百番目の寵姫

第六話 鮮血のロンド

 この城に来て、初めて自分でドレスを選ぶ。

 手に取ったのはベオルヴと同じ黒。シンシアに着付けを手伝わせながら、レティシアは漆黒のドレスを身にまとった。

パニエは短めで動きやすいものを、足にはハイヒールではなくブーツを履く。

 薄手のグローブには魔方陣の刺繍が施されていた。力を持つ者なら、この魔方陣を媒介にして即座に魔法を放つことができる。

 そういった知識を誰に教わるでもなく、レティシアは思い出すように知った。体内を流れるノスフェラトゥの王の血が、レティシアに力の扱い方を語る。

 コサージュまで黒で揃えたため、喪服めいた色合いになってしまった。

人間だった頃の面影を残しているのは、母譲りのモーブの髪だけ。瞳は右こそ人間の碧色だが、左は魔性の緋色に染まって、元に戻らない。

窓の向こうでは茜色の陽が暮れつつあった。朝から城の宝物庫で武器を探し、書庫で魔術書を読んでいるうち、夕暮れだ。レティシアは細身のレイピアを選んで、腰に差す。

「お美しいですわ、レティシア様」

まだ何も知らないシンシアが、レティシアの壮麗さを賛美した。

「ありがとう、シンシア」

 ほかの寵姫たちが自分を『レティシア様』と呼ぶこと、自分は彼女らにぞんざいな喋り方ができることの意味も、今ならはっきりとわかる。

 それは力の差だった。ノスフェラトゥにとって王は絶対の存在であって、レティシアはそのベオルヴと対等になりつつある。

「あなたはここにいて。それとも……ベオルヴを守るため、あたしを止める?」

 俄かにシンシアの顔が真っ青になった。地べたで跪き、がくがくと震える。

「仰っている意味が……わかりません」

「わからないなら、それでもいいの。動かないで」

 レティシアの命令はベオルヴと同じ力を持ち、寵姫を服従させる。それきりシンシアは指も動かさなくなり、部屋では時計の針だけが仕事を続けた。

 彼女の首筋に触れても、脈拍が感じられない。

本当の不老不死は王族だけなのね。

 レティシアを除く寵姫は全員、ノスフェラトゥの死体だった。悠久の時を生きなければならないベオルヴによって、魔力で無理やり動かされているに過ぎない。だから彼女たちは『お喋りができる人形』として、脈絡のない会話を延々と続ける。

人の命を何だと思ってるの? あなたは。

 レティシアはもう戻ることのない百番目の部屋をあとにした。

 夕焼け色に照らされる黒水晶の城で、ゴーン、ゴーンと鐘の音が響く。目指すは城の最上部、時計塔の天辺だ。

 鐘の音によって一斉に震わされた空気が、張り詰めるように静まり返る。

 レティシアの行く手を、ある集団が遮った。

金銀の鎧を身につけた寵姫たちが、剣を引き抜く。彼女らはベオルヴの警護を命じられているのだろう。レティシアの後ろにも複数がまわり込む。

「ここをお通しするわけには参りません。レティシア様、お引き取りくださいませ」

「ベオルヴ様のもとへ行って、何をなさるというのです? お気を確かに」

 レティシアは眉ひとつ動かさなかった。その左目が緋色に輝く。

「通しなさい」

 呟くような一言だったが、寵姫らの表情に波が走った。『う』『あ』と戸惑いを口にしつつ、ある者はうろたえ、ある者は剣を降ろす。

「通しなさいって言ったの!」

 レティシアの怒号は稲妻のごとく彼女らを震撼させた。

「もっ、申し訳ございません! レティシア様!」

「どうか、どうかお許しくださいませ!」

全員が武器を捨て、我先にと跪く。

 これが王の……なんて力なの。

 レティシア自身にも戸惑いはあったものの、城主のもとまで辿り着くには必要な力だった。霧の城に満ちていた魔力の波動が、流れを変える。

今や城にはベオルヴとレティシア、ふたりの城主が存在し、息をしているだけでもお互いの魔力が支配権を争った。レティシアを除く九十九人の寵姫は、どちらに従うとも決められず、自発的な行動を放棄してしまう。

「邪魔をしないで」

 両脇でかしずく寵姫たちの間を、レティシアは悠々と通っていった。

 上層への階段を上がり、城主の禍々しい気配へと近づいていく。

『なかなかやるじゃないか、レティシア』

 ベオルヴの声が反響した。

「上から見てるのね? 相変わらず悪趣味だわ」

『悪趣味、か。否定はせん。だが命令だけで俺は殺せんぞ。俺と殺りあう前に、命を屠る享楽を知ってもらうとしよう』

 後ろを鉄格子で塞がれ、退路を絶たれる。

円形に広がったホールでは二匹の怪物が待ち構えていた。

おそらくノスフェラトゥ──ただし人間ではなく、肉食獣が変異したものだろう。三メートルに近い巨躯で頭をもたげ、牙を剥き出す。

 だが下級種に襲われた時の、単なる少女に過ぎなかったレティシアではない。果敢な表情でレイピアを引き抜き、銀色の刀身をぎらつかせる。

『さあ、そいつらを嬲って弄べ。快楽に興じてみせろ、レティシア』

「あなたの趣味のために生きてるんじゃないのよ、みんな」

 右の怪物が先制を仕掛けた時、すでにレティシアの姿はそこになかった。魔物の剛腕を軽々と飛び越え、頭上という死角を取る。

「ごめんなさい」

 レイピアは正確無比に魔物の眉間を捉え、頭部を抉った。さらにレティシアは魔法で電撃を放ち、剣の刀身から怪物の体内へと高圧電流を流す。

 一匹目は痙攣を繰り返し、動かなくなった。

 もう一匹が凶暴な唸り声をあげ、レティシアに目掛けて鋭い爪を伸ばす。

 しかし爪が引き裂いたのはレティシアの残像だった。長い髪と黒いドレスがレティシアの動きに不規則な緩急をつけ、巧妙に敵を惑わせる。

「……これでおしまい!」

 その脇腹を、一筋の閃光が走り抜けた。魔物の巨躯がふたつに割れ、上半身がずるりと落ちる。骸はすべて塵となり、砂の山であったかのように崩れた。

 血のにおいだけが残って、鼻をつく。

『なかなかやるな。いいぞ……もっとだ。もっと力に溺れろ』

 ベオルヴの笑声が木霊した。

天井の一部が開いて、階段が降りてくる。

「待ってなさい、ベオルヴ」

 レティシアは決意と覚悟を胸に、ついに城の上層へと足を踏み入れた。

 すでに時計塔の内部であり、大小さまざまな歯車がひしめき合っている。歯車は縦にも横にも複雑に噛み合わさり、ガタンガタンと動き続けていた。

 ここから先は階段も梯子もなく、歯車から歯車へと跳び移って進むしかない。

侵入者を阻むためのものではないようで、脅威ではなかったが疑問だった。上に行けば行くほど、一定の間隔で音が聞こえてくる。

 カチ、カチ、カチ、カチ、カチ。

 秒を読む音だ。

 何百年もの寿命を持つノスフェラトゥにとって、時間という概念はさほど意味がない。まともな時計も、この城ではレティシアの部屋にひとつあるだけ。

 なのに城には巨大な時計塔が存在する。

 ベオルヴ……あなたは一体、何を考えてるの?

 半分くらいまで登ると、一際大きな拍車がまわっていた。面積に広さがあり、水平にもなっているおかげで着地が容易い。

「待ってたよ、レディー」

 聞き覚えのある声がした。だが、そこに青年の姿はない。

 レティシアの目の前にいるピエロは、風貌こそエリオットと同じだった。赤や黄の原色で染められた奇抜な衣装は、ノスフェラトゥの目にも少々痛い。

 その懐には猫のお面もある。

「……エリオット?」

「ボクがそうさ。びっくりしたかな?」

 しかし羽根帽子の下にある顔は、皮膚も肉もついていなかった。しゃれこうべが顎骨をかたかたと上下に動かし、エリオットと同じ声を出す。

 ここまで来ることができたレティシアでも、彼の素顔には絶句した。

「ど、どういうことなの……?」

 目玉さえない空洞の瞳が、赤々と光る。

「実はボク、もともと人間だったんだよね。でも死ぬのが怖くてさ……ほんと怖くてたまんなくて。ベオルヴ様にお願いして、永遠の命を貰ったんだ」

 しゃれこうべに表情があるはずもなく、感情を読み取ることができない。ただ声の調子は朗らかで、悲壮な身の上話を喜劇のように語った。

「だからあなた、私を気に掛けてくれたのね」

 同じ『元人間』であることを知って、レティシアは骸骨に親近感さえ抱く。

 彼が男性でも女性でもないと言ったのは、肉体の大半が滅んでいるからだろう。骨だけとなった腕が、身の丈もある三日月型の大鎌を振りまわす。

「レディーには悪いけど、ベオルヴ様のお仕置きでね。キミと戦わなくちゃいけない」

 レティシアもレイピアを構え、足場である歯車の端まで間合いを取った。

「控えなさい、エリオット」

 王の権限を行使しても、死神は鎌を降ろさない。

「ごめんね。厳密に言うと、ボクはノスフェラトゥじゃないからさ」

 レティシアとて、エリオットと戦いたくなどなかった。だが彼は王の側近であり、醜い素顔まで晒し、レティシアの命を刈り取ろうとしている。

「退いてはくれないのね」

「その選択肢はないよ。ベオルヴ様を殺したいなら、ボクを殺していきなッ!」

 道化の死神がふわりと宙に浮いた。時計塔の中を縦横無尽に飛びまわり、レティシアへと大鎌を差し向けてくる。

 しかし醜悪な骸骨に襲われようと、レティシアの心は冷静だった。足元を狙ってくる鎌の刃を見据えて、一足のうちに飛び越えながら、レイピアで刺突を繰り出す。

 ……戦える。相手がエリオットでも、平気で戦えるわ。

 自分はもう人間ではないのを実感した。

「これならどうだい? レディー!」

 流麗に宙を舞うピエロの動きは、掴みどころがない。レティシアの剣には残像だけ貫通させ、本人は死角へとまわり込む。

「くうっ!」

 かろうじてレティシアは奇襲に勘付き、鎌を弾いた。

細身のレイピアがしなり、折れそうになる。

「ほかにも武器を持ってくるべきだったね。それとも魔法で攻める?」

 足場が動くせいで、即座に狙いを定めるのも難しい。レティシアは左手で防御の魔方陣を展開しつつ、足場である歯車の回転に逆らうように走った。

 死神の鎌が閃光を放つ。

「……まさかっ?」

 身体を捻って回避したつもりでも、続けざまに背後から襲われた。

「戦いに関しては素人だね。甘いよ、レディー!」

 蹴り飛ばされ、歯車から落ちそうになる。

 その角に掴まっていると、ほかの歯車と挟み込まれそうになった。鋼鉄の凹凸によって手足を噛み砕かれるイメージが、反射的にレティシアを突き動かす。

「こ、こんなところで!」

 一旦落下し、別の歯車を踏みきって上まで戻るしかない。

魔法を使っても持続的に浮遊できないレティシアは、足場の悪さに翻弄された。ドレスの裾が歯車に巻き込まれでもしたら、動けなくなるのは目に見えている。

「さすがにバテてきちゃったかな?」

「はあ、はぁ、これくらいで」

 対するエリオットは悠々と宙を舞った。息を切らせるレティシアがぎりぎり回避できる攻撃ばかり、執拗に繰り返す。

「逃げてばかりじゃボクは倒せないよ。じきにこのプルートの餌食さ」

 それは大鎌の名前のようだった。

 ベオルヴは今も高みの見物をしているのだろう。

『単なる武器と侮るなよ。プルートも我が眷属、忠実なる下僕だ』

 ベオルヴの傲慢な言葉に含みを感じ、レティシアははっとした。次こそエリオットと正面から対峙し、レイピアで鎌を受け止める。

「無駄だよ、レディー!」

 細身のレイピアは限界までしなり、折れてしまった。

 すかさずレティシアは左手に支配の魔力を込め、エリオットではなく、プルートの柄を引っ掴む。そして声高らかに叫ぶ。

「従いなさい! プルート!」

「なんだって?」

 大鎌に青白い電流が流れ、その柄から骸骨の手だけを剥がした。

 レティシアに振るわれることで、プルートの刃が今度はエリオットを狙う。

「……参ったね、どうも」

 エリオットが回避しないせいで、止める暇などなかった。諦めがよすぎる彼を、プルートの一閃が上下に両断する。

道化の上半身が千切れ、歯車の下へと転落していった。

「エ、エリオット!」

 レティシアの碧い右目に驚きが滲む。

 ピエロの骸骨は歯車に巻き込まれ、残った上半身も粉砕されてしまった。羽根帽子とともに頭がい骨が転がり、そこに猫のお面も落ちてくる。

 レティシアはプルートを捨て、エリオットの傍でしゃがみ込んだ。砂のようになった骨を少しでも集めながら、エリオットの、空っぽの瞳を覗き込む。

「ごめんなさい。あたし……あなたを」

 憤怒で真っ赤になっていたレティシアの気持ちが、自分の鼓動を感じられるくらいには鎮まった。ベオルヴへの憎悪を、エリオットが代わりに受けてくれたのかもしれない。

 おそらくノスフェラトゥとして、命のやり取りに享楽を感じつつあった。二匹の怪物を屠った時の感覚が、決して快感ではなかった自信もない。

 それに気付くために、友人という大きな代償を支払うことになった。

「……気にしないで、レディー」

 しゃれこうべが震え、掠れた声を出す。

「どうして……」

 彼が手加減しているらしいことも、わかっていた。

空を飛べるエリオットが、わざわざレティシアの目線まで降りてくる必要はない。頭上から魔法を撃たれようものなら、こちらに成す術はなかった。

それこそ、おぞましい骸骨の素顔ではなく、青年然とした偽りの顔で現れていれば、結果は違っていたはずなのに。

「ふふっ、ベオルヴ様は意地悪だね。レディーにヒントなんか与えちゃってさ。プルートは本来、レディーが持つべき下僕なんだよ」

 死者と同じ面構えは、どこか満足そうだった。

「永遠の命を欲した時、ベオルヴ様はボクに言ったんだ。不老不死は大していいものじゃないって。それから二百余年……楽しかったけど、やっぱり、寂しかったなあ」

「もう喋らないで、エリオット」

「レディーも意地悪だね。お別れくらいさせて欲しいな」

 レティシアの碧い瞳も紅い瞳も、ぽろぽろと大粒の涙を零す。エリオットを代償として戻ってきた人間らしい感情が、胸を締めつける。

 なんでプルートを止めなかったの?

 前しか向いていなかった怒りが、後ろを振り返るほどに、人間の部分が悔やんだ。自責の念に駆られ、涙の流し方を思い出すように頬を濡らす。

「最期にひとつ種明かしをしてあげるよ……ボクに、チャリオットを……」

「わかったわ。ぐすっ、これでいいかしら?」

 嗚咽をあげながら、レティシアは小憎らしい猫のお面を髑髏に被せた。

 チャリオットが大笑いする。

「残念! これは単なる腹話術サ。だからオレともお別れだヨ、レテ公。アハハハ!」

 それきりエリオットもチャリオットも、一言も話さなくなった。

 とっくに白骨化しているのだから、ノスフェラトゥの飢餓感を刺激することもない。死んだ、という事実をレティシアの目の前に置き去りにする。

 エリオット……。

 見境がなくなっていたレティシアを、涙を流せる人間に戻すために。きっと。

「……見てるんでしょう、ベオルヴ!」

 声を張りあげても、城主からの返事はなかった。

 無数の拍車が回転を続け、闇雲に時を刻む。

「行くわね、エリオット。あとでちゃんとお墓に埋めてあげるから」

 レティシアは涙を拭いて、再びプルートを手に取った。

時計塔を登り、最上階を目指す。

 

 

 塔の天辺には金色の満月が差し掛かっていた。綺麗に晴れた夜空に鐘の音が響く。

 ゴーン……ゴーン……。

 ついにレティシアは最上階に到達し、城主と対面した。

 ベオルヴは玉座で血の色のワインを煽っている。

「ようこそ。我が最後の寵姫よ」

 円形の天井には悪魔の壁画が描かれていた。円周には1から7まで、数字が均等に当てられ、そこに時計の歪な針が向かっている。

 短針と長針は12ではなく、その7で分けられた時間を差していた。一日が二十四時間である人間の感覚とは異なるらしい。

「この時計が気になるか?」

 レティシアの疑問を見透かすように、ベオルヴが大時計を仰ぐ。

「七つの大罪を表していてな。我が一族はそのうちのひとつ、『暴食』を司る」

 人間を喰らう悪鬼だからこそ『暴食』なのだろう。

 レティシアはプルートを構えながら、その刃の向こうに城主を見据えた。

「エリオットが死んだわ」

「……うむ」

 ベオルヴは小さく頷くだけ。

「奇妙なものだ。寵姫たちは美しいが、とうに死んでいる。なのに骨だけのやつがあんなに生き生きしていたのだからな。まさしく道化……か」

 それは淡々とした物言いで、側近の死を悲しみもしなければ、笑いもしなかった。

「エリオットを殺したのは、あたしよ。とやかく言うつもりはないわ」

 優しい道化の死に報いるため、レティシアは怒りを抑える。

 そんなレティシアを、城主は雄弁に挑発した。

「どうした? 早く殺せ。お前の恨みを存分に晴らすがいい。悪い話ではあるまい。そうすればこの城も、あの寵姫たちも、すべてがお前の思うままになる」

 これから死を迎える者の態度ではない。上等のワインを眺め、メインディッシュを待つかのように沈着としている。

「ええ。あたしはあなたを恨んでるわ。……けど」

 レティシアは息を吐き、大鎌を降ろした。

 彼のことは許せない。かといって、もう殺してやりたいとも思いきれなかった。

 気まぐれであれ、彼は十年前にレティシアの命を救っている。サーシャ村で人喰いの衝動に駆られた時、自我を揺さぶり起こしてくれたのも彼だ。

 レティシアに『殺せ』と呟いたベオルヴの、寂しげな表情を思い出す。

「なぜなの? 理由を教えてくれたっていいでしょ」

「……そうだな。いずれお前も、俺と同じ気持ちになるやもしれん」

 ベオルヴの放り投げたグラスが床で割れた。美麗な絨毯にワインが染み込む。

 天井の大時計があるビジョンを映し出した。それはかつてレティシアがノスフェラトゥの下級種に襲われ、殺されようとしているもの。

「お前たち人間は簡単に死ぬ。だから身の危険には恐怖を感じ、自己防衛を取る。ひとりでは生きていけないがために、愛とかいう感情で他人と結びつく。新しい固体を作って種を存続させんとする本能なのだろうな」

 レティシアは自分が絶命する瞬間を、他人事みたいに見詰めていた。

「だが俺たちノスフェラトゥは……特に王族は滅多なことでは死なん。となれば感情は希薄となり、何も欲しなくなる。寵姫を集めて快楽に耽ってみても、喜びはなかった」

 人間は短命で脆い。

だから豊かな感情を持って、次の命を作り、守るために愛を育む。

ノスフェラトゥは強靭で寿命も長い。

自分がいれば種を存続できるため、誰かと愛し合って子どもを作る必要もない。

「ほんの数十年のうちに、人間は多くの者と出会い、多くの者と別たれる。しかし我々ノスフェラトゥは同じ時間を……無為に過ごすしかない」

 ビジョンは消え、もとの大時計に戻った。長針がガコンと動く。

「退屈で仕方がないのさ。この先いくら生きていようと、俺はこの緩慢とした時間の檻から永遠に抜け出すことができん」

「そのためにあたしを?」

 レティシアに与えられた役目は、彼を殺し、無限の時間から解放することだった。

「王となっては自害もできないからな。お前が息絶えようとしているのを見た時、決めたのだ。この女に俺を殺してもらおうと」

 ベオルヴは無為な人生を終わらせるべく、レティシアに力の半分を与えたという。そのうえで王に対する憎悪を刷り込み、自分を殺害させようと仕向けた。

 レティシアは沈痛な面持ちで視線を落とす。

 このひとは許せない、でも……。

 ベオルヴを歪めているのは四百年の不老不死であって、彼の純粋な部分は、決して邪悪ではない気がした。レティシアを散々からかって遊んだのも、彼の一面のはず。

「さあレティシア、俺を殺せ」

 ベオルヴは立ちあがって両手を広げ、あえて無防備になった。

 けれどもレティシアは鎌を振るわない。

「本当は死にたいなんて思ってないんでしょ? ベオルヴ」

「愚問だな。俺にとって生と死はもはや意味をなさん」

 王の間は沈黙で満たされた。

大時計の秒針がカチ、カチと時を刻む。たまに長針が動き、ガコンと音を鳴らす。

彼の頭上で、この時計はいつから時を数えているのだろうか。

「俺の父と母も、最期は互いに殺しあって死んだ」

もしベオルヴに人間と同じ感情があったなら、悠久の時は至福だったかもしれない。

……エリオットの言う通りだわ。寂しいわね。

 初めてレティシアはノスフェラトゥという存在を哀れに思った。

何百年と生きながら、何も変わらない。永遠に近い月日を生きていられるのに、時間の流れには永久に置き去りにされている。

レティシアも十年の時を奪われ、故郷に帰れなくなった。

行く場所も帰る場所もないのは、孤独な王も同じ。

「あなたを殺したあとは、どうしろって?」

「城に住もうが、出ていこうが、お前の自由だ。我が城はなかなかの傑作だからな、住み心地は最高だと言っておこう」

 ベオルヴはこの城に愛着があるらしく、自嘲気味ににやついた。今から自分を殺す者に事後を託すのを、愉快に思ったのかもしれない。

 自分の家が好きって、普通のことじゃないの。あたしたちと変わらないわ。

 レティシアはプルートを引きさげた。殺したいとまで思わない。むしろもっと話がしたくて、張り詰めていた表情を綻ばせる。

「あなたを殺すのは今すぐじゃなくてもいいわ。どう? ベオル……」

 ところが前に歩み出た瞬間、城が揺れ始めた。頭上の大時計が狂ったかのように、長針も短針も高速で逆回転する。

「なっ、なんなの?」

「……まさか、あいつが目を覚ましたか」

 城を囲む魔力の霧が、風雨のごとく渦巻いた。ベオルヴでもレティシアでもない別の強大な支配力が、この城を下層から一気に制圧していく。

 時計の長針は根元に負荷が掛かりすぎたのか、折れてしまった。

 ゴーン……ゴーン……。

 間近で鐘の音が鳴り響いて、レティシアの全身を震わせる。

「伏せろ、レティシア!」

 ベオルヴが血相を変え、駆け寄ってきた。レティシアを守るように抱き締める。

 巨大な衝撃が城を揺るがした。

「きゃあああっ?」

 驚いた拍子にレティシアはプルートを落としてしまう。しかしベオルヴに支えられる体勢のおかげで、急な揺れに耐えることはできた。

真下から昇ってくる波動が、床の中央を破り、天井の大時計まで貫通する。

瓦礫とともに歯車がいくつも落ちていった。

「おはよう、兄様。そして我が穢れた眷属の一員となった、ノスフェラトゥの女……いいえ、ノスフェラトゥ・ハーフとでも呼ぶべきかしら」

 おぞましい気配にぞっとする。

「だ……誰?」

 穴の下から、ひとりの少女が浮きあがってきた。ベオルヴを幼くしたような顔つきで、同じ銀色の髪は短めに切り揃えられている。

 レティシアのドレスとは様式が異なり、大きな布を巻きつけ、腰の位置を帯で結んでいた。黒染めの生地にはピンク色の桜が上品に描かれている。

「あなたたちが力を二分してくれたおかげで、封印を破ることができたわ。愚鈍な人間でも使い道はあるものね」

 ベオルヴと同じ緋色の瞳が輝いた。

「それでもまだ百年は出てこられないはずだぞ? ヴィレッタ」

「兄様は私の力を随分と過小評価しているようね」

 ベオルヴはレティシアを庇いつつ、奥歯を噛み合わせる。

 兄様って呼んだ?

 なら、あの子はベオルヴの妹……?

 ヴィレッタは酷薄な笑みを浮かべ、不敵に唇をひと舐めした。

「そろそろ忙しくなりそうだから出てきたの。よくも閉じ込めてくれたわね」

「ノスフェラトゥはひっそりと生きるべきだ、と言っても、貴様は聞かんからな」

 ベオルヴはじりじりと間合いを取り、レティシアにさがるよう促した。その横顔は明らかに焦り、ヴィレッタの仕草から目を逸らそうとしない。

「誰なの? あの子……寵姫じゃないでしょう」

「聞いての通り、俺の妹だ。お前も城の最下層で見ただろう?」

 棺の中で少女が眠っていたのを思い出す。

 彼女の声に聞き覚えもある。城を脱出する際に湖上の霧を払ったのは、レティシアの魔力ではなく、おそらくヴィレッタによる干渉だった。

「ちゃんと紹介してくれないと困るわ、兄様。私はヴィレッタ。一族の姫であり、ベオルヴのたったひとりの妹にして、正統な婚約者」

殺気じみた威圧感に押されながら、レティシアは耳で拾った言葉を呟く。

「婚約って……兄妹で?」

「別段不思議なことではないわ。あなたたち人間の王家だって、昔は近親婚で血筋の正当性を保っていたのよ。我がオーレリアンド家もそうだった」

 ヴィレッタの口調は淡々として、実兄への恋慕など感じさせない。寵姫であるレティシアに嫉妬を見せることもなかった。

邪念に満ちた瞳が、レティシアを冷ややかに見詰める。

「王の余暇を彩るのが寵姫の務め。最後のあなたが王を殺す、というのはあながち間違ってないわ。でも、私たちには大切な役目があるの。よく見ておくことね」

 寡黙そうな印象とは裏腹に、ヴィレッタは一度に多くの言葉で語った。その右手が穴の空いた天井を仰ぐと、ビジョンが浮かびあがる。

 新聞で見た、戦車とかいう鉄の箱が動いている映像だった。砲弾が街の外壁を砕き、瞬く間に炎をまき散らす。

「大陸は大騒ぎね。くろがねの世界大戦……よく言ったものだわ」

 その犠牲者は軽く五桁を超え、今なお増え続けていた。

 ベオルヴさえ、戦火のさまに呆然とする。

「なんだ……これは?」

 映像の中では、人間など、それこそ蟻のような存在に過ぎなかった。

 大地は戦車で踏み荒らされ、海は油で色が濁り、空さえ爆弾を吐き出す。ビジョンが切り替わるたび、レティシアとベオルヴは驚愕し、瞳を強張らせた。

「死者を支配できるのがノスフェラトゥの王族……そう、私たちの時代が来たのよ」

 さらに映像が変わり、レティシアの見知った顔が現れる。

「お母さんっ?」

 父と母は兵士に拘束され、連行されていた。ふたりともやつれて生気がない。

そんな両親を大勢が遠巻きに囲んで、憎悪する。

『こいつらもノスフェラトゥだろ! 早く処分してくれ!』

『わたしたちを食べようとしてたんだわ。恐ろしい』

 娘のレティシアがサーシャ村で人喰いを見せつけてから、まだ一日しか経っていない。その間にもノスフェラトゥ出現の報が広まってしまったのだろう。

 父と母は抵抗することなく、処刑台に押しつけられた。

『言い残すことはあるか?』

『……化物でもいい、娘が、あの子が生きていてくれてよかった……』

『何を言ってるんだ? 人を喰ったんだぞ、お前らの娘は!』

 見えているのが映像であっても、駆け出さずにはいられない。床の大穴から落ちそうになったレティシアを、ベオルヴが抱きとめる。

「ま、待って! お父さんたちは関係ないの! ノスフェラトゥなんかじゃ!」

「ここからではもう間に合わん。落ち着け、レティシア!」

 両親の首にめがけて、血塗れの鉈が振りおろされた。

斬首刑を目の当たりにしたにもかかわらず、群衆は万歳をあげる。

『ざまあみろ! 化け物め!』

 彼らとともにそれを目撃したレティシアは、ひとりだけ言葉を失っていた。

 お父さんとお母さんが……殺された……?

 ノスフェラトゥの疑いをかけられて。野菜の茎を切り落とすみたいに、簡単に。愕然とするレティシアの前で、ヴィレッタの甲高い笑声が響き渡る。

「アハハハハッ! ご覧の通り、人間どもは大戦のせいで疑心暗鬼よ。今に始まるわよ、目障りな人間をノスフェラトゥとして狩る、偽りだらけのノスフェラトゥ狩りが!」

 レティシアの全身に衝動が走った。死刑執行人と同じことなどしたくないのに、魔性の殺意を抑えきれない。両方の瞳が真っ赤に燃えあがる。

「よせ、レティシア!」

「よくもっ、よくもぉおおお!」

 レティシアの憤怒に呼応し、プルートの刃が一段と大きくなった。忌々しいビジョンを切り裂き、返す刃で一気にヴィレッタに詰める。

「間違えないで。あなたの親を殺したのは、私じゃないわ」

「あなたが見せたのよ! あなたが!」

 黒い激情はノスフェラトゥの魔力さえ過熱させた。青い炎をまとったプルートの刃が、ヴィレッタの喉笛に喰らいつく。

 かに見えたが、寸前でレティシアの腕が動かなくなった。

「え……?」

「とろくさいわね。それで私を殺したつもり?」

 反りのついた片刃の剣が、プルートを呆気ないほど容易く受け止める。

 ヴィレッタがにやりと笑みを噛んだ。

「このクヲンムラマサを、ただの刀とは思わないで」

「やめろ、ヴィレッタ! レティシアは──」

 ベオルヴが駆けつけるより先に、レティシアの視界に白刃が振りおろされる。

 その刃はレティシアの胸元をドレスごと引き裂いた。

「う……うあぁ?」

 赤い鮮血がしぶきをあげる。

全身から体温が抜けていく感触がした。天と地が逆さまになり、ベオルヴの顔まで反転する。目に見えるものに現実感がなくなった。

ベオルヴがあたしを……呼んでる?

「レティシ、ぐはあっ!」

 ベオルヴも白刃で左肩を貫かれ、その場に崩れ落ちる。

「力が半減してるのよ、兄様は。以前は対等だった私に敵うはずないじゃない」

 レティシアに力を分けたためだった。本来の力を発揮できないまま、ヴィレッタに蹴り飛ばされ、折れた柱に叩きつけられる。

「兄様はここで永遠に退屈してるといいわ。私は……私のやりたいことをするだけ」

こと切れる刹那を、レティシアは長く感じていた。

「――げほっ!」

 漆黒のドレスに包み込まれるように倒れ、血のあぶくを吐く。

 あたしは……ここで……。

 苦しい。悔しい。自分が化け物になっただけならまだしも、そのために両親は処刑されてしまった。ベオルヴもレティシアの命を救ったせいで、悪魔に敵わない。

「そうだったわ。兄様の手駒をいただいていくわね」

 ヴィレッタが瞳を赤々と輝かせると、夜空から無数のロープが降ってきた。どれも先端が括られ、輪になっている。

「この城にいるすべてのノスフェラトゥよ、我、ヴィレッタが命ずる」

 ロープは下の階へと殺到し、九十九人の寵姫を引っ張りあげた。首吊り同然の彼女らがもがきながら、ヴィレッタをぐるりと囲い込む。

 死の女王がたった一言、呟いた。

「くたばれ」

 寵姫たちが一切の抵抗をやめ、自ら首を吊られる。皮膚はみるみる毒々しい紫に、さらには血が抜けたことで、褪せた青まで変色した。その身を下級種へと貶められていく。

 最上階は処刑場と化し、九十九人の美女を生きる屍へと変貌させた。

 シンシアも首吊りで引きあげられていく。

「貴様、我が寵姫たちを……」

 ヴィレッタは瞳を細め、着物の懐にある鞘へと白刃を納めた。

「王族クラスになると、絶対的な魔力の差があっても下僕にはできないようね。兄様みたいな下僕、別に欲しくもないけど」

 深手のベオルヴを見下し、不愉快そうに舌打ちする。

 上空では膨大な魔力が渦を巻き、厚い雲が群がるように集まった。稲妻が亀裂となって夜空を裂き、山中に落ちる。

 大時計のあった位置で空間が歪んだ。

「城のすべてをここに引き出すつもりか……やめろ、ヴィレッタ」

「兄様には関係ないわ。それより私に構ってていいの?」

 ヴィレッタは九十九人の寵姫を率いて、次元の裂け目へと消えていく。

 時計塔に残されたのは、ふたりのノスフェラトゥだけ。ベオルヴが左肩を押さえつつ、よろよろとレティシアに歩み寄って、その青ざめた相貌を覗き込む。

「レティシア! しっかりしろ!」

「ベオ、ル……ごほっ!」

 血まみれのレティシアは、熱くも冷たくもない涙で頬を濡らした。

 

 

 生きて……いる……?

 指先がぴくりと動く。重たい瞼が少しずつ開き、レティシアの瞳を外と繋げる。

 レティシアは豪奢な天蓋つきのベッドで寝かされていた。両脇にあとふたりは寝転べるサイズで、シーツにはシルクの光沢がある。

 その部屋は天井近くまで本棚が積みあげられ、書斎となっていた。

古書に特有の、乾いた茶葉に似た香りが、レティシアに安らぎを与える。

 ここがベオルヴの私室なのだろう。もっと悪趣味なものを想像していたが、青年実業家を連想させる、機能美を重視したレイアウトだった。

 デスクの上では、羽根ペンが専用のペン立てに差さっている。

「気が付いたか、レティシア」

「ベオルヴ? あたし、一体……」

ベオルヴは上着を脱ぎ、左肩に包帯を巻いた恰好だった。前のめりになって、レティシアの右目だけ碧い瞳を、医者がするように覗き込む。

「傷は塞いでおいたが、クヲンムラマサで斬られたんだ。ただでは済まん」

 漆黒のドレスは胸元を暴かれ、丸見えになってしまっていた。

 それが治療のための処置であっても、レティシアは頬を染める。肝心の下着は中心を切断されており、生地が血で張りついているだけ。

あたし、時計塔で……?

 倒れる前の出来事が脳裏に蘇ってきた。

 両親の死に様を見せつけられて激昂し、ヴィレッタに飛び掛かって。しかし刀とやらで即座に切り返され、致命傷を負ったのを憶えている。

 ベオルヴの包帯には赤い血が滲んでいた。

「あなたは大丈夫なの?」

「お前ほどではない。この程度、四百年の間に何度も経験している」

 寝台に腰掛けつつ、ベオルヴがレティシアの前髪を撫でる。

「あいつはあと百年は目覚めないはずだった」

「あなたがあたしに、力を分け与えたりしちゃったから?」

「いいや、封印は何重にも施してあった。お前に力を分けてからも十年、異常はなかったんだ。だが今になって……大陸全土でそれほど死が蔓延している、というのか?」

 その横顔はヴィレッタによく似ていた。兄妹の順番で言ったら、ヴィレッタのほうがベオルヴに似ているのかもしれない。

「妹がいたのね。はあ、それも婚約者なんでしょ?」

 会話するだけで、疲労感が肺に圧し掛かってきた。息が乱れてしまう。

「無理に喋るんじゃない。……婚約といっても、形だけのものだ」

 血液ごと外に出ていったはずの体温は、むしろ上昇し、肌に大粒の汗を浮かべた。胸の傷は跡形もないものの、その一帯は特に熱を帯びている。

 心臓が燃えているみたいだ。

「それよりお前の身体だ、応急処置だけでは助からん。このままでは数時間とせんうちに灰になるだろう。少々手荒な方法になるが……我慢しろ、レティシア」

 いつになくベオルヴの口調は優しい。

 どうしてまた助けてくれるの?

 あたしを助けて……あたしに殺して欲しいから?

 はきはきと尋ねるだけの余裕もなく、レティシアは苦悶した。

 ベオルヴが腕を立て、レティシアに被さるような姿勢になる。上腕から胸筋にかけて、女性にはない筋肉の隆起が緩やかな波を描いていた。

「じっとしていろ」

 その手が人差し指と中指を揃え、レティシアの腹部から胸へと差し掛かる。

 猛烈な恥ずかしさが込みあげ、自分の身体のことなのに見ていられなかった。レティシアは顔を背け、真っ赤になって涙ぐむ。

「ぬ、脱がさないでよ?」

「それだけ抵抗できれば、大丈夫だな」

 ベオルヴの指先が光を集め、魔方陣を描いた。

「俺の魔力をシンクロさせて、お前の魔力を活性化させる。なあに、俺とお前の魔力は同じ性質だからな、確実に成功する。これで消滅は避けられるだろう」

 そして魔方陣の中央に唇を近づけ、熱いキスを落とす。

たまらずレティシアは身じろぎ、悪態をついた。

「んあっ? ベオルヴ、ふざけたりしないで」

「ふざけてなどいない。楽にしてろ」

 しかしベオルヴは手を止めようとしない。血で汚れた下着を剥がし、裸となったレティシアの胸で口づけを深める。

 決して手荒な真似ではなかった。ドレスが崩れつつある腰をしっかりと抱き締め、まるで恋人に捧げるように、ひたむきにキスを続ける。

「あなた、やっぱり変なこと考えて……!」

 レティシアは自ら人差し指を噛んで、甘い吐息を堪えた。肉体とともに心をあやされているような感覚がして、少しでも気を抜こうものなら、なぜか安心してしまう。

 希薄だったベオルヴの表情が、小憎らしい笑みを浮かべた。

「魔力は口で移すのが早い。もしかすると、俺の言い訳かもしれんが」

 意地悪なことを囁きながら、レティシアの髪を梳きおろす。節くれだった男性の指では櫛のようにいかず、かえって毛先を乱された。

 胸に描かれた魔方陣が鈍い光を放つ。

「何言って、ん……はあっ」

 だんだんと呼吸が楽になり、胸の上下も緩やかになってきた。死に瀕しているレティシアの魔力に、ベオルヴの魔力が着々と同調しつつある。

 こんなふうに感じるのも、あたしだけ?

 それが憎しみとは別の感情であれ、レティシアは彼に気持ちを昂ぶらせていた。

しかしベオルヴは感情が希薄なノスフェラトゥであって、レティシアのことなど何とも思っていないのかもしれない。だから自分を殺すための道具にもできる。

 それでもベオルヴがいてくれないことには、独りよがりな感情もなかった。

「今再び、蘇れ。レティシア」

 全身に血液が駆け巡っていくのを感じる。

 ベオルヴにしがみつくだけの力が戻ってきて、胸の中で心臓が強く拍動した。渇きを訴え始めるレティシアの唇に、ベオルヴの唇が重なる。

 レティシアは目を閉じ、キスに溺れた。

 今だけ。

「ンッ……あふ、う」

 互いに呼吸を妨げつつ、結び目でも作るように口づけを深める。

 自分を滅茶苦茶にした相手と唇を重ねても、嫌に思えない。倒錯感が横たわって正常な思考を妨げ、それをのけるだけの気力もなかった。

 気持ちの整理がつかないうちに、ベオルヴの唇は遠ざかる。

 キスの後もふたりは静かに見詰めあっていた。大時計が壊れたせいか、時間を数える音はない。彼の声だけがレティシアに響く。

「レティシア……すべてが終わったら、次こそ俺を殺すがいい」

 人間の碧い瞳とノスフェラトゥの紅い瞳、その両方から涙が零れた。

自殺の道具としてしか見られていないのが悲しい。こうやって抱き締められても、それは十年掛けて『作った』道具を無駄にしたくないだけのこと。

 まだ寵姫として飼われるほうがましかもしれない。

「イヤよ、あたしに押しつけないで。……そんなに死にたいんなら、妹さんに殺してもらえば、ひぐっ、いいじゃない……!」

 心にもないことが、キスを終えたばかりの唇から飛び出した。ノスフェラトゥの彼にはわかってもらえない、一方通行の虚しさで胸に穴が空き、悔しさで感情が荒れる。

 ベオルヴは身体を離し、素っ気なく背中を向けた。

「……楽になっただろう?」

 レティシアの身体には活力が戻っている。怒ったり嘆いたりするだけの力があった。

 窓からわずかに入ってくる夜風のせいで、少し冷える。

「こいつを着ていろ」

「……うん」

 無造作にマントを被せられて、ようやくレティシアは返事を呟いた。

 あと少しでベオルヴとわかりあえそうだったのに、『俺を殺すがいい』と突き放されて。それを寂しいと感じてしまっている、不可解な気持ちに戸惑う。

ただ、彼の存在が自分にとって大きなものであることは確かだった。だから、すれ違うことで満たされないと感じてしまう。

「あなたはあたしを、本当はどうしたいの? 死にたいなら、その……ほかに方法だってあるじゃない。あたしに殺させるんなら、もっと怒らせればよかったでしょう」

「……わからない」

 ベオルヴは哀愁を浮かべ、自嘲するように笑みを噛んだ。

「ノスフェラトゥでは、人間みたいにはいかんのだろう。同じ力を持っていても、お前が思うことと俺が思うことは、おそらく違う」

 すべてに無関心なのだと言いたげだが、レティシアにはそうは見えない。

 レティシアは手の中で爪を立て、その痛みで自制した。そうでもしなければ、両親の凄惨な斬首刑について問いただすことなどできない。

「聞かせて、ベオルヴ。あたしの……お父さんとお母さんのこと。殺されるって、あなたは知っていて黙ってたの?」

 背を向けたまま、ベオルヴはおもむろに天井を仰いだ。

「……お前が外に出れば、似たような事態にはなると予想はしていた。だが話したところで、お前は故郷に帰ろうとしただろう?」

 城を出てはならない本当の理由は、ノスフェラトゥの存在が人間の社会に大きな混乱をもたらすため。そのうえ、今は大陸全土が大戦によって混沌としている。

「人間の姿をした者が、ひとを喰うんだ。ヴィレッタも言っていた通り、ノスフェラトゥ狩りと称して、謂れのない人間が狩られるかもしれん。魔女のいない魔女狩りだ」

 ベオルヴには分別があった。希薄であったとしても、人間と同じ感情を持っている。

 レティシアはふと、サーシャ村に帰ったことを後悔した。

 あたしがお母さんたちを殺したんだわ……。

自分のせいでタリサたちを恐怖に陥れ、遠方の両親が処刑される羽目になったのだ。今後も人喰い鬼の恐怖は大陸中に蔓延し、理不尽な流血が続くだろう。

 その事態を避けるため、ノスフェラトゥの王は山中の湖などという辺鄙な場所に城を建て、自分たちの存在をひた隠しにしてきた。

 レティシアは起きあがり、ベオルヴの隣で腰を降ろす。

 孤独な王の手に触れると、人間と同じように温かく感じられた。

「……シンシアたちははどうなったの?」

「下級種になってしまった以上、助けることはできん。もとより、とっくに死んでいたのを、俺が無理やり繋ぎ止めていただけに過ぎんが……」

 九十九人の寵姫が一同に介し、首を吊っていた壮絶な光景を思い出す。

 ヴィレッタの目的は不明だが、邪悪な気配は依然として城に充満していた。

 ベオルヴの一族は、墓守として、死者を使役できる権限を持つ。くろがねの世界大戦の犠牲者をまとめて兵にしようものなら、大陸は人間の住める土地ではなくなるだろう。

 ベオルヴは立ちあがり、黒い正装に着替え始めた。

「俺はヴィレッタを止めに行かねばならん。お前はここにいろ」

 邪悪な妹に戦いを挑むつもりらしい。しかしベオルヴの力は半減しており、勝負にならないのは火を見るより明らかだった。

 むしろ、殺されるためにヴィレッタのもとに行く気がしてならない。

「どうして今まで、妹さんを眠らせていたの?」

「あいつはかつて、東方の島国で大きな騒ぎに加担した。クヲンムラマサやあの着物は、その時の名残だ」

 ベオルヴが襟元でクラバットを結ぶ。

「……婚約者なのよね?」

 レティシアの胸にちくりと痛みが刺さった。

 ノスフェラトゥが兄妹婚を禁忌としないなら、ベオルヴがヴィレッタを愛している可能性はある。そうあって欲しくない、というのはレティシアの身勝手な願望に過ぎない。

 婚約者がいたら、寵姫なんて……。

「ヴィレッタと俺には何もない。兄妹婚なんぞ、ノスフェラトゥの俺でも気乗りせん。どのみち子を作る必要がないんだ。俺たちには愛もない」

 彼は馬鹿馬鹿しそうにかぶりを振った。

「だったら寵姫を集めたのはどうして? ほんとは愛がどういうものか知って……」

「やけに突っかかってくるじゃないか。今度は嫉妬か? レティシア」

 思うままに質問を投げかけていたレティシアは、かあっと赤面してしまう。

 確かに嫉妬だ。婚約者との関係を根掘り葉掘り聞きたがって、彼を困らせている。けれどもレティシアは感情が淡白なノスフェラトゥではいられない。

「仕方ないでしょ? そういうものなの、女は」

「わかった、わかった。あとで何でも答えてやるから」

 ベオルヴが投げやりに切りあげ、プルートを手に取ろうとする。

 ところが大鎌はひとりでに浮かび、ベオルヴの手が届くことはなかった。レティシアの傍でかしずくように刃をさげる。

「プルート? 俺の言うことを聞かんか」

 城主がこれから望んで殺されにいくことを、感じ取ったのだろうか。

 ヴィレッタが覚醒した今、彼が自身を滅ぼすための手っ取り早い手段は、妹に歯向かうこと。わざわざレティシアに憎まれ、殺される必要はない。

「あなた、あの子に殺されたいって思ってるんでしょ」

「否定はせん。相打ちに持ち込むのが理想だな」

 しかし勝つつもりで挑むようにも見えた。厚めの手袋を嵌め、入念に引き絞る。

「そんなの許さないわ、ベオルヴ。……あなたを殺すのはあたしだもの」

 レティシアは決意を胸に、プルートを握り締めた。

「ヴィレッタがあなたを殺したら、あたしは何のためにノスフェラトゥになったっていうの? あなたを殺す権利だけは、絶対にほかの誰にも譲れない」

 ひとりぼっちでベオルヴの帰りを永遠に待つなど、耐えられない。

彼がいなくなれば、レティシアの生にも意味がなくなる。しかしヴィレッタを再び封印することに成功すれば、レティシアが殺すまで、ベオルヴは生き永らえるだろう。

 ベオルヴは顔を顰め、釘を刺すようにレティシアに言いつけた。

「お前は元々人間だろう。次は死ぬぞ」

「だったらあなたと一緒に死ぬわ」

 足手まといとは言わせない。プルートはベオルヴの支配から完全に解き放たれ、レティシアの意志にだけ呼応している。

「もうあたしも無関係じゃないのよ。それにあなた、あたしに力を分けたから、半分の力しか出せないんでしょう? ひとりじゃヴィレッタには勝てないわ」

レティシアにあるのは、ベオルヴとの間で始まりつつある奇妙な関係だけ。人間の碧い瞳も、ノスフェラトゥの紅い瞳も、寂しげな彼を見詰めた。

「強引についてくる勢いだな」

「うん。ついてく」

 思いきり即答してやる。

 ベオルヴは嘆息しつつ、ニヒルな笑みを浮かべた。

「死にたがりが俺のほかにもいるとはな。なら一緒にいくか。霧が晴れた今、人間たちがこの城にやってこないとも限らん」

 禍々しい魔力の波動は湖の全域に広がり、小波を立てている。

 満月は雲に喰らわれ、深淵の夜が訪れた。

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