千夜一夜の寵愛
第5話
いよいよ公演の当日となった。城の広場には今夜限りのステージが建造され、夕暮れのうちから篝火を焚いている。
橙色の空は次第に群青色に染まっていった。ちかちかと星が瞬き始める。
精力的な広報と、公演のチケットが安いおかげもあって、客席は満員御礼となった。貴族のように観劇に興じたがっている民が多いらしい。
とりわけ『王の恋人が出演する』という噂が、皆の期待を煽っていた。おかげで、娼婦の舞台など、という心ない軽蔑も少ない。
およそ二千人ほどの観客が集まって、開演の時を待つ。
ゆとりのある特別席のほうでは、貴族らが集まり、無人の舞台を見守っていた。今日の公演が成功するか、失敗するか、その分水嶺を見極めようとしている。
成功すれば、彼らはアルカーシャの今後の経営に関わろうとするだろう。王の恋人を擁する劇団なのだから、将来的な展望にも大いに見込みがあった。
ただし失敗すれば、彼らの援助も打ちきられ、アルカーシャのメンバーは死の砂漠へと旅立つしかなくなる。チャンスに二度目はない。
一番の障害はメナス太后だった。彼女は息子のシャニと一緒に、城のテラスから悠々とステージを見下ろしている。
「男に媚びることしか能のない、牝豚が……どうケツを振るのやら」
「母上? ルージュさんたちは人間です。豚じゃありません」
「豚は豚ですよ、シャニ。あなたに汚いものを見せるようなら、この場で即刻、処罰してやりますからね」
シャニは不安そうな面持ちで、こくりと喉を鳴らした。
劇の内容がどうあれ、メナス太后は言いがかりをつけ、アルカーシャを追い込むに違いない。彼女の機嫌を損ねまいと、同じテラスでは太后派の面々も委縮している。
一方でアスタルは騎士団とともに、テラスの真下で席についた。
「陛下、もっとよい席がございますよ?」
「ここで構わんさ」
会場の警備を指揮しつつ、太后から目を離さない。
この一ヶ月で、恋人が娼婦だったという噂は影を潜めたものの、依然としてアスタル王の状況は分が悪かった。娼婦の子などに王位を任せられるものか、と太后派が大義名分を掲げ、アスタル王の退位を再三要求している。
しかしアスタルはあえて矢面に立った。すべてはメナス太后の注意をアルカーシャから引き離すため。
「無茶はするなよ、ルージュ」
若き王は何より恋人の身を案じていた。
その頃、城内の楽屋でルージュは衣装に着替えていた。上半身はブラジャーに袖をつけただけのような恰好で、恥ずかしい。おへそも見えてしまっている。
「これ、薄すぎない?」
「舞台衣装ですから、大袈裟にしてあるんですよ」
ルージュの後ろで、シエラが着付けの仕上げに掛かった。スカートは丈が長いものの、生地に透明感があり、脚の線が透けている。
赤い髪は後頭部で盛るように結ってもらった。これなら童顔のルージュでも、大人びた印象をアピールしつつ、ダンスの妨げにもならない。
睫毛も丁寧に手入れして、唇には薄めに紅を塗った。アルカーシャで初めて客を取ろうとした夜よりも、綺麗に思える。
これが、あたし……。
靴はダンス用に、爪先の硬いものが用意された。
ルージュは叙事詩のヒロインらしい風貌となって、すっくと立ちあがる。
「……緊張なさってますか? ルージュ様」
固くなりがちな肩を、シエラが念入りにほぐしてくれた。
「ううん。大丈夫よ」
緊張しているとはいえ、武者震いに近い。ステージにあがるのが待ち遠しいほど。
この一ヶ月の間、アルカーシャは総力をあげ、舞台の完成度を高めてきた。ダンスも曲も、できうる限り最高のものが仕上がっている。
当初は素人臭さが抜けず、練習中に怪我人が出ることもあった。ルージュ自身、一度左の手首を捻ってしまっている。それでも皆、言葉通りに命を懸けた。
死の砂漠で骸にならないため。アタヴィナで生きていくため。
だが、いつしか欲求も生まれていた。自分たちの舞台を、大勢のひとに見て欲しい。自分たちの技能が芸術として通用するのか、試したい。
(付き合わせちまって悪いね、ルージュ)
(みんな、覚悟のうえよ。この国を救わなきゃ)
そして舞台を成功させるとともに、アタヴィナの禍根を断たなければならなかった。
かつて支配圏をアタヴィー河の向こうまで広げ、隆盛を誇った、サイアム朝。その最後の王は亡霊となって、今なお、アタヴィナの地を呪い続けている。
今回の舞台は、メナス太后からサイアム7世を引きずりだす、絶好の機会でもあった。サイアム7世は本当の名前をもって、悪魔と契約を交わしている。その名を呼ばれれば、契約を妨げられまいと、嫌でも姿を現すだろう。
ルージュやネリザは別として、悪霊は誰にも見えない。劇の終盤、ネリザは人知れずサイアム7世と決着をつけることになる。
(あいつはあたいに任せて、あんたは劇に集中しな)
(うん。一緒に頑張りましょ)
やがて陽は暮れ、気温も適度に下がった。
「着付け手伝ってくれて、ありがとう、シエラ」
「お礼をおっしゃるのは早いですよ。成功を祈っております、ルージュ様」
ルージュは胸を高鳴らせながら、ステージに向かう。
☆
ステージの四隅で篝火が燃えあがった。
満天の星空が無限の背景となって、幻想的な演出となる。金色の三日月が美しい。
「お待たせしました! 今宵は劇団アルカーシャによります、千夜一夜物語、ごゆるりとお楽しみくださいませ」
愛想のよいロイが司会となって、進行を務めてくれた。ざわついていた観客らが静まり返り、中央のステージに注目する。
俄かに篝火の色が青くなった。皆の視界も青白く染めあげられる。
しばらくして、楽隊がイントロを奏で始めた。弦楽をメインとした曲が、その切なくも力強い旋律で、夜の肌寒い空気を震わせる。
舞台の上でハンナは美青年に扮し、華麗なターンを決めた。
「今宵も僕は、花の香りに誘われてしまった。姫よ、顔を見せてはくれないか」
大勢の前で初めて演じることに、ルージュは緊張し、腰が引けそうになる。見知った仲間だけの練習と同じようにはいかない。
それでもヒロインは腹を括り、潔く舞台へと上がった。
姫となって、恋人の愛を声高らかに受け入れる。
「今夜限りにしてください、愛しいひとよ。私には婚約者がいるの」
「なら僕の腕など振り払って、逃げればいい」
「逃げているのよ、いつだって。あなたと一緒にいては、こんなにも苦しいのだから」
ハンナの卓越した表現力に引っ張られ、ルージュの演技もさまになった。
今夜の舞台に後ろめたいことは、ひとつもない。娼婦ではないひとりの女として、胸を張り、堂々と振舞うことができる。
青年と姫の秘密めいた逢瀬のほどは、艶めかしいダンスで描かれた。一途な青年が姫を抱こうとしても、姫は怖がってしまい、拒もうとする。
やがて婚約者がふたりの関係に勘付き、嫉妬で身を焦がした。邪悪な魔法使いと契約を交わし、姫を幽閉してしまう。
青年はランプで魔人を呼びだし、その力を借りて、姫の救出に向かった。王家の墓から城へと続く地下通路を駆け抜け、罠を掻い潜り、幾度となく刺客と相対する。
観客はどんどん舞台に引き込まれていった。場面ごとに篝火が色を変え、曲とともに臨場感を高める。楽隊の演奏も熱が入っていた。
緊張感に包まれながら、いつしかルージュたちも演劇に没頭していく。
練習よりも情熱的に、躍動的に、舞台は盛りあがった。
終盤のソロパートで、ルージュは水晶玉を手に、ひとり中央に佇む。
「アタヴィナの女神よ! あのひとを助けたいのです。どうか、魔法使いを倒す力を、私にお貸しになってください」
水晶玉を掲げると、声が聞こえた。
『ともに戦いましょう。悪しき魔法使いの名を、唱えるのです』
「わかりました、女神様」
観客も皆、水晶を見上げる。
「その名は……レマイオス=サイアム!」
晴れ渡っていたはずの夜空に、みるみる不気味な雲が浮かんだ。星々とともに三日月も飲み込まれ、アタヴィナの大地に一切の光が届かなくなる。
「ぐっ、あが、ぐぅおお……っ?」
テラスの上で、太后が苦悶の声をあげた。胸元を引っかくようにもがきながら、両目を真っ赤に光らせる。
『呼んだな? わしの名を、はあ、呼びおったな……下賤な家畜の分際で!』
メナス太后の苦しげな狂乱ぶりに、観客はどよめいた。
太后の影が立体的に膨れあがり、真っ黒な巨人になる。それは厳めしい髭を蓄え、王冠を被った、かつての王の風貌だった。
その異様を前にして、ネリザが驚愕する。
『ちいっ! 太后と完全に融合しちまってるね、あたいの失策だ!』
サイアム7世の巨影は全員が目の当たりにしていた。これでは劇どころではなく、波が走るように動揺と恐怖が広がっていく。
「な、なんだ、ありゃあ?」
「お前も見えてるのか? 俺だけじゃないんだな」
ルージュは水晶玉を抱えつつ、舞台の上でアドリブを決めた。
「あれが悪しき魔法使いなのですね、女神様。一緒に戦ってください!」
『……ああ! やってやろうじゃないかい!』
奇しくも、ヒロインと悪霊で一騎打ちのシーンとなる。
ネリザは崇高な女神を演じてもいられず、素に戻って、呪われた夫と対峙した。
『もう諦めな、レマイオス! あたいらの時代は終わったのさ!』
『だ、黙れっ! アタヴィナが大陸で覇を唱えるには、わしの力が必要なのだ! 見るがいい、この力を! 我が屈強なる死兵たちを!』
サイアム7世の巨影を背負いながら、メナス太后が右手をかざした。すると王城の輪郭が溶けるように崩れ、乾いた砂と化す。
砂は城の麓に積もり、山となった。その中から人骨が次々と起きあがる。
おぞましい屍の群れに、民は慄然とした。
「うわあっ、化け物だ!」
「ど、どういうことじゃ? なぜ太后様にあのようなものが」
貴族らも腰を抜かし、蒼白になる。
城の広場は瞬く間にパニックになった。しかし舞台のほかは真っ暗で、観衆は逃げたがって動くほどもつれあい、団子状になってしまう。
「なんとかしなきゃ、ネリザ!」
『まさかあいつが、まだこれほどの呪術を扱えるなんざ……まずいね、こりゃ』
ルージュは舞台の上で立ち竦んだ。熱演で火照っていたはずの身体にも寒気がして、サイアム7世の禍々しい巨影に、息を呑む。
アスタルが立ちあがり、狼狽している騎士団に檄を飛ばした。
「あれを太后と思うな! 民を守れ!」
「了解です! みなの者、剣を取れ! 来るぞっ!」
騎士が前線に出て、陣を張る。
骸骨どもは古びた剣や盾を持ち、襲い掛かってきた。獰猛な唸り声をあげ、目についた騎士に剣を振りおろす。
「見た目に惑わされるな! 陣形を維持しろ!」
対する騎士も剣を握り締め、果敢に応戦した。あちこちで金属音が響き渡る。
「私らも協力するよ、ルージュ!」
ハンナがステージへと駆けあがり、篝火に燃料を放り込んだ。ほかのメンバーも松明を掲げ、少しでも闇を振りのける。
「ネリザ、どうにかできるのかい? あんなのをさ」
『少し時間が掛かっちまいそうだ! 悪いね、舞台を台無しにしちまって……』
舞台以外の篝火も一斉に燃えた。
広場の一帯が明るくなったことで、民が我先に逃げだす。
「みなさん、お城から離れて! 急いで!」
ルージュは声を張りあげ、逃げ惑う観衆を城門のほうへと誘導した。同じくアスタルもよく通る声で、騎士団に号令をくだす。
「第三隊以降は、民の脱出を支援しろ! ひとりも死なせるなよ!」
「こっちよ! 前のひとが動くまで、走らないで!」
アスタルとルージュの指示はぴたりと息が合っていた。その甲斐あって、混乱しつつあった観衆もいくらか落ち着き、脱出の流れがスムーズになる。
崩れかけたテラスからは、太后直属の臣下が落ちるように逃げてきた。
ファウストが慌てふためき、情けない声で喚き散らす。
「たっ、助けてくれ! 私はっ、も、もう太后とは関係ないんだ! だから……」
彼の後ろで、サイアム7世の魔影が形を変えた。頭をいくつも持った大蛇となり、うちひとつが牙だらけの大口を開いて、ファウストの横っ腹にかじりつく。
『裏切りは許さんぞ! 虫けらが!』
「ひいいっ! 早くしろ、お前ら! はやっ……ぎぃやぁあああああッ!」
ファウストの身体はふたつにへし折られてしまった。蛇が上半分だけ飲み込んで、下半身をゴミのように放り捨てる。その残酷な光景に皆が凍りついた。
し、死んだ? 殺されちゃったの……?
ルージュも舞台の上であとずさり、瞳をわななかせた。ひとが死ぬさまを目撃したせいで、下腹から込みあげるような恐怖を禁じえない。
『怖がってる場合じゃないよ、ルージュ!』
「……で、でも……」
ここで戦いを選べるほど、強いはずもなかった。脚が引き攣り、膝を擦りあわせる。
そんなルージュの瞳に、テラスで誰かが巻き込まれつつあるのが映った。カサノアがシャニを庇いながら、身を屈めている。
「母上! お気を確かに!」
「頭をお上げにならないで、シャニ様!」
泣き喚くシャニを、彼女は必死で抱き締めていた。すぐ傍でメナス太后は、サイアム7世の魔影とともに、蛇の化け物へと完全な変身を果たす。
「シャニ、無事かっ?」
救援に向かおうとするアスタルだったが、大蛇の群れに阻まれた。頭は五つもあって、まったく隙がない。
『こうして出てきたついでだ。貴様を血祭りにあげてやるとしよう、豚の子め!』
「き、貴様っ!」
前のめりになる国王を、騎士らが制す。
「陛下、危険です! おさがりくださいませ!」
「母を侮辱されて、何もせんでいられるか! ……くそっ!」
アスタルはぎりっと歯を軋ませた。
それぞれの大蛇が鎌首をもたげ、アルカーシャの舞台をねめつける。
『我が王家に豚の血などいらん。八つ裂きにしてやる!』
ルージュの中で堪忍袋の緒が切れた。シャニを危険な目に遭わせたことが、アスタルを軽蔑したことが、そしてアルカーシャの矜持を踏みにじったことが、許せない。
「……ネリザ、あたしに力を」
サイアム7世の蛮行に、真っ赤な怒りが湧いてくる。
『チャンスは一回だけだよ、ルージュ。思いっきり踏ん張りな!』
舞台に魔方陣が浮かびあがった。真っ白に輝いて、皆の目を眩ませる。
その聖なる輝きを恐れてか、死兵の動きが鈍くなった。サイアム7世が大蛇の両目を見開いて、ルージュの姿に驚く。
『き、貴様……いつの間に女神の加護など!』
『お互い様だろ? あんたの呪いも、今夜でおしまいさ』
ルージュの背後にネリザの幻影が浮かんだ。水晶玉が割れ、放射状に光を放つ。
「みんな、伏せて!」
ルージュは両手を前に突きだし、エネルギーを開放した。たわめられていた力が一気に弾け、流星のようにサイアム7世に狙いをつける。
『小賢しいわ! ネリザめ、女もろとも塵になるがいいッ!』
サイアム7世も暗黒の波動を放った。ルージュとサイアム7世の間で、光と闇のエネルギーが衝突し、押し合いへし合いする。
『ふははは! その程度か?』
さらにサイアム7世は五つの首を前方に集め、暗黒の力を押し込んできた。
逆風が格段に強くなり、ルージュの力は徐々に押し返されていく。
「くうっ? んむぅ、こ、これ以上は……だめ、ネリザ!」
靴の裏が擦れ、膝が落ちそうになった。
『もっと出力を上げるよ。耐えられるかい?』
「む、無理かも……っ!」
全身の細胞が悲鳴をあげ、ルージュの眉間も歪む。ついには脚が勝手に力尽き、両方の膝をついてしまった。一方、暗黒の波動は少しも衰えない。
『わしの前から消えろ! 売女めが!』
「さっきからうるさいんだよ! はっ、女の口説き方も知らねえのかい?」
くずおれるルージュの隣で、ハンナが立った。両手を突きだし、サイアム7世との力比べに加勢してくれる。
「あんたひとりで戦わせやしないよ、ルージュ」
彼女を皮切りに、アルカーシャのメンバーも続々と加わった。
「女の意地を見せるんだろ? 太后様に」
「ハンナ……みんな……!」
アルカーシャで苦楽をともにしてきた、かけがえのない仲間たち。心強い味方を得て、ルージュは今一度、力を振り絞って立ちあがる。
『いくよ、ルージュ!』
「ここでやらなきゃ、女がすたるわ! いっけぇえええええええええーーーッ!」
全身全霊の叫びとともに、破邪のエネルギーが根元から膨張した。暗黒の波動を力ずくで押しのけ、相手の懐を直撃する。
『ぐおおおおっ? わ、わしは……わしはっ、アタヴィナの王だぞ?』
『もうやめな。あんたの王朝は、とっくに終わってんだからさ』
眩い閃光は大蛇の中枢を貫き、焼き尽くした。
サイアム7世の断末魔が、夜の重たい曇天に響き渡る。
『ばかな、ぅがっ、があぁああああっ!』
禍々しい巨影は消え去った。もとの姿に戻った太后が、意識をなくして倒れ伏す。
死兵はみるみると砂と化し、崩れ落ちた。騎士も民も呆然として、ステージに立つアルカーシャの面々を見詰める。
「はぁ、はあ……」
ルージュたちは横一列になって息を切らせていた。ルージュ自身、半ば放心していて、戦いが終わったらしいこともわからない。
舞台にぽつりと水滴が落ちた。
……あら?
次第にその数が増え、皆も気付く。
「水が降ってる? ど、どうなってるの……?」
「……雨だ。俺たちのアタヴィナに、あぁ、雨が降ってるんだ!」
砂漠の国では降るはずのない、冷たい雨。
この地にまとわりついていた、サイアム7世の呪いが解けたのだろう。これで死の砂漠が広がることもない。
半壊した王城に雨が降り注ぐ。
「雨だ! はははっ、俺たちの国に! 雨が降ってるぞ!」
「すごいわ! こんなふうに降るものだったのね!」
大人も子どもも、男も女も、皆が感激し、灰色の雨雲を見上げていた。雨が目に染みたらしい女が泣くと、男がそっと抱き寄せる。
(不思議ね、空から水が落ちてくるなんて……ネリザ? 聞こえてないの?)
ハンナたちも空を仰ぎ、冷たい雨に酔いしれた。
「ふふっ、知らなかったよ。雨がこんなに気持ちいいなんて……」
雨は富める者にも、貧しい者にも、平等に降っている。それを感じることに令嬢も娼婦もなかった。ハンナが柄にもなく涙ぐむ。
ルージュはステージを降りて、アスタルのもとに急いだ。
「アスタル様! シャニは?」
若き王が勝気に微笑む。
「もう保護したさ。……義母上もな」
傍では太后が膝をつき、腰を曲げるほどうなだれていた。シャニはカサノアとともに救出されたあとで、初めての雨にきょとんとしている。
「これは奇跡なのですか? 兄上……」
「さあな。そのうち、お前が解明してくれ」
今夜の雨を観客は、アルカーシャの起こした奇跡、とみなしつつあった。盛大な拍手が巻き起こり、凛々しい女たちのカーテンコールを称える。
舞台でハンナが手を振った。
「ルージュ、戻っておいで! 主役がいなくちゃ、挨拶できないだろ?」
「うん! すぐ行くわ」
嬉しさが込みあげてくる。疲れ果てている身体にも、まだ元気が残っていた。
常軌を逸したアクシデントがあったものの、アルカーシャの公演は無事、フィナーレを迎えようとしている。
「雨で火が消えんうちに、急げ」
「ええ。またあとでね、アスタル様」
それはアスタルとの、新しい関係の始まりにもなるはずだった。今すぐ抱きつきたいのを我慢して、ルージュはステージへと踵を返す。
「――危ないっ!」
ところが急にアスタルが前に出て、ルージュを突き飛ばした。ルージュの背中を狙っていた太后のナイフが、アスタルの左の脇腹に突き刺さる。
「ぐあっ! も、もうよせ、義母上……」
「あ、ぁ……アスタル様!」
ルージュは悲鳴をあげ、いっぱいまで開いた瞳を強張らせた。その目の前でアスタルが力尽き、受け身も取れずに倒れてしまう。
騎士らは血相を変え、数人掛かりでメナス太后を拘束した。
「貴様っ! なんてことを!」
「終わりなのよ! 私もシャニも、こいつの……こいつらのせいでぇ!」
太后の言葉など、頭にまったく入ってこない。
嘘でしょ、そんな……アスタル様が?
ルージュはふらつきながら、アスタルのもとに駆け寄った。
「アスタル様? しっかりして、アスタル様ってば!」
「兄上? 誰か! 早く救護を!」
シャニと一緒に屈んで、彼の傷ついた身体を慎重に抱き起こす。
けれども反応はなかった。目は閉じ、眉も動かない。
このまま愛するひとを失うかもしれない現実が、ルージュを戦慄させた。身を引き裂かれるような錯覚さえして、目の前が真っ暗になる。
「アスタル様! お願い、目を開けて!」
「兄上っ! 兄上ぇえ!」
雨ではない雫が、アスタルの物言わぬ顔を濡らした。
☆
緊急で手術がおこなわれ、経過を見ることとなった。城の救護室で、アスタルはかろうじて聞こえるだけの寝息を立てている。明け方になっても、まだ目覚めない。
ルージュは舞台衣装のまま、彼の傍についていた。シャニも夜遅くまでいたのだが、今は別室で休ませている。
「アスタル様……」
医者の見立てでは、命に別状はないらしい。しかし出血が酷かったため、相当弱っていることには変わりなかった。顔からも血の気が引いている。
(そう心配しなさんな、ルージュ)
ふとネリザの声がした。
「ネリザ? どこにいるの?」
しかし呼びかけても、返事はない。サイアム7世を倒してから、彼女は一度も頭の中に現れていなかった。
「……ん、ルージュ、か……?」
アスタルが目を開け、瞳を転がす。ちゃんと生きてくれている。
ルージュは涙を零しながら、胸を撫でおろした。
「びっくりさせないで。アスタル様、ほんとに……ぐすっ、心配したんだから……」
「すまんな、ルージュ」
傷が深いせいで、まだ起きあがれないらしい。それでも彼は手を伸ばし、目を腫らしている恋人をよしよしと撫でた。
「さっき夢で、ネリザに会ったぞ。お前によろしく、とさ」
ルージュはその手を両手で握り締め、温もりが本物であるのを確かめる。
アスタルの顔色は血の気も戻り、随分とよくなっていた。恋人の手を握り返せるだけの力が、ルージュに安心感をもたらす。
「あいつに帰り道を教えてもらった……気がする」
「ネリザが……?」
しかし安心するとともに、寂寥感が胸を吹き抜けた。
アスタルが天井を見上げ、静かに呟く。
「ネリザからの伝言があるんだ。別れも言えずにすまない……アルカーシャは忙しくなるだろうから、頑張りな……だったか。……聞いてるのか? ルージュ」
唐突な別れに、ルージュは放心してしまった。
サイアム7世と決着をつけたことで、幽霊らしくあの世に旅立ったのかもしれない。
「そ……そんなことって」
子どもの頃からずっと一緒だったのに。
「レマイオス……サイアム7世との間には、子どもができなかったそうでな。娘ができたみたいで、楽しかったと言ってたぞ」
ルージュにとってネリザは姉のようで、母のような存在でもあった。
もう彼女の声は聞こえない。泣き腫らしたばかりの瞳に、また熱い涙が浮かぶ。
「お別れも言わせてくれないなんて……ひぐっ、ネリザのばかぁ」
アスタルは指の背でルージュの涙を拭き、はにかんだ。
「そうだな。墓でも立てなおして、説教してやろう」
「……うん」
窓の外ではまだ、しとしとと雨が降っている。
「雨というやつは不思議だな。こう……穏やかな気持ちにしてくれる……」
おもむろにアスタルは身体を起こし、窓の外を眺めようとした。
「無理しないで。動いちゃだめよ」
「少しだけだ。頼む」
ふらつく彼に肩を貸すように、ルージュが脇に入って支える。身長差のおかげで、立っていても楽な姿勢にしてやることができた。
「傷は痛む?」
「それなりにな。まあ心配はいらんさ」
雨音は止むことなく響いているのに、城下町には静けさが満ちている。
曇り空は下のほうから少しずつ明るくなりつつあった。朝は近い。
「公演はメチャクチャになってしまったな……」
「でも、なんだか大丈夫みたいよ」
アルカーシャの命運を決める舞台は、失敗とも成功とも言えない結末を迎えた。
劇そのものは途中で終わってしまったが、太后の怨霊を祓い、アタヴィナに雨をもたらした英雄と称されているらしい。
「シャニは無事なのか?」
「怪我ひとつしてないわ。……さっきまで、すごく泣いてたけど。そうそう、あなたのお父様も心配なさって、いらしてたのよ」
「親父が? まったく、義母上のことを放ったらかしにしてたくせに」
負傷したのは騎士が十数名と、アスタル。死者も一名出る結果となってしまった。手放しで勝利を喜ぶには、痛みが多すぎる。
ルージュにとって母代わりだったネリザも、もういない。
幼いシャニもまた、母親を失ったも同然だった。メナス太后はアスタル王を刺殺しようとしたことで、投獄されている。
それでも今夜の雨は、ルージュたちの悲しみをいくらか和らげてくれた。
アスタルとふたりで雨音の旋律を聴いていると、心が鎮まっていく。
「愛してるぞ、ルージュ」
アスタルの言葉が、胸にしんと染みた。
彼に寄り添いながら、ルージュも思いのたけを打ち明ける。
「あたしも好きよ、あなたのこと」
もうお互い恋人のふりではいられなくなってしまった。アスタルのまなざしも、声も、温もりも、すべてが愛おしい。
ルージュは彼の手を取り、さっき涙を拭いてくれた指をひと舐めした。
「おい、ルージュ? ……まあいい、好きにしろ」
アスタルは戸惑いつつ、ルージュの淫靡なキスに見惚れている。
破廉恥なことをしている自覚があって、猛烈に恥ずかしかった。それでも回数をこなすうち、もっと味わいたくなって、中指や薬指にも吸いつく。
「ぷはっ、はぁ……んあっむ」
鼓動のテンポが跳ねあがった。アスタルの指先を頬張り、真っ赤になって涙ぐむ。
「ハレムはもういらんな」
「んぁ、どうして?」
首を傾げるルージュの小顔を、アスタルがまじまじと覗き込む。
「お前がいるからだ。俺の子を産んでくれるか」
「……はい」
ふたりは目を閉じ、唇を重ねた。
先にルージュの唇がこじ開けられ、舌を絡め取られる。湿った吐息が溢れ、口角からは熱い蜜も零れた。彼の首筋にしがみついて、ルージュからもキスを深めていく。
胸の中が甘い快感で満たされた。アスタルに抱き返されると、優しいようで激しさも内包した、男性の昂ぶりが伝わってくる。
「き、今日はここまでよ? あなたは怪我してるんだし」
ルージュは恥じらいつつ、可憐な笑みを浮かべた。
そんな恋人の赤い髪を、アスタルが名残惜しそうに撫でおろす。
「寝ていないんだろう? お前も休め」
「あなたも、ね」
もう少し一緒にいたいが、怪我人の彼に無理もさせられない。
ルージュはアスタルをベッドまで運び、慎重に寝かせた。そして離れる前に、もう一度だけ、彼の唇にキスを捧げる。
「早く元気になって、アスタル様」
「ああ。これではお前に悪戯もできんから、な」
「こっちが悪戯するわよ」
やがて雨はやみ、雲が晴れてきた。
砂漠の大地に、今朝も眩しい朝日が差す。
エピローグ
初公演から半年が過ぎた。
アルカーシャは劇団として再出発を果たし、アタヴィナじゅうで人気を博している。良心的な商売もあって、舞台公演は毎回のようにチケットが完売を記録した。
とりわけ『女だけの劇団』という独自性が、アルカーシャの評価を跳ねあげている。男装がメインの女優は『麗人』とも呼ばれ、女性から熱烈に支持された。
アルカーシャの舞台を夢見て、門を叩く女子も増えつつある。
ルージュもアルカーシャのトップスターとして、目まぐるしい日々を送っていた。今日は久しぶりの休みをもらい、王城に赴く。
「ルージュ様! 今度の新作、楽しみにしてますよ」
「うふふっ、ありがとう」
騎士らはルージュを歓迎し、国王の部屋まで案内してくれた。
庇のついたベランダで、アスタルは一息ついている。
「ん? ルージュか。今日も暑いな」
「参っちゃうわね、ほんと」
ルージュはフードも日除けに使いつつ、彼の隣に並んだ。
砂漠の気候は一年を通して暑い。たまに雨が降るようになったとはいえ、日差しの強さは相変わらずで、火傷ものだった。
王宮は修復もほぼ終わり、城下町のシンボルらしい壮観を誇っている。
「今日は一日オフなんだろう? あとで一杯つきあってくれ」
「もちろんよ。ハンナからお酒も貰ってきたし」
「そいつは楽しみだ。あいつは飲めるクチだからな」
ルージュもアスタルも多忙なため、こうして休みを合わせたうえで会っていた。
貴重な休日、やりたいことは山ほどある。シエラやロイ、シンシアは当然、先代の国王にも『息子の嫁』として挨拶しなければならなかった。
「義理父様はどんなお酒がお好きなの?」
「東方仕込みの酒が好きらしいぞ」
ふたりで寛いでいるところへ、少年が元気に飛び込んでくる。
「兄上! ……あっ、ルージュさんも、お久しぶりです」
「こんにちは、シャニ」
シャニ王子にはカサノアも付き添っていた。眼鏡を掛けるようになり、教育係のスタイルがすっかり板についている。
「ごきげんよう、ルージュ。先月の舞台もなかなか上出来でしてよ」
「ありがとう。そうだわ、あなたも一緒にお茶しない?」
「生憎、今日はスケジュールが詰まっておりますの。少し顔を出すくらいでご容赦いただけるかしら」
太后派のほとんどが失脚した中、彼女は命懸けでシャニを守ったことが評価され、改めて王子のお目付け役に選ばれた。不愛想なものの、仕事ぶりは優秀らしい。
今日のシャニは植木鉢を抱えていた。
「見てください、兄上。ついに栽培に成功したんです」
「うむ。よくやったな」
誇らしげな弟を、アスタルがよしよしと撫でる。
半年前の事件がきっかけとなり、メナス太后の所業は芋づる式に明らかになった。国王暗殺の計画まで存在し、太后を始め、まだ裁判が続いている者も多い。
特に十数年前、子どもを誘拐して王家の墓へと連行した一件は、城内のみならず世間を大いに騒がせた。太后に反省の色がないようなら、極刑もやむを得ないという。
その影響で、息子のシャニは王位継承権を剥奪されてしまった。よからぬ連中に入れ知恵されても面倒なため、アスタルはシャニを傍に置いている。
「ルージュさんも見てください、ほら」
「砂漠のお花ね。うん……綺麗」
ルージュも植木鉢を手に取って、やや青みがかった紫色の花を眺めた。
ザクロに似ているがまったくの新種で、不思議なことに、少量の雨でも砂漠に咲く。果実は水分を豊富に蓄えており、水の補給にも適していた。
この花が死の砂漠で見つかったのは、雨が降るようになってから。死の砂漠は少しずつ緑を取り戻し、肥沃な土地に生まれ変わりつつある。
花の名は、ネリザ。
「これ、一輪だけ貰えないかしら?」
「いいですよ。ルージュさんがお帰りになるまでに、用意しておきます」
お茶目なようで芯が強かった彼女を、忘れることはない。
この力は置き土産ってことよね、ネリザ。
ネリザがいなくなっても、魔法の力は少しだけルージュに残った。おかげで、絨毯を浮かせるくらいなら、いつでもできる。
カサノアが眼鏡をくいっとあげ、王子を急かした。
「シャニ様、そろそろ剣のお稽古ですよ」
「それは急がんとな。よし、今日は俺が稽古をつけてやろう」
アスタルにも兄目線でからかわれ、インドア派の王子様はぐうの音も出ない。
「う……頑張ります」
「お夕飯は一緒に食べましょうね。いってらっしゃい」
シャニは植木鉢を抱え、カサノアとともに退室していった。
アスタルがソファに腰を降ろし、いつものようにルージュに手招きする。
「シンシアとの茶会まで、時間はあるんだろう? こっちに来い」
嬉しさと恥ずかしさをない交ぜにして、ルージュはおずおずと彼の膝に座った。そこはルージュだけが自由にできる、特等席。
「大丈夫よね? アスタル様」
「まだ気にしているのか? 傷なら塞がったさ」
アスタルの脇腹には痛々しい傷跡がある。ルージュを庇って、メナス太后に刺された時のものだった。それを見ると、申し訳ない気持ちになってしまう。
「気にしてくれるなよ? おかげで、お前を守れたんだ」
「アスタル様……」
素敵な王様と見詰めあいながら、しかしルージュは彼の手をぎゅっと抓った。
「昼間っから触ろうとしないで」
「やれやれ、悪戯くらいさせてくれないか?」
アスタルは眉を顰めつつ、意地っ張りな恋人の腰に手をまわす。
「んもう。……あとで、ね」
互いに寄り添って、ふたりは同じ窓の向こうを眺めた。
アタヴィナの空は青い。砂漠でさえ花が咲き、城下町は活気に溢れている。
劇団アルカーシャのルージュは、今やアタヴィナの皆が知っていた。卓越した演技力と繊細な優美さが評価され、劇団のトップを飾っている。
アスタル王の正妻としても申し分ない。
ハレムも解体されたため、花嫁候補はルージュだけとなった。
「ねえ、アスタル様。女の子しか生まれなかったら、どうするの?」
「その時はその時、さ。シャニの息子が継げばいい」
アスタルが恋人の首筋に顔を埋め、赤い髪の香りを堪能する。その吐息をくすぐったく感じて、ルージュは身をくねらせた。今にも口づけが始まりそうで、どきどきする。
「ちょっと、こら?」
「色っぽくなったな、ルージュ。さて……シャニの稽古でも見に行くとするか」
「か、からかったのね? ばか」
恋人はむすっとして、本当は物足りないのを誤魔化した。けれども頬が赤らんでしまうせいで、勘のよいアスタルには、ばれている。
「あとで、な」
「そっ、それは、あたしの台詞でしょ!」
痴話喧嘩は夜に持ち越しとなった。
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