皇子様はわたしの嫁だぞ

第二話

 

 「ちょっと待ってくれ」

 そんな独り言を、朝からもう三回も呟く。

 昨夜までは何の変哲もなかった。それが今朝起きてみたら、ユーリの部屋にいて、しかもユーリの姿になっていたのだ。マドカは混乱している。

「……ほんとにちょっとだけ待ってくれないか?」

 ひとまず皇子なりに無難と思える服に着替えて、剣だけ持ってから、マドカはよろよろと部屋をあとにした。廊下の端に寄りかかり、覚醒したばかりの頭をフル回転させる。

(何がどうして、こうなったんだ?)

 原因として思い当たるものは特になかった。

ただ、マドカ=ブライアントの身体のほうにも異変が起こっている可能性が高い。それを確かめるべく、ユーリ皇子(マドカ)は女子の部屋へと急いだ。

 しかし途中で厄介な男と鉢合わせしてしまった。オレアノ=ハインベルグだ。

「おはようございます、皇子。低血圧の皇子が、今朝はお早いのですね」

「え、えぇと……」

ここで中身がマドカとばれたら、面倒なことになるに違いない。彼の性格からして、興味本位で面白がって関わりたがるのは、目に見えている。

(ユーリのふりで通すしかないな。よし)

マドカは片手を腰に当て、気高い調子で振舞った。

「たっ、たまたま目が覚めたんだ。朝食の前に散歩でも、と思ってな」

「ご一緒させてください。皇子となら、いい詩が浮かびそうです」

「いや、ひとりでいい。貴公もあれだ、城にいる時くらいは家族サービスでも……」

 オレアノが首を傾げ、邪魔そうな前髪をのける。

「……キコウ?」

 オレアノを『貴公』と呼ぶのは、マドカくらいしかいない。

「はっ話を聞こう! なんてな、ははは!」

 マドカは苦笑いで誤魔化しつつ、カニ歩きでオレアノの視界から離脱した。

 知り合いと遭遇してはまずい。なるべく柱の陰に隠れながら、マドカ=ブライアント侯爵令嬢の私室を目指す。メイド長に見つからないように帰った経験が、こうして活かされる時が来るとは思わなかった。

 城は九階建てであり、皇子の部屋は八階だ。マドカの部屋に行くには、四階から渡り廊下で別棟に移動し、さらに五階へと上がる必要がある。

 そこは淑女たちの寝室がずらりと並ぶ、男子禁制の花園。目的の部屋を直前にして、マドカは自分の行動の危うさに気がついた。

(待てよ? わたしは今ユーリなんだ。ユーリが女性の部屋に入るところを、誰かに見られて、噂にでもなったら……)

 皇子が朝っぱらから女性の寝室を訪ねては、体裁が悪い。自分の身体が出てきたところを捕まえるべく、少し離れてタイミングを待つ。

 幸い騎士団の早朝稽古があるため、マドカの身体は朝が早かった。間もなく中から扉が開いて、アリエッタに連れられる形で『自分』も現れる。

「こ、これでいいのかな?」

「問題ありません。騎士団のほうには、わたくしから欠席の旨を……」

 ただしその身体に近づくには、あの強欲なメイドを懐柔する必要があった。

(この手だけは使いたくなかったが……くっ)

マドカはふたりの行く手を遮り、先にアリエッタに命令をくだす。

「……アリエッタ! 給金を二倍にしてやるから、今すぐわたしに協力しろっ!」

 アリエッタは衝撃に打たれたように目を見開いた。

「なんと! なんという喜びでしょう!」

 軽やかに小踊りを始め、即席にしては華麗なターンでぐるぐると舞う。

「今月のおひつじ座の金運は大当たりだと、占いで読んだ通りです! おかね……とても素晴らしい響きですわ。にひひっ!」

 そしてマドカの前ですとんと跪き、お金のためなら嬉々として平伏してくれた。

「このアリエッタ、全身全霊をもってお仕え致します。何なりとお申しつけください、ユーリ様。いえ、お嬢様とお呼びしたほうがよろしいですか?」

「……気付いていたのか」

 メイドのノリについていけないほうの『マドカ』はおろおろしている。

「あのぉ、アリエッタさん?」

「こちらから行く手間が省けましたね。お部屋に戻りましょう、お嬢様もお早く」

 すでにアリエッタはこの事態を知り、マドカの身体にいる人物をサポートしているようだった。三人ともマドカの部屋に飛び込んで、扉を閉ざす。

もじもじと指を編む可憐な仕草といい、目の前のマドカが『自分』とは思えない。

「……ユーリだな?」

「じゃあ、そっちはマドカなんだね」

 マドカとユーリは互いに自分の顔を見詰め、溜息を重ねた。

 よく出来たメイドが今朝の状況をまくし立てる。

「お嬢様が異常におしとやかでいらっしゃったので、とうとうキてしまわれたのでは、と伺ってみましたら、ご自身はユリシーズ=ゼノンファルス様であると仰いまして」

 マドカは短くなった髪をかき混ぜながら、頭の中を整理した。

「つまり……わたしとユーリの中身が入れ替わった、と?」

 ユーリたちも静かに頷く。

「こいつはまさか、皇子を狙った呪い……か?」

「それはないと思うよ。皇帝の一族は変な呪いに掛けられないよう、耐性をつけておくものなんだ。マドカも知ってるでしょ」

「そうだったな。なら一体、どうしてこんなコトに……」

 アリエッタはメモ帳を開き、普段の仕事よりも素早くペンを走らせた。

「原因についてはわたくしにも測りかねます。それより、おふたりの今後の生活が課題となりますでしょう。元に戻れるか、も含めまして」

 とにもかくにも状況が悪すぎる。

マドカ=ブライアントがユリシーズ=ゼノンファルスで。

ユリシーズ=ゼノンファルスがマドカ=ブライアント。

「……参ったな。わたしもユーリも、帝国では立場のある身だぞ」

 次期皇帝となる皇太子と、帝国騎士団の一隊長が、身体を入れ替えているのだ。ユーリのほうはまだしも、マドカは皇子の役に徹しなければ、政変にも発展しかねない。

(これではブライアント家の帝位乗っ取りじゃないか……マズすぎる!)

 帝国の未来を掌握してしまっている事実に、ぞっとする。

 同じく深刻に受け止めているに違いないユーリが、声のトーンを落とした。

「元に戻るまで、バレないように誤魔化すしかないよね。一日や二日なら、何とかできると思うけど……僕たち、幼馴染みだし」

「とにかくユーリはわたしのフリに徹してくれ。わたしはユーリのフリをする」

どこに耳があるとも知れない。マドカも声を潜め、目配せする。

 しかしアリエッタはかぶりを振った。

「神経質になりすぎるのも考えものですよ。堂々としていたほうが、かえってバレにくいのでは? 入れ替わってるなど、普通は誰も考えません」

 彼女の意見も一理ある。給金が二倍となれば、真剣に考えたうえでの発言だろう。

「お前は気付いたじゃないか」

「わたくしは四六時中、お嬢様と一緒にいるわけですし。ですからユーリ様のサポートは充分にできると思います。むしろ、問題はお嬢様のほうかと……」

 納得しつつ、マドカは改めて目の前の自分(ユーリ)をしげしげと眺める。

 今朝の侯爵令嬢は騎士服にもかかわらず、指先まで流れるように繊細な仕草で、見るからに品格があった。ユーリの奥ゆかしさがマドカの容姿を引きたてる。

(おかしいな。わたしはこんなじゃないぞ?)

 ストレートの髪もささやかに波打って、たおやかな雰囲気を演出していた。それなりに筋肉質のはずなのに、深窓の令嬢に見えるのが不思議だ。

 アリエッタが雇い主を呼ぶ。

「マドカ様」

「なんだ? アリエッタ」

「……やはりお間違えになりましたね。お嬢様のことではありません」

 マドカとユーリは自分の顔と目を合わせ、同時に手槌を打った。

「そうか! わたしはこっちのユーリを『まどか』と呼ばないといけないのか」

「返事をする時も気をつけないとね」

 つまりマドカの場合は、相方を『まどか』と呼びつつ、自分は『ユーリ』と呼ばれたら返事をしなければならない。頭ではわかっていても、実践においては混乱しそうだ。

 マドカは目を閉じ、ぶつぶつと頭に刷り込む。

「わたし……でもないのか、ぼくはユーリだ。ぼく、ぼく、ぼく……」

 ユーリも眉間を指で押さえながら、似たような呪文を唱える。

「僕じゃなくって、私、私、私……」

 思い込みという名の暗示を終え、マドカはゆっくりと目を開いた。こちらのほうがやや背が低いため、目の前のマドカを見上げる角度になる。

「お前はまどか、だな。まどか、まどか、まどか」

「君はゆーりだ。ゆーり、ゆーり、ゆーり」

 自分の名前を日常的に使うのは、むしろ他人なのだと、初めて知った。

「わたくしの名前は何ですか?」

「まど……アリエッタ」

「ゆ……アリエッタさん」

 余計な茶々に振りまわされそうになったが、あとは慣れるほかない。

 マドカこと『ユーリ皇子』は姿勢を正し、意識的に胸を張った。

「とりあえずわた……ぼくは戻るとしよう。皇子ってのは朝、何をするものなんだ?」

「ぼ、私は父上たちと朝食だよ。それから部屋で勉強とか……」

「わかった。そっちのことはアリエッタに聞いてくれ」

 いつまでもマドカ嬢の私室に隠れているわけにもいかない。廊下の人通りが多くならないうちに部屋を出て、スタート地点だった八階にある、皇子の書斎を目指す。

(どうなってしまうんだ? わたしたちは)

 果たしてどこまで皇子のふりをしていられるのか。

アリエッタのサポートがあるとはいえ、ユーリのほうは大丈夫なのか。

 不安は尽きないが、最初の問題は意外なところからやってきた。

「はあ、はあ……」

階段をあがっているだけで、息が乱れる。

 おそらく原因はユーリの身体だった。体力が乏しいため、マドカのペースでは一気に疲労してしまうらしい。今朝の寝起きで苦悶したのも、低血圧のせいだろう。

 二の腕を触ってみても、力こぶがない。

(次代の皇帝にしては、少々貧相すぎないか?)

 あまりユーリを悪くは思いたくないものの、さすがに帝国の将来が不安になった。階段の踊り場でマドカは両手を膝につき、休憩を挟む。

「ユーリ様! 陛下がお待ちですよ」

「あ、ああ。すぐに行く」

 やっとのことで八階まで上がると、使用人らに皇帝一家の食堂へと案内された。

 長方形のテーブルでは勿論、上座にゼノン12世が着いている。

「朝からどこに行ってたんだ? 早く座れ」

「はい、陛下……いえっ、父上。おはようございます……」

 強面の皇帝から直々に着席を促されては、豪胆なマドカでも緊張した。

 同じテーブルの左側には、ユーリの母と妹が並んで座っている。マドカは空いている右の席に腰を降ろし、マドカの姿ではほとんど親交のない彼女らと向かい合った。

「……あら? ユーリ、今朝はどうしたのです?」

「え? な、何でしょう?」

「いつもならボーッとしているではありませんの。あなた、低血圧ですから」

 今朝のユーリ皇子は完全に目が覚めている。しかも腰に剣を差し、帝国男児らしい騎士然としたスタイルで朝を迎えていた。

(しまったか……?)

 誤魔化そうにも、上手い言い訳が思いつかない。下手に口を開こうものなら、肉親である皇帝や皇后に挙げ足を取られてしまうだろう。

 とはえい父親は追求してこなかった。

「ほう……。剣を持ち歩くとは、お前もようやく自覚が出てきたようだな」

「あなたが本を持ち込むなと、うるさく言うからですよ」

 両親は息子の変化に、どうやら気付いていない。

 それでもマドカとしては気が気でなく、つい視線を泳がせてしまった。

そんなユーリ皇子を見詰めて、妹のモニカ姫がにこやかに微笑む。

「朝は挨拶をするものよ、お兄様。ごきげんよろしくて?」

 もうすぐ十歳になる少女らしい、あどけない顔つきだ。お姫様であることに少し天狗になっているところが、むしろ可愛い。

「そ、そうだな。おはよう、姫……モニカ。母上もおはようございます」

「ええ、おはよう」

 挨拶を交わしつつ、マドカは平静を装った。

(……うむ。なんとかなりそうだな)

 アリエッタのアドバイス通り、構えすぎるのはよくなさそうだ。

 間もなく朝食のメニューが出揃った。焼きたてのトーストにハムエッグ、それから野菜サラダに牛乳と、栄養重視の献立が並ぶ。

皇帝一家であっても贅沢三昧というわけではないらしい。

(ユーリもあんまり豪勢な感じじゃないな。……いや、朝食はこんなものか?)

緊張しているせいで空腹感はないものの、マドカは手慰みにトーストを齧った。ブライアント侯爵家の朝は基本的に白飯であるため、どうにも馴染めない。

皇后とモニカ姫は黙々と食事を進めていた。

皇帝ゼノン12世は息子のユーリをちらっと睨みつつ、厳めしい髭に牛乳をつける。

「……ユーリ、ジャムを塗らんのか」

目の前にママレードが置いてある理由に、マドカは今になって勘付いた。

ユーリにはトーストにジャム類を使う習慣があるのだろう。そのはずが、指摘されてからママレードを塗っては、不思議に思われるかもしれない。さっさと食事を切りあげたい気持ちもあって、マドカはトーストにハムエッグを乗せる。

「け、今朝はこうやって食べようかと……」

「まあ、お行儀の悪い」

 今度は皇后のほうが眉を顰めた。

しかし妹のモニカ姫は面白がって、真似をする。

「私も試してみたかったの! ……あれっ、やだ、黄身が……」

 皇帝は子どもたちのマナー違反を諫めることなく、あっけらかんと笑った。

「はははっ、好きに食え。いい食べっぷりじゃないか」

 本人は笑っているつもりらしいが、眉間に皴が寄って厳めしい。

「お前はわしの跡を継いで、皇帝になる男だ。帝国男児の模範にならんことにはな」

「ち、父上の仰る通りです」

 怒っているのは、むしろ皇后のほうだ。

「まったく……何でもかんでも『男だ、男児だ』で済まさないでください。ユーリったら誕生日にマドカ嬢から貰ったプレゼントを、一度も使ってないんですのよ」

「なんだと? そんなこと、初めて聞いたぞ」

 図星を突かれ、だんだん立場が悪くなる。

(わたしがマドカなんだが……)

 ところが両親の小言を遮って、声をあげたのはモニカだった。

「いいじゃないの、メスゴリラのプレゼントだなんて。どうせお兄様の都合もお構いなしの、脳筋プレゼントに決まってるわ」

「……メスゴリラ?」

 マドカは目を点にして、強そうな動物の名を復唱する。

「だから、マドカ=ブライアントのことよ。あんなの、ただのゴリラじゃない」

 マドカの乙女心にヒビが入った。

(なんだって! ユーリの妹に、そんなふうに思われてたのかっ?)

 ヒビが入って初めて、自分にもそれなりの乙女心があったことを実感する。いくら何でも『ゴリラ』呼ばわりは心外だ。

 マドカはユーリの姿で立ちあがり、熱弁を振るった。

「わたしは……いやっ、まどかはゴリラってほどではないぞ! ああ見えてハイヒールにも慣れたし、ドレスもたくさん持っていて、えぇと、それから」

 対するモニカは軽蔑の表情ではにかむ。

「ドレスぅ? あんなオッパイオバケが、まともなドレス着れるわけないでしょ」

「オッパイオバケだとおっ?」

コンプレックスの巨乳をからかわれ、頭が沸騰しそうになった。

「そこまでになさい!」

皇后がぴしゃりと言い放つ。

(しまった! ついカッとなって……)

マドカは冷や汗をかきながら、おずおずと席に座りなおした。幸い皇后は息子より娘の不徳を諫め、モニカが不愉快そうに口を尖らせる。

「陰口など言うものではありません。気に入らないなら、直接言ってきなさい」

「……はぁーい」

 皇帝は牛乳を飲み干し、顎鬚をなぞった。

「わしはあの娘が気に入っとるぞ。聖剣技の筋もいい。のう? ユーリよ」

「は、はい! ありがとうございます!」

 マドカの中で、ゼノン12世の評価が急上昇する。

「まあ……剣以外はからっきしのようだし、お前の嫁にはできんがな」

 そして以前よりも下がった。

「お兄様とケッコンするのは私よ? 父上。むうー」

「兄妹は結婚できんと教えただろう」

 マドカはハムエッグとトーストをまとめて齧りつつ、皇帝一家の朝を観察する。

(ユーリのやつ、毎朝こういうふうに言われてるのかもな)

 筋骨隆々として厳格な父親に、毎朝のように説教されていては、追い詰められるのも当然だった。しかもユーリの父は帝国最強の男なのだから。

『僕が強くないからいけないんだ』

 期待、抑圧、プレッシャー。それらが内向的なユーリを追い込んで、罪の意識さえ抱かせているのかもしれない。

 またゼノン12世は父親としても、息子が思うように育たないことに不満を抱き、苛立っているようだった。本来は他人であるマドカだからこそ、冷静にそれを分析できる。

(騎士の家系だと、学者になった息子を勘当することだってあるしな。皇帝陛下のお考えもわからなくはないんだが……)

 押し黙る息子に対し、父親は声を荒らげた。

「よいか? 飯を食ったら、今日こそ稽古に行け。身体は今のうちから作っておかねばならんのだ。知識を蓄えるのは、それからでもよい」

 長居していては、正体がばれないとも限らない。マドカはユーリに申し訳ないと思いつつ、ここは皇帝に調子を合わせることにした。席を立ち、騎士の流儀で敬礼を取る。

「勿論です。父上、体力面の不安さえ解消したら、すぐにでもモンスターの一匹や二匹、狩ってご覧に入れましょう」

すると皇帝は露骨に機嫌をよくした。

「ほほう! 大きく出たではないか。だが口だけでは何とでも言えよう」

 マドカの脳裏に名案が閃く。

(これは考えようによっては好都合だぞ? ユーリが次期皇帝に相応しいことを、みんなに示してやれる絶好のチャンスじゃないか。うむ、ユーリは消極的なだけなんだし、少しくらいわたしが代打でやってしまっても……)

 ユーリの即位について、賛成派は『屈強な皇子』を求め、一方で反対派は『軟弱な皇子』を引きずりおろそうとしていた。

ならばマドカが皇子の姿でいるうちに、得意の剣技で実績を上げるだけ上げ、連中を納得させてやればよい。モンスター退治くらい、隊長ならお手の物。

「お任せください。これが単なる出任せとなったら、帝位などいりません。次期皇帝に相応しい戦いで、みなの度肝を抜いてやります!」

「よく言った! お前を軽んじておる連中に、一泡噴かせてやれいっ!」

 皇帝は大喜びで笑い、息子の決意表明を拍手で称えた。

 母親と妹は首を傾げている。

「変なものでも食べたのかしら、ねえ?」

「お兄様が脳筋になっちゃう……」

 マドカは早々に朝食を済ませ、一旦、皇子の部屋へと戻った。

 

 先日マドカの部屋では、探せばドレスが何着も出てきたのだ。同じようにユーリの部屋にもと思って、使えそうな武具を探す。

 書斎の隅には剣や盾が積んであった。マドカが贈ったグローブもある。

「この盾はミスリル製か? いいな、これ……」

 どれも一級品が揃っており、皇子の武具に相応しい。

 しかし彼がこれらを装備し、稽古に来ない理由もわかった。一級品の武具を扱うには、それ相応のスキルが要求される。ミスリル製の盾も、この腕には重い。

ユーリ皇子は剣も満足に使えない、などと露呈しては、貴族連中に笑われ、騎士たちもがっかりする。それこそ、ひた隠しにしているほうがましかもしれなかった。

幼馴染みのグローブだけ使って練習、とはいかないわけだ。

(こっそり特訓に誘ってやるほうが、よかったか)

 我ながら浅はかだったと、マドカは痛感した。今でもユーリに鍛錬して欲しい気持ちはあるものの、彼に納得してもらわなければ、意味がない。

 マドカも『稽古に来い!』と口やかましく言っていたせいで、相談できる相手はオレアノくらいだったのだろう。

「……あれで、あいつの親友のつもりでいたとは、な……」

以前の自分なら『これだけ武具があるなら参加できるじゃないか!』と、勝手に腹を立てていたところだ。

 マドカは必要最低限の装備だけ選出し、手っ取り早く支度を済ませる。とりあえず練習用に剣が一本と、グローブがあれば事足りた。

「もう完全に遅刻だぞ、急がないと」

 それから階段を走って降り、準備運動がてらウォーミングアップに入る。

 野外の訓練場に辿り着く頃には、身体も充分に温まっていた。

「皇子、いかがなさいました?」

 先日の爆発チョコで倒れた、副隊長のギュール=スタンが訓練に復帰している。

「ギュール! カラダはもういいのか」

「……えっ?」

 彼の名を口走ってから、『ユーリ皇子』は慌てて口を塞いだ。

 確かユーリとギュールに面識はなかったはず。ユーリがギュールの顔を一目見て、名前を言い当てられるわけがない。

(早速やってしまったか?)

 ところがギュールは敬礼で応え、感激した。

「自分などの名前を憶えていてくださったのですね、光栄です!」

 主君に名を憶えてもらうことは、騎士として名誉のひとつ。マドカは内心ほっとして、ほかの騎士らの面構えも一瞥する。

「ま、まあな。騎士団の顔くらい当然知ってるさ。そっちはマルコだろ?」

「はいっ! ありがとうございます!」

 苦し紛れの言い訳だったが、疑う騎士はひとりもいなかった。

 ユーリ皇子の登場に彼らは浮き立ち、訓練を中断する。

「皇子! おはようございます!」

「ここでお会いできるとは、この上ない喜びですよ!」

この第三部隊は若い騎士で構成されており、普段から皇帝や皇子とのコミュニケーションに飢えていた。本来ならユーリが頻繁に訪れ、声を掛けるべきなのだ。そうすることで彼らの忠誠心が触発され、団結力も培われていく。

「ところで皇子、今日はどういったご用件で?」

「うむ。実はわた……コホン。ぼくに少し考えがあってな」

 マドカは役作りに混乱しつつ、ユーリ皇子の声で高らかに宣言した。

「みなの者、聞いてくれ! ぼくは次期皇帝の資質を証明するため、モンスターを討伐してやることにした! そこで今日より、ぼくも稽古に参加させてもらいたい!」

 騎士たちが次々と剣を掲げ、皇子の意気込みに共鳴する。

「やりましょう! 討伐には是非とも、自分をお連れください!」

「皇子なら必ずやり遂げることができます!」

 訓練どころか、これから戦場にも向かえるほどボルテージが高まった。誰もがユーリ皇子と一緒に戦えることを待ち望んでいる。

ここまで熱烈に歓迎されることを、本物のユーリにも教えてやりたくなった。

(ユーリと騎士団のきっかけにできるかもしれんな)

 決してユリシーズ=ゼノンファルスにカリスマ性がないわけではない。彼の顔と彼の声で発破を掛ければ、若き騎士らは歴戦の戦士のごとく戦意を高揚させるのだ。

 マドカはユーリの身体で剣を握り締め、構えを取った。

「父上はぼくくらいの歳で、ひとりで大型モンスターを狩ったというじゃないか。戦神の息子として生まれたからには、負けられん」

 マドカ=ブライアント隊長とまったく同じフォームに、隙はない。金属製の重たい剣が切っ先をぴたりと止め、安定する。

「そうだな……ギュール、打ち込みに付き合ってくれないか」

「了解です。いつでもどうぞ!」

「いくぞ、はああああッ!」

 その裂帛の気迫は、皆が見惚れるほどだった。

 

 さすがにユーリの身体では疲労が早い。稽古の後半は騎士らの剣技を見てまわり、アドバイスなどをしてまわることに。

「剣だけで戦おうとするんじゃない。鍔迫り合いで、こう……引いてだな? 相手の体勢を崩したところに、膝を打ち込んでやるんだ」

 きりのよいところで抜け、訓練場の隅で手足をクールダウンさせておく。

(ふう……とにもかくにも体力作りだな)

 とりあえずユーリの身体でも動けないほどではなかった。無駄な動きさえしなければ、疲労も少なくて済む。

 ゼノン帝国領は野生の魔物が出現しやすく、旅人や行商人が度々被害に遭っていた。近いうちにインペリアルガードに討伐の要請が届くだろう。

 それまでに一週間もあれば、充分形になる。

(明日には元に戻ってるかも……先走ってしまったかもしれんな)

 一週間後もユーリのままでいるとして。

ギュールが水筒を差し出してきた。

「お疲れ様です、ユーリ皇子。どうぞ」

「ああ。助かる」

マドカは快くそれを受け取り、くいっと飲み干す。

「感服しましたよ、皇子の剣技の冴えには。マドカ隊長から手ほどきを?」

「ぶっ? そ、それはだな……」

 内心ぎくりとしたが、純朴なギュールは気付いていない。

「隊長によく似た型でしたから。今朝は、隊長のほうは調子が悪いそうで欠席しておられますが……ユーリ皇子が稽古にいらしたと聞いたら、びっくりされることでしょう」

 毎日マドカと顔を会わせている副隊長の彼でも、中身が入れ替わっていることはわからないらしい。アリエッタの『堂々としているほうがよい』というのも頷ける。

「……と、すまない。また午後になったら合流する」

 それでも会話でボロを出さないうちに、マドカは一旦引くことにした。ユーリのほうがどうなっているのかも気になる。

「ご公務ですね」

「ま、まあな。あとは任せるぞ、ギュール」

嘘などついたことのない性分のため、上手な言いまわしが思い浮かばなかった。本物のユーリと今後を相談し、あらかじめ口裏を合わせておく必要があるだろう。

(オレアノならこういうことは得意そうなんだがな。まさか、あのボンクラ貴族の舌先三寸が羨ましくなるとは……日頃の価値観が逆転しそうだ)

 マドカは訓練場をあとにして、ユーリがいるはずの別館を目指した。

「皇~子っ! 今日は奇遇ですねえ」

 ところが公私に渡って嘘や出任せの達者な男が、ユーリ皇子を呼び止める。オレアノは酒でも入っているかのように紅潮し、にやにやと妖しい笑みを浮かべていた。

 どうにも気味が悪い。

「何か用か、きこ……オレアノ?」

「皇子が騎士団で稽古なさっていると伺ったものでして、拝見しようかと」

 オレアノが興味津々といった様子で、探りを入れてくる。外交官という立場を抜きしても、この男は、話し相手の顔色を読むのが上手い。

 しかしマドカとて、早朝よりは冷静でいられた。騎士団を騙し抜いたことで、気持ちに余裕も出来ている。

(落ち着け。わたしは今、ユーリなんだ)

 すたすたと歩きながら、マドカは無駄なことは喋るまいと切りあげた。

「悪いが、ぼくは部屋でひと休みしたい。おしゃべりは今度にしてくれないか」

「それは失礼。ですが、皇子の意見を伺いたい案件がございまして」

「なら早くしてくれ。お前も暇ではないんだろ……うっ?」

 そんな矢先、汗とは別の水分が熱くなり始める。

 それは日常的な生理現象であって、別段意識したことのないもの。マドカは真っ青になり、恐る恐るユーリの下半身を見下ろす。

(まさかっ? 間違いないぞ、この感覚は!)

 何しろ今朝は一回も用を、もとい淑女の用語でいう『お花摘み』をしていなかった。今すぐトイレに駆け込みたい。

 だが目の前には、この城でもっとも勘の鋭い男がいる。

「西方諸国への武器の輸出についてですよ。野性のモンスターから身を守るためには必要ですから、全面禁止ともいきませんし。はてさて、どうしたものかと……」

「そ、そうだな……大事にならないうちに、て、手を打つ必要がある」

 大事にならないうちに手を打ちたいのは、むしろマドカの本音だった。いつもならツーカーで話せるような内容でも、焦燥感に駆られ、とてもそれどころではない。

 内股の姿勢でもぞもぞする皇子の顔を、オレアノが覗き込む。

「どうなさいました? 皇子。青くなったり赤くなったり」

「こっ、これはその……とと、と……に、だな?」

 熱量はどんどん膨らんできた。

太腿を擦り合わせて紛らわせようにも、男性の身体では、そもそも我慢の仕方がわからない。堪えることで赤面しては、力が抜けそうになるたび青ざめる。

(よりによって、こいつがいる時に!)

 オレアノは意味深な視線をユーリ皇子に引っ掛け、しげしげと観察していた。

「トイレでしたら、すぐそちらにありますよ」

「わ、わかってる! すまない、あとにしてくれ」

「そっちは女子トイレですよー?」

 化粧室は近くにあったが、危うく女子トイレに入りそうに。

オレアノの目がますます訝しむ色合いになっていく。

(皇子を疑うとは、なんて不敬な! これだからオレアノというやつは!)

 ユーリ皇子は両足で小さく跳ねながら、男子トイレとやらに入った。

しかし使い方がさっぱりわからない。スリッパみたいな形状のものが、どういうわけか壁面で一列に立て掛けられている。

「……は? どこに座れと……なんだ、こっちに女子と同じのがあるじゃないか」

 幸い女子用と共通のものもあり、助かった。

 マドカは急いで一番奥の個室に飛び込み、一服する。

 

「ぴぎゃああああああああっ!」

 悲鳴をあげてしまったが、お花摘みは済んだ。

 無理に我慢して、皇子の身体に負担を掛けるわけにいかない。これは生き物として自然の摂理。など、頭の中で正当化しまくることで、羞恥心を少しでも冷ます。

(女として大切な何かを失ったんじゃないか? わたしは……)

 男子トイレからよろよろと出てくるユーリ皇子を、オレアノはまだ待っていた。しかし今のマドカには、彼に応戦するだけの気力がない。

「すまん、オレアノ……本当に頼むから明日にしてくれ。今日はダメなんだ」

「そうですか。では、マドカ嬢に聞いてみるとしましょう」

 自分の名前にはっとした。

(こ、これは……とんでもないコトに!)

 たった今マドカは、ユーリの身体でお花摘みを済ませてきたのであって。ならば勿論、ユーリもマドカの身体で自然の摂理を体験している可能性が高い。

「しまったぁあああ~~~~~! ゆゆゆっ、ユーリを止めなくては!」

「おっ、皇子?」

 マドカは顔面蒼白になって、転びそうになりつつ駆け出した。オレアノを振り切り、女子の部屋へと全速力で直行する。

「走っているのは誰です? ここは男子禁制ですよ!」

「それどころじゃないんだ、メイド長!」

 天敵であるメイド長も振り切って、マドカは自室の扉を豪快に開いた。慌てふためいて駆け込んだせいで、ドレスの山に躓いてしまう。

「ユー……じゃなかった、まどか!」

 一方で『まどか』のほうは落ち着き払っていた。乱入してきた皇子を見詰め、メイドとともに目を瞬かせる。

「そんなに血相変えて、どうしたの? マド……っと、ゆーり」

「朝っぱらから何回女性の部屋を出入りするんですか?」

「わたしの部屋だっ! そ、それはともかくとして……大切な話があるんだ」

マドカは自分の身体に詰め寄って、逃がすまいと肩を掴んだ。ストレートに質問できる内容ではないが、確認はしておかなければならない。

「トイレには行ったのか?」

「え? うん」

ふらっと眩暈が襲ってきた。

「ちょっとビックリしたけど。アリエッタさんにも教えてもらったから、大丈夫」

 がっくりとうなだれるマドカを前にして、ユーリは平然と言ってのける。

(大丈夫じゃないじゃないか、全然……)

 女として大切なものを、今朝だけでほとんど失ってしまった。しかも今日中に戻れないとしたら、問題はトイレだけではない。

「今朝の着替えはどうした? そっそうだ、風呂はどうする!」

 悲鳴のひとつでも上げそうな表情で、マドカはユーリにぐいぐいと掴み掛かる。

「落ち着いてよ、マドカ。なんでそんなに慌ててるのさ?」

 にもかかわらず、ユーリは不思議そうに首を傾げた。

 アリエッタも淡々としている。

「ご心配には及びませんよ。髪を洗う時はわたくしもお手伝いしますので」

 異性の身体に戸惑っているのはマドカだけ、らしい。さすがユーリは未来の皇帝として肝が据わっている。

しかし冷酷なアリエッタは、マドカにだけこっそりと耳打ちした。

「スケベ」

 マドカは膝で折れ、絶望の表情で床に両手をつく。

(なんてことだ……騎士ともあろう者が、ヒワイなことを!)

 トイレで見ただの、見られただので動揺し、けしからんコトまで考えてしまっていたのだ。騎士団の一隊長として培ってきた鋼鉄の自信が、がらがらと崩れていく。

「すまない、ユーリ! わたしは最低だ!」

 四つん這いの姿勢をさらに小さくして、マドカは悲痛に頭を抱えた。

 ユーリは少しも動じることなく、手慰みに指でロングヘアを巻いている。

「何があったのか知らないけど、とりあえず立ちなよ」

「う、うむ。わたしとしたことが……この状況で個人的な事情を優先してしまうとは情けない。大変な事態だというのに」

 今回ばかりはアリエッタに反論できなかった。トイレや入浴でどうこう言っていられる場合でもなく、マドカは改めて起きあがる。

 しかし深刻な事態であるにもかかわらず、ユーリとアリエッタは部屋中にドレスを広げていた。赤、青、緑など、より取り見取りのロイヤルドレスが一面に並んでいる。

「……何をやってるんだ? こんなに散らかして」

 ユーリはマドカの身体で、人差し指をもじもじと編んだ。

「せっかくマドカになったんだし……どこまでドレスアップできるか、ちょっと試してみようかなって。マドカ、いっぱい持ってるじゃないか」

 アリエッタが紫色の一着を拾いあげ、それを『まどか』の正面に重ねる。

「これなどいかがでしょう?」

「ほんとだ、いいなあ~。でもこれ、背中に生地がないよ?」

「これくらい普通です。試着してみましょう」

 ユーリたちのほうはコーディネイトで盛りあがっていたらしい。

(そんな悠長な……)

頭が痛くなってきた。とはいえマドカも今しがた、ユーリの身体で剣の稽古を堪能してきたため、強く言い出せない。

「……はあ。まぁ、深刻になりすぎるよりはいいか。わたしも、お前の部屋にあるものを勝手に使わせてもらっているんだし」

「あれ? そのグローブ……騎士団に行ってきたの?」

 ユーリは自分の身体が騎士然としていることに気付き、驚いた。

「問題なかったぞ。モンスターを一体狩ることには、なってしまったが」

「本当かなあ……」

 ひとまずマドカとユーリの中身が入れ替わっている件は、アリエッタ以外には露呈していない。マドカはユーリの身体で胸を撫でおろす。

 そんなマドカの正面を、アリエッタが静かに横切った。

「……誰かいます」

人差し指を唇に当て、足音も消す。

 マドカとユーリは目配せして、固唾を呑んだ。

(もしかして聞かれたのか?)

 アリエッタはひとの気配に敏感で、勘も鋭い。賞金稼ぎだったこともあって戦闘の心得もあり、一回の動作で、投げナイフを両手に三本ずつ構える。

 マドカもユーリの身体で剣を抜きつつ、アリエッタとともに扉の両脇を固めた。室内は緊張感で満たされ、最後尾のユーリも口を噤む。

(いいぞ、アリエッタ。開けてくれ)

 アリエッタの手が無音のままドアノブに伸び、不意打ちで扉を開け放つ。

「あいたあっ!」

 ドアの向こうで素っ頓狂な悲鳴が上がった。

 長ったらしい長髪の紳士が、額を押さえながら涙ぐむ。

「もっと静かに開けたまえよ、アリエッタ君っ!」

 オレアノだった。

「失礼しました。ですが、お嬢様は『女の部屋で聞き耳を立てるな』とお怒りです。あとこの辺はそもそも男子禁制でございますし」

「ボクの顔は帝国の顔なんだよ?」

 オレアノが正論を聞き流し、当然のようにレディーの私室に踏み入ってくる。

「……っと、またお会いしましたね、ユーリ皇子」

「ん? ……あ、ああ! オレアノ、いい加減しつこいぞ」

 呼ばれたことにすぐに気付かず、危うく無視しそうになった。マドカはユーリの表情で眉を顰めつつ、両刃の剣を鞘へと戻す。

(あまり喋らないほうがいいぞ、ユーリ。こいつに知られると厄介だ)

(そうだね)

 目配せすると、ユーリもマドカの顔で頷いた。

 そのアイコンタクトを遮るようにオレアノが、今朝はどことなく雰囲気の違うまどかに近づき、ロングヘアにそっと触れる。格式の高い、紳士然とした挨拶だ。

「ご機嫌いかがかな、マドカ。今日は剣を持ち歩かないのかい?」

「えぇと……うん。わたしもそろそろ頃合い、だし?」

 まどか(ユーリ)の視線の先では、アリエッタがカンニングペーパーを広げていた。

「結婚を考えるべき歳だなあって、今朝もおかあさ……マ、ママと話してたんだ」

「おや、まだ母御を『ママ』と呼んでるんだね」

「そ、そう呼ばないと、怒られるんだぞ? 貴公も知ってるだろう」

 切り返されるたびユーリがたじろいで、視線を泳がせる。しかしアリエッタのフォローもあったとはいえ、マドカ=ブライアントを妥当に演じてくれた。オレアノを『貴公』と呼ぶあたりもマドカならでは。

「そうか、キミも花嫁修業を始めるわけだ」

 本物のマドカは内心、よく出来た嘘に納得する。

(なるほど! さすがアリエッタだな)

 上流貴族の女性であれば、二十歳の手前には婚約が決まっているものであって、十八歳のマドカが花嫁修業を始めても不自然ではない。

 元に戻るまで『花嫁修業』で押し通し、騎士団の業務から離れることも可能だろう。

「とにかく私は忙しいんだ。悪いけどオレアノ、席を外してくれないか」

「ええ。ではボクはこれにて……」

 オレアノは胸元から一本の赤いバラを出し、香りを仰いだ。

「ところで、マドモアゼル?」

「なんだ?」

 うっかり返事をしてしまったのは『ユーリ皇子』のほう。マドカはユーリの顔をぎくりと強張らせ、あとになってから両手で口を塞ぐ。

(しまったあ~!)

 不意打ちにしてやられた。ユーリもマドカの顔で口を押さえ、蒼白になる。

『ご機嫌いかがかな、マドカ。今日は剣を持ち歩かないのかい?』

 オレアノという変人はマドカを『マドモアゼル』と呼ぶのだ。最初に『マドカ』と呼ばれた時、ユーリも安直に返事をしてはいけなかった。

(こいつがややこしい呼び方をするから!)

 本物のマドカも『マドモアゼル』に返事をしてしまって、墓穴を掘る羽目に。

「あーはっはっはっはっは! やっぱりそーいうコトでしたか! 何かあると思ったんですよ。皇子とマドモアゼルの中身が入れ替わってしまったみたいで」

 オレアノの愉快そうな笑い声が憎たらしい。

 アリエッタがマドカにつかつかと詰め寄り、人差し指に小言を乗せる。

「お嬢様! 本当に正体を隠す気がおありなのですかっ?」

「す、すまん……面目ない」

 マドカはさめざめと顔を覆った。

 今にして思えば、早朝オレアノを『貴公』と呼んでしまった時点でアウトだった。自分たちの三倍は賢しくて狡い相手に、これ以上の嘘は通用しない。

「それにしても、よく入れ替わってるなんて思ったね」

「そちらがユーリ皇子、というわけですか。なぁに、ちょっとした勘ですよ。マドモアゼルもとりあえず落ち着こうじゃないか」

 しかしオレアノとて、無駄に騒ぎ立てるつもりはないようだ。マドカとユーリの両方を宥めながら、窓のブラインドを下まで閉じる。

「ボクにも事情を教えてくれたまえ。面白そうだし、協力させてもらうよ」

「面白がってられる状況か? まあいい……何から話そうか」

 こうなってはオレアノにも協力してもらうのが賢明だろう。事情を知る味方が増えるのは心強い。マドカたちは声のトーンを落とし、彼にも状況を打ち明けることにした。

「実はな――」

 どうしてこうなったのか、マドカには皆目見当つかない。しかしオレアノは心当たりがある面持ちで、眉を上げ、問いかけに含みを込めた。

「もしかしてキミたち、あの樹に、お願い事でもしたんじゃないかい?」

 マドカとユーリの声が重なる。

「「あっ!」」

 昨日の七月七日、マドカたちは七夕にちなんで、七色庭園の大樹に願掛けをした。

マドカみたいになれますように。ユリシーズ=ゼノンファルス。

 ユーリみたいになれますように。マドカ=ブライアント。

 その短冊が樹に吸い込まれてしまったのだ。風の悪戯ではなかったらしい。

「母上が『樹には触るな』って言ってたっけ……」

「それは、わたしが子どもの時に登ろうとしたからだろ?」

 七色庭園への出入りが許されているのは、一部の貴族だけで、メイドが花壇の手入れに訪れることもなかった。なのに多種多様な花が、季節ごとに自然と咲き乱れている。

 中央の大樹も老齢にしては青々として、生命力に満ち溢れていた。何かしら大きな力が宿っているとしても、不思議ではない。

 オレアノが前髪をかきあげる。

「あれはね、ユグドラ・シランガナ、という聖なる樹なんだよ。願い事なら何でも、ただし必ず違った形で実現してくれる……そういう神様の樹なのさ」

 マドカはふらっとよろめき、壁に片手をついた。

「なんて無責任な名前の神なんだ?」

 シランガナとは、どこぞの方言で『私の知ったことではございません』という意味だ。おそらく先人もマドカたちのような目に遭わされ、そう名付けたのだろう。

 ユグドラ・シランガナのもとで『ユーリみたいになれますように』『マドカみたいになれますように』と願掛けしたことで、神木がお節介を焼いてくれたわけだ。

ただしマドカたちが思っていたものとは違い過ぎる、相当かけ離れたやり方で。

(何もユーリになりたいわけではないっ!)

 ユーリのほうはマドカの顔に疲労感を浮かべつつ、納得した。

「そっか、だから庭園には入っちゃいけないんだね。これを知ったら、みんながお願い事しようと殺到するよ。でも……」

 こんな樹の存在が知れようものなら、間違いなく争いになる。しかも誰一人として願望は満たされず、帝国は大混乱に陥るだろう。

「すぐに珍現象だらけになってしまうぞ。なあ……アリエッタ?」

 ユーリに相槌を打ちながら、マドカは強欲なメイドに軽蔑の視線を投げた。

 真剣にメモを取っていたアリエッタが、ぎくっと手を止める。

「ど……どういう意味でしょうか?」

 雇い主として警告はしておかなければならなかった。

「お金が欲しい、なんて頼むんじゃないぞ? 願い事は叶わないって話なんだし」

「ししっし、しませんよ! わたくしは綺麗なお金にしか興味は……例えばインサイダーとか、マネーロンダリングとか、そういう現実的な錬金術のほうがですね」

「どっちも犯罪だ!」

 先日も賭け事で味を占めていた守銭奴は、さすが欲が深い。

そんなアリエッタにオレアノが釘を刺す。

「そういった邪悪なお願いには、罰があるそうだよ。モンスターにされちゃうとか」

「邪悪? お、お金を欲しがることが、悪だと仰るのですか!」

 ところが逆にアリエッタのほうが熱弁を振るい始め、声も大きくなった。

「なんという神でしょう……人間のサガがわかってませんね。人々がお金を求めることは社会の摂理ですのに、はあ~っ、嘆かわしいことです」

「おいアリエッタ、それくらいに」

「それこそ清貧だなんて、神がひとにお金を持たせないための詭弁ですわ!」

 外交の席では何かと骨を折っているオレアノが、肩を竦める。

「西方諸国に聞かせてやりたい言葉だねえ」

 ゼノン帝国は特定の神を信仰していなかった。大陸全土でイザコザに介入するには、宗教色は無色透明でいることが望ましいためである。

 アリエッタは極端な例にしても、大半の帝国民は信仰心が薄い。そのような国家が城の一角に『神木』を置いていることが、腑に落ちなかった。

 ひとまず現状を少しは把握できたものの、解決には至らない。

「どうだろう? わたしとユーリで『元に戻りたい』と願ってみるのは……」

「元に戻らないカンジで戻っちゃうんじゃない? 今より収拾がつかなくなりそう」

 下手に動けば、それだけ状況も悪化するのが目に見えていた。ユグドラ・シランガナに関する情報は決定的に不足している。

「ボクもあの樹に詳しいわけではないからね、文献を探してみないとならないんだけど。生憎、来週からまた仕事で遠出なんだよ、これが」

「む、そうか。タイミングの悪い」

「まあ、ボクのほうでも心当たりを探ってみるよ、マドモアゼル。皇子もしばらくお待ちください。では失礼」

 オレアノは悠々とドアを開け、退室していった。

 マドカとユーリは互いに自分の顔と向かい合って、溜息を重ねる。

「しばらくガマンするしかないね、この姿で」

「そうなるな。まさか、こんなコトになるとは……」

 かくして珍妙な日々が始まった。

 

 

 交換生活も三日が過ぎると、慣れてくる。マドカはユーリの姿で訓練場を出入りし、鍛錬に精を出していた。昼食を済ませたら、午後も意気揚々と訓練に向かう。

 その道中で『まどか』と鉢合わせした。メイドも傍に控えている。

「やあ、ゆーり。調子はどう?」

「問題ないぞ。少し筋肉痛があるくらい、で……」

 目の前のマドカ=ブライアント侯爵令嬢は花嫁修業を始め、日常生活においても優美なドレスをまとっていた。今日は織物を胸元に抱えている。

(これが……わたしか?)

 ドレスは可憐なフリルを咲かせつつ、マドカの女体曲線を蠱惑的に引き立てていた。豊かな胸が谷間を覗かせる挑発的なスタイルにしては、品があって奥ゆかしい。

 167センチの背丈も、女性にしてはやや高めだが、違和感なしにドレスとマッチしていた。腰の括れも位置が高く、ラインが引き締まる。

 足の運び方も一本の線を引くように綺麗で、ハイヒールがよく映えた。

「どうしたの? ボーッとしちゃって」

「え? あ、いや……なんでも」

 そんな自分自身にマドカは見惚れ、赤面する。

 母の言いつけで伸ばしているだけのストレートヘアも、さらりと流れ、光沢は眩いほどだ。香水を使っているらしく、マドカ嬢からほのかな香りがする。

 アリエッタがこそこそと耳打ちしてきた。

「これくらいのポテンシャルが、お嬢様にはある、ということです。少しは自信がついたのではありませんか?」

「うぅむ……わたしではないんだが」

 マドカは自分の顔をまじまじと見詰め、口紅が塗られていることにも気付く。化粧も自然体であって、無理に気取った印象などなかった。

 帝国令嬢へと変身を遂げたユーリが、手元の織物を一枚捲る。

「今からみんなでカーテンを作るんだよ。マドカの部屋、ブラインドでしょ」

「自分で作るのか?」

「うん。半日もあれば、いいのができそうだし」

 ここ数日の彼は、花嫁修業として料理や裁縫を学びながら、積極的に臣下の女性らと親交を深めているようだった。

 貴族社会はどこであれ、権謀術数が蔓延するものであり、ゼノン帝国も例外ではない。しかし今のユーリはマドカの姿を借りることで、その情勢を探ることができるはず。

「ここで敵と味方をはっきりさせておくのも、いいな」

 と思いきや、ユーリは暢気な笑みを浮かべていた。

「なんの話? そうそう、マドカもぼくの部屋は好きにしていいからさ」

「……はあ。お前はやはり大物みたいだ」

 マドカばかり深刻に悩んでいるのが、馬鹿馬鹿しくなってくる。

 ともあれ、入れ替わり生活に関して、ユーリのほうは問題ない様子だった。周囲には花嫁修業と誤魔化し、それで通っている。

「そろそろ行きましょう、マドカお嬢様。ユーリ様、わたくしたちは失礼致します」

「ばいばい、マド……じゃなかった、ゆーり。またあとで」

 マドカはユーリの顔で苦笑しつつ、手を振った。

(あんなに綺麗になるものなのか……顔も身体もわたし、なのにな)

 同じことをしようとして、チョコレートを爆発させたり、ハイヒールを壊したりした記憶はまだ新しい。どうせ自分には向いていない、と心のどこかで言い訳していた。

 けれども自分には帝国令嬢として、魅力的な可能性を秘めている。そのことがわかり、マドカは花嫁修業にも意味を見出しつつあった。

 元に戻ったら、真っ新な気持ちで挑んでやるのも面白い。

「まだ嫁ぎ先も決まってないんだが、な」

 そう思いながら、マドカは帝国男児の集まる訓練場へと急いだ。

 

 ユーリの身体には慣れてきたが、身体のほうはまだ剣の稽古に慣れていない。あちこちに筋肉痛があり、すぐに息も上がってしまう。

「はあっ、はあ……付き合わせてすまんな、ギュール」

「いえ、皇子とご一緒できて光栄です。剣筋はご立派ですから、体力次第でしょう」

 ギュールは副隊長だけのことはあり、少しも息を乱していなかった。ユーリ皇子の実力を正確に見極め、失礼にならない程度に手加減までしてくれる。 

(やはり一朝一夕とはいかないか)

 しかしユーリの身体の奥底では、膨大な量の『闘気』が漲っていた。その技に精通しているマドカだからこそ、ユーリの潜在能力に驚く。

「……ギュール、防御の姿勢で構えてくれ。聖剣技を試してみたいんだ」

「いきなり聖剣技を、ですか?」

 ギュールは二刀流で守りの構えを取りつつ、当惑した。

「皇子には素質がおあり、と自分も思いますが……お身体にご負担も」

 いつぞやの手作りチョコレートを爆発させたのも『闘気』だ。初めてのお菓子作りに気合が入りすぎた結果、彼にはトラウマを与えている。

 達人であっても、闘気は制御できるようになるまで一年、それを物理的なエネルギーに変換できるまで三年は掛かった。マドカも長い修行を経て、その極意を掴んでいる。

「心配するな。心得はある」

「わ、わかりました」

 不安げなギュールと向かい合い、ユーリ皇子は目を瞑った。身体の奥から湧きあがってくる闘気を、精神統一で錬成しつつ、剣へと集束させていく。

「天よりの願い、我が腕にして、いかずちとならん……」

 訓練中の騎士たちも手を止め、注目した。

皇子の気迫は、もはや打ち込み稽古のものではない。双眸を開くとともに顔つきを引き締める。その右手にある剣が、燃えあがるようなエネルギーを帯びた。

「でやああああッ!」

 踏み込みは同時に瞬発力となり、突撃に初速から加速をつける。

「まさかっ?」

 ギュールのほうも踏ん張り、すかさず防御を堅固にした。二刀流の交差点に目掛けて、皇子の剣が振りおろされる。

 ところが、弾き飛ばされたのはユーリ皇子のほうだった。自身の闘気を完全には制御できず、反動をもろに受け、ひっくり返ってしまう。

「つっ……さすがに気が逸ってしまったか」

 それでもユーリ皇子は自力で起きあがり、けろっとしていた。

 闘気の扱いには慣れているつもりでも、他人のものでは上手くいかないらしい。身体中の闘気が霧散するのを感じながら、マドカは首を傾げる。

(暴発してもまずいし、錬成までにしておくか)

 ギュールもほかの騎士らも、皇子の剣技に驚愕していた。最初は驚きだったそれが、称賛、さらには絶賛の色に染まっていく。

「感服致しました! これほどの修練を、いつの間に?」

「自分はまだ練ることもできないんですよ! さすが皇子です!」

 完全ではないとはいえ、高難易度である聖剣技を充分に見せつけたのだ。ユーリ皇子の評価が一気に上がってしまう。

 マドカがあまり勝手をしては、素性を怪しまれる危険もあった。

「ぼくは少しクールダウンしてくる。ギュールは打ち込みを続けてくれ」

「はいっ! またいつでもお呼びください」

 敬礼に見送られながら、ユーリ皇子は訓練場をあとにする。

 

夏もいよいよ本番となり、日中はさすがに暑い。中庭の花壇では、橙色のヒマワリが気持ちよさそうに日光浴を満喫していた。

(いつものユーリなら、木陰で読書でもしてる頃合か)

 こういう昼下がりこそ、七色庭園で涼みたかったが、ユグドラ・シランガナとやらに近づく気になどなれない。

博学なオレアノは、昨日からゼノン12世とともに外交遠征に出発してしまった。西方諸国が揉めていることもあって、当分は帰ってこないだろう。入れ替わりの件について進めるのは、とにもかくにも彼が戻ってからだ。

(ユーリのほうも、わたしの身体で上手くやってるようだし……)

 幸い城の者は、マドカとユーリの急変ぶりを好意的に解釈し、噂こそすれ、騒ぎ立てることはしなかった。

(まあ中身が入れ替わってるなんて、普通は考えんか)

 戻った後のことはさておき、しばらくは正体を偽っていられるだろう。

 

 皇子の部屋はマドカが少し散らかしてしまったものの、小奇麗な状態を維持している。大雑把なマドカとて、友人の部屋には遠慮もあった。

剣の稽古に明け暮れて、ユーリの身体を壊してしまうわけにもいかない。

ひと休みと思いつつ、マドカは天井近くまである本棚を見上げた。

「……まさに読書家の部屋だな」

 入れ替わりに慣れてくると、相方の生活スタイルも見えてくる。

 幼馴染みとはいえ、ユーリの私室を訪れる機会は滅多になかった。ここに家臣の者が平然と出入りするようでは、皇子の沽券に関わる。

 幼い頃、庭で捕まえたカブトムシを見せに来たくらいしか、記憶にない。

 本棚には古今東西さまざまな書物が集められていた。ブライアント侯爵家には馴染みの深い、漢字の背表紙もいくつかある。

 本は新品に近いものから、カバーの傷んでいるものまで多様だった。この全部にユーリは目を通しているのだろうか。

「ユーリが読み途中の本があるかもな。あとで持っていってやるか……ん?」

勉強机のほうには、これまた難しそうな本が積みあげられていた。『輸出入の距離がもたらす街の発展』など、政治や経済に関連したタイトルが多い。

 ノートにはメモやグラフがびっしりと書き込まれていた。ユーリの勉強に対する意欲がびりびりと伝わってくる。

「あいつ……」

 帝位継承者としての責任感も滲んでいた。

 ふとオレアノの言葉を思い出す。

『皇子もちゃんと先のことをお考えになっているよ』

 ユーリのひたむきな努力を知らずにいたくせに、彼の保護者気取りだった、前の自分が情けない。マドカは感心しつつ、勉強家のノートを捲った。

この書斎のすべてが、いずれ次期皇帝の頭脳になる。それを思うと、騎士として、ユーリに尽くせることが嬉しくもなった。

次代の皇帝に相応しいのは、やはりユリシーズ=ゼノンファルスしかいない。

(……しかし独学で大丈夫なのか? 学問のことはいまいちわからんが、帝国大学のほうが環境も整っていよう)

 ところが、ノートの途中で奇妙なものを見つけてしまった。写真だ。

 カラー写真自体がゼノン帝国では珍しい。カメラは魔法系の技術に類するものであり、娯楽に使えるのは、一部の裕福な貴族だけ。この一枚でも、万札並みの価値がある。

 解せないのは、写真に写っているのが自分であること。マドカ=ブライアント侯爵令嬢の、ヒマワリを抱えた姿が鮮明に保存されている。

(去年のやつだな。髪も今ほど長くないし)

 確かオレアノに撮影されたことがあったような。ヒマワリの種が食用と聞いて、引っこ抜いたのは思い出した。

 そんな写真をユーリが持っていることに、もやもやしてしまう。

 ノートに挟んである、ということは、頻繁に観賞していることでもあった。

(ユーリのやつ、わたしに気があるのか? いやいや、まさか……)

 短絡的な発想を否定しつつ、マドカは写真をノートに戻す。

 おそらくユーリの気まぐれだろう。オレアノと一緒にカメラをテストしたに過ぎない。そもそも、自分より色気のある女性はほかに大勢いた。

 気分転換にマドカは本棚を眺め、薄くて読みやすそうな本を取る。

「ユーリのカラダが読書したがってるかもしれんしな。うむ、これくらいなら」

 連日の稽古で疲れきった身体を休めるには、読書がいいかもしれない。普段なら考えもしない休憩を、ユーリの身体で実践してみる。

 

「ねえ、マドカ?」

 耳元でそう呼ばれて、ようやくマドカは我に戻った。

「ユーリ? いや、すまない。これは……」

 いつの間にかユーリが部屋まで来ており、来客用のテーブルで、アリエッタはてきぱきとお茶の準備を進めている。

「随分と熱中されてましたね、お嬢様。意外に恋愛小説がお好みでしたか」

 本棚の前で立ち竦み、真剣に読み耽っているところを見られてしまった。以前は『読書なんて女々しいぞ』と否定的な立場だったため、ばつが悪い。

「ど、どんなものかと思ってな?」

 マドカは顔を赤らめながら、本当は続きの気になる小説を本棚に戻した。

 何しろ作中では、ヒロインの皇女が、隣国の王子様とベッドイン。ところが皇女お付きのメイドが嫉妬に燃え、毒薬なんぞを手にしたところで。続きが気になるといえば、気になるが、怖いもの見たさのほうが大きい。

「ユーリ、意外にドロドロした話を読むんだな……」

「それは何年か前にベストセラーだったやつだね。僕はちょっと苦手」

 ラブシーンの存在を、ユーリは気にしていないようだった。マドカに並んで本棚を見上げ、適当な一冊を選んでくれる。

「マドカにはこれがいいよ。インペリアルガードの成り立ちをアレンジしたやつだし」

「う、うむ。薦めてくれるのなら、まあ、読んでみるとしよう」

 読書家の彼と、本について語らうのは初めて。

 マドカとユーリで共通の話題といったら、ゼノン帝国や隣国の情勢といった、政治的なものが多い。そういう話は嫌いではないし、自分たちにとっては大事なことに思う。

 それが今日は趣味について語らっているのだから、新鮮だ。

「あとはこれとか。シンデレラみたいなお話でさ」

「二冊も三冊も同時には読めないぞ」

悪い気はしない。気取ることのないユーリの自然体も、傍にいて心地よい。

 いつの間にか勉強机の上が小奇麗になっていた。マドカが本に熱中しているうちに、片付けてしまったのだろうか。

「ユーリ様、お嬢様、お茶が入りましたよ」

「あぁ、うん」

 マドカたちはメイドをお供につけ、ささやかに午後のお茶会を始めた。マドカとユーリで向かい合わせになり、円筒型のティーカップで香りを仰ぐ。

「今日は東方の『緑茶』にしてみました。お嬢様の舌でも『紅茶とは違う』くらいには、わかっていただけますかと」

「一言多いぞ。……アリエッタも座ったらどうだ?」

「給金二倍のお仕事中ですので。メイドとして働かせていただきます」

 アリエッタはお茶会を妨げない、絶妙な距離感で菓子を差し出してきた。大陸東方の嗜好品で『せんべい』という。

「皇子の部屋に堂々と来て、変な噂になったりしないか?」

「それなら大丈夫。さっき母上……皇后陛下にちゃんと許可をいただいたからさ」

 ユーリはロングヘアに手櫛を差し込んで、房のひとつを後ろへとのけた。

(これは本当にわたし……なのか?)

 いつも剣を振りまわしているはずの腕も、慎ましやかな仕草のせいか、とても華奢に思える。それこそ淑女ならではの品格を醸し出していた。

「今日はね、勉強道具を取りに来たんだよ。マドカは自分の部屋に忘れ物とかない?」

「わたしはなかったと思うぞ」

 醤油味のせんべいを齧りつつ、マドカはユーリの顔で微笑む。

「しっかり勉強してるじゃないか、ユーリ」

「まあ……ほとんど独学なんだけどね」

 ユーリはマドカの顔で照れ笑いを浮かべた。努力のほどを他人にひけらかすタイプではなく、陰でコツコツと積み重ねるタイプらしい。

 おそらく皇帝は息子の勉強熱心な一面を知らないだろう。

「……なあ、ユーリ。お前もしかして、大学で勉強したいんじゃないのか?」

 マドカのほうから踏み込んでみると、ユーリがもじもじと謙遜する。

「そ、そうでもないよ。たまに先生が来てくれるし」

 こういったユーリの曖昧な返答は、図星を突かれた時のリアクションだ。伊達に十年以上も幼馴染みの関係を続けていない。言いたくても言い出せない彼の内向性は、幼馴染みとしてわかっており、それを責めるつもりはなかった。

「そうは言ってもなあ、独学では議論にならんし、大学のほうが何かと便利だろ。騎士団も同じだ。ひとりでは稽古にならんぞ」

 彼の本音をフォローするように、少し遠まわしに尋ねてみる。

それでもユーリはかぶりを振った。

「無理だよ。何回か行ったんだけど、大学で特別扱いされちゃって……僕だけ、ひとりで授業受けることになっちゃったりさ。独学でやってるのとあんまり変わらないんだ」

 本心では帝国大学で勉強したがっているに違いない。

 しかし帝位継承者という立場では、学校で授業ひとつ受けるのも難しかった。必ず護衛が付くうえ、帝国大学のほうが彼を丁重にもてなすから、だけではない。

 皇子に教えることは、一歩間違えれば、国家の権威に特定の思想を植えつけてしまうことになる。例えば、教会の歴史について教えたがために、皇子が教会を保護するような政策に走らない、とも限らないのだ。

 ユーリが勉強しようにも、皇子に教えたがるほど熱心かつ敬虔な教育者がいない。

 とはいえ本人に主体性があれば、大学くらい通えるはず。

「だったら行けばいいじゃないか。堂々と正門から」

「だから、それがちょっと……」

「わたしの身体で、な。だろう? アリエッタ」

 ユーリはきょとんとして、目を白黒させた。

 アリエッタがお茶のおかわりを淹れつつ、マドカの説明に補足を加える。

「お嬢様としてでしたら、一般の学生とそう変わらない待遇で、存分に勉強していただけますでしょう。元に戻る日まで、大学に通られてはいかがですか?」

「そうそれだ。んぐ、わたしふぁ言いたかっふぁのは」

「……食べながら喋らないでくださいませ」

 ユーリは自分の両手がマドカのものであることを、しげしげと眺めた。

「いいの? マドカは」

「構わんさ。わたしもお前の身体で、割と好きにやってるしな」

 これは勉強熱心な彼にとって、またとないチャンス。

 ユーリは両手を胸元に集め、男の子にしては可愛らしいガッツポーズを決めた。今は可憐な公爵令嬢なので、違和感もない。

「僕、マドカの身体で帝国大学に行ってみるよ。アリエッタさん、お願いできるかな」

「お任せください。手続きのほうは進めておきます」

 前向きなユーリを見ることができて、マドカも嬉しかった。

「やるからにはしっかり頑張ってこいよ」

「もちろんだよ。大学、かあ……」

 談笑していると、アリエッタが無言で扉のほうを指す。

 ドアは少しだけ開かれ、その隙間から、モニカ皇女が部屋を覗き見していた。不満そうに頬をぷくっと膨らませている。

「モニ……姫様、お入りになってはどうです?」

 本物のユーリはマドカの顔であるため、妹相手に他人行儀にならざるを得なかった。

「そ、そうだぞ。入ってこい」

 マドカがユーリの声で呼ぶと、おずおずと部屋に入ってくる。

 すぐにアリエッタが椅子を差し出した。その椅子にモニカ皇女が登るように腰を掛け、兄ではなく、客人のほうをじっと睨む。

「……メスゴリラ」

 思いもよらない一言に、本物のマドカは面食らった。

 侮辱されながらも、公爵令嬢(ユーリ)は温和な笑みを絶やさない。

「どうしましたの? 私はお邪魔だったかしら」

「邪魔よ、邪魔っ。私は、お兄様にお勉強を見てもらうんだもん」

 モニカ皇女は兄のユーリにとても懐いているみたいだ。そんな兄に平然と近づくマドカを、まるで快く思っていない。

 アリエッタはモニカ皇女の隙をついて、一瞬だけカンニングペーパーを挙げた。

『とんだクソガキですね』

 しかしマドカとしては、生意気なところを可愛くも感じる。ユーリの姿でいるせいか、モニカ皇女のことが実の妹にさえ思えてきた。

「すまない、今日は都合が悪いんだ。また今度でいいか?」

「イヤですっ。私だって早く、お兄様みたいに賢くなりたいんですから」

 けれどもマドカでは、モニカ皇女をどうあやせばよいのか、わからない。ひとりっ子の性分もあって、年下の相手には戸惑った。

 ユーリがマドカの顔に柔らかい笑みを浮かべる。

「わたしが教えて差しあげますよ、姫様。どこがわからないの?」

「え、偉そうに……だったらこれ、解いてみなさいよ」

 モニカ皇女はせんべいの皿をのけ、数式だらけのノートを広げた。マドカには暗号の類にしか見えないが、ユーリはすらすらと図式の謎を解いていく。

「この値を出したら、ここの角度が判明するから……はい、こうなるわけね」

 マドカ嬢を侮っていただけに、モニカ皇女は悔しそうに歯噛みした。

「まぐれよ! マドカ=ブライアントのくせに」

「お名前を憶えていただけてるなんて、光栄ですわ」

 しかし反抗的なのも素振りだけで、マドカの隣から離れようとしない。むしろだんだん距離を詰め、マドカの傍を独占し始める。

「次はこっちよ! これなら、あなたにはわからないでしょ?」

「ふふっ、どうでしょ? まずはここに線を引いて……」

 ユーリは単に聡明であるのみならず、子どもをあやすのが上手かった。幼いモニカ皇女を見下すのではなく、あくまで対等な関係を築く。

 だからこそ、モニカ皇女のほうも反抗しつつ、決して拒絶しなかった。

(いいやつだなあ、ユーリって)

 仲間外れになりながらも、マドカは穏やかな気持ちではにかむ。兄妹のスキンシップを邪魔立てするつもりなど、毛頭なかった。

「モニカ、今後しばらくはマドカに教えてもらうといい。ぼくは稽古もあるしな」

「お兄様がそう仰るなら……でも、お父様みたいな脳筋にはならないで」

 ゼノン帝国の厳格な皇帝も、娘に言わせれば『脳が筋肉』らしい。

(素のわたしは嫌われそうだな……)

 ユーリたち兄妹と一緒に数式を眺めつつ、マドカは大きなあくびを噛んだ。

 

 

 インペリアルガードに魔物討伐の要請が入ったのは、翌週になってからのこと。帝都の外から大型モンスター出現の報せが入った。

 訓練を中断して、マドカは報告書の要点に目を通す。

(ついに来たか。そろそろやってやろうと、思ってたんだ)

 早くも戦意が高揚してしまった。不謹慎だが、モンスターの出現は騎士にとって、実力を証明する絶好のチャンスなのだ。しかも今回はユーリ皇子の初陣となる。

 報告のモンスターは牛と猪を混ぜ合わせたようなタイプで、狩り取ったらバーベキューにするのが定番だった。

「今から行けば、夕飯時には帰って来られるな」

 危険な魔物をいつまでも野放しにはできないし、戦いたくてウズウズしている。

おまけに報酬はマドカの大好物である、バーベキュー。

「やりましょう、ユーリ皇子! この程度の魔物の、一匹や二匹!」

「自分も是非、戦列にお加えください!」

 若き騎士らは今こそ皇子とともに剣を取るべく、ボルテージを高めていた。

 ユーリ皇子は精悍な顔つきで立ちあがり、騎士団を激励する。

「お前たちの欲しいモノは、なんだ?」

「焼肉の食材を希望!」

 恒例の掛け声が訓練場に響き渡った。

 皆が待ち侘びていた、ユーリ皇子の初陣である。今日この日から皇子と一緒にゼノン帝国を支えることになる騎士も、きっといるだろう。

 中身はマドカなのだから、急ピッチの編成くらい慣れていた。天候の確認や、昼食の発注にも抜かりはない。

「ユーリ皇子、今日は騎士団の宝剣をお使いください」

「お前たちと同じでいい。武器のおかげ、とは言わせたくないからな」

 馬車に必要な物資を乗せ、城門の前で点呼する。ここまでの指導力だけでも、皇子の手腕は充分に評価された。

「マドカ隊長に匹敵するお手並みですね。これが初陣とは思えませんよ」

「いずれは帝国軍を指揮するんだぞ? 任せておけ」

 城門の前で最終確認をしていると、ちょうどマドカ嬢(ユーリ)が外出するところと鉢合わせした。今朝は飾りすぎない夏物のドレスで、アリエッタを連れている。

「まどか! これから大学か?」

「うん、いよいよね。そっちはどこに行くの?」

 マドカは腕組みを深め、ユーリの顔に不敵な笑みを浮かべた。

「ふふふっ。討伐任務さ。今夜は焼肉をご馳走できるかもしれんぞ」

今日の相手はそこそこの大型ではあるものの、何回も狩ったことがある『焼肉の材料』でしかない。負けるはずがなかった。

 むしろ騎士団の精鋭を差し置いて、先に仕留めることのほうが難しい。

「帰ってきたら、大学の話を聞かせてくれ。では行ってくる」

「気をつけてね。僕……私も頑張るよ」

 騎士団を率いつつ、ユーリ皇子(マドカ)は先頭の白馬に跨った。手綱を取り、両サイドで器用に鐙を踏み締める。

「いざ、出陣っ!」

 皇子が右手を掲げると、インペリアルガードの面々も咆哮をあげた。

 かくしてマドカはユーリの身体で、モンスター退治へ。

 ユーリはマドカの身体で、帝国大学へ。

 

 ゼノン帝国領は広大だが、その大半は不毛な土地で占められている。梅雨の一時期を除いて雨量が少なく、湖などの水源にも恵まれていない。

 そのうえいくつも火山があって、その活動期には生産活動が制限された。

 とはいえ作物が育たないほどではなく、大豆や芋はよく育つ。騎士団の一行は帝都を東に抜け、サツマイモ畑を突っ切った。

 しかし帝国領の生産活動において、一番の問題は地味でも火山でもなかった。たびたび凶暴なモンスターが出没し、暴れまわるのだ。堅牢な造りの帝都ならまだしも、小さな山村などは、モンスターの襲撃によって壊滅してしまう危険もある。

 帝国領には魔物の巣窟である地下迷宮がふたつもあり、その影響でモンスターも活性化ないし凶暴化するらしい。

 西方諸国であれば、モンスター退治を民間の組合『ギルド』に一任しているが、ゼノン帝国はそれを認めていなかった。領内で他所の組織をのさばらせないための政策だ。

 だからこそ、モンスターの討伐には帝国騎士団が出動する。

「ユーリ皇子、急がずとも大丈夫ですよ」

「早かったか? どうにも気が急いてしまってな」

 勇み足で出陣したものの、不安要素がないわけでもなかった。鍛え始めたばかりの身体では、剣の振りが見るからに遅い。なるべく直接的な交戦は避けたいところ。

 やがて沼地の一帯が見えてくる。

これ以上は馬で進めず、ユーリ皇子も白馬から降りた。

「報告にあったのは、このあたりですね……」

 霧が立ち込めて見通しの悪い沼地を、副隊長のギュールが一瞥する。

マドカはユーリの顔で眉を顰めた。

(妙だな。こんなところで目撃情報があった、だと?)

 討伐任務は、民がモンスターを目撃し、その報が騎士団に届けられることで成り立つ。ところが今回の任務は、誰も寄りつきそうにない不毛な沼地での戦いだった。

 このような場所に立ち入るのは、物好きな冒険家くらいだろう。

 きな臭いものを感じずにいられなかった。

(こいつは、どこぞの貴族の罠か……ユーリに恥をかかせてやろうというんだな)

 初めてのモンスター退治に失敗したとなれば、ユーリ皇子の評価は暴落する。今は王子の成長ぶりに好意的な面々も、てのひらを返す可能性が高い。

 ここでギュールたちに陰謀を語って、出直すこともできた。しかし、あるかどうかもわからない謀略のために二の足を踏んだとなっては、それこそ皇子の恥になる。

 要はモンスターを討伐してやればよいだけのこと。

 むしろこれはチャンスだった。それだけ皆が注目しているはずであり、ユリシーズ=ゼノンファルスの実力を証明するには、打ってつけの一戦となる。

 マドカはユーリの顔で平静を装いつつ、実際の地形を地図と照らし合わせた。

「小型の連中が混ざってきても厄介だな。隊をふたつに分けるか……よし、ぼくはA隊を受け持つ。ギュールはB隊を臨機応変に指揮してくれ」

「了解です。連絡はどうしましょうか?」

「見られて困る敵もいないんだ。いつもの煙幕弾で問題ないだろう」

 マドカは騎士の半数を連れ、東側にまわり込む。

 深い霧の中を、マドカたち一行は警戒しつつ進んだ。ぬかるみに足を取られないよう、手頃な足場を順番に渡っていく。

(煙幕弾でモンスターを脅かしてやるのもいいな。とにかくわたしが、ハッキリと手柄を立てんことには……)

 似たような景色が連続するため、方向感覚も狂いそうになった。太陽の位置や影の向きで方角を確かめながら、徐々に索敵範囲を広げる。

「手慣れてますね、ユーリ皇子」

「基本くらいは、な。足らん分はフォローを頼むぞ」

 あれもこれもできてしまっても不自然だ。マドカは待機にならない程度に歩みを止め、じっくりと時間を掛ける。

 その前方に、目標ではない魔物を発見。

「小型ですね。倒しておきますか?」

「脅かすくらいでいい。大型を呼ぶかもしれん」

前哨戦に先んじて、一発の煙幕弾が空にあがった。

 その意味は『標的を発見』。マドカのA隊がもたもたしているうちに、ギュールのB隊がターゲットを補足したらしい。

 マドカはすぐさま剣を抜き、号令のつもりでそれを掲げた。

「ぼくたちも行くぞ! お前たち、遅れるな……よっ?」

 ところが、ぬかるみに足を取られてしまう。

 バッシャ~~~ン!

 ユーリ皇子は勇み足をものの見事に滑らせて、泥色の沼へと落ちた。

 

 

討ち取ったモンスターを滑車で運びながら、騎士団は帰路につく。

 しかし先頭のユーリ皇子は浮かない面持ちだった。

「はあ……やってしまったな」

 皇子自らモンスターを討伐し、華々しく凱旋するつもりが、泥まみれ。せっかくの綺麗な白馬も、汚い恰好の皇子を乗せる羽目になり、機嫌を悪そうにしている。

 件の大型もギュールのB隊があっさり倒してしまった。

「ぼくの初陣だったんだぞ。花を持たせてくれてもいいじゃないか、ギュール」

「も、申し訳ございません! 相手に気取られてしまいまして……」

「ははっ、冗談だ」

 今回は単に運が悪かっただけ。生真面目な彼らに気を遣われても困るので、マドカのほうから茶化し、お茶を濁しておく。

 皇子と馬を並べながら、ギュールが今日の戦いを評価した。

「戦うところを拝見できなかったのは残念ですが、ユーリ皇子とご一緒できて、我々も勉強になりましたよ。ご手腕のほどは、さすがでした」

 ユーリ皇子の中身はマドカ隊長なのだから、部隊の編成や運用くらいは朝飯前だ。

「魔物の習性にもお詳しいのですね」

「そりゃ狩ったことが……んっ、父上によく聞かされているしな」

 ただマドカとしては『何もしていない』に等しく、今ひとつ天狗になれない。

 一方で騎士らはすっかり浮かれていた。

「いつもならマドカ隊長に続いて、真っ向勝負ですからねー」

「そういえば隊長、今は花嫁修業をされてるって?」

 話題に自分の名前が挙がったことで、マドカの耳がぴくっと反応する。

「お相手は決まってるんでしょうか」

「さあなあ……ここだけの話、『あのマドカ隊長』だぞ?」

 こめかみに青筋が浮かんだ。 

(こいつらまで、わたしのことを……まあいい。ユーリのほうは上手くやってるかな)

 騎士団の連中は明日の稽古で扱いてやるとして、相方の様子が気になる。

 

 やがて夏の陽も傾き、城に着く頃には夕暮れになってしまった。最近はカロリーの消費も多いユーリの身体が、ぐうっとお腹を鳴らす。

(こーいう時、男ってやつはいいな)

 女性だったら、その音ひとつで『はしたない』などと怒られるところだ。マドカは今の交換生活が気に入りつつある。

 ちょうど『まどか』も帝国大学から帰ってきて、ユーリ皇子らと合流した。

「ゆーり! 怪我とかしてない? ……って、何なのこれ?」

 騎士団が持ち帰った魔物の大きさに、まどか(ユーリ)が目を見開く。何せ五メートル近い巨体である。

 ユーリ皇子(マドカ)は白馬を降り、鼻高々に胸を張った。

「ぼくが騎士団と一緒に倒したんだぞ。すごいだろ」

 嘘は言っていない。いつの間にか分隊がやっつけました、と明かさないだけで。

「こんなおっきいのを……それにしても泥だらけだね。大丈夫なの?」

「う、うむ。ちょっとハシャぎすぎてな」

 沼に嵌まったのは恥ずかしいが、それくらい腕白でいるほうが、軍国主義の皇子らしいだろう。本物のユーリはぽかんと口を開け、魔物の図体を見上げている。

(これでユーリも、少しは前向きになってくれるといいな)

 もしかすると彼にとって、今回の替え玉討伐は自信に繋がったかもしれない。ユーリの身体でも充分に戦えることが証明されたわけである。

「さあ、みんなでバーベキューといこうじゃないか。美味いぞ~」

「たまに中庭でやってるやつだっけ?」

 アリエッタが手早くスケジュール帳を開いた。

「せっかくのバーベキューですし、マドカお嬢様もご一緒されてはいかがですか? あれだけ議論なさったのですから、しっかり栄養をお取りになりませんと」

「食べるついでに、そっちの話も聞かせてくれ」

 マドカたちの後ろでは、騎士団とメイドが総出で大型モンスターの搬入作業に従事している。そのひとりであるギュールが、ユーリ皇子のもとへと小走りで駆け寄ってきた。

「ユーリ皇子! 先ほどの戦いですが、不可解な点が少し」

「なんだ、お前も気付いていたのか」

「はい。獅子身中の虫ともいいます、ここは洗ってみるのも……」

 そんな彼と、花嫁修業中のまどか(ユーリ)が、はたと顔を見合わせる。

 ユーリはマドカの顔で穏やかに微笑んだ。

「えぇっと……ギュール=スタンね。お疲れ様」

 ギュールが切れ長の目を見開いて、優美な侯爵令嬢をじっと見詰める。

(まさか、バレたか?)

 本物のマドカは内心ひやひやしながら、行く末を見守った。ギュールはマドカ=ブライアントという人物をよく知る人間だけあって、中身が違うことを見破るかもしれない。

今日のマドカ嬢は外出用の軽いドレスを身にまとっていた。深緑を基調として、若草色のフリルをラインに飾りつけている。

 豊かな胸もデコルテで強調され、艶めかしい。

「……どうしたの?」

「えっ? あ、いえ! 失礼しました」

 ギュールは顔を真っ赤にして、しどろもどろに言葉を繋いだ。

「お久しぶりです。花嫁修業にっ、その、入られたとか?」

「しばらくの間だけよ。それまで騎士団をお願いね」

「は、はい……」

 会話の最中もひたむきに侯爵令嬢を見詰め、ほうと感嘆の吐息を漏らす。

「……私、どこか変かしら?」

 疑惑を振り払うべく、ユーリはマドカの身体を一回転させた。それだけでロングヘアが流麗に波打ち、あたかもワルツのような雰囲気を醸し出す。

(大丈夫だ、これで誤魔化せるはず)

 本物のマドカは、余計なことは言うまいと口を噤んだ。

 ユーリがマドカの顔で小首を傾げつつ、つぶらな瞳でギュールに微笑みかける。

「いつもは騎士服だものね、私」

 ギュールはあからさまに調子を乱し、ぎくしゃくと敬礼を改めた。

「ド、ドレスもよくお似合いだと思います。……で、では、失礼します!」

 慌てるように片足で躓きつつ、搬入作業へと戻っていく。

 マドカはユーリの顔で眉根を寄せた。

「どうしたんだ、ギュールのやつ? 腹でも痛いのかな」

「お嬢様……面倒なことになりましたよ、多分」

 アリエッタがてのひらをひっくり返し、溜息をつく。

 城の中庭ではバーベキューの準備が急ピッチで進められていた。かなりの大物を持ち帰ったため、総出で食べないことには、今日のうちに食べきれない。

食欲旺盛なのは騎士ばかりでなく、メイドたちも意気揚々と準備に励んでいた。流れ作業で肉をスライスしたり、串に刺したりしながら、戦意を高揚させる。

焼肉とは、戦いなのだ。

「着替えてはどうです? お嬢様。泥だらけですよ」

「今は男なんだし、問題ないだろ。どうせ焼肉でまた汚れるんだ」

「それもそうですね。……チッ」

 ロースなどの美味しい部位は取り合いになるため、出遅れるわけにはいかない。

「最初から参加するのは初めてだよ、ぼく」

 ユーリはそわそわとバーベキューの開幕を待っていた。

 やがて中庭に皆が集まり、各々のグラスが飲み物で満たされていく。本日の功績者として、ユーリ皇子は声高らかに音頭を取った。

「今日の初陣でぼくが戦果をあげられたのは、騎士団の働きのおかげだ。残念だが、ぼくはまだまだ力不足であることを痛感した。モンスターを倒したのも、ぼくではない」

 一同が静まり返って、皇子の熱弁に耳を傾ける。

 橙色の陽も城下町の西へと落ち、群青色の夜空で星が瞬き始めた。

「しかし何より嬉しいのは、民を守れたことだ。貴殿らの働きに感謝しよう」

 皇子の勇ましい声がよく響く。

「みな、今夜は思う存分に楽しんでくれ。乾杯!」

「カンパーイッ!」

 あちこちでグラスが鳴った。とりわけユーリ皇子のもとには、大勢がグラスを当てようと詰めかけ、一時的に長蛇の列となる。

「お疲れ様でした、皇子!」

「お前たちもご苦労だった。いい働きだったぞ」

 マドカがそうこうしているうちに、新鮮な肉は串ごとに火にかけられた。網の上で一斉に煙があがり、香ばしいにおいが強烈に食欲をそそる。

(食べたい! 早く食べたいんだっ!)

すぐにでも頬張りたかったが、主催者としての立場もあって動けず、じれったい。

様子を見ていたらしい家臣の面々も、皇子の凱旋を祝福にやってきた。

「いやはや、お見事です! 陛下もお聞きになったら、お喜びになるでしょう!」

 その言葉が表にしろ裏にしろ、表情を緩ませる。

「私など、感激のあまり涙が……帝国に仕えて四十年、悔いはありませぬ」

「四十年と言わず、長生きしてくれ。まだまだこれからだぞ」

 モンスターの討伐を果たしたことで、ユーリ皇子の評価も変わるだろう。皇子を支えていた面々は安堵し、皇子を侮っていた連中も方針の修正を余儀なくされる。

(あまり持ちあげられても困るな。ユーリ本人ではないのだし……)

 ゼノン12世は西方に出張っているため、今夜のところは討伐の成果を報告できそうになかった。オレアノも帰ってきていない。

 マドカは皆と祝杯を交わしつつ、自分の身体を探した。

 旺盛なメイドは精力的に焼肉を頬張っている。

「もったいない話でございます、もぐもぐ。このお肉はコラーゲンが豊富ですのに、魔物というだけで国民は敬遠してしまって……美味しいふぇすよ? ろーぞろーぞ」

 その隣でまどか(ユーリ)は苦笑していた。ドレスに給仕用のエプロンを重ねた、家庭的な風貌がしおらしい。

 そんな彼女(自分)を見ると、劣等感こそあれ、それ以上の自信も湧いた。

(元に戻ったら、わたしも心がけるぞ。帝国令嬢ってやつを)

 女らしくなるのは、実は面白いのかもしれない。

「まどか~!」

「お疲れ様。大変だったでしょ」

 本物の皇子として挨拶まわりをする羽目になったマドカを、ユーリが労ってくれた。ささやかに乾杯し、一度グラスを空ける。

「大学のほうはどうだった?」

「すごく面白かったよ! 図書館も広くてさ。チームごとに勉強会なんかもやってて、あと留学生もいっぱいでね。さすがにダリア公国のひとはいなかったけど」

 内気なユーリが無邪気にまくし立てるほどに、興奮してしまっていた。マドカの身体で帝国大学を訪れた甲斐あって、一般の授業にも参加できたはず。

「今日だけでもすごい収穫だったよ」

 皇子が民と同じ場所で学ぶという、これまでにない機会である。入れ替わり生活は厄介だが、ユーリの利益になるならマドカも本望だった。

「喜んでくれて何よりだぞ。明日も勉強するなら、しっかり食べておかんとな」

マドカも一息ついて、串刺しの焼肉にかじりついた。吐息をハフハフさせながら、ジューシーな歯応えを吟味する。

(美味い! 本当に男はいいな、好きに食えて)

 侯爵令嬢の立場でガツガツしては、母親がうるさいが、今は生粋の帝国男児なのだから問題ない。連日の稽古で酷使している身体も、それなりに食事量が増えていた。

「お嬢様……今ならカロリー関係ないし~、とか思ってませんか?」

「んぐっ? ち、違う違う!」

 実はメイドのカロリー統制から解放されたせいで、間食気味。

 ユーリはフォークを持ち、奥ゆかしい手つきで少しずつ頬張っている。

「ほんと美味しいね、魔物の肉だなんて思えないよ」

「民が食べたら、自力で討伐しようとか考えるかもしれんな」

 特権階級だけが味わえる贅沢な嗜好品が、魔物の焼肉というのも、おかしな話。

「そうそう、今日は大学でね、アリエッタさんの妹さんにも会ったんだ」

「アリーシャに会ったのか? 姉と違って、真人間だっただろ」

「変人のチャンピオンでいらっしゃるお嬢様には、言われたくありませんね」

 アリエッタも交えて談笑していると、見慣れた顔が遠慮がちに混ざってきた。今日も一緒にモンスター討伐に赴いた、副隊長のギュール=スタンだ。

「ユーリ皇子、今日はお疲れ様でした。それから……こんばんは、マ、マドカ隊長」

 彼は緊張した面持ちで、マドカ嬢のエプロン姿をちらちらと窺った。本物のマドカ手製のチョコレートで痛い目に遭っているだけに、今夜の焼肉が心配なのか。

「よ、よくお似合いですよ、エプロン。……いえっ、下々の格好が似合ってるとか、そういう意味ではなくてですね?」

「ええ……ありがとう、ギュール」

 ユーリがマドカの顔で笑みを作りつつ、本物に視線を投げる。

(どうしよう?)

(心配するな。まずい流れになったら、わたしが割り込む)

 凡ミスでオレアノに正体を見破られたこともあるため、マドカたちにこれ以上の失敗は許されなかった。紛らわしい愛称についても、入念に情報を共有している。

 ギュールはまだ一口も飲み食いしておらず、精悍な騎士の顔つきを保っていた。

「よろしければ、少しオレと話をしませんか? ……ふたりだけで」

 まどか(ユーリ)がスローモーションで首を傾げる。

「は、はあ……」

 鳩が豆鉄砲を食らったような表情で。

本物のほうは唇の端からタレを垂れてしまった。

(……どういうことだ?)

 マドカ隊長に対するギュールの態度が、今までとまったく違うのだ。礼節にのっとった素振りで背中に触れ、それこそエスコートでもするみたいに連れていく。

「あちらでよろしいですか? ではユーリ皇子、少々失礼致します」

「ちょっと? 私、いきなりそんなこと言われても……」

 あくまでギュールの振る舞いは無理強いではなかった。まどか(ユーリ)は戸惑い、本物に助けを請うような視線だけ残す。

 ふたりはこそこそと、バーベキュー会場の喧騒から遠ざかっていった。

 もぐもぐと無言で咀嚼を続けるマドカを、アリエッタが急かす。

「追いかけたほうがよいのではありませんか? いくら鈍いお嬢様でも、さすがに目の前で何が起こったのか、理解されていることでしょうし」

「んぐっ。……うむ、そうだな」

 マドカもアリエッタとともに会場を抜けた。幸い皆は隠し芸を競っている最中で、主役である皇子の動向まで目が届いていない。

 男性が女性を呼び出す意味くらい、その方面に疎いマドカでも想像はできた。

(いやまさか。ギュールに限って、そんなバカな)

 しかし五年以上も付き合いがあるギュールに、今になって好意を向けられても、ピンと来ない。気があるのなら、もっと早いうちに口説かれていたはず。

「信じられん。ギュールのやつが……そんな素振りは一度もなかったぞ?」

「ついさっき、ではないですか? ユーリ様の演じるお嬢様に一目惚れされたとか」

「まだ一時間も経ってないじゃないか! ギュールはそんな手の早い感じには……オレアノの親友というのが不思議なくらいで」

 アリエッタと意見を交わしつつ、マドカは草陰から頭だけ覗かせた。

「いやまあ、そういった話と決まったわけでもない。ほら、仕事の話かもしれん」

「あんなふうに連れ出して、お仕事の話だったら、殿方として最低ですよ」

 夜のおかげで隠れるのは容易い。

(やっぱり何かの間違い……だよな? 相手がわたしだなんて)

 誰かの恋愛対象となっていることに、まだ実感はなかった。ギュールにしても、ほかにもっと相性の良さそうな女性はいるわけで。

 先行のギュールは噴水の傍で足を止め、まどか(ユーリ)をまっすぐに見詰めた。

「皇子とのお話中にすみません。その……早くお伝えしたく思いまして」

「……な、何のお話かしら?」

 矢面に立たされたユーリは動揺し、視線を脇に逃がしたがる。

「なんと言いますか……」

 ギュールはなかなか切り出さず、話とやらが始まらなかった。むしろ草陰に隠れているマドカとアリエッタのほうが口数が多い。

「どうやらマドカお嬢様のフリをしているユーリ様に惹かれたようですね。身のこなしのたおやかさといい、わたくしも惚れ惚れする時がございますから」

「わたしに色気が足らんのは認めるが……じゃあ、なんだ? あいつ、わたしじゃなくてユーリに惚れたってことにならないか? 男同士だぞ」

「お嬢様もそういうのがイケる口でしたか? アリーシャも好きなんですよ」

 ギュールが咳払いを挟んで、仕切りなおした。

「花嫁修業というのは、すでに相手が決まってのこと……なのですか? 隊長は皇子と親しい関係と伺っております。もしや縁談になったのでは、と」

「そうじゃないのよ? 別に相手ができたから花嫁修業、ってわけでもなくて……」

 まどか(ユーリ)の声は裏返り、一言一句が震えてしまっている。

(落ち着いてくれ、ユーリ!)

 本物のマドカは草陰で蹲り、焼肉味の吐息を潜めた。

「ニンニクのにおいがしてますよ、お嬢様」

「お前もにおってるぞ。あーもう、おかしな真似はするなよ? ギュール」

 愛の告白であるわけがないと否定しつつも、はらはらする。

「こういうことは初めてでして、どう伝えればよいのか、わかりません」

 ギュールは懐中時計を取り出し、まどかの手にそっと握らせた。

「マドカ隊長、これを預かっていてもらえますか」

「時計……を?」

 まどかが彼を見上げ、きょとんとする。

「オレの宝物です。も、もしオレと、おぉ、お付き合いを、しっ、してぃたっ」

 ギュールのほうが赤面してしまって、言葉も途切れ途切れに。それでも最後の一言には全身全霊の力が込められた。

「お、お返事をいただければっ!」

 そう叫んだらまわれ右して、明後日の方向に走り去ってしまう。

 宝物の懐中時計をどうして欲しいのか、傍で聞いていたマドカたちにもわからない。

「お嬢様、あなたがコクられたんですよ」

「へ? ええっと……いや、告白されたのはユーリのほうで……」

 マドカは混乱していた。

 ギュールがマドカに告白したわけだが、今のマドカはユーリ皇子であって。ギュールは同性の皇子に熱い想いをぶつけてしまったことになる。

(こいつは面倒なことになってしまったぞ?)

 マドカは草陰から飛び出し、ユーリのもとに駆け寄った。

「マドカ! 見てたの?」

「信じられんやつがいたものだ! 惚れたにしても、もう少し時間を掛けてだな……さり気なくアプローチするとか、普通はほら、もっとほかにあるじゃないか」

「それで気付くお嬢様ですか……」

 アリエッタも姿を見せ、周囲を警戒しなおす。

 ユーリは懐中時計の扱いに困り、おろおろとそれを握っていた。

「どうすればいいの? コレ」

「うーむ……持っておけばいいのか? アリエッタ」

「わたくしにも判断しかねますね。肌身離さずお持ちになっていたら、ギュール様のご好意に応えることになりそうですし。しばらくお部屋に置いておくのがベターかと」

 持っていればYES、返せばNOということなのかもしれない。愛の告白にしては口下手すぎるうえ、アプローチも直球の割に曖昧だった。

「あいつも、もっとハッキリ言わんか!」

「態度はとてもハッキリしていらしたんですけどね……はあ」

 とはいえ、あの場で『付き合ってくれ』と迫られなかっただけでもよかった。しばらく返事を保留にし、様子を見ることはできる。

 ユーリは懐中時計をアリエッタに預けながら、本物のマドカに問いかけた。

「……ねえ、マドカ。ひょっとして、ギュールと付き合うってある?」

 マドカはユーリの顔で眉を顰め、深めに腕を組む。

「ど、どうかな? わたしとギュールなら、お互い家の面子上も問題ないだろうし、絶対にないとは言い切れんが……うーむ、考えたことがない」

 貴族や騎士の婚姻は第一に『家柄』だ。自分より下の者を恋愛対象とすることは、公式上の恥となる。ただ、マドカとしてはこの慣わしが気に入らない。

 女だてらに騎士団の隊長を務めているせいか、女性が男性にかしずくような恋愛には価値を見出せないのだ。母がブライアント侯爵家の長男に嫁ぎながら、男子を産めなかったことも、少なからず影響しているだろう。

「どうにも『家同士』の結婚というのがな……当事者をないがしろにするみたいで」

 主観を熱弁してやろうと思いきや、ぐうっと音が鳴った。

音の出所はマドカの身体、つまり今はユーリのほう。

「この身体って、すぐお腹が空くんだけど。やっぱりマドカのだから?」

「お嬢様がわたくしに内緒で、お菓子を食べてばかりいるからです」

「いっ、いいからいいから! 戻るぞ、主役のお前が席を外してもいられんし」

 焼肉でも食べながら考えることにする。

 

 バーベキュー会場のほうはさっきよりも女性が増えていた。メイドではなく上流階級の淑女たちが、焼肉大会だというのに、豪奢なドレス姿で食べ歩く。

 さっきまで勢いよく焼肉にがっついていた騎士や使用人らは、騒ぎ立てようとせず、隅で黙々と食事を進めていた。

(……なんだ? おかしな空気だな)

 奇妙な緊迫感が立ち込め、話し声よりも肉の焼ける音のほうが大きい。

「こちらにいらっしゃったのですか、皇子!」

 帝国の重鎮である宰相セルゲイは、皇子を見つけるや、愛想笑いで歩み寄ってきた。わざとらしい揉み手を交えつつ、こちらの顔色を窺ってくる。

「セルゲイ卿か……貴公は陛下と一緒には行かなかったのだな」

「ええ、今やオレアノ殿が一人前になりまして、充分なサポートができますゆえ」

 表向きは温和な挨拶を返しながら、マドカは家臣らの狙いに勘付いた。よくよく見れば女性はどれも、皇子の花嫁として候補になりそうな、有力貴族の娘ばかり。

(なるほど。縁談を見据えたお披露目のつもりか)

 セルゲイの後ろでも、可憐な少女が恥ずかしそうに俯いている。

「いやはや伺いましたぞ、皇子が討伐任務でご活躍なさったこと! 素晴らしい! これで帝国の将来は安泰というものです。ところでですなぁ……おい、ソアラ」

「は、はい。ユーリ様、わたくし、娘のソアラと申します」

 そのドレス姿も、パーティーを間違えているほど繊細に飾り立てられていた。焼肉大会の場でラインストーンまでつける必要はないだろう。

 野心家が皇子に自分の娘を紹介する意味など、ひとつしかなかった。あわよくば皇帝の系譜に加わって、己の権威を高めたがっているのが、目に見える。

「娘がユーリ皇子とお話をしてみたい、と言いますので……ソアラも読書が趣味でして、皇子とも気が合うことでしょう。お稽古のあとにでも是非、話し相手に」

「お待ちください! 我が家の娘こそ、皇子のお傍でお役に立てることでしょう」

 セルゲイのフライングじみた行為を皮切りに、同じことを考えていた面々が、次々と娘を連れて集まってきた。

 彼らにとって帝国の将来など二の次で、求めるものは地位と権力。皇子が『男らしく』なってきたことで、今度は誰が花嫁を用意するかで揉めている。

「娘は乗馬を得意としまして、必ずやお気に召されるかと」

「あらゆる教養を身につけた自慢の姉妹でございます。ほら、皇子にご挨拶なさい」

 騎士団は嫌悪感を滲ませつつ押し黙り、使用人らも少し呆れた表情だった。せっかくの祝杯ムードに水を差され、退席する者も出始める。

(まったくこいつらは、どいつもこいつも!)

 つまらない権力抗争に明け暮れる連中への苛立ちは、すぐ怒りに達した。自分の娘を簡単に差し出してしまえる無神経さにも腹が立ち、抑えてなどいられない。

「――くどいぞ、貴公たちッ!」

 ユーリ皇子は怒号を張りあげ、彼らの商売文句を一蹴した。

「ぼくは次期皇帝ゼノン13世となる男だぞ! 帝国男児として自分の花嫁くらい、自分で探して、自分で口説く! 貴公らに世話してもらう必要などない!」

 家臣たちは一様に驚き、何も言い返せずにあとずさる。ユーリ皇子の恋愛観が純真無垢である以上、彼らの下世話な誘いは皇子に対する、れっきとした侮辱となった。

 娘たちも口を噤んで、皇子の急な憤慨ぶりに怯えている。

 同じ女性として、彼女らにも言ってやりたかった。

「帝国の女性であるならお前たちも、親に言われたくらいで相手を決めるな! それこそ家のためというなら、自分の家に相応しい相手を、自分で探してこいっ!」

 権力に目が眩んでいた家臣らは、今になって相手が悪すぎたことを悟ったらしい。

「出すぎた真似を致しました……戻るぞ、ソアラ」

「はい、お父様……」

ひとりが踵を返すと、全員がすごすごと退散していく。

 再び歓声が上がった。

「感服しましたよ、ユーリ皇子!」

「なんと崇高な恋愛観でしょう! 感無量でした!」

 ユーリ皇子の雄々しい一喝に皆が惚れ惚れとして、拍手喝さいを巻き起こす。

「と、当然のことを言ってやったまでだ」

 マドカは鼻に掛けるふうでもなく、照れ笑いではぐらかした。

 本物のユーリはびっくりしたみたいで、あんぐりと口を開いている。

「……大丈夫なの? あんなこと言っちゃって」

「問題ないさ。お前だって、ゴタゴタ絡みで結婚を決められるのは嫌だろ。こういうことはハッキリさせておかないとな。うんうん!」

 マドカとしては、怒りを発散できたこともあって気持ちいい。

「あっはっはっは!」

勝気な皇子様はやっぱり得意になって、大笑いしてしまうのだった。

 

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