千夜一夜の寵愛

第1話

 夜の帳が降りると、アタヴィナの城下町は静まり返る。

 日中は苛酷な暑さだったものが、急に肌寒くなった。群青色の夜空に星々が瞬き始め、金色の鋭利な三日月が浮かぶ。

 今夜はいよいよルージュのデビューだった。予約が入っている客とも、初めて会うことになる。そのための準備は念入りにおこなわれた。更衣室で娼婦らがルージュを囲み、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返す。

赤い髪は二回も解かれ、結いなおされた。

「元気が取り柄のルージュでも、固くなっちまうものなんだね」

 ハンナが冗談を交えつつ、ルージュの小顔に化粧を乗せる。

「言ってやるんじゃないよ、ハンナ。最初は誰だって、そうなるもんだろ」

「今夜は顔見せみたいなもんだし。気楽にやりな」

 ルージュはドレッサーの前で姿勢を正し、作業が一段落するのを待った。緊張しないようにと思っても、肩には不自然なほど力が入ってしまう。

 アルカーシャでは客が娼婦を抱くまでに、いくつかの手順を踏む必要があった。

 そもそもアタヴィナは、表向きは売春を禁止している。これは大陸全土に女神信仰の風習があり、女性を立てることは美徳とされるためでもあった。

 そこで、アルカーシャはいわゆる『高級クラブ』の体を取っていた。

客はまず、好みの女性を指名し、予約を取る。

そして当日までに、お互い準備を済ませておく。例えば客のほうは宝石などのプレゼントを用意し、娼婦のほうは髪型やドレスをコーディネイトした。

しかし店で顔を会わせても、まだスタートラインに立ったに過ぎない。客はお目当ての娼婦を口説くため、何度か通うことになる。

「心配ないよ。生娘ならなおのこと、強情なくらいでいいのさ」

「そ、そんなものかしら……」

 ベッドインまでの駆け引きも、男性貴族にとっては楽しみのひとつだった。難攻不落の女をモノにするほうが、見栄にも自慢にもなる。実際、ハンナもへりくだらないところが客に受け、人気を博していた。

 反面、金さえ出せば女を抱ける、という浅はかな考えはルール違反となる。たとえ貴族であっても、ルールに抵触すれば、出入り禁止などの罰則が言い渡された。

 あくまでアルカーシャは貴族向けの高級クラブとして、出会いを提供するだけ。そこで男女が『私的』に関係を深める分には、一切関与しない、という建前だった。

 客と女が店のベッドで夜を過ごそうと、知らぬ存ぜぬ。

 ルージュの小顔が化粧映えしているのを、ハンナは何度も確認した。

「あんまり卑屈にならないことだね。あんたは素質あるんだ」

「それが一番疑問なんだけど……」

 ルージュは視線を落とし、年頃の女にしては平たい胸を見下ろす。

 そこに谷間と呼べるものはなかった。残念ながらハンナたちのようには育たず、ドレスの胸元もぺたんとしている。

「また気にしてんのかい? 色気ってのは胸の大きさで決まらないって、教えただろ」

 ハンナは口を酸っぱくして、同じことを言い聞かせた。

「胸がでかいのに色気のない女だって、いるんだよ。要は引き立て方さ」

 これまでにルージュは、淑女レベルの仕草や作法を徹底して叩き込まれている。

例えば起立ひとつにしても、動きに曲線をつけること。

 小指を立てつつ、指輪があるなら見せること、など。

 しかし極薄のドレスを着ていては、恥ずかしくてそれどころではなかった。生地に透明感があるせいで、身体のラインがありありと透け、心もとない。

 襟周りは大きく開いたデザインで、両方の肩が食み出していた。お腹のほうでもおへそが露出し、身体に縦線を引いている。

 足首まであるスカートも色が透けていた。パレオを巻くことで、下着はぎりぎり隠せるものの、太腿は丸見えになっているのと変わらない。

 幼い頃は無知だっただけに、このドレスに憧れもした。しかし男性と会うにはあまりに破廉恥かつ非常識な恰好に、ルージュは口元を引き攣らせる。

何より、夜にこの恰好は寒い。

「かぼちゃぱんつとか穿いてちゃ、だめ?」

「客にそういう嗜好があるんならね。よし、こんなもんか」

 赤い髪は後頭部でアップに仕立てられた。

 仕上げとして、顔の下半分には透明のヴェールを掛けられる。これで表情が意味ありげに演出され、アプローチを扇情的に引き立てることができる、らしい。

 初仕事は二十時から。ドレスアップを終え、ルージュは部屋で待つことになった。アルカーシャの最上階にある一室が、今夜の仕事場となる。

 あたしみたいな無名の新人が、一番上で?

 アルカーシャでは上の階ほど人気の娼婦、羽振りの良い客向けのフロアとなっていた。部屋はほかの二倍程度の広さがあり、調度品も一級のものが揃えられている。

 ルージュのような『初もの』は商品価値をさらに高めるため、最初はそれなりの部屋で客を取るのが通例だった。とはいえ、最上階のロイヤルスイートは前例がない。

部屋に入ってからも、ルージュはきょろきょろしてばかりいた。

「ねえ、ハンナ。あたしのお客様って……」

「だろーね。女将さんも、そのへんは教えてくれなくてさ」

 どうやら今夜、ルージュのもとにアタヴィナの要人が来るらしい。アルカーシャにとってはお得意様を増やす、絶好のチャンスだった。

「あんた、踊りが上手いからね。熱心な客でいたんじゃないかい?」

 三階のメインホールでは新入りも交え、週に二回ほど、ダンスを披露している。その時に客の誰かがルージュに目をつけ、予約を取ったのだろう。

「頑張りなよ、ルージュ」

「う、うん……」

 ハンナはルージュの背中を軽く叩いて、持ち場に戻ってしまう。

 ルージュは戸惑いつつ、横長のソファに腰掛けた。座り心地がよすぎて、逆に落ち着かない。ほかのフロアよりも金色の装飾が多いせいか、目がちかちかする。

 一番に目を引いたのは、やはりベッドだった。一組の男女が寝転んでも余裕のある大きさで、情事を隠せるように、四方にカーテンもついている。

 大きな窓からは、星空はもちろん、城下町の夜景を悠々と眺めることができた。

まだ酒場などは賑わっている時間帯らしく、ささやかに灯を焚いている。王城も青白い輝きを放っていた。

「綺麗……」

 ルージュは席を立ち、しばらく夜景に見入った。窓ガラスに自分の見慣れないドレス姿が、うっすらと映り込む。

 ところが、その顔が別人と入れ替わった。

(いいねえ! あたいは気に入ったよ、この部屋)

 同じ恰好なのに、鏡に映っているほうだけ、胸がやたらと大きくなる。

 本物のルージュは溜息を漏らした。

「今夜は出てこないでって言ったでしょ、ネリザ」

(そう言いなさんな。ちょいとリラックスさせてやろうと思ってね)

 せっかくの夜景も、幽霊なんぞと話していては台無し。

 この幽霊との付き合いは十年以上も続いていた。ルージュの頭の中で、暇があれば話し相手になったり、アドバイスをしてくれる。

 ただし相手は霊だけに、身体を乗っ取られることもあった。

「あなた、あたしが寝てる間に、変なことしてないでしょうね?」

(あんたが感じやすくなるように、ちょくちょく弄ったりはしてるけどねえ)

「……サイッテー」

 ネリザが映っているガラスを、無性に割りたくなる。

 彼女はけらけらと笑い、にんまりと唇を曲げた。

(あはは、冗談さね。でもまあ、前向きに考えてもいいんじゃないかい? こんな夜景を見ながら、美男子と飲めるなんて、ロマンチックじゃないか)

「そうかもしれないけど……相手次第じゃない?」

 ネリザの言うことにも一理ある。

 アルカーシャは女が身体を売るだけの場所ではなかった。一流の娼婦はむしろ客を手玉に取って、己の欲望を満たす。

 女性なら誰もが憧れるような貴族の紳士と、愛人の関係を築くこともできた。夜の間だけ高尚な愛欲に酔いしれる分には、アルカーシャも咎めはしない。

 ネリザは初めての客を楽しみにしている様子だった。

(どうしてもってんなら、あたいが代わってやってもいいし。ねえ、ルージュ?)

「それはだめよ」

 ルージュはかぶりを振って、その提案を断る。

 今から会う男性と、いずれセックスをしなければならないと思うと、怖かった。身体の一部をこじ開けられるなど、痛々しいイメージにしかならない。

 しかしネリザに一時的に身体を貸せば、ルージュは夜伽を体験せずに済む。

だが、それはこれまでに脱落していった、同僚たちへの侮辱に思えた。ルージュは声のトーンを落とし、自分の決意を再確認するように呟く。

「あたしだけ逃げる真似はしたくないの。タバサさんだって、乗り越えたんだし……」

 窓ガラスに額をくっつけると、ネリザが間近ではにかんだ。

(……そうかい。ま、気が変わったら言いなよ)

「気が向いたらね」

 それきり彼女の姿が忽然と消える。

 ネリザはかつて凄腕のトレジャーハンターだったらしい。その割に王家の墓でトラップに引っ掛かり、命を落としたのだから、『凄腕』もたかが知れていた。

 五歳の時、ルージュは何者かによって、王家の墓へと誘拐されたことがある。そこでネリザと出会ったことを漠然と憶えてはいた。

アルカーシャでここまでやってこられたのも、ネリザの助言によるところが大きい。おかげでルージュは下働きに限らず、喧嘩の仲裁などでも活躍し、居場所を得ている。

 お客様がいらっしゃったら、挨拶をして……。

 会釈の動きを練習しつつ、ルージュは初めての客がやってくるのを待った。予定の二十時を少し過ぎた頃、ノックの音が鳴る。

 豪胆な女将が、今夜はいつになくおどおどしていた。

「ど、どうぞ、こちらへ」

「うむ」

 女将によって開かれたドアから、ひとりの男性が姿を現す。

 頭にはターバンを巻き、胸元には薄手のベストを羽織っていた。ベストは前が開いており、胸筋や腹筋の逞しい隆起が窺える。

 肌は日焼けし、褐色に染まっていた。背丈はおそらく百八十に近い。鍛え抜かれた両腕には、宝石のブレスレットをいくつもつけていた。

 金色の瞳は鋭く切れ込んでおり、お目当ての娼婦を見つけても、眉を動かさない。

「ルージュ! くれぐれも失礼のないようにね。そっ、それではアスタル様、ごゆるりとお楽しみくださいませ」

 扉が閉ざされると、部屋はルージュと彼、アスタルのふたりだけになった。

 どこかで聞いたことあるような名前だけど……っと、いけないわ。

 ルージュは職務を思い出し、練習通りの会釈で迎える。

「初めまして、アスタル様。ルージュと申します」

「客を取ったことがないそうだが、本当か?」

 いきなりぶしつけな質問が飛んできた。

 確かにルージュには『初もの』としての価値もあるため、この客はそういう期待もしているはず。しかしアルカーシャの客なら、女性を口説く体裁でなければならない。

「……本当です。アスタル様が、あたしの初めてのお客様となります」

 ひとまずルージュは正直に答え、頭をさげた。初ものなのだから手荒な真似はしないで欲しい、という願望も込めておく。

「お前が男を知っていようと、構わんがな。正式に客を取ったことさえなければ」

 ところがアスタルは、さらに不遜な言葉を返してきた。

(おかしな流れだね)

(ネリザは黙っててってば)

 どうやらこの男、アルカーシャの女を口説きに来たわけではないらしい。行程を無視してベッドインを決め込むつもりだろうか。

「どうぞ、お座りになってください」

 ルージュは緊張しつつ、彼をソファへと誘った。

 さっきはひとりで座ったソファが、アスタルの体重で右に傾く。

「城並みに暖かいな、ここは」

 アスタルがターバンを外すと、黒い髪が溢れた。髪は女性のように長く、それでいて質感はさらさらとしている。

 鋭いまなざしはルージュの顔つきと、それ以上に身体つきを観察していた。

 今夜のドレスは色が透けるほど薄い。パレオがあるからまだしも、腰や太腿のラインは丸見えになっていた。商売柄、あからさまに隠すこともできない。

「あの、アスタル様のお好きなお酒は、何でしょうか?」

「そっちのウイスキーをいただこう」

 アルカーシャの客なら、娼婦には紳士的な態度で接するものなのに、アスタルは仏頂面を改めようとしなかった。

不安に駆られながら、ルージュはウイスキーのボトルを開ける。

 地下で冷やしておいた氷は溶け始めていた。ぎこちない手つきで、グラスにそれを詰め込んでいると、アスタルが急に痺れを切らす。

「氷など割っていい。こうするんだ」

 彼はルージュに代わって、グラスに手早く氷を詰めた。そこに琥珀色のウイスキーを流し込むと、満足そうに芳醇な香りを仰ぐ。

「ルージュと言ったか。お前、いけるクチなのか?」

「え? えぇっと……?」

「酒が飲めるのか、と聞いてるんだ。その様子だと、聞くまでもなさそうだが」

 ルージュはお酒の注ぎ方を教わっただけで、自分で飲んだことはほとんどなかった。高価なウイスキーの蓋を開けたのも、今夜が初めてだったりする。

 アスタルはふと表情を緩めた。

「まあいい。お前にイチから、酒の何たるかを教えてやるのも面白い」

 今まで顰め面でいたものが、驚くほど柔らかくなる。

「酌をするなら、お前も酒の味を知ることだな。さっきの下手くそな挨拶もそうだが、お前は教わったことをそのままやっているに過ぎん。……どうだ?」

 しかし物言いはより辛辣になった。

「も、申し訳ございません」

「怒ってるわけではない。ただ、挨拶ひとつにせよ、お前は相手のことまで頭がまわっていない、というだけだ」

 頭の中でネリザがぼやく。

(へえ。よく見てるねぇ、この男)

 ルージュの立ち居振る舞いは、アルカーシャのマニュアルにのっとっていた。今夜は尻込みがちとはいえ、間違っているほどでもない。

だがアスタルはこの数分のうちに、ルージュの未熟さを見抜いてしまった。

「それにしても悪趣味な服だな。俺の好みではない」

「そ、そうですか?」

 ルージュは相手の言動に一言返すだけで、精一杯になる。

 そんなルージュの初々しい『初もの』ぶりを見て、彼は陽気に笑った。

「おいおい、聞いた話と随分と違うじゃないか? アルカーシャの女どもは、隙あらば客の金と心を奪っていくと聞いたぞ」

 一流の娼婦ならまだしも、ルージュがこの男を手玉に取るのは、不可能に近い。おそらく彼のほうは経験が豊富にあって、ルージュに大差をつけている。

「次はお前がやってみろ」

「は、はい」

 ウイスキーを氷で割ることひとつ取っても、敵わなかった。

 しかしアスタルに教わるのは、不思議と悪い気がしない。男性とこうして間近で話すこと自体、初めてで、緊張感が逆に心地よくなる。

 彼の目的が自分の身体であることも、忘れてしまっていた。男性に酌をするという行為は、別段へりくだったものではないようにも感じられる。

「お前にも注いでやろう」

「あの、お酒はまだ……ちょっと」

「ノンアルコールでいい。男に注がせる楽しみも知っておかんとな」

 ひょっとすると彼なりにルージュを口説いているのかもしれない。最初こそ女を値踏みするような質問で始まったが、ムードは高まりつつあった。

 夜だけの恋人となったルージュの顔つきを、アスタルがじっと見詰める。

「アルカーシャでの生活はどうだ? 不満か?」

「いいえ。あまり考えたことがありません」

物心がついた頃からアルカーシャしか知らないため、肯定も否定もなかった。外の世界から来た女性が抱くような自己嫌悪や劣等感は、相対的に薄い。

「好きな食べ物は?」

「オムレツです」

 話題は二転三転した。アスタルにとっても、質問の中身に意味はないらしい。それでも初対面の男女が語らうには、充分に実のある内容となる。

「お前も楽器のひとつくらい、できるんだろう?」

「よろしければ、ご覧に入れましょう」

 ルージュは楽器を取り、細やかな指使いで弦を弾いた。緊張が解けてきたのか、優美なバラードの調べがのびのびと響く。

「ほう……」

 恋人の演奏を聴きながら、アスタルは脚を組み替え、ウイスキーを煽った。

「それだけ弾ければ、貴族の女に混ざっても遜色あるまい」

「褒め過ぎですよ、アスタル様」

 ルージュは頬を染め、照れた拍子に音を外す。

「週に二回、みんなでダンスもしてるんですよ。ご覧になりましたか?」

「いや。……ほかの客には顔を見せたくない事情があって、な」

 このような個室ではなく、三階のメインホールであれば、ダンスも披露できた。しかしほかの客の目を避け、敬遠する貴族も多い。政敵同士が娼館でうっかり鉢合わせ、などという事態も起こり得るためだ。

 曲を弾き終えると、アスタルが拍手を鳴らす。

「なかなかよかったぞ。やるじゃないか」

「ありがとうございます」

 ルージュは楽器を置くと、思いきって彼の肩にもたれ掛かってみた。我ながら恋人同士に思えなくもない。ウイスキーの氷が溶け、からんと音を立てる。

 青みがかった夜景が、いつにも増して綺麗に見えた。彼と一緒にそれを眺めながら、杯を交わすのは、至高の贅沢に違いない。

 アスタルがルージュ肩に手をまわしてきた。

「……ルージュ、もっとよく顔を見せろ」

「はい。少々お待ちください」

 ルージュは口元のヴェールを外し、こわごわと彼を見上げる。

 十秒ほどの沈黙が流れた。アスタルは何かを確認するように、しげしげとルージュの顔立ちを眺める。が、たまに視線が下に逸れ、ありもしない谷間を覗き込む。

 やっぱり身体が目当て、なの……?

「……うむ。いいだろう」

 アスタルの手が呼び鈴を取った。

 ばたばたと女将が血相を変え、駆けつけてくる。

「いかがなさいましたか? アスタル様」

「この女は城に連れて帰る。いくらだ、言い値で構わんぞ」

 アルカーシャではありもしない商談に、ルージュは凍りついた。

 貴族相手に情事を売る店とはいえ、身売り同然に娼婦を販売しているわけではない。過去にも『金は出す、さっさと抱かせろ』と言い出した貴族がおり、トラブルになった。

 だからこそ女将も真っ青になっている。

「誠に申し訳ございませんが、我がアルカーシャにも都合がございまして……」

「無茶を言ってるのは、わかっている。俺を出入り禁止にでも何でも、するがいい」

「いいえ、そんな! 国王陛下にそのような真似はできません」

 国王と聞いて、ルージュはさらに真っ青になった。

 アスタル様が……王様?

 先代の国王が病に伏したことで、長男が王位を継いだのは、二年前のこと。先代は回復したのだが、政界への興味を失ったらしく、今も息子が国政を取り仕切っている。

 その人物の名こそ、アスタル=ファマールだった。こと外交においては稀有な手腕を発揮し、ファマール朝アタヴィナの地位を盤石のものに固めつつある。

「悪いが、この女が早急に必要なのだ」

「は、はあ……でしたら、別室でご相談のほうを」

 さすがに国王が相手では、女将も要求を呑むしかなかった。下手に逆らって、騎士団の捜査でも入ろうものなら、いかがわしい娼館など簡単に潰されてしまう。

(まさか王様ご本人だったなんてねぇ)

 他人事みたいなネリザの感想に、ルージュも頷いた。

 王様が娼館で女を買っちゃうなんて……大丈夫なのかしら。

 それこそ他人事みたいに、国の将来が心配になる。

かくしてルージュは女将とともに、別室で商談の席につくことになった。

 

 

 三日が過ぎても、ハンナはまだ意外そうな顔でいる。

「ま、さ、か、あんたがお城に行くなんてね」

 アルカーシャでは緘口令が敷かれ、ルージュの件は、女将とハンナだけが与ることとなった。先週はタバサが旅立ったように、今朝はルージュが荷物を抱えている。

「手紙は向こうでも出せるみたいだから、何かあったら報せるわ」

「あぁ。気をつけて行っといで」

 結局、アルカーシャはアスタル国王の要求に従った。娼館が国王に逆らうのは、リスクも高い。それに新人に途方もない金額がついたため、悪い話ではなかった。

 ルージュは今日から城のハレムで生活することに。

(娼館の次はハレムとはね、あっはっは)

(あっはっは、じゃないわよ)

 面白がっているネリザとは対照的に、ルージュはげんなりとした。

 外の世界に憧れがなかった、と言えば嘘になる。しかし降って湧いたような話の結果、娼館よりも怪しい場所へと放り込まれる羽目になった。

 ハレムとは、王が国じゅうの美女を集めた、秘密の楽園を意味する。そこで何がおこなわれているのか、うら若いルージュでも容易に想像がついた。

 要するに、ひとりの男が複数の女を侍らせて、あれやこれやするためのもの。

 ハンナがあっけらかんと笑った。

「この際だし、王様をメロメロにしてやったら?」

「無茶言わないで。はあ……」

 頭の中ではネリザも乗り気だが、ルージュだけは気が重い。

 アルカーシャの決定に反対などできなかった。ルージュの意志はどうあれ、ハレムへの参入は確定している。

(イイ男だったねえ。ルージュ、あたいにも味見くらい、させておくれよ)

(そんなことしたら、ユーレイのあなたでも張っ倒すわよ)

 しかしひとつだけ、前向きになれる理由があった。アスタルに会える。

 彼ともっと話をしてみたい。お酒の注ぎ方も、まだ序の口しか教わっていなかった。

(ふふっ、あんたにはいい経験になりそうだ)

 その気持ちが、ネリザには伝わってしまうのが腹立たしい。

 間もなく城からの馬車がやってきた。

「じゃあね、ルージュ!」

「ええ。今までありがとう、ハンナ」

 別れの挨拶のついでに、ルージュはアルカーシャを見上げる。そこは十年以上の月日を過ごした我が家も同然で、離れるのは少し寂しい。

 あのまま娼婦を続けていたら、ここがタバサの言うような『地獄』になったのか。無垢なルージュには信じられなかった。

 さよなら、アルカーシャ。

 ルージュは荷物とともに馬車に乗り込む。

 やがて馬車が動き出した。今日の出発は内密のため、見送りはハンナしかいない。 

 そのはずが、アルカーシャの窓から次々と同僚が顔を出した。

「いってらっしゃい、ルージュ! 頑張って!」

「あなたなら大丈夫よ! どこでもやっていけるわ!」

 緘口令は機能していないらしい。

 ぽたぽたと涙が溢れてきた。切なさと寂しさがない交ぜになって、苦しい。

「みんな……ありがとう!」

 ルージュの旅立ちは、決して孤独ではなかった。

 

 

 ファマール朝アタヴィナの城下町は、壮麗な王城を中心に広がっている。

 城は堀の中央にあり、日中は跳ね橋が降ろされていた。城壁の高さは十メートルほどもあり、外からではほとんど構造が見えない。砂除けの機能も併せ持っている。

 本殿の入り口は昇り階段の先にあった。これも砂漠の砂で入口が埋もれることがないよう、配慮したもの。あちこちに日除けがあるおかげで、フードを持ちださなくても、歩きまわることは容易かった。

 騎士に案内されるまま渡り廊下を通って、ルージュは離宮を目指す。

 その離宮こそアスタル王の後宮、通称『ハレム』だった。そこから先は男子禁制であるため、メイドが案内を引き継ぐ。

「お話は伺っております、ルージュ様。どうぞ」

「え、ええ……」

 アタヴィナ城のスケールとその荘厳さに、ルージュは気後れしてしまった。

 離宮だけでもアルカーシャの宮殿よりも広く、屋内にプールまである。中庭は足元に水路が巡らされており、日差しに強い花が咲き乱れていた。

 アルカーシャは情報量の多さを華やかさとするのに対し、アタヴィナ城は無駄に飾り過ぎることなく、美麗な空間を演出している。そこにはファマール朝以前から続く、アタヴィナの由緒ある歴史と伝統が感じられた。

(こいつは予想以上だね。単に金があるってだけじゃないみたいだよ)

(そうね……このお城だって、何十年も掛けて建てたんだわ)

 時折見かける奇怪な模様は、アタヴィナでは馴染みの深いアラベスク。アタヴィナは偶像崇拝を禁止してきた歴史もあって、人物や動物を写実的に描くことがない。その背景あって抽象画が発展し、『アラベスク』と呼ばれている。

 時折、麗しい美女とすれ違った。ハレムの寵姫に違いないが、王女ばりの煌びやかさにルージュは驚き、目を丸くする。

 向こうはルージュを新入りの小間使いとでも思ったらしい。関心を示さず、すたすたと行ってしまった。その素っ気ない態度に、ネリザが毒を吐く。

(お高くとまっちゃって。アルカーシャの姉さんらのほうが、何倍も綺麗さね)

 アルカーシャの女たちも負けていないはずだった。しかし後宮を進むにつれ、ルージュは自信を喪失していく。

 大丈夫なのかしら、あたし……。

 しばらく歩いた先で、メイドが足を止めた。

「こちらがルージュ様のお部屋になります。どうぞ」

 部屋も豪奢な作りで、ベッドの全方位に空間がある。カーテンは強い日差しを遮られるよう、絨毯ほどの厚さがあった。地上四階の高さで、窓から外壁の向こうまで見える。

 ルージュは首を右に傾げ、呆然とした。

「……ここで暮らすの?」

「はい」

 メイドがスカートを少し持ちあげ、丁寧にお辞儀する。

「申し遅れました。私、本日よりルージュ様の身のお世話をいたします、シエラ……と申します。以後、お見知りおきを」

「あたしの……お世話?」

 ルージュはもう一度、今度は首を左に傾げた。

「はい。お料理やお洗濯のことです。何か至らないところがございましたら、いつでもお申し付けくださいませ。私はなるべくお傍に控えておりますので」

 ルージュの知っている常識と、彼女の言い分が食い違う。

「ちょっと待って? そういう雑用って、新入りがするものじゃないの?」

「……? 申し訳ございません、おっしゃっている意味がよくわからないのですが」

 アルカーシャでは新入りが率先して夕食を作ったり、掃除をするものだった。ルージュもつい最近まで、その当番に当たっている。

 ところがシエラはしれっと答えた。

「ハレムの姫様がたは皆様、私のようなメイドを傍に置いておりますよ」

「みんなって……え? ひとりにつき、ひとりずつ?」

「その通りです」

 スケールの大きさにくらっとしてしまう。

 ハレムは数十名の寵姫のみならず、その寵姫ごとに使用人が別々に存在した。ルージュも寵姫のひとりとして、シエラが二十四時間の体制で付き従うらしい。

「とりあえず、お着替えになってはいかがですか」

「そ、そうね」

 遠慮しつつ、ルージュはシエラの手を借りるしかなかった。

 シエラがてきぱきとドレスの着付けに取り掛かる。

「ルージュ様はあまり日焼けなさらない肌質なのですね。綺麗なお肌です」

「ううん、外に出ることが滅多になかったから。買い出しも夕方になるの待ってたし」

「……買い出し? ルージュ様はどういったお方なのでしょう?」

 話のついでにアルカーシャの出身だと打ち明けると、メイドの顔色が一変した。

「ア、  アルカーシャから? ……あ、いえ、驚きました」

 頭の中でネリザの声が響く。

(なあ、ルージュ、話しちゃまずいことだったんじゃないかい? 国王が娼館で女を買ってきたなんてバレたら、コトだろうしさ)

(言われてみれば……)

 ルージュは失敗を自覚し、シエラにフォローを入れる。

「ごめんなさい。さっき言ったこと、秘密にしておいてもらえる?」

「承知しました。私の胸の中に留めておきます」

 さらにネリザの声がした。

(ついでだ、試してみようじゃないか。ルージュ、あたしの言う通りにしゃべりな)

 頭の中で頷きながら、ルージュはその台詞を淡々と読みあげる。

「シエラ、娼婦に仕えるなんて……やっぱり嫌かしら?」

「いえ、そんなことはございません」

 シエラは表情を引き締め、きびきびと答えた。

「ルージュ様が貴族界の社交にお疎くいらっしゃることも、わかりましたし……話しにくいことを話してくださって、ありがとうございました」

 娼婦を下に見る女性は多い。しかしシエラにその気配はなかった。

(この調子なら信用できそうだね)

(なんとなくだけど、この子はいい子だと思うわ)

(あんたの直感は当たるからね。あたいも信じることにするよ)

 ルージュは肩の力を抜いて、ヘアメイクを彼女に任せる。

「実を言いますと、私も市井の出身でして……念願の王宮仕えが叶ったと思ったら、ハレムにまわされてしまいまして」

「そうだったの? なら、あたしたち、堅苦しいのはなしにしましょ」

「はい。ですが、メイドの建前もありますので」

 シエラは手際がよく、ものの数分で髪が形になった。赤い髪をストレートに降ろし、白ユリの造花を飾りにつける。

「ここの庭園なら、本物のユリも育つんじゃないかしら」

「そうかもしれません。お時間のある時にでも、見に行きましょう」

 ルージュとシエラは早くも打ち解けつつあった。同じ市井出身だけあって、価値観が似通っており、互いに共感を得やすい。

(あたいとしては、温室のほうも気になるね。どんな仕組みになってんだか)

(行けそうな場所は全部まわるわよ。ネリザも楽しみにしてて)

 怪しいハレムに連れてこられた、という後ろ暗い気分にはならなかった。最初こそ気後れもしたが、そこそこやっていけそうな予感さえする。

 アスタルは仕事中のため、後宮を訪れるのは夜になるらしい。時間があるうちに、ルージュはシエラから、ハレムの情報を一通り聞いておくことにした。

(だーかーらー、女が大人数でひとりの男囲ってって、教えただろ?)

 何しろネリザはハレムに関し、くだらないことしか話さない。

「あたし、急に来ることになっちゃって……ハレムって、よくわからないのよ」

「私でよければ、お話しましょう」

 王などの権力者は、その力をもってして、己の欲望、とりわけ色欲を満たすための楽園を作ることがあった。それが本来のハレムである。

 しかしハレムで複数の女性を相手に、いたずらに愛欲に耽ることは、時に国家をも転覆させた。北方のリルカミュ王国はその最たる例で、王の血筋が市井まで分散し、内乱によって滅んでいる。

 その一方で、女同士の社交場として機能しているパターンもあった。東の島国では『大奥』と呼ばれ、表の社会を左右するほどの影響力を持つ。

 ほかにも国王や王子の花嫁選びの場所として、ハレムが用いられた。ファマール朝アタヴィナではこの毛色が強い。

(ちぇっ。ドスケベなのを期待してたんだけどねぇ)

(何期待してるのよ。大体、あなたじゃなくて、あたしが入るんだし)

 ネリザの発想に呆れつつ、ルージュはほっと胸を撫でおろした。

「アスタル陛下はまだご結婚なさってませんから、そろそろハレムで花嫁をお選びになるかと思います。もしくは、隣国の姫君をお迎えになるか……」

アスタルがどこの誰と婚姻を結ぼうと、ルージュの関わるところではない。

ただ、嫁選びの場所にわざわざ娼館の娘を加える意図は、まったく読めなかった。

(花嫁候補に紛れて、情報収集でもさせようっていうんじゃないかねえ。まっ、そん時ゃあたいも手伝ってやるからさ)

(こういう時のネリザって、頼りになるわね)

 話が一段落する頃には着付けも終わり、シエラが満足そうに微笑む。

「いかがですか? ルージュ様」

 ルージュは絢爛なドレスをまとい、ハレムの寵姫にふさわしい風貌となった。生地の量は多い割に風が通りやすく、涼しい。

 七分丈の袖は砂除けになると同時に、ブレスレットなどをつける余地も残している。

スカートは縦長のパレオのようになっていた。スリットから左足が太腿まで食み出してしまうものの、ファッションの一部と割り切れる。

 コンプレックスの小さな胸も、巧妙な肩や脇腹の露出によって、健康的な色気を醸し出していた。谷間のある位置で、ネックレスが輝きを放つ。

「なんだか、あたしじゃないみたい……」

 姿見の前で困惑するルージュを、シエラが後ろから優しく押した。

「よくお似合いですよ。アスタル様もお喜びになります」

(うんうん! この子はいいセンスしてるよ)

 ネリザも太鼓判を押してくれる。

この恰好で……このお城で会うのよね、アスタル様に。

 今夜会うのは顔も知らない客ではなく、アスタル=ファマールだった。一度は会ったことがあるおかげで安心感があり、緊張はしても、恐怖はない。

 ルージュは両手を祈るように合わせて、親指を捏ねくりあわせた。楽しいことを待っている時に、無意識にやってしまう癖らしい。

(王様と仲良くなりたいんだろ? あたいも協力するさ)

(そーいうんじゃないってば)

 少しの期待を抱きつつ、ルージュは夜を待った。

 

 

 ハレムでは寵姫たちが集まって食事をするとは限らないようで、ひとまず今日のところは部屋で済ませることになった。

アルカーシャでは信じられないようなご馳走を平らげ、さらに待つ。

ついでにルージュはシエラと一緒に、手持ちの荷物を開けていた。質素な私服と下着類のほか、爪切りなど、一通りの生活雑貨が入っている。

「歯ブラシならお部屋にもありますよ」

「それならそっちで……っと、これは使えそうね」

 ネジ巻き式の目覚まし時計は、タバサから貰ったものだった。

「割といいものではありませんか?」

「そうなの? ……出てった同僚が、最後にくれたの」

 ベッドの傍に置く分には手頃なサイズで、扱いやすい。それに仲間が傍にいてくれるような気もした。その時計を見詰めながら、ルージュは顔を曇らせる。

(ねえ、ネリザ。タバサさんは砂漠を越えられたと思う?)

(……難しいねぇ。せめて旅慣れしてる面子が一緒だと、いいんだけどさ)

 ネリザの言葉は残酷ではあるものの、慎重な口振りはルージュに配慮していた。幽霊のくせに、どことなく人情味がある。

(あたいが生きてた頃は、あんな砂漠じゃなかったよ)

 北の砂漠も百年ほど前、サイアム朝の末期までは、さほど苛酷な場所ではなかったという。ところがたった一度の異常気象によって、砂の地獄と化した。

 今では大勢の屍が埋もれた墓場となっている。

 ほかにもタバサから貰った、問題の婚約指輪が出てきた。それなりに換金が可能な品とはいえ、さすがに彼女は持っていく気になれなかったらしい。

(あいつの名前、ファウストだったわよね、確か)

(ああ、タバサを騙したやつかい)

 ルージュは決意を込め、指輪を握り締めた。

(この城にいるはずだし、捜してみない? 仕返ししてやるのよ)

(そりゃいいね! タバサの件じゃ、あたいも腹が煮えくり返ってんだ)

正義感を振りかざすつもりはない。しかしタバサの恋心を弄び、死の旅路へと向かわせた小悪党を、お咎めなしにはできなかった。

「こんなものかしら」

 鞄をひっくり返しても、何も出てこなくなる。持ってきた日用雑貨は、ほとんど用なしとなってしまった。ハンナがくれた栓抜きは、空のグラスにでも放り込む。

そろそろ室内も肌寒くなってきた頃、来客が訪れた。

「俺だ。ルージュ、入るぞ」

「どうぞ」

シエラが扉を開け、アスタル王を迎え入れる。

 アスタルは黒い長髪を後ろでまとめ、一束にして流していた。背が高いせいか、向かいあうだけでも威圧感がある。

「メイドは席を外せ」

「……承知いたしました」

 若き国王に怯えるように、シエラはしずしずと退室していった。

 ルージュは顔を引き締め、ソファのほうまで彼を案内する。

「何かお飲みになりますか?」

「茶をもらおうか。ルージュ、お前が淹れてみせろ」

 アスタルはにやりと意地悪な笑みを浮かべた。その瞳はルージュの一挙手一投足に注目し、評価をくだそうとしている。

「今宵のドレスは俺好みだぞ。ふっ」

不意打ちみたいに褒められたせいで、俄かにルージュの頬が赤くなった。震えがちな手で緊張しつつ、寝入りを妨げることのないホットココアを淹れる。

「夜は冷えますし、その、温かい飲み物がよろしいかと……」

「うむ。酒を注ぐよりはサマになっているな」

 アスタルはココアに一口つけ、長い息を吐いた。

「美味い。たまにはこういう素朴な飲み物も悪くないか」

 今日も国王として激務を終えてきたらしく、疲労の色が見て取れる。ソファに座る姿勢も気だるげだった。

「さて……お前の今後について話そうか。無論、これから話すことは他言無用だ」

 一服のあと、アスタルが身を起こし、正面のルージュをじっと睨む。

「俺は今年で二十三になる」

 アスタル王の統治はすでに安定期に入っていた。先代の王が息子にしっかりと政務を引き継がせ、そのうえで早めに引退したことが大きい。

 王の代が替わった時も、ファマール朝アタヴィナに混乱はなかった。近隣の諸国もアスタルをアタヴィナの新しい国王と認め、歩調を合わせている。

 そんな中、周囲の関心は世継ぎへと向き始めた。

アスタルにはまだ子どもがおらず、異母兄弟である、十歳の弟シャニが次の後継者となる。もちろんアスタルに息子が生まれれば、その子が第一の継承者になるだろう。

 アスタルの継母に当たるメナス太后は、自分の息子であるシャニを王位につけるべく、虎視眈々と機会を窺っているらしい。ファマール朝のお家騒動だ。

「……当然、俺の花嫁は大きな権威を得ることになる。その親もな。メナス太后みたいな政敵が増えない、とも限らんわけだ」

敵はメナス太后だけではない。王家と婚姻を果たし、世継ぎを産むことができれば、その家は間違いなくアタヴィナでのしあがってくる。

「連中の用意した花嫁など、娶る気になれん。だが俺が結婚を決めん限り、あいつらは、あの手この手で花嫁を近づけてくるだろう。……そこで、だ」

 アスタルはルージュを見詰め、不敵にやにさがった。

「俺には心に決めた女がいると思わせ、連中に揺さぶりを掛けてやろう、というわけだ。ルージュ、お前の役目は……わかったな?」

「え? あの……」

 混乱するルージュのために、ネリザが耳打ちしてくれる。

(要は王様の恋人役を演じるため、あんたが呼ばれたってことさ)

「王様の、こっ、恋人ぉ?」

 思わず声に出してしまった。突然の大声に、アスタルが眉を顰める。

「理解できたか。城の者はお前の素性を知らん。どんな噂が飛ぶものかな……?」

(ああ。だから客を取ったことのない女が必要だったんだね)

 ルージュの頭の中で、ネリザだけ妙に納得していた。

「無論、嫌とは言わさんぞ? ルージュ」

 拒否する権利などあるはずもない。ルージュはアスタルの視線を意識しないよう、目を閉じ、しばらく思案を巡らせた。

 アスタル様の恋人に……ふりだけど、恋人になって……。

 前に会った時は、近いうちにルージュの『初めての男性』になるはずの客だった。これから恋人になるとはいえ、心が通じあえるような関係にはなり得ない。

 しかしアスタルのことが嫌でもなかった。ふりだけなら、と受け入れることはできる。

「その……あたし、でいいんですか?」

 恐る恐る顔をあげ、尋ねると、アスタルがくくっと笑った。

「俺がお前に惚れ込むことはないだろうからな。まったく欲情せんから、選んだ」

 ルージュの身体で高まりつつあった緊張の熱が、一気に引いていく。

「……は?」

「そんな平たい胸では、な」

 怒りのボルテージが急上昇した。ネリザも頭の中でうるさい。

(最低だね、この男! 引っ叩いちまいな!)

(お、王様なのよ? 腹立つけど……)

 女を馬鹿にするにも限度がある。さしものルージュも鼻息を荒くした。

ネリザの助言もあって、こちらから仕掛けてやる。

「じゃあアスタル様にも、ふりには徹してもらいますよ。あたしたちがちゃんと恋人同士に見えるように、です」

「言うじゃないか。当然、そのつもりだ」

「ですけど、今のままじゃ単なる主従関係じゃないですか?」

 アスタルがぴくっと眉を上げた。

「なるほど……興味深いな。では、どうしろと?」

 ルージュはエリザとともに、角を立てない程度に反抗する。

「こ、恋人同士になるんなら、こんなふうに……気ままにしゃべるものでしょ?」

 自分で言い出しておきながら、心拍数が跳ねあがった。

一国の王を相手にタメ口で話してやるわ、などというルージュの豪胆な提案に、アスタルはきょとんとする。

「……正論だな。お前が畏まった話し方で、演技ができるとも思えんし」

 その唇がひん曲がった。

「いいだろう。ただし言い出したからには、徹底しろ」

「わかったわ。じ、じゃあ、こんな感じで」

 てっきり却下されると思っていただけに、かえって追い込まれてしまう。しかしここで尻込みしては、それこそ彼の思うつぼで、面白くなかった。

「敬称はつけておくわね。アスタル様」

「ふっ……妙な気分だ」

 アスタルが残りのココアを飲み干し、席を立つ。

「さて、明日も早いんでな」

「あ、待って。シエラには事情を話したほうがいいと思うんだけど……」

「シエラ? 誰だ」

「さっきのメイドよ。あたしがアルカーシャから来たってこと、話しちゃったし」

 今後の段取りを決めてから、ルージュは彼を見送った。

「また近いうちに様子を見に来る。じゃあな」

「ええ。おやすみなさい」

 少し間を空け、シエラがいそいそと戻ってくる。

「お疲れ様です。いかがでしたか?」

「うーん……とりあえず、あなたの協力も必要になりそうよ」

 アスタル王の恋人としての日々が始まることに、まるで現実感がなかった。本当はアルカーシャの粗末な部屋で寝ていて、夢を見ているのかもしれない。

 

 それでも翌朝、ルージュは離宮の一室で目を覚ます。

 ハレムで迎えた、初めての朝だった。

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