千夜一夜の寵愛
第2話
アルカーシャとは生活サイクルが異なることにも、すぐに慣れた。朝は六時過ぎには起きて、涼しいうちに朝食と着替えを済ませておく。
ハレムの新入りとなるルージュは、今夜、アスタルから皆に紹介されるらしい。それまでは部屋の出入りさえ禁止されてしまった。
明日以降は城を自由に歩きまわってよいとの話だが、今ひとつ信用ならない。
とはいえ気の利くメイドがいるおかげで、退屈はしなかった。
「ルージュ様、お暇でしたら、チェスでもいかがですか?」
「いいのがあるじゃない。お手合わせ、お願いするわ」
ふたりチェス盤を挟んで、対峙する。
チェスは貴族に好まれるゲームで、アルカーシャでも客が娼婦とよく打っていた。ルージュもルールは熟知しており、勝てないまでも、それなりには戦える。
(その手じゃ攪乱にならないよ。ビショップはさあ)
(黙ってて。今はあたしが打ってるの)
ネリザの言う通りに打てば連戦連勝だが、それはそれで負けた気になるので却下。
ルージュとシエラの一局は、ほぼ互角の戦いとなった。
「アスタル様は強いのかしら」
「きっとお強いでしょう。あ、いただきますよ」
シエラが進めようとしたナイトの駒を、第三者が横からかっさらう。
「こっちのほうがいいよ、メイドさん」
いつの間にか、傍には見知らぬ男性が佇んでいた。チェスの戦況を吟味し、シエラの駒を勝手に動かす。
「ちょっと? 誰よ、あなた」
「……どちら様ですか?」
シエラも知らない人物らしい。
彼は砂除けのマフラーをのけ、軽薄そうな笑みを浮かべた。
「オレの名はロイ。アスタル様の『使える』パシリさ」
砂漠では保護色になる茶系のコーディネイトで、ほぼ全身を包んでいる。両腕を上げて脇腹まで見せたのは、『敵意はないよ』という意思表示のつもりだろう。
ロイは前のめりになって、ルージュの顔つきをまじまじと眺めた。
「こっちの赤い髪のほうがルージュ、でしょ。アスタル様から聞いてるよ」
ルージュは彼に構わず、チェス盤に目を向ける。
「格好つけてるとこ、悪いんだけど……あたしの番なのよね」
駒を進めると、シエラの布陣にビショップで切り込める形になった。ロイが下手に邪魔したせいで、シエラは劣勢へと追い込まれる。
「うぐっ。その手は読んでなかった」
「……女同士の遊びに茶々を入れるなんて、感心しませんよ、ロイ様」
一度や二度のミスで揚げ足を取って、下手、とは言い切れない。しかしチェスにおいてロイが弱いことは、この場で確信が持てた。
ルージュはチェスを切りあげ、ロイを見上げる。
「ロイって言ったわね。あなた、アスタル様のお付きなの?」
「密偵……かな。あんたの護衛を頼まれたのさ、お姫様」
ロイはひょいっと逆立ちして、チェス盤を跳び越えた。反対側で足から着地し、自慢するように親指を立てる。
「へへっ、どう?」
「び、びっくりするじゃないの」
ルージュとシエラはほっとし、身体の重心を前に戻した。
(へえ。頭のほうはアレっぽいけど、やるじゃないか)
ネリザの感想がルージュにとっても、ロイの暫定的な評価となる。護衛として心強いのはもちろん、アスタルとの連絡手段として大いに活用できそうだった。
ルージュもシエラも、国王の日々の業務を事細かに把握しているわけではない。連絡ひとつ取るにしても、後宮で待つほかなかったが、ロイがいれば手段も変わってくる。
「ですが、ロイ様。ここは男子禁制です」
「わかってるって。そこはちゃんと、アスタル様から許可貰ってんだし」
ロイはお調子者らしく笑った。
「今日は顔合わせと思ってね。オレもルージュがどんな美人か、気になっててさ」
「あっそう」
まるで心のこもっていない発言に、ルージュはふてくされる。
それでもロイは態度を変えず、ゴメンと右手をかざした。
「わりぃ、わりぃ。……と、まあそんなわけで、ルージュも俺をパシリにしてくれていいからさ。外に手紙出したい時とかも、オレに任せて」
「手紙! それよ、それ」
アルカーシャ出身であることを隠している以上、ルージュには正規の通信手段が使えなかった。ロイが直接アルカーシャまで届けてくれるのなら、問題ない。
「近いうちにお願いすると思うわ」
「りょ~かい。でも中身は確認させてもらうぜ?」
「……しょうがないわね。そっちも了解よ」
ロイはマフラーで顔を隠し、窓へと身を乗り出した。
「じゃあね、おふたりさん!」
四階の高さにもかかわらず、外壁や木を楽々と伝い、裏庭へと降りていく。
同じ窓からルージュは、彼が小さくなっていくのを見送った。
「変なひとだったわね」
「ですけど、実力は確かのようです」
その後もシエラとお茶をしたり、窓際で花を弄ってみたり。今までの経験にないほど、時間がゆっくりと流れていくのを感じる。
夕刻になるにつれ、離宮が騒がしくなった。今夜はアスタルのもと、ディナーパーティーが催されることになり、シエラも給仕係として、焚き出しに駆りだされていく。
ルージュは自室で待機しつつ、姿見でドレスの着付けを確認していた。今夜は薄紫色のドレスに、どの花飾りを、どう添えるかで迷う。
(あんたの真っ赤な髪、印象が強すぎるんだよねえ)
バーミリオンといった淡い赤色ならまだしも、ルージュの髪はクリムゾンなどの真紅に近かった。髪が主張しすぎるせいで、ドレスは色が限られてくる。
(赤に赤を合わせるんじゃ、だめ?)
(だめじゃないけど、それをこなすにゃ、まだまだセンスが足りないよ)
しばらくすると本殿の鐘が鳴り、離宮の夜空にも響き渡った。戻ってきたシエラとともに、ディナーパーティーの会場を目指す。
「足元にお気をつけください」
「大丈夫よ。こういう履き物には慣れて……っと」
注意されて間もなく、躓いてしまった。ルージュは照れつつ、世間話で誤魔化す。
「ま、まだ向こうのほうは明るいわね」
大陸の南西に位置するアタヴィナは、ほかの国に比べて昼の時間が長い。
夕焼けの残り火も西の果てに消えた頃、ルージュたちは会場入りを果たした。
会場のホールは中二階が内側でテラス状になっており、大半の寵姫は一階の広間に集まっている。彼女らはルージュを見つけると、眉を顰めた。
「あの方って、どなた?」
「今さら新入りが来ましたの? フン……」
扇子で口元を隠し、無遠慮な視線だけ飛ばしてくる寵姫もいる。
歓迎されていないことは、棘のある雰囲気でわかった。彼女らもいくつかのグループに分かれ、余所余所しい距離を保っている。
ここでは全員がライバル同士。アスタル王の正妻の座を巡って、熾烈な争いが繰り広げられているようだった。
(どいつもこいつもギラギラしてるねえ。王様に相手されてないのかもね、こりゃ)
(……どういうこと? ネリザ)
(簡単さ。戯れでも王様に抱かれてりゃ、余裕ってのが出てくる。そいつが、ここにいる女からは感じられないっていうか……ま、単なる憶測さね)
自称トレジャーハンターの言い分にしては、的を得ている気もする。
アルカーシャでも、上客と熱い夜を過ごしたばかりの娼婦は、自信と活力に満ち溢れていた。その域に達して、初めて一人前と認められる。
しかしここにいる寵姫からは、苛立ちや焦りが感じられた。思うように客を取れない娼婦も、似たような感情を剥きだしにすることが、たまにある。
ネリザは何かを予感していた。
(あんた、ここで悪目立ちするかもね。気合入れときな)
今のところ、寵姫らはルージュを歯牙にもかけない。だが、もしルージュがアスタルの恋人と知れたら、状況は悪化するに違いなかった。
ロイが護衛を命じられているのも、少なからずルージュの身に危険が及ぶため、かもしれない。ルージュは腹を決め、性悪そうな美女たちの集いへと乗り込む。
ディナーパーティーだけのことはあって、今夜はさまざまなご馳走が用意されていた。メインは羊肉で、アタヴィー河で採れる魚もテーブルを彩っている。
「ルージュ様はノンアルコールでしたね」
「うん、お願い」
香辛料と酒の香りが漂った。一部の寵姫は『せっかくの香水が』とへそを曲げる。
面子が揃ったところで、中二階のテラスに今夜の主催者が登場した。薄手のコートを肩に掛け、威風堂々と胸を張っている。
「今宵はよく集まってくれた、ハレムの姫たちよ」
寵姫らは一様にうっとりして、頭上のアスタル王にお辞儀を捧げた。ルージュも見様見真似で頭をさげておく。
「さて……食事の前にひとつ。お前たちに紹介したい女がいる。上がってこい」
王の言葉を拝聴していたムードが、瞬く間にざわついた。寵姫たちが顔色を変え、呼ばれたのは誰なのか、手当たり次第に探し始める。
「アスタル様がじきじきにご紹介、ですって? どういうこと?」
「聞いてませんわ! わたくしを差し置いて、どこの女が」
中二階のテラスへと続く階段が、いばらの道に見えてきた。アスタルが呼んでいるのは間違いなくルージュであって、この刺々しい空気の中、前に出なければならない。
……やるしかないわね。
大きく深呼吸してから、ルージュは階段へと近づいた。
一同がルージュの存在に気付き、口々に『誰?』『まさか』と噂する。
ネリザの言う通りだわ。悪目立ちが過ぎるわよ、これ……。
それこそ綱渡りの心境で階段を昇りきると、アスタルが腕を広げた。小柄なルージュを我が物のように抱き込んで、女たちに見せつける。
「今日よりハレムに加わった、ルージュだ」
寵姫らの表情に波が走った。
「そんな……ア、アスタル様が、お手をお触れになるなんて……?」
誰もが呆然自失として、目の前の光景を疑っている。
さらに見せつけるように、アスタルはわざとらしくルージュの身体をまさぐった。
「ち、ちょっと?」
「ふふっ。いつものことだろう?」
浅く括れた腰を撫で、不意打ちでおへその線をなぞり降ろす。
「ひゃっ?」
反射的に甲高い悲鳴が出てしまった。あどけない小顔も真っ赤になる。
恋人の初々しい感度のよさに、アスタルがにやついた。
「さあ、食事にしよう」
ルージュとアスタルは中二階のテラスで、ほかの寵姫は一階のホールで席につく。
テラスのソファは階下からよく見える位置にあった。アスタルが恋人との仲を女たちに見せびらかすため、手配したものらしい。
い、生きた心地がしないわ……。
ルージュにとっては、蛇に囲まれているのと変わらなかった。迂闊に階下に目を向けようものなら、恐ろしい形相で睨み返されてしまう。
(あっはっは! いい気分じゃないかい、羨ましいよ、ルージュ)
(とんでもないわよ! 他人事だと思って!)
アスタルは彼女らの視線を意に介さず、座りながらでもルージュを抱き寄せた。ウイスキーに口をつけ、美酒の香りとともに囁く。
「食べさせてくれ」
「……は?」
アスタルの右手はウイスキーのグラス、左手はルージュの腰にあって、自分でナイフやフォークを取ろうとしない。
ルージュがじっとしていると、また『おへそ』をなぞられた。
「そっ、そこはだめったら」
何でもないような箇所なのに、アスタルの指が触れると、全身に震えが走る。そんな反応をしてしまうのも猛烈に恥ずかしい。
「だったら、食べさせるんだ。お前の手でな」
抵抗を続けたところで、逃げ場などなかった。寵姫らの環視に晒されているうえ、アスタルの指先はルージュの弱点から離れようとしない。
「早くしないか。それとも……もっと触って欲しいのか? ルージュ」
「わ、わかったから。もうやめて」
緊張に震えながら、ルージュはナイフとフォークを手に取った。羊肉は質がよいおかげで、切ることは容易い。その切れ端をフォークで、アスタルの口元までそろっと運ぶ。
「ほら……あ、あーんして?」
ぎこちない仕草になってしまった。ふたりきりでも耐えられないに違いないのに、ここではひとの目が多すぎる。
「お前が恥ずかしがってどうする?」
アスタルは平然と口を開け、羊肉のスライスを頬張った。赤ん坊みたいな振る舞いが、国王の威厳とおかしなギャップを生じ、ルージュを困惑させる。
このひと、こんな顔もするのね……。
アスタルの笑みはルージュを『まだまだだな』と小馬鹿にしていた。しかしまなざしに突き放すような遠さはない。むしろ優しく、焦点も近い。
傍目にはルージュがアスタルに『あーん』させていた。階下では女たちの妬み嫉みに火がついて、ごうごうと燃えあがっている。
「アスタル様! わたくしにもお酌をさせてくださいませんか?」
「わ、わたしです! アスタル様をご満足させてみせますわ」
あくまで王の手前、淑女然とした申し出が競争となった。しかしアスタルは聞く耳を持たず、気ままに恋人の赤い髪を梳きおろしてばかり。
「残念だが、俺が一度に愛せるのは、ひとりまでだ。……なあ、ルージュよ」
「……え」
不意に唇を塞がれた。
唐突に始まったキスに気付いて、ルージュは目を見開く。
「んんんっ? んっ、んむぅ~!」
頭を後ろに下げようとしても、アスタルの左手にまわり込まれた。唇をこじ開けられ、舌をねっとりと絡め取られる。
キスの合わせ目から熱い吐息が漏れた。恥ずかしさのあまり見ていられず、目を閉じると、かえって舌の動きが鮮明になってしまう。
やっと唇が離れると、蜜が糸を引いた。
ルージュはソファの端まで逃げ、口元を隠しつつ、真っ赤になる。
「ちちっ、ちょ、アスタル様? 何するのよっ!」
「どうした? ……あぁ、ひとに見られるのは嫌だったか」
アスタルはしれっと返し、キスを終えたばかりの唇を、ウイスキーで潤わせた。
「ふたりの時は、お前のほうからねだってくるくせに……ふふっ」
恋人にだけ見せる妖艶な表情で、ありもしないことを言ってのける。
一部始終を目の当たりにし、寵姫らは絶句していた。
これまでハレムの女に手をつけることのなかったアスタル王が、ぽっと出の新入りを特別扱いし、寵愛している。それが実際は嘘であれ、彼女らのプライドを打ちのめすには、充分すぎるほど効果的だった。
気の立っている者は地団駄を踏むように、パーティー会場から出ていく。
「こ、今夜のところは失礼しますわっ。おやすみなさいませ」
曲がりなりにもアスタル王の主催であるため、大半の寵姫は残った。テラスのルージュを見上げ、唇が歪むくらいに歯軋りしている。
「ぼーっとするな、ルージュ。酒を注げ」
「……わ、わかってるわよ」
ルージュは冷や汗をかきながら、おずおずとウイスキーを氷で割った。
(こりゃあ面白くなってきたねえ! あっはっは!)
王の寵愛と引き換えに、ほかの寵姫を敵にまわす。熾烈な女の戦いが始まったことに、ネリザは大笑いしていた。
☆
城の中は軍事施設を除いて、どこにでも立ち入ることが許可された。シエラやネリザらとともに、見物にまわるだけでも、早三日。
護衛のロイはルージュの傍に隠れているらしい。
今日は朝から城の書庫を訪れていた。本は日差しに弱いため、地下にある。
「さすがお城ね。本がたくさん……」
書庫は足元から天井まで、古い書物で埋め尽くされていた。所狭しと本棚が並び、道はもはや隙間でしかない。
さらに下への階段には『禁書保管庫』の札が掛けられ、立ち入りを禁止している。
「お昼はここで過ごすのもよさそうね。なんてったって涼しいし」
「同感です。けど、お茶はできないんです」
「それもそうね。まあ、ちょっとだけ涼んでいきましょ」
ルージュは適当に本を選び、ぱらぱらと捲ってみた。
(ファマール朝以前の歴史書だね)
幼い頃からネリザに文字を教わっていたおかげで、大体は読める。
「ルージュ様、難しそうな本をお読みになるんですね」
「え? ええ……」
シエラも本棚を見上げ、背表紙のタイトル眺めていた。
ルージュの学術的な知識のほとんどは、ネリザによるもの。歴史学や地理学など、アタヴィナのことならそれなりに頭に入っている。
アタヴィー河の流域で最初の国家が興ったのは、およそ千年前。何度か分裂と統合を繰り返しつつ、その独立性と文化性は、現在のファマール朝へと受け継がれている。
砂漠のせいで国外への進出が難しい一方、砂漠のおかげで外敵の侵略を受けることも少なかった。
ただしサイアム朝の時代は積極的に領土を広げ、近隣諸国にとっては猛威となった。しかしその支配も長続きせず、サイアム朝とともに終焉を迎えている。
「近年はアタヴィー河を航路にできないかって、期待されてるみたいね」
「上流の運河が実現すれば、弾みもつくと思いますよ」
シエラと雑談がてら、ふとルージュはほかにも書庫の利用者がいることに気付いた。
……あら?
小さな男の子が本棚の一番上の段を見据え、梯子を掛ける。
「手伝ってあげるわ。あの本が欲しいのね?」
驚かせない程度に声を掛けながら、ルージュは梯子を押さえた。
少年の幼い顔が俄かに真っ青になる。
「えっ? あ、あの、いいです!」
「ちょっと?」
呼び止める間もなく、彼は梯子を飛び降り、逃げてしまった。梯子の下には忘れ物らしい書物が置き去りになっている。
「……誰だったのかしら」
「おそらく、第二王子のシャニ様でしょう」
「シャニ様だよ」
ルージュの質問に答えたのは、シエラだけではなかった。密偵のロイが本棚の陰から現れ、さっきの少年が取ろうとしていた本を、梯子なしに回収する。
「貿易における通貨の統制……? ひゃー、タイトルからして難しそー」
先代の国王にはふたりの息子がいた。ひとりは先妻の子にして長男の、アスタル。もうひとりは後妻であるメナス太后の子、シャニ。
王位はアスタルが順当に継承したものの、メナス太后は今なおシャニを推し、虎視眈々とチャンスを窺っていた。アスタルとシャニは兄弟とはいえ、政敵同士となる。
「お勉強してたのね、きっと」
「そうそう。シャニ様は根っからの勉強家で、有名なのさ」
十歳にしてシャニ王子は政治学を専攻し、精力的に取り組んでいるという。幼い頃からアルカーシャで下働きをしていたルージュは、そんな王子に親近感を覚えた。
(あんなに小さいのに、アタヴィナのために頑張ってるんだわ)
(あれくらいの子は、もっと遊んでて欲しいけどねえ)
しかし王子の先ほどの反応も気になる。まるでルージュを怖がるかのようだった。
「嫌われちゃったのかしら、あたし……」
「びっくりされたのでしょう」
ルージュは忘れ物らしい本をまとめ、ロイに渡しておく。
「悪いけど、ロイ、あの子の部屋に持っていってあげて。その本もね」
「了解。やっとオレに命令してくれたね、ルージュ様」
ロイは本を抱え、意気揚々と書庫を出ていった。
「あたしたちも行きましょ、シエラ」
「はい」
ルージュとシエラも書庫をあとにして、地上のフロアに戻る。
城内ですれ違う者は、全員がルージュに視線を引っ掛けていった。メイドや衛兵は無関心を装っているものの、しっかりと聞き耳を立てている気配がしてならない。
今やルージュはアスタル王の恋人として、注目の的となっていた。特に女性貴族は興味津々に噂している。
「シエラ、あなたは仕事で迷惑したりしてない?」
「ご心配なく。メイドは、仕事に支障のある事柄には関わらないのが、鉄則ですし」
もとよりアスタル王は色を好まず、ハレムの存在意義も疑われていた。ところが先週になって、王がじきじきにハレムに寵姫を加え、しかも『恋人だ』と言いだした。
おかげで城内は、アスタル王の恋人の噂で持ちきり。ルージュについても、さる貴族の令嬢だとか、隣国の姫らしい、と口々に囁かれた。
これでルージュが娼館の出身と知られれば、大事になる。
とはいえ本殿のほうなら、噂される程度で済むので、まだよかった。ハレムでは寵姫らが敵意を剥きだしにして、睨みを利かせてくるのだから、居たたまれない。
(ああいう手合いは、手加減ってもんを知らないからねえ)
(さすがに疲れちゃうわ……)
今までは誰も抜け駆けしないよう、互いに監視じみたことまでしていたらしい。ところがルージュの出現によって、彼女らはものの見事に一杯食わされてしまった。
後宮にいては無数の嫉妬と怒りに囲まれ、気が休まる暇もない。ルージュはシエラを連れ、日中はなるべくハレムを離れている。
今日もすこぶる暑く、渡り廊下の屋根が届かない地面は、じりじりと焦げていた。日陰のあるほうに寄って歩くと、向こうからの集団と鉢合わせになる。
シエラがさっと青ざめた。通せんぼしてしまった相手は、アタヴィナの国王陛下。
「ふっ。ルージュ、城の探検か?」
アスタルがにやりと唇の端を吊りあげる。
先日のキスを思いだし、ルージュは一秒のうちに赤面してしまった。しかし、まさかメイドの背中に隠れるわけにもいかず、おずおずと対面する。
「ア、アスタル様……」
「ん? 緊張しているのかな、我が恋人は」
アスタルの後ろには数人の家臣が控えていた。
「陛下、お時間のほうが……」
「野暮なやつめ。少しは気をまわしたらどうだ?」
彼らが急かすのを無視し、アスタルはルージュをそっと抱き寄せる。キスをしたこともある男性の美貌が急に近くなり、鼓動のテンポが跳ねあがった。
(おいおい、ルージュ? これはあんたの仕事なんだからさ、我慢しないと)
ネリザが面白そうに囁く。
これはあくまで恋人のふり。アスタルが花嫁候補らを遠ざけるため、ルージュはたったひとりの恋人として振る舞わなければならない。
(ほら、あんたからも腕まわしてさ)
(わ、わかったってば)
ルージュは戸惑いながらも、アスタルの手にそっと触れた。遠慮がちに手を重ねるだけでも精一杯で、とても目を合わせられない。台詞はネリザに考えてもらった。
「えぇと、アスタル様、こ、今夜は……会いに来てくれるの?」
「寂しい思いをさせたな、すまない。今夜は大丈夫だ」
アスタルとルージュの睦まじさに、家臣らは目を丸くする。
ハレムが存在するとはいえ、アスタル王は色を好む傾向になかった。そのはずが、今はひとりの寵姫を選び、溺愛している。
「お前を膝に乗せていれば、仕事も捗りそうだぞ」
「なっ? ……変なこと言わないでったら」
アスタルの言動も嘘に過ぎないのに、どきりとさせられた。甘い高揚感が胸に広がり、彼にだけ、心が敏感になる。
解放されても、胸の鼓動は鎮まってくれなかった。
心臓に悪いわ、このひと……。
微笑みかけられるのが恥ずかしくて、ルージュは視線を脇に逸らす。
「じゃあな、ルージュ。楽しみにしているぞ」
本来ならルージュたちが道を譲るべきところで、横に折れたのはアスタルだった。家臣らも驚きながら、王のあとに続く。
国王の一行が通り過ぎてから、シエラはほっと胸を撫でおろした。
「びっくりしましたね。私の不注意でした、申し訳ありません」
「いいのよ。気にしないで」
ルージュも深呼吸で気持ちを落ち着かせる。
おそらくアスタルはルージュらの存在に逸早く気付き、即興で恋仲を演じた。国家の最高権威が道を譲ったのだから、ルージュの立場は正妻や王妃に近いものになる。
作戦は上々。ルージュにも目立ったミスはなかったはず。
(今ので問題なかったわよね? ネリザ)
しかしネリザは急に声を尖らせた。
(いたよ。さっきの中にファウストって呼ばれてた男が)
その名にルージュも眉を引く。
(本当に? どれだったの?)
(髪をオールバックにした……って、あんたは見てる暇もなかったか)
タバサを弄んだ色男が、さっきの一団に混ざっていたらしい。
……絶対に逃がさないわ。タバサさんのためにも。
ルージュは柄にもなく親指を噛んだ。
離宮の私室に戻って、作戦会議を始める。
ルージュはシエラとロイに、タバサの件について語った。ロイはあまり関心がないようだが、シエラはいつになく語気が荒い。
「私にできることでしたら、何なりとお申し付けください」
「オレも手は貸すよ。でも、いいアイデアがねえんだよなあ……」
ルージュは腕組みを深め、ネリザの声にも耳を傾けた。
(あたいが枕元に立ってやろうか? 結構効くよ)
(それもいいけど……もっと、タバサさんの無念を晴らせる方法が欲しいの)
ファウストを苦しめるだけなら、幽霊の力でどうにでもなる。しかしできることなら、妻子持ちというファウストの不倫を暴きつつ、タバサの名を突きつけてやりたい。
「アルカーシャの営業記録を洗っては、どうでしょう?」
「うぅーん……アルカーシャにはなるべく迷惑を掛けたくないのよね」
ロイの調査によれば、ファウストはメナス太后の一派に属し、近年になって頭角を現してきたという。政治家としては特に黒い噂もない。
そんな男が娼館に出入りし、娼婦と将来を約束までしたのは事実。だが有力な貴族である以上、下手に手を出せば、手痛い報復を受けるのは目に見えていた。
ルージュの手の中で、タバサの指輪が輝く。
指輪には小粒のルビーが嵌め込まれており、リングの部分にはファウストとタバサ、両名の名が刻まれていた。
「これ、使えないかしら?」
「どれどれ? 見せて」
ロイが指輪を摘んで、片目を伏せ、リングの内側まで覗き込む。
「いっそ、国王陛下にお見せしてはいかがです?」
「それはそれで、告げ口みたいにならない?」
ルージュとシエラで相談していると、ロイが調子よく舌なめずりした。
「そうだっ! ルージュ様、これ、ちょっと貸してくんね?」
「え? ええ、それは構わないけど……どうするの?」
「確か二日後にね。期待してなよ、ファウストって野郎の鼻、明かしてやるからさ」
ルージュはシエラと顔を見合わせて、一緒に首を傾げる。
「ロイ様がこうおっしゃってることですし……お任せしてみましょう」
「そうね。ロイって悪巧みは好きそうだし」
種明かしは二日後となった。
☆
二日後の昼過ぎ、ルージュは正装したうえでアスタルに呼びだされた。
謁見の間は奥行きのある造りで、中央には赤色のカーペットが敷かれている。両脇には衛兵が控え、交差するように睨みを利かせていた。
あたしに何させようっていうの? アスタル様は……。
城のどこよりも空気が重々しい。
アスタルは玉座に悠々と腰掛けていた。孤高とした威厳をまとい、威圧感を放つ。
「もっと傍に寄れ、ルージュ」
「は、はぃ……きゃっ?」
不意打ちでルージュは腕を引かれ、アスタルの膝の上に座る羽目になった。当たり前のように腰に手をまわされ、おへそに狙いをつけられる。
「ちょっと? こんなところで……」
「じっとしてろ。我慢できたら、ご褒美をくれてやるぞ?」
人前で人形みたいに抱きかかえられ、猛烈に恥ずかしい。確信犯のアスタルは含み笑いを浮かべ、手慰みにルージュの赤髪を撫でた。
このひとは、もう……。
謁見の間には数名の家臣が、宝石箱を手に並んでいる。
(あいつだ、ファウスト。右から二番目のやつだよ)
(ありがと、ネリザ)
ターゲットの色男は傲慢そうな顔つきで、鼻が高い印象だった。王の恋人と目が合っても、遠慮するどころか、嘲るような視線を返してくる。
(ロイのやつに期待だね。どう出るか……)
ルージュはファウストへの敵意をひた隠し、アスタルの膝の上でじっとしていた。
何が始まるのかしら?
家臣がひとりずつ御前に出て、跪くとともに、宝石箱を献上する。
「陛下、私からルージュ様への贈り物にございます」
箱の中には煌びやかなアクセサリがいくつも入っていた。ブレスレットやネックレスは純金でできており、宝石も大粒のものが贅沢に用いられている。
「ルージュ、好きなものを選ぶといい」
アスタルは演技らしく微笑んだ。
今日の会合は、アスタル王の恋人に贈り物を献上するためのものらしい。家臣らの愛想笑いには、今のうちからルージュに取り入ろうという魂胆が見え隠れした。
(国王の妻になるかもしれないんだ、お近づきになりたいんだろうね。まっ、いいじゃないか。貰えるもんは貰っちまえばさ)
あくまで演技として、ルージュはブレスレットを手に取ってみる。
どれも一介の娼婦では手が届くはずもない、最高級の品々だった。一晩いくらで値踏みされるような自分に、そのような貴金属が似合うとも思えない。
「ふむ……お気に召さないか?」
「あ、ううん。派手すぎるみたいで、なんだか……」
アスタルはおそらくルージュの戸惑いを見抜いていた。抱き寄せるふりをしながら、小声で耳打ちしてくる。
「どれでもいい、ひとつずつ選んでおけ」
ルージュは難しく考えるのをやめ、最初の宝石箱ではブレスレットを選んだ。次はネックレス、その次はアンクレットと、種類の異なるものを取っていく。
いよいよファウストの番がまわってきた。
「どうぞ、ルージュ様。きっとお気に召されることでしょう」
ほかの家臣に負けじと、輝かしいアクセサリを見せびらかす。さすが有力な貴族だけのことはあり、素人目にも細やかな造形のものばかりだった。
ところが中にひとつ、小粒のルビーが嵌まっただけの、粗末な指輪がある。
……タバサさんのだわ!
ルージュは目を丸くして、その指輪を摘みあげた。
アスタルも目を凝らし、同じものを覗き込む。
「指輪だと? 俺はまだ、ルージュに婚約指輪も贈っとらんのだが……」
ファウストは首を傾げていた。しかし指輪の存在を目の当たりにするや、自信家のものだった顔色を真っ青に一変させる。
「そ、その指輪は?」
「名前が彫ってあるな。ファウスト……と、タバサか?」
王の瞳がファウストを鋭く睨みつけた。
家臣らも口々に騒ぎ始め、ファウストに疑惑を投げかける。
「ファウスト殿、なぜそなたの私物が混ざっておる? ご説明いただきたい」
「タバサとは誰じゃ? ファウスト殿の奥方は、そんな名前ではなかったろうに」
これがロイの仕込みだということに、ルージュははっとした。
(上手くやったね、ロイのやつ!)
(ええ! びっくりだわ)
今日の会合は以前から予定されていたもの。あらかじめロイはタバサの指輪を、ファウストの宝石箱にこっそり仕込んでおいたらしい。
そうとは知らず、ファウストは自信満々に宝石箱を開け、献上してしまった。今になって狼狽し、強引に取り繕おうとする。
「ち、違います! そのような安物、見覚えがございません!」
安物、という言葉にルージュはかちんときた。それだけタバサを、娼婦をどこまでも見下していたことに腹が立つ。
部下の不義をアスタルは厳しく追及した。
「タバサとかいう女と、不倫でもしていたか? まあいい……俺もハレムなんぞを持っているからな、そこは妻にでも弁明するがいい。だが」
アスタルに蹴りあげられ、宝石箱が宙でひっくり返る。
「ひいっ!」
ファウストは反射的に頭を抱え、腰を抜かした。
「……俺とルージュを侮辱したとしか思えん。貴様、ふざけているのか……?」
アスタルの凄みぶりに、家臣らは口を噤み、衛兵も青ざめる。
「誤解です、陛下! そ……そうです、誰かが私の名前を使って、私を嵌めたとしか」
ルージュも堪えきれず、啖呵を切った。
「いい加減にしてっ! どう見たって、あなたの不倫の証拠じゃない。こんなものが、どうしてここで出てくるのよ?」
王の愛する恋人まで怒らせてしまい、ファウストはもはや立つ瀬がない。
「すまんな、ルージュよ。嫌な思いをさせた」
ルージュを宥めながら、アスタルは吐き捨てるように言い放った。
「今日は解散だ。ファウスト、貴様の処分は追って伝える」
ファウストが顔面蒼白になってくずおれる。
ルージュはアスタルに連れられ、ハレムの私室に戻った。シエラがふたり分のお茶だけ出して、早々に席を外す。
「それでは陛下、ごゆっくりお過ごしくださいませ」
同じソファのアスタルは紅茶には口をつけず、気怠そうに脚を組み替えた。ウイスキーは好きでも、紅茶はそうでもないらしい。
「……さて、ルージュよ。話してもらおうか」
すでに恋人らの悪戯に気付いており、切れ長の瞳でルージュを睨む。
嘘が通用する相手でもない。ルージュは腹を括って、正直に打ち明けた。
「実は、その……」
一通りのあらましを聞き終えると、アスタルが目元を覆う。
「俺にも話さんと、そんなことを……くくくっ、はーっはっはっは!」
爽やかな笑い声が反響した。
ルージュはきょとんとして、目をぱちくりさせる。
「そういうことをするなら、次からは俺にも話を通しておけ」
「ご、ごめんなさい」
「いや、構わん。……ははっ、あの時のファウストのツラは、傑作だったな」
アスタルはひとしきり笑って、頬を緩ませた。
アスタル王にとって最大の政敵は、メナス太后であって、ファウストはそのメナス太后の腹心に当たる。奇しくもルージュの作戦は、勢いを増しつつある太后派の出鼻を挫くこととなった。今回の勝利はアスタルにとっても利益が大きい。
「……で、タバサという女はやつに捨てられた後、どうなったのだ?」
「それは……」
ルージュが口を開きかけたタイミングで、窓からひょいっとロイが飛び込んできた。
「よう、ルージュ様! ……おわっ、アスタル様?」
いつもの軽薄な振る舞いも、アスタル王の前では委縮する。
「ご挨拶だな、ロイ。聞いたぞ、愉快な悪戯をしてくれたそうじゃないか」
「あー、ばれちゃいました? でもファウストなら、いいかなって」
ロイは懐から一通の手紙を取りだし、ルージュに預けた。
「はいよ。……おっと、外から来る分は、勝手に見たりしねえから、安心しな」
「これって、アルカーシャから?」
待ちに待った同僚の手紙に、ルージュは感激する。
「じゃ、オレはこれで」
ロイは逃げるように窓から去っていった。
話の途中だったアスタルは、ルージュに気を利かせてくれる。
「俺のことはいい。友人からの手紙なのだろう?」
「ええ。じゃあ、読ませてもらうわね」
期待に胸を膨らませながら、ルージュは手紙を確認した。ハンナからと思いきや、宛先は『アルカーシャのルージュ』になっている。
封を開けると、意外な名前があった。
「……タバサさんからだわ!」
ルージュは震える手で、手紙の折り目を広げ、文面に目を通していく。
親愛なるルージュへ。
心配を掛けちゃって、ごめんなさい。私は今、北のスピキオにいるの。
死の砂漠は六人で挑んだけど、助かったのは私と、もうひとりだけ。
砂にまみれて、もうだめだと思ったわ。
でも……目が覚めたら、調査隊のテントにいたの。
私たちはこれから、もっと北のゼノン帝国を目指すつもり。
あそこは外国人の受け入れの門戸が広いから。
この手紙があなたのもとに届く頃には、旅の途中だと思うわ。
ダリアに着いたら、また手紙を出すわね。ハンナさんにもよろしく伝えておいて。
あなたにも女神のご加護を。
紙面に涙が落ちた。
六人中四人が死の砂漠で命を落としているのに、タバサが無事だったことが、嬉しくてならない。ルージュは手紙を脇に置いて、涙を拭く。
「よかった……タバサさん、本当に……」
(まさか生き延びてたなんてねぇ。今生の別れにならなくって、何よりさ)
ネリザの声にも安堵の息が混じっていた。それだけタバサの生存は、ルージュたちにとって吉報であり、感極まってしまう。
アスタルは遠慮しつつ、手紙に手を伸ばした。
「……読んでいいか?」
「あ、うん」
その横顔が俄かに驚きを浮かべる。
「死の砂漠、だとっ? まさか、北の砂漠を越えていったというのか?」
アタヴィナで行き場をなくした弱者が砂漠越えを試みることを、アスタル王は知らないようだった。それが国民の間では暗黙のうちの『常識』であっても。
「自殺行為だぞ! なぜ……」
「そうするしか……なくなっちゃうのよ」
ルージュにアスタルを責めるつもりなどなかった。しかし真実を話すには、国王の彼に無知であることを自覚してもらわなければならない。
アタヴィナで生きる術を失った者は、ろくな装備もなしに死の砂漠へと挑んだ。途中で砂に埋もれるか、北へと突破し、新天地で新しい人生を始められるか。
アスタルは愕然として、肩を落とした。王だけにショックも大きいに違いない。
「俺の国で……そんなことが?」
ルージュは彼の手を取り、弱く握る。
「あなたのせいじゃないわ。だから、気にしないで……」
「気にせずにいられるものか。親父と俺の失策だ」
月並みな気休めなど、慰めにもならなかった。アスタルは王として痛切に責任を感じ、歯軋りさえしている。
「すまない」
不意に抱き締められた。頭の上から、震えがちな声が降ってくる。
「貧富の差はあるものと割り切っていた。だが、現実は想像以上だった。俺は……お前の友人が砂漠で死にかけたというのに、何も知らなかったんだ」
抱擁が深まるほど、悔しさも伝わってきた。
外交偏重の政策が、少なからず国民を死地へと追い込んできたこと。アスタルの悔恨と己に対する怒りが、ルージュの多感な心に沁み込む。
国政に真剣だからこそ、今のアスタルの悲しみがあった。
このひとがあたしたちの王様で、よかった。
ルージュからも手を伸ばし、初めて彼を抱き締める。背中は思った以上に大きい。
「自分を責めたりしないで、アスタル様」
「責めるさ。いくらでも」
紅茶が冷めるまで、ふたりは囁きを交わしていた。
☆
ハレムに寄りつくこともなかったアスタルが、最近は毎晩のようにルージュの部屋にやってくる。今夜もウイスキーを片手に、仕事の愚痴から始まった。
「ロートルは頑固でいかんな。まったく」
シエラも少しは慣れたようで、静かに控えている。
ルージュは彼の隣に座って、酒を注いだり、相槌を打ったりしていた。
「あなたを頼りにしてるのよ」
「だといいが、な」
グラスの氷が溶け、からんと音を立てる。
以前は『今夜』と約束しても、実際に会うことはなかった。それがタバサの手紙が届いてからは、こうしてアスタルが頻繁に顔を見せるのが、恒例になりつつある。
ファウストは二週間の謹慎処分となった。すぐに国政の場に戻ってきてしまうものの、求心力とともに影響力も低下したため、太后派の足止めにはなる。
この隙にアスタルの国王派は布陣を固めていた。
外交にしろ内政にしろ、支配階級が分裂状態のままでは、目立った進展もない。太后派との摩擦の解消は、アタヴィナの国政にとって急務だった。
「おっと、また俺ばかり話してしまったな。お前の話も聞かせてくれ」
「そんなに面白い話、毎日ないってば」
アスタルとの距離が近い。ルージュは育ちのせいか、娼婦と馴染みの客との逢瀬なんぞを連想してしまう。
「おい、シエラ。軽くつまめるものはないか?」
「はい。すぐにお持ちいたします」
いつの間にかシエラも名前で呼ばれるようになった。
急に窓が開いて、夜風とともにロイが室内に飛び込んでくる。
「こんばんは、陛下。こちらでしたか」
「ご苦労。動きはあったか?」
「メナス太后はお冠みたいですよ。部下も大変そうっすね」
アスタルと、シエラと、ロイと。気心の知れた友人たちに囲まれ、ルージュの居場所は温かいものになっていた。アルカーシャにいた頃と根本的には変わらない。
(ほらね。あんたはどこでもやっていけるのさ)
(あなたのおかげでもあるわよ、きっと)
ネリザにも教わりながら、ルージュはアスタルに酒を注ぎ足した。
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