女性とそう違わなかった。炊事や洗濯に精を出しながら、舞いや楽器の練習をする。夜はドレスを直したりして、疲れたら眠る。
だが世間は、娼館の女を畜生と同然にしか考えなかった。
ルージュたちが矜持を抱き、いくら胸を張ったところで、その評価は覆らない。金欲しさに身体を売る、浅ましい女の分際で、と蔑まれる。
それこそ、生きてはいけないように思わされ、自ら命を絶つ者もいた。貴族御用達のアルカーシャも例外ではなく、娼婦たちは針のむしろに座らされながら、生きている。
(言わせときゃいいんだよ、そんなの。ほら、ハンナなんて強気なもんさね)
(みんながみんな、強いわけじゃないの、知ってるでしょ?)
ハンナも妹分には語らないだけで、深い傷を負っているはずだった。
あっけらかんとしていたネリザの声が、神妙になる。
(それにしても解せないねえ。おかしいと思わないかい? なんで王様は、わざわざアルカーシャの女を恋人に選んだのさ)
縁談を避けるための恋人など、秘密さえ守れるのなら、ほかの女性でも問題ないはずだった。娼館の娘というリスクを負ってまで、わざわざルージュを選ぶ必要はない。
(確かにアルカーシャの女なら、教養もあるし、美人も揃ってるさ。……でもねえ?)
(何かあるのよ、きっと。アルカーシャじゃないといけなかった理由が)
ルージュは確信を込め、頷いた。
ネリザの存在を知らないシンシアが、きょとんとする。
「ぼーっとして、どうしたの?」
「出るのよ、このハレム。昼間でもオバケが」
一流の淑女に俗な怪談は、あまり受けなかった。
ハレムの私室に戻ると、シエラから手紙を渡される。
「お茶会の最中に、ロイが預けていきました」
「アルカーシャから? ありがとう」
手紙はハンナからのものだった。少々雑な文字で、最近の出来事が綴られている。
アスタル王の恋人が娼婦のルージュだったことは、アルカーシャでも騒ぎになっているらしい。ルージュは文面に目を通し、血の気がなくなるほど青ざめた。
「……営業を停止?」
王に配慮し、あるいは巻き添えを恐れて、常連の貴族らが一斉にキャンセルを始めたという。違約金は一応支払われたものの、口止め料の意味合いが強かった。
アルカーシャが潰れようものなら、ハンナたちは死の砂漠のほかに行き場を失う。
(こいつはまずいね。様子見なんて悠長なこと、言ってられないよ)
豪胆なネリザさえ、肝を冷やしている調子だった。
手紙によれば、今回の発端にはファウストが一枚噛んでいる。彼はタバサの指輪の件でアルカーシャに探りを入れ、ルージュの素性を知ったのだろう。そこにはおそらくサイアム7世の入れ知恵も働いていた。
「シエラ、ロイはどこか、知らない?」
「申し訳ございません。アルカーシャとお城を行き来しているようです」
部屋で待つことしかできないのが歯痒い。
「おい、ルージュ。いるのか」
「……アスタル様っ? お、お待ちくださいませ」
ところが珍しく、日中のうちからアスタルがルージュのもとにやってきた。迎えに出たシエラが驚きつつ、室内へと案内する。
「どうぞ、お掛けになってください。すぐにお茶をお持ちします」
「ああ。それが済んだら、席を外してくれ。ルージュとふたりで話がしたい」
「かしこまりました」
よくできたメイドはてきぱきと紅茶を淹れ、客人に差しだした。一礼だけすると、器用に足音もなく退室していく。
アスタルはソファにもたれ、ふうと息をついた。
「隣に来ないのか? ルージュ」
「え、ええ。それじゃあ」
促されて、ルージュはおずおずと彼の左隣に腰を降ろす。
アスタルの手が無遠慮に腰にまわってきた。それが彼にとって当たり前の距離になっているようで、必然的に顔も近くなる。
「アスタル様、お仕事はいいの? いつもは政務室か、お部屋でしょ」
「息抜きに来たんだ。……お前に会いたくなってな」
いつもの口説き文句なのに、いつもの余裕が感じられなかった。初心な恋人をからかうための口振りではなく、虚しさを孕んでいる。
「それに俺がいないほうが、連中の陰口も盛りあがるだろう」
自信家のらしくない自嘲に、ルージュは違和感を覚えた。凛然とした強さの裏に、弱さが隠れていることに勘付く。
「……何があったの? あたしには、話を聞くくらいしかできないけど」
「ふっ、その『聞いてもらえる』ことがありがたいのさ。俺みたいな愚痴り屋には」
ルージュの身体に触れてはいても、アスタルの手つきは、決して無理強いするものではなかった。本当に触ってよいのか、決めあぐねている節さえある。
「父上と……亡くなった母のことだ」
彼の表情が沈んだ。紅茶では酔うことのできない唇が、ぽつりと呟く。
「俺の母も娼館の娘だったらしい。アルカーシャではない、別のな」
驚きのあまり、ルージュは瞬きすら忘れた。強張る瞳でアスタルを見詰める。
「あなたのお母さんが……ど、どうして?」
先代の王もハレムを有し、由緒ある令嬢の中から花嫁を選んでいるはずだった。後妻のメナス太后も、一時期はハレムに属していたという。
ところがアスタルの実母は市井の、それも娼館の女だった。
「父上の代まで、王家の男は早めに女を知っておけ、という慣わしがあったのさ。色に溺れた王が国を滅ぼすこともあるだろう? そうならないための、いかれたしきたりだ」
アスタルの温かい吐息がルージュの耳たぶを刺激する。
「父上は女を知るためだけに、娼館で初ものの女を買った。それが母だ」
「その時に……赤ちゃんができたの?」
彼の愛撫じみた囁きに震えながら、ルージュは視線を返した。距離が近いせいで、アスタルの瞳に自分の顔が映っているのを、覗き込んでしまえる。
「そうではないが……父上は初めて女を抱いて、責任を取ると言いだしたんだ」
アスタルは生まれる前のことを、淡々と語った。
「いや、責任を取るというのは建前で、単に母を口説きたかったのかもしれん。父上は周囲の反対を押しきり、母を正妻に迎えた。そして……俺が生まれた」
いつぞやのメナス太后の罵倒が、腑に落ちる。
『これだから売女の息子なんて』
娼婦の子というだけで、アスタルは生まれた時から逆境に立たされていた。ルージュのような娼婦と同等か、もしくはそれ以上に、敵は多い。
「連中が俺を引きずりおろしたがるわけさ」
太后派は貴族の子シャニを推しつつ、娼婦の子アスタルの失脚を狙っていた。弟のシャニのほうが王族としては『正統』という論法が、まかり通ってしまう。
だからこそ、アスタルはシャニとの関係を構築できないのかもしれなかった。純血の王位継承者である弟に、劣等感を抱くか、引け目を感じている。
「俺たちを貶めるやつらは、単なる嫌悪感に、正義感を着せようとする。俺やお前、アルカーシャを追い立てることが、正しいと思ってるんだ」
アスタルの怜悧な分析に、ふつふつと怒りが込みあげてきた。口の悪いネリザが、頭の中で吐き捨てる。
(虫唾が走るのはこっちだよ! やつらはそんなに上等な人間だってのかい?)
ルージュは握りこぶしを作って、当たり散らしかねない憤怒を自制した。
「……あなたのお母さんは幸せそうだったの? アスタル様」
「それは間違いない。俺も可愛がられたものさ」
アスタルの気取らない笑みが、ルージュの胸を楽にする。
と思いきや、不意打ちでおへそをなぞられた。
「ひゃっ?」
反射的に声が上擦ってしまい、その吐息が危うい色香を漂わせる。
「だから俺も、娼婦というやつに興味があったんだ。父上が妃に迎え、俺を産んでくれた女のことが。そして、お前が気に入った」
「ちょ、ちょっと? 今はこういうこと、はぁ、してる場合じゃ……」
自分でも信じられないほど、身体が震えた。アスタルに密着していては、震えが伝わってしまって恥ずかしいのに、離れるだけの力が出ない。
悶えるルージュを、アスタルは軽々と抱きあげ、膝に乗せた。
「王を椅子代わりにしてる気分はどうだ? ここに座っていいのは、お前だけだぞ」
誘惑的に囁きながら、今度は両手でルージュの柳腰を優しく撫でまわす。
敏感なおへそには中指の腹が押し当てられた。小刻みに擦られると、ぞくぞくと震えとともに快感が込みあげてくる。
「ほんと、待って……そ、そこ、弱いからっ」
ルージュはか弱い鳴き声をあげ、華奢な身体をくねらせた。しかし右に捩っても、左に捩っても、アスタルの力強い抱擁からは逃れられない。
「お願い、もぅ、おしまいに……んあ?」
頬は赤く色づいて、伏せがちな瞳は蕩けつつあった。
触られているのが胸やお尻であれば、抵抗のひとつもできたに違いない。けれども、おへそという曖昧な場所のせいで、妥協してしまいそうになる。
「これ以上はせん、安心しろ。ここまでは楽しませてもらうが、な」
アスタルはルージュのドレスに一切手を掛けなかった。ただし最初から見えているおへそには執拗に指を進め、弾いたり、なぞったりを繰り返す。
ところが、横から第三者の声がした。
「ルージュ様、アスタル様。お茶菓子をお持ち……」
情事を目の当たりにしてしまったシエラが、ぎくっと硬直する。
ここはハレムの一室とはいえ、大部屋ほどエロティックな場所ではない。しかもまだ昼間であって、男女が愛欲に耽るには早すぎる。
ルージュは赤面し、慌ててアスタルから離れた。
「ち、違うの! これは別に」
アスタルのほうは平然としている。
「ご苦労、シエラ。そうだな、たまには甘い菓子も悪くない」
「どうぞ、ルージュ様もお召しあがりください」
シエラは一介のメイドに徹し、見て見ぬふりで流してくれた。しかし『見られた』ことには変わりなく、ルージュの顔から羞恥の熱が引かない。
どうしちゃったのかしら、あたし?
以前アスタルに迫られた時は拒絶できたのに、今回は受け入れてしまった。
アスタルの声や手つきが、身体だけでなく、心にまで届く。ひとつひとつは小さな欠片でも、彼と触れあうたびに溜まり、ルージュの胸を満たしつつあった。
「そ、そうだわ、アスタル様。これを見て」
ルージュは気持ちを切り替えて、ハンナからの手紙をアスタルに手渡す。
手紙に目を通すと、アスタルは険しい表情になった。
「……なるほどな。愛人がばれはしないかと、気が気でならん連中も多いわけだ」
今まではアルカーシャの存在自体、暗黙の了解だったが、ルージュとともに頻繁に名が出るようになっている。
アルカーシャに捜査の手が入れば、苦境に立たされるのは娼婦だけではなかった。大半の客もまた、娼婦らとの逢瀬の事実を暴露される羽目になる。口止め料として違約金を払ったところで、過去を消すことはできない。
(とりあえず帳簿を用意させときな。武器になる)
(帳簿を? 何に使うの?)
ネリザの助言に首を傾げていると、アスタルが皮肉を噛んだ。
「ふっ、アルカーシャにしてみれば、連中の弱みを握っているも同じか。上手く立ちまわれば、チャンスにできるかもしれんぞ」
(そういうことさ。このまま潰されて終わりにゃ、したくないだろ?)
ルージュはハンナの手紙を手に、決意する。
「アスタル様、あたし、アルカーシャに行ってくるわ」
「……うむ。お前が適任だろう」
アルカーシャが生き残るためには、諦めずに立ちあがるほかなかった。じっとしていては、いずれ全員で死の砂漠で骸を晒すことになる。
(女の意地ってやつを見せてやろうじゃないか、ルージュ)
(うん! 戦わなくっちゃ)
アルカーシャに転換期が訪れつつあった。
☆
翌日の昼過ぎ、騎士団とロイを護衛にして、ルージュはアルカーシャへと赴く。
やがて見慣れた街並みに差し掛かり、前方に懐かしい館が見えてきた。アルカーシャの壮麗な佇まいは、歓楽街でも一際目立つ。
ところが途中で、向こうからも馬車の一団が駆けてきた。すれ違いざまに、籠に乗っているメナス太后と目が合う。
(……ちっ。アルカーシャにちょっかい掛けた帰りってわけかい)
(急ぎましょ。何かあったはずよ)
アルカーシャに着くと、ハンナたちが出迎えてくれた。
「ルージュ! よかった、元気そうじゃないか」
「みんなも。……ごめんなさい、あたしのせいで、大変なことになっちゃって」
「あんたのせいじゃないさ」
数ヶ月ぶりとなるアルカーシャに、ルージュは足を踏み入れる。
煌びやかな館内を見渡し、ロイはほうと感心した。
「正門から入ったのは初めてだなあ。城ほどじゃないけど、凝ってるじゃん。これで娼館だなんて、とても……あ、わりぃ」
「気にしないで。娼館なのは事実なんだもの」
いくら豪奢に飾り立てたところで、いかがわしい店であることは誤魔化せない。
すでに客を何人も取っているハンナは、諦観の域に達していた。
「そう。化粧も、教養も、いい女を抱かせるためのものさ。悔しいね」
気丈な彼女にしては珍しい自嘲ぶりが、ルージュをいっそう不安にさせる。
「ハンナ、さっき、太后様が来たんじゃないの?」
「来たよ。散々喚き散らしてったとこさ」
メナス太后がここで何をしたのか、想像に難くなかった。八つ当たりのついでに、娼婦らに辛辣な罵詈雑言を浴びせたのだろう。呪われている太后には、慈悲も容赦もない。
また、アルカーシャの件に関しては、貴族の婦人たちからの反発も強かった。男尊女卑の風潮のもと、今までは旦那の『夜遊び』を黙認していたものの、太后とともに急速に勢いを増しつつある。アルカーシャにとって、状況は一向に芳しくない。
会合などで用いる円卓で、ルージュたちは席についた。ロイは座らず、ルージュの傍で壁にもたれ掛かる。
「オレはいないもんと思ってくれていいから。お嬢さん」
「ありがとう。じゃあ、ハンナ。お願い」
ハンナは咳払いをして、臨時ミーティングの進行を務めた。
「さて……みんなも知ってる通り、アルカーシャは今、大変な状況にある。アスタル王の恋人……厳密には恋人じゃないんだけど、それがルージュだったんだ」
アルカーシャの娼婦たちは、そもそもルージュが城にいたことも知らない。まずはルージュが王のハレムへと招かれた経緯から整理していく。
アスタル王は縁談を遠ざけるため、ルージュを『最愛の恋人』に仕立てあげた。それは功を奏し、寵姫は半数以下まで減っている。
だが、ルージュが娼館の娘であることが発覚してしまった。王宮では根も葉もない噂が飛び交い、アスタル王もその品格を疑問視されるほどの事態になっている。
「ちょっといい? どうして王様はルージュを選んだわけ? 恋人役なら、そこらの町娘でもよかったんじゃないの?」
王の沽券にも関わる質問に、ルージュは正面から向かいあった。
「アスタル様のお母さんも、娼婦だったの」
一同に驚愕の波が走る。
アスタルは娼婦に拘りがあって、アルカーシャを訪れた。おそらくリスクも承知のうえで、ルージュを城に連れ帰り、恋人役を演じさせている。
おかげで商売を台無しにされつつある女将は、辟易とした。
「これだから、うちの子を余所にやるのは嫌だったんだよ。まったくいい迷惑さ」
「そうは言うけどさあ、女将さん、王様相手に反抗できたわけ?」
「そりゃ、まあ……ねえ」
もとよりアルカーシャに拒否権はない。
ただ、アルカーシャには貴族を道連れにできるだけの情報もあった。帳簿には、これまでの客と娼婦の後ろ暗い逢瀬の数々が、克明に記されている。
ハンナは帳簿の一部を開き、全員に釘を刺した。
「こっちにゃ切り札として、こいつがある。馴染みの連中も邪魔はできないはずさ」
「待ちなよ、ハンナ。下手に刺激すりゃ、どんな手を打たれるか……」
傍観者の立場から、ロイが口を出す。
「オレみたいなのがお偉いさんに雇われて、帳簿を処分しちまうって手もあるぜ。写しなんかを作っても、時間稼ぎにしかならねえだろうな」
建前と体裁を気にする客ほど、アルカーシャには黙ったまま消えてくれることを望んでいた。こちらが余計な交渉を仕掛ければ、直接的な手段で『消される』可能性も高い。
ルージュも手を挙げ、提案する。
「いっそ、帳簿を処分することを条件にして、少しの間だけでも協力してもらったほうがいいんじゃないかしら?」
「なるほど……こういう時のルージュは、頭がまわるね」
ハンナは感心気味に相槌を打った。
しかしルージュの発言は、厳密にはルージュのものではない。頭の中にもうひとり、聡明なメンバーが隠れている。
「みんなに紹介するわ。ずっと一緒にいた、ユーレイ……なんだけど」
ルージュは城の書庫から持ちだしてきた、魔法の水晶玉を円卓に置いた。そこにネリザの顔が浮かびあがると、ハンナたちが前のめりになって、驚く。
『よう、アルカーシャの姉さんたち』
「な、なんだい? こいつは」
『あたいはネリザ。ルージュとはちょっとした縁でね』
ネリザは自己紹介しつつ、これまでの経緯を簡単に語った。娼婦たちは押し黙り、ハンナも戸惑いを浮かべる。
「俄かには信じられないけど……いいよ、わかった。あんたを疑ってる暇もないんだ」
『ありがとうよ。ハンナ、あんたは要領いいから、その判断で来ると思ったさ』
ネリザははにかむと、改めて切り出した。
『問題はルージュの素性がばれたことだけじゃないよ。あたいの都合でもあるけど、太后に厄介なのがとり憑いてるのが、一番まずいのさ』
メナス太后に目をつけられた以上、アルカーシャに逃げ場はない。先ほども太后に警告か脅迫をされたはずで、皆の表情が沈む。
「あの女と一戦交えるってんなら、私はやるよ。あんたらはどうする?」
ハンナひとりが発破を掛けても、名乗りをあげる者はいなかった。
「牝豚は豚小屋に帰れってまで言われて、黙ってるつもりかい? 女の意地ってやつを、見せてやろうじゃないか!」
「私だって悔しいわよ? だけど、何ができるっていうの?」
貴族や太后と渡りあえる術など、娼婦にあるはずがない。むしろ勇敢なハンナだけ孤立してしまい、もどかしそうに歯を噛みあわせる。
「だったら、みんなで死の砂漠へ行こうって? それこそ冗談じゃないだろ?」
「待って、ハンナ。ネリザにアイデアがあるみたいなの」
いきりたつハンナを鎮めながら、ルージュは水晶玉をさらに前に進めた。
『要はあたいらのアルカーシャが、低俗な娼館じゃなければいいのさ。貴族が出入りしてもおかしくないような、ね』
ネリザの謎かけじみた言いまわしに、面々がざわめく。
「娼館じゃないって……? どういうこと?」
「今さら何を弁解しようっていうの? 娼館は所詮、娼館でしょ」
ルージュは目配せするように仲間たちを一瞥し、静まり返るのを待った。
「……続けて、ネリザ」
ネリザがとっておきの秘策を明かす。
『舞台劇をしようじゃないか』
突拍子もない提案に、さしものハンナも唖然とした。
「は? 舞台、だって?」
「そうよ。あたしたちでアルカーシャを劇団にしちゃうの!」
ルージュは立ちあがり、円卓に両手をばんとつく。
「公演をしましょう! ダンスはいつも練習してるし、演奏だってできるんだもの」
アルカーシャが貴族御用達の娼館であることは、民も噂程度に知っていた。正門から市井の男子が来ることはなくても、ほかに行き場のない女子は裏口の扉を叩く。
しかし娼館というのは、あくまで噂に過ぎない。そこで、貴族だけでなく庶民にも舞台を披露し、健全な『劇団』へと転身を図るのが、ネリザの案だった。
ルージュは顔を引き締め、皆を鼓舞する。
「どう? みんな。やってみない?」
一方で娼婦らは困惑し、口々に疑問を投げてきた。
「そうは言ったって……舞台なんて、どこにあるっていうのよ?」
「陽が暮れてから、外でやればいいわ」
「男の役は? うちには女しかいないのに……」
「女性が演るのよ。男装して」
あらかじめネリザと相談していたおかげで、ルージュははきはきと問題点を解消していく。だが、彼女らにも踏ん切りをつけさせるには、まだ至らなかった。
「今回の舞台が上手くいったら、次はアタヴィナ国際会議でも踊れるのよ」
「え……何の話?」
千載一遇のチャンスを認識できているのは、ルージュだけ。アルカーシャに有利なシナリオを熱弁し、少しでも仲間たちの興味を引く。
もともとアルカーシャは外来の有力な劇団だった。サイアム朝の末期、死の砂漠に遮られて故郷に帰れなくなり、定住するしかなかったという経緯がある。
サイアム朝の崩壊後、外来の文化を排他的に取り締まる風潮が強まり、アルカーシャも舞台を続けられなくなった。
しかしその技術は今なお受け継がれている。アルカーシャの女たちは、アタヴィナのあらゆる楽曲をこなし、華麗な踊りを舞うことができた。
ネリザが彼女らの背中を押す。
『アタヴィナにゃ、目立った劇団はないんだ。今ならアスタル王のお気に入りっていう箔もついて、一気にのしあがれるってもんさ』
「でも、私らは娼婦だから……」
「いつまで自分を卑下してんだい、あんたたちは!」
声を荒らげたのは、意外にもアルカーシャの女将だった。ずっと顔を曇らせていたはずが、今は生気に満ちている。
「ここまで追い込まれてんだ、勝負してやろうじゃないか。なんてったって、金になる。それに劇団員ってんなら、結婚も子作りも思いのままだよ?」
前向きどころか前のめりな言葉に、皆がはっとした。
女将としては、単にビジネスを見越しての発言かもしれない。それでも娼婦たちの劣等感を拭い、鼓舞するには効果てきめんで、皆の気持ちが同じほうを向き始める。
「砂漠で骨を埋めるってやつは、出ていきな」
もとより挑戦するほかなかった。ルージュたちの背後には死の砂漠が広がっている。
「売女のまま死ぬなんて、私は嫌よ。やってやるわ」
「私も! 楽器なら得意だし」
次第に皆も前向きになって、とんとん拍子に話が進んだ。
「舞台衣装は私らで作ればいいわけね」
「台本は? 監督だっているわよ」
途中でロイが口を挟む。
「ちょいと待った。劇はいいとして、宣伝も必要だぜ? 客を呼ばねえと」
「読めたよ。そこを常連のお客さんに手伝わせよう、ってことだろ」
ハンナは椅子にもたれ、納得したように頷いた。
アルカーシャが娼館であっては、常連客にとっても都合が悪い。しかしそれがアタヴィナを代表する『劇団』になるのであれば、話は変わってくる。
『ここであたいらに恩を売ってりゃ、あとあと劇団の運営にも関われるしねえ。仮に失敗したって、連中にはリスクもないんだし』
「アスタル様も応援してくれるわ。きっと、ううん……絶対に成功する」
ルージュの意気込みはハンナたちにも伝わった。『できるわけがない』という諦めのムードが、『できるかもしれない』に転じ、盛りあがっていく。
「公演は一か月後。タイトなスケジュールになっちゃうけど、それ以上は延ばせないわ。みんなでやりましょ、最高の舞台を!」
娼婦らも意気揚々と起立し、ガッツポーズを決めた。
「やってやろうじゃない! 私たちのアルカーシャのために!」
売女と蔑まれ、罵られて、平気な者などいない。アルカーシャの女はずっと外の世界に憧れていた。今度の舞台は、胸を張って表に出る、最初で最後のチャンスとなる。
ここでやらなきゃ、女がすたるわ!
武者震いがした。わくわくして、無邪気な幼子のように胸が躍る。
『そんじゃ、配役なんかを決めていこうか。ルージュ、あんたはヒロインね』
「……え、あたしが?」
全員の視線がルージュに集まった。
『王様の恋人がトップ張るのがいいんだ。覚悟決めな』
「そういうことだね。頼んだよ、ルージュ」
断る理由などない。ルージュは胸に手を当て、皆の期待を受け止める。
「わかったわ。みんな、頑張りましょ!」
ヒロインは決まった。
☆
アルカーシャの公演まで、およそ一ヶ月。
演目と配役が決まるや、猛練習が始まった。ルージュもアルカーシャで寝泊まりし、ヒロインとして、朝から晩までみっちりと稽古に精を出す。
アルカーシャの全員に芸事の心得があるとはいえ、舞台の経験は一度もなく、なかなか要領を得ない。練習を始めてから、足らないものに気付くのを繰り返す。
特に舞台の『構成』が難題となった。どの役が、どこから、どのタイミングで登場するのか、といった段取りを組むには、専門的な知識やセンスがいる。それをクリアしてくれたのは、ハレムの寵姫、シンシアだった。
衣装の製作も急ピッチで進められている。この作業にはシエラのほか、大勢のメイドが助っ人に入ってくれたおかげで、アルカーシャの面々はレッスンに没頭できた。
楽隊のほうもメンバーを決め、曲の練習に入っている。指揮は女将がじきじきに務めることになり、連日のように熱烈な指導がおこなわれた。
舞台のほうはハンナが仕切りつつ、ネリザもアドバイザーにつく。
演目はアタヴィナで定番の『千夜一夜物語』。これをサイアム朝の時代に置き換え、アレンジしたものを披露する。
そこにはネリザの狙いがあった。サイアム朝が題材となれば、メナス太后とともにサイアム7世も見に来ざるを得ない。ネリザはそこで夫との決着をつけるという。
広報は常連の貴族らでおこなってもらう運びとなった。すでに城下町のあちこちにビラが貼られ、劇団アルカーシャは民の間で噂になっている。
『アスタル王の恋人がヒロインを演じるらしいぞ』
『今まではお城でだけ演ってたのが、公開されるんだってね』
『女だけの劇団って、本当に?』
半信半疑といった雰囲気だが、期待はされていた。
アスタル直属の騎士団が張っている甲斐あって、太后派からの妨害もない。しかし城のほうでは不穏な動きがあるらしく、アスタルは政務室に詰めている。
二週間ほど経った夜、ルージュはアルカーシャの私室でうたた寝をしていた。疲労がピークに達し、これ以上は睡魔に抗えそうにない。
(今夜は寝ちまいな、ルージュ。休まないと、持たないよ)
(うん……)
そして夜中に目を覚ますと、思いもよらない人物が傍にいた。寝台に突っ伏す体勢で寝ていたルージュには、毛布が掛けられている。
「ア、アスタル様?」
「起こしてしまったか、すまん」
開いたばかりの目を丸くして、ルージュはアスタルと顔を見合わせた。
「少し様子を見たくて、な。政務を片付けていたら、こんな時間になってしまった」
「ごめんなさい、せっかく来てくれたのに」
アルカーシャでアスタルと会うのは、これで二度目。自分の家に彼が遊びに来たような錯覚がして、こそばゆい気持ちになる。
「ここがお前の部屋か」
「今だけね。前もちょっとだけ使ってたけど……」
ルージュの寝室は、娼館でデビューする際に与えられたものだった。下働きの間は三、四人で共同のものを使うが、客を取る立場になると、一部屋の独占が許される。
アスタルは粗末な寝台に腰掛けていた。
「驚いたぞ。まさかアルカーシャを劇団にしようとはな。ネリザの案か?」
「ええ。とんでもない王妃様だわ、ほんと」
机の水晶玉に美女の顔が浮かぶ。
『あたいは休んでるから。王様、ルージュをよろしく』
ところがネリザはあくびを見せつけ、すぐに消えてしまった。睡眠の必要などない彼女だが、ルージュに気を遣ってくれたのだろう。
「……そっち、座っていい?」
「構わんぞ。早く来い」
ルージュは定位置になりつつある、彼の膝の上へと腰を降ろす。アスタルがルージュを抱き締め、おへそを狙おうとするのも、いつものことだった。
「疲れてるんだから、悪戯はなしよ」
「わかった、わかった。舞台が終わったら、楽しませてもらうさ」
アスタルの誘いに、ルージュはまんざらでもない。彼に抱き締められていると、鼓動のテンポは跳ねあがるくせに、心は落ち着く。
不安を吐露することも素直にできた。
「失敗したら、どうしようかしら、あたしたち……」
「そうなった時は、俺が北の砂漠を切り開いてやるさ。お前も行くんだろう?」
「……うん」
ルージュだけ城のハレムに戻って、アルカーシャの運命から逃れるつもりはない。舞台が失敗に終われば、ルージュも死の砂漠に踏み込むことになる。
その覚悟があるからこそ、アルカーシャの皆と肩を並べて、頑張れた。
「あなたは新しい恋人を探さなくちゃ、ね」
強がりのつもりで茶化すと、アスタルが眉を顰める。
「冗談じゃない。こんな関係、次の女でも上手くいくものか」
建前に過ぎない交際は、ふたりにとって本音になりつつあった。ルージュはアスタルに安心感を、アスタルもルージュにきっと愛着のようなものを抱いている。
「……ねえ、アスタル様。あたしはやっぱり……縁談よけの偽者でしかないの?」
「本気で言ってるのなら、お仕置きだな」
彼の母親が娼婦であったことは、ルージュの葛藤を和らげてくれた。
女として劣等の自分でも、アスタルには手が届く。彼に受け入れてもらえる。
「ここで初めて会った時は、びっくりしたわ。ルールも無視して、いきなりあたしを買うなんて言い出すんだもの」
「ははっ。いい買い物をしたものだ」
「……色気がないから選んだ、って言ってたじゃない」
アスタルはルージュの赤い髪を大切そうに撫で、香りを嗅いだ。
「それが不思議なものでな。もうお前以外の女には、触れようとも思わん」
「嘘ばっかり。なら、ハレムを閉鎖できる?」
ルージュも素っ気ないふりをしながら、彼に寄りかかる。
「いいぞ。お前が舞台を成功させて、俺の傍に留まってくれるのなら」
「……シンシアたちに怒られそう」
アスタルの切れ長の瞳が、恋人をじっと見詰めた。
ルージュも顔をあげ、頬を染める。
まだお互い『好き』とも『愛してる』とも言っていないのに、これから先のことに同意があった。しかしアスタルの悪戯が始まる気配はない。
「今夜は寝るといい。明日も早いんだろう?」
「帰っちゃうの?」
「ここでお前と一晩過ごしたら、それこそアルカーシャが娼館になってしまうぞ」
ルージュをベッドに降ろし、アスタルはおもむろに席を立った。
もう少し味わっていたかった温もりが、急に離れてしまって、寂しい。
「じゃあな、ルージュ。風邪ひくなよ」
「待って」
その空白を埋めたくて、ルージュはアスタルに駆け寄った。背伸びして、ファーストキスを彼の唇まで届かせる。
ほんの少しだけ唇が触れた。アスタルは目を閉じる間もなく、呆気に取られる。
ルージュは真っ赤になりつつ、照れ隠しに舌を出した。
「アルカーシャは予約が必要だから。今のは予約の分、ね?」
「そうか。……舞台が終わったら、迎えに来る」
ここから先はお預け。ルージュとアスタルは見詰めあって、笑みを交わす。
「シャニにもよろしくね」
「俺を嫉妬させたいのか、お前は」
「十歳の弟に本気にならないでったら。でも……守ってあげて」
シャニのことは情報もなく、心配だった。メナス太后にもっとも近しいため、有事の際はいの一番に危険が及ぶだろう。
「心配するな。お前は舞台に集中していろ」
アスタルの親指が、念を押すようにルージュの唇に触れる。
彼がいなくなっただけで、狭いはずの部屋がやけに広く感じられた。
※ 当サイトの文章はすべて転載禁止です。
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から