千夜一夜の寵愛

プロローグ

 大陸の南西には砂漠が広がっていた。雲ひとつない青空のもと、地表のすべてが金色の砂で覆われている。

命を育むはずの太陽が、ここでは暴君と化した。砂はじりじりと焼かれ、乾ききった空気も熱を帯びて揺らめく。生命の気配は感じられない。

 一方で夜間は急に冷え込んだ。氷点下までさがることも珍しくはなく、日中の苛酷な暑さに代わって、残酷な冷気が砂漠を支配する。

 しかし全部が全部、不毛の大地というわけでもなかった。地下にかろうじて水脈が通っているおかげで、砂にまみれながらでも、サボテンは元気に育つ。

 そのような水脈の大動脈に当たるのがアタヴィー河だった。

沿岸の地域には大勢の人間が集まって、ひとつの国家を成し、歴史家には『アタヴィーの賜物』と評されている。

 長い歴史の中で、幾度となく王朝は交代してきた。現在はファマール朝アタヴィナと名乗り、大陸南西の有力な国家として、砂漠一帯の支配を確立している。

 雨量が少ないため、城下町の建物は屋根のほとんどが水平だった。権力者の住まいはその地位を誇示するべく、曲線を用いる傾向にある。

 それは色町においても同じ。貴族御用達の娼館アルカーシャは、宮殿さながらの威容を誇り、その夜も妖艶な気配を漂わせていた。赤と金という、派手な二色を基調とし、その姿を豪華に彩っている。

内装も趣向が凝らされ、頭上はシャンデリアの輝きで満たされていた。女たちも腕輪やピアスで光を弾き、眩いくらいに煌きを放つ。

 色の濃さや光の強さは、現実感を遠ざけ、夢見心地にさせる効果もあった。来客はここで日々の激務を忘れ、艶めかしい美女らと、魅惑的で背徳的な夜を過ごす。

 しかし客にとっては夢であるものが、娼婦にとっては現実だった。

 今夜はずっと更衣室の隅で女が泣いている。それを慰める同僚は、ひとりかふたりだけで、ほかの女たちは遠慮なしに呆れの目を向けた。

「ここから逃がしてやるって話に、乗っちまったんだってさ」

「バカだねえ。客の言うことを真に受けるなんて。嘘に決まってるじゃないか」

 気の強そうな女が、迷惑そうに吐き捨てる。

「さっさと出て行くんだね。あんた、もう二度と客は取れないよ」

「待ちなって。タバサにだって事情はあったんだし……」

「娼館が嫌で逃げ出そうとしたやつと、これからも一緒に仕事できるわけないだろ」

望んで娼館に来た女など、いるはずもなかった。ここにいる女は、財産を失ったか、捨てられたか、行き場をなくしたか。そういったやむを得ない事情があって、娼館などに身を寄せている。

 だが、単純に『身体を売ればいい』だけの場所でもない。とりわけアルカーシャのような格式高い娼館では、娼婦にも相応の美貌と教養が求められた。

 美しさは貴族令嬢にも引けを取らない。楽器を嗜み、雅やかなダンスも舞える。それは娼婦らの自信であり、矜持であり、自己欺瞞でもあった。

「あんたも客に唆されたくらいで、その気になるんじゃないよ? ルージュ」

 ルージュも新米の娼婦として、来週には初めて『客』を取る。

「……うん」

「緊張してるみたいだね。いつものあんたなら、今頃、タバサを庇ってるだろ?」

 先輩のハンナがルージュの頭を荒っぽく撫でた。

 客を取るということが何を意味するのか、ルージュにもわかっている。娼婦なら誰もが通ってきた道であって、逃げ場はない。

おまけにルージュの客は相当の高官らしかった。

「初日からいきなりってこともないんだし。相手は紳士なんだ、こっちが素直にしてりゃあ、いい思いもさせてくれるさ」

 ハンナの視線がルージュの容貌を一瞥する。

 ルージュという名前は、おそらく自前の赤髪にちなんだもの。真紅のロングヘアが艶やかな光沢を放ち、存在感を引き立てる。顔立ちにはまだ幼さが残っているものの、あと数年もすれば、美貌になりそうな器量のよさが見て取れた。

 アルカーシャの『初モノ』としてはかなりの上玉で、高値もついている。

「まっ、客とは上手く距離を取ってくことだね」

 ハンナは指輪をみっつも取り出し、ルージュに見せびらかした。

 その全部が、馴染みの客から贈られたという婚約指輪。店で会う時だけ、客に対応した指輪を嵌め、秘密の恋人を演じる。

「だからって、自分を安売りすりゃいいってわけじゃないよ?」

「う、うん。なんとなくだけど、わかってる」

 ルージュは五歳の頃からアルカーシャで下働きをしてきた。仲のよい先輩も多く、客との駆け引きなど、色んなことを教えてもらっている。

 しかし実際に客と一対一になって、先輩たちと同じようにこなせる自信はなかった。好きでもない男に抱かれるのが前提なのだから、不安や恐怖のほうが遥かに大きい。

 それでもアルカーシャには、自分を拾い、育ててくれたという大恩がある。

 頑張らなくっちゃ、あたしも……。

いつまでも雑用ではいられない。自分には『商品価値』もある以上、皆と肩を並べてやっていきたい気持ちもあった。

 泣きじゃくっていたタバサが、ふらふらと更衣室を出ていく。

 ハンナは溜息をつくと、ルージュの肩を叩いた。

「ちょいと見ててやりな。変な気起こされても、たまんないからね」

「了解よ。任せて」

 ルージュは顔を引き締め、タバサを追う。

 タバサの事情は噂程度に知っていた。馴染みの貴族に『ここから逃がしてあげるよ』と口説かれ、値の張る婚約指輪も受け取ったらしい。

ところが昨夜、約束の場所までタバサが出向いても、彼が現れることはなかった。

 結婚の約束や指輪のプレゼントなど、アルカーシャではよくあること。それは『夜だけの夢』であって、昼間の現実に持ち込んでよいものではない。

 だから非があるのは客ではなく、タバサのほうだった。

妻子持ちの客にとっては不倫となるため、タバサが抗議を送りつければ、アルカーシャごと報復される可能性も高い。アルカーシャとしては無用なトラブルを避けるべく、近日中に彼女を切り捨てることになる。

 タバサは裏口の階段で膝を抱え、座り込んでいた。

「ひっく……ファウスト様、どうして」

 ルージュは遠慮し、隣にそっと腰を降ろす。

「あの、タバサさん」

 声を掛けても、すぐに返事は返ってこなかった。仕方なく五分、十分と待つ。

 敵でないことをわかってもらうには、傍に居続けるしかない。やがてタバサは涙だらけの顔をあげ、声を上擦らせた。

「……ルージュ、あなたは戻って。私と同類って思われたら、やりづらくなるから」

 彼女なりに冷静になって、ルージュの今後に配慮してくれる。もしくは逆に、ルージュを退席させたいだけかもしれないが、ひとまず会話にはなった。

「あたしがお人好しってこと、もうみんな知ってますよ」

「そうね。ここを出ていく女は、最後はあなたに見送られていくんだもの」

 タバサが自嘲を交えつつ、ぽつぽつと語り出す。

「あなたは思ったりしない? アルカーシャってお高くとまってるけど、所詮は単なる娼館でしょ。店には商品にされて、客には玩具にされて……地獄よ」

 彼女の瞳から大粒の涙が零れた。

「客ってだけの男たちに、ひぐっ、好きにされて。だから……だから、ね? ファウスト様に指輪をいただいた時、嬉しかったの。まだ私にも、恋ができる資格があるって」

「恋の資格……ですか」

「そうよ。男に踏みにじられるんじゃない、手と手を取りあえるような恋を」

 ルージュは押し黙って、タバサの言い分に耳を傾ける。

 これは他人事ではなかった。近いうちに自分も客を取り、一夜を過ごすことになる。人気が出れば、三人、四人と後ろめたい関係ばかりが増えていくだろう。

 セックスは強要されるのに、子どもを産むことは決して許されない。アルカーシャもまた娼館として、女の尊厳を打ちのめすことには容赦がなかった。

 タバサがわっと泣き喚く。

「恋愛なんてしていい身分じゃないのよ、私たちは! ファウスト様もきっと、娼婦なんて汚い女だと思ってるんだわ。わ、私だって、好きで始めたことじゃないのに……」

「落ち着いてください、タバサさん」

「落ち着けるわけないでしょ! 一瞬でも愛したひとに捨てられてっ!」

 悲痛な叫びが反響した。

 いつか自分も同じ慟哭をあげるかもしれない。住み慣れたアルカーシャは、じきにルージュにも牙を剥いて、女の生き甲斐をずたずたに引き裂く。

 身体だけでは飽き足らず、心をも。

「うあああああっ!」

 タバサは両手で顔を覆い、涙ながらに嗚咽をあげた。

 ルージュにできることは何もない。傍にいて、肩を寄り添わせるだけ。

 

 今宵もアルカーシャは絢爛な光に満ちている。

 男の欲望と女の絶望をひた隠しにして。

 

 

 二日後の正午過ぎ。

 アルカーシャは夜間営業のため、従業員の起床は遅い。そんな中でもルージュは比較的早起きのほうで、今朝からタバサの荷造りを手伝っていた。

「タバサさん、時計は持っていきますか?」

「……いいわ。あなたにあげる」

 お金になるもの、荷物になるもので線を引き、旅の持ち物を取捨選択する。

 タバサは先日の件でアルカーシャを出て行くことになった。しかし娼館には逃げ込んできたのに、そこからさらに逃げるあてなど、ありはしない。

 唯一の方法は、北の砂漠を渡ることだった。東西を迂回していくルートでは、途中で関所や小国家に阻まれるが、北なら国外へ直行できる。

ただし成功率は低かった。砂漠を超えるには相応の知識や装備が必要で、それらが不十分な状態では、結果は見えている。

それでも砂漠を越えさえすれば、新たな土地でやりなおすことができた。まれにタバサのような者が集まって、国外への脱出に挑む。

その行き先が『死の砂漠』と呼ばれ、恐れられているのを知りながら。

「余った分は処分しておいてね、ルージュ」

 タバサはぱんぱんになった鞄を背負い、アルカーシャの裏口へとまわった。見送りに寝起きのハンナもやってくる。

「行くんだね、タバサ」

「ハンナさん、今回のこと……申し訳ありませんでした」

 タバサは頭をさげ、泣きそうな声を絞り出した。

 ハンナがぶっきらぼうな素振りで呆れつつ、彼女に封筒を手渡す。

「退職金だよ、持っていきな。あんたごと砂に埋もれないことを祈ってるよ」

「ハンナさん? そんな、いただけません」

 拒むタバサに構わず、退職金は荷物へと強引に捻り込まれた。

「女将さんの許可ももらってんだ。あんたの金さ」

 彼女らしいやり方にルージュは苦笑する。

 ハンナったら、もう。

態度にこそ出さないが、根っこのところは重度のお人好しで、ルージュに近い。

「にしても、今日もあっついねえ。砂漠に出る前に倒れるんじゃないよ」

 昼過ぎの気温は四十度にも達するため、道行くひとはフードを被っていた。そうでもしないと、日差しで火傷してしまう。

 これが夜になると一転して冷え込むのが、アタヴィナの気候だった。

 ルージュとハンナは日陰から出ない位置で見送る。

「お元気で、タバサさん。向こうに着いたら、お手紙くださいね」

「ええ、必ず」

 タバサはルージュを見詰め、囁いた。

「……ルージュ、あなたは絶対に折れたりしないでね」

 折れてしまったひとの言葉だからこそ、その無念さが胸に刺さる。

「ハンナさん、ありがとうございました。ルージュのこと、よろしくお願いします」

「言われるまでもないさ。あんたの行く末に女神のご加護を」

 彼女はフードを被ると、強い日差しのもと、ひとり寂しそうに歩いていった。

今までにもルージュはこうやって、何人もの同僚を見送ってきている。次は自分の番かもしれないし、ハンナの番かもしれない。

 ハンナが伸びをして、寝起きの身体を刺激した。

「さぁて。ルージュ、今日も踊りの練習だよ。気持ちを切り替えな」

 ルージュも両手をぱんっと鳴らし、仕切りなおす。

「うん。今週じゅうには完成させてみせるわ」

「その意気だよ。まあ、あんたなら上手くやっていけるさ」

 景気づけに背中をばんと叩かれてしまった。ハンナがはにかみ、館内に戻っていく。

 ルージュは日陰から青空を見上げた。

「……いい天気ね」

そう遠くない距離にアタヴィナの王城が見える。

 しかし青い空も美しい城も、ルージュには縁のないものだった。ルージュにはアルカーシャの屋根の下で、淫靡な夜しか許されない。

 あたしも、もうすぐ……。

 アルカーシャは新たにひとりの少女を飲み込みつつあった。

 今宵も娼婦たちの遊戯が始まる。

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