皇子様はわたしの嫁だぞ

第一話

 ところが翌日の稽古にユーリが来ない。

 翌々日の稽古にも現れず。

「どこで何をやっとるんだ、ユーリのやつはッ!」

 さらに次の日になって、とうとうマドカの堪忍袋の緒が切れてしまった。点呼が終わるまで待ちきれず、地団駄を踏む。

「お、落ち着いてください、マドカ隊長。ユーリ皇子にも事情が……」

「あいつの事情ならわたしがよく知ってる! 呼んでくるから、先に始めててくれ」

 今日も今日とて、七色庭園で暢気に本を読んでいるに違いない。

 マドカは眉を顰めたままの表情で、すたすたと回廊を突っ切った。目を合わせただけで睨まれそうな気迫に気圧されたらしく、メイドは誰も声を掛けてこない。

 七色庭園では案の定、ユーリ皇子が読書がてらベンチでゆったりと寛いでいた。

「ユーリっ! さっさと稽古に来い!」

「うわあぁ?」

 マドカの怒鳴り声が静寂を破り、ユーリを驚かせる。

「ど、どうしたの? そんな大きな声で」

「どーしたもこーしたもあるか! せっかくわたしがプレゼントしてやったのに、剣の稽古に来ないとはどういう了見だ!」

 つい声を荒らげてしまうが、マドカとて腹が立っていた。稽古に顔を出さないことはもとより、プレゼントしたグローブを使ってもらえないことが、怒髪天を衝く。

 にもかかわらず、ユーリはマドカと事を構えようとしない。

「でも僕、やっぱり剣とかは……それに本だって役に立つんだよ? この新作もたくさんの民が読んでるんだから。ほら、マドカも試しに――」

「ふざけるなっ! 帝国男児なら剣を取れ!」

 娯楽小説を差し出されたのが侮辱に思え、マドカはそれを投げ捨てた。

 本が放物線を描き、花壇に突っ込む。

「読書など女々しい! お前はゼノン13世として、男児らしくあるべきだろう!」

 言い過ぎている自覚はあった。だがここで引き下がっては、良心を振り切って声を張りあげた甲斐がなくなってしまう。

「いいか? ユーリ。個人的な趣味で時間を無駄にしてないで、剣の構えのひとつでも身につけるんだ。お前の肩には帝国と民の未来が掛かって……」

「なんてことするんだっ!」

 ところが、真正面でマドカ並みの怒号があがった。

「……ユ、ユーリ?」

 怒鳴り返されるとは思っていなかったマドカは、目を点にして、頭の中にあった説教のフレーズを忘れてしまう。

ユーリは眉をいつもと逆さにして、荒々しい足取りで立ちあがった。

「本を何だと思ってるのさ、マドカは! この一冊にどれだけたくさんのモノが詰まってると思ってるんだ! 投げるなんて最低だぞ!」

 動けないマドカの横を通り過ぎ、繁みから本を拾いあげる。

 その本は土で汚れ、表紙の一部が裂けてしまっていた。

「こんな暴力が剣の修行の成果だって? だから嫌なんだ、僕はこんなの」

「ま、待て! わたしはただ、お前に男らしくなって欲しいと……」

 たじろぐマドカにユーリが吐き捨て、去っていく。

「だったらマドカも、女らしくなってみなよ!」

 七色庭園の大樹のもとに、マドカひとりが取り残された。彼の背中が小さくなっていくのを、追いかけることもできない。

あれほど激昂した幼馴染みを見るのは初めてだった。

(……はあ。さすがに言い過ぎてしまったな)

もとはといえばマドカの辛辣な言動が原因であるため、彼の憤怒は正当に感じる。

 しかしマドカにも譲れない部分はあった。居なくなった彼の代わりにベンチに座り、老齢にしては若々しい色の巨樹を、何気なく見上げる。

「あそこまで怒らずとも……わたしは帝国のために、だな……ぶつぶつ」

「いや、今のはキミが悪いね。マドモアゼル」

 独り言に返答があり、マドカは変人の気配に気付いた。

「……その呼び方はやめてくれ、オレアノ」

 マドカを『マドモアゼル』と呼ぶ飄々とした彼の名は、オレアノ=ハインベルグ。

「ご挨拶だね。フフフ」

マドカのブライアント侯爵家より格上である、『公爵』家の次男だ。

公爵(プリンス)という爵位は本来、王族に連なる家系に与えられるのが一般的ではある。王族ではないにもかかわらず、その爵位を持つことは、彼の家がそれだけ大きな実績と権限を併せ持っていることの証明だった。

オレアノも二十二歳という若さにして、外交官として第一線で活躍している。

「帰ってきていたのか、オレアノ。皇帝陛下にご報告は?」

「昨夜のうちに済ませたさ」

 オレアノは鬱陶しい長髪をかきあげながら、含み笑いを浮かべた。

 能力だけなら優秀なのだが、斜に構える性格は掴みどころがなく、あまり相手にしたくない。ヒラヒラした長髪もマドカの苦手とするところ。

「西湾岸部の諸国が新連邦を樹立して、帝国から独立、なんて言い出したからね。あっちで調整、こっちで調整だよ。ふう……」

 オレアノがマドカの隣に腰を降ろし、一度は取り出そうとした煙草を仕舞い込む。

「おっと、庭園は禁煙だったね」

「当たり前だ。それで西方諸国の動きは?」

「今は彼らにとって、ボクら帝国が共通の敵になってるからいいんだよ。でも帝国の目がなくなったら、新連邦なんてすぐ分裂して、ドンパチ始めそうだ」

 ゼノン帝国の軍事力は、他国を抑圧するためだけのものではなかった。小競り合いに介入することで、戦闘行為を抑止し、話し合いの場を設ける役割もある。

 それが現地の人々に受け入れられることもあれば、反発されることもあった。

「ダリア公国の異変以降、大陸には厭戦観が広がってるというのに、血の気の多い小国家が多くてね。ユーリ皇子のご意見を伺おうと思ったら……」

 オレアノが見透かすようにマドカの横顔を眺め、唇の端を吊りあげる。

「あれでは皇子がお怒りになるのも当然さ」

 マドカは俯き、溜め込んだ重たい息をふうっと吐いた。

「言い方がまずかったのか?」

「それもある。けど本を投げたのが一番いけなかったね、マドモアゼル」

 外交官を任されるだけあって、オレアノの視野は常にマドカよりも広い。庭園の象徴である巨木を見上げながら、気取ったふうに脚を組む。

「なんと言えばわかるかな……そうだ、マドモアゼルの剣を少し見せてくれないか」

「これか? 丁重に扱え」

「うん、さすがはブライアント家の名剣だね。これを……」

 マドカが鞘入りの剣を渡すと、彼はそれを無造作に放り投げてしまった。

 ガシャン、という音がマドカのボルテージを一気に過熱させる。

「なっ……貴公、騎士の誇りを何だと思ってる!」

 目の前で愛剣に土をつけられるなど、屈辱以外の何物でもない。マドカは立ちあがって剣を拾い、刀身の無事を確認した。

「ふんふん。それで?」

 憎たらしいオレアノは平然として、足をぶらぶらさせるだけ。

「剣とは騎士の命であって……」

「同じことをされたから、皇子もお怒りになったんじゃないかい? しかもマドモアゼルはこれを『女々しい』と侮辱したんじゃないか」

 しかし熱論のつもりで開いた口は、途中で何も言えなくなった。全身に漲っていた赤い怒りが、波のように引いていく。

「そ……それは」

「鍛冶屋が槌を捨てられたら怒る。画家が筆を盗まれたら怒る。騎士にとっての剣もそうじゃないか。無論、ユーリ皇子にとっての書物もね」

 オレアノはくいっと眉をあげ、反論できないマドカを見据えた。

「マドモアゼルは自分の価値観を他人に押しつけすぎだよ。帝国のインペリアルガードとは、腕っ節さえ強ければいいのかな?」

 悔しいが、オレアノの言い分はどれも正論だ。

「しかしわたしは……ユーリに次期皇帝として、男らしくなって欲しいと」

「じゃあ、男らしさとは何だい?」

 マドカの動揺を孕んだ弁解は、オレアノの舌先三寸で簡単に跳ね返されてしまう。

「キミは剣技こそが帝国男児の条件、と考えているようだね。なら災害に強い建物を作るため、毎晩遅くまで製図に励んでいる建築家は? 患者を助けるために真剣に医療に取り組んでいる医者は? それが男性なら『男らしく』ないかね」

「う。た、確かに帝国男児として誇らしいな……」

 もう何も言い返せない。

そもそもグローブを使ってもらえないことで頭がいっぱいだった。普段ならユーリの読書好きをないがしろになど、するはずもない。

 オレアノの軽快な言葉は、さらにマドカの騎士道精神をも刺激した。

「そもそもだよ? ユーリ皇子のほかに屈強な後継者がいたとして、そちらが次の皇帝になるとしたら、マドモアゼル……キミは納得できるかい?」

「そっ、そんなことはない!」

 マドカは大きく口を開き、これだけは真実なのだと、宣言する。

「わたしが生涯仕えるのはユリシーズ=ゼノンファルスだけだ! これからユーリに弟が生まれたとしても、この忠義は揺らぐものか」

 たとえユーリが頼りなくとも、マドカには彼を支える信念があった。ユーリ以外の誰かに鞍替えなど考えたこともない。

ユーリと一緒がいい――それこそがマドカの正直な気持ちだ。

 七色庭園の暖かい風が、ふと幼い頃を思い出させる。

「……昔はわたしとユーリで、乗馬で遊んだりもしたんだ。なのに最近は、どことなく疎遠になってしまってる気がしてな」

 遠ざかっていくユーリを掴まえたくて、あえてマドカは踏み込み続けた。けれども彼にとっては迷惑でしかなかったかもしれないことが、悔しくて、切ない。

「子どもの頃ね。マドモアゼルだけこの樹に登ろうとして、皇子が困ってたっけ」

「話したことがあったか? 懐かしい」

 マドカたちの日傘となりながら、大樹は梅雨明けの日差しを満喫していた。

 高貴な身分である『皇子様』を怒らせたから悩んでいるのではない。幼馴染みの男の子を怒らせたことが、マドカに罪悪感を抱かせる。

(ユーリ……)

 マドカは大きな樹に額をつけ、小鳥の囀りよりも小さな溜息を落とした。

 気遣い上手なオレアノが微笑む。

「皇子もちゃんと、先のことをお考えになっているよ。キミも騎士なら、主君を信じて、理解して差しあげないと」

「わかった、わかった……わたしの負けだ」

 勝てる相手ではないことを悟り、マドカは素直に降参した。

(オレアノに外交官が務まるわけだな)

愛剣をホルダーに戻しつつ、怒気を鎮める。

「貴公と話してると、だんだん自分に自信がなくなってくる。……はあ」

 マドカはベンチに座りなおし、やるせない気持ちを溜息に込めた。

「わたしもさっきは、ついカッとなってしまって……ユーリの誕生日に剣技用のグローブを贈ったんだが、ちっとも稽古に来てくれなくてな」

「う~ん、それはユーリ皇子に非があるね」

 何もユーリに『勇猛さで名を馳せるくらい強くなれ』と要求したのではない。ただゼノン帝国の次期皇帝として、少しは前向きに剣を学んで欲しかっただけ。

 それこそ一日か二日でもいい、一緒に稽古がしたかった。

「……ほかのプレゼントのほうがよかったのか?」

「どうかなあ……ボクとしても、マドモアゼルのセンスが悪かったとは思えない」

 昔からマドカとユーリの揉め事となると、年長者のオレアノはどちらの味方になることもなく、絶妙な塩梅を保ってくれた。困った性格の男ではあるが、おかげで胸の内をひけらかすことができる。

「ああでも、キミの可愛いドレス姿なんかは最高のプレゼントになったろうね。そんな男物のパンツスタイルじゃない、もっと色っぽいドレスで……」

「……? それで、どうしてユーリが喜ぶ?」

オレアノの冗談を流し、マドカは懸念を吐露した。

「貴公も不安にならんのか? ユーリが弱腰なのを知って、花嫁を押しつけようとする輩までいる。このままでは荒れかねんぞ」

 ゼノン帝国は外交面で争い事の絶えない国家だったが、南方のダリア公国との『五日戦争』を最後に、近年は落ち着きつつあった。

 しかし軍閥の発言力は依然として強く、また支配国の独立運動など、多くの火種を抱え込んでいるのが現状だ。皇帝のお家騒動など始まれば、混乱は帝国領の外まで広がる。

 血筋のうえでの後継者はユリシーズひとりしかいない、とはいえ、遠方の親族が強引に帝位継承権を主張してくる可能性もあった。

「ほかの連中がユーリをどんなふうに言ってるか、貴公も知ってるだろう? それが無性に悔しくて、な……。少しでいい、見返してやって欲しいんだ」

 だからこそユーリに奮起してもらいたくて、日頃から発破を掛けて。その結果が先ほどの諍いでは、虚しかった。

「あいつに武芸ごとが不向きなのも知ってるさ。それでもユーリには威厳を……」

 オレアノが視線に何やら含みを込める。

「まあ……キミ次第ではあると思うけどね、マドモアゼル」

「意味深だな。とにかくユーリに謝って、それから……どうしたものか」

 マドカは唇をヘの字に曲げ、ああでもない、こうでもないと思案を巡らせた。

ユーリに強要することなしに、皇帝としての立場をわきまえてもらいたい。何よりまずは今日の件を謝罪して、関係を修復したい。

(謝るだけでは、虫がいいというか、また同じことでケンカしてしまいそうだし……)

 オレアノが愉快そうに囁いた。

「ボクがとっておきの方法を伝授しようか?」

 この男なりにマドカたちを心配してこそのアイデアなのだろう。しかしオレアノの手法には必ず余計な『遊び』が入っているため、迂闊に飛びついては危ない。

「……できれば断りたいんだが」

「キミのやり方で謝るのかい? 堂々巡りになるんじゃないかな」

 お調子者のアイデアには嫌な予感しかなかったが、ほかに選択肢もなかった。

(今回ばかりは気まずくなりそうだしな……うぅむ)

 マドカは立ちあがり、大樹を背にする。

「貴公の案を聞こう。ただし参考程度に、だぞ」

「では、お聞かせしよう。フフフ、とても面白……いや簡単なことだよ」

 オレアノはベンチにもたれながら、ストレッチでもするように背中をのけぞらせた。

「あれだけ皇子に『男らしく』と言ったんだ。だったらマドモアゼルも『女らしく』なろうじゃないか。ほら、さっき皇子も仰っていただろう?」

 ブライアント侯爵令嬢はきょとんとして、目をぱちくりさせる。

「……わたしはそんなに女らしくないか?」

「本気で言ってるのかい? 皇子も大変だねえ」

 果たして『女らしさ』とは如何に。

 

 マドカは騎士団の稽古を抜け、オレアノとともに一旦自室に戻った。

「淑女たちのプライベートスポットか。うん、いいねえ」

「このあたりは男子禁制なんだぞ?」

 位の高い貴族ほど、城に住むのが一般的である。マドカのブライアント家も、帝都の一等地に居を構えつつ、普段は城内の部屋で寝泊まりしていた。

 有力な貴族の妻子を、人質として城に住まわせたのが始まりらしい。ゼノン帝国の勃興から二百年が過ぎた今でも、内乱の抑止力として、それなりに機能している。

 それ以上に、城は貴族らの『社交場』としての意味合いが大きかった。善意にせよ悪意にせよ、貴族たちの思惑が交錯する最たる場所である。

 マドカの私室は小奇麗に片付いていた。今朝脱ぎ散らかした寝巻やらは、専属のメイドが掛けなおしてくれたのだろう。

 オレアノが平然と入ってきて、十八歳の令嬢マドカが住む、魅惑の私室を見渡す。

「花のひとつでも飾ったらどうだい? 殺風景だよ、マドモアゼル」

 しかし調度品は至ってシンプルで、窓際のカーテンもブラインドのみ。花のない鉢植えなど、ゴミ箱になってしまっていた。

 オレアノの表情が渋くなる。

「……貴族なら絵を飾るとか、、もっとこう、あるじゃないか」

「うるさいやつだな。入れてやったんだ、静かにしろ」

連れの文句に呆れつつ、マドカはテーブルの上にある呼び鈴を鳴らした。するとマドカ専属のメイドであるアリエッタが、どこからともなく現れる。

「お呼びでしょうか、お嬢様」

 メイドの中でも、このアリエッタ=シーゼルバイドは異彩を放ちまくっていた。もとは西方諸国の賞金稼ぎ、というキャリアからしても珍しい。

そんな彼女の行動原理はただひとつ。

「株の売買でしたら、是非わたくしにお任せください。自分の手持ちではなかなか始められないのですが、お嬢様のお財布であれば、すぐにでも……にひひ!」

 すなわち、お金。お守りとして一万クレット札を肌身離さず持つほどで、恐ろしいまでの守銭奴っぷりを発揮していた。札束を数える時が一番幸せなのだという。

「さあ始めましょう、お嬢様。愛と夢と希望に満ちた錬金術を!」

「はあ……お前は自由すぎるぞ? アリエッタ」

 雇い主として頭痛がしてくる。

 辟易するマドカに代わって、オレアノが今日の経緯を語った。

「実はね、かくかくしかじか……で、マドモアゼルがレディーの心得を学ぶことになったんだよ。そのためにはメイドのキミの協力が欠かせない、というわけさ」

 アリエッタが平手で『待った』をかける。

「すみません。十秒ほど失礼します」

 そして恭しい会釈を残し、一度退室してしまった。

「おおおっお嬢様が! れ、レディーの心得を! あははははははははははははは!」

 向こうでバンバンと壁を叩き、爆笑すること、きっちり十秒。雇い主の見えないところで笑うだけ笑ったら、しれっとした顔つきで戻ってくる。

「……お待たせしました。どうぞ、続きを」

 マドカのこめかみで青筋が破裂しそうになった。

「アリエッタ……お前、このわたしを何だと思ってる?」

「インペリアルガード第三部隊隊長、マドカ=ブライアントお嬢様です。わたくしの雇い主で、ガサツで、短気で、乱暴者で……どうしてこんなふうにお育ちになったのかと、心の底から哀れみ申しあげております」

 上から熱湯が降ってきたみたいに、怒りで頭が過熱する。

 それをオレアノがどうどうと鎮めた。

「ほらほら、そうやってすぐ頭に血を昇らせちゃダメだよ。まず訓練以外の時はちゃんとドレスを着て、ひとつずつ作法を身につけていこうじゃないか」

「オレアノ様の仰る通りですよ」

 アリエッタはオレアノから袖の下を頂戴し、マドカの目の前でも平気で仕舞い込む。

(どうしてこんなやつを雇ってしまったんだ、わたしは……)

しかし彼女くらい奇特な行動力と精神力を持ちあわせていなければ、マドカ=ブライアントの従者は務まらなかった。

 アリエッタとオレアノの間でトントン拍子に話が進む。

「それで……わたくしは何をして差しあげればよろしいのでしょうか?」

「女らしさといっても、男のボクからだと願望の押しつけになるからねえ。マドモアゼルと同じ女性であるキミから、アドバイスをしてやって欲しいのさ」

「なるほど。了解致しました」

 アリエッタはマドカを見据え、淡々と言い放った。

「来世で生まれ変わるしかありませんね。どうぞ、ご寿命を全うしてください」

「いきなり全否定するんじゃないっ!」

 マドカは怒りのまま枕を投げつける。しかしアリエッタには俊敏に回避され、オレアノの顔面に命中してしまった。

「ふごっ? ……アリエッタ君、今はマドモアゼルをからかうのはナシで」

「承知しました」

 アリエッタが室内を一瞥し、『淑女の心得その1』を淡々と語り出す。

「女性たるもの、お部屋のお片付けくらい、ご自分でできないといけません。本日よりわたくしは有給休暇を頂戴しますので、お嬢様、おひとりで頑張ってみてください」

 気のないその視線は、完全にマドカを侮っていた。

 そこまで侮辱されては、名誉にかけて、退くわけにいかない。

「ふん、見ているがいい。わたしだってブライアント侯爵家の娘だぞ? 格の違いというやつを、メイドのお前に教えてやる」

 マドカは腕を組んでふんぞり返り、生意気なメイドにガンを飛ばした。

しかしアリエッタは澄まし顔で挑発を続ける。

「でしたらついでに、お花も育ててみてはいかがです? 咲きかけのアサガオをいただきましたから、それを咲かせてみましょう」

「お前なあ……アサガオって、子どもが育てるやつじゃないか」

「期待しております。ではお小遣い帳を書かなければなりませんので、これにて……」

 メイドはスキップついでに退室してしまった。ご機嫌な鼻唄を歌いながら。

「りんりん臨時収入~、ゆーゆー有給休暇~」

「あんのメイドは……わたしより金が大事なのか?」

「そうみたいだね。じゃあマドモアゼル、しばらくしたらまた様子を見に来るよ」

 マドカの怒りをかわしつつ、オレアノも飄々と去っていく。

 乙女の部屋はマドカひとりに。

「どいつもこいつも、わたしをナメているな。部屋の片付けくらい朝飯前に決まってる。アリエッタにまで女性としてどうこう言われる筋合いは……ぶつぶつ」

 お嬢様はふてくされ、ベッドにごろんと転がった。

 

 

「……何がいけなかったんだ?」

部屋の主であるマドカは、身体を締めつけるくらい深めに腕を組む。

 淑女の住処であるはずの空間は、三日のうちに衣類が散乱し、ぐちゃぐちゃになっていた。クローゼットからは服が食み出し、下着までひっくり返っている始末。マドカがいないうちに泥棒でも入ったかのようだ。

 おまけに記憶にないドレスが何着も出てきた。

「こんな服、持ってたか?」

「去年のお誕生日にユーリ様からいただいたではないですか。……ぷぷっ」

 マドカの後ろでは、三日ぶりとなるメイドが笑いを堪えている。

意気揚々とやってきたはずのオレアノさえ、部屋の惨状から顔を背けた。

「これはレディーのプライベートルームではないよ、マドモアゼル。せめて一週間くらいは粘ってくれないと……ねえ?」

「わたくしの勝ちですよ、オレアノ様」

「お金を巻きあげられるキミの顔を、一度は見たかったんだけどねえ。ハイ」

 オレアノの財布からアリエッタへと、一万クレット札が譲渡される。マドカが私室を綺麗に維持できるかどうか、賭けていたらしい。

 アリエッタは万札を鼻に押し当て、その香りを堪能した。

「なんて素敵な香りなんでしょう……わたくしは幸せ者ですわ、にひひ!」

 こんな連中、マドカとしては今すぐ追い出してやりたい。だが今回に限ってはとやかく言える立場ではないし、メイドがいないことには部屋も片付きそうになかった。

「くっ、アリエッタ……有給休暇は終わりだ」

「承知しました。今日からまた勤労で稼ぐとしましょう。……チッ」

 マドカとアリエッタが火花を散らす一方で、オレアノは部屋をぐるりと見まわす。

「ところで、マドモアゼル? アサガオはどこだい?」

「う。そ、それはだなぁ……」

 ぎくりと顔を引き攣らせながら、マドカはベッドの下を探った。そこからアサガオの鉢植えを引っ張り出し、アリエッタたちのほうに向ける。

「い、一応咲いたことは、咲いた……ぞ?」

 アサガオはマドカの『闘気』をもろに受け、うねうねと自力で動くようになっていた。花であるはずのモノが奇声をあげ、オレアノとアリエッタの度肝を抜く。

「ななっ、なんだい、コレは?」

「普通に水をやってただけ、なんだぞ? 本当だからな?」

「……まあ、お嬢様らしいアサガオではありますね」

 ゼノン帝国は他国に比べて、魔法の文化がさほど発展していなかった。代わりに『闘気』という、一種の生命力のような力を操る技術に長けている。それは二百年以上の伝承を経て、『聖剣技』として確立され、帝国の騎士が学ぶものとなった。

 ゼノン12世やマドカ=ブライアントは、この聖剣技の優れた使い手である。ただし感情の起伏によって暴発することもあり、アサガオはその煽りを食らったのだった。

(こんなつもりじゃなかったんだが……)

 アサガオひとつ育てられない自分が情けない。

 気落ちするマドカの肩を、オレアノがぽんぽんと叩く。

「まあその、なんだ……従者やメイドができるからって、自分も簡単にできる、と思ってる貴族は多いよ。男でも女でもね」

「ああ……ありがとう」

 気休めとはいえ、顔をあげるくらいには元気になれた。

「それじゃ、ボクはちょっと出てるからさ」

 下着類も散乱しているため、曲がりなりにも紳士であるオレアノは席を外す。

 アリエッタはドレスを一着ずつ、てきぱきとハンガーに掛けていった。

「せっかくドレスがこんなにありますのに……お嬢様のほうこそ、ユーリ様からの贈り物を一度でも身につけましたか?」

「……我ながら心のないやつだと、反省している」

 ユーリに稽古用のグローブを押しつけておきながら、自分は彼に貰ったドレスに一回も袖を通していない。どうせ似合いもしないと思って、それきり忘れて。

(最低だな、わたしは)

そんな最低限の礼節もわきまえていない立場で、偉そうに説教を垂れていた自分自身が恥ずかしかった。

「これを着て謝りに行くのは、虫がよすぎるだろうか……?」

 マドカの何気ない呟きを、アリエッタが拾いあげる。

「よい判断だと思いますよ。そうですね、お茶会などにお誘いしてはいかがでしょう」

「茶会に?」

 勉強不足のお嬢様のため、敏腕メイドによる『淑女の心得その2』が始まった。

「ええ。ティーパーティーを催して、ユーリ様を招待して差しあげるのです。手作りのお菓子なども用意しておきますと、ユーリ様もきっとお喜びになるでしょう」

 アリエッタにしては珍しくまっとうな意見で、少し勘繰ってしまう。

しかしアイデア自体は悪くない気がした。

「……お茶会か。たまに招待状を貰ったりする、アレだな」

 実のところ、マドカにはティーパーティーの経験が数えるほどしかない。『ウフフ』『オホホ』と控えめに笑いながら紅茶を嗜む、あの慣わしが、どうも性に合わないためだ。

 だがマドカ=ブライアントとて、将来、親善大使などを迎える機会はある。向き不向きなど抜きにして、学ぶべきだろう。

「よしっ! こうなったら、とことんやってやろうじゃないか」

 ブラジャーを握り締めながら、マドカはガッツポーズで固く決意した。

「手が止まってますよ、お嬢様。まずは片付けてください」

 熱くなりがちな雇い主と背中合わせになって、アリエッタは着々と職務をこなす。

「わ、わかってる。……ところで、アリエッタ」

「なんです?」

「お菓子って、作るものなのか?」

 メイドの横顔が不意に強張ったのは、マドカの発言が原因らしい。

 

 マドカ=ブライアントがお菓子作りに挑戦すると聞きつけ、城の厨房には休み時間中のメイドが大勢集まった。

指導役のアリエッタが菓子の本を広げ、見当をつける。

「無難にチョコレートにしましょう。溶かして固めるだけですから。……普通、女性ならバレンタインで一回は経験してるものなのですけど」

「う~ん……そういえば今年も、ユーリから貰う側だったな」

 調理場の向こうでは、試食係のオレアノがマドカ手製の第一号を待っていた。

「アリエッタ君が付きっきりなんだ。マドモアゼルでも作れるさ」

「暇でいいな、貴公は」

 この男は大陸じゅうを飛びまわっている多忙な身なのだから、マドカもあれこれ言うつもりはない。たまの休みに美味い菓子を食べさせてやろう、くらいの気前はある。

 しかしオレアノはおそらく試食など二の次で、若いメイドらが目的だった。

「オレアノ様ぁ、ポーカーで遊びませんか~?」

「いいねえ! フフフ、可憐なレディーたちと勝負といこう」

 公爵家の次男という立場で、二十二歳にもかかわらず、未だ独身というのも珍しい。

(メイドにからかわれてるだけ、と気付かんのか……)

 オレアノのことはさておき、マドカはぎゅっとエプロンの紐を結んだ。エプロンにはペルシャ猫のシルエットが描かれている。

「まずは何をすればいいんだ? アリエッタ」

 調理場にはヘルムをひっくり返したものや、骨組みだけのメイスが転がっていた。

「……念のため申しあげておきますが、これらはすべて調理器具です。断じて兜(ヘルム)やこん棒(メイス)ではありませんよ」

「そ、それくらいわかってる」

 マドカの偏った認識を矯正しつつ、アリエッタが解説を始める。

「そうですね……チョコレートを細かく砕いてください」

「ん? チョコレートを作るのに、チョコレートを粉々にするのか?」

 料理初心者のマドカは首を傾げながら、包丁片手にチョコレートを放り投げた。

 チョコレートはマドカの包丁捌きを浴び、一瞬にして細切れに。

それをアリエッタがすかさずボウルで受け止める。

「さすがお嬢様、刃物に関しては帝国最強ですね。なんという危険人物でしょうか」

「そう褒めるな。で? 次はどれを斬ればいいんだ?」

「斬るだけでお菓子はできませんよ。お次は、このチョコレートをお湯で溶かしてください。……いいですか? お湯で溶かすというのは、湯せんのことで……」

 マドカは沸きあがったお湯を、チョコレートのボウルに流し込んでしまった。細切れのチョコレートがみるみる溶け、お湯の量に比例して薄くなる。

「こうか?」

「違いますよ。もうそれは、ホットチョコにでもするとしまして」

 アリエッタはやれやれと嘆息し、ほかのメイドらは目を瞬かせていた。

 ここまではアリエッタの想定内だったらしい。しかしマドカの勘違いや早とちりが連続し、軌道の修正が困難になってくる。

 次こそは『湯せん』とやらで、チョコレートを溶かして。

「火に掛けたほうが早くないか?」

 溶かしたチョコレートを少しずつ型に流して。

「適当に固めて、あとから斬ったほうがキレイに仕上がるぞ?」

「それはお嬢様だけができる反則技です。ちゃんと手順を踏んでください」

 あとは冷やすだけ。

 完成したチョコレートは、材料の段階では黒かったはずなのに白く濁っていた。型から外す際に砕け、残骸同然になってしまう。

「これがわたしの試作第一号か」

 甘酸っぱいにおいは、チョコレート菓子というより漬物の類だ。

 アリエッタが青ざめ、物体Xから距離を取る。

「なんと独創的な……お嬢様は天賦の才をお持ちのようですね。悪い意味で」

「見た目はちょっとアレだが、味はそこそこイケるんじゃないか?」

 ほかのメイドもあとずさり、気まずい緊迫感が漂っていた。

 誰かが味見をしなければならない。だが、味見をした者が無事でいられる保証もない。

 そろ~り、そろ~りとオレアノが腰を低くして、厨房を出て行こうとする。

「待て、オレアノ! 出来たぞ。食ってみてくれ」

「ボ、ボクが食べるのかい?」

 呼び止めると、オレアノの丸まっていた背中がびくっと反りあがった。

「そのためにいるんだろ、貴公は。わたしの舌では紅茶の区別も付かんが、貴公の味覚ならアテにできる。さあ!」

 大抵のものを『美味しい』と感じてしまうマドカでは、大した試食にならない。是非とも美食家である彼の意見が聞きたかった。

 マドカ手製のチョコレートを受け取ったオレアノが、食べる前から息を呑む。

「マドモアゼル……本当に手順通りにやったのかな? これは」

「間違いないはずだ。なあ、アリエッタ」

「それはもう鮮やかで完璧な手際でございました。……大丈夫ですよ、オレアノ様。万が一の時はわたくしが口座を引き継ぎ致しますので」

 彼と遊んでいたメイドたちも、緊張気味に押し黙り、オレアノの口にチョコレートが入る瞬間を待っていた。

(そんなに緊張しなくても……)

 静まり返った調理場に、ひとりの騎士がずかずかと割り込んでくる。

「ここにいたのか、オレアノ! セルゲイ卿が探していらしたぞ」

 インペリアルガード第三部隊の副隊長、ギュール=スタンだった。二刀流を得手とし、こと剣の速さにおいては、同世代で右に出る者はいない。

「おおっ、我が心の友ギュールよ! よくぞ来てくれたっ!」

 オレアノは満面の笑みを咲かせ、マドカ手製のチョコレートを彼に勧めた。

「ちょうど味見するところなんだよ。マドカ=ブライアント隊長の最高傑作を最初に食べるのは、副隊長のキミこそ相応しい! ほらほら、食べてみたまえ」

「マドカ隊長が? これ、漬物か何かですか?」

 ギュールは疑うことなく、ひと口サイズの欠片をひょいっと口に放り込んだ。

 ドカンッ!

 途端にその口と、鼻の穴からも煙が噴き出す。

「げふ? ちょこれーと、か……?」

ギュールは崩れるように折れ曲がり、調理室の床で無言の人形と化した。

「すすっすまん! つい気合を入れすぎて、わたしの闘気が!」

 慌ててマドカは彼を抱え起こし、揺さぶって呼びかける。

 メイドらは慄然とし、オレアノも真っ青になった。

「マドモアゼル、あなたは料理をするべき人間じゃないよ……だって爆発だよ? チョコレートが爆発するなんて、古今東西、今の今まで聞いたことがない」

「お嬢様、3千クレットでわたくしが替え玉を作って差しあげましょうか?」

 女騎士様の手作りチョコは『危険物』とみなされ、専門の処理班が出動することに。

 

 最後はハイヒールを履いて、歩き方のトレーニング。言い出しっぺのオレアノは巻き込まれまいと逃げたため、アリエッタの指導ひとつに学ぶ。

 マドカは頭にリンゴを乗せつつ、生まれたての小鹿みたいに脚を震わせていた。

「あと七段ですよ、お嬢様」

「わ、わかってる! 集中してるんだっ」

何しろ踵が8センチも浮いている状態のせいで、まるで安定しない。階段の途中でカニ股がジャストフィットし、上にも進めず、下にも降りられなくなってしまった。

(爪先で歩けばいい、ってモノでもないのか?)

 立食パーティーなどは騎士団の正装で通せるため、マドカはドレスを着ることが滅多にない。リンゴを頭に乗せて歩くくらい簡単、と侮ったのが失敗だった。

 ぎりぎりでバランスを保っているカニ股が、徐々に痺れつく。

「ほら、お早くなさってください。わたくしの勤務時間が終わってしまいますよ」

「アリエッタ、い……いつまでもいい気になるなよ?」

 それでも何とか左足、右足、また左足と、少し浮かせては階段を登った。だが一歩進むごとにバランスも危うさを増し、大腿筋が引き攣ってくる。

 次は右足のつもりが、間違えて左足を動かしてしまい、一気に重心が崩れた。

「とっととと! 落とすものか!」

落ち始めたリンゴを、マドカは手ではなく、意識の集中先だった足で反射的に受け止めようとする。それは華麗なハイキックとなり、リンゴを勢いよく放物線に乗せた。

ガッシャーン!

窓ガラスにナイスシュート。

 ちょうど階段を降りてくるところだったメイド長が、あんぐりと口を開く。

「な、なな……マドカ様! 何をなさっておられるんです!」

「いやこれは! アリエッタに……ん? アリエッタ?」

 アリエッタは雇い主など見捨て、とっくに行方を眩ませていた。マドカひとりだけ取り残され、矢面に立たされる。

 メイド長はカンカンに茹であがってしまった。

「階段でリンゴを蹴って遊ぶ女性がおりますか! マドカ様も、もう十八になられたのですよ? もっと帝国令嬢として、慎ましやかに振舞っていただかないと!」

「め、面目ない……」

「奥方様が寛容でいらっしゃるからといって……はあ。マドカ様? 剣のお稽古も結構でございますが、いい加減、淑女にしかるべき教養も学んでください」

 次の修行は間違いなく、割れた窓ガラスの掃除になる。

 

 

 七月七日。

土曜日は好天にも恵まれ、七色庭園の大樹のもとでお茶会となった。招待状を送った相手はすでに着席し、主催者であるマドカの到着をそわそわと待っている。

 一週間ぶりに顔を会わせることになる、ユーリだ。緊張しないはずがない。

(恐れるな、マドカ=ブライアント! 魔物討伐に比べれば、これくらいのこと……)

 マドカは二回の深呼吸で気持ちを鎮め、覚悟を決めた。

 スカートはパニエによって押し広げられ、しかもヒールが高いせいで歩きにくい。今日は髪も結って帝国令嬢らしくなったドレス姿を、幼馴染みに披露する。

「ま、待たせたな……ユーリ」

 マドカの優美な風貌を目撃するや、ユーリは招待状をぽろっと落とした。

「……………」

 言葉にもならないらしい。

 恥ずかしくなってマドカは赤面し、開放的な胸元を隠す。

 ドレスを苦手とすることには、マドカなりに理由があった。胸が人一倍大きいためだ。大半のドレスは女性の胸元を強調するデザインになっており、誤魔化しようがない。

 マドカはしどろもどろになりながら、ユーリのまなざしに耐えた。

「お前に貰ったドレスなんだが、やっぱり似合わないか? ……いや、ユーリのセンスが悪いと言ってるんじゃないぞ? わ、わたしが着こなせていないだけで」

「そっ、そんなことないよ!」

 ユーリがすっくと立ちあがり、興奮気味に目を見張る。

「すごく似合ってるよ! 着てくれたんだね!」

「そ、そうだぞ。だから……その、あんまり見ないでくれ……」

 今までになく彼の視線を熱く感じ、これ以上は耐えられそうになかった。胸元に両手を当てているせいで、鼓動が高鳴っているのがわかる。

(落ち着け、落ち着くんだ、わたし!)

 大樹のもとには小さなテーブルと二脚の椅子が用意され、その片方にユーリが座りなおした。テーブルには純白のクロスが敷かれ、中央には紫色の花を飾ってある。

 すべてアリエッタが準備してくれたものだ。七色庭園は原則として入場が制限されているものの、オレアノに許可してもらう形で、彼女を忍び込ませている。

(……アリエッタは向こうか)

 花壇の陰では頼みのメイドが待機していた。

 マドカはおもむろに席に着きながら、横目でメイドのほうを確認する。用意周到なアリエッタは、スケッチブックをカンニングペーパーとして掲げた。

『紅茶を淹れて差しあげてください』

 お茶会の作法もろくに知らないマドカには、彼女のサポートが欠かせない。報酬さえ支払えば、アリエッタ=シーゼルバイドほど頼りになるメイドはいないだろう。

「よ、よし……わたしが、ほら、淹れてやるからな」

 ティーポットを取ろうとするだけで、がちがちになってしまった。

そんなマドカに代わって、ユーリが淹れてくれることに。

「リラックスしててよ。僕はお仕事で慣れてるからさ、こういうのも」

さすが皇子ならではの、気品に溢れる一連の仕草だ。カップの底で小さな円を描くように、ルビー色の紅茶を静かに注いでいく。

それをまったくの自然体でこなしてしまえるから、彼は凄い。

(わたしにはできないな……)

ユーリの教養深さを羨ましく思いつつ、今のマドカには劣等感も禁じ得なかった。この一週間の花嫁修業で、何ひとつ成し得ていないのだから。

 今日にしても髪は母に結ってもらい、ドレスはアリエッタに着つけてもらった。柄にもなくネックレスを着けていても、それに見合った魅力が自分にあるとは思えない。

 ユーリは紅茶の香りを悠々と仰いだ。

「梅雨はすっかり明けたね。アジサイも見納めかな」

「アジサイ? え、えーっと……そうそう、この花だったか」

 マドカがテーブルの上に飾ってある、紫色の花を指そうとする。

それを逸早く察知したアリエッタが、花壇の向こうでカンニングペーパーを挙げた。

『その花はスミレです』

「そそ、そうだった! これはスミレ、だろ?」

 マドカの妙な慌てぶりに、ユーリが小首を傾げる。

「さっきからどうしたの? マドカ」

 彼のほうはアリエッタの存在に気付いていない。マドカは空笑いで間を持たせながら、次のアドバイスを待つ。

「な、なんでもないぞ。気にしないでくれ」

 花といったらヒマワリくらいしか知らないマドカにとって、庭園は不利だった。しかしほかの場所では他人に見られ、あらぬ疑いを掛けられるかもしれない。

 ブライアント侯爵家は娘を皇子に差し出し、権威を高めるつもりでは、と。

 ユリシーズ=ゼノンファルスが十八歳になったことで、じきに縁談の話も本格化するだろう。貴族社会では十四、五歳のうちに婚約が決まることも別段珍しくないのだ。

 ユーリはゆったりと寛ぎながら、紅茶の香りを楽しんでいる。

「まさかマドカと一緒にここでお茶会できるなんて、思わなかったよ。誘ってくれてありがとう。僕からはなかなか誘えなくてさ」

 マドカのほうも少しは緊張が解け、落ち着いた。

「気兼ねなく誘ってくれればよかったんだ。そうだ、菓子もあるぞ」

 テーブルの上でクロスが掛けられているのは、こんがりと焼けたクッキー。

「……わたしが焼いたのではないが」

「そうなの? マドカの手作りも食べてみたかったけど」

 ユーリが朗らかに微笑んで、その綺麗な唇にクッキーを放り込む。

(そうか……料理がちゃんとできていれば、ユーリに食べてもらえたんだな)

 自分で作った料理を誰かに食べてもらう――そんな当たり前のことも、マドカにとって新鮮に感じられた。それを実現できなかったことが悔しい。

『もう大丈夫でしょう。わたくしは退席します』

 アリエッタはカンニングペーパーを引っ込め、足音もなく去っていった。ほかにひとの気配はなく、大樹のもとは静まり返っている。

(オレアノもいないな……?)

 マドカはテーブルの下で親指を捏ね合わせながら、口を開こうとした。

「と、ところでっ! ユーリ、こないだの件だが……」

「あっ、あのさ? マドカ、この前は……」

 お互い同じことを、同じタイミングで意識していたらしく、声が重なってしまう。

 お茶会は緊張感に満たされたが、決して居心地の悪いものではなかった。ドレスが軽いせいか、普段ほど肩に力を入れなくて済む。

「……その、先日はわたしが悪かった。お詫びといっては何だが、誕生日プレゼントの仕切りなおしを……こ、これなら使ってもらえるか?」

 マドカは読書家の彼に、布製のブックカバーを手渡した。

「わたしが縫ったはずもなく……えぇと、いいのをメイドに探してもらったんだ」

 このプレゼントはオレアノの案だ。マドカひとりでは、一晩二晩悩んだところで、これほど気の利いたものは思い浮かばない。

「ありがとう。……僕のほうこそごめんね、せっかくグローブをくれたのに」

「謝るのはわたしのほうだ。このドレスのこともすっかり忘れてて」

 謝罪に謝罪が重なり、どっちが謝っているのかわからなくなってくる。

「本当にすまなかった!」

「ほんとにごめん!」

 ふたりの言葉は意気投合するみたいにハモり、緊張感を霧散させた。

「……あははっ! マドカ、何回謝ってるのさ」

「わ、悪いと思ってるから謝ってるんだ!」

 ユーリと一緒にマドカも表情を緩ませながら、照れ隠しにクッキーを噛む。

 椅子に座っていても足首が痛く、いつものように伸ばせなかった。

(こんなに大変な靴だったのか?)

慣れないハイヒールを無理に履いたせいだ。実は練習でふたつも折ってしまい、みっつ目のこれは、踵の部分を金属で補強までしていた。

 帝国令嬢の教養がまるで身についていないことに、マドカは自嘲する。

「わたしもみんなに『女らしさ』を求められて、ユーリの気持ちがよくわかった。自分に合わないことを押しつけられるのは、たまったものじゃないな」

 自分の部屋も掃除できないわ、お菓子は爆発するわ。裁縫にも挑戦しようとしたが、周囲に総出で止められてしまった。

「でもマドカ、帝国の良家に嫁ぐんなら、できないとまずいでしょ?」

「わかってるさ……はあ、いつもと立場が逆になってしまったな」

 帝国のため、家のため、いずれマドカも誰かの花嫁となる。しかしこの調子では、政略結婚であっても婿に断られてしまいそうだった。

「……僕ね、羨ましいんだ」

 ユーリがぽつりと呟き、七色庭園の大樹を見上げる。

初夏の強い日差しも巨木に遮られ、木陰は適度に涼しい。

「マドカみたいに強かったら、みんなの期待に応えられるのにってね。どうしても僕は、みんなが期待してるのとは逆の皇子様でさ」

 次期皇帝のユーリに『強くあれ』と強要しているのは、マドカだけではなかった。王侯貴族、軍閥の面々、そして父親である皇帝も、ユーリに強靭さを求めている。

(みんな、ユーリのためと思って言ってるからな……)

 それほど彼が抑圧されているのを知っていたはずなのに、マドカまで一緒になって『男らしくなれ!』と、発破を掛けた気になっていたのが恥ずかしい。

 自省の懺悔はユーリにこそ聞いて欲しかった。

「……すまない。お前が本音で相談できるのは、わたしかオレアノくらいだったのに」

「マドカは騎士の家系だから仕方ないよ。僕だって父上みたいに強かったら……」

 マドカが吐露すれば、ユーリもコンプレックスを告白する。

 父親が勇猛果敢であることは、おそらく息子を何より追い詰めていた。

「あの方の強さは桁外れだ、気にすることないぞ」

「気にしちゃうよ。ずっと父上の活躍を聞かされてきたんだからさ。子どもの頃は父上に憧れて、剣を習ってみたりもしたけど……ダメなんだ」

 ユーリが物憂げに大樹を仰ぐ。

「あーあ。僕もマドカみたいになれたらなあ」

 彼の劣等感を吹き飛ばせるような上手い言葉が、マドカには思い当たらなかった。それでも自分なりに共感くらいはできる。

「なら、わたしはユーリみたいになりたいかな。落ち着きがあって、花の名前をたくさん知ってて。本気で羨ましいぞ」

 誰に対する劣等感というほどではないにしても。女性として至らない自分自身に、諦観の気持ちさえ芽生え始めている。

 どうしてこうガサツになってしまったのか。

女だてらにインペリアルガード第三部隊の隊長となり、暴れていられるのか。

「……いつかお互い、嫌でも男らしく、女らしくを受け入れる日が来るんだろうな」

「そうだね。モラトリアムも、そろそろおしまいさ」

 しかし沈んでばかりもいられず、マドカは人差し指を立てた。

「何か書くものはないか? ユーリ」

「誕生日に母上に貰ったペンなら、持ってるよ」

「今日は東方でいう、七夕というやつなんだ。ちょうど樹もあることだし……」

 マドカとともにユーリも大樹を見上げる。

 ブライアント侯爵家は東方由来の家柄であり、『マドカ』という名前にもその特色が表れていた。漢字では『円』と書き、皆と温和な関係を築く、という意味がある。

「オリヒメとヒコボシっていう恋人が、年に一度だけ会えるってやつだっけ? 願い事を短冊に書いてさ、竹……じゃない、名前が出てこないや」

「あぁ、思い出したぞ! ササノハとかいう樹にぶらさげるんだ」

 ゼノン帝国は領土が広大で、複数の民族が共存しているため、風習や文化の独自性には寛容である。強くさえあれば、誰でも認められる。それが帝国のスタイルなのだ。

「今日なら叶うかもしれんぞ。まあ景気づけにな」

「いいね! やろう、やろう」

 マドカたちは茶菓子のクロスを栞のサイズに裂き、それを短冊とした。ユーリが万年筆で先に願い事を刻んだら、もう一枚の短冊に、同じようにマドカも書き込む。

マドカみたいになれますように。ユリシーズ=ゼノンファルス。

 ユーリみたいになれますように。マドカ=ブライアント。

 あとは大樹の枝に掛けるだけ。

 しかし樹はあまりに背が高く、枝まで手が届きそうになかった。騎士の具足なら闘気を併用して跳ぶことも可能だが、ハイヒールでは強度が足りない。

「さすがに樹は無理か。そのへんの背の高い花にでも……なんだっ?」

「あれ? ねえ、マドカ!」

 ところが二枚の短冊は、ひとりでにマドカたちの手から離れ、宙に浮いた。穏やかな光に包まれながら、大樹の傘へと吸い込まれていく。

 それきり短冊は消えてしまった。

「……なんだったんだろうね。風かな?」

「うーむ。……いいさ、気にするようなことでもないし。もしかすると、オリボシとヒコヒメが願いを聞き入れてくれたのかも、な」

「オリヒメとヒコボシだってば」

 庭園に風が吹き抜け、大樹がざわざわと葉を擦りあわせる。

「お茶の続きしよっか」

「よし。今度こそわたしが淹れてやろう」

 ふたりは席に戻り、互いに紅茶のおかわりを差し出しあった。初夏の日差しも和らぐ木陰で、七色の花壇を眺めながら、和やかに談笑する。

「そういえば、オレアノが西方の諸国でどうとか言ってたぞ」

「聞いたよ、新連邦として独立だってね。大きな争い事にならなきゃいいけど……今すぐ独立を認めるのは、僕は時期尚早だと思うな」

 その後は次期皇帝と騎士団のホープらしく、国政と外交の話題で盛りあがった。

 

 

 翌朝、窓の外でスズメが鳴き始める。

「ん? ……眩しいな、アリエッタ~、ブラインドを閉めてくれ~」

 まだメイドの勤務時間ではないようだ。布団を被ってもそもそと抵抗してみたが、どうしても朝日が瞼の裏まで届く。

 騎士として朝はシャキっと起きるもの。

(なんでこんな眠いんだ? 昨夜は早めに寝たぞ?)

そのはずが今朝に限って、身体が思うように動かなかった。ふかふかのベッドが異様に心地よくて、起きる気になれない。

「っと、いかんな。寝起きのよさがわたしの美徳なのに……」

やっと起きてみると、肩が軽くなっていた。

「……ん? あれ?」

 物理的に『軽い』のだ。胸元にいつもの膨らみが見当たらない。

 ロングヘアは忽然と姿を消しており、うなじに直接触れることもできた。さしものマドカも青ざめ、大慌てで鏡を探す。

よくよく見れば自分の部屋ですらなく、アンティーク風の本棚に囲まれていた。照明や柱の装飾からして、とりあえず城の中であることは間違いない。

「誰の部屋で寝ていたんだ? わたしは」

 やっと見つけた鏡を覗き込んでも、そこにマドカの姿はなかった。

目を凝らし、鏡の隅々まで探したところで、ユーリの小顔が正面にあるだけ。

「……はっ、ははは。まさかな」

 マドカが右の頬を抓ると、鏡のユーリは左の頬を抓る。逆に左の頬を抓ると、向こうは右の頬を抓る。

 寝巻の中にブラジャーがないわけだった。

(このカラダ、男……?)

 手足はほっそりとして、色白で。

自分のものではない指が左右で五本ずつ、瞳とともにわなわなと震える。

「どっどどど、ど……どうなってるんだ、これはぁあああああああああああ~っ?」

 皇子の姿になってしまったマドカは、叫ぶ表情を両手で挟んだ。

 

 

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