俺様な王子に愛想が尽きました。

プロローグ

 天井の高さまである本棚に、専門書がぎっしりと詰まっている。

書斎は古書のにおいに満ちて、静まり返っていた。王立アカデミーの一階最北にあるその部屋で、黙々と本を読む。

 これが私、サヤカ=クレメンテの日課だ。

「下巻の百二項を参照……あの本なら、確かこのあたりに」

 アカデミーの書斎をすっかり私物化してしまって、講義がなければ、大抵ここで読書に耽ってる。もっぱら文系である私の、最近の関心ごとは政治学だった。

 オブシダン公国の最高学府『アカデミー』へと入学し、暇潰しに勉強の日々。女盛りの十七歳にしては、我ながらつまらないヤツだと思う。

 そんな堅物が研究に打ち込むには、アカデミーは最適の場所だった。文献はある、椅子もある、論文の出来次第では発表の機会もある。

 しかし、この環境でも集中できない時があった。前触れもなく窓が開き、古書のにおいを外へと持ち去っていく。

 この書斎は裏庭に面しており、誰かが通りかかることがあった。窓から侵入することは容易く、すでに何度もやらかしている友人に思い当たる。

「……また来たわね、あの男。性懲りもなく」

 私は溜息ついて、読み途中の本に栞を挟んだ。おもむろに席を立ち、散らかしっ放しのメモやら下書きやらを踏まないよう、慎重に窓際へと歩み寄る。

勉強の邪魔ばかりする悪ガキには、一喝くれてやらないと。

「ゼル! この時間は魔導士棟で仕事でしょう、こんなところにいないで……」

 ところが窓の外には誰もいなかった。手入れの行き届いてない花壇がぽつんとあるだけで、私の怒号は空振りに終わってしまう。

 いつもなら、お調子者の幼馴染みがおどけながら出てくるパターンなのに。

右を見ても左を見ても人影はなく、私はきょとんとした。

「……おかしいわね。風の仕業かしら」

 首を傾げた先の視線が、奇妙な影に差し掛かる。

「おまえ、ここでひとりか?」

「きゃああっ?」

 驚いてあとずさった拍子に、私はレポート用紙を踏んで転んでしまった。その衝撃に揺られ、デスクの上にあった本の山が雪崩のように崩れる。

 視界は丸ごとひっくり返り、どちらが上でどちらが下なのかわからなくなった。身体を起こしてようやく、私は窓際に現れた『それ』の上下が逆であることに気付く。

 男性が逆さになってるのよ!

 てっきり幼馴染みの悪戯と思い、声を荒らげる。

「びっくりするじゃない、ゼル! ……あ、あら?」

 けれども窓の向こうで逆さになっているのは、見慣れない男性だった。重力が反転したみたいに、窓の上辺から下へと身を乗り出し、書斎を覗き込む。

その顔立ちは精巧な彫像のように整っていて、半端な長さの髪でも、それが自然体で似合っていた。髪は真紅に染まっており、大して明るくない室内でも光沢がある。

切れ長の瞳は、オブシダン公国では珍しい琥珀色。

「邪魔するぞ」

 彼は頭を上、足を下にする正常な向きとなってから、窓枠に腰掛けた。長い脚を悠々と組み、ふてぶてしいポーズを取る。

 夏の暑さがまだ残っているにもかかわらず、丈の長い黒ずくめの恰好で。

 怪しい……。関わると面倒そうな予感がしてならない。

「街に出たつもりなんだが……ここはどこだ?」

「……その前に、あなたは誰よ?」

 ここはどこ、あなたはだれ。記憶喪失の定番のような会話で、間が出来てしまった。

「おまえ、誰だ?」

 それこそ私が聞きたいわ。

 だけど質問を質問で返していてはきりがない。私は落ち着き払って、櫛を通しただけのロングヘアをかきあげる。

「ここは王立アカデミーの社会学部よ。事務室なら東にある別の校舎だけど」

 相手も前髪をかきあげ、まくしあげた。

「東や西でわかるか、右か左で教えろ。第一、俺様はアカデミーなんぞに用はない」

「だったら、どうしてここにいるの。出口は反対の南側よ」

「北や南でわかったら誰も迷わん。前か後ろで言え」

 シュールな返答ばかり返ってくる。南北を上下でなく『前後』と言い張るのも珍しい。

 このひと、アカデミーに迷い込んだみたいね。

「事務室で聞いてちょうだい」

 散らかった書物を集めつつ、私はデスクに戻った。

 小さい子どもならまだしも、年上の迷子の面倒なんて見てられない。そんなことより、提出期限の差し迫っている小論文をまとめるほうが大事だもの。

 しかし彼は書斎から去ろうとしなかった。とうとう窓から中に入って、物珍しそうに本棚を見上げながら、うろうろする。

「俺様を案内する栄誉をくれてやる。わかるな?」

「わからないわよ。今は勉強中なの」

「何を読んでいるんだ? さして面白いものには思えんぞ」

 こっちは関わりたくないのに、私の読んでる本を覗き込んでくる。

なんなのよ、このひと……。

 渋々私は書を閉じて、有意義な時間が終わったことに溜息をついた。適当にあしらって追い返すほうが早いかもしれない。

「わかったわ、アカデミーの出口まで連れていってあげる。それでいいでしょ?」

「うむ、よかろう。その心配りを忘れるなよ」

 変わり者を連れ、アカデミーの正門まで案内してやることに。窓のほうは閉め、ドアから書斎をあとにする。

……せっかく気持ちよく晴れた小春日和なんだし、散歩のひとつくらい、ね。

そう切り替えると、珍客にもいくらか親切になれた。

「私はサヤカよ。サヤカ=クレメンテ。あなたは?」

 隣を歩く彼の背丈は、私より頭ひとつ分も高かった。漆黒のスーツは装飾が細やかで、その着こなしにしても、貴族階級の人間であることは容易に想像がつく。

 ただ、紳士服にしては背中がやけに開いている。

「俺様を知らないのか? リオンだ」

 リオンはきょろきょろとあたりを見まわしてばかりだった。アカデミーの芸術ぶった建築様式が面白いのか、余所見をやめず、曲がり角のたびに道を間違える。

「皇太子と同じ名前なのね」

「俺様がそうだ」

「はいはい。皇太子がこんなところにいるわけないでしょ」

 そんな方向音痴の進行方向を修正しつつ、私は正門を目指した。

 アカデミーの象徴でもある時計塔を通り過ぎると、ちょうど午後二時の鐘が鳴る。その音に驚いたのか、天辺から鳥の群れが飛んでいった。

並木道を歩いていると、ふと涼しい秋の風が吹きつけ、季節の変化を実感する。

「サヤカ……だったか。変わった名だな」

「東方の家系よ。あたしは生まれも育ちもここだけど」

 私のクレメンテ家は国外かつ東方の一族であり、オブシダン公国には曾祖父の代から住んでいた。代々学者の家系で、両親もアカデミーなどの教育分野に籍を置いている。

 いずれ私も教鞭を執るつもり。

「平日の昼間からフラフラしてるなんて、いいご身分ね。あなたは」

「いい身分だとも。……おまえ、俺様に向かって生意気だな」

 私の無作法を指摘しつつも、リオンはさして気にしたふうもなく、はにかんだ。

「まあ、上辺だけのご機嫌取りよりは気分がいい。特別に許してやろう」

「そんなに偉いご身分なわけ?」

 オブシダン公国の王子と同じ名前であって、もしかしたら本物の王子様かもしれない。だとしたら彼の不遜な言い分も、一応の筋が通る。

しかし彼は『リオン』と端的に名乗っただけで、家名を明かさなかった。下手に素性を知られては困るはずで、平民の私がとやかく問い詰められることではない。

 キャンパスまで出ると、学生の数が一気に増えた。今日は天気がよく、芝生の上で菓子を広げているグループもちらほらといる。

 そんな年頃の学生たちに紛れると、私の存在は少し浮いた。

 友達がいないわけじゃない。けど馴染めない。その理由は明白かつ単純だ。

 何しろ皆が着る服を選び、化粧をしているコミュニティの中で、私だけ着の身着のままのすっぴんなんだもの。髪も朝に櫛を通すだけ。

「おまえ、少しくらいは服に気を遣ったらどうだ。あと、髪もな」

 浮いている私の髪を、リオンがそっとすくいあげる。

「綺麗な髪じゃないか」

「不思議とよく言われるわ、それ」

 昔から髪だけはやたらと褒められた。『髪質がサラサラで羨ましい』とか『光沢がとても綺麗』とか。ただし生まれてこのかた、童顔を褒められたことはなかった。

「興味がないわけじゃないのよ。優先順位が学問より下ってだけで」

「それを『興味がない』というんだ。たまには着飾ってもみろ」

 そんな私の髪に、リオンが一輪の花を差し込む。

「手製の髪飾りだ。おまえにやろう」

「……あ、ありがと」

 容姿を馬鹿にされたのか、フォローされたのか、よくわからなかった。こういったスキンシップとは縁がないんだから、恥ずかしくもなる。

 やがて並木道の終点に正門が見えてきた。

「ここまでくれば、あとはまっすぐ進むだけよ。もういいかしら?」

「街の案内はしないつもりか」

「そんな暇はないの。……ま、機会があったらね」

 私はそれ以上進まず、自称・王子様を見送る。

「だったら、その機会とやらを作ってから、また頼むとしよう」

 リオンの笑みにはどこか含みがあった。

「あたしにその手は通用しないわよ。胡散臭い幼馴染みのおかげでね」

 まるで私が頻繁に口説かれているような、自意識過剰な言いまわしになってしまう。しかしリオンは首を傾げ、下世話に追求してこなかった。

「何の話だ? まあいい。さらばだ」

 その後ろ姿が小さくなり、アカデミーの正門へと吸い込まれていく。

「……変なひとね。ゼルといい勝負だわ」

 私は呆れて肩を竦めつつ、髪飾りを引き抜いた。

 おそらく咲いたばかりのキンモクセイに、金具を通しただけのもの。香水の類に不慣れなせいか、花の香りがきつく感じられる。

「書斎にでも飾っておこうかしら」

 それから一週間が経っても、リオンに貰ったキンモクセイは枯れることなく、殺風景な書斎で美しさを保つのだった。

 

 


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