千夜一夜の寵愛
第3話
ハレムでの生活にも慣れた、ある朝のこと。
今日は温室の花でも眺めようと、ルージュはシエラを連れ、私室を出た。ところが部屋の前には泥水がぶちまけられ、異臭を放っている。
「な、なんなの? これ」
メイドたちが掃除用具を抱え、慌ただしく駆けてきた。
「申し訳ございません、ルージュ様! すぐに片づけます!」
シエラも彼女らに混ざり、モップを手に取る。
「……お部屋でお待ちください」
ルージュは不快に感じ、柄にもなく眉を顰めた。頭の中でネリザも毒を吐く。
(女ってのは、どうしてこう……淑女が聞いて呆れるねえ)
これはルージュに対する、陰湿な嫌がらせに違いなかった。アスタルがルージュばかり寵愛するため、ほかの寵姫が嫉妬し、とうとう直接的な手段に出たらしい。
信じらんないわ、こんなの!
ひとまずルージュは部屋に戻った。悪辣なやり方にはもちろん、それをメイドらに処理させようという犯人の高慢さに、腹が立つ。
アルカーシャでも馬が合わない娼婦らはいたが、ここまで露骨なものはなかった。娼館の女たちには、苛酷な境遇を同じとし、運命をともにするだけの連帯感があるからだ。
一方でハレムの寵姫は、出る杭を打つようにルージュを敵視していた。
(どうする? ルージュ。犯人を捜してみるかい?)
(それで状況がよくなるなら、いいけど……)
幽霊であるネリザの力を借りれば、報復は容易い。しかしやられた分をやり返すのでは根本的な解決にならず、きりがないようにも思えた。
ハレムには現在、三十名ほどの寵姫がいる。誰が味方で誰が敵か、はっきりと線を引くことはできない。
(アスタル様に相談してみようかしら)
(そうさねえ。王様だって、宮殿を汚されたわけだし……いや、待ちな)
ネリザの声に笑みが混じった。
(ちょいと驚かしてやろう。あんたに手ぇ出すのはまずいってね)
(何か思いついたのね。いいわ、あなたに任せる)
彼女の言う通り、ルージュはドア手前の玄関マットを引っ張りあげる。
除塵や給水のためのマットとはいえ、絨毯と呼べる一品だった。二方向の縁はフリンジになっており、中央にはアラベスクの立派な紋様が描かれている。
(あたいの魔法でちょいと、さ)
ネリザは触媒もなしに魔法を使うことができた。ただしその効果は、卵を触らずに割るとか、微妙なものばかりで、役に立った試しがない。
そんなネリザの念を受け、アラベスクの紋様が鈍く光った。
「……ええっ?」
絨毯が床から三十センチほど浮き、滞空する。
(魔法の絨毯のできあがり! ってね)
ルージュは瞳を瞬かせ、奇怪な乗り物を見下ろした。片足で踏んでみても、落ちる気配はない。今度は慎重に両足を乗せて、中央に座り込む。
(そうそう、重心を低くするんだ。さあ行くよ!)
魔法の絨毯が床と水平に動き始めた。部屋の外へとルージュを運びだし、泥まみれの回廊をすいすいと越えていく。
「ルージュ様っ?」
シエラはびっくりして、ほかのメイドらもあんぐりと口を開いた。掃除の手を止め、摩訶不思議な絨毯のために道を空ける。
「ごめんなさい、お掃除、押しつけちゃって。犯人と話をつけてくるから」
「い、いえ……お気をつけて」
ルージュはフードを被り、絨毯とともに日向に出た。今朝も透き通るような青空で、砂漠の太陽がさんさんと輝く。
(あとでアスタル様にどう説明させるつもり? ネリザ)
(まあまあ。ちゃんと考えてあるさ)
アタヴィナでは『呪い』や『黒魔術』といったマイナスのイメージがつきまとうせいもあって、魔法文化はあまり盛んではなかった。魔法使いも国内には数えるほどしか存在しない。だからこそ、ルージュの絨毯は行く先々で注目の的となる。
ネリザに気配を辿ってもらいながら、ルージュは嫌がらせの黒幕を追った。
(犯人はわかる? 実行犯じゃなくて……)
(当たり前さね。さっきの悪戯には、誰かさんの悪意がしっかり反映されてたよ)
おそらく主犯の寵姫が上にいて、泥をまくよう、使用人あたりに指示をしたはず。ネリザの勘に頼れば、その首謀者を見つけることは容易い。
日陰のテラスではカサノアという女性を中心に、三人の寵姫が集まっていた。ルージュは魔法の絨毯で階段を迂回し、彼女らの目線まで高度をあげる。
いつものように台詞はネリザに考えてもらった。
「ごきげんよう、皆様」
「えっ? ……ルージュ、様……?」
ルージュの登場にカサノアたちは度肝を抜かれたらしく、目を丸くする。おまけに魔法の絨毯で宙に浮いているのだから、唖然としていた。
ルージュは絨毯の上で足を崩し、翡翠色のミュールを見せびらかす。
「いいでしょ、この絨毯。おかげで、アスタル様にいただいた靴を汚さずに済んだわ」
「あ、あなた……魔法使いでしたの?」
「いいえ。お友達に魔法使いがいて、貰ったの」
こちらの挑発的な言動に、彼女らは青ざめるほど動揺した。魔法使いを敵にまわしたとなっては、貴族の令嬢であっても分が悪い。
「実は今朝、嫌がらせをされてしまって……何かご存知ないかしら」
カサノアは目を逸らし、知らぬ存ぜぬを押し通そうとした。
「し、知りませんわ? 嫌がらせだなんて、お、穏やかではありませんわね……」
台詞はネリザに任せ、ルージュは演技でほくそ笑む。
「アスタル様があんなものを見たら、お怒りになると思わない?」
「早く掃除してしまいましょう! 私たちも、すぐ手伝いを向かわせますわ」
ルージュの唇がにやりと曲がった。
「……あら? お掃除をしてくださるの?」
「え? ええ……」
「あたし、『泥をまかれた』なんて言ってないんだけど」
カサノアが失敗に気付き、慌てて口を噤む。
「そ! それは」
ルージュは嫌がらせの内容を何ひとつ語っていない。にもかかわらず、彼女らは『部屋の前が泥だらけ』であることを前提にしていた。当然、犯人だからこそ知っている。
「それじゃあね。あたし、行くところがあるから」
何も言えなくなったライバルを尻目に、ルージュは揚々と絨毯を進めた。
(相変わらず性悪ね、ネリザ)
(あんたが甘いのさ。まっ、これで少しはおとなしくなるだろ)
結果的にネリザの毒が強すぎて、気分爽快とはいかない。それでもしっぺ返しとしては上々の出来に、満足はできた。
おしゃべりなネリザが感心気味に呟く。
(にしても、あんたの演技も上達したもんだ。なかなかの性悪ぶりだったじゃないか)
(あなたとずっと一緒なのよ? 慣れちゃったわ)
(その割に王様の恋人役はギクシャクしちまうんだよねえ……もったいない)
痛いところを突かれてしまった。
城に来てから一ヶ月が経っているにもかかわらず、アスタル王の恋人としては、未だに失敗が目立つ。人前で目を合わせられずに顔を背けては、アスタルに『恥ずかしがり屋め』とフォローされるのが、パターンになっていた。
あのひとは心臓に悪いわ、ほんと……。
絨毯で城内を進むと、衛兵らが驚く。
(さすがに目立つわね。ネリザ、外から行きましょ)
(あいよー)
ルージュは窓から外に出て、さらに上の階にある、アスタルの部屋を目指した。
魔法の絨毯に乗っているところを見せて、驚かせてやりたい。ちょっとした悪戯のつもりでベランダにまわり、息を潜める。
アスタルは山ほどの書類を両手で分け、その書面に目を通していた。真剣な表情でペンを取り、確認を終えたものにサインを書き込む。
「アスタル様~」
「ん? なんだ、声がしたような……」
彼は窓のほうに視線を向け、ぽろっとペンを落とした。
「ル、ルージュかっ?」
跳びあがるようにベランダに出て、いつもは切れ長の目をまん丸に見開く。
「ふふっ。びっくりさせてあげようと思って」
「びっくりしたとも。ルージュ、魔法の心得があったのか?」
「えっと……あ、入ってもいい?」
アスタルに手を引いてもらって、ルージュはベランダへと飛び込んだ。その拍子に軽く抱き締められ、どきりとする。
「あ……ごめんなさい。仕事中だったんでしょ?」
「構わんさ」
アスタルの私室は、国王のものにしては質素な印象だった。クローゼットや寝台の装飾は控えめで、本棚が多い。壁にはアタヴィナの地図が掛けられている。
「どうせなら夜這いに来て欲しいものだが」
「へ、変なこと言わないでったら」
彼にその気がないとわかっていても、つい反応してしまった。出会った頃は警戒の対象でしかなかった、アスタルの言葉や手つきが、ルージュの多感な心によく弾む。
「まさか魔法の絨毯でご推参とは、な。どういうことだ?」
(ネリザ、説明するんじゃなかったの?)
(いや、実はまだ、考えがまとまってなくてね)
(しっかりしてよ、もう)
ルージュは手を左右に振って、無理やり誤魔化した。
「あれはその、お部屋にあったのよ」
「嘘つけ。まあいい、おいおい聞かせてくれ」
心なしかアスタルの態度が柔らかくなってきている。以前は『~しろ』という命令系が多かったが、最近は『~してくれ』くらいの言いつけになっていた。
アスタルがルージュのフードを取り、赤い髪を撫でる。
「何かあったのか?」
告げ口みたいで後ろ髪を引かれつつ、ルージュは今朝の出来事を報告した。
機嫌のよかったアスタルが、眉間に皺を寄せる。
「まったく。大それた真似をやってくれたな、そいつも」
「一応、犯人はわかってるんだけど……」
「しばらく様子を見て、まだ続くようなら、適度に絞めてやるとしよう」
ルージュの参入もあって、ハレムの内情は荒れきっていた。カサノアのように有力な貴族の娘も何人かおり、パワーバランスは危うい状態が続いている。
「もとは十名かそこらだったんだ、俺のハレムは」
「……それでも充分多くない?」
アスタルは弁解することなく、溜息をついた。
「勝手に増えるのさ。どこぞの貴族どもが、娘に世継ぎを産ませようとな」
ハレムは現在、三十名ほどの寵姫が控えている。しかし三分の二は、王に呼ばれたわけでもない、押しかけ女房も同然らしい。
「そういう寵姫を遠ざけるために、あたしがいるのね」
「ああ。面倒に巻き込んで、すまんな」
ルージュとしても、寵姫たちの思惑は不愉快だった。アスタルのハレムなのに、連中はアスタルの意志を尊重しようとしない。頭の中でネリザも舌を吐く。
(勘違いしてる女どもを一掃する分には、王様に付き合ってやろうじゃないか)
(あたしだって、そのつもりよ。寵姫にとってもよくないわ)
アルカーシャの娼婦は望まない情事を強いられていた。ところがハレムの淑女も、恋愛に自由がないことにおいては、娼婦と何ら変わりない。
「アスタル様も……結婚の相手は自分で見つけたい、って思うでしょ?」
「何だ? 藪から棒に」
「う、ううん。今のは忘れて」
自分の意志で恋人を決めること。きっとタバサは恋愛願望が強すぎて、娼婦本来の道を踏み外してしまったが、女としては間違っていなかった。
あたしも、いつかは……。
ルージュはアスタルを見上げ、心の奥にあるものを燻らせる。
(王様の花嫁に立候補する気になったのかい?)
(茶化さないで。別にそういうわけじゃ)
ネリザの冗談が小憎らしい。
ルージュの上目遣いを受け、アスタルがはにかんだ。
「そうだ、お前は舞いが得意だと言ってたな。やって欲しい仕事があるのさ」
「どんなお仕事? あたしにできることなら、手伝うわ」
「数ヶ月は先のことなんだが、近隣諸国の客を迎えるのに、いい出し物がなくてな。アタヴィナ伝統の楽曲でも披露しようかと思ってるんだ」
降って湧いたような依頼にネリザが飛びつく。
(やるっきゃないね! ルージュ!)
(う、うん。でも……)
半信半疑になりながら、ルージュもネリザに相槌を打った。しかし諸外国に誇示できるほどの高尚な出し物が、本当に自分にできるのか、と不安になる。
「劇団とか、ないんですか? アスタル様」
「うむ。我がアタヴィナは昔から、文化面は弱くてな」
ファマール朝アタヴィナでは芸事があまり発展しなかった。
理由のひとつに、アラベスクに代表されるような、古い宗教の影響がある。何百年にも渡って偶像崇拝が禁止されていたため、それが公式に許容された今でも、人間を描くことには誰もが躊躇した。
(あたいが生きてたサイアム朝の頃は、もっと賑やかだったけどねえ)
ただしサイアム朝の時代は領土が広がったこともあって、他国や他民族の芸事が大いに流れ込んできた。有力な劇団も多数存在したらしい。
だがサイアム朝の侵略行為は、あちこちで反感を買い、属国が続々と反旗を翻す事態となった。サイアム朝が倒れたことで、サイアム朝の方針はことごとく否定され、国外の劇団はほとんど撤退している。
(何ならさ、アルカーシャで引き受けちまうのは、どうだい?)
(無茶言わないで。あたしがそこの出身ってことは、秘密なんだし)
その時に国内に残り、権限を没収された劇団が、アルカーシャの母体だった。異常気象によって北の砂漠を越えられなくなり、やむを得ずアタヴィナに留まったという。
「まあ考えておいてくれ。無理なら無理で構わん」
「ええ。ありがとう」
アスタルと話し込んでいると、ノックの音がした。
「失礼。陛下、よろしいですか?」
王の私室に忍び込んでいるも同然のルージュは、慌てて部屋を見渡す。
「待て。着替えてるんだ」
「了解しました」
アスタルが時間を稼いでくれるうちに、お暇することにした。ベランダは高さがありすぎるため、彼の手に掴まりながら、魔法の絨毯へとそろっと移る。
「今夜もハレムでな、ルージュ」
「アスタル様も、根を詰め過ぎないでね」
ルージュはフードを深めに被り、少しずつ絨毯の高度を落としていった。中庭まで降りたら、渡り廊下を経て、改めて本殿に入り込む。
(さっきの話、受けようじゃないか。いいだろ、ルージュ?)
(少しくらい考えさせてったら。確かに面白そうだとは思うけど……あら?)
ハレムに戻る途中、見覚えのある少年とすれ違った。第二王子のシャニが魔法の絨毯を見て、目を白黒させる。
「え……ど、どうなってるの?」
ルージュは絨毯を止め、限界まで高度を下げた。
「あなたがシャニ、よね? あ、シャニ様って呼んだほうがいい?」
「え、えぇと……」
シャニがあとずさり、あからさまにルージュを警戒する。その一方で、魔法の絨毯には十歳なりに興味津々らしく、目を離そうとしなかった。
(乗せてやりなよ、ルージュ)
ネリザと同じことを思っていたルージュは、穏やかに微笑む。
「運んでってあげるわよ。書庫でしょ?」
シャニは両手に本を抱えていた。王子なのに、付き人はひとりも見当たらない。
周囲に人気がないのを確認してから、やっと少年が絨毯に乗ってくる。ルージュは絨毯の向きを変え、書庫へと針路を取った。
「立ったりしちゃだめよ」
「う、うん……」
魔法の絨毯がルージュとシャニを乗せ、城内をすいすいと進む。
最初は不安そうだったシャニも、徐々に表情を綻ばせた。
「すごい! すごいよ、これ」
無邪気な笑みを浮かべ、はしゃぐ。
「ボク、魔法の絨毯なんて初めて! ……えーと」
「あたしはルージュ。あなたのお兄さんの、恋人……かしら?」
照れながら、ルージュはアスタルの恋人を自負した。するとシャニが驚いたように目を丸くして、ルージュの容貌を見詰めなおす。
「お話は聞いてます。ボクのお姉さんになるかもしれないひと、ですよね」
「それは気が早いと思うけど……」
第二王子は話してみると朗らかで、笑顔も愛らしかった。ルージュも童心に返り、どんどん楽しくなってくる。
「ちょっと遠まわりしていかない? シャニ」
「はい! お願いします!」
ふたりは絨毯に乗って、中庭の温室に寄った。この地方では育たないような花も、温室では数こそ少ないものの、綺麗に咲き誇っている。
「あの赤い花、なんだったかしら……」
「左のですか? ダリアですよ。ダリア公国のお花です」
勉強家という噂の通り、シャニは博識ぶりを発揮してくれた。花の名前から、その本来の生息地、適した気候や季節まで、ノンストップで解説する。
「アタヴィナは年中同じですけど、余所は四季があるんですよ。春にしか咲かない、サクラという花がありまして」
「何でも知ってるのね、シャニ。すごいわ」
シャニは頬を赤らめ、謙遜した。
「い、いえ。ボクなんて、兄上の足元にも及びません」
兄上という言葉には弟の親しみが滲んでいる。
アスタルとシャニは政敵同士のはずだった。アスタルが王位を継承してからも、太后派は執拗に第二王子シャニを推しており、国政を停滞までさせている。
しかし弟のシャニは目をきらきらさせて、兄のことを語った。
「兄上はすごいんです! アタヴィー河を航路にするとおっしゃって、船の建造にお力を入れて……そう、新しい軍艦もかっこいいんです!」
花の解説よりも舌がまわり、止まりそうにない。それだけ兄を敬愛し、憧れているのが伝わってくる。
「好きなのね、アスタル様のこと」
「はいっ! ボクも兄上のお役に立ちたくて、勉強してるんです」
微笑ましい決意表明に、ルージュも自然とはにかんだ。
(いい子じゃないか。……ってことは、問題があるのは母親ってことだねえ)
この少年はメナス太后に、政治の道具にされているに過ぎない。
ルージュたちはすっかり打ち解け、書庫に向かうのも忘れていた。シャニは思った以上に懐っこく、ルージュの袖を引っ張ってもくる。
「もう少しご一緒しませんか? 兄上のお話が聞きたいです」
「いいわよ。どこかでお茶にしましょ」
だが違和感もあった。書庫で初めて会った時は逃げられており、さっきも絨毯に乗せるまでは、警戒同然に渋られている。
「ねえ、シャニ。話したくないことなら、いいんだけど……あたしに会った時、逃げようとしてなかった?」
「え? それは……その」
溌剌としていたシャニの顔が、急に曇った。
(なんとなくだけど、あんたが怖いんじゃなくて、もしかして……)
ネリザの助言もあって、ルージュは言葉を変えてみる。
「女のひとが怖い、とか?」
小さな肩がびくっと跳ねた。問いかけは図星を突いたらしい。
シャニは決めあぐね、何度もルージュの顔を見上げてから、ようやく口を開いた。
「じ、実は……ボクのお付きがみんな、女のひとになったんです。兄上のハレムにいる、カサノアってひともボクのお世話をしてて……」
意外な名前が出てくる。
「カサノアが? え、メイドじゃなくて?」
「うん。それで……お世話だって言いながら、ボクに触ったりするんです」
ルージュの中でネリザが舌打ちした。
(ちっ。読めたよ、ルージュ。こいつは面倒事になりそうだね)
(どういうことなの? まさか)
(そのまさか、さ。王子様をたらしこんで、味方につけようってやつがいるんだろうね。こんな小さい子に、まったく……とんだ下種がいたもんだ)
醜い政争には純朴な少年まで巻き込まれている。
カサノアがどの派に属しているのかは、わからない。しかし国王派にせよ、太后派にせよ、シャニ王子を色仕掛けで飼い馴らそうなど、穏やかではなかった。
ルージュは眉を引き、怯えがちなシャニの瞳を覗き込む。
「事情はわかったわ、シャニ。あたしに任せてもらえないかしら」
「……ルージュさんに、ですか?」
シャニはまっすぐに見詰め返してきた。ルージュを疑っている視線ではない。
「大丈夫よ。あたしが助けてあげるから――」
ガッツポーズを見せてやろうとすると、横から怒号が飛んできた。
「シャニっ! そんなところで何をやってるの!」
豪勢なアラビアンスタイルの女性が、ルージュらに向かって剣幕を張る。
顔つきは三十代の半ばくらいで、口紅が厚めに塗られていた。ドレスは生地が薄く、豊満な肉体が色気を醸しだしている。
その女性こそシャニの実母、メナス太后だった。
太后は傍まで駆け寄ってくると、ルージュを睨みつけ、扇子を振りおろす。
「お前ね? アスタルの愛人とかいうのは。シャニを解放なさいっ!」
「解放って、別にそんな……」
戸惑うしかないルージュの前で、シャニが小さな身体を張った。
「お待ちください、母上! ルージュさんには、ボクのほうがお願いしたんです」
「騙されてはいけませんよ、シャニ。怖かったでしょうに」
メナス太后の表情が異様に柔らかくなる。彼女は魔法の絨毯からシャニを回収し、大切そうに抱き締めた。しかしルージュには鋭い目つきで、敵意を剥き出しにする。
「魔女風情が。私の可愛いシャニは渡さなくてよ」
ネリザが何かを感じ取った。
(この女、まさか……ルージュ、早く離れな)
不遜な太后に言いたいことはあっても、ルージュの立場では難しい。ルージュはネリザの忠告を優先し、なるべく波を立てないように努めた。
「し、失礼しました、太后様。シャニ様がご本をたくさんお運びになってまして」
「ふん。シャニにはちゃんと優秀な世話役がいるの。出しゃばらないことね」
メナス太后はルージュの言葉に耳を貸さず、シャニの頭を撫でる。
「……シャニ、どうしてまた、ひとりでいるの?」
「申し訳ございません……」
シャニは弱々しい声で呟いた。
本当は『身体を触ってくる』というカサノアの目を盗み、ひとりで行動していたに違いない。今朝のカサノアたちも、ハレムで談笑していたあたり、王子が書庫に向かうことは知らない様子だった。
「行きましょう、シャニ」
太后がシャニの手を引き、踵を返す。ルージュには目もくれない。
シャニは振り向いてくれたものの、別れの挨拶はなかった。ルージュと仲良くなってはメナス太后の神経を逆撫でする、とわかっているらしい。
あれが……シャニのお母さんなの?
自分の母親も知らないルージュは慄然とする。
親子は温かいもの、と思っていたのに、メナス太后とシャニの関係は酷かった。彼女は息子を溺愛しつつ、ほかの者の愛情がシャニに触れることを、頑なに許さない。
(ネリザも思ったでしょ? あんなの、シャニが可哀相よ)
(だねえ。でも……それとは別にやばい女だよ)
ネリザは声を潜め、ルージュに警告した。
(太后にも『ついてる』よ、あたいみたいなやつが。気をつけな)
☆
その夜、ルージュはアスタルにハレムの中央へと案内された。ピンク一色という大部屋のいかがわしい有様に、新入りの寵姫は口元を引き攣らせる。
「……悪趣味だわ」
アスタルは愉快そうに笑った。
「同感だ。まあ、ここまで割りきってしまえば、ありかもしれん」
だだっ広い部屋の真ん中には、円形の特大ベッドがひとつ。浴槽との間にはガラスの仕切りがあるだけで、丸見えになっている。
棚には手錠やロープのほか、獣の耳や尻尾のアクセサリまで、一通り揃っていた。
酒類のボトルも、一ヶ月は飲み明かせそうな量がストックされている。
「まさか……ち、違うわよね?」
身の危険を感じ、ルージュはアスタルから距離を取った。
「さあ? どうかな」
アスタルは否定せず、意味深に唇を曲げる。
「お前がふたりきりで話したい、というから連れてきてやったんだ。ふふ……今頃、ほかの寵姫どもは悔しがってるだろうな」
ここはハレムの主が恋人たちと愛欲に耽るための、背徳の空間だった。
十人近く寝転べそうなベッドのほかに、座れる場所はない。仕方なくルージュはベッドに上がり、尻餅をつく姿勢で腰を降ろした。
「と、とにかく……あなたに聞いて欲しいことがあるの」
「絨毯の件も説明してもらうぞ」
アスタルは胡坐をかき、今夜は赤ワインのボトルを開ける。
(あたいのことを話してくれるんだろ、ルージュ)
(そのつもりよ。太后様のお話の前に、あなたをアスタル様に紹介しなくちゃ)
ルージュは意識的に深呼吸して、身体の緊張を少しでも解いた。
(良質の水晶玉でもあれば、いいんだけどね)
ネリザのことを誰かに話したことはない。アルカーシャの同僚もネリザの存在には気付いていなかった。それもそのはず、ネリザの声はルージュにしか聞こえず、鏡に映ったりする姿も、やはりルージュにしか見えない。
「アスタル様、幽霊って……信じる?」
「一体、何の話だ?」
妄言扱いされるのを覚悟のうえで、ルージュはネリザの存在を打ち明けた。
「……なるほど。そのネリザとかいう幽霊が、絨毯を動かしていた、と」
アスタルは頭ごなしに否定しない。が、肯定もしてくれない。
「俄かには信じ難いな。お前が嘘をつくとは思わんが」
「そうよね。何か証拠になるものでもあれば……」
ここでネリザが試しに枕を浮かせたところで、傍目にはルージュが魔法で動かしているようにしか見えないだろう。
悩んでいると、部屋の隅にあるチェス盤が目に入った。
「そうだわ! これで勝負しましょ」
ルージュは妙案を閃き、チェス盤をベッドの中央まで持ってくる。
「あたしはネリザが言う通りに打つわ。ネリザは強いから、あなたにも勝てるはずよ」
「ふっ、面白い。嘘か真か、盤上で決めるのも一興だ」
(いいね! 王様の実力ってのを見せてもらおうじゃないか)
アスタルもネリザも乗り気になって、チェスで勝負することに。
お互い駒を進めながら、ルージュはさらに切りだした。
「話はほかにもあるの。シャニ王子のことで……」
「シャニが?」
アスタルがチェスのためでなく眉を顰める。
「あの子が……色仕掛けを受けてて、逃げまわってるの、知ってる?」
「幽霊並みにとんでもないな。初耳だ」
ルージュは言葉を選びつつ、シャニの件も明かした。十歳の少年を女の色香でたぶらかそう、などという状況は、口にするのも憚られる。
アスタルはチェスの手を止め、気怠そうに前髪をかきあげた。
「……この城にも馬鹿が多いな」
切れ長の瞳がルージュをじっと見据える。
「お前の気持ちはわからんでもない。だがルージュよ、シャニには心を許すな」
全身からざっと血の気が引いた。
「あの子を見捨てろっていうの……?」
「そうは言っとらん。あまり肩を持つな、と言ってる」
母親は違うとはいえ、アスタルとシャニは血を分けた兄弟なのに、アスタルはシャニを政敵だからといって遠ざけようとする。その割りきった考え方が信じられない。
「シャニはあなたのこと、とても尊敬してるのよ」
「ああ。あいつは俺に懐きすぎだ」
兄の反応は冷ややかで、弟の話題を避けたがっているようにも聞こえた。
血が繋がっていなくとも、アルカーシャの娼婦らは姉妹同然に育つ。ルージュもハンナを姉のように慕い、ハンナもルージュを妹のように可愛がってくれた。
ところがアスタル王とシャニ王子は、愛情が弟からの一方通行になっている。
「寂しいわよ、そんなの。兄弟で仲良くできないなんて……」
最近は身近に感じつつあったアスタルを、ふと遠くに感じた。所詮は娼婦と国王、価値観が違えば、住んでいる世界も違いすぎる。
アスタルが声のトーンを落とした。
「義母上……メナス太后も、シャニが生まれる前はああでもなかった。十歳かそこらの俺にも律儀で、優しくてな。父上もそんなところが気に入ったんだろう」
「あのひとが……?」
ネリザの声色もやるせない。
(あたいはわからなくもないよ、太后の気持ちってやつが。自分の息子が可愛くてたまんないだけなのさ。……っと、次は右から三番目のポーンを進めな)
彼女の指示に従い、ルージュはポーンの駒を手に取った。
「シャニが女の子だったら、太后様はあなたに優しいままだったって、思う?」
「……かもな。だが、そうはならなかった」
アスタルがベッドで大の字に寝転ぶ。
「参った。もう手がない」
「え?」
「チェスだ。よく見ろ」
ネリザの駒はアスタルのキングを巧みに包囲していた。こちらのクイーンは初期位置から一歩も動かず、広範囲に睨みを利かせている。
「クイーンは迂闊に動かすな、か……俺の負けだ。ネリザがいると信じてやろう」
「ありがと。ネリザも『言い勝負だった』って言ってるわよ」
「それは光栄だ」
アスタルは起きあがると、グラスのワインを飲み干した。
「しかしネリザという名……まあいい。今は言い訳にしかならん」
(ほら、ルージュ。太后の話を)
ルージュは改めて、太后にも霊が憑依していることを、アスタルに報告する。
もしかしたらメナス太后が豹変したのも、悪霊の影響かもしれない。
「太后様の身も危ないわ。何とかしなくちゃ」
「ふむ。だが、幽霊なんぞはどうしたものか……先にシャニの件を片付けるか」
アスタルの言葉に、ルージュは瞳を瞬かせた。
「シャニを助けてくれるの?」
「あれが女浸けにされて、馬鹿になっても困るからな」
物言いは冷たいが、歳の離れた弟を意識はしているらしい。
一途に兄を慕うシャニのためにも、力になりたかった。その方法がなく、今は唇を噛むしかないルージュに、ネリザが囁く。
(あたいはまだ王様に信用されてないみたいだし……どうだい? 王子様についてる悪い虫を、あたいが綺麗に一掃してやるってのは)
(本気で言ってるの?)
(そりゃそうさ。後腐れのないようにやりゃ、いいんだろ?)
ネリザの声が楽しげなほど、不安になってきた。
過去にもアルカーシャで彼女は、迷惑な客を撃退するため、大胆な方法を取ったことがある。今回も奇想天外なやり方らしいことは、容易に想像がついた。
「ね、ねえ……アスタル様。ネリザが任せろって、言ってるんだけど……」
こわごわと提案すると、アスタルが不敵にやにさがる。
「チェスのようにはいかんと思うが……いいだろう。面倒は起こしてくれるなよ?」
「や、やってみるわ」
ルージュはネリザに代わって、頷いた。
(本当に大丈夫なんでしょうね?)
(まあ見てなって)
見たくもないものが始まる気がしてならない。
アスタルと別れ、ルージュはハレムの私室へと戻る。
「お疲れ様です、ルージュ様」
シエラはベッドを調えており、今夜はロイが勝手に椅子を占有していた。
「来てたのね、ロイ」
「おう。アルカーシャから手紙を預かってね」
手紙を受け取りつつ、ルージュはデスクに向かう。
「ちょうどよかったわ。ロイ、カサノアってひとのこと、知らない?」
「オレは密偵なんだから、いっぱい情報あるよー。カサノアがどこの誰で、誰と親交があって、最近は王子様にちょっかい掛けてるとか……さ」
「……知ってたのね? あなた」
追求すると、ロイは皮肉った笑みを浮かべた。
「アスタル様には話しにくいんだよねぇ、シャニ様のこと。まっ、今よりやばい感じになったら、報告してたさ」
「……どうだか」
口の軽い密偵のおかげで、カサノアの情報は充分に揃ってくる。
カサノアは父親が大臣であり、太后派の古株に当たった。
彼女がハレムに参加したのは、アスタル王に近づき、弱みを探るためらしい。ハレムではニーネ、キリという寵姫とともに行動している。
シャニが色仕掛けを受けている件を、母親のメナス太后はおそらく把握できていない。メナス太后を差し置いてシャニを操ろう、という魂胆の可能性もあった。
「アスタル様の国王派と太后様の太后派、ってだけじゃないのね」
「そりゃな。国王派の内部にだって、睨みあいはあるし」
カサノアの一派が太后をよそに、シャニを取り込もうとしているのなら、この事実をメナス太后に教えるのもよい。
ただし、あの太后が第三者の話を聞くとも限らなかった。
(悪いようにはしないさ。ふふふ)
(はあ……しょうがないか。任せたわよ)
今ひとつ信用できないが、ネリザの案で行くことに。ルージュは幽霊の言う通りに、ロイやシエラに指示を出す。
「ロイ、あなたはシャニ王子の名前で、カサノアたちをおびきだして」
「りょーかい」
「それから……シエラ、当日はあたしが部屋にいるように振る舞って欲しいの」
「承知しました、ルージュ様」
シャニ王子を救うべく、ネリザの作戦が始まった。
☆
離宮の皆が寝静まってから、カサノアはニーナとキリを連れ、密かにハレムの大部屋へと向かった。ニーナが先行し、回廊に誰もいないのを確認する。
「今のうちですよ、カサノア様」
「うふふ、ご苦労様」
三人とも、その顔には邪な笑みを孕んでいた。
ついにシャニ王子から誘われ、今夜は三人で伽の相手を務めることになったのだ。リーダー格のカサノアが、紅を塗りたくった唇を吊りあげる。
「これでシャニ様は私のもの……あなたたち、しっかりサポートなさい」
「もちろんですわ。ふふっ」
ニーナとキリもカサノアに恭順しつつ、不穏な笑みを浮かべていた。あわよくばカサノアを出し抜いてやるつもりらしい。
もしくは、幼い王子に不謹慎な情欲を抱いている。
貴族には男女を問わず、美少年を愛でる傾向があった。それが一国の王子となれば、欲望のはけ口として、格好の獲物となる。
無論、王子を手込めにしたなどと発覚しようものなら、窮地に立たされる。しかしリスクを負ってもなお、王子と一夜をともにする利益と快楽は、魅力的だった。
先にシャニ王子が来ているはずで、ハレムの大部屋は鍵が開いている。
カサノアたちは息を潜めつつ、夜宴の場へと足を踏み入れた。
薄暗い部屋の中、ピンク色のランプに囲まれ、丸いベッドだけが浮かびあがる。甘い香も焚かれ、ハレムならではの妖艶さが満ちていた。
少年らしい人物がベッドの上で蹲り、頭までシーツを被っている。
「来てくれたんんだね、お姉さんたち」
「うふふ……お待たせしましたわ、シャニ様」
カサノアに続き、ニーナとキリもベッドによじ登った。三方向からひとりずつ、四つん這いのポーズで胸の谷間をちらつかせながら、シャニ王子に迫っていく。
「緊張なさってるのかしら? ご安心くださいな」
「今夜は精一杯、ご奉仕いたします。さあ、楽になさって……」
ところが王子へと伸ばした手に、手錠が掛けられた。
「……お、王子?」
カサノアらは驚いて、即座に対応できない。
その隙にシャニ王子が素早く動き、三人を拘束してしまう。
「おやおや、声色を変えたくらいで引っ掛かっちゃって。迂闊だったねえ」
シーツを取っ払って顔を晒したのは、シャニではなくルージュだった。カサノアたちは目を点にし、愕然とする。
「どっ、どうして、あなたがここにいるの?」
「なぁに、可愛い王子様の代理さね」
今夜のルージュは大人びた目つきで、髪をかきあげる仕草ひとつにしても、流れるような優美さがあった。それもそのはず、今はネリザの意識が反映されている。
「シャニ王子が野暮用で来られなくなってねぇ。あんたたちが寂しい思いしないように、相手してやってくれ、ってさ」
「う、嘘をおっしゃい! あなた、私たちを嵌めたわね?」
ネリザはしれっと、ルージュの顔で艶笑を深めた。
「先に嵌めようとしたのは、あんただろ? 人様の部屋の前に、泥なんかまいてさ」
偉ぶってばかりいたカサノアが、ぎくりと声を詰まらせる。
「くっ……わ、私には何のことだか」
「いいんだよ? 証拠なんざ、これから、いくらでも吐かせてやるし……」
ネリザは三人を四つん這いのまま、横一列に並べ、お尻を向けさせた。屈辱的なポーズを取らされ、ニーナが歯軋りする。
「な、何をするつもり? 近づかないで!」
「汚らわしいですわ! ど、どこを見て……ひはあっ?」
ところがキリのほうは反抗を続けられず、甲高い悲鳴をあげた。
ネリザが容赦なしにスカートを捲り、お尻をぶつ。キリだけでなくニーナもぶたれ、痛みに喘ぐとともに、弱気な声を震わせた。
「まさか……いや、やめ……!」
「へえ、いい音が鳴るもんだ。あんたら、牝の素質があるよ」
唐突に始まった責め苦に、ニーナもキリも瞳を慄かせる。
ネリザの平手打ちは威力もさることながら、パンッと強烈な音を立てた。ニーナとキリのお尻は打楽器のように打ちのめされ、みるみる赤らんでしまう。
中央のカサノアは蒼白になっていた。肩越しに振り向き、歯をかちかちと鳴らす。
「あなた、何をしてるか、わかってるの? わたくしは大臣の娘なのよ?」
「違うね。あんたはこれから、あたいの玩具になるのさ」
ネリザは舌なめずりして、艶めかしい唇を潤わせた。
「だ、誰か! 誰かいないの?」
三人が声をあげたところで、助けは来ない。もとよりカサノアたちは後ろめたい遊戯に興じるため、従者を連れてこなかった。カーテンの隙間から多少灯かりが漏れても、そこでハレムの主が寵姫らと戯れていることは、暗黙の了解となる。
「そっちがニーナで、こっちがキリだったね。あんたらがカサノア様を差し出すってんなら、手加減してやってもいいんだけど……」
狡猾な取引を持ちかけられ、ニーナとキリは唇を噛んだ。決めあぐねている間も、ネリザの平手打ちは止まらない。
「ひぐぅ? ゆ、許して……お願い、もう許してっ!」
「おやおや、部下がこんな目に遭ってんのに、大臣の娘さんとやらは冷たいねえ」
カサノアは慄然とし、触られる前から身体を敏感そうに震わせた。まだ気位は残っているものの、涙を滲ませる。
「は、話を聞きなさい! お前たちも、何をやられっ放しに……」
「夜は長いんだ。たっぷり楽しませてもらうよ? カサノア」
ルージュの小顔にネリザの酷薄な笑みが浮かんだ。
数時間が過ぎ、淫靡なにおいが立ち込める。
カサノア、ニーナ、キリの三人は半裸の恰好で突っ伏し、汗みどろになっていた。散々引っぱ叩かれたお尻は赤く腫れ、大粒の汗にまみれている。
ベッドのシーツもびしょびしょだった。
身体のイニシアチブを取り戻したルージュは、頭の中でネリザに猛抗議。
(やりすぎでしょ! 考えがあるって、これ? サイッテー!)
(情報は山ほど手に入ったろ)
ネリザの懲罰じみた尋問に耐えきれず、カサノアたちは太后派の動向などを洗いざらい吐いた。あとでロイの情報と照らしあわせれば、真偽の判定も容易い。
ただし、今回の手段は最悪に近かった。出るところに出ようものなら、ルージュの立場が悪くなってしまう可能性もある。
ネリザは悪びれた様子もなく、けろっと言ってのけた。
(大丈夫だって。こいつらが自分で『豚みたいに尻を叩かれました』って、言えると思うかい? プライドだけは人一倍だからねえ)
(あのねえ……)
恥ずかしい目に遭わせたうえで、それを理由に黙らせる。その陰湿で悪辣なやり方に、ルージュは痛くなってきた頭を押さえ、溜息をつくほかなかった。
(懲らしめるにしたって、ほかにもっと、あるじゃないの)
(悠長なこと言ってんじゃないよ。……と、あとはこいつらに、公式の場でシャニ王子に謝らせないとね)
カサノアたちは息も絶え絶えで、起きあがる気力も残っていない。
「首尾よく行ったか? ル……」
様子を見に来たアスタルは、あまりの惨状に目を覆った。
「……なんだ、これは」
ルージュは両手をぶんぶんと横に振る。
「ち、違うの! これはあたしじゃなくって、ネリザが」
「策があるというから、任せてみれば……シャニの分を意趣返ししただけじゃないか」
アスタルの正論に諭され、ぐうの音も出なかった。
(わかったろ? 小悪党は大悪党には勝てないってのが、道理なのさ)
(極悪人よ、あなたは)
ルージュは疲れ果て、がっくりと視線を落とす。
「まあいい。シャニの件も合わせて、使えそうだしな」
アスタルはにやりと笑みを噛んだ。
☆
翌日、謁見の間には多数の貴族が集まった。シャニ王子を巻き込みつつあった事件が明るみになり、動揺が広がっている。
何しろ有力な大臣の娘であるカサノアが、同僚とともに、十歳の王子をたらしこもうとしたのだ。カサノアたちは真っ青のまま、おずおずと御前で跪く。
謁見の間にはルージュのほか、シャニ王子の姿もあった。しかしメナス太后はまだ姿を見せていない。
玉座のアスタルは低い声に怒りを滲ませた。
「……面をあげろ」
中央のカサノアがびくっと肩を震わせる。アスタルの威圧感を前に怯えるばかりで、顔を上げることもできない。
両脇のニーナとキリはカサノアに先んじて、額を地面に擦りつけた。
「申し訳ございません、陛下! どうかお許しください!」
「シャニ様には二度と近づいたりいたしません!」
せめて自分だけは助かろうと、必死に許しを請う。首謀者とともに失脚する義理はないらしい。カサノアにはもはや、彼女らを傍に置くだけの求心力もなかった。
寵姫たちの怯えように、アスタルが肩を竦める。
「俺のハレムで勝手をしたこともそうだが……我が弟を辱めたこと、万死に値する」
「あ、兄上……?」
シャニは兄を見上げ、つぶらな瞳を瞬かせた。
「これはファマール王家に対する侮辱だぞ。わかっているのか?」
王の警告に一同が口を噤む。
ハレムがあるような貞操観念の薄い場所とはいえ、王族の男子に色目を使うなど、不徳の極みだった。国家への反逆などと言いがかりをつけられても、否定はできない。
アスタルはカサノアではなく、家臣らに釘を刺した。
「シャニだけではない。俺のハレムにも、呼んだ憶えのない女が随分と増えた。……誰がどいつの娘かくらい、把握してるぞ?」
どすの利いた声で淡々と語りながら、目をぎらつかせる。
「そんなに世継ぎを産ませたいか。……国王の俺が、まるで種馬扱いだな」
謁見の間に集まった貴族たちにも、戦慄の波が走った。
大半の者がハレムに寵姫を向かわせ、王家との婚姻を狙っている。ここでアスタル王とともにカサノアを糾弾できる忠臣は少ない。
彼らは視線を泳がせるばかりで、後ろめたい動揺を隠せずにいた。
アスタルが玉座に深めにもたれて、脚を組む。
「シャニよ。俺たち兄弟は、こいつらに舐められているらしいが……どうする? そこの女どもは、お前が裁いて構わん」
シャニは息を呑むと、偉大な兄に小さな声で進言した。
「で、では……刑は軽くしてやってください。もとはといえば、ボクがもっと早く兄上にご相談申しあげていれば、よかったことなんです」
「ふむ。ならば、ハレムからの追放でこの件は収めてやるとしようか」
ニーナとキリが顔をあげ、シャニ王子を見上げる。カサノアも恐る恐る仰向いて、あどけない王子の恩情に縋った。
「重ね重ね申し訳ございませんでした!」
彼女らの切実な謝罪をもって、喚問は終わる。
ルージュはほっと胸を撫でおろした。今回の件はカサノアたちに非があるとはいえ、逆に罠に嵌めたことは、ルージュとネリザの責任にほかならない。
(これでハレムも風通しがよくなるさ)
(だと、いいけど)
ところが今になって、謁見の間へとメナス太后が躍り込んできた。
「ああ、シャニ! 無事なの?」
荒々しい足取りで御前を横切り、小柄なシャニを抱きあげる。
「こんなところに呼びだされて、さぞ怖かったことでしょう……可哀相に」
「母上。違います。ボクは怖いことなんて、何も」
戸惑う息子を庇いつつ、メナス太后はアスタル王をねめつけ、怒号を張りあげた。
「アスタル! カサノアはわたくしがシャニにつけた、教育係でしてよ? 勝手なことをしないでちょうだい!」
アスタルは顔を背け、面倒臭そうに前髪をかきあげる。
「何をどう聞いて、そうなったんだ? 義母上、落ち着いてくれんか」
「色香だの、たぶらかすだの、子どもの前でいい加減におし! これだから売女の息子なんて……フン、虫唾が走るとはこのことよ」
家臣が一様に押し黙る中、ルージュは太后の言葉に首を傾げた。
……売女の、子?
アスタルが鬼のような形相になり、青筋を立てる。
「黙れ、義母上。太后とて、それ以上の侮辱は許さん」
「……行きましょう、シャニ」
メナス太后は強引にシャニを連れ、踵を返した。
その足がいきなりカサノアを蹴りつける。
「あうっ?」
「この役立たずが! 恩を仇で返すような真似しおって!」
さっきはカサノアを庇っていたはずなのに、言動は支離滅裂として、一貫性がない。
太后の背中には黒い影が見えた。ネリザが頭の中で声を潜める。
(見えるかい? あんなのがついてっから、狂ってんだ)
(ええ。太后様を助けてあげなくちゃ……)
シャニのためにも、ルージュは覚悟を決めた。自分だけが今、太后の魔性を目の当たりにしている。見て見ぬふりなどできない。
(やっぱりあいつも、化けて出やがったね。今度こそ決着をつけてやるよ)
ネリザは静かに怒りを漲らせた。
※ 当サイトの文章はすべて転載禁止です。
あなたもジンドゥーで無料ホームページを。 無料新規登録は https://jp.jimdo.com から