俺様な王子に愛想が尽きました。

第一話

 日中の陽が王城の尖塔に差し掛かった。

夏の暑さもすっかり和らいで、過ごしやすい気候になり、風が適度に涼しい。こんな日は研究もほどほどにして、書店巡りをするのも悪くない。

ところが今日の私は行きつけの書店ではなく、大きなお城の前にぽつんと佇んでいた。持参した書類を門番が確認し、サヤカ=クレメンテの入城を許可する。

「問題ない。おい、誰か案内してやれ」

「でしたら、私がお連れします」

 メイドたちに連れられて、この私、サヤカ=クレメンテは、馬車が三台は同時にくぐれそうな城門を抜けた。跳ね橋を渡るともうひとつ門があり、いよいよ城へと入る。

 城は黒光りする材質で造られていた。

手の届かない高さの窓から、早朝の日差しが斜めに差し込んでくる。

その光が私の足元で星座の模様を浮かびあがらせた。何年か前に天文学の実験で見せてもらった『プラネタリウム』に似ている。

「すごいわ……」

 そんな言葉が口をついて出た。幻想的であるとか、ほかにも表現はあったはずなのに、言葉が出てこない。壮麗な城の美しさに見惚れてしまう。

 これこそが大陸に名高いオブシダン城なんだわ。

 オブシダン公国の城下町で暮らしているのだから当然、城はこの街にあって、日常的に外観を眺めてもいる。しかし実際に中に入ったのは初めてだった。

「驚かれましたか?」

「え、ええ。素晴らしいわね」

 芸術全般に疎いつもりの私でさえ、息を飲む。

ひとりでは確実に迷ってたに違いない城の中を、私はメイドの案内で進んだ。

「こちらです。では、私はこれにて」

「ありがとう。助かったわ」

 メイドは一礼すると速やかに去っていく。

目の前には分厚そうな扉があり、両脇に衛兵が立っていた。曲がりなりにも客人である私に、ぞんざいな応対を見せてくれる。

「サヤカ=クレメンテだな」

「は、はあ……」

 対する私は気の抜けた返事をした。圧倒されてしまい、戸惑うばかり。

 しかもこの扉の向こうでは、皇太子殿下がサヤカ=クレメンテを待っている。

 今日はこうしてオブシダン城へと招かれた身ではあるものの、私には、まだその理由を知らされていなかった。

どうして私が呼ばれたのかしら?

父様や母様なら、家庭教師として呼ばれたりもするでしょうけど……。

 学問に没頭することだけがクレメンテ家の取り柄であって、権力の足しになるような思想など持っていない。そのうえ、呼び出されたのはクレメンテ家の当主ではなく、ひとり娘の私なんだもの。首を傾げたくもなる。

 とにもかくにも、着の身着のままで謁見に望むわけにもいかない。朝一番で幼馴染みに調えてもらったストレートヘアを、改めて毛先まで流し、身だしなみの最終チェック。

気持ち派手めの洋服が似合っているかどうかは、怪しい。先週リオンという男に貰った髪飾りのおかげで、多少は見栄えのする格好に仕上がったけど。

「リオン様に失礼のないように」

 衛兵がドアを開くと、レッドカーペットの長方形が私の視線を案内する。

 壇上の玉座には、ひとりの青年が脚を組んで座っていた。ふてぶてしい態度で客人を見下ろし、不敵にやにさがる。

「遅かったな。アカデミーからここまで、そう遠くはあるまい」

 私は跪いて頭を下げた。

「申し訳ありません。準備に少々手間取りまして……」

スカートの裾を膝で踏んでしまったが、がちがちに緊張して、それどころじゃない。

 何しろ謁見の間で、この国の次期王位継承者と向かい合っているのよ。下手をすれば、クレメンテ家全体の問題にも発展する。

 普段は意識することのない心臓がばくばくと暴れた。王子の機嫌を損ねようものなら、と想像するだけで、背中と服の間で汗が滲む。

 そ、そうよ、挨拶!

「お初にお目に掛かります、リオン=オブシディアン様。わっ、わたくしは――」

 昨夜のうちに暗記しておいた自己紹介の挨拶を、私は記憶通りに読みあげた。

「……初対面だというのか?」

「いえ、式典で遠目に拝見したことはあり、ございます」

 しかし想定外の質問に割り込まれ、混乱する。

「面を上げて、俺様をよく見ろ」

 ここは床に額を擦りつけてでも謝るところ?

 落ち着くのよ、私。まずはリオン様のお顔をしっかり拝見して……。

恐る恐る顔を上げ、私は瞳を瞬かせた。

「リ、リオン? いっいえ、え、えぇと……リオン様?」

王子様は私の知ってるリオンによく似ている。

 王座に堂々と座っているのは、アカデミーで会ったあの青年だった。

 まさか本当に、正真正銘、王子様?

「前にも会っただろう」

 アカデミーで王子相手に働いた無礼の数々が、頭の中でフラッシュバックする。それは走馬灯にも思えて、汗の量が一気に増えた。

「せっ、先日は失礼を! あれはなんといいますか」

 混乱する私の頭上で、リオン王子は余裕たっぷりに構えている。

「権力ボケした連中に比べれば、おまえはよほど誠実だったぞ、気にするな」

「いいえ、そういうわけには……」

 反射的に私はもう一度頭を下げ、跪くポーズに謝罪の気持ちを込めた。

アカデミーで王子相手にタメ口を聞き、ろくに案内もせずに追いやったのだから、その件で呼び出されたのかもしれない。

それにアカデミーで会った時とは印象が違って、リオン様は逆らうことを許さない威圧感をまとっていた。彼の意味深な沈黙が空気を張り詰めさせる。

「ほかの者は下がれ」

「ハッ! かしこまりました」

 衛兵たちが敬礼の後に退室し、ドアを硬く閉ざす。そのきびきびした仕草も、彼の王子という立ち位置を明確かつ強烈に印象づけた。

 これで謁見の間には、本物の王子様と、私のふたりきり。

 鼓動が鎮まりさえすれば落ち着く自信はあったけど、肝心の心臓が止まらない。

「そう緊張するな。それでは話すに話せん」

王子の影が私の頭に差し掛かる。

「は、はい……?」

 その影の元になったものを見上げ、私は目を白黒させた。

 彼の背中には羽根のようなモノが生えている。大きさはコウモリのそれくらい。

 羽根といっても皮膜はなく、骨格だけであり、それがまた奇怪さをいっそう際立たせていた。喩えるなら『鳥類の骨格標本』を背中につけた、異様な出で立ち。

 琥珀色の瞳が刃物のように鋭い光を放つ。その視線は私にぞっとするほどの悪寒をもたらした。権力者への『畏れ』ではない、危険への『怖れ』が込みあげてくる。

 私の傍までやってきて、リオン様は言葉を落とすように囁いた。

「おまえにはひとつ、聞いておかねばならんことがある」

 髪の毛先をすくわれただけで、震えてしまう。

「あの……リ、リオン様? 私に聞いておきたいこと、って……」

 黒衣の王子は、私の顎を人差し指で持ちあげ、目を逸らすことを許さなかった。

「今後に関わる大事なことだ。正直に答えろ」

冷たい視線で、こちらの瞳の奥まで覗き込んでくる。

どんな嘘も瞬時に見抜かれるに違いない。私はごくりと息を飲んで、目を逸らしたいのを堪えながら、リオン様の質問を待った。

「おまえ、生娘か?」

 ところが、その言葉ひとつで恐怖も寒気もなくなった。

 頭の中が真っ白になってしまう。

「……は?」

 突拍子もない質問の内容に、思考が追いつかない。十七歳の処女である私は、眉間が痛くなるくらい眉を顰め、さっきよりもハキハキと問い返す。

「質問の意味がよくわからないんですけど……」

「聞いているのは俺様のほうだ。生娘なのか? そうじゃないのか?」

 とりあえず頷くことはできた。

 

 

 謁見の間を出てからも放心状態が続く。

 私は親指でこめかみを刺激し、思考回路の復旧を急いだ。

「……どういうこと?」

 いきなり城に呼び出されて、王子に会った。そこまではわかる。

クレメンテ家は平民の出とはいえ、こと学問においてはエリートの家系だ。何かの折に王族から声が掛かったとしても、不思議ではない。実際、父や母は侯爵・伯爵クラスの子息や令嬢を教育することもあった。

しかし男性経験の有無について聞かれたのは、どういう理屈なわけ?

挙句『城に住め』の一言だけで、何の説明もなしに謁見の間から放り出された。

 まだ本人は何も理解していないし、承諾もしていないのに。

 だんだん腹も立ってきた。一度や二度会っただけの女性に『生娘か?』など、突拍子もない以前に、無神経極まりない。

 これで相手が幼馴染みの色男だったら、平手打ちの一発は放ってる。

「よっ! サヤカ、噂の王子様はどうだった?」

 うなだれる私の前に、その幼馴染みが意気揚々と現れた。

「……あぁ、ゼルね」

「なんだよ~、その露骨にイヤそうなカオ」

 王宮お抱えの白魔導士、ゼル=シグナート。私とは同い年の青年で、魔法の修行は手を抜いてばかりのくせに、女の子に手を出すのは早い。軽薄なスケベ野郎である。

 かれこれ十年来の付き合いだが、間違っても彼に靡いたことはない。私はいつもの三割増しで軽蔑を込め、不誠実な色男をねめつけた。

「触ろうとしないで。スケベ」

 私の肩を抱こうとしていたゼルの手が、びくっと止まる。

「ちょ、まだ触ろうとしてねえし」

「触るつもりだったんじゃない。近寄らないで」

 毛嫌いする調子で突っぱねると、ゼルは不満そうに口を尖らせた。

「可愛くねえな。朝イチでオレにヘアアレンジ手伝わせておいて、その態度か?」

「う。……わ、悪かったわね、今朝は本当に助かったわ」

今日に限っては、普段のように無視して終了、というわけにもいかない。お洒落全般に疎い私ひとりでは、満足に髪をまとめられなかったんだもの。

「帰るんなら逆方向だぜ、サヤカ」

「……やりにくい相手だわ」

 それに迷路のような城の中では、来た道がどちらなのかもわからなかった。ここへ来るまでは城の壮麗さに見惚れ、道など意識していなかったせいもある。

 仕方なく私はゼルの隣に並んだ。

 長身のゼルが、小柄な私の頭を無断で撫でる。

「しっかし、なんだかんだ言って、サヤカも女なんだな。この髪飾り、さり気ない感じに似合ってるのがいいぜ」

「貰ったのよ。アカデミーで道を案内したお礼にね」

「へえ。サヤカでも、ナンパされるくらいの色気は身についたか」

 いちいち失礼な男だが、それをまたいちいち相手していては、きりがない。

「いつまで髪触ってんのよ、ド変態。色魔」

 横目でじとっと睨みあげると、ゼルが慌てて手を引っ込めた。

「男を蔑む目をさせたら、おまえはこの国イチだぜ……言葉責めも豊富だしよ。まさか、リオン王子にもそんな態度取ってないだろうな」

「そ、そんなわけないでしょう」

 そのまさか、先日タメ口であしらいました、などと話せるはずもない。追求される前に私のほうから話題を変えて、はぐらかす。

「ところで、ゼル? あなたは事情を知ってるんじゃないの?」

「ん、ああ。今回の件はオレも一枚噛んでるからさ」

 ゼルは声を潜め、周囲の人気を警戒した。

 魔導士の中でもゼル=シグナートは高い地位にある。すでに関係者として何らかの件に関わっており、私を巻き込んだものと考えるのが自然だった。

「あんたのせいなのね」

「違う、違う! その様子だと、詳しくは教えてもらえなかったみたいだな」

「ええ。何が何だかさっぱりだわ」

 回廊で話し込んでいては、いつ誰に聞かれるとも知れない。私はゼルに連れられて、城の西へと向かった。

東方由来の風習で、陽が昇る方角、すなわち東に男子を置くと縁起がよい。そのため反対の西側に女子が置かれることが多かった。

だんだん女性の姿が多くなり、とうとうゼル以外は女だけになる。全員が同じメイド服で統一され、清楚なエプロンをまとっていた。若いメイドのひとりが声を掛けてくる。

「ゼル様、ここは男子禁制ですよぉ? やっらしー」

「オレ、今日から女の子になるからさ」

 女の子相手にゼルはへらへら。それを見て、私は失笑。

「……はっ。あなた、バカでしょ」

「妬くなって。オレはサヤカが一番……あいたあっ?」

 このタイミングで彼がまた腕をまわしてくるであろうことは、わかっていた。加減なしに、涙目になるまで耳を抓ってやる。

「おーいてぇ。暴力反対」

「セクハラ反対」

 こんな関係がかれこれ十年も続いてる。

 大変残念なことに、私にとってもっとも近しい友人は、このセクハラ色男だった。

「おまえ、ここであんま壁作んなよ。ひとりで勉強とはいかねえんだから」

「別に孤立してるわけじゃないわ。歳の近い学者が同じ研究室にいないってだけで。それに私、まだここで暮らすって決めたわけじゃ……」

 しばらく歩いて、ある一室へと案内される。その扉には『サヤカ=クレメンテ』と名札が掛けられており、部屋の中は綺麗に掃除されていた。

「問答無用なのね。はあ……」

 強引すぎて、呆れる。

 事情を話してさえくれれば、私だって前向きに検討するわ。でも何の前置きもなしに無理強いされるのは、たとえ相手が王族であっても、気分のいいものじゃない。

「おまえが座れよ、サヤカ」

「あんたの部屋じゃないでしょ、まったく」

 ゼルが自分の家であるかのようにティーセットを見つけ、お茶の支度を始める。どうせほかのメイドの部屋で憶えたんでしょうね。

「聞かせてもらおうじゃないの。あんたも噛んでる件について」

 彼の女癖に呆れつつ、私は一脚しかない椅子に腰を降ろした。椅子のないゼルは立ったまま、紅茶の香りを扇いでいる。

「早くアカデミーに戻りたいのよ。小論文の途中だったし」

「あー、戻るのはしばらく無理だぞ。なんつーか……献血、が済むまで……」

「はあ? ケンケツ?」

 私のティーカップも紅茶で満たされた。リオンの瞳と同じ琥珀色が煌きをたたえる。

「さて、どっから話せばいいものか……サヤカはオブシダン公国の成り立ちとか、人より知ってるよな。アカデミー生なんだし」

「歴史学者ほどではないわよ」

「説明してみてくれ」

 説明を聞きたいのはこっちなのに、おかしな注文だわ。

 疑念を感じつつ、私はこの国について知っていることを整理してみた。

「そうね、オブシダン公国は――」

 オブシダン公国は諸外国の境目に位置する小国でありながら、三百年近い平和と均衡を保っている。肥沃な土地で農作や牧畜が盛んであり、近年は、東西交易の中継点としても利益を上げていた。

 だが、昔は紛争の絶えない地域だったらしい。クレメンテ家といった東方の家系が存在するように、異民族と異文化が混在しており、長い戦争の記録もある。

 それを統一したのがオブシディアン王家だった。

 そしてオブシディアン王家による統一以降、目立った争いは起こっていない。

「不思議に思ったことはないか? ひとつの王家で三百年も国が続いてる」

「それ、貴族の前で言っちゃだめよ。……まあ、確かに珍しいわよね。どんな支配体制もいずれは脆くなるし、近隣諸国の煽りだってあるもの」

「さすが、社会学と政治学を専攻してるだけのことはあるぜ」

近隣の諸国間で戦争が始まっても、隣国で政変が起こっても、オブシダン公国の平和は三百年もの間、乱されることがなかった。

 そのメカニズムを学ぶべく、アカデミーにやってくる留学生も多い。

 私の興味を引きたいのか、ゼルはもったいぶって種を明かそうとしなかった。

「ここでクイズだ。オブシディアン王家ってのはどの民族だ?」

「ええっと……」

私はティーカップに人差し指だけ引っ掛けて、考え込む。それくらい難しい謎かけであり、これにはあらゆるジャンルの研究者も頭を悩ませてきた。

オブシディアン王家の出自って解明されてないのよね。

 例えばエルフの国ならエルフの王が、ドワーフの国ならドワーフの王が治める。しかし仮にエルフとドワーフが共存する国があるとすれば、エルフの王が治めても、ドワーフの王が治めても、大きな不公平と不満が生じる。

 ところがオブシダン公国は、六もの民族を抱えているにもかかわらず、出自不明の王家が三百年も君主制を維持していた。

 私は万歳のポーズで降参。

「考えれば考えるほどわからなくなるのよ、それって。王家っていったら、まず血統の正当性を主張するじゃない? なのに、この国にはそれがないもの」

 オブシディアン王家はどの民族にも属しておらず、王であることの由来もなかった。

 謎を知っているらしいゼルがにやつき、腕を組む。

「この国が長年に渡って安定していることと、王の素性が知られてはいけないことには、でかい理由があるのさ。……聞いたら引き返せなくなるぜ?」

 幼馴染みだけあって、こいつは私の性分をよく理解していた。知的好奇心を刺激されては、多少のリスクくらい妥協してしまう。

「逃がすつもりもないくせに。いいわ、教えてもらおうじゃない」

 充分に私を焦らしてから、やっとゼルが真相を語った。 

「オブシディアン王家は人間じゃない。悪魔なのさ」

 ……何を馬鹿げたことを。

私は失笑し、紅茶の味を確かめなおす。

「面白い作り話ね」

「だろ? まあ聞けよ」

 その作り話にゼルは自信満々だった。行儀悪くテーブルに腰掛け、語りだす。

「人間より遥かに優れた政治センスを持った存在が、この国を治めてる。だからオブシダン公国は三百年も平穏無事にいられるし、これからもそうさ」

「ふうん。そして、正体が正体だけに公にはできないってことね。納得」

しかしゼルに負かされる一方では面白くないので、結論の一部を横取りしてやった。

 悪魔とは、地下迷宮などで希に存在が確認される、邪悪で歪な存在だ。東方の家系であるクレメンテ家にも『鬼』という名称で伝えられている。

 仮にオブシディアン王家が悪魔の血筋にあるとすれば、初代国王はおそらく純血の悪魔か、それに近い存在だったのだろう。その力で国を平定したわけである。

 脳裏にひとつのイメージがよぎった。

そういえばさっきの、リオン様の羽根って……。

 先ほど謁見した王子には、一対の羽根が生えていた。ほとんど骨だけで小さく、空を飛ぶことはできそうにない。世代を経て、悪魔の血が薄くなっているのだろうか。

 テーブルの上でゼルが脚を組み替えた拍子に、ティーカップが揺れた。

「行儀が悪いわね。降りなさい」

「じゃあベッドの中で話すか? ……て、いたたたっ!」

 マナーもデリカシーもない色魔の耳を、しっかりと抓っておく。

「アレルギー覚悟で猫と寝るほうが、よっぽどいいわ」

「猫が好きなのにアレルギーなんだよな、おまえ」

 猫と違って小憎らしいだけの幼馴染みは、ようやくテーブルから降りた。

「他の国は知らないことなんでしょう?」

「そりゃな。公国の威信に関わるし」

 私は頬杖ついて、一応は話の筋が通っていることに納得する。

 オブシダン公国は悪魔によって平定され、今なお悪魔の血筋にある者によって支配されている。これが真実なら、最高レベルの国家機密ね。

 そんな秘密を不真面目なゼルが知っていることのほうが、不思議だった。

「いまひとつ信じられないわね。まあ本当のことだとしても、それで公国が平和でいられるんなら、いいんじゃない?」

 かつては大陸全土に広まった教会も、聖戦の末に権威を失い、人々の信仰心は薄れつつある。私みたいに割り切ってしまえる人間も多いはずだった。

 神だの悪魔だの騒ぎだすと、教会に出張ってこられる可能性もある。

「おまえは多分そういう反応だろうと思ってた」

 教会に近しい白魔導士のゼルでさえ、私の発言を咎めなかった。

 しかし私にとっての問題は、まだ何の説明もなされていない。このままではゼルとの世間話で終わりそうなので、こちらから早めに切り出す。

「それで? 私が呼ばれた理由は何なの」

「ああ、えーっとな? その、なんだ。なんていったらいいか……」

 ゼルは口ごもり、私と正面から目を合わせようとしなかった。普段は無神経なくせに、よほど言い出しにくいことなのか、遠慮している。

「王位継承の儀式って知ってるか?」

 また遠まわしにものを言われたみたい。

 生まれも育ちもオブシダン公国である私は、当然それを知っている。

「聖杯で真っ赤な葡萄酒を飲むんでしょう? こないだもあなたと、リオン様の王位継承に立ち会える歳だなって話、したばかりじゃない」

 時期が来たら、王位継承者は聖杯で身を清めるのが慣わしである。

「そ、それでな。怒らずに聞いてくれよ? 次期王位継承者が飲むのは……。実はあれ、葡萄酒じゃねえんだ。要するに、うん」

「ハッキリ言いなさいよ。何?」

 ゼルはしぶとく口ごもって、ぼそぼそと耳打ちするように、やっと囁いた。

「――の血、なんだ」

「は?」

 すぐには理解できなくて、きょとんとする。

 かろうじて聞こえたのは、ある女性を表す言葉だったような。女として当然の羞恥と、女として当然の憤怒で、だんだん顔に赤い熱が集まってくる。

「じっ……冗談じゃないわよ! 私の血を飲むって?」

 相手がゼルだけに、思いきりテーブルを叩いて怒鳴ってしまった。ティーカップがひっくり返り、紅茶がゼルに引っ掛かる。

「がなるなよ! 飲むのはオレじゃないし」

「あんただったら、それこそ絶対にお断りだわ!」

 代々の王は悪魔の本性を抑えるため、神聖な杯で飲み干すのが習わしらしい。

……処女の生き血を。

 そして私、サヤカ=クレメンテが生き血の提供者として選ばれた。

なんって前時代的な風習があるのよ!

「あ、あのさ、怒ったついでに聞いてくれ。実は……かくかくしかじか……」

しかも血液は3リットルも必要で、しばらくは城で健康な血を作りつつ、定期的に聖杯に注ぐ生活をしてくれ、とのこと。

なるほど『献血』だった。

「なんで私なのよっ! 城にいるでしょ? 候補が他にいくらでもっ!」

 怒り心頭に私は立ちあがり、ゼルにずかずかと詰め寄って凄む。

 対するゼルは逃げの一手で、壁際まで後退した。

「王侯貴族と癒着してなくてそこそこの家柄っつったら、クレメンテ家だろ? でもってサヤカは口が堅い。あと、百パーセント……まだだろーし?」

「悪かったわね!」

 声を張りあげすぎて、一気に喉が渇く。しかし紅茶は零れてしまった後だ。

「そんなつまんない理由で私が選ばれたの? アカデミーに帰るわ」

 いくら公国のためとはいえ、許容できないことはあった。昨日今日会ったばかりの男性が自分の血をすするなんて、想像したくない。

 荒れる私を、ゼルがどうどうと鎮める。

「ま、まあまあ。報酬はたっぷり貰えるし。金だけじゃなくてさ」

「ここで暮らせって、いきなり言われても困るに決まってるでしょう? せめて前もって話を通しておくとか、なかったの?」

「秘密裏に進めたらこうなったんだよ。オレは一応リオン王子に『サヤカ=クレメンテはやめておいたほうが』って申しあげたし……っと、ヤベ!」

 ぎゃあぎゃあと揉めている部屋の中へ、年配のメイドが入ってくる。

「ゼル=シグナート! またあなたですか、ここは男子禁制と言ったはずです!」

「サヤカ、悪い! オレは魔導士会に顔出さないと」

「ちょっと! 私だって学会に出席しないとまずいんだってば!」

 ゼルは逃げ足早く部屋を飛び出し、行ってしまった。

 私だけ、年配のメイドにぎろりと睨まれる。

「あなたが新入りのサヤカ=クレメンテですね。話は私も伺っています。ただし、ここで住むからには特別扱いはしません」

「……は、はあ?」

「早く着替えなさい。すぐに仕事を始めます」

 彼女が指差すハンガーには、可憐なフリル仕立てのメイドドレス。

「こ、ここ……これを着るんですか?」

 愕然とした。

 

 

 不慣れなエプロンを着け、私は初めての掃除や洗濯に悪戦苦闘した。

 掃除では箒で掃いているうち、同僚が集めたゴミを踏み散らかしてしまって。

「仕事仲間の邪魔をしてどうするんです、サヤカ=クレメンテ!」

 洗濯では、服と下着をごちゃ混ぜにしてしまって。

「下着を一緒に洗うなど非常識です!」

 陽が暮れる頃には夕飯の支度となり、炊事でも案の定。

「ジャガイモの皮も剥けない? 今まであなたは何をしてきたのです、サヤカ=クレメンテ! 女として恥を知りなさい!」

 メイド長に散々叱られた。

 他のメイドたちは要領よく仕事をこなしている。

みんな、どうしてできるの?

 彼女らが全員できるせいもあって、自分だけ洗濯物の干し方ひとつ知らずにいたことが恥ずかしい。クレメンテの屋敷で家事全般を家政婦に丸投げしていた、ツケだった。

 学問なら、社会学以外の分野もそれなりに自信がある。しかしこの場では学力など、それこそジャガイモの皮を剥く役にも立たなかった。

「しっかり復習しておきなさい。サヤカ=クレメンテ」

 そんな私にメイド長は厳しいが、同僚のメイドたちは優しい。

「サヤカ、よね? ザマスの言うことなんて適当に聞いておけばいいのよ」

 メイド長がフルネームで呼びまくるせいで、顔と名前はすぐに憶えてもらえた。

「ザマス、って?」

「メイド長のこと。あ、私のこと憶えてる?」

「……え? どこかで会ったかしら」

 同い年くらいのメイドはけらけらと笑いながら、お手本とばかりにジャガイモの皮剥きを披露してくれた。しゃりしゃりと一定のリズムで皮が捲れていく。

「私はアン。お昼にあなたを謁見室まで案内したでしょ」

「あっ! ごめんなさい、雰囲気が全然違ってて……」

 相手は憶えてくれてたのに、本人目の前に『どこかで会ったかしら』なんて……。

アンは私の非礼を気にしたふうもなく、ジャガイモを均等な四角に切った。

「まさか新入りさんとは思わなかったわ。だって、リオン様のお呼び立てなんだもの」

「それは、えぇと……」

 うっかりボロを出してしまいそうで、居たたまれない。 

「たまにいらっしゃるのよ。結婚前にここに来て、メイド長にたっぷり絞られちゃうお嬢様が。お相手は決まってるの?」

 婚約の話はまだだけど、生き血を飲ませる相手は決まってるわ。

 などと言えるわけがない。

「ごめんなさい。言っちゃいけないことだと思うし」

「なーんだ、残念。はい、これで一個できあがり」

 私がうろたえるうちに、アンは次々とジャガイモの角切りを仕上げていた。それを別のメイドがほかの具材と混ぜ、また別のメイドが鍋へと放り込む。

なるほど、これが流れ作業ってやつなのね。

 その連携ぶりに感心して、つい見入ってしまった。

「サヤカ=クレメンテ! ぼーっとしないで、手を動かしなさい!」

「ははっはい!」

 不意打ちでまた怒鳴られ、びっくりする。

 その拍子に握っていた包丁がすっぽ抜けた。刃物が放物線を描いて飛び、まな板の上のジャガイモにぐさりと刺さる。

 メイド長の怒りがピークに達した。

「あなたというひとはっ! サヤカ=クレメンテ! こちらに来なさい!」

「すすっ、すみません! すぐ行きます!」

 今日だけでもメイド長に十回くらい謝った気がする。

 

 長い説教の後、私には一式の夕食が渡された。私が食べる分ではなく、王侯貴族のもとへ運ぶ食事だったりする。

 しかも私の担当はリオン王子だった。これは王子様のご指名らしい。

「よりによって一番遠い部屋じゃないの。はあ……」

 一食分だけ乗せるには無駄に大きいワゴンを押し、暗くなった回廊を進む。

 すでに陽は暮れ、渡り廊下では星空が見えた。日中の涼しさが、夜は少し肌寒い。

 行く先の燭台に、何の前触れもなくボウッと火が灯った。

どういう仕組みかしら? 不思議ね。

 おかげで足元を確認しつつ進むことができる。

 オブシダン城は夜景としても格別に美しい。もともとオブシダンとは黒曜石のことであり、王宮の石材にも混ざっていた。

 奇妙なことにこの城の黒曜石は、削り取ると、ただの脆い石になってしまう。鉱物資源を持たない公国が、どこからこれだけの黒曜石を集めたのかも、謎だ。

 ある説によれば『黒曜石は魔性を宿す』という。

悪魔の城……だから、黒曜石なの?

 オブシダン城は夜でこそ、黒曜石の輝きを目で見ることができた。回廊全体が万華鏡のように光を散りばめ、幻想的な波で私を包む。

「っと、急がなくちゃ」

 止まっていた足を前に動かし、私は王子の私室へと急いだ。

食事を運ぶためだけじゃなくて、今回の件を断るため。ゼルにも立場があるのかもしれないが、付き合ってやる義理もなかった。

リオン様に直接、掛け合ってみるしかないわね。

 謁見の間と違って、王子の私室には衛兵が張っていない。部屋の前まで来ると、ドアのほうから勝手に開いた。

「遅かったな、サヤカ。入れ」

「し、失礼いたします……」

 何やら芳しい香りが私を迎える。

 王子の部屋というからには豪奢なものを想像していたが、彼のプライベートルームは意外な趣向が凝らされていた。壁三面のうち、二面は花で埋め尽くされている。窓の向こうのベランダにも花壇があるらしい。

 パンジーやガーベラといった人気のものから、スズランなどの変わったものまで、品種はさまざま。秋を代表する花がとりわけ咲き乱れている。

 いつぞやのキンモクセイもささやかに咲いていた。

 ただし花の香りは、濃厚さを通り越して強烈。鼻孔をくすぐる程度ではなく、鼻粘膜を香水で浸されたかのような刺激を感じる。

 ところがガーデニングルームのデスクで、部屋の主は煙草などを噴かせていた。

 香りを楽しもうとか思わないの?

 アカデミーの学者には喫煙者が多いから、私としては気にならない。しかし花の庭園で煙草を燻らせるのは理解できない。せっかくの花の香りが台無しじゃない。

「そんなに苦手か。お前はこいつが」

 リオン様は灰皿で煙草をすり潰し、軽く手を払った。私がスモーカーを毛嫌いして顔を顰めた、と勘違いしたのね。

「いえ、大丈夫です」

「そこまで嫌そうなカオをされたら、吸う気も失せる」

 今度は窓が勝手に開いて、部屋の空気を入れ替え始めた。ついでに濃厚すぎる花の芳香も薄れ、おかげで鼻孔が楽になる。

さっきの扉といい、彼が魔法で動かしているみたいだわ。

一般的に魔法は触媒を用いたうえで、正しい術の知識、そして詠唱を必要とした。わざわざ魔法で火をつけるくらいなら、マッチを使ったほうが手っ取り早い。

しかしリオン様はそれを、指を弾くような感覚でおこなっていた。やがてひとりでに窓が閉まり、部屋にまた花のにおいが充満する。

 王子の背には、見間違いではない羽根が生えていた。

 本物の悪魔、なのよね?

 相手が王族であるだけでなく、悪魔という存在であることにも戸惑う。

入室の前はあれを話そう、これを断ろうと考えていたはずなのに、尻込みした。

「今夜のお食事をお持ちしました。ええと、どこに置きましょうか?」

 腰の引けた姿勢になりつつ、私は今日の夕食を差し出す。

「ちょっと待て、なんだそれは」

 使用人として礼儀を尽くしたつもりだが、何かまずかったのだろうか。リオン様が机から脚を降ろし、難しい表情で夕食を覗き込む。

「……俺様の食事と知って、誰がトマトを入れた?」

「トマトがどうかなさったんですか?」

 私は目をぱちくりさせ、王子様のためのメニューを確認した。

 献立は野菜サラダにシーフードスープ、鮭のムニエルなど。もっとご馳走になるものと思ってたけど、意外に健康的な内容だわ。

 ところが王子様は駄々っ子みたいに拗ねる。

「俺様はこれが大嫌いなんだ。食感がグニャっと気持ち悪い」

 それこそ、こちらの食欲が失せそうなくらい苦い顔をして、舌を吐いた。

 指差されたのは真っ赤なトマト。

コメディの吸血鬼ならグロテスクな生き血ではなく、トマトジュースを喜んで飲む。しかし目の前の悪魔は、トマトが大層お嫌いなご様子だった。

「トマトはおまえが責任を持って食え」

「私の責任なんですか?」

「ここまでトマトを運んできたおまえも悪いに決まってる」

 不思議と、謁見の間で感じたほどの威圧感もなかった。大きなお子様といった印象で、初めて会った時のようでもある。

 トマト嫌いの王子様は腹を立て、ぷいっと顔を背けてしまった。

「俺様が国王になったら、トマト畑など一掃してやる」

 悪魔かどうか以前に、一国の王子であるかどうかも疑わしい。

 権力を振りかざしてくるとは予想していたが、まさかワガママに付き合わされるとは思わなかった。そんな王子様が少し可愛く思えてしまって、私は笑いを堪える。

「農家の方が困りますよ。それに私は好きです」

「本気で言ってるのか? 信じられんな」

 年下の少年を相手にしているのと変わらない。

襟足をかきあげる仕草ひとつを取っても、王族ならではの品性が感じられるのに、出てくる言葉は七割くらいがワガママ。

「あと、俺様の夕食に酒はいらん。それより煙草を持て」

「吸いすぎるとお身体に障りますよ」

「酒を飲めんからだ。その分、吸ってでもおかんと、部下に示しがつかんだろう」

 煙草を吸う理由まで子どもじみていた。

 不平不満を言いながら、リオン様がムニエルにナイフを差し込む。

 その食事が終わるまで、メイドは傍で指示を待つ。

「どうした? これは俺様の魚だ、やらんぞ」

「いえ、そういうことでは」

 さて……どう切り出したものかしら?

 お子様じみた今のリオンになら、何でも言えそうだわ。

 話を切り出すタイミングを見計らって、飲み物を勧めながら掛け合ってみる。

「アルコールが控えめのエールもあり、ございますよ。どうぞ」

「さっきから落ち着かん女だな。なんだ?」

「申し訳ありません。実はその、今回の件で……」

 リオン様は横目でちらっと私のメイド姿を一瞥した。

「我慢しろ。健康管理も踏まえて長期的に城に置くには、メイドが目立たなくていい」

 下働きをさせられたことで、良家の娘が不服を申し立てに来た、と思ったらしい。

 だけどクレメンテ家は少し大きい屋敷に住んでいる程度で、財力や権力はさほどのものではなかった。私の家より裕福な平民はいくらでもいる。

 学者の家系と言えば、聞こえはいい。しかし実際は金も権力もない家が、せめて知識の面で優位に立とうとする、苦肉の策だった。

「親父の時はあれだ、シスターに化けさせていたそうだが」

 悪魔と聖杯、生き血の件は城の者に知られてはならないはず。王子に生き血を捧げるために女性が選ばれるなんて、穏やかではいられないもの。

そこで『木を隠すには森の中』、こうして私をメイドにしたことには納得できる。

 けれども私には、メイドの仕事は三日と堪えられそうになかった。何より悪魔に生き血を捧げるなど、承諾していない。

「リオン様、私、聖杯の件を辞退申しあげたいんです」

 食事を進めるリオン様の手が止まった。ナプキンで口元を拭いつつ、ぎこちない直立姿勢の私をじろりと睨む。

「なぜだ? ……ああ、身体を引き裂かれるとでも思っているのか。そのことなら心配はいらん、傷つけずに血液を取り出す魔法がある」

「そ、そういうことではないんです。あの、アカデミーもありますし……」

 相手が王子という前提もあって、いざ打ち明けると緊張した。後ろ髪を引かれながら、納得してもらえそうな理由を挙げていく。

「血の足らん頭で学問などやめておけ。休学の申請なら手配させた」

「えええっ? こ、困ります!」

 対するリオン様は強引かつ横暴だった。アカデミーという退路を断ち切り、私の逃げ口実を塞いでしまう。やはり権力者だけあって、下の者の都合には構ってくれない。

「王族の秘密を知った以上、おまえには責任がある。おまえの都合より、今は俺様の都合を優先しろ。最後まで付き合ってもらうぞ」

 逆らうべきではなかったかもしれない。下手に反抗しようものなら、気まずくなるだけでは済まないだろう。

 それでも生き血を飲まれるなど、気味が悪くて許容できなかった。無神論者の私にも、悪魔的なおこないには加担したくない、という生理的な嫌悪感くらいある。

 何でもいいから口実……じゃないと、帰れないし。

……そうだわ、こうなったら!

 十七歳の乙女である私はエプロンをぎゅっと握り、白状した。

「あの、申し訳ありません。ほんとは私……」

「ん? シスターのほうがよかったか?」

 余裕の表情で答えを待つリオン様に、女のプライバシーを打ち明ける。

「ほっほほ、ほんとは、処女じゃないんですっ!」

 嘘だけど。

「……なんだと?」

俄かにリオン様が眉を顰めた。

ゆらりと起立して、後ろの壁にシルエットを浮かびあがらせる。

「ほう? おまえは、自分は生娘ではない、というんだな」

 その影には一対の羽根があった。骨だけの羽根が魔影を広げていく。

「ひ……! そ、それは……あの」

 全身で鳥肌が立った。

獰猛な獣を前にしたかのような、本能的な恐怖が私の四肢を強張らせる。とても震えを堪えきれず、心臓は警告音を鳴らし始めた。

 リオン様が悪魔であることはわかっていた。話に聞いたし、この目で羽根も見た。

 だがその事実を、今は肌で感じている。

このひと、本当に悪魔なんだわ!

目の前で黒い影をまとっているのは、人間ではない。琥珀色の瞳が、血に飢えた猛獣のようにぎらつき、私を射すくめる。

「誰に奪われた?」

「い、いえ、ああっあの、失礼します!」

 逃げようにも脚が動かなかった。私の影に悪魔の影が重なっていく。

「逃がすと思うか?」

 リオン様は歩くまでもなく、数センチほど宙に浮いて、一瞬のうちにまわり込んできた。私が大きく瞬きするたび、その位置が変わっていく。

「こっ、来ないでください!」

 両手を突き出し、顔を背けても、リオン様の視線を痛いほど感じた。恐る恐る目を開けると、いつの間にか前髪が触れる距離に彼がいて、ぎくりとさせられる。

「もう一度聞く。おまえを奪った罪深い男は、誰だ?」

「それは、誰とまでは……きゃっ!」

 次にリオン様が移動した時には、私の身体も一緒に移動していた。ドアからもっとも遠い壁際に追い詰められ、さらに両腕で囲われてしまう。

 これで相手がゼルだったら、蹴りのひとつでも出せるのに。悪魔の脅迫じみた威圧感に萎縮してしまって、震えるしかない。

「あのっ、ほんとに……ゼルです! ゼル=シグナート!」

「白魔導士ゼルか。ふふっ、たらしこまれたのか?」

 行き当たりばったりで思いついた男の名前など、鼻で笑われた。この悪魔は私の嘘を見抜いているのかもしれない。

「処女でないというなら、確認せんとな」

 リオン様の手がやや乱暴に私の、華奢な肩を捕まえる。

「い……いやです、やめてください、リオン様」

 私が必死で我が身をかき抱き、抵抗しても、悪魔は手を休めなかった。

手つきは次第に『触る』ものから『撫でる』ものとなり、女性の緩やかな曲線にやたらと執着してくる。

悪魔だけでなく、男性そのものまで恐怖の対象になった。縁のない私でも、男のひとがどうやって女性を辱めるのか、想像はつく。

 声は上擦り、涙腺に熱い涙が滲んだ。

「許して、お、お願いです……!」

悪いのは相手のはずなのに、許して欲しい、などという言い訳に傾いてしまう。

 その反応さえ楽しむように、リオン様の手はスカートの中まで徘徊した。太腿の外側を遠慮なしに撫でられ、内側にも手を差し込まれそうになる。

「随分と初々しいじゃないか」

 もう脚をきつく閉じるくらいしかできなかった。男性にこんなふうに触られるなんて、初めてで、どうすればよいのかわからない。

 間違いなく彼は、私に経験がないことに勘付いていた。

「怖くて動けんか。やはり生娘だったな」

冷笑を浮かべながら、恐ろしいほどに優しい手つきで、私に震えをもたらす。

「はぁ、こ、怖いのは……リオン様が、あっ、悪魔だから、で……!」

 首筋に彼の吐息が当たっただけで、ぞくっとした。自分でも信じられないくらい敏感になってしまって、反射的な震えを禁じえない。

 逃れようとして壁に身体を押しつけるほど、逃げられなくなった。

 ロングヘアをのけた首筋をぺろりと舐められてしまう。

「なっ、なにをして?」

「聖杯に注ぐ前に少し味見を、な」

 リオン様の唇が薄く開き、鋭利な牙を剥き出しにした。唾液をねっとりと絡めており、その中央で舌がとぐろを巻く。

 男性に肌を蹂躙される嫌悪感が、悲鳴になった。

「やっ、やだ……やめて、あぁ、いやぁああああああああッ!」

 同時に首筋の二点を貫かれ、痛みが生じる。

リオン様の湿った吐息がじかに触れ、熱い唾液は私の鎖骨へと流れ落ちた。

 ゴク、ゴクと奇妙な音が伝わってくる。

人間じゃない、ほんとに……!

血を吸われるなどという、おぞましく生々しい感覚に、私は蒼白になっていた。血液の流れを彼の唇に支配され、戦慄する。

「──っごふう?」

 ところが今度はリオン様のほうが真っ青になり、大慌てで牙を外した。

「げほっ、かは! な、なんだこれは?」

激しく咳き込んで、肺の空気を入れ替えるように息を荒らげる。

「ぜえ、ぜぇ……血がまずっ、おまえの血は不味すぎる……おげえぇえええ!」

 彼の身体も、それ以上に悪魔の羽根もびくびくと痙攣した。立っていられずにしゃがみこんで、大袈裟に噎せる。

よほどサヤカ=クレメンテの血が不味かったらしい。

「な、ななな、な……なんですってぇえ!」

今までの恐怖が怒りに一転し、スイッチが入ってしまった。

私は勢いのまま彼を振り解き、怒号を放つ。

「不味くて悪ぅございましたねッ!」

 不愉快だわ!

それも吐き気を催すほど不味いだなんて!

「トマトなんぞを食ってるから、こんなに血が不味くなるんだろう! 今日からおまえはトマト禁止だ! わかったか?」

 お偉い王子様が反撃してくるけど、引き下がってやる気など、もうなかった。

「それはいいことを聞きましたっ! 今日から毎日トマト食べて、いっくらでも飲ませて差しあげます!」

「いいっ、いくらもいるか、こんなもの! 俺様を殺す気か?」

 リオン様は羽根をたたみ、泣きそうな顔で私を見上げる。

「あなたが勝手に私を連れてきて、勝手に飲んだんでしょう? あなたの都合を優先してあげるって言ってるんだから、どうぞ、感謝してくださいませねっ!」

 私は部屋を出ようとするものの、扉を引くのと押すのを間違え、余計に荒れた。

「あーもうッ!」

 怒ると見境がなくなるのは、昔からの悪い癖だと、わかっていても。

なんなのよ! 吐くほど不味いって!

 八つ当たりを我慢できない。

  王子様相手に喧嘩してしまったことを自覚したのは、メイド長に足りない食器の行方を聞かれてからだった。

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