百番目の寵姫

第五話 暴食のラプソディ

 置時計の針が、レティシアの陰鬱な時間を刻む。

 夜会の翌朝、部屋で目を覚ましてから、レティシアはずっとベッドの上で膝を抱え込んでいた。窓からわずかに日光が差すものの、今日も外の霧は深い。

 昨夜のことは途中から記憶が曖昧で、次に意識を取り戻した時には、ここにいた。ドレスはほとんど紐を解かれており、ベオルヴに何をされたか、考えるのが怖くなる。

「ご気分が優れないのですか? レティシア様」

 まったく手をつけていない朝食を、シンシアが心配そうに下げていった。彼女に昨夜のような、狂気じみた嫉妬はない。

感情も意志もベオルヴにコントロールされているのだろう。昨夜の出来事などなかったかのように、レティシアに親身に接してくれる。

 シンシアも人間じゃないんだわ……。

「レティシア様?」

「う、ううん。ごめんなさい、しばらくひとりにさせて」

 レティシアはベッドから降りず、泣き疲れた顔を膝で隠した。

「ご無理はなさらないでくださいね」

 シンシアが何度も振り返ってから退室していく。昨日までは頼れる存在だっただけに、彼女を信用できなくなったショックは大きい。

碧い瞳を泣き腫らせながら、レティシアは頭の上にぼすっと枕を被せた。

 ……あんなことされるなんて!

 昨夜の一件がレティシアの記憶を戒め、心を打ちのめす。大勢の女性の前で弄ばれた体験は、朝から何回もフラッシュバックしていた。

 考えたくなくても、ベオルヴの酷薄な艶笑が脳裏に浮かぶ。

 彼のことは『いけ好かないひと』くらいに思っていた。曲がりなりにも命の恩人だったから、最初は唇を奪われても、怒るだけで気が済んだのかもしれない。

しかし彼は魔力でレティシアをかどわかし、人形のように扱ったのだ。生まれて初めてレティシアは人を憎み、同時に怖れている。

首筋にはキスの跡が残っていた。

 早くこのお城から出ないと。もうあのひとには会いたくない!

 いつまでもここにいては、気が狂ってしまうだろう。寵姫のひとりとなってベオルヴにかしずくなど、想像するだけで全身が鳥肌立つ。

 あたしがノスフェラトゥだなんて、悪い冗談よ。お母さんに会えば……。

 レティシアはなるべく無地に近い、それでも目立ってしまう深紅のドレスに、何とか自力で着替えた。靴はドレスと相性がよいスカーレットの色を選ぶ。

 今の自分にできることは、もう一度あのボートに乗って逃走を試みることだった。

霧の魔力に阻まれ、脱出はできないかもしれない。だが何でもいいから行動を始めないと、塞ぎ込んでしまう。

 お父さんとお母さんに会いたい……!

 前向きな気持ちだけを頼りに、レティシアは忍び足で部屋をあとにする。

 ところが部屋の外ではエリオットが待っていた。

「やあ、レディー。今日はどこを探検したいのかな?」

 彼が自慢の羽根帽子を一旦外し、仰々しい仕草で会釈する。礼儀正しいが、道化の風貌のせいか、おどけているようにも見えた。

 レティシアの監視役として、張り込んでいたのだろう。彼もまたベオルヴの部下だ。

 しかしほかに味方のいないレティシアは、藁にもすがる思いだった。

「協力して、エリオット。この城を出たいの」

「ちょっと、ちょっと。できるワケないでしょ、ベオルヴ様を裏切るような真似」

 エリオットが大げさにかぶりを振って、両手をひっくり返す。

「でもさ、ベオルヴ様のお申しつけなんだよねぇ。レディーの命令には必ず従えって」

「……え?」

 無理を通そうとするレティシアのほうが目を瞬かせた。

 お調子者が唇に人差し指を当て、ウインクする。

「レディーには権限があるのさ。いいよ。誰にも見つからないようにね」

 腑に落ちないものを感じつつ、レティシアはエリオットとともに桟橋を目指した。それが彼の気まぐれであれ、城主のベオルヴよりは遥かに信用できる。

 日中にしては薄暗く、空は雨雲で覆われていた。ぽつぽつと雨が降り始める。

 この悪天候では庭園で茶会を催す寵姫もおらず、難なく通り抜けることができた。花壇の花が等しく濡れ、雨の香りを蔓延させる。

 昨日と同じところに階段を見つけ、桟橋まで辿り着いた。

 エリオットに逃亡を阻止される気配は、まだない。

「……本当にいいの?」

「疑ってるのかい? ボクにも似たような経験、あったからさ」

 彼にロープを外された小舟がぐらぐらと揺れる。

荒天というほどではないにせよ、雨の日のボートは危険だ。しかし城にいては、いずれ昨夜と同じ目に遭わされる。

 エリオットは猫のお面を外し、それをレティシアのドレスにぶらさげた。

「ひとりで行かせるのは不安だよ。チャリオットだけでも連れてって」

「そーいうこっタ。よろしくナ、レテ公!」

 腹話術ではなかったらしい。

「ありがとう、エリオット。あと、ごめんなさい」

 レティシアは彼の手を取り、感謝と謝罪をない交ぜにする。

 ベオルヴの部下であるエリオットには迷惑を掛けてしまっただろう。とはいえ、今の自分には他人を思いやっていられる余裕がない。

「気をつけて、レディー」

「うん。それじゃあ、行くから」

 道化の相棒とともにレティシアはボートへと乗り込んだ。オールを両手に握り締め、湖の水面を同じ方向にだけかきまわす。

 ぱたぱたと雨が落ちた。揺らめく水面に無数の波紋が浮かぶ。

 絶対に逃げてやる……村に帰ってやるんだから!

 しばらく進むと魔力の霧に囲まれた。それでもレティシアの手は止まらない。

 腰のあたりでチャリオットがぼやく。

「なあ、レテ公。ベオルヴ様に何されたか、大体の想像はつくけどよォ、逃げるこたぁねえんじゃねえノ? 今からでも考えなおそうゼ」

 いつもの人を小馬鹿にする調子ではなかった。ある程度までレティシアの意志を尊重しつつ、頃合いを見て説得しよう、という算段なのかもしれない。

「キレイな服着テ、美味いモン食ってサ。割り切っちまえばいいじゃン?」

「ごめん。あなたの言うこと、間違ってるとは思わないけど」

 望んで城に留まる女性もいるだろう。おとぎ話のような城で、最高級のドレスを着て、ご馳走を食べて。花を愛でながら、女の子同士で仲良くお茶をして。

 恋愛願望さえ、王に満たしてもらえる。

「絶対に嫌」

 けれどもレティシアにとって、それは怠惰であり、軽蔑の対象ですらあった。

 人間より遥かに長い何百年という寿命を、ノスフェラトゥは無為に過ごす。ベオルヴへの反抗心もあって、それが幸せであるなど認めたくなかった。

 そんなレティシアの意気込みを挫くかのように、湖上の霧は深い。

『まだ扱いきれないみたいね。なら私も手伝ってあげる』

 不意に耳元で声がした。

「チャリオット、何か言った?」

「ン? 悪口言ったノ、聞こえちゃったカ?」

 だんだんと霧が薄れていく。

「……霧が?」

 湖の水面に青い花びらが浮かんできて、それきり波は穏やかになった。そこに霧の城が逆さまに映っているのが、昨日よりも透き通って見える。

 奇妙ではあったが、チャンスに違いなかった。

 これで帰れる!

ボートを漕ぐペースをあげ、無我夢中でサーシャ村を目指す。

 この悪夢も家に帰るまでのこと。まずは父と母に抱き締めてもらって、何もかも忘れて眠ろう。それからタリサにお見合いの結果を聞きたい。

 少しずつ平穏な日々に戻っていけるはず。

 やがて霧も晴れ、見通しが格段によくなった。

「やった! 見えたわ!」

 住み慣れた故郷を見つけると、高揚感が込みあげ、腕の疲れなど吹き飛ぶ。

 ボートを止める方法がわからず、浅瀬に乗りあげてしまった。その頃には雨もやんで、雲間から裸の太陽が顔を出す。

 レティシアは意気揚々と岸にあがった。

「……うっ?」

 立ち眩みがしたが、歩けないほどではない。それより気持ちが急いて、ハイヒールでもつい早足になってしまう。

 湖が近くても、風向きのおかげで空気はからっと乾燥していた。

深紅のドレスをまとっていては、否が応にも目立つ。

「おや、どこのお嬢さんだろうね?」

 ハーブ屋の娘が行方不明になったことで大騒ぎ、という気配はなかった。それ以前に、村の様子がどことなく違って感じられる。

「へえ、ここがレテ公の村カ。つっまんねえなァ。カジノは?」

「どんな大都会を想像してたの? でも素朴で素敵な……」

 サーシャ村は明らかに建物が増え、顔ぶれも変わっていた。村にあるはずのない書店の店先には、新聞が積んである。

 その一面は戦争の記事で埋め尽くされていた。

「東軍の宗主国、グランディバイド帝国が新型の……セ、センシャを建造?」

「お買い上げですか?」

「あ、いえ。ごめんなさい、手持ちがないの」

 ここはサーシャ村なのに、レティシアの知っている故郷ではない。三百人足らずの山村が、千人規模の街になっている。

 考え事をしていると、お腹がきゅうっと鳴った。

 朝ご飯、まだ食べてなかったっけ……。

久しぶりに人間らしくお腹が空いた気がする。

 とにかく自宅に帰りさえすれば、何かわかるだろう。レティシアは急ぎ足で村を駆け抜け、住み慣れた二階建ての家を見つける。

「ただいま、お母さん! ……あれ? お母さん? いないの?」

 ところがハーブ屋の看板は別のものに取り替えられ、品揃えもがらりと一変していた。時計や包丁といった日用雑貨が売られている。

 商品を修理中の男性が首を傾げた。

「なんだい? お嬢ちゃ……いえ、お嬢さん。何かご入用でしょうか?」

 三十を過ぎたくらいの、知らない男性だ。しかし見たところ、彼がこの店の主人であるのは間違いない。

「あの……この家は?」

「へ? 家がどうかしました?」

 男は作業を中断し、二階建てのハーウェル家を見上げた。何かを誤魔化しているような素振りはなく、そもそも質問の意味がわからない、といった顔をしている。

「この家はですね、こっちに越してきた時に買ったんですよ。前の持ち主はハーブなんかを扱ってたらしいんですけどねえ。ナイトガベラって知ってます?」

「ええ。新月の日にしか採取できない毒の花でしょ」

「よくご存知で。この近くにそれが生える場所があるそうで、なかなか繁盛したそうですよ。まあ昔のことは、うちの家内にでも聞いてもらえれば」

 そこに子連れの母親が戻ってきた。ふたりの息子に木材運びの手伝いをさせている。

「重いよ、おかーさん」

「しっかりしなさい。それくらいで情けないね」

 彼女の面影にレティシアははっと目を見開いた。鮮烈な既視感がレティシアに、この母親の名前を聞かずとも連想させる。

「もしかして……タリサ、なの……?」

 レティシアの呼びかけに彼女は反応を示し、抱えていた材木を落とした。

「……あなた、まさか」

 荷を拾うこともせず、真正面からレティシアに駆け寄ってくる。その表情は驚きから喜びに変わり、子持ちの母親にしては無邪気に抱きついてきた。

「レティシア! 本当にレティシアなのね、今までどうしてたのっ?」

「痛いってば、タリサ。……やっぱりタリサなのね」

 タリサが感無量の涙を滲ませる。

「あなたが行方不明になってから、十年よ? でもほんと、よく戻ってきてくれたわ。そうだ、おばさんたちにも連絡してあげないと」

「じゅ……十年?」

 レティシアの平衡感覚がぐらっと傾いた。

あたし、十年間もずっと霧の城で眠っていたの?

 新月の日でなくなっていたのも、髪が伸びきっていたのも、長い年月の経過によるものだった。親友との再会を喜ぶに喜べなくなり、蒼白になる。

「なんだ、タリサの知り合いだったのか。子どもたちはおれが面倒見てるから、お茶でも淹れてやったらどうだい」

「そうだね。レティシア、こっち上がっておいで。あなたの家でもあるんだし」

 タリサに促され、レティシアは『十年ぶり』の我が家に帰宅した。

 幅の狭い木造の階段が軋む。ハーブの香りはしないけれども、懐かしい。

 以前はレティシアのものだった二階の一室で、タリサは先にレティシアだけ座らせた。

「お茶の準備をしてくるわね。待ってて」

「……ありがとう」

 自分が眠っている間に、サーシャ村では十年もの時間が過ぎていたことを実感する。ほかにも顔馴染みはいるだろう。しかし両親の姿は見当たらない。

 タリサが紅茶とともに戻ってくる。

「レティシアは全然変わってないのね。最後に会った時のままみたい」

 おしゃべり好きな親友を相手に、レティシアは戸惑った。

 霧の城のことを話しても大丈夫かしら……?

 後ろめたい真実を打ち明けることに躊躇う。最悪の場合、彼女までノスフェラトゥの悪夢に巻き込んでしまう可能性もあった。

 レティシアが黙っていても、おしゃべりなタリサが会話を弾ませてくれる。

「あの時は大変だったのよ? 村のみんなで夜通し探しまわって……籠と靴が見つかったから、そこから湖に落ちたんじゃないかって」

「まさか湖に入ったの?」

 脳裏に白骨の山が浮かんだ。

「入ったっていっても、浅いところだけね。でも見つからなくて」

 やはり村では大騒ぎになったらしい。

 行方不明のレティシアを捜索するため、村人は総出で周辺を調べまわった。賊の仕業である可能性も考慮され、一時はカレードウルフ共和国の兵が村の防衛についたという。

「おばさんがね、あなたを探してふらふら湖に行っちゃうのよ。そのうち自殺でもするんじゃないかって、おじさんがおばさんを連れて余所に……」

 両親はこの村を去ってしまっていた。

「私のお見合いも半年延期してもらってね。みんな、それどころじゃなかったから」

 その後タリサは縁談を進め、結婚して。一度はサーシャ村を出て行ったが、旦那と一緒に戻ってきて、今はレティシアの家に住んでいる。

「ごめんね、レティシア。あなたのお家を勝手に貰っちゃって」

「ううん。気にしないで」

 ふとレティシアは視線に気付き、ドアのほうに目をやった。

さっきの男の子たちが扉を少しだけ開け、部屋の中を覗き見している。

「こら! あんたたち、お母さんは今、大事なお話をしてるんだよ!」

 タリサは母親らしい声を張りあげ、息子らを追い払った。

 思わずレティシアは笑みを零す。

「うふふっ。タリサったら、あんなにお見合いに悩んでたのに。ちゃんとお母さんらしくなってるじゃない」

「そ、そりゃあ……会ってみたら、いいひとだったし」

 十年の間にタリサは結婚して、子を産み、ささやかな家庭を築いていた。そんな親友の幸せを喜ばしいと思う一方で、レティシアは孤独感に苛まれる。

「それでレティシアは? 今までどこに……」

 タリサの声がトーンを落とした。それがレティシアにとって話しづらい内容であることを、すでに察してくれている。

「すごく高そうなドレス着てるし、顔は昔のままだし。何があったの?」

 十年経っても顔が十七歳のままなのは、普通の人間ではなくなったから。『人喰い鬼に襲われて、人喰い鬼の仲間になりました』とは、さすがに言えない。

 レティシアが再び口を開くまで、長い沈黙が流れた。

「……ごめんなさい。あとで話すから」

 まだ心の整理がつかない。

 親友はレティシアの話を信じてくれるに違いない。だからこそ、余計に真実を語るのが怖かった。都合のいい嘘でもついたほうがましだが、それも思いつかない。

 タリサも無理に聞き出そうとはせず、おもむろに席を立つ。

「いいわよ。今日はうちでゆっくりしてくれていいから」

「ありがとう、タリサ」

「あなたの家なんだから、気兼ねしないでね」

 十年ぶりの我が家で、レティシアは涙が出そうになるのを我慢した。

 

 

 午後はサーシャ村を散策して、懐かしい面々と挨拶を交わして。夕食はタリサの家でご馳走になり、今夜は泊めてもらうことに。

「何から何まで面倒かけちゃって、ごめんなさい、タリサ」

「面倒だなんて思ってないわよ。それより、久しぶりに村をまわって、どう?」

 最初は自分だけ十年前の姿であることに戸惑い、不安に思ったが、故郷の空気はレティシアの心を充分に癒してくれた。

「とても楽しかったわ。みんなすごく驚いてたけど」

「あははっ! 私もついていけばよかったかも」

 明日はお祝いでもしよう、と村の皆も盛りあがっている。

「アイラお婆さんも元気みたいね。もう長くないよ、なんて自分で言ってたのに」

「お孫さんがお嫁さん連れて帰ってきてから、ご機嫌なもんよ」

 十年の時が流れ、住人の数は三倍に増えたものの、サーシャ村はレティシアの故郷のままだった。両親の居場所はタリサが知っており、連絡を取ることもできる。

レティシアは机を借り、手紙を書いていた。

 まずはお父さんとお母さんに会いに行こう。きっとあたしを迎えてくれるわ。

 そこで暮らして……それからのことは、ゆっくり考えていこうかな。

 十年も時間を失ってしまったが、ほかに何かを失ったわけではない。平穏な日々に戻りたいという願望は、実現できる可能性になりつつあった。

「……なんて書けばいいのかしら」

 手紙を書き始めては手を止め、また書き始めては手を止めて。両親に宛てる手紙の冒頭から苦心してしまう。

 ええっと、心配かけてごめんなさい、とか?

 生きてます。また一緒に暮らしたいです。……うーん、そのまんまね。

「もう来週の定期便で行っちゃえば?」

 サーシャ村を出るのは簡単で、村と都市を往復する荷馬車に乗せてもらえばよい。

「いきなり押しかけて、大丈夫だと思う?」

「娘なんだから問題ないわよ。早く安心させてあげないと」

 笑いっ放しだったタリサが俄かに表情を曇らせた。

「でね、できれば……ううん、おばさんたちを必ず連れて帰ってきて欲しいの。実はおばさんたちが引っ越すの、村のみんなで反対して……今、戦争してるから」

 戦争と聞いて、新聞の一面を思い出す。

 数年に一度くらいは大陸のどこかで軍事衝突があった。十年前は緊張状態だったものに火がついていたとしても、おかしなことではない。

「何百人くらい亡くなったの?」

「桁が違うわ、レティシア。こないだの戦闘だけでも数万人」

 その異常な数字にレティシアは驚愕し、手紙の紙面にインクを落とした。

「す、数万……?」

 意味がわからない。百人単位で人が死ぬことでも悲惨なのに、桁がふたつも違う。しかもタリサは『こないだの戦闘だけでも』と限定した。

 渡された新聞には、奇妙な鉄の箱の写真が載っている。

「これは戦車っていってね。地面を走って、どこにでも大砲を飛ばせるのよ」

「ち、ちょっと待って。砲弾が飛んだからって、どうしてそんなに」

 過去の新聞で大きな事件が掲載されているものは、棚に保管されていた。ところどころで聞き慣れない活字が躍っている。

「せん、しゃ……? せんとうき、って?」

 大陸全土を巻き込むほどの、大規模な戦争が始まっていた。

 開戦当初は『聖夜祭までには終わる』と楽観視されていたが、従来の戦争にはなかった『鉄の兵器』によって戦火が拡大し、もはや収拾がつかなくなっている。

「グランディバイド帝国は参戦せずの姿勢だったけど、ほら、これ。リアファイル連合の潜水艦に客船を沈められて、とうとう」

 鉄の兵器は陸を闊歩し、海を蹂躙し、空まで制覇するという。

この一大戦争は『くろがねの世界大戦』と呼ばれていた。

「全然知らなかったわ。そんなことになってるなんて」

 新聞で逆行するほど、レティシアは蒼白になる。

 両親が村を出る際に止められた理由もわかった。村の住人が増えているのも、同じ理由だろう。戦火から逃れたいがため、サーシャ村のような山村に人が集まっている。

 ベオルヴは知っているのだろうか。

 ……ううん、あのひとはもう関係ないわ。

「わかったわ。お母さんたちを連れて帰ってくる。旅費とか、あとで返すわね」

「お金のことは気にしないで。旦那も話のわかるやつだからさ」

 親友の温かな心遣いが胸に染みた。

 落ち着いたら、ちゃんとお礼しなくちゃ。

 そんなことを考えていると、お腹がまたぐうっと鳴る。レティシアは赤面し、節操のないお腹を押さえた。霧の城のご馳走に慣れすぎたせいかも。

「ちょっとレティシア、さっき食べたばかりよ?」

「で、でもほら、満腹だとかえって鳴ったりすること、あるじゃない?」

「ないってば。……と、リックをお風呂に入れないと」

 すっかり母親が板についているタリサが、部屋をあとにする。

「ところで、そのお面。何なの?」

「……あっ!」

 相棒のことを完全に忘れていた。タリサの気配が遠ざかるのを待ってから、レティシアは猫のお面ことチャリオットを外し、顔を見合わせる。

「こっちは空気読んデ、ずっと黙っててやってたんだゼ? まったくよォ」

「ほんとごめん! 許して、チャリオット」

 これほど存在感の強烈なお面を、忘れていられたのが信じられない。

 ふざけたお面ではあるものの、チャリオットはレティシアの事情を察し、声のボリュームを落としてくれた。

「くろがねの世界大戦っつったっケ? 人間って簡単に死んじまうくせニ、よく殺し合いなんてするよなァ。何考えてんだカ」

「ノスフェラトゥはそういう争いとか、しないの?」

「強ぇやつが弱ぇやつを支配してりャ、下のやつだって満足だからナ」

 化け物であるはずのノスフェラトゥの習性に、初めてレティシアは感心する。

「なんだか変な気分。あなたたちのほうが――」

「大変だっ!」

 夜も静まり返りつつある頃、村人の大声が響いた。外が急に騒がしくなり、レティシアも二階の窓から半身を乗り出す。

「火事だ! みんな、水を持ってこい!」

 一軒の家屋が大きな松明のように燃えていた。赤い火が瞬く間に広がり、木造建築を飲み込む。反射的にレティシアも部屋を出て、階段を駆け降りた。

アイラお婆さんの家だわ!

 風呂場からタリサが顔を覗かせる。

「何の騒ぎ? レティシア」

「火事よ! あたしも手伝いに行ってくる」

タリサの夫はすでにバケツをかき集め、現場に向かっていた。

 サーシャ村のように小さな田舎では、緊急時、住人の連携にすべてが掛かっている。都会と違って消防隊などの組織はないため、村人だけで解決しなければならない。

「ホースがあるだろ? 早くしろ!」

「用水路のを切り替えて使うんだ! 違う、そっちじゃない!」

 しかし最近になって村に引っ越してきた人々では、対応が間に合わなかった。火の勢いが強くなりすぎて、数分もしないうちに近づけなくなる。

「なんだって! 婆さんがまだ中に?」

 木造の家は炎に巻かれ、壁がもげるように剥がれた。何かに引火したらしく、唐突な爆発が村人たちを遠のかせる。

「……だめだ。こいつはもう助からねえよ……」

 無謀ではない村人たちは、家が焼け崩れていくのを呆然と眺めていた。

 夜空の薄い雲が下から赤々と照らされる。雨も降りそうにない。

アイラお婆さんが死んじゃう……。

 どう見ても手遅れで、今から老婆を助ける方法などなかった。しかしレティシアの頭の中で、いつぞやの少女の声が響き渡る。

『力を使えばいいじゃない。できるのよ、あなたには』

 無意識にレティシアは歩み出て、左手を掲げた。その上で旋風が生じ、きらきらと光の粒子を集束させていく。

「古の盟約のもと、我に汝の力を示せ」

 瞳の色が碧から緋に変わった。

レティシアの詠唱に呼応して風が大きくなり、季節外れの雹を降らせる。

 冷気は渦巻きながら、燃えあがる家屋の屋根を一瞬にして氷付けにした。雹の群れが家の中を吹き抜け、残った火を消し飛ばす。

「アイラお婆さんっ!」

 すかさずレティシアは飛び込んだ。

横たわっている老婆を抱えたら、来た道を引き返す。

レティシアが脱出して間もなく、家は氷の重量に耐えきれず、めしゃっと崩れてしまった。炎の熱気はもうなく、冷たい空気が周囲に立ち込める。

 その一部始終を目の当たりにした村人たちは、一様に驚愕していた。

「お、おい? あんた……何をしたんだ?」

「レティシアちゃん、これは?」

 少女の勇敢さを称えるよりも、疑惑の表情でたじろぐ。

 燃えあがる一軒家を瞬時に氷付けにできる人間などいない。レティシア自身、今の今まで自分にこのような力があるとは知らなかった。

 ベオルヴと同じ魔法の力だ。

「あたしは……そ、それよりお婆さんを! ひどい火傷を……」

 助け出した老婆はすでにこと切れている。火傷によって皮膚はただれ、凄惨な姿に成り果てていた。念じても、彼女を蘇らせるような奇跡は起こってくれない。

この老婆とは十年ぶりに話したばかりなのに。

『おやまあ、レティシアちゃんかい? 本当によかった、無事だったんだねえ! ご両親にも伝えておやり。きっと喜んでくれるさ』

 親同然にレティシアの無事を喜んでくれた女性は、もう何も答えない。

「ごめん、なさい……お婆さ……」

 涙腺が緩む一方で、心臓がどくんと跳ねた。

 ……う、あ?

 今朝から感じている空腹が、飢えるほど狂おしいものになってくる。『お婆さん』と一言呟くだけのつもりだった唇は、さらに大きく開いて、わなないた。

 喉どころか、胃袋まで渇く。

 早く口に入れないと、おかしくなる。

 左右の糸切り歯が変形し、牙のように尖った。瞳が真っ赤な輝きを増す。

 全身の脈動が、何を欲しているのか、何を喰らえばよいのかをレティシアに教えた。自我を失いながら、レティシアはそれを噛み千切る。

 人喰い鬼が餌とするものを。

「うわあああ! なっ、何やってんだ、あの子は!」

「食べてる? ひ、ひとを食べてるぞ!」

 そのさまに村人たちは大いに狼狽した。誰も彼も蒼白なって、嘔吐を堪えきれなかった者から吐いてしまう。

「──まだ制御できていなかったのか、レティシア。もうよせ」

 聞き覚えのある声が降ってきた。

 それまで影も形もなかったはずのベオルヴが、レティシアの肩を掴んで押さえる。

「ベオルヴ? ……げほっ! あ、あたしは……?」

 レティシアは我を取り戻し、泣いている自分に気付いた。

頬を濡らしているのは大粒の涙で、口を汚しているのは、焼け焦げた肉と赤い血。腕の中で老婆の姿が変わり果てていることに慄然とする。

「ひっ! な……なんで、これ」 

人だかりの最前列には、親友のタリサがいた。恐怖のあまり青ざめ、怪談に登場する、人喰い鬼の名をレティシアに当てる。

「レティシア、あなた……どうしちゃったの? まさか、ノスフェラトゥに……」

 人間を喰らうことを享楽とする、汚らわしい化け物。十年経っても昔と顔立ちに変わりがないのも、魔力が若さを維持しているため。

 レティシアは口を拭うことも忘れ、許しを請うように親友を見上げた。

「お、お願い、違うの。あたしはノスフェラトゥじゃ」

 しかしタリサは親友の顔をしてくれない。おぞましいものを見るような目つきで、ほかの村人とともにあとずさる。

「こっちに来ないで、化け物! レティシアの姿で騙そうとしたわね!」

「逃げろ! おれたちまで喰われるぞ!」

 化け物、という蔑称がぐさりと胸に突き刺さった。

 その言葉はレティシアを悪意で侮蔑するものではない。恐怖によるものだからこそ、彼らの本音が如実に表れ、レティシアに自分が人間ではなくなったことを痛感させる。

 逃げ惑う村人は紫色の煙に巻かれていった。

「やれやれ。こりゃあ、あとでボクも怒られちゃいそうだ」

 ベオルヴに続いてエリオットが現れ、人間たちを魔法で眠りにつかせる。

「夢でしたって、できなくはないけどね。ベオルヴ様、どうします?」

「記憶を弄るのはやめておけ。下手をすれば、下級種となって暴れまわるからな」

 立つに立てない放心状態のレティシアを、ベオルヴが悠々と見下ろした。上級種のノスフェラトゥがすることのない汚い食事を、つまらなさそうに蔑む。

「化け物らしい初めての食事はどうだ? 我が寵姫よ」

 心のない挑発が、レティシアの真っ黒な絶望を真っ赤な憎悪に塗り替えた。

「――ベオルヴっ!」

 レティシアは起きあがり、平手打ちを放つ。

 頬を打たれたにもかかわらず、ベオルヴは酷薄な笑みをやめなかった。レティシアの懐にある猫のお面を剥がし、エリオットに投げつける。

「貴様の処分は後まわしだ。覚悟しておけ」

「やっぱりぃ? 参ったなあ~」

 エリオットは悪びれた様子もなく、お面をかぶっておどけた。ベオルヴとレティシアの間には立ち入るまいと、おそらく故意に距離を取っている。

「……あたしが勝手に出ていったのよ。エリオットは関係ないわ」

「じっくり聞かせてもらおうじゃないか。城に戻るぞ」

 湖上の城は完全に霧で覆われた。

 

 

 やがて夜が明け、霧の向こうがぼんやりと明るくなる。

 城へと連れ戻されたレティシアは、庭園のアーチに吊るされるような格好で拘束されていた。青いバラが四肢にまとわりついて、濃厚な香りを鼻先に漂わせる。

 かろうじて裸足の爪先が地面に届くものの、肩を真上に引っ張られて苦しい。

「なぜ城から逃げ出した? いい加減、答えろ」

 その正面にある揺り椅子で、ベオルヴは脚を組んで寛いでいた。

 尋問が始まってから、三時間はこうして睨みあっている。ちょうど二度めの鐘が鳴り響き、レティシアの鼓膜を震わせた。

「あなたのせいよ。全部」

 レティシアは歯軋りして、諸悪の根源であるベオルヴを睨みつける。

 平穏な日々には二度と戻れない。ノスフェラトゥの下級種に襲われた時、レティシア=ハーウェルという少女はすでに死んでいた。

 今ならそれでよかったとさえ思う。ノスフェラトゥの同類にされ、悪夢のような体験をするくらいなら、さっさと殺されたほうが幸せだった。

 もう両親のもとに帰りたいとも思わない。

人間の血肉を貪る化け物になったのに、会いにいけるはずがなかった。あのおぞましい衝動に駆られたら、父と母まで貪欲に喰らってしまうのだろう。

「お前はまだ力をコントロールできていない。城の外に出るには早すぎたな。それにノスフェラトゥは太陽の光に弱い。そんな状態で初めて魔法を使うからだ」

 ベオルヴが椅子をぎしっと揺らす。

 城の霧は住人を直射日光から守るためにもあるらしい。

 知らず知らずのうちにレティシアは無理を重ね、ノスフェラトゥの摂食本能を抑えきれなくなっていた。普通の食事では満たされなかった空腹感の正体に寒気がする。

「俺の血を分けてやったというのに、下級種じみたことをしでかすとは」

 冷酷なベオルヴはレティシアを辛辣に責めた。勝手に外出したことを咎める物言いに、レティシアは反感を抱く。

「だったら、牢屋にでも閉じ込めておけばよかったじゃない」

「だからこうやって、お前を縛っているんだ。お前にはもう城の幻術も効かんしな」

 城の構造が日に日に変わっているように感じたのは、レティシアの魔力が高まり、無意識のうちにトラップを見破っていたからだった。初日は気付かなかった地下への隠し階段や、桟橋への隠し通路が、今のレティシアには簡単に知覚できる。

「我々の実在を再び人間どもに知られるかもしれん。面倒なことになるぞ」

「勝手なこと言わないで! あなたが悪いんでしょう」

 吊るされていようとレティシアは気丈な反抗を続け、ベオルヴを見据えた。

「ふん、俺への忠誠が足りていないのが一番の原因だ。仕置きのついでに、寵姫としての立場を思い知らせてやろう」

 ベオルヴがゆらりと立ちあがり、レティシアに歩み寄ってくる。

黒いスーツにクラバットなど、一見すると紳士然とした容姿は、言い知れない威圧感をまとっていた。レティシアの、ノスフェラトゥとしての本能が力の差を感じ、王である彼に服従しようとしているのだろう。

「くっ……来ないで」

「俺がそれを聞くと思うか? クククッ、反抗ばかりするようなら、また寵姫どもで囲い込んでやってもいいんだぞ、レティシア」

 早朝の庭園はほかに人気もなく、静まり返っていた。

しかし城の窓や回廊から見ていない、とも限らない。仕置きの内訳を想像すると、嫌な予感ばかりする。

「何をされたって、あなたなんかに」

 恐怖はあれ、それでも屈したくない気持ちのほうが強かった。

唇を奪われ、化け物にされ、そのうえで心まで掌握されるつもりなどない。たとえ彼が魔力でレティシアの意志を自由にできるとしても。

 ……絶対に許さない!

 歯噛みするレティシアに対し、ベオルヴは妖艶に微笑む。

「強気じゃないか。そういう女は嫌いではない」

「悪趣味なだけなのよ、あなた」

「趣味を褒められたことはないな。なるほど、悪趣味かもしれん」

 精一杯の軽蔑も、ベオルヴには涼しい顔で流された。むしろ寵姫の反抗を楽しむ節さえあり、不敵な笑みを浮かべつつ、無遠慮にレティシアの髪をかきあげてくる。

「許せないか、俺のことが。それでいい」

「当たり前でしょ……あたしは何もかも、あなたに奪われたんだから」

 レティシアの胸中では恐怖と憎悪がせめぎあっていた。

ベオルヴに反抗すれば、もっと酷い目に遭わせられるに違いない。だが、この冷酷な男にかしずくような真似はしたくない。

「百番目の寵姫なんて、絶対にお断りだわ」

 人間の碧い瞳に涙が滲んだ。本当は怖い。今すぐ逃げたい。

 ベオルヴの手がレティシアの頬をそっと撫で、涙を拭う。

「人間は脆いな。お前はすぐに泣く」

 ノスフェラトゥの王はキスに至ることなく囁いた。

「お前は百番目の寵姫ではない。最後の寵姫だ」

儚い表情を浮かべ、聞き分けのない子どもを窘めるように言い聞かせる。

 こんなふうに優しく言葉を掛けられては、憎みきれなくなってしまった。レティシアは目を見開き、初めて見る彼の、寂しげで孤独な顔つきを知る。

「最後の……寵姫?」

「お前には俺の血を半分与えた。じきに俺と同等の力を使いこなせるようになる」

 ベオルヴはレティシアの前髪をかき分け、額に小さなキスを残した。

「その力なら俺を殺せるだろう。レティシア=ハーウェル……いや、次期城主レティシア=オーレリアンド。俺を殺し、今度はお前がすべてを奪えばいい」

 その口づけを最後に、炎となって消えていく。

 あたしに何をさせようっていうの?

何をして欲しいの?

 レティシアは庭園に残され、呆然自失としていた。霧が晴れることのない城を見上げ、時計塔らしい影に耳を澄ませる。

 

 それから何時間が経っただろうか。

 拘束具であるバラの棘が腕に刺さり、わずかに血が滲んだ。レティシアとベオルヴのものが混ざったそれが、王に匹敵するほどの魔力を帯びる。

「……放して」

 レティシアの瞳は再び緋色に染まった。

「放しなさいって言ったの」

 その命令に従うように、手足のバラがするりと解けていく。

 レティシアは裸足で煉瓦風の黒水晶を踏みしめた。この城にはノスフェラトゥの王の魔力が血液のように循環している。それがわかる。

 ベオルヴに会わなくてはならない。

 レティシアからすべてを奪った傲慢な王を、お望み通り殺してやってもいい。

「……いいわ。あなたを許すつもりなんてないもの」

  重々しい鐘の音が響き渡った。

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