俺様な王子に愛想が尽きました。

第五話

山間から陽が昇り始め、オブシダン城を薄く照らす。

 塔の最上階にある独房で、とうとう私はリオンと一緒に朝を迎えた。手を繋いで、階段を上がってくる一団を待つ。

 扉を開いて現れたのはフィリアさんと、フード姿のグラント教徒らだった。

「サヤカさん? どうしてここに……」

 私はリオンの前で立ちあがり、説得を試みる。

「聞いてください、フィリアさん! リオンを処刑するだなんて」

 ところがリオンが私の口を塞ぎ、あらぬ挑発をしてしまった。

「おまえは黙っていろ。悪魔が女を連れ込む理由など、ひとつしかないだろう?」

 フィリアさんが眉を顰め、怒りと軽蔑を言葉に込める。

「……予定通り、これより処刑を始めます。リオン様をお連れしなさい」

「待って、フィリアさ……きゃっ!」

 抵抗もままならない私を突き飛ばしたのは、リオンだった。

「見ていろ。こいつらでは俺を殺せはせん」

 口ぶりは傲慢でありながら、その面持ちは私に『心配するな』と含んでいる。

 本当に信じて大丈夫なの……?

 数名のグラント教徒が私の監視にまわった。

「魔女め。貴様も来い」

 俄かにリオンの表情に苛立ちが滲む。

「やめなさい! わたくしたちが剣を向けていいのは、悪魔だけでしょう」

 フィリアさんの制止が入ったおかげで、私まで乱暴に扱われることはなかった。

 やはり彼女は邪悪な人物ではない。ただし、彼女のロッドは神聖魔法を充填しており、いつでもリオンを攻撃できる。

「好きにしろ。用があるのは俺様だろう、フィリア=シルベストリ」

 リオンは反抗せず、フィリアさんに従った。

 きっと私の身を案じて、そうしてくれてるんだわ。

 連行される形で、私も下へと降りていく。

 塔の広間では、すでに処刑の準備が整っていた。信者たちが列となり、中央の磔台を神格化している。今からおこなうのは殺人ではなく、神聖な儀式であるかのように。

 床では魔方陣が浮かびあがり、青い電流を漲らせていた。

このままじゃリオンは……ゼルはまだ?

 できるものなら助け出したい。しかし塔の中は武器を持った敵だらけで、丸腰の私にはどうすることもできなかった。

 リオンは渋々といった様子も見せず、むしろ自ら壇上へと上がった。傷んだ羽根を見せつけながら、磔台に背中を当て、腕を水平に広げる。

 その腕を磔台に、信者たちが鎖でがっちりと拘束した。

 フィリアさんが声高らかに宣言する。

「騒がしくなる前に済ませましょう。これより悪魔の処刑を始めます!」

 グラント教徒らが一様に押し黙り、広間は静まり返った。信者に遮られつつ、私は最前列に割り込んで状況を見守る。

 リオン……!

 不安に駆られ、心臓が鳴りやまない。

 信者たちは数人掛かりであるものを運んできた。地下迷宮の祭壇に安置されているはずの、聖杯だわ。

 リオンが知ったふうに唇の端を吊りあげる。

「なるほど。そいつの力を剣に宿して、俺様を葬ろう、ということか」

「聖杯の力は本来、わたくしたちのためにある神具ですから」

 聖なる杯には澄んだ水が蓄えられてあった。そこに教徒らが剥き身の剣を浸すと、刀身が白い光を帯びる。

 フィリアさんがロッドを掲げると、計六本の剣が宙に浮いた。

 聖杯の記憶で見た、あの光景と同じ。六つの剣が生贄を殺戮せんと狙う。

「お願いです! 待ってください、フィリアさん!」

 見ていられなくて前に出る私を、グラント教徒が捕まえた。

「そいつに触れるな!」

 唐突にリオンが声を張りあげる。それがかえってフィリアさんの神経を逆撫でした。

「サヤカさんを惑わせた罪も償っていただきます」

 聖剣が輪になって旋回しつつ、その中央にリオンを据える。彼の胸の高さに合わせて水平となり、串刺しのカウントダウンに入った。

 床の魔方陣から磔台へと、神聖魔法の電流が流れる。

「ぐうううッ!」

「やめて! もうやめてください!」

 悶絶するリオンを目の当たりにして、また涙が溢れた。しかしグラント教徒らは少しも顔色を変えず、粛々と刑を執行してしまう。

「リオン様が処刑されれば、サヤカさんも目が覚めることでしょう」

「目を覚まさなくちゃならないのは、フィリアさんよ!」

 リオンの唯一の味方である私は、取り押さえられ、近づくことも許されない。

「人殺し! 悪魔はあんたたちのほうだわ!」

 汚い言葉しかない私の怒号が、聖杯をびりびりと震わせた。

 耳ではなく、頭の中に直接、連中の醜い私欲が響く。

『悪魔を払ってやるんじゃ。これで公国も我が教会に追従するでしょうな』

『王子が本当に悪魔であろうとなかろうと、我らのシナリオには関係ない。フィリア殿は信じきっておるようだが』

 それは幻聴だったのかもしれない。だが、真実味はあった。

 彼らにとってリオンの命は、教会が勢力を広げるための道具に過ぎない。フィリアさんも担ぎ上げられているだけで、敵はほかにいる。

 なのに、睨み合っているのはフィリアさんとリオンだ。

「俺様を殺すには、はぁ、まだまだ足りんぞ。その剣も使ったらどうだ……?」

 フィリアさんが激昂し、ロッドをかざす。

「これ以上の愚弄は許しません! お父様、お母様、見ていてください。今こそわたくしがオブシダン公国を、悪魔の手から救ってみせます!」

 輝く剣が磔台に狙いをつけ、弾丸のように飛んだ。

「いやあああああああああッ!」

 私の叫びが木霊する。

 見ていられない私は、両手で顔を覆った。涙がてのひらでグチャグチャに染みる。

 六本の剣は突き刺さったらしく、彼の足元で血が滴るのが見えた。誰も一言も発せず、悪魔の壮絶な最期を見届けている。

「う……嘘、でしょ……?」

 私はこわごわと目を開き、顔をあげた。

磔台ごと、リオンは六本の剣で胴を滅茶苦茶に貫かれている。ソードを使った手品が無残にも失敗してしまったみたいに。前髪が垂れるほど俯き、少しも動かない。

「あ、あなた……死なないって、言ってたじゃない……」

 次こそ絶叫でもして、気が狂ってしまうと思った。私はへなへなと崩れ落ち、強張った瞳に涙を滲ませる。

 悪魔は拍子抜けするほどあっさりと死んだ。

 ところが、その指がぴくりと動く。

「……ハッ、愚か者めら」

 リオンの低い声が聞こえ、グラント教徒たちは騒然とした。磔台に向かって構え、恐怖を瞬く間に伝染させていく。

「なっ、なんだ? これは一体どうしたことか!」

「と、塔が! 塔が揺れておるぞ!」

 揺れているのではなかった。私が両手をついている床が、ドクン、と脈動する。

「そんな、まさか?」

 フィリアさんも狼狽し、ロッドを落とした。

壁にも柱にも血管が浮かびあがる。異形の体内を描きあげ、壁面は粘膜となった。全員が怪物の腹の中へと連れ込まれる。

「……リオン?」

 どうにか私は立ちあがり、その誕生を目撃した。

 骨だけだった羽根が皮膜を張り、大きく広がる。リオンは自ら首をねじ切るみたいに顔をあげ、瞳を真っ赤に光らせた。

「貴様らの欲望に、聖杯が力を貸すとでも思ったか? この程度の処刑ごっこで、悪魔を殺せるとでも思ったか?」

 磔台が砕け、拘束具の鎖も千切れる。

 六つの聖剣はみるみる腐食し、塵になってしまった。

 怪物の腹の中となった広間のあちこちで、巨大な目玉が現れる。目玉はグラント教徒らを獲物とみなし、ぎょろっと睨んだ。

 精悍なフィリアさんでさえ戦慄し、かたかたと歯を鳴らす。

「あ……悪魔……!」

 怯えることしかできない人間たちを、リオンが威圧的にねめつけた。周囲の目玉も獲物を物色しながら、狂ったように血走る。

「貴様らには礼をせねばならんな。これだけ血が流れれば、もうあの人間の好きにされることもない。ハハハッ、おかげで力を取り戻せたぞ」

 リオンは黒ずんだ魔力をまとっていた。自分のことを『我』と呼び、圧倒的な憎悪と殺意に満ちている。

「さて、誰の首から刎ねてやろうか」

 彼はもうリオンではなかった。その殺気をもろに受けるだけで、息ができない。

それでも私は必死に彼を呼んだ。

「リオン! しっかりして、こんなのリオンじゃないわ!」

「……サカヤか。待っていろ、このクズどもをまとめて片づけてやる」

 周囲に浮かぶ大目玉が鈍い光を放つ。

その視線を受けると、あらゆる武器が石と化した。

「うわあぁ? ち……違うんです、王子! 僕は司教様に命令されただけで」

「逃がすと思うか? ハッハッハ、愉快だ! 最高の気分だぞ!」

 足元の粘膜がぬかるんで、走ることもできない。

「貴様らで遊ぶ前に、腹ごしらえといくか」

 異形の空間がまた強く脈動した。紫色の霧が生じ、私たちにまとわりつく。

 急にフィリアさんが倒れた。

「あうっ? こ、これはもしや……」

 ほかの信者も次々と倒れ、苦しそうに呻きだす。おそらく生気を奪われたのだろう。

 悪魔の力を見せつけられ、皆が慄然とする。

「どうしちゃったの? リオン……あなたが、こんなことするわけ……」

 しかし私だけは立っていられた。生気を奪われることもなく、奇怪な大目玉も私を見詰めることはしない。

 床の粘膜に骨が浮かび、リオンまでの足場となった。

「言った通りになっただろう? 我は死なんと。さあ……我がもとに来い、サヤカ」

 その口調は脅迫じみた恐ろしさと、わずかな優しさを併せ持っている。

「我が王となり、おまえが妃となる。ともに新しい公国を築こうじゃないか」

「……私が、リオンと一緒に?」

 変わり果てた恋人の誘いに、どう答えてよいのかわからない。

 でも魅力的だった。私とリオンの間には絶対的な身分差があって、結ばれることは許されない。ここで彼の手を取れば、きっと私は満たされる。

 そんな私のくるぶしを、フィリアさんが掴んだ。

「行ってはなりません……あなたまで殺されてしまいます! リオン様があなたに危害を加えないうちに、あなただけでも、早く! 早くお逃げなさい!」

「どうした。来ないのか?」

 しかしフィリアさんの悲痛な叫びより、リオンの声のほうが耳に響く。

 私だって目の前の彼が恐ろしい。震えは一向に鎮まらず、背筋がぞっと凍りつく。完全に血の気が引いてしまって、呼吸の緩急もおかしかった。

 だけどリオンは私に言ってくれた。 

『俺の中から母上がいなくなったら、サヤカ、おまえが俺を守ってくれ』

 彼は今、過度の失血によって母親の、人間の部分をなくしている。それが欠けてしまったために、悪魔の本性に乗っ取られているに過ぎない。

 リオンを守ってあげなくちゃ。 

 私は目を逸らすことなく進み、リオンの頬を撫でた。生温かい血に濡れている。

 お母さんから受け継いだ、人間に流れているモノ。

「……私なんかじゃ、お母さんの代わりにはなれないけど」

 リオンの魔性に染まった瞳を覗き込む。

ふと怖くなくなった。

彼が無邪気で、身勝手で、なりふり構わずで。お母さんを探している利口な子どもなんだって、私はもう知っているもの。

 そんな彼にいつしか惹かれた。好きになった。

「……サヤカ?」

「あなたが死なないのはわかったから、いつものリオンに戻って。血が足らないのなら、私の血をいくらでもあげるわ」

 優しく言い聞かせながら、私は首筋を無抵抗に差し出す。

 リオンがよろめいた。

「おまえの血は……嫌だ、飲みたくない……!」

 途端に魔力が不安定になり、今度こそ塔が揺れ始める。

 粘膜の半分が普通の壁に戻り、亀裂が走った。柱が傾き、天井の一部が崩落する。

 リオンは錯乱し、支離滅裂に叫んだ。

「俺はおまえを殺したくない……だ、だれもころさないと、きめたんだ! でもおれはあくまだ! ははうえをころしたあくまだ!」

「そうじゃないわ! リオン! 悪魔の力にとらわれないで!」

私は子どもを甘やかすだけの母親になるつもりはない。

涙ぐみながら、私はリオンの頬を打った。

「しっかりしなさい!」

 横っ面を向くリオンの瞳から、魔性の色が消える。

 塔が持たず、ついに崩壊が始まった。足元の崩落に巻き込まれそうになった私を、誰かがぐいっと引っ張りあげる。

「母上はもういない。おまえは俺の恋人だろうがっ!」

 視界のすべてが光り輝いた。最後に瞳に移ったのは、転がり落ちる聖杯。

 轟音を立てながら、塔が沈むように崩れていく。

 温かい光の中で、私はリオンに抱かれている気がした。眩しすぎて、とても目を開けられないけど、傍にリオンを感じる。

 キスの感触がした。

「……目を開けていいぞ」 

 恐る恐る瞼を持ちあげると、青みがかった空が見える。

 私たちは空で朝日に照らされていた。彼の背中で羽根がはばたく。

 リオンは私を抱き締めながら、不満そうに垂れた。

「おまえの血なんぞ、不必要に飲まされてたまるか。あんな不味いものを」

 本物のリオンの声が聞こえる。聞き間違えるわけがないわ。

大人びた顔立ちにしては無邪気な笑みが、私の涙腺をぶっ壊す。

「リオンっ! リオンなのね! よかった……!」

 嬉しい気持ちで、初めて泣いた。悲しい時よりも涙が溢れて、止まらない。

 それをリオンがぺろっと舐めた。

「あまり母上を気取ってくれるなよ。俺がマザコンに思われる」

「なによ、それ? お母さんは大事にしなさいってば」

 照れ隠しの憎まれ口が、涙のせいでしょっぱい。

 グラント教徒たちは魔法の球体に包まれ、ゆっくりと降下していた。すべてリオンの魔法だろう。塔があった場所は、瓦礫の山になっている。

「笑ってやれ、サヤカ。俺を殺そうとしたやつらが、俺に助けられてるんだ」

「あなたねえ……そうだわ、フィリアさんは?」

 リオンは私を抱えて地上まで降りた。

 その正面にフィリアさんの球体が降りてくる。

彼女は抵抗せず、リオンのもとで平伏した。ほかの、謝罪するだけの気概がある信者らも、一様に頭を地面に擦りつける。

「覚悟は……できています」

 リオンの采配がフィリアさんたちの運命を握っていた。

「あの、フィリアさんには事情が……」

「それを決めるのは俺だ」

私が口出しできることじゃない。少し不安になる。

 跪くフィリアさんを見下ろし、リオンは淡々と語り聞かせた。

「おまえが望むなら、処刑で決着をつけてやってもいい。だが民はすべて、いずれ俺様のものになるんだ。俺様の目の前でその命を粗末にすることは、何人であれ許さん」

「……リオン様?」

 次代の王の言葉に、フィリアさんが顔を上げる。

「すまなかったな、フィリア=シルベストリ。親父に代わって謝らせてくれ」

 彼女の頬を一筋の涙が伝った。

「リオン様……わたくしはとんでもないことを」

「俺様を串刺しにしたこと、親父には黙っておいてやる。安心しろ」

 フィリアさんとともに、ほかの面々も改めて平伏する。

 私は胸を撫でおろした。

「ふう。どうなるのかと思っちゃったわ」

「こいつは復讐心につけこまれただけだろう。それっぽい連中が、そっちにいる」

 リオンの指差すほうでは、グラント教徒の重役たちが一ヶ所に固まっていた。リオンに命を救われていながら、往生際が悪い。

「だっ誰かおらぬか! 悪魔じゃ、捕まえろ! 今すぐ殺せ!」

「捕まるのはあんたたちだぜ、司教様ご一行」

 その背後を取ったのは、白魔導士のゼルだった。

甲冑姿の騎士団とともに参上し、逆賊どもをあっという間に包囲する。

「企てはここまでだ、司教! おとなしく投降しろ!」

「ひいいいい! おのれ、裏切りおったか、ゼル=シグナートぉ!」

「神はそこそこ信じちゃいるが、あんたらを信じてるわけじゃない。残念だったな」

 一晩のうちにゼルが騎士団に陰謀を明かし、協力を要請してくれたんだわ。

ちょっと遅かったけど、これで事件は解決ね。

「無事か? サヤカ!」

 私を見つけたゼルが、いの一番に駆け寄ってくる。

「いきなり塔が崩れるから、びっくりしたぜ。怪我はないか?」

「ええ。リオンが守って……えっと、その」

 リオンに助けてもらった、と正直には話せなかった。自分を好いてくれている男性に、ほかの男性との関係を見せつけるみたいで、あてつけになってしまう。

 リオンがゼルの額を指で弾いた。

「おまえはほかの女を探せ。こいつは俺様のだ、やらん」

 相変わらず配慮など欠片もない。だけど気まずくなるより、ずっといいかも。

「そういえばおまえ、俺様の背中に神聖魔法をぶちこんでくれたな。仕返しのメニューを四通り考えたんだが、さて、どれにするか……」

「ねえ、リオン。私も考えてるのがあるの。それにしない?」

「ひ~! 許してください、あれは、なんていうか……さ、作戦だったんですよ!」

 事件の解決など、まだまだ。嘘つきが多いせいで、事後処理が大変そう。

 早朝から城の皆は、塔が潰れていることに仰天する。

のちにメイド長は『奇想天外な朝でございましたね』と締め括った。

 

 

 

エピローグ

 

 

 

 敏腕な国王陛下も帰国して、グラント教会によるクーデターは無事に収拾された。事後処理がいくつか残っているものの、お城は平穏を取り戻しつつある。

 国王や王子が悪魔の血筋にあることは露呈し、今や城の皆が知るところとなった。とはいえグラント教会の陰謀ばかり問題視され、王家への疑惑はさほど見えてこない。

 本日でメイドの業務もおしまい。私はアカデミーに復学届けを提出し、ちょうど城へと戻ってきたところだった。

 オブシダン城の正門近くで、見知った顔を見つける。

 幼馴染みのゼル=シグナートは大きな馬車を待たせていた。

「ゼルじゃない。どこかに行くの?」

 締まりが悪そうに彼が頭を掻く。

「立つ鳥は後を濁さずって思ってたんだけどな。やっぱ、一言くらいおまえと話しておきたくて……オレ、しばらく他所の国をまわって、修行することにしたんだ」

 初耳だった。今から発つらしく、馬車には荷物が詰め込まれている。

 私に何でも話してくれる関係ではなくなっていて、ちょっと寂しい。けれどもゼルは私に好意を抱き、私はそれを拒絶した。元の関係に戻るにしても、お互い時間がいる。

「男を上げて戻ってくるぜ」

「なら、乗馬と水泳ができるようになればいいんじゃない?」

「……そういう体力勝負じゃなくて。まあ、なんだ」

 それでも私たちの関係は、冗談を交わせるくらいにはなっていた。

 ゼルが人差し指で鼻の下を擦る。

「おまえの傍にいることばかり考えて、見えてないものがあったって、痛感してさ」

「見えてなかったのは私も同じよ。あなたの気持ちに気付きもしないで」

 ゼルがいなかったら、私はリオンとの関係に溺れるだけだった。きっと、自分さえ幸せならよくて、ほかのことには見向きもしなかったわ。

このひとに好かれて、よかった。今ではそんなふうに思える。

「友達として応援してもいいかしら」

「オレもおまえのこと応援するぜ、友達としてな」

 ところが、そこに絶世の美女が小走りでやってきた。キャリーバッグを引きながら、私にはない大きな胸を揺らす。

「ごめんなさい! ゼル、遅れてしまって」

「いや、サヤカに挨拶してたし。荷物はそんだけでいいのか?」

 フィリアさんだった。どういうわけかゼルと同じ馬車にバッグを持ち込む。

「あら、サヤカさん。こんにちは」

 女の直感でピンときた。

「へえ~。一緒に行くのね、、フィリアさんと」

「うっ。これはその、フィリアには一応監視も必要で……」

 ゼルが顔を引き攣らせ、私の視線から逃げたがる。

 王子暗殺の実行犯であるフィリアさんは、リオンに無罪放免を言い渡された。しかし彼女の事情を知らない面々には要注意人物とみなされている。

 そんな彼女を国外へとドラマティックに手引きする色男が、ゼルってわけ。

「フィリアさんに手ぇ出すんじゃないわよ」

「勘弁してくれ」

 フィリアさんは私にお別れの挨拶を切り出した。

「その節はご迷惑をお掛けしましたね、サヤカさん。わたくしもしばらくゼルと一緒に、諸国をまわってみようと思いましたの」

「ゼルと一緒でなくても……」

「うふふ、偶然ですよ。ゼルはどうか知りませんけど」

 ……フィリアさんって、こんな挑発するひとだったかしら?

 復讐が失敗に終わったことで、憑き物が取れたみたい、と言っていた。今ではグラント教会を出て、神聖魔法の研究を始めている。

「行きましょうか、ゼル」

「じゃあな、サヤカ! 二、三年したら、嫁でも連れて戻ってくるぜ」

 挨拶もそこそこに、ゼルはフィリアさんを連れ、馬車に乗って行ってしまった。

 なんだか釈然としないわね……。

 私は城に戻り、上のほうにあるリオンの私室へと向かう。

 

 リオンは真っ青になり、ベッドで横になっていた。

「ぎ、ぎぼぢわるい……」

 数日かけて3リットルもの血液を飲んだせいで、グロッキーになっている。

 部屋には花の香りが充満するため、朝からずっと窓を開け放っていた。庭師でもあるリオンが寝込んでいようと、花は気ままに咲き乱れている。

「大丈夫? リオン」

 私は新しい手拭いを搾り、リオンの額の古いものと交換した。

「だいじょうぶじゃない。じごくをみたぞ」

 鮮血を欲するはずの悪魔が、血の味にげんなり。

 王子の正体とともに、王位継承の儀式も明るみになってしまった。

 すると城内で、生き血を提供したい、などという女性が次々と名乗り出て。一週間もしないうちに必要な量が集まってしまったの。

 女子にとっては、己の健康と純潔を紳士らにアピールする、絶好の機会となった。

 お城の風紀、乱れてるんじゃない?

 かくいう私も、リオンにべたべた触られちゃってるけど。

 しかし血塗られた歴史にあった聖杯にとっては、これでよかったのかもしれない。誰も殺されず、誰も咎められないのだから。

「サヤカ、水をくれ」

 リオンは疲れきった表情で、私に清涼水を注文した。

「あれだけ飲んでも、特に何かが変わったようには感じん。最悪だ」

「あなたの場合、魔性が暴走していたわけじゃないものね。まあ、念のためくらいで。なんていうか……男は上がったと思うわよ」

 せめてもの慰め。グロテスクな飲料と化したアレを飲みきった度胸は認めたい。

 国王が手紙で私に掛けた魔法は、とっくに効果が切れていた。でも私たちの言葉遣いは変わらず、恋人の関係も続いている。

 私の仕事は家庭教師を残すのみとなり、今後はそれがリオンとの唯一の接点だった。プラス思考で考えれば、王子の愛人第一号あたりに落ち着くだろう。

 いずれリオンには、家柄に由緒ある令嬢が紹介される。

 そうなったら……私はグラント教会ばりにクーデターを企てる可能性があった。

ほかの女性が彼に触れるとなっては、我慢できるはずがない。してたまるか。

 かくして身分差の問題は常に背後につきまとっていた。リオンは『気にするな』の一点張りで、日に日に不安が膨らむ。

「二ヶ月後は民の前で、聖杯のパフォーマンスね。何が飲みたい?」

 パフォーマンスとしての王位継承の日取りも決まった。代々の継承者は赤ワインで誤魔化していたらしいが、リオンはお酒がほとんど飲めない。

「赤くなくてはいかんと思うか? おまえは」

「赤いに越したことはないわ。……アレにする?」

 近いうちに聖杯にはトマトジュースを注ぐことになりそうだわ。

「失礼いたします、リオン様」

 メイド長が書類を抱え、やってきた。

「サヤカ=クレメンテも一緒でしたか。なら話が早いですね」

「メイド長、あとでご挨拶に伺おうと……」

 私は起立し、今日まで上司だった彼女を迎える。

 メイド長はしれっと言ってのけた。

「次に会う時はあなたが私の上司になるのですから、もっと堂々となさい。妻が城の者に見くびられるようでは、リオン様の沽券に関わりますよ」

「……は?」

 少しだけ開いたドアから、同僚のアンたちが覗き見している。

 リオンは身体を起こし、手拭いをのけた。

「なるんだろう? 俺の花嫁に」

「えええっ? そ、そんな話聞いてないってば!」

 考えなしのリオンに迫って、私は知識を総動員してでも力説する。

「あなたは王子で、私は平民なのよ? わかるでしょ?」

「俺の母上も平民だが。なあ? メイド長」

「そうでございましたね。誰をお選びになったところで揉めるのでしょうから、これほど早くお相手が決まるのは僥倖に存じます」

 あっさり流されてしまった。

 身分差がよくても、問題はまだある。

「私は名前からして東方の民よ? 民族間のバランスに影響しちゃうわ」

 オブシダン公国は六つの民からなる多民族国家だ。そのうちのひとつが王族入りしたとなれば、ほかの五つが黙っていない。

 私の熱弁にリオンは呆れ、腕組みでふんぞり返った。

「なら、そうなっても荒れんように上手くやればいい。まったく……頭でっかちめ」

「ちょっと? 頭がカラッポのあなたよりはマシなつもりよ!」

「言ってくれたな! どうしておまえはそう、文句ばかり口がまわるんだ!」

 ぎゃあぎゃあと喧嘩をおっ始めると、メイド長が珍しく笑みを零す。

「ふふふ、失礼。国王陛下と皇后陛下のお若い頃を思い出しまして……おふたりの関係はよく似ていらっしゃいます」

 痴話喧嘩にはっとし、私もリオンも赤面した。

 メイド長が退室するついでに、噂好きな部下らを引きあげさせる。

「それでは、私はこれで……あなたたち、戻りますよ」

「は~い。サヤカ様、お待ちしておりま~す!」

 サヤカ=クレメンテがリオン王子の妻に迎えられることは、すでに満場一致で確定している様子だった。本人の確認なり了承なりは別として。

 結婚できるとなると、何だか気恥ずかしい。

「式は盛大にやるぞ」

「……わ、わかったわよ。んもう」

 私は指をもじもじと捏ねながら、結婚に同意した。

 少しは具合のよくなったリオンが、花満開のベランダへと私を連れ出す。

「当分は親父もピンピンしてるだろうから、俺が王になるのはまだまだ先だが……ひとつ事業をやってみたくてな。親父の許可は取った」

 そろそろ紅葉の季節で、城下町の木々が色褪せ始めていた。

「何がしたいの?」

 私を隣に抱き寄せながら、リオンが言いきる。

「花屋だ!」

 面白そうな予感がした。彼が楽しそうに話すんだから、間違いない。

 リオンは城下町を見せびらかすように手をかざした。

「この街を、いや、この国を花で埋め尽くしてやるのだ。どうだ、すごいだろう?」

 まだ取り掛かってもいないのに、もう自信満々。

 一国の王子様らしいスケールに、私もわくわくしてきた。

きっと世界一のお花屋さんになるわ。

「ねえ、リオン――」

その店先で私たち、結婚式をしましょう。

 そして世界一のブーケを投げるの!

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