俺様な王子に愛想が尽きました。

第三話

  王宮での生活が始まって、早一週間が過ぎた。当初はどうなることかと思っていた給仕にも少しは慣れ、包丁が飛ぶような失敗はもうない。

 同僚のメイドたちとも打ち解け、居心地はよくなりつつある。

 ガリウス国王陛下は一時的に帰国したものの、挨拶する間もなく、すぐに旅立ってしまった。『息子をよろしく』と言伝をもらっただけ。

 メイドの仕事と家庭教師の二重生活が忙しくて、せっかく王に閲覧を許可してもらった城の蔵書も、まだ手をつけていない。

 今日も王子の部屋を訪れ、家庭教師の前に昼食の食器を片付ける。

「またサラダだけ残して……まったくもう」

相変わらずリオンは、トマトを筆頭に野菜をあまり食べようとしなかった。

「サラダなんぞ持ってくるな、と言ってるだろう」

「野菜くらいで駄々捏ねないで」

一週間も顔を会わせていると、大体の人となりはわかる。

 その一、リオン=オブシディアンは私室から滅多に出ない。羽根を伸ばせないから、という理由は勿論だけど、単にインドア派なのよね。

 その二、趣味はガーデニング。室内の花壇のみならず、日当たりのよいベランダでは、季節の花が色とりどりに咲いている。手入れも丁寧で、その技はプロ並みだわ。

 その三、いつも気怠そう。口だけは達者だが、行動にはとことん消極的で、面倒くさがってばかり。未だに宿題のひとつもしてくれない。

「お花の香りがしてるのに、また煙草吸って……せめて窓を開けたら?」

 そんな王子様の面倒を見ていると、小言も言いたくなった。

「世話焼きだな、おまえは。ふあ~あ」

 当の本人に反省の色はなく、大きなあくび。

「あなたが世話を焼かせてるんでしょ。今日も午後は歴史から、ね」

 デスクを適当に片付けてから、私はテキストを広げた。当初の参考書ではレベルが高すぎたため、対象年齢の低いものを仕入れてもらってる。

「歴史か。昔のことをいつまでもねちねちと……公国の歴史ならまだしも、大陸の端の端まで知っておく必要があるのか?」

「あるから教えてるの。あなたには絶対に必要です」

 日に日に『手の掛かる子ども』といった印象が大きくなった。

 読んで聞かせるだけにならないよう、リオンの理解を確認しつつ、テキストを読み進めていく。学者である自分の説明が専門的になりすぎないようにも、注意して。

「また分裂か。この国は馬鹿だな」

「東西に分裂したってことだけ憶えておけばいいわ」

 しばらく勉強していると、ノックの音がした。

「リオン様、いらっしゃいますか? フィリア=シルベストリです」

「入ってこい」

 魔法で扉が開くと同時に、リオンの羽根が引っ込む。

 だったら魔法も使っちゃダメでしょ……。

 シスターのフィリアさんはお茶菓子を運んできてくれた。王子に失礼がないようフードは外し、美しい顔立ちを覗かせる。

「あっ、フィリアさん、私がやります」

「いいのですよ。どうぞ、サヤカさんも座っていてください」

 仕草のひとつひとつがメイドよりも洗練されていて、実にしとやかだった。同性の私でもうっとりと見惚れてしまう。

 ティーカップは音も小さく、私とリオンの分が並んだ。

「リオン様はダージリンがお好きと伺いましたので、お持ちしました」

「俺様に仕える女はこうでなくてはな。少しは見習え、サヤカ」

 美人で気立てのよいフィリアさんと比べられては、ぐうの音も出ない。

 ふんっ。気が利かなくて悪かったわね。

 茶菓子を並べ終えてから、シスターは豪勢な花壇に注目した。

「さすがリオン様でいらっしゃいますね、どれも素晴らしいお花です。近くで拝見してもよろしいでしょうか?」

「正直なやつめ。いいぞ、好きなだけ見ていけ」

 おだてに弱いリオンが機嫌をよくして、ダージリンの香りを仰ぐ。

 フィリアさんは特に赤いサザンカが気に入ったらしく、まじまじと眺めていた。花を愛でる姿が可憐なほどさまになる。

男のひとが放っておかないわけだわ。

 それこそグラント教会の地味なローブなど着せていては、もったいない。

「とても元気に咲いてますわ。よろしければ、ご指導いただきたいくらいです」

「それは無理な相談だな。俺様でしか、そうはならん」

「うふふ、秘訣がおありなのですね。……あっと、わたくしったら。それでは失礼いたします。サヤカさんも頑張ってください」

 恭しく一礼してから、フィリアさんは足音も控えめに退室していった。

 リオンが悪魔の羽根を広げなおし、好奇心旺盛な笑みを浮かべる。

「いい女だ。何といっても、あの胸がたまらん」

 さっきからジロジロとどこを見ているのかと思えば、やっぱり。フィリアさんのふくよかな胸に釘付けになっていただなんて……。

 哀れみのような視線が私の胸元に絡みついた。

「それに比べて、おまえは……はあ」

持ち主がこめかみに青筋を浮かべても、お構いなし。

「ぶつわよ、リオン」

「ハハハ! 茶が入ったんだ、休憩にするぞ」

 でも怒ったところで、このお子様は面白がって、つけあがるだけね。

 気持ちを落ち着かせるため、私もダージリンに口をつけた。花の芳香が濃厚すぎて、紅茶の香りはほとんどわからない。

「リオンもゼルと同じね、フィリアさんのことやらしい目で見て」

「そういえば、お前たちは顔見知りのようだったな」

「アカデミーでお世話になったの。フィリアさんは二年前に卒業しちゃったけど」

 フィリアさんの話題で、ふと思い出す。

確かフィリアさんって、血の提供は断ったとか、どうとか……。

 彼女は聖杯の件を知っていた。お城の礼拝堂で久しぶりに会った時、その話をしたはずだ。しかしリオンは先日、私とゼルにこう確認を取った。

『このついでに確認しておくぞ。儀式の準備が始まっていることを知ってるのは、親父と俺様と、サヤカと、ゼル=シグナートだけだ』

 そこにフィリアさんの名前はない。

……そう気にすることでもないかしら。フィリアさんだし。

 難しい顔で逡巡していると、正面のリオンが首を傾げる。

「どうした? 何か言おうとしたんじゃないのか」

「う、ううん。大したことじゃないの」

 私は何気ないふうを装って、紅茶越しに第二の色男をねめつけた。

「あなたって女性に慣れてるなあって思っちゃって……」

 城に来た初日、謁見の間でされたことを忘れたつもりはない。この男はあろうことか私のスカートに手を突っ込んで、まさぐったんだから。

 しかしリオンが悪びれた顔をするはずもない。

「俺様もそろそろ女を知ってみたくてな。それに、おまえが随分と怯えていたから、少し怖がらせてやろうと思ったんだ」

 あの手つきといい、あの言葉責めといい、本当に初めてだったのかしら?

 スケベに対する疑念は膨らむばかり。

「……別段、おまえに関係することでもあるまい」

「そ、それもそうね」

 リオンの一言で、私は我に返った。リオンがどこの誰と関係を持とうと、私には関係ないことじゃないの。弄ばれて生き血まで啜られたことは、忘れたほうがいい。

 お茶の途中でリオンが立ちあがり、窓際のサザンカを一輪摘む。

「そうだ、いい手を思いついたんだ。おまえは魔法に耐性がないだろう?」

 あれから聖杯には血液を追加していなかった。聖杯の魔力に対し、私にまったく抵抗力がないためで、今はその対策を探している。

「次は大丈夫なのかしら……」

「方法はいくらでもある、と言ったはずだぞ。ゼルに術式を組み換えさせてもいる」

 魔法使いではない私は、あらゆる種類の魔法に弱い。こういった人間は公国に大勢いて、日常生活に支障はないものの、意外なところで足枷になることがあった。

 例えば、魔法の回復薬で身体が拒否反応を起こしてしまったり。

それを克服するには魔法の鍛錬を積むしかない。つまり普通の人間は魔法の恩恵を与りにくく、かつて魔導士がペテン師扱いされていた原因である。

「おまえに修行させてる時間はないが、気休め程度にな」

 リオンがサザンカを指で弾いた。すると青い炎がその花を包み込む。

「リオン? ……あ、あら?」

 焼きあがった『それ』を見て、私はきょとんとした。

 何の変哲もない、今まで咲いていたのと同じサザンカ、みたいだけど……。

「サヤカ、試しに花びらを抜いてみろ」

 投げ渡されたサザンカに、炎の熱さは残っていない。

 花を潰すことに躊躇はあったが、一枚だけ引っ張ってみた。

 だけど抜けない。ほかの花びらを引っ張ってみても、びくともしない。

「さては魔法ね?」

 素人の私でもすんなりと腑に落ちた。

「ああ、前にもやっただろう」

 このサザンカは悪魔の魔力を帯びて、永遠の美しさを保っているんだわ。アカデミーで貰ったキンモクセイが未だに枯れない理由も、この通り。

 改めてリオンがサザンカの花に、工具も使って金具を通した。

可愛いコサージュが出来上がる。

「こいつには魔法を強めに掛けてある。おまえの身体に微弱に影響する程度にな。つまりこれを身に着けてさえいれば、自然と耐性が身につく……かもしれんわけだ」

「気休め程度ってことね」

 リオンは私の了承を得ることなしに、私の髪にコサージュを掛けた。

「うぅむ。おまえにサザンカは、いまひとつしっくり来ないな」

「あ、あんまりアクセサリとか付けないほうだから」

 まともに女扱いされてしまって、照れる。

 それでもお礼くらいはと、私はリオンの顔を見上げた。

「ありがと。大事にするわ」

「おまえにやったモノだ、おまえの好きにしろ」

向かいの椅子にリオンが戻り、穏やかにはにかむ。紅茶を全部飲み干してからお茶菓子のブッセを口に詰め込むのは、順番が逆に思えた。

「どうした? カオが赤いぞ」

「き、気のせいよ。食べ終わったら勉強の続きしましょ」

 勉強中もコサージュが気になって、私のほうが集中できず。

 

 

 お城で着飾っているメイドは多い。働いている若い女性の大半が、貴族や騎士のお気に入りになりたがっていて、身だしなみに抜かりはないわけ。

 夕食の支度中、同僚は目ざとく指摘してきた。

「ふっふっふ。サヤカ、そのヘアアクセどうしたの? もしかして……い・い・ひ・と、見つけちゃったとか?」

「そ、そんなんじゃないわよ。貰っただけで」

「プレゼント? 怪しいなあ~」

 すべからく女子というモノは、この手の話題を何よりも好む。

アカデミーでも、どこの研究室の誰が素敵だとか、誰と誰がくっついたとか、なんて話になると異様に盛りあがった。

 今日はメイド長が不在なのをいいことに、アンが背後に忍び寄ってくる。

「教えてくれたら、私も応援してあげるわよ。騎士団のジオルグ様? マルコ様? それとも……やっぱりエリート魔導士のゼル=シグナート様?」

 彼女らは何かと私をゼルと結びつけたがった。残念だけど、それだけはないわ。

 手を止め、おしゃべり好きな同僚に釘を刺しておく。

「あのね、アン。私とゼルは本当に何でもないの。ゼルはいつもほかの女の子と遊んでるし、私も、あの男が誰と遊んでようと、別に何とも思わないし」

 知らないうちに、知らない女性からライバル認定され、言いかがりをつけられたこともあった。だからこそ、きっぱり断言しておく。

 アンが訝しそうに私の表情を見据えた。

「本当に? ウソついてない?」

「ついてないわよ。父と子と精霊に誓って」

 グラント教会風に冗談も交えて、私はニンジンの皮むきを再開する。

 包丁を使い始めて一週間、手つきはまだまだ危なっかしいようで。お手本として、アンがニンジンの皮むきをスローモーションで披露してくれた。

「じゃあ、誰なの?」

「いないわよ、そんなひと」

「ちょっと気になる、とかでいいから」

 何が何でも恋愛の話題に持っていきたいらしい。

ここで仮に特定の人物を挙げようものなら、もれなく過大解釈付きの噂となって広まるのは、火を見るより明らかだった。

「……もしかして、お世話中のあの方に夢中になっちゃった、とか?」

 私が世話している男性といったら、ひとりしかいない。

 それこそ考えられなかった。

「アンはリオ……リオン様のこと知らないから、そんなふうに言えるのよ」

動揺していないことを証明するため、私は皮むきの作業を速くする。

そうよ、リオンのことなんて何とも思ってないんだから。

「身分だって違うし、リオン様はおしとやかな女性がお好みでいらっしゃるの」

「全力で否定するとこが怪しいってば。好みまでチェック済みじゃない」

 リオンの好みでわかっているのは、巨乳であること。

 そう思うと苛々してきた。

「王子様だってスケベはスケベよ。ふんっ」

「ね、ねえ、サヤカ」

 言い過ぎてしまっていることを、アンが注意する。

「サヤカ、それ。血が出てる」

「え? ……やだっ、いつの間に?」

 と思いきや、知らないうちに私は包丁で指を切ってしまっていた。

傷口は浅いとはいえ、血が滲むくらいの線が入っている。

「ご、ごめんなさい! えぇと、救急箱は?」

「ゼル様に診てもらったら?」

 アンの指差す方向には、ちゃっかりゼルが張っていた。

 様子を見に来たのはいいとして、ここは男子禁制なんだけど……。

 

 救護室にて、私はゼルに絆創膏を貼ってもらった。

「おまえなあ……血を作らなきゃなんねえ身体で、血を流すなよ。もったいない」

「悪かったと思ってるわ。ありがと、ゼル」

 処女の生き血は3リットルも必要なのだから、出血は極力避けなければならない。それ以前に怪我自体するものじゃない。

「傷は浅いし、すぐ治るだろ」

「ちょっと痛いんだけど。痛みが引く魔法とか、ないの?」

 応急処置で使った薬品を、ゼルが棚へと放り込む。

「おまえは人より魔法の効きが悪いんだよ。だからって下手に魔法を強くしちまうのも、危険だしな。もう少し様子を見て……」

 魔法は便利に思えるものの、条件を揃えるのが難しかった。使用者の魔力、対象者の耐性、魔法に即した触媒、などなど。さらには月齢や、その土地の神や信仰といったものにも影響されるため、安定しない。

 それらすべてを考慮し、術式を組みなおすのが、最近のゼルの仕事だった。

 ゼルが片方だけ眉をあげ、訝しそうに私を見詰める。

「効きが悪いにしてもほどがあるっつーか。どうにも、わからねえんだよなあ……」

 チャラチャラしている節操なしの色男だが、白魔法の扱いに関して、同世代で右に出る者はいない。そんなゼルでさえ手こずるのだから、原因があるはずだった。

「ひょっとして、おまえ、変な魔法にでも掛かってんじゃねえ?」

「……あっ」

 心当たりはあった。私には国王陛下の魔法が掛けられている。

「もしかすると、あれかも」

 私が経緯を一通り説明すると、ゼルは納得したふうに指を鳴らした。

「それだぜ! 国王陛下の魔法が干渉してっから、オレじゃ干渉できなかったんだ」

 ひとつ荷が降りた、といった顔で安堵を浮かべる。

「先に教えてくれよ、リオン様も……。夜は術の見直しで徹夜だし、朝は騎士団に連れてかれちまうし。もう一週間近くメイドに触ってなくて、おかしくなりそうだ」

「最低の悩みね」

 ここ数日は随分と忙しかったみたい。おかげで職場は平和だったけど。

「今朝、馬から落ちてたのってゼルでしょ?」

「……見てたのかよ」

 父親が一流の騎士であるため、運動音痴の息子もたまに騎士団で扱かれていた。

「父さんには勝てねえから、魔導士になったってぇのに」

 未だに父親には『魔法使いなど軟弱』と罵られているらしい。さすがにそれは可哀相に思えて、私もゼルの意見には同意してやっている。

「あなたはあなたで成功してるじゃない。気にすることないわ」

「……サンキュ。こんな話ができるの、サヤカだけだぜ」

 ゼルが私のコサージュに触れた。

「ところでコレ、友達に貰ったのか? なんつー名前の花だっけ、サヤカにはちょっと、赤色がきつすぎるよな」

「リオンに貰ったのよ。似合わないかしら」

 その手を払って、私はコサージュの位置を丁寧に調えなおす。少しはヘアアクセサリを弄るのもさまになってきた、と思いたい。

「そういえばリオンも同じようなこと言ってたわ。……ゼル、どうかしたの?」

「あ、いや。……別に何でも」

 返答が妙に遅かった。不自然に顔を背け、髭などない顎を掻く。

「その……似合わねえかな。サヤカには寒色系のほうが、知性が出ていい、つーか」

「ハッキリ言うのね。柄にもないことくらい、わかってるつもりよ。でもこれ、リオンの魔力を帯びてて、つけておくだけで耐性が上がるの」

 ようやく正面向いたゼルは、悩ましい表情を浮かべていた。

「気休めにもならねえと思うけど……」

「少しでも耐性を上げておくに越したことないでしょ。将来的にも」

「それはそうだが……おまえは怖くねえのか?」

 質問の意味がわからず、私は瞳をぱちくりさせる。

「怖い? 聖杯のこと?」

「そうじゃなくて、リオン様が。……皇太子殿下のこと、こういうのも何だけどさ、オレは……怖いんだ」

 ゼルは前後を逆に椅子に座って、背もたれの上で頬杖ついた。

「ほら、先週にサヤカが仮死状態になったろ。あん時、リオン様はなんてコトないふうに落ち着いててさ。……悪魔なんだな、って実感した」

 リオンに恐怖を感じたことなら、私にもある。生き血だって貪られた。

 だけど彼の人となりを知るうち、怖くなくなってしまった。『大きいだけのお子様』に畏怖することもないでしょ。

「リオンはリオンよ。悪魔って感じじゃないわ」

「油断するなって。本気で言ってるんだ」

 心配そうな面持ちでゼルが、手慰みに私の髪を撫でる。

「オレにはおまえの度胸が信じられねえよ。その魔法だって、元は多分、相手に嘘をつかせないためのモンだろうぜ」

 国王陛下が私にかけた魔法は、リオンと対等に会話させるためのもの。しかしリオンの前で私の心を裸にする、と強引に解釈することもできる。

いつになくゼルの口調は真剣だった。

「なんかあったら、オレに言えよ」

「……わかったわ。ありがとう、ゼル」

 私は素直に頷いて、ゼルの手をそっと払いのける。

 幼馴染みに心配を掛けてしまっているのが、申し訳なく、また嬉しくもあった。リオンを悪く言われたことは面白くなかったけど、ゼルの気持ちも尊重したい。

 なんだかんだで、友達だもの。

「そろそろ仕事に戻るわね。夕飯の支度しないと」

「おまえにも今度、クッキーの美味しい焼き方教えてやるよ」

「どーも……きゃっ!」

 救護室を出たところで、私はシスターとぶつかりそうになった。

 フィリアさんだわ。氷嚢の袋を抱えてる。

「ごめんなさい、フィリアさん」

「いいえ、こちらこそごめんなさいね」

 彼女は私と入れ違いで救護室へと入っていった。

「あら、ゼルもいたのね。ちょうどよかったわ、祭司長がなんだか風邪を引いてしまったみたいで……塔まで来てもらえないかしら」

「オッケー、わかった」

 女たらしのゼルが手を出すようなら、懲らしめないと。

リオンもフィリアさんみたいなひとには弱いんでしょうね。まったく……。

 男という生き物に愛想が尽きそう。

 

 

 城に来て半月ほど経って、ついに私は念願の書庫に足を踏み入れることができた。

古書に独特の香りが、静寂の中に満ちている。

アカデミーの図書館は国外の留学生が利用することもあって、内装を無駄に飾り立てており、また、公国が許可した書物しか置いていなかった。

 その一方で王宮の書庫は、一見するとシンプルな造りだった。とにかく蔵書数を増やすための構造で、本の絶対数が見るからに違う。

「すごいわ……」

本棚は天井近くまで高さがあり、それでも本は入りきらずに溢れていた。

 窓の前にも本が積まれているせいで、日差しの入りが悪い。

「こんなところに来たかったのか」

 案内してくれたリオンは、退屈そうに書庫を見渡していた。骨だけの羽根を伸ばし、ここで煙草なんてものを取り出そうとする。

「ちょっと、こんなに本があるんだから。火気厳禁」

「うるさいやつめ……」

 ほかに利用者はなく、今日のところは私の貸切状態だった。

 適当に開いてみた本には、古い文字で『閲覧ヲ禁ズ』とあり、さらにそれを横線で訂正されていたりもする。こういった禁書の類も多いみたい。

「本当にいいのかしら、私が読んじゃっても」

「親父がそう言ったんだ、構わん」

 気怠そうにリオンはソファで寝転んだ。

「本といい、絵画といい、暇人のやることは理解できん」

 城一番の暇人がおかしなことを言う。

「園芸のこと、本か何かで憶えたんじゃないの?」

「ほとんど独学だ。最初に少し母上に教えてもらったくらいでな……」

 次の本も、と思っていた私の手が止まった。

 亡くなったひとをどう話せばよいのか、わからない。

「お妃様って……もうかなり前にお亡くなりになったのよね」

「俺様が九歳の頃だったな」

 リオンは寝返りを打ち、表情を隠してしまった。

 十年ほど前に逝去されたお妃様は、未だに謎に包まれている。アイリスという名前だけが公表されたが、出自については一切明らかにされていない。

 オブシダン公国には六もの民族がいて、絶妙なバランスを保っていた。仮にうちひとつが王家と結びつこうものなら、その民族だけが強力な後ろ盾を得ることになる。

そのため妃の出生は秘匿されているのでは、というのが学者の通説だ。

「民族の間で優劣がついちゃうものね」

 勉強の甲斐あって多少は理解の深まったリオンが、一笑に伏す。

「それは大したことではない。問題は……俺様の一族が悪魔だということだ」

 歪な形の羽根が、窓の日差しに差し掛かった。

「悪魔と結婚し、悪魔の子を産むんだ。祖母は気が触れたらしいぞ」

 私はぞっとして、我が身をかき抱く。

「……そういうこと、なの……」

 聖杯の記憶で見た、あの惨劇も脳裏に蘇ってきた。

 生まれてきた赤ん坊に悪魔の羽根が生えていたら……どんな気分なのかしら?

 いかに見返りが大きくても、悪魔との婚姻には誰しも躊躇するはず。上流階級の結婚であれば、それこそ本人の意志などあってないもので、悪魔との契りを強要されるわ。

「事情を知らん貴族からは、よく娘を紹介されるがな」

「ごめんなさい。あたし、無神経だったかも」

「無神経? 何を言っている……そうだ、面白いものを見せてやろう」

 戸惑う私を尻目に、リオンは立ち上がって書庫の奥へと向かった。肩越しに振り向き、含み笑いを浮かべながら手招きする。

「こっちだ。ついてこい」

 行く先では小さな書斎が独立していた。

デスクの上には書きかけの手紙……いえ、詩かしら。そして水晶玉が置かれている。

「魔法のアイテムね」

「ふふ、城下町に転がってるものと同じにするなよ」

 魔法の水晶玉はひとの記憶や情念を鮮明に映し出すことが可能だった。主に女性が『好きな異性を想像しながら』遊ぶのが一般的。

「母上を見せてやる。絵画なんぞより美しいぞ」

 リオンの手が水晶玉を撫でる。

ひとりの女性の姿が、水晶の中で小さく浮かびあがってきた。水面に顔を映すくらいの解像度で、映像が不規則にぶれてしまうため、私は目を凝らす。

 彼女は二十代半ばくらいの顔立ちで、どことなくリオンと似ていた。

「この方がアイリス様……目元がリオンにそっくりね」

「違う。俺様のほうが母上に似ているんだ」

 赤い髪の質感も同じだわ。リオンは母親似らしい。

 映像は背景まで眺めることができた。おそらくお城の一室だろう。お妃様は窓際に咲く青い花を愛しそうに眺めている。

『この花はあなたが育てたんでしょう』

『わかるの?』

 映像にはないが少年の声も聞こえた。きっと昔のリオンね。

『青色のバラは自然界には存在しないのよ。また魔法を使ったのね』

 母親の口ぶりは優しくもあり、諫めるようでもあった。

『花が種子を残さなくなるから、安易に使ってはだめ。お花にも家族が必要なの』

『でも綺麗なんだもん』

『聞き分けの悪いところは、父親そっくりね……はあ』

 息子が悪魔であるとか、ないとか、そんな後ろ暗い雰囲気は感じられない。どこにでもある親子の姿で、私の心も温かくなった。

「母上は貴族の女ではないからな、偉ぶったところがなくて、好きだった」

「だったらどうして、あなたはそんなふうになっちゃったの?」

「母上は母上、俺様は俺様じゃないか」

 なるほど、お妃様も呆れていた通りに聞き分けが悪い。

 お妃様が生きていらっしゃったら、リオンの自己中心的な性格も少しはましになっていた、かもしれないわね。

 私の脳裏でふと、ある推測が成り立つ。

「お妃様が国王陛下に血を捧げた乙女だったのかしら、もしかして」

「勘がいいな。……親父の時は大変だったそうだが」

 リオンはデスクに腰掛けて、水晶玉を撫でた。

 躊躇いつつ、私はずっと気になっていたことを打ち明ける。

「前から聞いてもいいかどうか、迷ってたんだけど……ガリウス国王陛下の時って、何がどう大変だったの? やっぱりその、権力争いみたいな揉めごとがあったとか?」

「いいや、そのへんはまったく問題なかったらしい。ただ……これは、俺様のイメージ映像に過ぎんが……」

 リオンの人差し指が水晶玉をこつんと叩くと、映像が切り替わった。

 立派な羽根を生やした悪魔が、ひとりで苦悶している。

「俺様の家系は悪魔の血筋にあっても、悪魔の魔性を完全に抑えることはできん。特に親父は、魔性に狂わされ……ほとんど狂っていた。聖杯で魔性を清めるまでに、暴走して、城の者を何人も殺したことがある」

「……国王陛下が?」

 私の顔からざあっと血の気が引いた。

国王ガリウス=オブシディアンといえば、温厚な人柄と治世の才覚で、諸外国にも広く知られている。そのような人格者が、狂って人を殺めていたなど信じられない。

 王位継承者は己の魔性を制御するためにこそ、聖杯を必要とする。

「リオンは……大丈夫なの?」

「俺様はこの力が性に合ってるみたいでな、親父ほど深刻ではない。まあ、安定しているうちにさっさと済ませてしまいたいわけだ」

 水晶の中の悪魔は炎に包まれ、映像とともに消えた。

 机の上に座ったまま、リオンが寂しそうに呟く。

「母上は急病で亡くなったが……俺様を産んだことが、人間の身体には負担だったのかもしれん。時々、俺様が殺したんじゃないか、と考えてしまう」

「それは違うわ」

 考えるより先に私は否定して、リオンの髪に触れた。男性にしては少し長い襟足をかき分け、首筋の体温を確かめる。ちゃんと温かくて、人間と変わらない。

「さっきのお妃様……お母さん、とても幸せそうだったじゃない。あなたのこと、ちゃんと愛してくれていたと思うわ」

意外にリオンは臆病で、私の手つきにびくっとする。

 お城で初めて会った時と、立場が逆転しちゃったみたいだわ。

「そうか。だといいな」

 リオンの顔にあどけない笑みが浮かんだ。

 こいつは私のドライ気取りな母性さえ、くすぐってくれる。

「あなたの身体には、お母さんの血のほうがたくさん流れてるのよ。だからとても似てるし、悪魔の力にも負けないんだわ。きっと今もお母さんに守ってもらってるの」

 我ながら観念的な台詞が出てきた。根拠も論証もない。むしろいらない。

「わかりやすいな。勉強もそういうふうに教えろ」

「努力するわ」

 リオンは気持ちよさそうに窓を開け、青々と澄んだ空を見上げた。

「こんな日に読書なんぞ、やめてしまえ。気分転換と行こうじゃないか」

「どこか行きたいところでも……ひゃあっ?」

 私はひょいっと抱っこされ、窓から外へと連れ出される。

 高さでいったら三階相当なのに!

「ち、ちちちっ、ちょっと? 待ってリオン、落ちるってば!」

「しっかり掴まっていろ」

視界がぐるりと一回転した。太陽の強烈な眩しさに一瞬、目が眩む。

 ものの数秒で、私はリオンとともに城の上空へと達した。足の先が宙ぶらりでは心許なくて、恥ずかしいけど、リオンの胸にしがみつくしかない。

「おまえは空を飛ぶのは初めてか」

「あ、当たり前じゃない! とっ、飛ぶなら飛ぶって、いい、言ってくれたって」

私は顔を赤らめ、ぱくぱくと空気を噛んだ。

骨しか残っていなくとも、悪魔の羽根は空を自在に飛ぶことができるらしい。皮膜はないものの、その横幅は三メートルくらいに広がっている。

 じたばたと抵抗してやりたいが、さすがにこの高さでは、迂闊に暴れるわけにもいかなかった。髪が乱れるほどに風も強い。

「塔の最上階まで昇っても、この景色は眺められんぞ。よく見ておけ」

 やむをえず私は彼の首筋に掴まって、肩越しに振り向くように、地上を見下ろす。

 中央にお城があって、城下町は三百六十度に広がっていた。大通りは地図で見たものと同じ形をしており、豆粒のようなサイズの人々が動いてる。

 日中の太陽にさんさんと照らされ、さながら城下町は大きな陽だまりとなっていた。建物はどれもミニチュアみたいに可愛くて、小人の生活を見ている気分になる。

 だんだん怖くなくなって、逆に楽しくなってきた。

「あっちのほうがアカデミーよ。時計塔が見えるでしょ」

 私なりの強がりでもある。

それにリオンが抱き締めてくれる。怖い分は彼に掴まっていればいい。

「俺様の城下町だぞ。それくらい当然、知っている」

「前は迷子になってたじゃないの」

 また強い風が吹いて、リオンに貰ったコサージュが気になった。

「サヤカ、アカデミーの近くで、花を売っている店があるのを知らんか? どうにも場所がわからなくてな……」

「そこに行きたいのね。一緒に探してあげるわ」

頷いてやると、リオンがあどけなく笑う。

「当然だ。俺様の命令なんだぞ」

普段は無理に大人ぶってるくせに、こういう時だけ無邪気なんだから。

「しかしこのまま飛んでいくには、おまえは少々重い。腕が痺れて落とすかもしれん」

「なっ! 失礼ね、そんなに重たくないでしょ。平均よ、平均」

 私まで子どもっぽくなって、つい拗ねてしまった。

「女を抱えるのは初めてなんだ。平均なんぞ、知るわけないだろう」

「……どーだか」

リオンの羽根がはためいて、下降を始める。

「馬で行くか。飛んでいっては、すぐ着いてしまってつまらん」

 その軌道は円を描きつつ、書庫の裏手へと着地した。

 

 騎士団の訓練場まで歩いていって、馬を借りることに。王子の突然の訪問に、由緒ある公国の騎士たちが敬礼つきできびきびと応対する。

「本当に護衛の者は必要ございませんか?」

「お前たちの訓練を邪魔するつもりはない。馬だけ貸せ」

 やんちゃ王子が城を抜け出すのは、一度や二度ではないらしいわ。

 リオンは羽根を引っ込めている。

「ジオルグはどうした?」

「国王陛下の護衛についております」

「それもそうか。あいつらが戻ってきたら、バーベキューでもやるぞ」

 遊び放題である王子様に、騎士たちは敬意のまなざしを向けていた。リオンの豪胆さや破天荒さが、彼らにとっては主君の器に思えるのかもしれない。

「念のため、剣だけでもお持ちください」

「わかった、わかった」

 リオンが鞘入りの剣を受け取り、無造作にぶらさげる。

「サヤカ、おまえはこっちの馬だ。……乗れるか?」

「乗ったことないんだけど」

 恐る恐る私は毛並みのよい馬に歩み寄った。しかし馬の鼻息に驚き、あとずさる。

 やっと近づいても、鐙の位置が思ったより高くて、足を乗せづらい。メイド服のスカートでは限界があり、勢いをつけて跨ぐ動作はできなかった。

 ゼルが乗れずに落ちてたわけだわ……。

「しかたない。俺様と一緒に乗れ」

 見かねたリオンがその馬に乗って、私の手を引く。

「いきなり暴れたりしない?」

「この馬か? 安心しろ、こいつの俺様に対する忠誠は本物だ」

 リオンに毛並みを撫でられると、馬は心地よさそうに首筋を伸ばした。

「馬といい、騎士といい、俺様は部下に恵まれている。期待してるぞ、おまえたち」

「ハッ! お褒めに与り光栄です、リオン様!」

 主君に発破を掛けられ、騎士一同も威勢のいい声を張りあげる。

 王子としての器はそれなりにあったのね。

 私はまずリオンの後ろに乗ってみた。しかしその位置だと、リオンの肌が露出している背中にしがみつくことになる。

 羽根を出し入れするため、彼の衣服には背面の生地がない。

「ど、どう掴まればいいのかしら?」

「なら前に来い。見えんところで落ちられては敵わん」

 リオンが片手で私を抱きかかえ、自分の手前へと持ってきた。重たいと言っていた割に苦もなく、私を特等席に座らせる。

「あ、ありがと……」

 私は馬の左側に脚を揃えつつ、申し訳程度にリオンの身体に掴まった。

「勉強の礼に、そのうち俺様が乗馬を教えてやろう」

 リオンが手綱を振るうと、馬が走り出す。

 私たちは訓練場を出て、城の正門を走り抜けた。リオンに急ぐつもりはなく、人通りも多い中、スピードを落としてのんびりと進んでいく。

 馬はリオンの指示をよく聞き分けた。

「ガーデニングだけじゃなかったのね、あなたって。ちょっと意外」

「おまえは俺様を、引きこもりとでも思っていたのか」

 あながち間違っていない。

 空を飛ぶよりは気持ちに余裕があって、指ひとつ動かせないほどではなかった。だけどそうなると、自分の意志でリオンに抱きついてるのを実感してしまう。

 品格のある男性が立派な馬で、メイドを乗せてやってくるのだから、道行く人々は皆が振り向いた。正体がばれたら面倒に違いないが、リオンは気ままに馬を走らせる。

「たまには外も出歩かんとな」

「あなたは歩いてないじゃないの」

 緊張しつつ、私は彼の顔を見詰めていた。

 母親譲りの整った顔立ち。鋭いけれど温和な瞳。赤い前髪が風で揺れる。

 リオンはとても上機嫌で、鼻唄まで唄い始めた。

「空に連れてってやったのも、こうして馬に乗せてやるのも、おまえが第一号だ。ふっ、おまえを俺様の第一号にしてやるのは、不思議と気分がいい」

 その瞳が、私の動揺がちな表情を射すくめる。

「おまえがおとなしくなるせいかな」

 口説き文句としてなら巧妙な言いまわしであって、演技めいていた。これに調子を合わせるのが上流階級の小粋な社交らしいことは、知っている。

 しかし私は高尚な遊びに酔いしれるより、顔を赤くして照れる一方だった。

「ふ、ふん。本当は手慣れてるくせに、よく言うわね」

「俺様が手慣れてるだと?」

 つい反抗の色が強くなっちゃう。

「だって、そうでしょ? 謁見の間で、その……触り方とか、慣れてるとしか」

「あれが慣れたものとわかるのは、どういうことだ? まさかおまえ……」

 リオンも語気を強める。これでは互いに浮気を疑う痴話喧嘩。

 私が顔を背けて黙りこくっていると、リオンのほうが先に折れた。

「……やれやれ。あれは見て憶えたんだ。騎士がメイドに手を出していてな。ああいうふうにすると、女は怯えるか喜ぶかするんだろう?」

「騎士様って、そんな話しかないわけ?」

 正真正銘、リオンの第一号とやらが私であることに、気持ちが浮つく。

 リオンは私の背もたれになりながら、手綱を手繰った。

「王位継承の件が終わっても、おまえは、あれだ……家庭教師は続ける気か?」

「どうかしら……国王陛下が仰るなら。でも一度はアカデミーに戻るわ」

 のんびりと馬を進めて、やがてアカデミーが見えてくる。下町風の商店街に差し掛かると、子どもたちが馬を見ようと集まってきた。

「花屋って言ったわね。ガーデニングで何か必要なの?」 

「商品はいらん。場所が知りたいんだ」

 案内するといった建前ではあるけど、私はそういったお店に疎い。馬であたりを適当にまわりつつ、それらしい花屋を探す。

 以前もこうして店を探すうち、アカデミーに迷い込んだんでしょうね。

 リオンと一緒に、しかも馬に乗せてもらっているところをアカデミー生に見られたら、何を噂されたものかわからない。

「アカデミーに近づくのはやめましょ。面倒が増えそうだし……」

 と言った矢先、私はアカデミーの女子生徒らと目が合った。

 彼女たちが唖然として、大きな瞬きを繰り返す。それから意味深な含み笑いを浮かべ、おそらく意図的に無言のまま立ち去ってしまった。

 しまった、と私は今さら両手で顔を隠す。

「もう私、アカデミーに行けないかも」

「なら城に住め。部屋のひとつくらい、俺様がくれてやる」

 変装してこなかったのは失敗だったわ。リオンなんて素顔で出歩いてしまっている。

「王子ってばれたら大騒ぎにならない? 眼鏡を掛けるとかしたほうが」

「俺様の国で、俺様がコソコソせねばならん理由が、どこにある?」

 しかし当のリオンはそれを問題と認識していなかった。

 王子の身なりはどうしても目立つ。背中が大きく開いた格好も目を引いた。

「まあ……何しろ俺様だからな。隠しているつもりでも、こう、品性が出てしまうんだ」

 おまけに傲慢なほど自信に満ちて、民の視線を大歓迎してしまう。

「で、店はどこだ?」

 本人は何回も見ているというけど、目的の花屋は見つからなかった。『パン屋の隣』だの『本屋の向こう』だの、リオンの記憶は曖昧であてにならない。

 やがて目印の本屋を見つけ、その先にパン屋もあった。

「……やはりここのはずだぞ」

 先にリオンが馬を降りてから、両手で私を降ろす。

 私たちの前にあるのは時計屋だった。ショーケースに古風なデザインの置時計が並んでいる。装飾がごちゃごちゃで機能的ではないが、インテリアとして味はあった。

「もしかして、お店はもうないんじゃないの?」

「そんなことがあるのか」

 世間知らずの王子様がきょとんとする。

「そりゃそうよ。ほら、店員さんに聞いてみればいいじゃない」

 時計屋の店番を読むと、眼鏡の男性が出てきた。時計のデザインからして老いた店主を想像したが、二十代くらいで若い。

「何かお探しですか? 時計でしたら、中もご覧に」

「ああ、探し物だ。ここに、花を売っていた店があっただろう? その店がなぜ時計屋になっとるんだ?」

 リオンの風貌のせいか、時計屋の応対は丁寧だった。

「さあ……私は二年前、妻と一緒に越してきましたから、存じ上げないんです。その前は確かに花屋だったそうですが……」

「髪の長い看板娘のいる店なんだ、どこに行ったか知らないか?」

「申し訳ありません。何でしたら、隣のベーカリーショップをお尋ねください」

 今の今まで、リオンは現地で聞き込みをしなかったらしい。

私たちは近辺の店をまわって、消えた花屋の行方を追う。次第にその店の夫婦が、十年近く前に引っ越したことがわかった。

行き先は『国外』というだけで、誰にも教えなかったそうだ。

リオンの記憶の中にだけある花屋は、どこにもない。

「そうか……」

 なかなか納得してくれなかったリオンが、観念するように青い空を仰いだ。おとなしい馬を引きながら、公園のまわりをとぼとぼと歩く。

「そうさ。店を見つけたところで、あの看板娘に会えるわけがないんだ」

 愛しい恋人を探している雰囲気ではなかった。どことなく諦めの感情が見え隠れする。

「もしかして……お母さんを探してたの?」

 私の問いかけが風の音に紛れ込んだ。

 探しているお花屋さんと看板娘は、あなたの可愛い趣味とお妃様なんでしょう?

「さっきの水晶で一度だけ見ることができたのだ。母上の育った家を」

 リオンがアカデミーの方角を見遣り、抑揚をつけずに囁く。

「アカデミーの時計塔が最初のヒントだった。そこを中心に探してだな……ここ数ヶ月はこのあたりを歩きまわっていた」

 自分で育てたキンモクセイを持って、お母さんの故郷を訪ねるつもりだったのね。

 そのはずがアカデミーに迷い込んで私に会ったのは、残念だったかしら。

「休んでいきましょ、リオン」

 私たちは公園に入り、馬を繋いでから、同じベンチに座った。

 噴水が水滴とともに光を散らすのを、何気なく眺める。

「道理でいくら探しても見つからんわけだ」

 少しは気分が落ち着いたのか、リオンの言葉に悲壮感はなかった。気怠そうにベンチにもたれ、青空の雲を数える。

「本当はわかってたんでしょう?」

「……さあな」

 私も同じ空を眺めて、なくなったお花屋さんに想いを馳せた。

 きっと花屋の夫婦には娘がいて。望んだにしろ、望まなかったにしろ、彼女は時の王子に生き血を捧げることになり、やがて結婚したの。

 それがなかったら、今もここで花を育てていたかもしれない。

 リオンに貰ったコサージュが、急に嬉しく感じられた。

「あなたが花を育てるのって、お母さんの影響なのね」

「母上に教えてもらったのだ。花の育て方を」

 そのコサージュに彼の手が触れる。

「偉そうにできるのはいいが、俺は、本当は王位にはさして興味がない。それより母上みたいに店を持ちたいんだ」

 いつもの『俺様』から『様』が外れた。

 王子ではない素直なリオンに、初めて会えた気がする。

「リオン……」

「休んでいこう、と言い出したのはおまえだったな」

 リオンはベンチで横になり、私の膝を勝手に枕にしてしまった。

 しょうがないわね。

「いっそサヤカ、おまえが女王をやってみるか? 俺はここで花屋を始める」

 私はリオンの前髪をのけ、額を撫でてやる。

「あなたが出資してくれるなら、私がお花屋さんを経営してあげるけど?」

「……なるほど。頭がいいな」

 普段の彼が王子という立場を窮屈に思っているのが、ありありと伝わってきた。本心ではこうやって、馬を走らせたりして過ごしたがってる。

 そこに私も一緒なのが嬉しかった。

「あなたのガーデニング、お金を取ってもいいと思うわよ。どうせなら、オブシダンの城下町を丸ごと庭園にしちゃうのはどうかしら」

「はははっ! それはいい、親父を蹴落としてでもやってみるか」

 リオンのささやかな夢に、私の現実的なアドバイスは野暮かもしれない。でもリオンと夢を語らうのは、胸が満たされるみたいで心地よい。

 ふと彼の視線が私の唇に差し掛かった。

「……花びらみたいだな」

 膝枕を独占しながら、人差し指で私のそれをなぞる。

「チューリップ……リップ、というわけか」

「気障な台詞ね」

 仰向けのリオンが、私の顔を抱き寄せた。

私のほうからも前のめりになって、唇を重ねる。

「ん……」

 秋の乾いた風が、私の髪を波打たせた。少しばかり肌寒い中、私とリオンの吐息がやけに熱を帯びる。

 キスしちゃってる……。

 誰に教えられたわけでもなく、自然と吸い寄せられた。キスをしよう、なんて考えてもいなかったのに、今はこうしているのが当然に思える。

気まぐれみたいなキスは終わってしまった。

「……んはあっ」

けれどもキスを交わしたことで、私の心臓は壊れそうなくらい高鳴ってる。

 リオンも頬を赤らめていた。切れ長の瞳が私をまっすぐに見詰め、逃がさない。

「まったく……おまえは生意気で、反抗的で、口を開けば説教なのに。どうしてか、傍に置いておきたくなる。少しは立場をわきまえろ」

「ここは美しいとか、綺麗だって言ってくれるところじゃないの?」

 互いに意地が邪魔をして、恋人同士の雰囲気には馴染めそうになかった。

 王子様と想いが通じあうなんて、物語の中だけのこと。シンデレラのようにガラスの靴もない。それこそ『わきまえ』なければならない立場にあった。

 でも同僚たちが言うように割り切りさえすれば、楽しめるわ。そして割り切れるくらいの気持ちなら、きっと諦めはつく。

 なんてことを考えている時点で、完全に調子が狂っていた。

 いつしかリオンは私の膝枕で寝息を立てている。寝顔だけなら愛らしい。

 こっちは王子様との今後を思い煩っているのに、暢気なものね。手が掛かる相手なのは間違いなく、私のドライな理性は引き際を警告している。

 だけど彼を甘やかしてやりたい、理性にとってははた迷惑な気持ちもあった。

「おやすみなさい、リオン」

 ベンチの半分が木陰に差し掛かり、私もうとうとしてしまう。穏やかな時間を満喫しながら、私はリオンと花屋を切り盛りする夢を見た。

 

 

 目が覚めて、起きあがりながら伸びをする。

 ところが、懐からハンカチを取り出そうとして気がついた。公園のベンチで眠っていたはずなのに、いつの間にか豪勢なベッドに移っている。

「おはよう、サヤカ」

 同じベッドにリオンが腰掛けていた。

「リ、リオン?」

 ここはリオンの部屋だわ。花の芳香が充満し、すでに私の嗅覚を狂わせている。

 私はぎょっとして、両目を大きく見開いた。

リオンとベッドでふたりきりっ?

まさかと思い、布団の中でメイド服を確認する。とりあえず脱がされた形跡はない。

 恋人ごっこの浮ついた気分は消え去り、不安だけが残った。

「ね、ねえ。どうして私、ここで寝てるの?」

「おまえがぐーすかと眠りこけて、起きんからだ。運んでやったんだぞ」

「……ごめんなさい」

 リオンが含み笑いを浮かべる。

「寝ている間にコトを済ませるほど、小さいつもりはない」

「なっ!」

 私は赤面し、変態に枕を投げつけてやった。

 それをリオンが難なく受け止め、無造作に投げ返す。

「よほど疲れが溜まっていたんだろう。無理をせず、今夜はもう休め」

 窓の外はとっくに夜の色に染まっていた。

 環境の変化と仕事の忙しさで、無自覚のうちに参っていたのかもしれない。定位置へと戻した枕の中央に、ぼすんと後頭部を押し込む。

「……あ。夕飯の準備」

「俺からメイド長に言っておいた。気にするな」

 リオンの『俺様』節から『様』がなくなっていた。私と対等で、距離が近い。

「おまえの部屋がどこかわからんから、ここに連れてきた、というわけだ」

「ありがと。迷惑かけちゃったわね」

「これくらい迷惑のうちに入らん。悪く思うなら、健康な血を作れ」

 リオンが煙草を噛み、火をつけようとする。

 その唇を見て、つい昼間のキスを思い出してしまった。味がする前に唇を離したけど、続けていたら煙草の味がしたのかしら。

「ねえ、煙草やめてよ。キスで煙草の味がしたら嫌だもの」

 不意にリオンが咳き込む。

「げほっ! い、いきなりおかしなことを言うな。口づけくらいで味などわかるまい」

「そ、それはほら……もっと深くしたら、味だってするはずよ」

 我ながら何を口走っているのやら。

 だけどキスに興味があって、彼の唇を見ているとムズムズする。

 リオンは煙を一回だけ吹き、残りの煙草を灰皿で潰した。

「……試してみるか?」

「い、いいわよ」

 言い出したのは私なんだから、引くに引けない。リオンが前のめりになり、ベッドの私へとおもむろに覆いかぶさってくる。

 その直前で扉が開いた。

「失礼します、リオン様――」

 幼馴染みのゼルが入ってきて、私たちの情事めいた構図に絶句する。

 彼の小脇にあった呪文書が、どさっと落ちた。

「ゼル? こっ、これは違うんだってば!」

 私は慌ててリオンを押しのけ、布団を蹴飛ばした。ちゃんとメイド服を着ていることをゼルにしっかりと見せておく。

「あ……いや、ノックしても返事がありませんでしたので、失礼しました」

 ゼルはぎこちない素振りで、私と目を合わせなかった。落とした呪文書を拾って、栞の挟んであるページを開く。

「術式のことで、リオン様の意見を伺いたく思いまして。おそらく国王陛下の魔法に干渉されていますから、このように組み替えては、と……」

「原因がわかれば早いな。あてにしてるぞ」

「了解しました。それでは……し、失礼します」

 事務的に少し話し込んでから、ゼルはいそいそと退室していった。

 リオンが悪魔の羽根を伸ばす。

「おまえがキスなどと言い出すから、気配を読むどころではなかったぞ。それにしても、やつは気に入らんな。おまえに口づけまでした男でもあるし」

「あれはその、不可抗力だったじゃない」

 王子に目をつけられたのが気の毒で、ついゼルをフォローしてしまった。

 ファーストキスがリオンではなかったことを思い出し、妙にがっかりする。あの時はゼルで妥協できたのが不思議でならない。

 ……やっぱりおかしいわ、私。

そんな恋愛的思考が当たり前になって、居たたまれなくなってきた。

「よし、やりなおすぞ」

 けれども私の都合などお構いなしに、リオンがまたベッドに上がろうとする。

 私は両手を前に突き出し、キス魔の接近を食い止めた。

「ちょっと待って、えぇと、そう! 純潔の生き血が必要なの、わかってるでしょ?」

「むぅ……手を出すに出せん、ということか」

 幸い説得が通じ、リオンは渋々身を引いてくれた。

ワガママなようでも、根っこのところは割と素直なのよね。

「そろそろ部屋に戻るわ。変な噂になったら、あなただって困るでしょう」

「俺は気にせんが……まあ明日もあるしな」

「今日は勉強にならなかったから、明日こそ、みっちりやるわよ」

 ベッドから降りる私を、リオンは引き留めようとしない。露骨に眉を顰める。

「いつになったら、おまえは素直になってくれるんだ」

「あなたが勉強好きになったら、かしら」

 リオンは険しい表情のまま腕組みし、妥協案を出してきた。

「煙草をやめてやる。ならキスだってする気になるだろう? サヤカ」

  ……お願いだから勉強して。

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