俺様な王子に愛想が尽きました。

第二話

 翌日から私、サヤカ=クレメンテは王宮で生活することに。

メイドの仕事は『花嫁修業』と思って割り切り、自分なりに精を出していた。

 今日も朝からメイド長の怒号が飛ぶ、飛ぶ。

「何枚焦がしたら気が済むのです、サヤカ=クレメンテ!」

「サヤカ=クレメンテ! 角は丸く掃く、と教えたでしょう!」

「仕事が遅れているあなたに休憩はありませんよ、サヤカ=クレメンテ!」

 パンを焼いても、掃除をしても、休憩に入っても叱られっ放し。ペナルティとして仕事を追加され、午後十時に差し掛かっても、ひとりで食器洗いである。

 さっきまでは、手伝ってくれるメイドもいたんだけど。

「もっと空気抜かないと。投げるみたいにしてさ」

「え~? 結構頑張った生地なんですよお」

 私のことなど放って、キャッキャッと遊んでいる。

 彼女たちの中心では、私もよく知る色男が、パイ生地の作り方を披露していた。ルックスだけの男、ゼル=シグナートだ。

「ここ大事なとこだからね。よぅく見てな……よっと!」

 男子禁制のこの場所でぬけぬけと、パイ生地をお手玉みたいに投げている。

 こういったナンパ行為は彼にとって日課だった。ついでに、私の邪魔にやってくるのもいつものこと。

 アカデミーでも三日に一回の頻度で、窓から書斎に忍び込んでくる。

 基本的に私は周囲がいくら騒がしくても、さして気にならない性分だが、ゼルとなっては苛立ちの度合いが違った。

この男はいっつもいっつも……!

 ただでさえ炊事洗濯で苦戦し、ストレスが溜まっているのに。

「サヤカもこっち来いよ。お菓子作りのひとつくらい、知ってないとな」

「ゼル、あなたね……王宮お抱えの魔導士が、こんなトコで何やってんのよ」

 威嚇のつもりで雑巾をぎりっと絞ってやっても、効果なし。

「おまえがしっかり仕事できてるか、ちょっと気になったんだって」

 得意そうにゼルがパイ生地を、指でくるくるとまわす。

「魔導士ならポーションの調合でもしてなさい」

「ノリ悪いなあ。おっと、次はスライスしたリンゴを、こうして~」

「さすがゼル様、センスいいです!」

ひとり私だけうなだれて、重たい溜息をついた。

はあ……。ほかにもっと、まともな魔導士はいないの?

 ゼル=シグナートは城でも指折りの白魔導士であり、女たらしであり、そして菓子職人でもあった。ちょっとしたパティシエの大会で入賞したことまである。

 私としては不本意ながら、彼のお菓子は、下心で作ったとは思えないほど美味しい。

「ゼル様ぁ、今日はお茶をご一緒してもらえますよねっ」

「今日はばっちり。昨日はごめんなー、キャンセルしちゃってさ」

 そのお菓子と、レシピと、彼そのものを目的にして、女の子が集まるのは当然のこと。端正な顔立ちと長身のスタイルは、どこに行っても女性にちやほやされる。

 でも、いかに美男子を気取ったところで、所詮ゼルはゼルなのよ。

深刻な運動音痴で、足は遅いし、体力もない。

 父親が騎士団に所属していることもあって、一時は騎士団に放り込まれていた。しかし厳しい指導に耐えられず、泣いて帰ってきた『弱虫事件』はごく一部で有名である。

 幼い頃から彼のくだらない部分ばかり見てしまっているから、ゼル=シグナートという男性のどこがいいのか、私には理解できなかった。

「あぁ、サヤカ! 今夜迎えに行くからな」

「そんなことしたら引っ叩くわよ。じゃあね、ごゆっくり」

 そんな容姿だけの男と知って、惹かれるわけがない。食器の片づけが終わったら、貴重な休憩時間のため、私室へと向かう。

 その後をひとりのメイドが追ってきた。お世話になりっ放しのアンだわ。

「サヤカ! しばらく時間あるでしょ、私たちと一緒に遊ばない?」

 新入りに構うのが楽しいらしくて、普段から何かと手伝ってくれている。そんな彼女からの誘いとなっては、おいそれと断るわけにもいかなかった。

 ゼル以外のところで角を立てることもないものね。

「いいわよ。でも遊ぶって、何をするの?」

 まさか女子力を要求される遊びでは、と少し後悔する。休み時間のメイドといったら、さっきのゼルたちのようにお菓子作りをしたり、編み物をしたり……。

「んー、サヤカは特に何もしなくていいわ。じっとしてて」

 アンのほかにも何人かやってきて、私を部屋へと押し込んだ。そして私を鏡の前に座らせ、ぐるりと取り囲む。

「これ、これ! 触ってみたかったのよ、サヤカの髪。ほんとにサラサラ!」

 アンたちは私の髪を取り、思うままにヘアアレンジを始めた。

 遊びって、こういう……なるほど。

 戸惑いつつ、私は鏡の中の自分をじっと見詰める。後ろでメイドが入れ替わるごとに、ヘアスタイルは次から次へと変貌を遂げていった。

 ポニーテール、ツーサイドアップ、ミツアミ……ヤマトナデシコまで。

「いいなあ、この髪」

 褒められて嬉しいような、恥ずかしいような。どっちつかずのこそばゆさが、頑固な私を動揺させる。

「ねえサヤカ、聞いてもいい?」

「な、なあに?」

 メイドのアンは興味津々に探りを入れてきた。噂好きな女の子という印象の通り、質問されるであろうことに概ね予想はつく。

「サヤカって、もしかしてゼル様の恋人なの?」

「違う違う。本当に違うから」

 吐き捨てるように私は否定の言葉を重ねた。

 この手の勘違いをされるのは、残念なことに一度や二度じゃない。ゼルの取り巻きから同じ質問をされた経験はいくらでもある。

「あーいうタイプは好みじゃないの。全然。まったく。これっぽっちも」

「でも、付き合い長そうな感じしたわよ。打ち解けてるっていうか」

「女の子が相手なら、誰にでもそうよ。男にはすぐ泣かされて逃げ帰ってくるけどね」

 質問の答えは、聞かれる前から決まっていた。

 ただし厄介なことに、どう答えたところで、噂とやらには尾ひれがつく。

ゼルに興味がないと主張したところで、単なる照れ隠しと解釈されたり、ゼルに焦がれる女子から逆恨みを買ってしまったり。

「お願いだから、ゼルと私のことでどうこう噂するのはやめて。酷い目にも遭ってるの。待ち伏せされるとか、研究室をメチャメチャに荒らされるとか」

「……笑えないわね、それ」

 事の深刻さを少しは理解してもらえたようだわ。

「でも婚姻もありうるんじゃないの? ゼル様のシグナート家は騎士の名門だし、クレメンテ家って、学者の筋では有名なんでしょう」

「そうならないことを切実に祈ってるわ」

 それにしてもメイドたちの情報網には恐れ入る。この数日のうちに、競争率の高い貴族や騎士が誰であるのか、私まで憶えてしまった。

 下働きのメイドたちはお城に務めながら、将来の旦那を捜してもいる。

 貴族が相手ではどうしても身分差に阻まれるため、騎士のほうが需要は高い。けれどもロマンスと割り切って、愛人の座を狙う不届きなメイドもいた。

 そこまで貪欲になれない私は、ゼルとの今後について漠然と考えるだけ。残念ながらクレメンテ家とシグナート家は懇意であり、将来的に縁談の可能性も高かった。

 そうなったらそうなったで、腹を括るしかないわね……。

 顔も知らない男性と婚約を推し進められることに比べれば、ゼルで済むことに妥協の余地は充分ある。おそらくゼルも意識くらいはしているはず。

 私の髪は形容しがたい芸術品に生まれ変わっていた。

「朝からサヤカ、浮かないカオしてるから、ゼル様のことかなと思って」

 悩みの原因にあっさりと思い当たって、私は溜息を漏らす。

「ゼルじゃないの。リオン様とちょっと……ね」

 血を吸われたからとはいえ、さすがに喧嘩はまずかったわ。あの後、食器を回収するついでに謝って、ひとまず許してはもらえたけど。

 今後は代わりにトマトを食べろ、なんて条件をつけられてしまった。

 おかげで毎日、メイド長には内緒で王子の食事に手をつける羽目になってる。

「私だったら羨ましいけどなあ。リオン様って素敵じゃない」

アンは両手で押さえた頬を赤らめた。

「あのお方って、いつもお背中が見えてて、とても色っぽいでしょう? メイドとしてお仕えしているからには、私もいつか、お慰めして差しあげたいわ……ぽっ」

 返す言葉が思い浮かばなくて、私は口元を引き攣らせる。

「そ、そう……頑張ってね」

 同僚たちは皆、大胆で逞しい。

 貞操観念をとやかく言うつもりはなかった。ほかの女性を見下せるほど、自分は上等な女じゃないもの。炊事も洗濯もできないし……。

 メイド長が部屋に入ってきて、私の前衛的なヘアスタイルを一瞥した。

「失礼しますよ、サヤカ=クレメンテ。お団子の三段重ねですか」

「いえっ、これはその」

 慌てて髪をほどく私に、新しい仕事を与えてくる。

「そろそろ本来の仕事に行きなさい。王子がお待ちです」

「えっと……あの件ですか?」

 メイド長は問題の件を知っているのだろう。勿論、ほかに同僚もいる場所で、聖杯だの生き血だの口にするわけにはいかなかった。

「ええ、そうです。メイドは経験がないから仕方がないにしても、家庭教師のほうは期待していますよ、サヤカ=クレメンテ」

 ところが、予想になかった期待をかけられてしまう。

「はい? かていきょうし?」

「教材はこちらにひと通り用意してあります。足りないものがあったら、言いなさい」

 その手提げにはテキストがどっさり。

「あの、もしかして……リオン様に、私がお教えするんでしょうか?」

 私の疑問にメイド長のほうが驚いて、首を傾げた。

「おかしなことを言いますね。あなたはそのために、この城に来たのでしょう?」

 どうやらメイド長は王位継承の儀式や聖杯について、何も知らされていないらしい。

こちらから危うくボロを出すところだった。

 つまり城の者には、サヤカ=クレメンテは王子の家庭教師としてやってきた、という建前で通っているのである。

 だったら、家庭教師としてだけ呼べばいいじゃない!

 メイドの実務に従事させられていることには、作為的なものを感じる。

 きっとゼルだわ。面白がってんのよ、あいつ。

 とはいえ、炊事や洗濯よりは家庭教師のほうが性に合っていた。子どもに教えたことならあるし、将来は教職に進むつもりだもの。

「そ、それでは行ってきます。アン、ごめんね、そういうわけだから」

「うん。サヤカ、またあとで聞かせて」

 私は同僚のメイドらと別れ、リオン王子の私室に向かった。

 近道を通っていこうとして迷ったのは、内緒だ。

 

 

 テキストでいっぱいの手提げを持って、王子の部屋へと急ぐ。道に迷ったせいで余計な時間が掛かってしまった。

リオン様に勉強……ね。気が重いわ。

 その道中で、荘厳な礼拝堂の前を横切る。

 礼拝堂ではちょうどミサが終わったところだった。顔までローブで隠したグラント教徒たちが解散しつつある。

 大陸全土で信仰されているグラント教会の、オブシダン公国での活動拠点だ。オブシダン公国も一応はグラント教会を庇護する立場にある。

 庇護といっても、その実態は監視。グラント教会の権力や思想が拡大しないよう、民への直接的な布教は制限され、活動はお城の中だけとされていた。多民族国家のオブシダン公国でも、厳しいところは厳しい。

 悪魔だから神様が嫌い、ってだけかもね。

 アカデミー生の私には縁のない礼拝堂を眺めていると、ひとりのシスターがおもむろに歩み寄ってきた。陰気なフードの中から、麗しい美貌が出てくる。

「サヤカさんではありませんか? うふふ、こんにちは」

 物腰の柔らかい彼女は、シスターのフィリア=シルベストリ。アカデミーの卒業者でもあり、在学中は私も色々とお世話になった。

熱心な信者というより研究者で、私と共通する観点も多い。

「フィリアさん! お久しぶりです」

「サヤカさんこそ。メイド姿なんですもの、すぐにはわかりませんでしたわ。……あら、じっとしていてください。エプロンの紐が……」

「あ、ありがとうございます」

 さり気ない気配りができるひとで、私のエプロンのずれを直してくれる。

「アカデミーはどうなさったの?」

「えっと……ちょっと事情がありまして」

 返答に困り、口ごもってしまった。聖杯に生き血を注ぎにきました、とは言えない。

 フィリアさんは声を潜め、耳元で囁いた。

「もしかして、家庭教師にサヤカさんが選ばれたのではなくて?」

「はい、そうなんです。これからリオン様の部屋に」

 私は手提げにいっぱいのテキストを見せびらかす。ところがフィリアさんは自分の唇に人差し指を当て、人気のないほうへ私を誘った。

「というのは建前で……時期が時期だもの。本当は聖杯の件でしょう?」

 私も周囲を警戒しつつ、小声で返す。

「ご存知なんですか?」

 メイド長でも知らなかったことを、フィリアさんは知っていた。私の頭を撫で、我が身のことのように心配してくれる。

「まさかサヤカさんだなんて……あぁ、わたくしがお引き受けしておけば」

「ということはフィリアさんも?」

 聖杯に生き血を捧げる処女として、選出されていたらしい。

「サヤカさんに迷惑を掛けることになってしまって。ごめんなさい」

祈るように私の手を取り、同情してくれる。

その気遣いだけでも嬉しかった。何しろお城に無理やり連れてこられて、あれやこれや強要されているのに、まだ誰からも謝罪の言葉ひとつなかったんだもの。

「私、断るつもりだったんですけど、アカデミーに休学届けまで出されちゃって」

「そんなことまで……強引にお決めになったのでしょうね」

 王位継承の儀式で役に立てるなんて光栄ですよ、とは決して言ってこないのがフィリアさんだった。私の心労を読み取り、気休めであれ、共感だってしてくれる。

 顔馴染みのシスターは聖書を開いて、迷える子羊を励ました。

「主はいつでもサヤカさんを見守っておられますよ。困ったことがあったら、いつでも相談に来てくださいね。大抵は礼拝堂にいますから」

「ありがとうございます! そんなふうに言ってくれるの、フィリアさんだけです」

「うふふ、あまり気負いすぎないでください。主のご加護を」

 その手が胸元で十字を描く。

 おかげで私の肩からすっと力が抜けた。神様なんて信じてないけれど、フィリアさんの優しさなら信じることができる。彼女にグラント教会へと勧誘されたら危ないかも。

 フィリアさんが穏やかに微笑んだ。

「落ち着いたら一緒にお茶しましょう。ゼルも呼んで」

「ゼルはいらないですよ。それじゃ、失礼します」

 私は一礼し、フィリアさんと別れる。

 アカデミーの男子がフィリア=シルベストリに憧れる気持ちもわかった。分け隔てなく優しくて、聡明で、美貌でも知られていて。ゼルがもてはやされるのは納得いかないが、フィリアさんがもてはやされるのは大いに納得できる。

 ゼルも呼んで、か。

 そんなフィリアさんが、どういうわけかゼルのことは呼び捨て。

 聖女の乱心とは考えたくない。

 

 やがて王子の私室に到着した。ノックの前に深呼吸して、慎重に扉を開く。

「リオン様、失礼いたし……」

 ところがノックするより先にドアが開いた。

部屋の主は気配に敏感で、また、扉も窓も魔法ひとつで開け閉めできる。扉の前で私が気を揉んでいたことも、お見通しなんでしょうね。

リオン王子は室内の花壇で花を弄っていた。ハサミを細かく入れ、マリーゴールドのアレンジメントに没頭している。

「朝っぱらからどうした? また皿でも忘れたか」

「お勉強をお教えするように言われてきました」

「……何だと? 城の連中には、おまえはメイドで通してるはずなんだが」

 どうにも情報の行き違いがあるようだった。しかし私はメイド長から指示があり、教育の必要なテキストも用意されている。

「大体、俺様は学問なんぞに興味はない。俺様の趣味は見ての通りだ」

「素晴らしいですね。庭園みたい、と言いますか……」

 王子の部屋は相変わらず、多種多様な花が満開だった。キンモクセイも露に濡れ、初秋の見応えを誇っている。

 ふと、あの髪飾りのことを思い出した。

「リオン様、前にいただいた髪飾り、ご自分でお育てになったんですか?」

「花はな。……ちょうどいい、そっちの金具を取ってくれ」

 デスクの上にはアレンジメントの道具がひと通り揃ってある。

「ヘアピンみたいなのがあるだろう。それを二本だ」

 リオン様は振り返ることもせず、私から道具だけ受け取って作業を続けた。

彼の黒衣は背中が開いている。羽根を出せるようにしてあるんだわ。

「すごい。お上手ですね」

 失礼と思いつつ、私は横から手作業を覗き込んだ。

 リオン様がころっと機嫌をよくする。 

「当然だろう! ふふっ、これのよさがわかるとは、見る目があるじゃないか」

 乗せられやすいタイプらしい。

 しかし実際のところ、素人目にも王子手製のフラワーアレンジメントは繊細かつ美麗な出来だった。色彩、茎の長さ、花びらのボリューム感、どれもバランスがいい。

 部屋の花壇も、多種多少な品種を無差別に集めているのではなかった。豊富な色の数を調和的に見せつける、庭園としての体裁が整っている。

 ただし香りだけは滅茶苦茶。

 リオン様の指先では、一輪のマリーゴールドが花びらの角度を調整されていた。そのままでも見応えのあった花が、不思議と品格をまとう。

「リオン様は花がお好きなんですか? ……あれ、そういえば」

 その手作業を見ていて、ふと思い出した。

初めて会った時、リオン様、女物の髪飾りを持ってたのよね。

「なんだ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え」

「あ、いえ、大したことじゃないですし」

 などなど、聞きたいことはあっても、王子相手に遠慮してしまった。初日に喧嘩してしまったことが、今でも私の後ろ髪を引いている。

 リオン様は気にしてないみたいだけど……。

「そうだ、親父からおまえ宛に手紙を預かっている」

 紐で括られた一通の手紙が、ふわふわと宙に浮いてやってきた。

「おまえでないと解けんようになっていてな。中を読め」

「えっと……こっ、国王陛下から?」

 リオン様の父親といったら、オブシダン公国の国王ガリウス=オブシディアン。

 そのような大物から手紙を寄越されたとなっては、緊張するのも当然で。しかもガリウス国王は政治学者の第一人者でもあり、論文をいくつも読んだことがあった。

「もしかして、お会いできたりするのかしら」

 やっとリオンが振り向いて、眉を顰める。

「はあ? 俺様の親父にか?」

「素晴らしい方なんですよ! 十代の時に出版なさった本……もう三十年も前の本が、今でも議論の中心になってるくらいで。そうそう、私、陛下の『資源と外交戦略』を参考に論文を書いていたところだったんです」

 ついテンションが上がってしまった。冷静なリオン様と目が合い、恥ずかしくなる。

「御託はいいから、さっさと読め」

「は、はい……」

 赤面しつつ、私は手紙の封を解いた。丸まっていたそれを一気に開く。

 その瞬間、紙面から眩い光が放たれた。

「きゃっ! な、なんなの?」

 光はすぐに消えたものの、どことなく違和感がある。

「何か魔法が仕掛けられていたな。見たところ、大した魔法じゃない」

「そうかしら。リオン、どんな魔法かわからない?」

 その違和感の正体は、喋ってみることで初めて認識できた。

 リオンが作業を中断し、眉を上げて私を睨む。

「ほう、呼び捨てとはいい度胸だな」

「ち、違うの! そういうつもりじゃなくて、私……あれ? どうして?」

 訂正しようにも、思った通りの敬語が出てこない。

「ほんとに違うのよ、リオン!」

「……なるほどな」

 納得気味にリオンは肩を竦めた。

「俺様に対する遠慮やらが一時的に封印されたのだろう。親父め、いらんことを」

「封印って……ど、どうすればいいのよ。あっ、これは別に」

 口を塞いだところで話し言葉は治らない。

「わかっている。俺様に敬語全般が話せなくなっているんだ、気にせんでいい。で? 手紙には何と書いてある?」

 ひとまず私は手紙へと目を戻し、達筆な文面を読みあげた。

『サヤカ=クレメンテ嬢へ。

 直接会って話したかったのだが、留守がちなため、このような形で失礼する。

 秘密裏に進める必要があったとはいえ、そなたを巻き込んでしまったこと、まずは一言詫びておきたい。前報酬といっては何だが、王宮の書庫は好きに使ってくれたまえ。城の者にはすでに話を通してある。

 それから折り入って、そなたに頼みがある。我が息子リオンに将来必要な知識を叩き込んではくれまいか。あんな馬鹿にモノを教えるなど、大変面倒なことではあろうが、今のあやつに公国の未来を任せることはできん。

 残念だが、我が息子は阿呆なのだ。

 そなたの働きに期待している。国王ガリウス=オブシディアン』

 何ともぶっ飛んだ内容だわ。

「あの親父め! いつまでも俺様をガキ扱いしやがって!」

 リオンは怒って手紙を取りあげ、びりびりと破いてしまった。

「そういうところが子どもなんでしょ? ……まっ、魔法のせいよ? 今のも」

 相手が王子だと頭ではわかっているのに、驚くほど簡単に口が滑る。

 手の掛かる王子様は歯軋りしていた。

「本気でそう思ったんだろう、おまえ。生娘の分際で」

「ちょっと、処女かどうかは関係ないじゃない」

「俺様はおまえより大人なんだぞ。煙草を吸うし、酒だって……ほんのちょっとだけなら飲める。つまり生娘のおまえが俺様を子ども扱いするのは、論理的におかしい」

 頭が痛くなってくる。

嫌いなトマトをメイドに食べさせるのが、大人ですって? はあ……。

 この城に来てから、もっとも重たい溜息が漏れた。これが本当に子どもならまだしも、オブシダン公国の将来を担う王位継承者と思うと、やるせない。

 おそらくリオンやゼルは私をメイドとして城に置こうとした。しかし国王陛下が私を家庭教師として位置づけたことで、齟齬が生じている。

 結果、メイドと家庭教師の二重生活に。

「あなた、勉強が嫌いなの?」

 リオンはふんぞり返り、王族の教育について熱論した。

「王とは人を従えることさえできればよいのだ。戦いも、学問も、俺様の部下がすることであって、俺様がそれをできるようになる必要はない。わかるな?」

 台詞だけ聞いていると名君のものだが、単に怠けたいだけのようにも聞こえる。

一国の王子としてどれくらいの知識を持っているのか、確かめておくべきね。私は散り散りになった手紙を片付けながら、リオンに一問一答を仕掛ける。

「じゃあ問題。去年オブシダン公国とエルマート王国で締結された協定の内容は?」

 ところが、一問目から深刻な回答が返ってきた。

「きょうてい? そんなものあったか?」

「あ、あなた……王子でしょう?」

 私がぎょっとしても、リオンは平然とかぶりを振るだけ。

 オブシダン公国の領内には長らく鉱物資源がなかったが、数年前、エルマート王国との境界にある山脈で、大きな鉱脈が発見されたのだ。

 その鉱山はオブシダン領にある。しかし地下ではエルマート領のほうにも鉱脈が伸びており、どちらが所有するかで一悶着あった。

 そこでガリウス国王が折り合いをつけ、鉱山の共同開発に至ったのである。

 勿論、その裏では政治的な駆け引きも無数にあったわけで。

「親父も馬鹿だな。半分にすればいいだけの話だろう」

「そうもいかないの。公国の権威とか、発言力って問題があるんだから」

 いずれこの国の王となる男子が、つい去年の外交もまるで知らないなんて、情けない。

「我が国の主な輸出品は、上から順に?」

「あれだ、ケーキと牛肉だったか」

 なるほど、このままでは王位継承などさせられない。

「……織物よ。絹とシルク、牧畜してるから毛皮も。あと、ケーキは輸出できません」

 勉強不足の王子を一から教育するのだから、責任重大だわ。

魔法で王子相手に遠慮が利かなくなっているせいか、前ほど怖くもない。

「こっちの椅子、借りるわよ。早速始めましょ」

「待て、俺様は勉強するとは言っとらん」

「するの! 王位継承の儀式より先にするべきだわ」

子どもを躾けているような錯覚がした。

 渋々リオンが向かいに座って、デスクの上を片付ける。

「面倒くさい女だ、まったく……こんな勉強が国を豊かにするとは思えんがな」

「国の繁栄に直結してること、自覚して。そうね、今日は歴史から」

 残念ながら次世代の王は、オブシダン公国の歴史さえろくにご存知なかった。

 

 

 午後の四時にはメイドの仕事に戻って、夕食の準備に四苦八苦。嫌そうな顔をする王子様のもとにトマトサラダを運び、それから片付けに追われて。

 自室のベッドに突っ伏すと、丸一日分の疲れが出てきて、しばらく起きあがることさえできなかった。

「はあ……つ、疲れたわ……」

 一番疲れたのは、やっぱり家庭教師かしら。

リオンは歴史も地理もさっぱり。誰でも知っているような常識を、『何だそれは』の一言でことごとく切り捨ててしまう。

 集中力もなく、途中で居眠りしたり、休憩の口実を挟んだり。

勉強に対する拒否反応は表情にも仕草にも表れていた。

……まずは、やる気を出してもらわないとね。

 それでも国王陛下から直々の依頼なのだから、何とかしなければならない。

 枕が変わったせいか、考え事のせいか、疲れていてもなかなか寝付けず、私は寝返りを打っていた。壁に含まれている黒曜石が鈍い光を放つため、深夜でも部屋は薄明るい。

 対照的に窓の外は真っ暗で、月の方角にだけ、分厚い雲がうっすらと見えた。

 廊下のほうで扉がぎいっと開く。

……誰か入ってきた?

 反射的に私はベッドの上で身構えた。

 その人影が低い姿勢で部屋を見渡し、私の名を呼ぶ。

「サヤカ、起きてるな? いくぞ」

「ゼル? あっああ、あ、あんたねえっ!」

 近づいてきた変質者の横っ面に、強烈な平手打ちが決まった。

 バッチーン、と実にいい音が鳴る。

「いってえ! 何すんだよ、そーいう意味で来たんじゃねえって」

 侵入者はぶたれた右の頬を押さえ、涙を滲ませた。

「こんな時間に女の子の部屋に忍び込んできて、言い訳? 変態! スケベ!」

「しーっ! ほかのメイドが起きちまう。夜になったら迎えにいくって、言っただろ」

「夜這いにいく、の間違いでしょ。腐れ外道」

 こちらはいつでも大声で叫ぶつもり。

 ゼルは部屋いっぱいに距離を取り、どうどうと私に言い聞かせた。

「落ち着けって。おまえ、この城に何しにきたんだよ」

「何って……家庭教師?」

「そうじゃなくって、あれだよ、聖杯」

 すっかり忘れていた。

 メイドと家庭教師、それから血液提供の三重生活なんだっけ。無論、一番重要なのは王位継承にも関わる、最後の血液提供のはず。

「リオン王子と合流することになってる。……なんだ、寝間着なのか?」

「あなたたちは説明不足なのよ。すぐ着替えるから、外に出てて」

 ゼルを部屋の外で待たせ、手早くメイド服に着替える。まだ数日しか着ていないのに、フリフリのヒラヒラに適応できているのは妙な気分だった。

 ふと鏡で見た自分の髪が気になり、ポニーテールでひとつに結ぶ。

 忍び足で部屋を出ると、ゼルが驚いた。

「珍しいな。髪、似合ってるぜ」

「……どーも」

 昼間、同僚に髪を褒められたせいで、得意になっているのかもしれない。

「いいか? 誰かとすれ違ったらオレに擦り寄れ」

「……どうして?」

 私はゼルとともに声のボリュームを抑えつつ、黒曜石で煌く廊下の端っこを進んだ。

ひんやりと静まり返った夜の空気が、少し肌寒い。

「見つかっても、逢瀬だと思われればいいんだよ。貴族や騎士が、気に入ったメイドを夜中にたらしこむってことは、普通にあるし」

「騎士団のこと信用できなくなりそう」

 回廊を歩いても、この時間帯は壁の燭台が勝手に灯ることはないようだった。運よく誰にも見つかることなく、ゼルなんかに擦り寄らずに済む。

 礼拝堂の裏にまわると、そこではリオンが煙草を燻らせていた。

「お待たせしました、リオン様」

「尾けられてはいないな?」

 その雰囲気に威圧感があるのは、コウモリのサイズとはいえ羽根が生えているせいだろうか。背中から左右対称に骨格が伸びている。

 リオンの手が礼拝堂の壁に触れると、隠し扉が開いた。

「俺様の後ろに着いてこい。道を間違えると、ここへは戻ってこれんぞ」

 扉の向こうでは、細長い階段が地下深くへと続いている。王城よりも黒曜石の純度が高いのか、暗闇の中でも、そのルートはぼんやりと光を帯びていた。

「この通路って、トップシークレット……よね」

 先にリオンから階段を降り始める。

「親父やジジイの代で探検隊を放り込んだこともあるからな、大抵の貴族は知ってるぞ。聖杯の在り処まで知ってるのは親父と俺様のふたりだけだが」

 次に私、最後にゼルが続いた。

「……これって、もしかして地下迷宮じゃないかしら」

「オレも今そう思った。地下迷宮の真上に城が建てられたってことですか?」

「うむ、その通りだ。ずっと下のほうで魔界に繋がっているらしい」

 世界各地にある暗黒の大穴、地下迷宮。そこには凶悪なモンスターが徘徊し、危険なトラップとともに、無謀な冒険者たちを待ち構えている。

領内に地下迷宮がある国は、厳重な封印を施すよう、国際法で定められていた。

公国にもあったんだわ……。

にもかかわらず、オブシダン公国は迷宮の真上に城を建て、しかも迷宮の存在を隠している。王家が悪魔の血筋であることに関連して、秘匿しているのだろう。

 三人の足音が、不揃いな打楽器のように響く。

「リオンは下まで降りたことあるの?」

「おい、サヤカ! そんな口の聞き方……」

 私が王子を呼び捨てにすると、後ろのゼルが慌てた。そりゃそうよね。

「構わん、こういう女なんだ」

 リオンのフォローはまるでフォローになっていない。

「親父でも、降りたのは地下二十四階までだったというな」

「何階まであるの?」

「五十階だとか、百階だとか。俺様にもわからん」

 最初のフロアに辿り着くまででも、五分間は階段を降りた。やっと平らになったが、見るからに道が入り組んでおり、複雑な構造を成している。

 これだけ地下深くにあっても、薄暗いのではなく『薄明るい』のが奇妙だった。

 小心者のゼルが不安そうに周囲を警戒する。

「な、なんかいかにも出そうな雰囲気だな。オレ、こーいうのはちょっと」

「あっらあ? 地下迷宮ってコトは、出るんじゃないの? コレとか」

 面白半分に私は胸の高さでてのひらを垂らしてやった。

 するとゼルが長身のくせに縮こまり、私の背中に隠れようとする。

「やめろよ! そういう話してたら出るって、いうだろ?」

「何が出るっていうのよ。ひっひっひ」

 せっかくの機会よ、日頃のゼルへの恨みを晴らしておかないと。

「肝の据わった女だ、おまえは」

「ありがと」

「それに引き換え、後ろのそいつはつまらん男だな」

 リオンの羽根が手招きするように動く。

 前ほどの怖さがない分、少し興味が出てきた。

「リオン、その羽根ってどうなってるの? 生えてなかったりもするじゃない」

「普段は隠してるんだが、伸ばしておかないと窮屈でたまらん」

「そういうものかしら」

 羽根などない私には、いまひとつピンと来ない。

 立ち止まったリオンが振り向き、向こうで羽根を伸ばす。

「例えば、そうだな……両手を前に出してみろ」

 言われた通りに両手を前に出すと、まとめてギュッと掴まれた。

「窮屈だろう」

「当然よ。動かせないもの」

「羽根を引っ込めてると、ちょうどそんな感じになる」

 実は私の背中もたった今、窮屈だったりする。

 さっきからゼルは私の後ろに掴まり、ガタガタと震えていた。

「こんなヤバイところ通るなんて、聞いてねえよ……モンスターとか出ないよな?」

「もっと下のほうに行くと、うようよいるぞ。親父も見たらしい、女の悪魔一匹に、騎士がふたりも生気を吸われてな」

「ひいいいいい~!」

 不思議なもので、自分より怖がってくれる人間がいると、自分は怖くなくなる。昔からゼルがこの調子のおかげで、私は怪談の類に自信があった。

「この階は出てこないのね」

「浅い階層のモンスターは随分前に駆逐したしな」

「化け物の話はやめましょう! もっと、そう、楽しい話を!」

 こいつが怖がるからこそ、楽しいのに。

「あなた、白魔導士なんだから、神聖魔法も使えるんでしょう? いい機会じゃない」

「冗談じゃねえよ。邪悪じゃないモンスターが出てきたら、どうするんだ」

「……邪悪じゃなかったら、襲ってはこないってば」

 それこそ悪魔退治もできる白魔導士様が、まったく頼りにならない。

 そうだわ。せっかくゼルが一緒なんだし。

 鬼でもない私は、話題を変えてやることにした。

「じゃあ、議論しましょ。聖杯に乙女の血液を注ぎ込むことの、是非について」

「はあ? そのことならOKってことで、話はついたじゃねえか」

「そう言わずに。モンスターの話よりはいいでしょう?」

 リオンにも聞こえるように、声のボリュームは遠慮しない。

「処女の生き血だなんて女性蔑視もいいとこだわ。古い慣習ってどうしてこう、マチズモに傾倒してるのかしら」

 やっとゼルは背筋を伸ばし、親指で顎をなぞった。

「一概に男尊女卑とは言えねえって。女性に神秘性を認めてるわけだし……それに公国土着の神話だと、女神のほうが立場強えだろ?」

「あぁ、男性の神様が女神の実家に謝りに行ったりね。神話が昔の社会体系を反映してるとするなら、女性全般に優位性があったらしいことは読めるわ」

「グラント教会の信仰以前は、な」

「白魔導士が言えること? また反省文書かされても、知らないわよ」

 などと、高尚な議論に興じていると、王子様は不愉快そうにむくれる。理由は単純よ、勉強不足のせいで仲間に加われないから

 そうとは知らないゼルが、リオンに意見を促した。

「リオン様はどうお考えなんですか? 皇太子として思うところもおありでしょう。大丈夫です、ここでの話は口外いたしません」

 大成功だった。これを狙って、議論を振っかけてみたの。

 怠惰で傲慢なリオンでも、ここで答えられないのはまずい、と思っているらしい。眉間を押さえて言い渋る。

「あー、うん。お……おまえと同じ意見かな?」

「それよりグラント教会といえば、聖書の現代語訳ですよ! 教会の古典派はしぶとく抵抗してますけど、オブシダン公国は出版を許可すると思うんです」

 しかし火がついてしまったゼルの質問責めは失速しない。

「ここ数年はグラント教会にやや弾圧的ですけど、現代語訳のフォローで新鋭派を一気に取り込もうっていう、国王陛下の戦略なんじゃないですか?」

「だ、大体そんな感じだ。うん。……おまえ、なかなかやるじゃないか」

 リオンは冷や汗をかいて、唇の端を引き攣らせた。

 その視線が私に釘を刺す。

(謀ったな! あとで憶えていろ)

(少しは王子の自覚も出来たでしょう?)

 お返しに私はアッカンベー。

 乙女の神秘性やら、グラント教会について議論するうち、私たちは地下水脈へと差し掛かった。透明の水面が揺らめき、黒曜石の光の波をかき混ぜている。

「こんな地下に……綺麗ね」

「触るなよ? 猛毒だ」

 しゃがんで触れようとしたところで、その一言に遮られた。

「う。も、もっとはやく教えなさいよ」

「毒については素人のようだな」

 さっきの仕返しとばかりにリオンがにやつく。

 なんだか私たち、低レベルな争いしちゃってるわね。

「こっちだ」

 地下水脈を辿るように進むと、荘厳な祭壇に行き着いた。

祭壇の付近は黒曜石の純度が極めて高いのか、これまでの迷宮とは明るさが違う。すぐには目が慣れず、眩しいくらいだわ。

薄い台形を三段重ねにした祭壇の上には、古びた杯がひとつ。

「あれが……聖杯だ」

 リオンは祭壇に上がり、聖杯の側面をそっと撫でた。

「おかしいと思わんか? これに満タンまで入れて、飲み干すんだぞ」

 大人の頭がすっぽり入りそうな大きさで、その容積は3リットルにも達する。一気飲みするには無理があった。

「あなたのご先祖様は身体が大きかった、とか?」

「それはあるかもしれん。人間の血が混ざって、少しずつ今の姿になったか」

 王子の骨だけとなった羽根がぴくっと動く。

 ゼルは触媒やら巻物を取り出し、準備を始めた。

「儀式の際は数回に分けてお飲みになれるよう、段取りを調整しましょう。民の面前で飲む分はパフォーマンスですから、血である必要もありません」

「そのあたりは任せる」

 リオンはゼルの言葉を遮り、ふと私の顔を一瞥する。

「……まあ、親父の時はそんな悠長なことは言ってられなかったのだろう」

 それまでは冗談交じりだったリオンの表情が険しくなった。

「どういう意味?」

「なんでもない。始めるぞ、上がってこい」

 命令はいつも以上に素っ気ない。

 私も祭壇に上がって、件の聖杯を覗き込む。

 その中は顔が映るほど綺麗に磨かれており、私と私の目が合った。柄にもなくポニーテールでいたことを思い出す。

「これが聖杯……。どんな金属で作られてるのかしら」

「あとにしろ。ゼル=シグナート、おまえもさっさと始めてしまえ」

 白魔導士のゼルが私の右腕を慎重に掴んだ。脈を測るように指を押しあてる。

「聖杯の上まで手を伸ばして、楽にしてくれ」

「こう? ……真面目に仕事してるゼルって、なんか変よ」

「魔法に集中させてくれって」

 手首に青色の、薬のようなものを薄めに塗られた。

 魔法に不可欠な『触媒』ね。そのうえで『詠唱』という手順も必要となる。

「人間の魔法使いは面倒だな。ブツブツと」

 人間離れしたリオンは腕を組み、ゼルの詠唱が終わるのを待っていた。

「リオンは使えないの? この魔法」

「使えないというより使ったことがない。加減を誤ったら、おまえの腕が千切れるぞ」

「え、遠慮させてもらうわ。そういうのはちょっと」

呪文の途中でゼルが溜息をつく。

「リオン様、お静かにお願いします。魔法に集中できません」

「もっと集中していろ。集中力が足らんから、そうなる」

詠唱は最初からやりなおし。

「――我に、かの者の鮮血を分け与え給え。オー・リオ・ヘプト・サーク……」

 傷もないのに、手首から生温かい液が流れ始めた。

 真っ赤な鮮血だ。

「だ……大丈夫なの? これ」

 少量ずつとはいえ止まりそうになく、不安になってくる。

「大丈夫だ。オレの腕を信じてろって」

「だから余計に怖いんだってば」

 それは中指の先から滴り、聖杯へと落ちた。

 その瞬間、眩い光が私の視界を奇襲する。思わず目を閉じたが、強烈な光は瞼さえ通過し、私の脳裏をフラッシュさせた。

「な、なんなの? いきなり……!」

 光の向こう側から手を引っ張られるような力を感じる。立っていられない。

「離れるぞ、サヤカ!」

 咄嗟にゼルが身体を捕まえてくれたものの、光の中から腕を引き抜けなかった。

 傍らで見ていたリオンが顔色を変え、腕組みを解く。

「まずい、引きずり込まれるぞ!」

「リ、リオン、助けて! どうなって――」

 眩しすぎて、リオンやゼルの顔さえ見えない。

 全身からかくんと力が抜ける。

 だんだん意識も遠のいて、私は光の中へと落ちていった。

 

 

 我に返った時には、まったく別の場所にいた。

同じ地下迷宮の一室らしく、黒曜石の輝きが周囲を浮かびあがらせる。

「……あ、ここは……?」

 しかし視界の端がぼやけており、鮮明な映像にならない。

 地に足が着いていないような感覚の理由は、すぐにわかった。天井近くの高さで、身体が宙に浮いているの。重力も感じられず、姿勢を垂直に正せない。

「掴まっていろ」

 空中でカナヅチ状態の私を、リオンが抱き寄せた。骨しかない悪魔の羽根を広げ、宙でもバランスを保っている。その羽根は腕より長くなっていた。

 異性との密着に抵抗はあったものの、そうも言っていられない。嫌な予感がして、私のほうからもリオンの黒衣をしっかりと掴む。

「リオン? どうしちゃったの、私」

傍にゼルの姿はない。

「聖杯の記憶に精神を引きずり込まれたんだ。とにかく脱出が先決だろう」

「え、ええ。……ゼルは?」

「やつにはほかの仕事を任せてある。いくぞ、俺様から手を離すな」

 片手で私を抱きかかえながら、リオンが頭を逆さにひっくり返る。すると私も迷宮の床ではなく『天井』に足を降ろすことができた。

聖杯の記憶……?

 意識がはっきりしたまま夢でも見ているみたいだわ。

歩いて進むまでもなく、周囲の映像がスライドしつつ切り替わっていく。

 床のほうでは、奇妙な一団が集まっていた。フードを被り、顔を見せようとしない。

「ねえ、見つかったりしないかしら」

「それはない。これは過去の出来事を見せられているに過ぎん」

 やがて礼拝堂のような場所に移って、それきり映像は変わらなくなった。さっきと同じ聖杯が壇上に鎮座している。

 しかし聖杯は、私が見たものとはまるで色が違った。不気味に黒ずんでいる。

 それをフード姿の連中が崇めていた。

「何代か前の、王位継承の儀式のようだな」

「これが? なんだか……気味が悪いんだけど」

 礼拝堂は後ろ暗い雰囲気に満ちていた。これからおこなう儀式は、決して人目に触れてはいけないのだろう。ひっそりと、闇に紛れるように進められていく。

 聖杯の前へと、ひとりの少女が連れてこられた。連中と同じ信者風のスタイルだが、目隠しされており、足元もふらふらとおぼつかない。

 いくつもの思念が私の頭にじかに響いた。

『早くオブシディアン家の王位を磐石なものにしなければ、我々の立場も危うい』

『この娘は敵対勢力の処女狩りに遭ってはおらんだろうな』

『国王陛下に勘付かれたら事だぞ。ええい、裏切り者の把握はまだか!』

 権力者たちの陰謀。保身というエゴ。

そして殺意。縛りつけられた少女の周りで、六本の剣が一斉に光る。

まさか……!

「聖杯などとよく言ったものだ。呪いの杯とでも言われたほうが、しっくりくる」

 リオンの淡々とした感想は、むしろ真に迫っていた。

「……呪いの杯……」

聖杯の濁った色が血糊であることにぞっとする。

 オブシダン公国の三百年にも及ぶ平和の影で、王位継承の血生臭い儀式は秘密裏に、代ごとに執り行われていたらしい。謀や企ても無数にあっただろう。

生贄の少女がどうなるのか、もう見ていられなかった。おぞましい戦慄に駆られて、私はリオンの胸に顔を埋め、震えてしまう。

「見なくていい。安心しろ、おまえはこうはならんさ」

 リオンは私をしっかりと抱き締めてくれた。腕の中は温かい。

 恐る恐る視線を戻した時には、聖杯は真っ赤な液体で満たされていた。六本の剣が聖杯の上で交差し、切っ先へと鮮血を集め、滴らせる。

「ご、ごめんなさい。怖くて」

「聖杯が見せる幻などに惑われるな」

 ぶっきらぼうな言葉は少しも慰めてくれなかった。その一方で抱き締める力は強く、私を安心させようとする、穏やかで優しい気持ちが伝わってくる。

「もうじき出口だ。見たくないなら目を閉じてろ」

「う、うん。わかったわ」

 悪魔の腕に抱かれ、私は安堵してしまった。

 

 

「サヤカ! しっかりしろ!」

「ん……んぅ、んむう?」

 リオンとは別の男性に呼ばれて、身体に力が戻ってくる。

 だけど思うように返事ができない。目を開くと、ゼルの顔が近くに見えた。

「~~~~~ッ!」

 唇に未知の感触があって、驚愕のあまり目を見開く。

 ゼルが、ゼルが私にキスをしてる?

「ぷはあっ! 気がついたか?」

「ちちち、ちょっと、なんでゼルが……」

 おまけに私の服は乱され、胸が下着ごと丸見えになっていた。ゼルのほうも上半身を露わにして、私に密着している。

「どうなることかと思ったぜ、助かってよか、っへぶし!」

「きゃああああああッ!」

 渾身の平手打ちが、変態の横っ面に炸裂した。

 私は顔を赤らめ、半ば逆上しながら布地を胸元へとかき集める。

「なんてことするのよ! バカ! スケベ! 最低!」

「こ、これには事情が! 待て、落ち着け!」

「落ち着くわけないでしょう?」

 ぎゃあぎゃあと騒いでいると、ゼルの後ろで起きあがる人影があった。

「戻ってこられたようだな。身体におかしなところはないか?」

 さっきまで一緒に聖杯の過去を彷徨っていた、リオンだ。

 ゼルの上着をリオンが拾って、私に投げつける。

「あ、ありがと、リオン。大丈夫みたい」

 私は怒気を鎮め、ゼルの上着を羽織った。ゼルにも何か事情があったのだと、把握できるくらいには落ち着く。

 だからといって許す気もないけど。

「……で? ゼル=シグナートさんは何をしていたのかしら」

「まずは怒りをお鎮めいただけませんか、サヤカ=クレメンテ様」

 半裸のゼルが土下座のポーズで一生懸命、頭を下げる。

「責めてやるな。こいつは――」

 聖杯に精神を引きずり込まれている間、私の身体は仮死状態にあったらしい。

そこでゼルは現実世界に残って、私の身体を温めつつ、マウス・トゥ・マウスで延命措置を続けてくれていたわけである。

 今夜一晩で両方の頬をぶたれたゼルが、不機嫌そうにふてくされた。

「どんだけ心配したと思ってんだよ。思いきり殴りやがって」

「わ、悪かったわよ。ゼルもありがと」

 私は唇をなぞり、こっそりキスの後味を確かめた。

ファーストキスだったのに、ゼルだなんて……。

 ドライな私でも、キスに少しくらいは思うところもある。そのうえ裸を見られ、お世辞にも大きいとは言いがたい胸の感触まで、おそらく知られてしまった。

 羞恥心から思考を切り離すためにも、状況を分析する。

「……私、死んじゃうところだったのね」

「そ、そうだぜ! リオン様、これは一体どういうことですか」

 私からゼルに、ゼルからリオンへと質問が飛ぶ。

 リオンは煙草を一本噛んで、人差し指でそれを弾いた。マッチもないのに火がつき、細長い煙を立ち昇らせる。

「聖杯の魔力をもろに受けたな。そっちの魔導士ならまだしも、サヤカには魔法に対する免疫がない。ふう……それでも、万全は期したつもりだったんだが」

「万全を期して死んじゃったら、たまんないわよ」

「やりようはいくらでもある。とにかく、今夜のところは引き返すとしよう」

 背中を向けたのは『服を着ろ』という意味ね。

「ゼル、あんたもあっち向いてて」

「お、おう」

 デリカシーのないゼルに警戒しつつ、さっさと着替えを済ませる。

 仕上げにスカートを調えてから、私はゼルに上着を返した。運動音痴であるはずのゼルにもそれなりに筋肉がついていて、直視するのは恥ずかしい。

「もういいな。帰るぞ」

 私たちは地下水脈に沿って、来た道を引き返すことに。

 聖杯は祭壇の上で放ったらかし。

「血液って固まっちゃうじゃない。いいの?」

「聖杯の中なら、そうはならん。鮮度が保たれる」

 処女の生き血を欲するあれは、本当に『聖なる杯』なのだろうか。そこに血生臭い歴史が隠れていることを、私はもう知っている。

 地上へと向かう途中、先頭のリオンが一度足を止めた。

「このついでに確認しておくぞ。儀式の準備が始まっていることを知ってるのは、親父と俺様と、サヤカと、ゼル=シグナートだけだ」

指先の煙草が小さな炎に包まれ、跡形もなくなる。

「もしほかに知っている者がいたら、すぐに俺様に報せろ。いいな」

 公国の権力者たちに悟られれば、企てがあるかもしれない。それが王家の味方であれ、敵であれ、争いの火種になることは明らかだった。

「国王陛下がいらっしゃらないのに、始めちゃっていいの?」

「全員揃って進めては、怪しまれる。親父が不在のうちに始めるのは予定通りだ」

 長い階段を上がり、地上まで戻ってくる。

 さっきは雲に覆われていた月が、夜空を従えるように輝いていた。深呼吸して、肺の中に溜まっていた陰鬱な空気を存分に発散してやる。

「部屋まで送ってやるよ、サヤカ」

「冗談言わないで。ひとりで戻れるから」

 頑なに同行を断ると、ゼルはおどけて前髪をかきあげた。

「へいへい。それではリオン様、失礼いたします」

 彼を見送り、声が届かなくなるのを待つ。

「どうした? おまえも戻れ」

「その前にちょっとだけ、王子様を苛めておこうと思って」

 私は意地悪な笑みを浮かべ、リオンの胸元をつついた。

「少しはわかったでしょう? 今のままの勉強不足だと、まずいってこと」

「そ、その話か……」

 ばつが悪そうにリオンが顔を顰め、目を逸らす。

 政治的な話題で王子が持論のひとつも語れないようでは、格好が悪い。博学なゼルが議論を盛りあげてくれたおかげで、少しは王子の身にも染みたはず。

「みんなが公国のことを考えて、自分なりの意見を持ってるのよ。なのに、王子のあなたが意見どころか知識もなくて、どうするの」

「だから、それはだな……文官に任せておけばいいことで」

 王子様の言い逃れは苦しい。

「甘えないのっ。明日からちゃんと勉強する、い・い・わ・ね?」

 叱りつけるように言い聞かせると、リオンは観念したように折れた。

「はあ……わかった、勉強すればいいんだろう。ただし、わかりやすく教えろ」

「教える以上、私には責任があるもの。あなたを立派に教育してみせるわ」

 これで勉強に対する姿勢が改善されればいいんだけど。

「ところでおまえ、リボンはどうした?」

「え? ……あれ?」

 いつの間にかポニーテールが解けていた。倒れたりした拍子に外れたみたい。

 地下迷宮のどこかに私のリボンが落ちている。

「探しに行くか? 今から」

「ごめん、いい。せっかく出てきたところなんだもの」

「……ふん、本当は怖いんじゃないのか?」

 リオンのしたり顔が小憎らしかった。

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