皇子様はわたしの嫁だぞ

第四話

 週末は下り坂の天候に不安があるものの、花嫁トーナメントの第二回戦が開催された。本日も午前と午後の二部構成となり、ベスト4の花嫁候補が優雅な戦いを繰り広げる。

 まだ魔物騒ぎは解決していないため、騎士団が物々しい警備に当たっているが、大会に支障はなかった。

今日は城の中庭が舞台となり、大勢の観客が集まっている。

「顔色が優れないね、マドモアゼル。大丈夫かい?」

「少し寝つきが悪くてな。問題はない」

 マドカはユーリの姿で、肘掛け付きの椅子に座りつつ、大きなあくびを噛んだ。皇子の私室はまだ片付いていないため、ここ数日はオレアノの部屋で寝泊まりしている。

 午前のうちはアーチェリー勝負がおこなわれた。候補者らが華麗に弓を競う。

 本物のユーリはマドカの身体能力を活かし、綺麗に矢を放った。一発で的のほぼ中央に命中させ、観衆が感嘆の声をあげる。

(ユーリのやつ、なかなかいいセンスをしてるじゃないか)

 勿論、身体が慣れているからといって、矢が当たるものでもない。ユーリには天性の勘が備わっているのだろう。

 とはいえ帝国令嬢として、武芸はそれなりにできて当然。ほかの候補者も的を射止め、及第点を上げてきた。勝負が大きく動くのは、おそらく午後からである。

 司会のオレアノは皇子の隣で、戦いの様子を見守っていた。

「面白くなってきたじゃないか、マドモアゼル」

「さすがにユーリ一強とはいかんな」

 午後のお題は外交の席をシミュレートし、その対応を評価する、というもの。ユーリにとっては得意分野だからこそ、積極的に勝負をかけるに違いない。

 今朝になって復帰したギュールは、皇子の守りについていた。マドカとユーリの中身が入れ替わっていることも知っている。

「朝稽古にいらっしゃった時は、皇子ではなく隊長だったのですね」

「うむ。ユーリはその……勉強熱心なんだが、武芸のほうは今ひとつでな」

 彼には早いうちに相談すべきだった。オレアノよりも事態の深刻さを理解し、フォローに徹してくれる。

「隊の者も今のところ、マドカ隊長……いえ、あちらのユーリ皇子のほうを疑ってはおりません。元に戻るまで、花嫁修業で通してしまいましょう」

「助かる。お前みたいな常識人は心強い」

 オレアノもアリエッタも面白がるばかりで、大してあてにならない。誠実で一本気質なギュールの協力は、ほかの誰より頼もしかった。

「と……ところで、ギュール? その、聞きたいことがあるんだが……」

 マドカは途切れ途切れに間を取りながら、声のトーンを落とす。

「いつわたしに惚れたんだ? いや、中身がユーリのわたしって意味だぞ?」

「それは……帝国大学からお帰りになるのを見た時です。隊の者も、マドカ隊長の変化が気になっていたようですから、先を越されまいと……」

 予想はしていたものの、ギュールは以前からマドカに惚れていたわけではなかった。

(こいつが好いてるなら、もっと早く言ってきただろうしな)

ギュールとは気まずくならずに済むことに、ほっと胸を撫でおろす。

事情通であるオレアノがにやりと唇を曲げた。

「でも、マドモアゼルのことを意識くらいはしてたんじゃないかい? マドモアゼルとキミの結婚は、なくもない話さ」

「いいや、まったく。あんな調子でお相手が見つかるのか、とは思っていたが……」

 正直すぎる意見が、マドカのこめかみに青筋を走らせる。

「……貴公ら、あとで訓練場を十周してこい」

 オレアノとギュールはぎょっとして、マドカの鬼気迫る憤怒に青ざめた。

「ボ、ボクも走るの?」

「しっ失礼しました! つい」

 デリカシーのない帝国男児には、説教の甲斐もない。

 アーチェリーでは最後の出番となるソアラも、高得点を叩き出した。ユーリ皇子に視線を投げかけ、無邪気に微笑む。

「ユーリ様のハートも射止めてみせますわ、うふふ!」

 さすが優勝候補だけあって、手強い。 

 マドカは腕組みを深め、花嫁候補らを一瞥した。

(記号が揃うのはソアラだが……)

 ユグドラシル・ガンマに願い事をした人物が、候補者の中にいるとして。禁書を管理しているセルゲイの娘で、七色庭園にも出入りできるソアラは、もっとも疑わしい。

「お前はどう見る? ギュール」

「あの影はもっと大きかったように思います」

 しかしソアラを疑ってしまうのは、自分にとって最大の『恋敵』だからかもしれない。マドカに代わって彼女がユーリを手に入れる可能性も、充分にあった。

 件の魔物はあれから出現していない。

「今はトーナメントを楽しもうじゃないか。では、行ってくるよ」

「手加減はいらんぞ、オレアノ。ユーリならやってくれるさ」

 午前の部が一段落したところで、オレアノは準備のため席を外した。入れ替わるようにモニカ皇女がやってくるものの、眠たそうに目を擦る。

「ふあ~あ……お兄様ぁ」

 午前中は矢が当たるのを待つだけで、飽きたのだろう。それこそ午後は、各々が持論を論じるだけの内容のため、九歳の女の子には退屈でしかない。

「部屋に戻っていたらどうだ? モニカ」

「でも、お兄様のお嫁ひゃんを……」

 モニカはユーリ皇子の膝にしがみつくや、すやすやと寝息を立て始めた。

起こさないようにマドカはアリエッタを呼び、皇女の世話を任せる。

「休ませてやってくれ」

「承知しました」

 やがて午後の部に入った。青々としていた空は次第に雲が多くなり、ひと雨来そうな気配が漂い始める。しかし観客にとっては日傘の必要もなくなった。

「天候も気になりますし、始めましょうか」

中庭に円卓が設けられ、オレアノと、もうひとりが席につく。

 ところが、そのひとりは正真正銘の親善大使だったのだ。

「ゼノン帝国の皆様、本日はこのような席にお招きいただき、誠に光栄ですわ。私はダリア公国よりご挨拶に伺いました、メナス=ジリアンと申します」

観衆も気付き、俄かにざわつく。

 何も聞かされていなかったらしい候補者らは、一様に顔を引き攣らせた。

 ダリア公国とは、五年前にゼノン帝国と交戦した、南方の小国家である。一時はゼノン帝国軍がダリア公国の王都まで迫り、民間に死傷者まで出た。それは『五日戦争』と呼ばれ、双方の関係に暗い影を落としている。

 数ある外交において、戦後処理は困難を極めた。直接的に政治に参加することの少ない貴族令嬢には、荷が重い。

(やってくれたな、オレアノのやつめ……)

 にもかかわらず、ダリア公国の親善大使が討論の相手として招かれたのだ。

 四十歳を越えるらしいメナス大使は、敵地でも精悍さを保っていた。

「本日は非公式となりますので、お気になさらずに。私も帝国のご令嬢がたとお話できること、楽しみにしておりましたの」

 非公式とはいえ、彼女にはダリア公国の代表としての顔がある。

 しかも今日はゼノン12世も、その皇后も居合わせていない。皇帝はオレアノと口裏を合わせたうえで、意図的に城を離れたのだろう。花嫁候補たちは、不在の皇帝に代わって親善大使を丁重に迎えなければならなくなった。

(……面白くなってきたじゃないか)

 ユーリ皇子(マドカ)は起立し、親善大使に会釈する。

「ようこそおいでくださった、メナス女史。挨拶が遅れてしまって申し訳ない」

「恐縮ですわ。カイルロード国王陛下に代わって、ご挨拶申しあげます」

 難易度は跳ねあがったものの、興味深い議論になりそうだった。候補者らが普段から帝国のことをどれほど真剣に考えているかが、如実に表れるに違いない。

 また公平でもあった。オレアノとマドカは顔馴染みであるため、オレアノがひとりで進行を務めては、マドカへの贔屓も疑われかねない。

 ソアラが真っ先に行動に出た。

「わたくし、メナス女史の隣に座ってもよろしいでしょうか?」

 気後れしているほかの候補者を差し置いて、親善大使の右隣に腰を降ろす。

 対抗するように、まどか(ユーリ)も左隣の席を奪取した。

「それでは私はこちらに。確かメナス女史は抹茶がお好き、と伺いまして」

「あら、用意していただけますの? 嬉しいですわ」

 さすが中身はユーリだけあって、隣国の権力者にも物怖じしない。

 残りの候補者ふたりも困惑しながら、ひとまず席についた。もはや勝負どころではない様子で、マドカとソアラの一騎打ちの様相を呈しつつある。

オレアノはメナス大使の向かい側に座り、飄々と口を弾ませた。

「お久しぶりです。このような場に女史をご招待したこと、僭越至極にございます」

「楽しみにしていたのは本当でしてよ。公国では『鉄仮面』などと呼ばれまして、なかなか年頃の女の子とお話する機会がありませんから」

「メナス女史のようなお美しいかたを鉄仮面とは、聞き捨てなりませんねえ」

 花嫁候補らが親善大使に無礼をしでかしたとしても、オレアノのフォローがあれば、国際問題にはならないだろう。

「キミたちもリラックスしたまえ。こちらのターナ嬢は、演劇に興味がおありでしてね。貴国の公国劇場にも是非、一度足を運んでみたいと」

「は、はい。舞台ものが好きでして……」

「まあ! でしたらなおのこと、国交の正常化は急務ですね」

 議論についていけそうにない令嬢に、恥をかかせることもしない。

 マドカは淑女らの談笑に耳を傾けつつ、小声でギュールに指示をくだした。

「警備の人員を増やしてくれ。メナス女史には気取られんようにな。彼女も単なる興味本位で来たわけではあるまい」

「了解。ただちに陣形を改めます」

 彼女らが議論に没頭できるよう、距離を空けたうえで守りを固める。

「ではメナス女史、そろそろ本題に入りましょうか」

「ええ。ゼノン帝国との関係改善は、我が公国でも連日、議題になっております」

 早くも議論は白熱し始め、観衆も聞き入った。ダリア公国の親善大使は無論、帝国宰相の娘であるソアラや、まどか(ユーリ)も決して遅れを取らない。オレアノの巧みな話術もあって、駆け引きの弁論にも弾みがつく。

「ですから、わたくしは双方の利益になるような交易を軸にしまして……やはり民の関心事は、自分たちの損得であると思いますもの。大義だけでひとは動きませんわ」

「よくお考えですわね、ソアラ様も」

 その戦いを、マドカは黙って見守るしかなかった。

(わたしと結婚するために、ユーリはこんなに頑張ってくれてるのにな)

 ユーリの勝利を信じて、待つ。しかし何もせず、観客席の中央で偉そうに座しているだけでは、彼の誠意に申し訳がなかった。

「マドカ様は騎士団の隊長として、どうお考えなのかしら?」

「民の安全保障を預かる身ですから、戦いになれば、総力をあげることになるでしょう。残念ですが民の間では、防衛意識よりも、反ダリアの感情のほうが大きいのです」

 ユーリの意見は現状を楽観視せず、親善大使の前では言いにくいことであっても、問題を明言化する。本物のマドカの考えと共通点も多い。

(わたしのせいでユーリが軍備増強なんぞ言い出したら……いや、そうなったらわたしがブレーキを掛けるんだ。あいつの伴侶として)

 ゼノン帝国のため、一介の騎士としてなら、ユリシーズ=ゼノンファルスを支えていく覚悟はとっくにできていた。

しかしマドカはかぶりを振って、言葉面のよい忠誠心を脇にのける。

(……そうさ。大事なのは、わたしとユーリの気持ちじゃないか)

 ユーリはマドカの顔で微笑み、親善大使の手を取った。

「私たちにできることは、新しい友人を作ることでしょう。私とメナス女史が、今日から友人となりましたように」

 帝国の主権だとか民の民意だとか、あるかどうかもわからないモノのために、ユーリの気持ちをないがしろにしたくない。ちゃんと彼の声や身体に向き合いたくなる。

「明日は帝国大学のほうにいらっしゃいますの?」

「よろしければ、私たちで案内しますわ。ねえ、ターナ」

 次第に雑談も多くなり、ユーリやソアラは勝負を忘れてさえいるようだった。敗北を察したらしい候補者も、朗らかな調子で席を立つ。

「おかわりをお持ちしますわね。次は帝国風のジャスミンなどいかがかしら」

「お気遣いありがとうございます。いただきますわ」

 観衆はマドカ派とソアラ派で意見が真っ二つに分かれている様子だった。アリエッタが呼び込みに精を出している。

「お賭けになる方、もういらっしゃいませんか~? にひひっ!」

「……おい、ギュール。あのメイドを今すぐひっとらえてこい」

 そんな和気藹々とした雰囲気に、怒号が飛び込んできた。

「何をしとるかぁ、貴様らあ~~~ッ!」

 観衆が一斉に驚き、道を空ける。

 会場に乱入してきたのは、ソアラの父である宰相セルゲイだった。

「結婚など許さんぞ、ソアラ。皇子の花嫁になるだと?」

「お父様? 何を仰って……」

 皆が首を傾げ、ざわざわと波を起こす。

(何を言ってるんだ? セルゲイ卿は……娘を応援するところじゃないか)

 せっかく娘が順調に勝ち進んでいるトーナメントを、声を荒らげてまで阻止する理由はないはず。間違いなくソアラはベスト2に残り、来週の決勝戦に駒を進めるだろう。

「こんな勝負なんぞ、わひ、わしは認メンゾォ!」

 セルゲイの身体がぶくぶくと膨れあがった。

「なっ? おい、セルゲイ卿!」

 マドカたちの前でニメートル以上にも膨張し、衣服を内側から引き裂く。

 セルゲイは一対の羽根を広げ、ずんぐりと肥えた『悪魔』となった。

『グオオオオオオオッ!』

 おぞましい雄叫びをあげ、ズシンと花壇を踏み荒らす。

「ひいいっ! セルゲイ卿が魔物に!」

「きゃああああ! 助けてください、騎士様!」

 観衆はパニックに陥り、戦えない者から我先に逃げ出した。

(ユグドラシル・ガンマを悪用した犯人は、セルゲイ卿だったか!)

 ユーリ皇子(マドカ)は真っ先に剣を抜いて、騎士団に号令をくだす。

「怯むな、敵はひとりだ! メナス女史をお守りしろ! 避難の時間を稼ぐぞ!」

「心得ております! いくぞ、オレアノ!」

「ボクも戦うのかい? あんな化け物と戦うなんて、冗談じゃないよ!」

 皇子に続いてギュールとオレアノも剣を構えた。貴族らと場所を入れ替えるように、騎士団が最前列に出張り、一匹の悪魔を取り囲む。

「こちらです、女史!」

 まどか(ユーリ)はメナス大使を連れ、ユーリ皇子(マドカ)の後ろに逃げ込んだ。そこをアリエッタがカバーし、即席の守備を固める。

 ユーリは小声でマドカにだけ聞かせた。

「あれって普通の魔物じゃないでしょ? まさかユグドラシル・ガンマの……」

「おそらくな。セルゲイ卿なら知っててもおかしくない。もしかすると、わたしたちの異変にも勘付いていたかもしれん」

 セルゲイは始めから知っていたのか、オレアノが持ち出したことがきっかけで古文書を開いたのか。奇跡の力を本物と確信し、あの大樹に欲望を囁いただろう。

(自分の娘が皇子の花嫁になれるように、と?)

 しかし願い事が叶うわけではないこと、私利私欲にはペナルティが課せられることを、侮っていたらしい。

 おぞましい悪魔の姿を一瞥し、アリエッタが毒を吐く。

「おかねをお願いしなくて正解でした。あ~欲望って恐ろしい」

「お前が言うな! くそ、仕留めるしかないのか?」

 マドカたちは剣を構えたものの、相手が人間であることに躊躇した。まさか急所の脳天を叩き割るわけにもいかない。

『マドカ=ブライアント、皇子ニ近ヅクナ!』

「わた……じゃない、まどかも狙っているのか?」

 セルゲイが目を赤々と光らせながら、マドカらの防衛網に歩み寄ってくる。

 そのような悪魔に、ソアラが真正面から無防備に近づいてしまった。

「しっかりなさってください、お父様!」

「お、おい? さがれ!」

 小さな身体で大の字になり、父親の足踏みを妨げる。

『ドケ、コムスメ! ワシハ、ウグッ、ウァグ』

「いかんっ! 自分の娘もわからないのか、セルゲイ卿!」

 その巨体が豪腕を振りあげ、爪を剥いた。

マドカが飛び出すより早く、ギュールが俊足で魔物の豪腕をくぐり抜ける。

「お任せください!」

 間一髪、ソアラはギュールに抱えられて助かった。

「娘もわからんのなら、仕方がない……許せ、セルゲイ卿! 総員、攻撃開始ッ!」

号令とともに、ユーリ皇子(マドカ)は悪魔の眼前へと果敢に飛び込む。相手の動きは鈍く、見切ることは難しくなかった。

ユーリの身体でも先手を取り、敵の脇腹に一撃を決める。

『グゥウ? ガルルルル!』

 そのはずが、セルゲイは少々呻いただけで動じない。

 巨体は分裂し、二匹の大コウモリに変貌した。それらがひとつに合わさり、元の醜く肥えた悪魔の姿を再生する。

「気をつけろ、こいつは一撃では倒せんぞ!」

 ユーリ皇子(マドカ)は間合いを取りなおし、まどか(ユーリ)の傍まで戻った。

ほかの騎士も威勢のよい声をあげ、悪魔の懐へと突進する。

「ここは我々が! うおおおッ!」

 右斜め前、左側面、後方からの挟み撃ちがすべてクリーンヒットした。だが巨体は瞬く間に数匹のコウモリとなって、騎士を弾き飛ばしつつ、元の異形を取り戻す。

 これでは粘土を斬っているのと変わらない。

 騎士に代わって魔導士らも前線に出た。

「剣が通用せずとも、魔法ならば! 撃てェー!」

 攻撃呪文の集中砲火が、四方から中央のセルゲイに襲い掛かる。

ところが魔法は命中寸前で忽然と消えてしまった。動きが鈍い割に、悪魔はひとつも直撃を受けることなく、にやつく。

(魔法耐性のフィールドまで持ってるのか? 野生の魔物とは次元が違いすぎる!)

皆がたじろぐ中、ギュールが二刀流でセルゲイの背後を取った。ソアラを庇いつつ、二本の剣にありったけの闘気を漲らせる。

「ソアラ様、あなたのお父上を討つこと、恨んでいただいて構いません。ただ、今だけはあなたをお守りすること、お許しください」

「……ギ、ギュール様……」

 ギュールの剣から二発の衝撃波が放たれ、地面を削りながら走った。そのふたつがセルゲイの巨体を駆けあがり、交差するとともに怒涛の爆発を起こす。

(や、やったか?)

 爆風はマドカたちの足元を駆け抜け、砂塵を巻きあげた。セルゲイのいた位置はもうもうと黒煙に包まれている。

 煙が晴れるまで、マドカは構えを解かなかった。

(ギュールの聖剣技が直撃したんだ。あれで無事なわけ……)

 しかし剣を降ろそうとした矢先、無数のコウモリが放射状に飛び出してくる。

 コウモリの群れは、またも凶悪な悪魔の形を取り戻してしまった。

『邪魔ヲスルナ……サア皇子、ヒヘヘ、ワシ……ワシトォ』

自己再生を完了し、獰猛な雄叫びをあげる。

『ユリシーズ、ワシト結婚シロォオオオォオオ! 今スグ結婚スルノジャア~~~!』

 マドカもユーリも仰天した。

「なななっ、ユ、ユーリと結婚だと?」

「ちちっちょっと! 僕とどうする気なのさ、あいつ!」

 トーナメントの乱入者が、試合そっちのけで優勝賞品に迫ってくる。

『皇子ハ、帝国ハ、ワシダケノモノ! 誰ニモ渡シテナルモノカ! マドカ=ブライアント、貴様ニモ渡サンゾ!』

 意味不明なうえ、討伐も不可能な難敵に、オレアノが口元を引き攣らせた。

「指揮官殿、戦略的撤退を進言したい。……ほ、ほら、三十六計逃げるに如かず、というじゃないか。意地を張っていられる場合では」

「ほっ、誉れ高き帝国騎士団に、撤退の文字があってたまるか!」

 そう言いつつ、マドカはユーリの手を取って後ろを向く。

「こっちに前進だっ!」

 勇ましき帝国騎士団は、前向きな一時撤退を余儀なくされた。

 

 

 オレアノの部屋に逃げ込んで、ひとまず皇子の気配を、彼の煙草で誤魔化す。

「もう少し詰めてくれ、アリエッタ」

「わたくしがふとましい、と仰るのですか!」

 マドカ、ユーリ、アリエッタ、オレアノ、ギュールの五人は、部屋の中で輪になった。マドカとユーリの交換生活を知っているのは、この面子のみ。

 ほかの騎士は皇子のマントをつけ、中庭でリレーを続けている。魔人セルゲイはそれをユーリと思い込んでいるらしい。

「しばらくは時間を稼ぐことができそうですが……隊長、どうしますか?」

「あれほどのスピードで再生されてはな」

 部下だけ延々と戦わせるわけにもいかず、マドカはユーリの顔で額を押さえた。

「……皇子と結婚というのは、どういうつもりだ?」

 年頃の娘もいる壮年の男性が、その娘を差し置いて、十八歳の皇子に求婚したのだ。アリエッタが煙草のにおいを紙幣で紛らわせながら、他人事みたいに漏らす。

「いっそ、ご結婚なさってはどうですか? スリル満点な新婚生活が送れますよ。お嬢様もそういうのはお好きでしょう」

「送ってたまるか! 大体、狙われてるのはユーリのほうだぞ」

 ユグドラシル・ガンマはとんでもない化け物を生み出してしまった。花嫁トーナメントの開催も、誰かの願い事が歪曲されたものに思えてくる。

「あの樹を切り倒せば、丸く納まるんじゃないか?」

 意趣返しのついでにユグドラシル・ガンマを叩き折ってやりたくなった。

 オレアノが渋い表情で煙草を燻らせる。

「リスクが高すぎるよ。贋作といっても、これだけの力を持つ至宝だ。自己防衛くらいするだろうし……最悪、キミたちが元に戻れなくなるかもしれない」

「僕もそう思う。あれの力に関わるほど、状況は悪化するよ」

 とにかくセルゲイを倒すしかない。

マドカはセルゲイを斬った時の手応えを思い出し、右手でこぶしを作った。野生の魔物程度であれば、あの一撃で確実に倒せたはず。

(かなり深く入ったのに、あれでも再生されてしまうのか……)

しかし魔人セルゲイは驚異的な再生能力により、致命傷をものともしなかった。

「十人くらいで一気に攻撃するのは? 再生を上まわるダメージを一気に与えればさ」

「隊長……いえ、ユーリ様、一度に攻撃できる人数は限られます。波状攻撃にして再生中も攻撃を続けるか、遠距離から一斉射撃で仕留めるか、でしょうか?」

「それで倒せるなら、もう倒せてるんじゃないかい?」

 セルゲイには、すでにありとあらゆる攻撃を叩き込んでいる。だが、その都度あっさりと再生され、いたちごっこの繰り返しである。

魔法障壁まで張られているせいで、帝国レベルの魔術師では手も足も出ない。

 何より一番の問題は、皇帝が不在のうえ、親善大使がいることだった。

「メナス女史はどこにお連れした?」

「姫様と一緒に、別館にてお守りしております」

大砲やらの兵器を持ちだせば、セルゲイを撃破することは可能だろう。しかし親善大使の前で大仰に騒ぎ立てるのはまずい。

 オレアノは一本目の煙草を灰皿で潰し、二本目に火をつけた。

「魔物一匹に総崩れ、なんて有様をご覧になったら、陛下がお怒りになるかもねえ」

ユーリが青ざめ、マドカの身体で膝を抱え込む。

「じじっ、冗談になってないよ!」

 それこそ親善大使の前でてんやわんやしている現状を知れば、皇帝の顔が怒髪天を衝く形相になりかねない。

「建前については、あとで考えればいい。怪我人が出てからでは遅いぞ」

 マドカは声を潜めて、仕切りなおした。

「やつの再生が一番遅かった攻撃は、何だった?」

 全員の視線がギュールに集まる。

「自分の聖剣技……だったかもしれません。ひょっとすると闘気が弱点では?」

「ありうるな。地下迷宮なんかに潜む悪魔には、効果的だと聞くし」

 聖剣技であれば、通用するかもしれない。ただし会得が困難なため、誰でも扱えるものではなく、使用者は限られた。

 もとより帝都の警備が主任務である第三部隊には、そこまでの火力が必要ない。会得者は別の部隊に配属され、遠征先に出張っている。

「隊長の威力なら倒せると思いますが……」

「ユーリの身体では撃てないんだ。前に試しただろ?」

 ギュールの威力でも倒せない以上、聖剣技はあてにならなかった。

「戦うだけが方法ではありませんよ、お嬢様。どこかに閉じ込めてはどうです?」

「うむ……しかし牢屋では破壊されそうだし、コウモリに変身されてはな」

 魔人セルゲイは無数のコウモリにも姿を変えるため、捕獲はさらに難しい。落とし穴に嵌める程度では、せいぜい時間稼ぎにしかならないだろう。

「……地下迷宮にでも放り込むか?」

 マドカの呟きに、ギュールとオレアノが付け加える。

「外に連れ出すのですか? 城下町が大混乱になりますよ、隊長」

「そこは下水道を通ってだねえ。あの大きさでも、コウモリになってもらえば何とか」

 ユーリが人差し指を唇に添えた。

「抜け道なら僕にアテがあるけど……お城だし」

 どこの王宮であれ、隠し通路のひとつやふたつは存在する。有事の際に皇帝の一族が脱出するためのルートだ。

「僕やモニカなら開け閉めできるんだ。上手く中に誘い込んで、入口と出口を両方とも閉めちゃえば、いいんじゃないかな」

「隠し通路は最高機密だぞ? 我々がそれを知っては……」

「いや、皇子の作戦は悪くないよ。今は充分『有事』ってやつだしね」

 幸いにして魔人セルゲイはコウモリにならない限り、動きが鈍い。隠し通路の中で逃げ切ることは、さほど難しくないだろう。

「わかった、それでいこう。やつはユーリを狙ってる。わたしがこの身体で……」

「待ってよ、マドカ。僕も行く」

 今にも立ちあがりそうなマドカを、ユーリが掴んで制した。顔はマドカのものなのに、ユーリらしい男の子の表情で見詰めてくる。

「開け閉めする方法は僕が知ってるんだし、隠し通路にはトラップだってあるんだ。僕も一緒に行ったほうがいい」

「いや、ユーリを危険に晒すわけには」

 一介の騎士として、マドカは彼の同行に二つ返事を返せなかった。しかしセルゲイが執拗に狙っているのは『ユーリの姿をした者』だ。仮にマドカが身代わりになって殺されても、ユーリは自分の身体を失うことになってしまう。

「あいつはマドカだって狙ってるみたいだし。ふたりのほうが成功率は高いよ」

 身体が入れ替わっている以上、運命をともにするしかない。

「……わかった。付き合ってもらうぞ」

「もちろんさ!」

 マドカとユーリは強く頷きあって、一緒に立ちあがった。

「始めるとするか。わたしとユーリでやつをおびき寄せる。ギュールはわたしのフォローを。アリエッタはユーリのガードに徹してくれ」

 アリエッタも腰をあげて、一万クレット札を懐に仕舞い込む。

「仕方ありませんね。お給料分は尽力致しましょう」

 オレアノはギュールに引っ張られ、渋々と吸いかけの煙草を潰した。

「お前もたまにはカラダを張れ」

「ボクの剣が役に立つと思うのかい?」

 すぐに作戦を決行する。

 

 魔人セルゲイは皇子のマントを引き裂き、雄叫びを張りあげた。

『モウ騙サレンゾ! 皇子ハ、ドコダァア!』

 騎士団はかろうじて戦闘の構えを取るものの、すでに疲弊しきっている。

「ば、化け物め……ユーリ様には指一本触れさせんぞ!」

 うちひとりはセルゲイの怪腕に捕まりながらも、必死に抵抗していた。すかさずほかの騎士がセルゲイの腕を切断し、仲間を救出する。

『ドコニ隠レタ、ユーリ皇子ィイイイイ! 出テコンノナラ、コノ城ヲ……』

 その腕もコウモリとなって、瞬く間に本体と融合した。

「ぼくならここだぞ、セルゲイ!」

 ユーリ皇子(マドカ)がまどか(ユーリ)の手を引き、駆けつける。

 セルゲイはぎょろっと赤い瞳を転がした。

『グヌヌッ、横取リスル気カ、マドカ=ブライアントォ!』

「横取りしようとしているのは、あなたのほうです!」

 まどか(ユーリ)は前に歩み出て、声高らかに宣言してしまう。

「ユーリと結婚するのは、私なんですからっ!」

「おっおい、そこまで言わずとも……」

 本物のマドカは俄かに赤面し、慌てふためいた。

 しかしユーリの挑発は効果てきめんで、悪魔は嫉妬に燃える。

『ワシノモノダ! 貴様ニハ、貴様ニダケハ、グオォオオオオオオッ!』

 セルゲイはほかの騎士に目もくれず、一直線に迫ってきた。マドカたちは踵を返し、護衛とともに城内へと駆け込む。

「と、とにかく話はあとだ! 急ぐぞ!」

 セルゲイは頭に血が昇ってしまっているのか、動きが荒々しかった。ドアを体当たりで突き破り、追いすがってくる騎士を蹴り飛ばす。

 一階の広間まで来るや、ユーリが壁面をなぞった。ガコンという音とともに、その一部が長方形に開く。

「やつが来ます! 隊長、皇子、お急ぎください! ここはオレたちで」

 しかしギュールはそこに入らず、オレアノの肩を掴み寄せた。

「……もしかして、ボクもここで足止めする役かい?」

 隠し通路から逃げたがっていたらしい薄情なオレアノが、蒼白になる。

 アリエッタはお辞儀して、右手と左手にナイフを三本ずつ構えた。

「わたくしも時間稼ぎをお手伝い致します。オレアノ様よりは、お役に立てるかと」

「すまない、三人とも! ここは任せたぞ!」

「ちょっ、やっぱりボクも数に入ってるのかい? ねえ、ちょっと!」

 セルゲイは広間の扉を壁ごと破壊し、こちらの布陣と対峙した。

『ドケ! ワシノ邪魔ヲスルナ!』

 ギュールとアリエッタが刃を光らせる。

「付き合ってもらうぞ、セルゲイ卿。オレの聖剣技でも足止めにはなる!」

「頼りにさせていただきます。かく乱はお任せを」

「そそっそうだ! ボクの分まで頑張りたまえ、キミたち!」

 その間にマドカはユーリとともに隠し通路へ。

 

 

 ランプの灯を頼りにして、真っ暗な抜け道をひたすら進む。

「大丈夫かな? みんな」

「あいつらなら、引き際もわきまえているさ。オレアノも上手く逃げてくれるだろ」

 時間稼ぎを買って出てくれた仲間のことは、マドカとて気がかりだった。急き立てられるように暗闇を駆け抜けていく。

 隠し通路は下水道の一部らしく、溝に水が流れていた。

「帝都の外まで、相当あるぞ? 歩いても半日は掛かるか……」

「距離を稼ぐだけ稼いだら、どこかで休もうよ」

 ランプを片手に、マドカは頻繁に後ろを振り向く。

(ここで追いつかれたら、たまらないな)

 武器はマドカに剣があるだけで、ユーリのほうは丸腰だった。ほかには少しの食料と、ギュールに借りた懐中時計しかない。

走ったり歩いたりを繰り返すうち、やがてペースも落ちてきた。ユーリの身体では疲労が早く、先にマドカのほうが膝に手をつく。

「はあっ、ふう……思うように息が続かん。ユーリ、やはり鍛えたほうがいい」

「そうだね。元に戻ったら僕も剣の稽古、頑張るよ」

 道のりは平坦ではなく、梯子で上り下りする場面もあった。ユーリはマドカの身体で、しかも生地の多いドレスと、靴はミュールにもかかわらず、器用に足を運ぶ。

「うわ? 錆びてるね」

「怪我するなよ。わたしの身体だが……」

 地上のほうでは真夏の陽も傾いている頃合だった。マドカは懐中時計を確認し、走ってきた距離を大体程度に計算する。

「動けるうちに少しでも進んでおこう。今夜に掛かってるぞ」

「うん。頑張ろう」

 城のほうは無事なのか。怪我人は出ていないか。

(もう戦闘は終わってるだろうな。あとはわたしたちと、やつとの勝負か)

ペースを落とすと心配事に囚われがちになり、また走りたくなった。

 

 その気力も、深夜の時間帯に差し掛かって限界に。

 それでも何とか、終点である出口へと辿り着いた。ユーリが封印を解くと、真夜中の雨が地下道に染み込む。

「降っていたか……ここらへんで、はあっ、今夜は休もう」

 出口へと続く階段の傍で、マドカはへたり込んだ。

「先に出て、閉めちゃったほうがいいんじゃないかな?」

「雨宿りしていよう。セルゲイが来てるか、確認もしておきたいし」

 万全を期すならユーリの言う通り、先に外に出たほうがよいのだが、深夜に雨の中をうろつくのは避けたい。何よりユーリの身体が疲れ果て、もう動けそうになかった。

 剣とランプを脇に置き、壁にもたれる。ついでに食料のクッキーを包みの上で広げ、相方と均等に分けた。

「まったく、ユグドラシル・ガンマめ。次から次へとやってくれる……」

「この次はないって思いたいね。僕も懲り懲りだよ」

 ユーリもマドカの隣で落ち着く。

 マドカは明後日のほうを向きながら、ごにょごにょと彼に尋ねた。このような状況で話すべき内容ではないと、わかってはいても気になる。

「なあ、ユーリ。結婚のことだが……」

「どうしたの?」

 すぐ隣ではまどか(ユーリ)が、クッキーを小刻みに頬張っていた。可憐なドレスもさまになって、見るたびに新鮮な気品を醸し出す。

 本当に自分の身体とは思えないほどに。

「も、もしだぞ? トーナメントに出場したのが、わたしの身体のお前ではなく……わたし自身だったら、お前は、その……わたしを応援してくれたか?」

 ユーリ皇子の花嫁に相応しいことを、マドカとて自分の力で証明したかった。ユーリの勝利を信じていないわけではないが、人任せにするのは性に合わない。

 しかもユーリは一生懸命に戦ってくれている。帝国令嬢のくせに腕っ節くらいしか自慢できるものがない、こんな自分のために。

「マドカは勝つ自信がないの?」

「か、勝つさ! 確かに先日の一回戦は、わたしには無理だったかもしれんが……」

 ユーリはそっとマドカの肩を抱き寄せ、微笑んだ。

「もちろん応援するよ。贔屓だってする」

「それはいかんぞ。皇子として、公平であるべきじゃないか」

「無理だってば。……君を抱けるかどうかっていう瀬戸際ならね」

 抱く、などという言葉が出てきたことで、マドカはユーリとの関係が変わりつつあるのを自覚する。身体を入れ替えているのだから、意識してしまうこともあった。

「ふ、ふんっ。わたしだって、お前以外に……抱かれる気はないぞ」

「まだ先のことでしょ。アリエッタさんに笑われるよ?」

 自分と一緒に成長してきたユーリを、今は自分の目で見詰められないのが悔しい。

 ユリシーズ=ゼノンファルスは幼い頃から、勉強には意欲的なくせに、体力勝負にはとことん消極的だった。

「……憶えているか? ユーリ。お前とわたしが、初めて馬に乗った時のこと」

「憶えてるよ。僕がトロトロしてたら、マドカだけ先に行っちゃってさ」

「お前はトロトロしてたんじゃない。馬を無理やり走らせるのが可哀相だからって、ほとんど走らなかったんじゃないか」

 それでも昔のユーリは、おてんばなマドカと一緒にいようとしてくれて。

 いつからだろうか。マドカが剣にばかり専念し、ユーリも勉学に没頭するようになったのは。男らしさだの女らしさだのを気にするようになったのは。

 マドカはユーリの身体で『自分』にもたれ、呟いた。

「座っていても、わたしのほうが少し大きいな。歳だってひとつ上だし……」

「姉さん女房だね。でも僕がチビで年下だからって、容赦はしないよ」

 自然とふたりの手が重なり、端の小指を絡めあう。

 ランプの小さな灯が、ふたりの表情を浮かびあがらせた。ユーリはマドカの顔で真剣になり、マドカはユーリの顔で赤面する。

「僕が特別扱いするのは、君だけさ。マドカ」

「す……すまん。こういうのは慣れてなくて、だな……」

「慣れてたら怒るよ」

 帝国の繁栄だのユーリの帝位継承だのは、もう頭になかった。

傍にユーリがいる。ユーリが自分を選んで、傍にいてくれる。それだけでゼノン帝国の民の誰より幸せなのだと、自惚れることができた。

ユーリの身体が早鐘のごとく鼓動を高鳴らせて、マドカの初心な決意を荒らす。

「お、お前だって、わたしの特別なんだぞ?」

 ユーリはマドカの顔ではにかんだ。

「前から思ってたんだけどさ、マドカの『だぞ』って言うの、可愛い」

「そそっ、そーいうことをいきなり言うんじゃない! 心の準備ってやつが」

 照れ隠しにマドカは相手の小指を引っ張り、指切りを決める。

 雨の音が少し弱くなった。間もなくマドカは疲労感に屈し、瞼を伏せる。

「ちょっとだけ、眠らせてくれ……クタクタなんだ」

 そんなマドカを、ユーリが優しく撫でた。

「僕が見張っておくから、おやすみ」

 まだ何も解決していないのに、彼の傍にいるだけで、気持ちが穏やかになる。

 指切りは解けることなく、マドカとユーリを繋いでくれた。

 

 

 ユーリがマドカを起こそうと、揺さぶる。

「起きてよ、マドカ。外はもう朝」

「うぅ……わかった、おきる。おきる、おきる……」

 ユーリの身体は血圧が低いせいで、寝起きがつらいため、思いきって一気に跳び起きる必要があった。マドカは心の中で『せーの』と力をたわめ、暗闇の中で頭を起こす。

「え~いっ! ……んむう?」

 ところがその拍子に、ユーリと正面からぶつかってしまった。

唇と唇が接触したらしく、お互い息も止めて黙り込む。

「ちち、ちっ、ちょっと、マドカ?」

「すっすまん! そういうつもりじゃなくて!」

 マドカとユーリは慌てて離れ、真っ赤な顔を百八十度に背けあった。本当にキスだった確証はない。しかし互いに口づけを強烈に意識してしまって、気恥ずかしい。

 ランプの灯は消えており、地下道は真っ暗だった。赤らんだ顔を見られずに済む。

「と、とにかく脱出しようよ。さっきから、なんか聞こえるんだ」

 階段の上のほうは朝日が差し込み、明るくなっていた。雨も上がったらしい。

 追跡者の声がくぐもって響き渡る。

『コッチニイルノハ、ワカッテイルゾ! ユーリ皇子!』

 敵に迫られているうえ、暗闇の中では取るものも取りあえなかった。

「もうそこまで来てるじゃないか! 逃げるぞ!」

「うん、早く外に……わわっ?」

 マドカはランプを捨てて、ユーリの手を引く。

 闇の奥から、魔人セルゲイの真っ赤にぎらつく両目が現れた。獰猛な唸り声が地下道でやかましく反響する。

『見ツケタゾ、ユーリ皇子ィイイイ!』

 マドカとユーリは手を繋いで、最後の階段を駆けあがった。

「走れ! ユーリ!」

「うんっ!」

 地下の暗さに慣れた瞳で、眩しい朝日を見据える。

 仮眠を取ったおかげか、やけに身体が軽かった。疲労感もなく足がどんどん前に出る。ところが靴におかしな角度がついており、裾を踏んで転びそうにもなった。

「お、うわっ?」

 ヒラヒラしたものが足元にあって、走りにくい。

 うなじをかきあげると長い髪まであった。

「ねえ、マドカ! もしかして僕たち、これって……」

「そうかもしれん! 急ごう!」

 相方のほうも自分の身体を確認し、走りながら困惑する。

マドカたちは焦燥感に駆られ、勢いよく出口を飛び出した。山間から昇りつつある夏の太陽が、ふたりの脳天から爪先までを一遍に照らす。

「ああああああああ~ッ!」

 お互い『相手』の顔を隣に見つけ、目を大きく見開いた。マドカはマドカの姿、ユーリはユーリの姿で、細長い影を伸ばしている。

「戻ってる! マドカ、僕たち、元に戻ってるよ!」

「うむ! なぜかはわからんが……」

 ひと月ぶりとなる本来の姿を、ふたりは肩越しに背中まで確認した。

 ユグドラシル・ガンマは至宝の紛い物に過ぎない。はた迷惑な奇跡の力も、そう長くは続かなかったのだろう。もしくは、新たにセルゲイの欲望を叶えたことで、マドカたちは解放されたのかもしれない。

「はははっ! なんだなんだ、ちゃんと戻れたじゃないか!」

 マドカは空振りのパンチを放ち、騎士の身体ならではのフットワークを吟味した。

 逆にユーリのほうは、ぎくしゃくと手足を曲げている。

「僕の身体、なんかギシギシいってるんだけど……何したのさ?」

「単なる筋肉痛だ。大分軽くなってるぞ」

「か、軽く? これで?」

マドカは万歳のポーズで朝日を仰いだ。

(最高の朝だっ!)

 夏の日差しを、自分の身体で浴びるのが心地よい。帝都の外壁より外にいるため、建造物に邪魔されることなく、朝日を眺めることができる。

 しかし喜ぶあまり、地下道の出口を閉じることを忘れていた。無数のコウモリが出口から溢れ、みるみる悪魔の輪郭を作りあげていく。

『逃ゲラレルト思ウナ、ユーリ皇子! ワシノモノニナレ!』

 魔人セルゲイが雄々しい咆哮をあげた。

「しまった! マドカ、あいつも外に出ちゃってる!」

 ユーリはたじろぎ、何か手はないものかと広野を見渡す。その一方でマドカ=ブライアントは眉ひとつ動かさなかった。

「ここで仕留めよう。ユーリ、剣を貸してくれ」

「できるの? ……はい」

 不安そうな面持ちの皇子から剣を借り、その刃を抜き放つ。

『邪魔立テスルツモリカ、マドカ=ブライアント!』

「帝国に仇名す悪鬼め。手加減はせんぞ!」

 マドカの全身が膨大な闘気を漲らせた。ロングヘアを波打たせながら、黄金色のエネルギーを剣に集束させていく。

『貴様ヲ消セバ、帝国ハワシノモノダ!』

 悪魔の巨体が迫ってこようと、目を瞑って精神統一。

「……天よりの願い、我が腕にして、いかずちとならん……」

 今一度目を見開くとともに、マドカはセルゲイの頭上まで跳躍した。両手持ちで大きく振りかぶり、ありったけの闘気を剣に練り込む。

「インペリアル・グランドクロスッ!」

 急降下とともに、マドカの一撃がセルゲイを脳天から真っ二つにした。切断面で火花が散り、一時的に再生を妨げる。

「消し飛べっ!」

マドカが後ろに飛び退くや、火花は一斉にスパークした。

 どっか~~~~~~~ん!

 大きな光の柱が朝日を遮り、邪悪な悪魔を空の高くへと打ちあげる。

 粉塵が晴れると、地面には直径十メートルはある巨大な十字が刻まれていた。マドカは剣を鞘に戻し、その渓谷のような亀裂を覗き込む。

「……思ったより威力が出たな。派手にやりすぎたか」

聖剣技において、マドカ=ブライアントに並ぶ使い手はそうそういなかった。しかも皇子の身体で皇帝クラスの闘気に慣れたせいか、新しいコツを掴んだらしい。

「な、何がどーなったの……?」

 その壮絶な威力を目の当たりにして、ユーリは腰を抜かしていた。女性騎士の規格外っぷりに驚き、目を丸くする。

 マドカはユーリに手を差し伸べつつ、照れ顔を背けた。

「なんだ、その……こんな女で悪い。立てるか?」

「大丈夫だよ。ありがと、マドカ」

 ユーリが本来の身体で立ちあがると、目線の高さに差ができる。155センチと小柄なユーリに対し、マドカは十センチほど背が高い。

 力も、剣技も、マドカのほうが上だ。

 そんなマドカでも、彼に決して勝てないものがあった。

「……帰ろっか。みんなのことも心配だしさ」

「う、うむ。異論はない……」

 ユーリがすっかり慣れた手つきで、マドカの髪に手櫛を入れる。

頑固なマドカには、彼のように素直に好意を曝け出せる勇気がなくて。気の利いたアプローチなどできるはずがなかった。

それでも彼の温かさに無償で甘えることを、許されている。マドカだけの特権だ。

「帰ったら、トーナメントの続きかな?」

「……そ、そうか! わたしが戦わねばならんのか」

 マドカは赤面しつつ、勢いで毅然と言い放つ。

「勝つとも。わたしがお前の花嫁に相応しいこと、証明してやる」

 不思議と負ける気もしなかった。相手が強敵のソアラであれ、自分とユーリを信じて前進するのみ。そして、その戦いは帝国のためでも、家のためでもない。

「僕たちのために、ね」

「あ、ああ! やってやるさ」

 マドカはガッツポーズを決め、勝気な笑みを浮かべた。

 ふたりで手を繋いでいるだけでも、満たされる。彼が隣にいてくれること、自分が彼の隣にいられることが、純粋に嬉しい。

 しかしマドカは最初の一歩を踏み外してしまった。咄嗟にユーリの肩に掴まる。

「おおっと! この靴、やっぱり歩きにくいぞ?」

 ハイヒールほどではないにせよ、ミュールも踵の角度が急すぎて。

「決勝のお題、ダンスだよ? そんな調子で踊れるの、マドカ」

「なんだと? な、なら特訓だ!」

 朝日のもと、ユーリに支えてもらいながら、マドカは拙いステップを踏んだ。

 

 

 七色庭園のユグドラシル・ガンマは夏の日差しを悠々と満喫していた。その枝の上で、オレアノが擦り傷に絆創膏を貼りつける。

「まさかボクまで駆り出されるなんて……キミのせいだよ? ガンマ君」

 彼が天界より派遣された『天使』であることを、知る者はいない。マドカ=ブライアントも冗談にしか思わなかっただろう。

 じきにユグドラシル・ガンマの力が尽き果てることはわかっていた。

そこでオレアノは、親しい友人であるマドカとユーリのため、ユグドラシル・ガンマの最後の力を使ったのだ。友人を特別扱いするという、何とも人間らしい行為には、オレアノ自身も驚いている。

「セルゲイ殿の暴走は想定外だったよ。そのへんはキミが上手くやってくれないと」

アクシデントはあったものの、マドカとユーリの関係には弾みがついたはず。

オレアノもほとんど力を残しておらず、普通の人間と変わらない。そろそろ可愛い恋人でも見つけ、公爵家次男としての余生を楽しむつもりだった。

 腕枕で寝転んでいると、小鳥の囀りがよく聞こえる。

「そういえば……身体が入れ替わる条件、ふたりは気付いてるのかな? ……ふっ、まあいいか。面白いコトは大歓迎だし」

 気さくな天使は誰に聞かせるでもなく、囁いた。

「ボクは意地悪だからねえ」

 

 

前へ     次へ

※ 当サイトの文章はすべて転載禁止です。