俺様な王子に愛想が尽きました。

第四話

 雨がしとしとと降りしきる真夜中、私たちは再び地下迷宮へと足を踏み入れた。黒曜石の輝きが迷路をぼんやりと浮かびあがらせる。

 先頭はリオンで、次に私、怖がりのゼルの順に続く。

「おまえはすぐ警戒するから、馬にも警戒されるんだ。もっと気楽にしてみろ」

「そんなこと言ったって、蹴られて大怪我するかもしれないじゃない」

 私とリオンの話題は日に日に充実した。今日のような雨の日でもなければ、勉強の合間に外に出て、馬を走らせてみたり。本屋まで買い物に行くことだってある。

 恋人になりましょう、なんて言葉は交わしていない。あれからキスをすることもなかった。どうしても私には身分差という引け目があるもの、分別くらいは持っていたい。

 リオンのほうも無理に距離を詰めてくることはしなかった。王位継承の儀式で必要だから、私の純潔を守っている節はある。

でもそれ以上に、私の純潔を大切にしてくれてる……なんてふうに思いあがって。私はこの悪魔の王子様にすっかり調子を狂わされていた。

 後ろのゼルは少し遅れがち。

「大丈夫なの? ゼル。なんだか、ずっとそんな調子じゃない」

 肩越しに振り向いて尋ねると、気のない返事が返ってきた。

「疲れてるだけさ。これが終わったら休む」

 最近は妙に塞ぎ込んでいて、声を掛けても反応が薄い。

「無理しないでね」

「あ、ああ。サヤカもな」

 これは相当、溜まっているみたい。次の気分転換にはゼルも誘ってみようかしら。

「明日は晴れるといいわね。まあ、雨なら雨で勉強がはかどるけど」

「是が非でも晴れてくれんと困る」

 そう言いつつ、リオンの勉強に対する姿勢は随分と改善されてきた。それが私へのご機嫌取りかもしれないと思うと、嬉しいような、情けないような。

 やがて地下水脈に出て、橋の向こうに祭壇が見えてくる。

「……待て、サヤカ」

その橋の途中でリオンは不意に立ち止まり、悪魔の羽根を広げた。

「そこにいるのは誰だ? 俺様の目は誤魔化せんぞ」

 行く手を遮るように人影が現われ、私たちに立ち塞がる。

 振り向いた時には、後方からも囲まれていた。私はリオンと視線を交わし、緊迫感に鼓動のリズムを早めながら、唇を噛む。

「リオン! これって?」

「見ての通り、待ち伏せされていたようだな」

 相手はグラント教会の信者たちだった。ローブで顔を隠しているせいで、その素性はわからない。でも敵意だけは空気が張り詰めるほど伝わってきた。

 正面のひとりがフードを外し、正体を明かす。

「申し訳ありません、リオン様。わたくしにご同行いただけますか」

「フィリアさんっ?」

 思わず私は声をあげ、双眸を強張らせた。

 アカデミーの卒業生で、グラント教会のシスターを務める才女、フィリア=シルベストリ。城でもそれなりに顔を会わせている相手を、見間違えるはずがない。

「フィリアさんが、どうして……?」

「落ち着け、サヤカ」

 戸惑う私を制しつつ、リオンが一歩前に歩み出た。

「貴様ら、なぜこの場所を知っている? 誰の差し金だ?」

 フィリアさんが悪魔の王子に向けて、ロッドを構える。

「誰の差し金でもありません。オブシダン公国の未来のため、わたくしたちは王家から悪魔の血を絶やすべく、集まった有志なのです」

 彼女の振る舞いに邪悪さは感じられない。精悍とした顔つきで、罪人を罰する裁判官のように堂々としていた。

 ほかの信者たちも次々に武器を構える。

「悪魔から我が公国を救うためです。どうか、ご理解ください」

教会は武器として刃物の使用を禁じているにもかかわらず、彼らは鋭利な槍や剣をぎらつかせた。いつぞや聖杯の記憶で見た、少女の惨劇を嫌でも想起させる。

悪寒に震えながら、私はリオンの肩を揺すった。

「リオン! このままじゃ、私たち」

 しかしリオンは動じない。

「そんなもので俺様を殺せると思っているのか? 今なら見逃してやる、失せろ」

「そうはいかないのです。賽は投げられたのですから」

 王子暗殺には絶好の機会だった。地下迷宮の中なら目撃者も出ず、王子を殺害したのはモンスターだと言い張ることもできる。

 その可能性を考えないほど、リオンは決して愚かじゃない。護衛をつけなかったのは、情報の漏えいを防ぐためであり、また自信があったのだろう。

 リオンが手をかざすと、魔力で青い炎が浮かぶ。

「貴様ら、多少の火傷は覚悟しろ」

 信者らは臆することなく、じりじりと前後から間合いを詰めてきた。

 まずいわ、いくらリオンが強くったって……。

 こうなったらゼルにも協力してもらって、フィリアさんを説得するしかない。

「ゼル! お願い、ゼルからもフィリアさんに――」

「すまねえ、サヤカ」

 ところが、私はゼルに押しのけられた。

 ゼルは後ろで詠唱を続けていたらしい。リオンの無防備な背中に目掛け、魔法を放つ。

「あんたにサヤカは渡せねえっ!」

「ぐはあああッ?」

 リオンは青白い電流に焼かれ、大きくのけぞった。受け身も取れずに倒れ、続けざまの電撃にのたうちまわる。

「ゼル=シグナート……貴様!」

「オレの白魔法は聖なる力です。リオン様では抵抗できません」

 私は顔面蒼白になって、ゼルの右腕を掴んだ。

「何をしてるの、ゼル!」

「サヤカ、さがってろ。チャンスは今しかねぇんだ!」

 だけどゼルに突き飛ばされてしまう。

橋の上に魔方陣が浮かび、リオンを拘束した。ほかの信者たちも一斉に呪文を唱え、悪魔の王子に聖なる光を叩き込む。

「ぐああああぁあああッ!」

「やめて! やめて、ゼル! やめて! やめて!」

 いくらゼルひとりを引っ張っても、総がかりの集中攻撃は止まらなかった。光の刃がリオンの背中へと殺到し、魔性の羽根を引き裂く。

 攻撃が終わると、リオンは煙に包まれながら、前のめりに倒れてしまった。

「リオン? しっかりして! ……放してよ、放しなさい、ゼル!」

 涙が溢れてくる。痛々しい有様のリオンを鮮明に映すことを、瞳は拒絶した。何回も叫ぶうちに声が枯れ、呼吸もつらくなる。

「落ち着けよ、サヤカ。おまえをどうこうしようってわけじゃないんだ」

 暴れる私を、ゼルは強引に抱き締めていた。

 ゼルの腕の向こうで、グラント信者がリオンを囲む。フィリアさんの指示でリオンは鎖を巻かれ、引きずられていった。

「待って! リオンを連れていかないで!」

何が起こっているのか、まるでわからない。考えたくもなかった。

ただ目の前の惨劇を、枯れた声と熱い涙で必死に拒絶する。

「いいから、話を聞けって!」

リオンのほうに伸ばした手は、ゼルに取りあげられた。

 フィリアさんが近づいてきて、蛮行の直後とは思えない笑みを綻ばせる。

「もう大丈夫ですよ、サヤカさん。あなたもこれで、悪魔に血を捧げるなどという真似をせずともよいのです」

 頬を撫でられると、荒れていた感情が少しは鎮まった。心のどこかで私はまだフィリアさんの人となりを信じているのかもしれない。

「フィリアさん……どうして、こんなことをしたんですか……?」

「血塗られた王位継承の歴史を終わらせるためですわ。ガリウス陛下の時も二十人以上が犠牲となり、そこには……わたくしの両親もいたのです」

 フィリアさんは胸元で十字を切った。

「父も母も、陛下の魔性を少しでも抑えるため、日々努力していたそうです。……なのに陛下ご本人に無残にも殺されてしまいました」

 私はぎくりとして、言葉を失う。

 リオンも『親父の時は酷かった』と言っていた。当時はリオンよりも深刻で、多くの家臣が犠牲になったという。

 その犠牲者たちに息子や娘がいても、不思議じゃない。

 フィリアさんの表情はいつになく真剣だった。

「わかってください、サヤカさん。このまま悪魔に支配されていては、いずれオブシダン公国は魔界に落とされてしまうことでしょう」

「ち、違います……リオンが、そんなこと、するわけ……」

 グラント教徒が今度は私を包囲する。

「それ以上仰るなら、サヤカさんを悪魔崇拝の魔女として連行せねばなりません。お願いですから、わたくしにそんなことをさせないでください」

 おそらくフィリアさんの采配によって、今の私は生かされていた。ここで私ひとり処分したところで、彼らに不都合はない。

 ここで魔女として扱われる勇気もなかった。もうリオンに味方できない。

「突然のことで、混乱なさっているのでしょう。今夜はゆっくり休んでください」

「フィリアの言う通りだ、オレが送ってやる。戻ろうぜ、サヤカ」

 ゼルが私の背中に触れ、歩くように促す。

 どうしてこんなことになったの?

 リオンは無事なの……?

 呆然としながら、私はゼルたちと一緒に地下迷宮をあとにした。

 

 

 メイド用の一室である私の部屋まで戻ってから、ゼルはお茶の支度を始めた。ベッドに座って意気消沈するしかない私の目の高さに、温かい紅茶が運ばれてくる。

「飲めよ。すっきりするぜ」

 まさか飲む気になんてなれなかった。

受け取りもせず私は俯き、スカートに指を立てる。

「どういうつもりよ、ゼル。どうして、あなたがあんなことを……」

 最初にリオンを攻撃したのは彼だった。躊躇いもなく、悪魔の羽根に強烈な神聖魔法を打ち込んだのだから、許せない。

 それでも時間が経ったせいか、少しは話を聞くくらいの余裕もあった。それがフィリアさんやゼルの思惑通りであっても、今は情報が欲しい。

「グラント教会と内通していたのね、あなた」

「フィリア=シルベストリに誘われてな。だけど、これはオレの意志だ」

 私が受け取らなかった紅茶に、ゼルが口をつける。

「待って、ゼル。私の話も聞いて」

 部屋に戻ってから初めて、私は幼馴染みの顔を見上げた。

「こんなの、グラント教会の陰謀に決まってるじゃないの。フィリアさんだって、らしくないわ。確かにご両親のことは気の毒だけど……」

 悪魔から国を守るため、などという理屈はクーデターの大義名分に過ぎない。公国に冷遇されてきたグラント教会の古典派が絡んでいるとなれば、狙いも察しがつく。

 公国領における、教会の権威拡大だわ。

 それを見抜けないフィリアさんではないはずよ。信心深いだけでなく、社会学や政治学にも造詣の深い彼女が、権力争いに踊らされているとは思えない。

「フィリアは本気だぜ。悪魔の支配から公国を救おうってのは、司教の詭弁だけどな」

「じゃあ、その司教がクーデターの首謀者ね。国王陛下にお報せしないと」

 クーデターはおそらく用意周到に計画されていた。ガリウス国王が不在の隙を突いて、たったひとりの次期王位継承者を葬ろうとしている。

「リオンはどこなの? どうするつもり?」

 連れていかれたリオンのことを思うと、気が気でなかった。

 ゼルが紅茶を置いて、重たい口を開く。

「東に塔があるだろ。今頃はあの最上階で幽閉されてるはずだ。明朝、陽が昇ったら、聖剣で処刑することになってる」

「そんな、殺すなんて!」

 私が立ち上がって両肩を揺すっても、ゼルの言葉は淡々と続くだけ。

「それが公国のためなんだ。悪魔の歴史は終わって、ここに新しい国家が誕生する」

「本気で言ってるの? そんなのグラント教会の勝手なシナリオじゃない。民だって、こんなクーデターに納得するわけ……」

「辻褄合わせなら用意できてる。いずれ民も順応するさ」

 ゼルの様子がおかしかったのは、裏切るタイミングを見計らっていたからなの?

 私には事前に何の相談もせず、今も私の話を聞こうとしない。

 それでも、ゼルが本当に私を裏切ったなんて信じたくなかった。神聖魔法でリオンを焼いたことは別にしても、彼には味方であって欲しい。

 少しは涙が乾いた瞳で、私はゼルをまっすぐに見詰めた。

「ゼル、こんなの絶対に間違ってるわ。あなたにも考えがあってのことなのかもしれないけど、私に力を貸して。フィリアさんを説得して、リオンを助けたいの」

 公国のため、などと言い切れる信念も理念もない。ただ、リオンを助けたい気持ちは本物で、そのためなら何だってできる。

 たとえ魔女と罵られても。もう絶対にリオンを見捨てたりしないわ。

「お願い、ゼル。友達でしょう? 私……その、初めて言うけど」

 深呼吸してから、私はまだリオンにも伝えていない気持ちをゼルに打ち明けた。

「リオンが好きなの」

 ゼルが俯き、急に声のトーンを落とす。

「……オレはおまえの友達か」

しばらく時計の音だけがコチ、コチと響いた。

「オレは……もう幼馴染みとか、友達じゃ嫌なんだ」

 不意に彼の手が私を捕まえ、ベッドへと押し倒す。物凄い力で押さえ込まれ、シーツから背中を剥がすことができなかった。

「ゼルっ? ど、どうしたの、いきなり」

「いきなりなんかじゃねえよ!」

 ゼルの瞳がおかしな色をたたえ、私をねめつける。

 その理由を知ったのは、ブラウスを破られてからだった。ボタンが飛び、下着を残して胸元が露わになってしまう。

「きゃあああっ!」

 ゼルは恐ろしい剣幕を張り、怯える私にも容赦なく凄んだ。

「オレが友達だと? 違う、オレはおまえの友達なんかでいたくない」

 こんなに荒れる幼馴染みは知らない。見たことがない。

「やめて、ゼル! 私……待って、お願い……」

「じっとしてろよ、サヤカ」

 彼は私の首筋に顔を埋め、唇を開いた。湿った吐息を零しながら、熱い舌をダイレクトに這わせてくる。私の身体が強張っていようと、遠慮も躊躇もせずに。

 抵抗しようとする私を抱き締め、身体を押し当ててくる。

「こ、こんなこと……んはあ、どうして」

 襲われている、と頭ではわかっていた。脚の間にゼルの膝が割り込んでいて、スカートも捲れているかもしれない。でも恐怖より戸惑いのほうが大きい。

「わからないふりなんて、しないでくれよ。オレは」

 息を乱しつつ、ゼルが私の首筋を舐めては、耳たぶを噛んだ。決して乱暴にするのではなく、宥めるような動きが、私の警戒心を緩めてしまう。

「おまえが好きなんだ」

 その囁きは暗示みたいに聞こえた。

 私は首を捻って、彼の口づけを少しでも遠ざける。

「そんなの嘘よ、だって、ゼルは、んぁ、いつもほかの子とばっかり」

 動揺していた。心拍数が跳ねあがり、胸の中が繰り返し膨らむ。

「おまえに嫉妬して欲しかったんだよ。気を引きたかった」

 耳を舐めつつ、ゼルは私の脇腹から腰を撫でていた。真剣な顔つきで、勢い余った情動を私にぶつけてくる。

 押し返すつもりが、彼の肩に掴まる格好になってしまった。

「待って、ゼル……ほんとに、んっ、お願いだから」

 幼馴染みに求められる戸惑いと、肌を知られていく恥ずかしさ。声は上擦り、瞳に弱気な涙が滲む。顔を見られるのが嫌で、そっぽを向くと、余計に首筋が無防備になる。

乱暴な手つきからも、首筋を這う貪欲なキスからも、ゼルの気持ちが伝わってきた。伝えられることで初めて、私も実感する。

 ゼルは私のことが好き。

「もう許して、私、はぁ、あなたとこんなこと、したくないの」

 いつだって軽薄な彼は女の子に対して、遊び半分だった。私に対してもおどけてばかりで、口説き文句も冗談めいていた、はずなのに。

「どうして、ン、教えてくれなかったの?」

 色恋沙汰に勘付けるほど、私は聡明じゃない。勉強はできるけど、ほかの女の子が平然とこなせることは、ほとんどできない。

 そういう面白味のない女なんだって、ゼルも知ってたでしょう?

「好きだなんて、冗談にでもしないと言えねえだろ」

 ゼルは飽くことなく私の頬を撫でさすり、瞳を覗き込める近さで囁いた。

「自惚れてたんだよ、オレは。サヤカはオレ以外の男を受け入れるわけないって」

 さっきまでのような乱暴さはなくなったものの、押し倒す力は強い。

 本音に本音をぶつけるのが怖くて、声が震えてしまった。

「私はゼルのこと、そんなふうに……んくぅ、考えたことない、から……!」

 いつものゼルが相手なら、軽蔑しているに違いない。罵声のひとつでも返し、思いきり蹴り飛ばしている。

 でも軽蔑の気持ちは彼ではなく、私自身へと向かっていた。

 これほど情熱的に想われていたのに、気付きもしないで。時には迷惑にさえ思って、彼をあしらってばかりで。それがどれだけゼルを傷つけたか、今なら想像できてしまう。

 もしリオンに振り向いてもらえなかったら? きっと私は傷つく。

 今はゼルのことを考えなくちゃいけないのに、リオンを思い浮かべている浅はかな自分が嫌になった。ゼルに求められていながら、私はリオンを見てる。

 ゼルは……ゼルは本気で、私のこと……。

 ここで拒絶したら、今度こそゼルを残酷なほど傷つけてしまうのがわかった。

 身体を奪われようとしていても。

「いきなりこんな、さ、されても……私、んはぁ、わかんないし」

「いきなりじゃねえよ。オレはずっと、こうしたかったんだ」

 ゼルの一方的な愛撫は止まらなかった。女性では考えつかないような類の欲求もあるのだろう。それなのに、もう嫌悪感が働かない。

「リオン様には渡さねえ。サヤカ、今からおまえを、オレのものにするぞ」

 拒絶も妥協もできない私を、ゼルは深く抱き締めた。こちらの視界を独占するように顔を近づけ、瞼を半分まで伏せる。

「目、閉じろ」

心臓がどきりと跳ねた。目を閉じたら、次こそゼルと結ばれる。

「……ゼル、わ、私……」

 だけど私は目を閉じることができなかった。

 ゼルが嫌なんじゃない。ただ、私の唇はリオンのものだから。

 リオン以外のひととキスしたくない、それが私の答え。

「なんでだ……なんでだよ、サヤカ」

じっと見詰め返していると、ゼルがわなわなと肩を震わせた。私の肌から手を剥がし、八つ当たりするみたいにベッドを殴りつける。

「なんで目を閉じてくれないんだよ! オレじゃ……オレじゃあ、だめなのかよ!」

 ゼルの頬に涙が流れた。叱られた子どものように声を上げ、荒れる。

 連鎖的に私の涙腺も決壊してしまった。

「わからないわよ、そんなの! わっ、私の気持ちだって、うぇ、うええっ」

 私も泣く。叱られた子どもみたいに、ゼルと一緒に。

 誰かの好意を無碍にすることが、こんなにつらいなんて。

 守り抜いた唇がしょっぱい涙で濡れる。

「あんたとキスしたこと、あったのに、ひぐっ、できないんだもの……!」

 ゼルとは一度、仮死状態に陥った際に唇を重ねていた。それが二度に増えるだけのことなのに、私には耐えられない。またゼルを軽視して、リオンのことばかり考えてる。

「リオンに……会いたい!」

 最低の発言だった。でも、もうゼルに嫌われてしまいたかった。

 私のせいで、これ以上ゼルに傷ついて欲しくない。私も傷つきたくない。

 

 先に泣き止んだ幼馴染みが、半裸の私に布団を掛けた。

「悪かった。もうしない」

 ベッドを降り、いつものゼルに戻ってくれる。

「おまえのキャパを超えちまったよな。こういうことにはおまえ、不慣れだろうから」

 けれども目が真っ赤。

 かくいう私の顔も酷い有様で、ハンカチを渡された。

「鼻、拭けって」

「そこは『涙を拭いて』じゃないの?」

 私も少しは調子を取り戻し、思いきってチーンと鼻を噛んでやる。

 ゼルは椅子に座って背を向け、しばらく額を押さえていた。

「……かっこわりぃ」

幼馴染みとは何回も喧嘩している。

だけど今夜の喧嘩は、もう仲直りできない。ゼルを拒絶したのだから。

私は布団に肩まで包まり、ぽつりと呟いた。

「ごめんなさい」

「おまえが謝るなよ。オレが酷いことしたんだし、さ」

ゼルが振り向いて、ぎこちない苦笑いを浮かべる。

「本気になられると、つらいよな。オレも何回か経験ある。そのたびに……サヤカのこと思い出して、断るんだ。でもどんなふうに言ったって、傷つけちまうんだよ」

 ひとを好きになるのは、いいことばかりじゃなかった。現に私はリオンに焦がれる一方で、ゼルを傷つけてしまっている。

「少しは勉強になっただろ」

「……ええ、とっても」

 布団の中で私は着衣の乱れを直し、ベッドから降りた。まだこうして幼馴染みと話せることに、ずるいと思いながらも安心してしまう。

「さあ、行こうぜ」

 ゼルは景気づけに膝をばんっと叩き、立ちあがった。

「フィリアがどこにいるかはわかんねえけど、リオン様の居場所ならわかる。会いに行きたいんだろ、サヤカ? リオン様に」

「ゼル?」

「何とぼけたカオしてんだ。こんな事件、さっさと片付けちまおう」

 私は頷き、ゼルとともに部屋をあとにする。

 

 深夜の二時をまわっていた。まだ雨が降っており、空気も湿気ている。

 メイドたちの部屋が集中するこのあたりは、見回りの兵も少なかった。さして警戒対象ではないのと、残念ながら逢瀬の邪魔をしないため。

静まり返った回廊を慎重に進む。

「オレはな、この件には乗り気じゃなかったんだ。けど、なんつーか、おまえがリオン様に奪われちまいそうで……頭にきちまって」

 ゼルは声を潜め、これまでのあらましを話してくれた。

 グラント教会がオブシダン公国での復権を目指し、暗躍していること。国王陛下に恨みを持つ人間がそこに加わって、リオン王子の暗殺を企てたこと。さらには聖杯にまつわる流血の歴史を公開し、オブシディアン王家を失墜させることが目的だった。

 フィリアさんにとって、その歴史を公開することは有意義だろう。国王だからといって殺人の罪に問われていないガリウス陛下に、両親の死を突きつけることになる。

「適当に合わせておいて、親父に報告しようと思ってたんだよ」

「あなた、危ないことしてたんじゃない」

 礼拝堂の脇道を抜けると、雨雲に届きそうな塔に辿り着いた。オブシダン城でもっとも高度のある建物であり、今夜は雨に濡れている。

「これで顔を隠せ」

 ゼルに手渡されたのはレインコートではなく、グラント教のフードだった。これなら顔を隠していても不自然ではない。

 塔の正門はグラント教徒が守りを固めていた。

 私たちが通ろうとすると、左右から槍が交差して行く手を阻む。

「止まれ。……ゼル様、何かご用ですか?」

「念のため結界魔法を強化しておきたい。通してもらうぞ。こいつは助手だ」

 あっさりと許可され、中に入るのは簡単だった。

 リオンに神聖魔法を直撃させたゼルだから、疑われにくいんだわ。

 塔の内部は、壁際をなぞるような螺旋階段と、いくつかの小部屋で構成されている。上に行くほど塔の直径が狭くなり、部屋の数も少なくなった。

 ここの柱や壁も黒曜石を含んでおり、プラネタリウムのような煌きを散りばめる。

 半分くらいまで登ると、広間に出た。ローブ姿のグラント教徒たちが、床に魔方陣を描いたり、楼台を並べたりしている。

中央には磔台が設置されており、嫌な予感がした。

「ねえゼル、もしかしてここで……?」

「声を出すな。あと少しだ」

 いつか聖杯で見た、あの記憶と変わらない。寄ってたかって誰かを殺す蛮行を、厳かな雰囲気で誤魔化そうとしている。

 なんてひとたちなの?

 最上階である六階への階段は、魔法の障壁によって塞がれていた。人の出入りを制限するだけでなく、悪魔の魔力を封じ込めるための結界だろう。

「フィリアがリオン様の魔力の波長を調べたらしい。最近、会ったりしなかったか?」

「時々ね。リオンの部屋で花を……あれって、このためだったんだわ」

 日頃からリオンは園芸で魔法を使っている。魔力を帯びて枯れなくなった花は、彼のそれを調べるには絶好の材料だった。

 ゼルの右手だけが障壁を音もなくすり抜け、穴を空ける。

 魔法に関して素人の私には、串のようなアイテムが託された。

「いいか、よく聞けよ。こいつを使えば、ここの障壁や錠前はどれでも解除できる。これでリオン様と脱出するんだ。下の連中に見つからねえようにな」

「あれだけ人数がいるのよ?」

「時間を稼いでくれてもいい。オレはオレで、ほかにやることがある」

 ゼルが屈んで、私のフードを覗き込む。

「ヤバくなったら、おまえだけでもすぐ逃げてくれ」

「待って、ゼル!」

 まだお礼のひとつも言ってないのに、幼馴染みは早々に踵を返してしまった。

「心配すんなよ。もう絶対に裏切らねえって」

「そうじゃなくて。無茶はしないで」

 いつの間にか逞しくなった後ろ姿が、無言で親指を立てる。

 ……リオンを助けなくちゃ。

 ゼルを階段の下へと見送ってから、私は魔法の障壁を慎重に通り抜けた。

 その穴がひとりでに閉まって、私まで閉じ込められる。脱出の際はゼルに貰ったアイテムを使えばよいだけで、ここから先は見張りもいない。

 螺旋状の階段を昇っていくと、最上階の独房へと行き着いた。

 本当に使えるのかしら、これ……。

 鍵のかかった扉の鍵穴に、例の串を空き巣みたいに差し込んでみる。

カチン、と鍵の外れる手応えがあった。

「……リオン? いるんでしょう?」

 少しだけ扉を開いて覗き込む。

 そこは塔の最上階にしては簡素な部屋で、メイドの私室よりも狭かった。足元では硬い石畳が露出しており、窓は手の届かない位置に、小さなものがひとつだけ。

知られてはならない罪人を隠すための場所だ。

 古びた寝台の上では、ぼろぼろの格好でリオンが肩を落としていた。黒衣は裂け、あざだらけの肌が露出している。

「リオン! 大丈夫? 助けに来たの」

だけど声を掛けても、反応が返ってこなかった。人形のように呆然としてる。

 私はフードを脱ぎ、ロングヘアを波打たせた。

「逃げましょう、リオン。ゼルが手を貸してくれてるの」

 ところがリオンは私を冷ややかに睨む。

「おまえは敵か? 味方か?」

 その一言にぎくりとした。

 リオンにとって、周囲の人間はすべて敵に思えるのかもしれない。私のことも、グラント教会の協力者だと疑っている。

「誤解しないで。私は本当にあなたの味方よ」

「味方、か。嘘をつく人間の常套句だな」

 彼の疑念はそう易々と晴らせそうになかった。しかし私たちには時間がない。

 証明になればと、私はゼルから守り抜いた唇を押しつける。

「ンッ……」

 ほんの一瞬、息を止めて。

 唇を離すと、やっとリオンが表情を綻ばせた。

「煙草を我慢させられていたんだ。おまえの満足いく味だっただろう?」

「味なんてしないわよ、やっぱり」

 いつものリオンだわ。生意気で、子どもっぽくて、すぐにヘソを曲げる王子様。

「どうしておまえがここにいる? 危険なんだぞ、なぜ来た」

「あなたを助けに来たって言ったでしょ。よく聞いて」

 私はグラント教会がクーデターを企てていること、それとは別にゼルが動き始めていることなど、知る限りのすべてを話した。

「これを使えば脱出できるわ」

 私の懐には魔法の串、もとい魔法の鍵がある。

 負傷したリオンを連れて、逃げおおせる自信はなかった。だがここに彼を残しては、夜明けに処刑されてしまう。

 おそらくグラント教徒たちは、朝日の力を借りた神聖魔法で、次こそリオンにとどめを刺す算段だろう。暗殺に向く夜間のうちは、悪魔の力が強いため、抵抗される。

 にもかかわらず、リオンは腰を上げようとしなかった。

「おまえだけで逃げろ。おまえまで、やつらに悪魔だと思われかねんぞ」

「意地を張ってる場合じゃないでしょ」

 説得の言葉は通じず、かぶりを振るばかり。

「王子たる俺が逃げてどうする。この程度の企てで逃げては、示しがつかんのだ」

 王家に連なる者としてのプライドが、この期に及んで頑固だった。

「今は命のほうを優先してったら」

「俺は死なんと言った」

 当惑する私とは対照的に、リオンの自信は揺らがない。

 逃げれば助かる、という考え方そのものが許せないみたい。騙し討ちに遭い、監禁されても、王子の気高さを保っている。いつもの傍若無人な王子様じゃなかった。

「心配するな、サヤカ。おまえは早く……っつう!」

 しかし気取ってもいられず、痛そうに眉間を歪める。

 骨だけの羽根は折れかかっていた。背中には痛々しい切り傷がいくつもあり、赤い鮮血が滲んでいる。血が止まっているかも怪しい。

「あなた、酷い傷じゃない!」

 包帯は持ってきたけど、どこから手をつけるべきなのか、わからなかった。ただでさえ傷の手当てには素人だし、怪我自体が酷過ぎる。

「じきに自然治癒する。放っておけ」

「で、でも……」

 せめて消毒だけでも。

 私は後ろから彼の肩に掴まり、背中の傷に舌を這わせた。

「うっ?」

「ごめんなさい、痛かった?」

 リオンが大きく息を吐き、肩越しに振り向く。

「悪くない。続けてくれ」

 彼の身体は異様に熱を帯びていた。傷のせいで発熱し、汗もかいている。

 酷い傷だわ……。

 その有様を痛々しく感じながら、私はリオンの背中を舐めた。もしかすると、キスよりいやらしい真似かもしれない。自然と息が乱れてくる。

 羽根の付け根も少しは綺麗になった。

 血の味がする。前にリオンが私の鮮血をすすって、まずいと言ったわけだわ。

「美味しくない」

「だろう? まだトマトジュースのほうがましだ」

 リオンの身体にはしっかり筋肉がついていて、触ってみるとわかる。

 ふと彼が向きを変え、私と正面から目を合わせた。

 今夜だけで泣き腫らした瞳を覗き込まれる。

「目が赤いな。……俺が迷宮でやられた時も、泣いていたか」

 半分はゼルのせいね。

 そんな私の、涙の跡が残った頬を撫でつつ、リオンは淡々と囁いた。

「何度も言うが、俺は死なん。だが……どうしても怖い」

 彼のほうが泣き顔に近くなり、弱さを綻ばせる。

「親父は殺されそうになった時、暴走して、逆賊どもを皆殺しにした。俺も親父と同じことをしてしまうかもしれん。それが怖いんだ」

 私はリオンの頭を撫で、宥めるように言い聞かせた。

「あなたは制御できるんでしょう? お母さんの血が守ってくれてるんだもの」

 私では、リオンのお母さんにはなれないけど。

 さっき舐めた血のいくらかは、彼の母親のものかもしれない。

「……そうだと、いい」

 頭上の窓からわずかに見える夜空は、いつしか静まり返っていた。雨がやんでいる。

「リオン、そんな格好じゃ寒いでしょう」

 グラント教徒のフードなんて、リオンは嫌がるだろう。しかし塔の最上階は肌寒く、私の身体も小刻みに震えていた。

「俺はいい。むしろ暑いくらいでな」

「傷が熱を持ってるのよ、それ」

「おまえはいつも一言余計なんだ。おまえこそ寒いんじゃないか?」

 リオンが私のブラウスに手を掛け、ボタンを外し始める。

「ち、ちょっと?」

 余計に寒くなるじゃない、と反抗するつもりだったのに、声にならなかった。まだゼルの感触が微かに残ってしまっているのを、リオンに上書きして欲しいから?

 私はもうリオンを受け入れてしまってる。恥ずかしい緊張感はあっても、恐怖はない。

「さっきの仕返しだ。後ろを向け」

 おずおずと私が反転すると、リオンの前髪が背中に触れた。

 口づけが始まり、背筋をつうっと舐めあげられる。

「んあぁ? リ、リオン……」

 息が乱れるせいで、声が上擦った。人差し指をかじる程度では抑えきれない。

「じっとしていろ」

 リオンの囁きが背中で広がる。吐息も熱い。

 肩に掛かっていた下着の紐を降ろされ、胸の膨らみが露わになった。頬を赤らめつつ、私はそれを両手で隠す。

「だめよ、リオン。絶対に見ちゃだめ」

「わかった、わかった。手は出さない約束だろう」

 リオンは私の髪を手に取り、香りを仰いだ。それをのけて、私の首筋にも温かなキスを登らせてくる。啄んだり、吸ったりされるのがくすぐったい。

 おかげで冷えた身体が温もってきた。火照った肌に赤みが差しているような気がして、ますます恥ずかしさが込みあげる。

「こっちを向け、サヤカ」

 肩越しに振り向いて、私もそれに応じた。唇が重なる。

「んっ、リオン……はあっ、んぅう」

「サヤカ、ン、ふぅ」

 互いの吐息を、舌に乗せて交換するみたいに。私の息遣いはリオンに妨げられ、彼の息遣いは私が妨げる。それでも唇を重ね続けて、舌を絡ませあった。

 私には手を出さないって言ったくせに、リオンのてのひらは私の胸にある。

 それさえ素直に受け入れて、実感した。

 リオンが好き。

 心も身体も一緒くたに昂って、どこもかしこも敏感になる。

「っはあ、あなた、さっきからどこ触ってんのよ」

 文句を言いつつ、私はリオンの悪戯じみた愛撫を許していた。リオンの口づけは少しも止まらず、耳たぶを舌で転がされる。

「柔らかいな、おまえは」

 やがてリオンは休憩を入れ、私を隣に座らせた。ブラウスの生地を戻し、私に肌を隠すことを許してくれる。

 私は彼の肩にもたれ、呟いた。

「やっぱり一緒に逃げましょ、リオン」

 このひとと結ばれるわけにはいかない、だからいつでも身を引ける。そう思っていたのに、引き返せないラインはとっくに超えていた。

「くどいぞ、サヤカ」

「そういう意味じゃないのよ」

 リオンと結ばれたい。でも、一国の王子に添い遂げることはできないから。

「王子なんかやめにして、どこか遠くでお花屋さんをするの」

 彼の王族としての矜持をないがしろにする、身勝手な提案になってしまった。それでも私は、リオンと一緒にいたい。一緒がいい。

「……そうだな。夜明けにすべてを捨てることになったら、おまえと逃げよう」

 リオンが私の髪をそっと撫でた。彼に貰った髪飾りはちゃんとある。

「そしたら夫婦で花屋をするぞ」

 オブシダン公国には悪いけど、王子様を連れていきたくなった。

 嬉しさが込みあげ、胸の中がいっぱいに満たされていく。

 しかしつらい部分もあった。幼馴染みを拒絶して間もないのに、こうして別の男性に素直に抱かれていることで、罪悪感に苛まれる。酷い女だと思えてしまう。

 ゼルと散々傷つけあって。

 それをリオンに慰めてもらって。

「私、あなたが思ってるほどいい女じゃないわ」

「どうした、急に」

「さっきゼルに告白されたけど、断っちゃったの。だから、その……ゼルのこと、許してあげて。今もあなたを助けるために頑張ってくれてるから」

 幼馴染みの良さを力説すると、リオンは眉を顰めた。

「……お願い」

 だけど私はゼルを裁いて欲しくない。リオンを見詰め、切に懇願する。

「恋人の立場で言うことが、ほかの男か」

「ご、ごめんなさい」

 彼の言う通り、私の態度は恋人として不誠実だった。

「まあいい。あいつが潔く身を引くというなら、許してやるさ」

 リオンが私の顔をじっと見詰め返す。

「俺の中から母上がいなくなったら、サヤカ、おまえが俺を守ってくれ」

  もう一度、私たちはキスをした。

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