百番目の寵姫

第七話   星空へのレクイエム

 湖上の城はあちこちが瓦解し、穴まで空いていた。ヴィレッタが九十九人の寵姫を引っ張りあげた際にできた跡だろう。

 百番目の部屋──レティシアの私室にシンシアの姿はもうない。

 しかし純白のドレスが支度済みで、傍らには手紙が添えられてあった。

『レティシア様には白色もお似合いになると思います』

 彼女なりに別れを予感していたのかもしれない。

寂寥感がレティシアの胸をすり抜けていく。

「ありがとう、シンシア」

 レティシアは裂けていた衣服を脱ぎ、最後のドレスに着替えた。誰かに手伝ってもらわなくても、ある程度の着付けはできる。

短い間とはいえ、シンシアが丁寧に教えてくれたおかげで。

レティシアもほかの寵姫と同じように死者であったら、この壮麗な城で、彼女らと一緒に平穏な日々を過ごしていたはずだった。それは退屈であれ、至福の時間ではなかったのか。その答えはエリオットが知っていたのだろう。

コサージュにはユリの花が用意されていたが、あえてレティシアは青いバラのものを選び、髪に差し込む。青いバラはこの城の象徴であって、今の自分に相応しく思えた。

 着替えを済ませたら、プルートを手に百番目の部屋をあとにする。

中庭ではベオルヴが腕組みの姿勢で待っていた。レティシアのドレスを褒めもせず、不機嫌そうに眉を顰める。

「女の着替えはどうしてこう時間が掛かるんだ」

「そういうものなの。……少し冷えるわね」

 ドレスは背中が開いた作りのため、冷たい夜風がじかに触れた。

 城の外に霧はない。夜空には厚い雲が垂れ込め、その中で稲妻が転がっている。

 ところが桟橋の水面には紅い満月が映っていた。あたかの血眼であるかのように、レティシアたちを見詰めている。

「ヴィレッタは魔具を取り戻すため、真のオーレリアンド城に行ったはずだ。……レティシア、今のお前なら感じ取れるんじゃないか?」

「本物の城……」

 湖上に浮かぶ居城は偽りのものだった。

 昼間と同じように、夜の湖にも城が逆さまになって映り込んでいる。

 オーレリアンド城は存在するだけでも、瘴気によって周辺に甚大な被害をもたらす。そこでベオルヴは一部を残し、城の大部分を異空間へと閉じ込めた。

 だが、城は今やヴィレッタの制御下にある。

最上階の大時計がないにもかかわらず、鐘の音が響き渡った。音は上からではなく、足の下から響いてきたように感じられる。

「今見えてる城が、そうなのね」

 湖に映る、逆さまの宮殿。それこそが正真正銘のオーレリアンド城だった。

「いくぞ。レティシア」

 ベオルヴが中指を浅く切って血を滴らせると、水面に魔方陣が現れる。

 それを通り抜け、ふたりは真の魔城へと転移する。

 

 摩訶不思議な光景を目の当たりにして、レティシアは唖然とした。

魔城は奇天烈な画家が描いたかのようにひっくり返っている。

「ここは……?」

 これまで空だったものは下にあり、果てのない大穴になっていた。不慣れな浮遊の魔法でふらつくレティシアを、ベオルヴが引いていく。

「落ちるなよ。こっちだ」

「すごいわ。ぜんぶ逆さまね」

 回廊から城内に侵入し、改めてレティシアは目を白黒させた。

 床は上にあって、天井は下。なのに椅子や燭台といった、本来は床にあるものまで、すべて逆さになって『上』に張りついている。

 スズランのシャンデリアは『下』から伸びていた。

「どうなってるのかしら、これ……」

 逆さまの燭台では、炎も逆さまになって揺らめている。じっと見ていると、平衡感覚がおかしくなりそうだった。

「地獄に来たんだ。この城は、地獄の空……蓋の一部になっていると思えばいい」

「ここが地獄……」

 地の底にあるという悪魔の世界。

 本来は天井であるところを歩くのだから、足場は悪い。階段も機能しない。それでもノスフェラトゥの跳躍力があれば、進むことは難しくなかった。

「ついてくると言ったからには遅れるなよ、レティシア」

「大丈夫よ。これくらい」

 空気は禍々しい瘴気で淀んでいる。

 また鐘の音が聞こえた。レティシアたちを誘うように、エコーが響く。

 ノスフェラトゥにとって時間という概念は意味を成さない。なのにベオルヴが最上階に大時計を設置したのは、それに固執しているからだろう。

「ねえ、ベオルヴ。寿命が何百年もあって嬉しいって、思ったことはないの?」

 短命な人間にとって不老不死は憧れだった。錬金術とやらで永遠の命が探究されていた時代もある。ある貴婦人が己の若さを保つためといって、少女の生き血を浴びる、などというおぞましい事件もあった。

「俺には、生まれては尽きていく人間のほうが羨ましいさ」

 それだけの時間に恵まれながら、ベオルヴは自嘲気味に呟く。

「お前も友人と一緒に歳を取りたかっただろう?」

「それは……そうだけど」

 時間の流れに置き去りにされる寂しさは、レティシアも知っていた。永遠を孤独に生きるくらいなら、親と子の間で一生を終えるほうが、意味があるかもしれない。

 魔城に入ってから、初めてレティシアは『逆さまになっていない』ものを見つけた。蓋の閉じられた棺がずらりと並び、異様な雰囲気を醸し出している。

 そのひとつが開き、中身を吐き出した。

「……おでましか」

 ベオルヴが臨戦態勢となり、右手に魔法を込める。

 レティシアもプルートを構えようとしたが、敵の姿に動揺してしまった。

「シンシアっ?」

 ほかの棺桶も開き、変わり果てた寵姫を放つ。

肌は青く変色し、手足には血管が浮かびあがっていた。顔はもはや人のものではなく、口は耳まで裂け、牙を剥いている。

シンシアも骸の成れの果てとなり、奇声をあげて襲い掛かってきた。

「躊躇うな、レティシア! こいつらはもはや寵姫ではない!」

棒立ちでいるレティシアの前にベオルヴが割って入り、シンシアの奇襲を防ぐ。

「九十九人も相手にしていられん。一気に抜けるぞ」

「え、ええ。……わかったわ!」

レティシアは反撃こそできなかったが、ベオルヴを追ってひたすら前進した。左右から寵姫が襲ってくるのをかわし、プルートの風圧で跳ね返す。

ところがベオルヴの魔法には不自然なインターバルがあった。連発すればいいところで腕を引き、寵姫らの接近を許してしまう。

「どうしたの、ベオルヴ?」

「やはりな。くそっ、左では魔法が使えん!」

 ベオルヴは左肩を押さえ、舌打ちした。ヴィレッタに妖刀で貫かれたせいで、左手から魔法を放つことができない。その隙を数の差で押されては、不利になる一方だった。

「下に逃げましょう!」

レティシアはプルートを握り締め、三日月型の刃を振りおろす。

足元に亀裂が走り、回廊を真っぷたつした。上下が逆のせいでアンバランスな柱が次々と傾き、寵姫たちを巻き込みながら倒れていく。

それでもレティシアに飛び掛かろうとする寵姫を、誰かが掴んで制した。

「レティ、サ……マ、オハ、ヤク……!」

シンシアがほかの仲間を剥がすように投げ、レティシアのために道を空けてくれる。

「シンシア? ごめん!」

レティシアはベオルヴを引っ張りつつ、亀裂から下へと降りた。

 寵姫らは仲間割れを始めたらしく、追ってこない。

 ベオルヴは振り返ることなく走り出した。

「あいつはこの十年、ずっとお前の世話をしてきた。感化されたのかもしれんな」

「心がなくなったわけじゃないのよ、みんな。急ぎましょう」

 彼女たちの想いを背負って、レティシアも逆さまの城内を駆け抜ける。

 だが下向きの時計塔に入って、強大な敵意に襲われた。窓から入ってこられない巨躯が突っ込んできて、塔を揺るがす。

「きゃあああっ?」

「振りおろされるなよ、レティシア!」

 ベオルヴの魔法を使えない左腕が、レティシアを抱きかかえた。

 何者かに体当たりを食らった壁の一部が崩落する。そこから頭部らしい一対の複眼を覗かせたのは、巨大な蠅の怪物だった。

 害虫に対する生理的な嫌悪感が膨れあがり、鳥肌が立つ。

「な、なんなの? あれ」

「こいつが地獄に巣くう『暴食』の悪魔、ベルゼバブだ」

 饐えた腐臭が漂い、城の瘴気さえ汚染し始めた。蠅の化け物が背中の羽根を振動させるだけで、攻撃の魔方陣が無数に浮かぶ。

「ヴィレッタのやつが誘い込んだのか? 城を破壊されかねんぞ!」

 閃光のように雷撃が放たれた。直撃を受けた歯車が砕け、破片となって落下する。

 ベルゼバブの魔方陣は、雷撃を撃った順に充填に入った。続けざまに閃光が弾けて、レティシアとベオルヴの逃げ道をどんどん奪っていく。

「ベオルヴ! あれを振りきるのは無理よ!」

「わかっている! くそっ、左手がこのザマでは……」

 ベオルヴの左腕では、満足に魔法を扱うことができなかった。両手で魔方陣を支える必要のある大魔法も一切使えない。

 レティシアたちの頭上で、巨大な蠅はとうとう時計塔の内部に押し入ってきた。汚らしい体毛の生えた節足で、歯車の支柱を器用に伝いながら降りてくる。

 獰猛な唸り声とともに酸性の涎が落ちた。

 それをかわしつつ、ベオルヴが鬼気迫った表情でベルゼバブを見上げる。

「やつの動きを止めねば、勝負にならん! レティシア、お前も撃ってくれ!」

 その右手が青い炎を振りあげた。しかし怪物は少したじろぐ程度で、ベオルヴのものより大きな魔方陣を、一ヶ所に集めるように展開する。

「危ないっ!」

 すかさずレティシアは防御の結界を張った。

 ベルゼバブの魔方陣から放たれた雷光の一閃を、その結界がかろうじて逸らす。危険な閃光はそこで屈折し、時計塔の壁を容易く貫通していった。

「すまん、レティシア。助かったぞ」

「ええ。でも……これじゃ」

 同じ場所に留まらず、ベオルヴとともに下へと降り、少しでも距離を稼ぐ。

 緊迫感の中、プルートを握る手に力が入った。

(ここは狭いからね。やつはそう素早く動けないさ)

 不意におどけた声がして、レティシアに閃きを与える。

「おい、レティシア? 立ち止まるな!」

「大丈夫よ。チャンスだもの!」

 レティシアは逃げるのをやめ、プルートを大きく振りかぶった。ベルゼバブの前足に狙いを定め、エリオットの声とともに鎌を投げつける。

(投げるんだ、レディー!)

「お願い、プルート!」

 大鎌は回転しつつ、ベルゼバブの腹部を掠めた。脚の一本を千切り、ブーメランのように戻りながら背面の羽根も切り裂く。

 ベルゼバブが体勢を崩した拍子に、その前足が歯車に挟まった。

「ベオルヴ、今しかないわ! 魔法で!」

 プルートを受け止めるレティシアの隣で、ベオルヴが素早く魔方陣を展開する。

「よくやった! だが……レティシア、魔力を貸してくれ」

 彼の左腕に代わって、レティシアも手をかざした。制御はベオルヴに任せて、お互いの魔力の波長をシンクロさせるため、唇を重ねる。

「ン……」

 レティシアの全身を巡る、彼の血が俄かに熱くなった。

 唇を離して、レティシアとベオルヴは一緒に叫ぶ。

「暴食の使徒よ、反逆者の咢を喰い千切れ! カレードウルフ!」

 紅蓮の業火が魔方陣から溢れ、狼のごとくベルゼバブの喉元に喰らいつく。

 歯車に挟まって動けないまま、ベルゼバブは火炎に包まれた。苦しげな断末魔が時計塔に木霊し、蠅の腐臭は焦げ臭いだけになる。

 やがて黒焦げの巨体は脚を失い、落下を始めた。

レティシアたちより先に最下層へと落ち、その墜落音とともに鐘の音が響き渡る。

 ゴーン……ゴーン……。

 撃退できたものの、満身創痍だった。

「一か八か、だったな」

 この状態でヴィレッタと戦うには、分が悪すぎる。

 すでにベオルヴはレティシアに力の半分を分け与えているうえ、先ほどもレティシアの蘇生で魔力を消耗した。ベルゼバブの猛攻を凌げたのは奇跡だ。

「エリオットが助けてくれたのよ、今」

「……エリオットが?」

 その名にベオルヴが、察したようにはにかむ。

「ここは地獄の入口なんだ。死んだばかりの魂が残っているのかもな」

 エリオットやシンシアに応えるためにも、ここで引き下がるわけにはいかない。

 レティシアとベオルヴは歯車を伝い、時計塔の底を目指した。

「死んだらみんな、こんなところに来てしまうの?」

「さあな。死んでみないとわからんさ」

 死にたがっているはずの彼にしては、冗談の乗りがいい。

 レティシアは嫌味にならない程度に皮肉を込め、王様をなじった。

「……さっきの怪物なら、お望み通り、あなたを殺してくれたかもしれないわよ」

「俺を殺してくれるのはお前だろう? ほかのやつに殺される気はない」

 ベオルヴがニヒルな笑みを噛み殺しながら、レティシアの頬にキスをする。

 調子が狂っちゃいそうだわ。

 そうするのがレティシアにとっても自然になっていた。鎖で繋がれるのではなく、温かいもので心を包まれるような感触が心地よい。

 しばらくして、底の大時計が見えてきた。ベルゼバブの死骸は時計の長針に刺さり、標本みたいに無残な有様となっている。

そこは上下が反転しておらず、大樹を中心とした墓場になっていた。目の前の大きな桜はピンク色ではなく、ノスフェラトゥの魔力を受け、鮮やかな青に染まっている。

「桜って、春の花じゃないの?」

「地獄に夏も冬もないさ」

 枝ぶりの直径は十メートルを優に超えていた。瘴気を遮って、桜の香りが濃厚に漂う。

 頭上には逆さまの魔城があり、周りには満天の星空が広がった。

流れ星が滝のように無限に落ちてくる。

「綺麗……」

「人間どもの魂が?」

トーンの低い声が、レティシアたちの不意を突いた。

 青い桜の木陰で、銀髪の少女がしとやかにハーモニカを奏でている。黒染めの着物にだけ、ピンク色の花びらが舞っていた。

「大したものね。兄様、レティシア。ベルゼバブを退けるなんて」

 ベオルヴとレティシアは咄嗟に構えたが、ヴィレッタのほうは微動だにしない。

「すでに魔具を手にしていたか……。百万の屍さえ支配する、それを」

「あのハーモニカがそうなのね」

 少女の口づけによって、銀製のハーモニカがぎらりと光る。

 緊迫感で肺の中の空気まで張り詰めた。プルートを握る手が震え、指は痺れついて感覚が怪しい。冷や汗が頬を伝い落ちる。

「落ち着け、レティシア」

 そんなレティシアの眼前を、ベオルヴの右腕が横切って制した。

「悪いがヴィレッタ、お前に人間の世界を荒らされては面倒だ。眠ってもらうぞ」

「私が荒らす? まだわかってないのね、兄様は。ほら……ご覧の通り」

 ヴィレッタの人差し指が星空を指す。

 濃紺の空で、流れ星は雨のように今なお降っていた。

「あれはすべて、くろがねの世界大戦で死んだ人間たちの魂なのよ。このままではいずれ地獄さえ氾濫し、生者と死者の境界線がなくなるでしょうね」

 レティシアの碧い瞳と紅い瞳にも、無数の流れ星が映る。

「これが……みんな、ひとの魂……?」

「バカな、多すぎる!」

 ベオルヴも目を見開き、星空の正体に驚愕した。

 くろがねの世界大戦の戦火は大陸全土に広がっている。それは軍事力によるもののみならず、レティシアの両親を処刑したような、大衆の悪意によるものもあった。

 ヴィレッタが魂の大波を見上げる。

「疫病や災害、差別だって、ひとを殺すわ。おかげで私の兵は無限ね」

 緋色の瞳が狂喜を孕んだ。

 ベオルヴの一族は死者を支配し、手駒とする権限を持つ。死者の数が増えれば増えるほど、屍の軍勢は拡大の一途を辿ることになるだろう。

「そうはさせんぞ!」

 桜の木を中心として、巨大な魔方陣が浮かびあがった。問答でヴィレッタの注意を引きつつ、ベオルヴが仕掛けておいたものらしい。

「待って、私も!」

「制御は俺がやる、思いきり解放しろ!」

 彼の左腕に代わって、レティシアも魔力を送り込む。

 魔方陣は腰の高さまで浮き、急速に縮んだ。その真中がヴィレッタを捕らえる。

 なのにヴィレッタは眉ひとつ動かさない。

「さすが兄様ね。魔力の強弱を別にしても素晴らしい技術だわ。だけど」

 彼女の魔力が逆流した途端、魔方陣に放射状の亀裂が入った。薄いガラスのように粉々に割れ、青い桜の花びらを散らす。

 ベオルヴは眉を顰め、舌打ちに屈辱感を滲ませた。

「いくら俺の力が半減していようと、王族の戦いは単純な力の上下ではないはずだ。一体何をした? ヴィレッタ」

「何もしてないわ。……どうしたの、これでおしまい?」

 ヴィレッタの視線がレティシアを挑発する。

「次はあたしがやるわ、ベオルヴ!」

 レティシアはプルートを振りかざし、その先端に魔力を集束させた。大型化した刃が空気を裂き、ヴィレッタにめがけて水平に稲妻を放つ。

 しかし渾身の雷撃も、命中寸前で彼女の結界に弾かれてしまった。

 ヴィレッタは余裕さえ浮かべている。

「ノスフェラトゥ・ハーフにしては、やるじゃない。プルートがこんなに肩入れするのも珍しいわ。クククッ、さすがは次期城主様」

 戦う前から結果は決まっていた。ただでさえ実力が半減しているうえ、こちらは満身創痍かつ疲労困憊で、ベオルヴに至っては左腕ごと大半の魔法を封じられている。

「まだ自覚がないみたいだから、教えてあげるわ、兄様。兄様はとっくに魔力の減退期に入っているのよ。レティシアに力を分ける以前からね」

「なんだと……?」

 ベオルヴは目を見開き、己のてのひらを凝視した。

「人喰いを下級種の下賎な行為としたところで、所詮、私たちは人を喰らう穢れた一族。人喰いを絶てば、力も衰えていくわ」

 人喰いはノスフェラトゥにとって本能であり、レティシアも一度体験している。

「食べるのを辞めたから、ベオルヴは弱くなったっていうの?」

「おそらくね。でも、原因はもうひとつあるのよ」

 旋風が生じ、青い桜の花びらが舞い散った。

「この十年間、兄様は人間の女に現を抜かして、骨抜きになったでしょう? ノスフェラトゥの王の貫禄なんて残ってないわ」

 十年間――その言葉にレティシアははっとする。

髪が伸びたな。

眠っている間も傍にいて、声を掛けてくれていたのは、誰だったのか。

お前はなんという名前なんだ?

バラの香りはお気に召さないか……。

 記憶にベオルヴの声が残っていた。レティシアの目覚めを心待ちにして、足しげく寝顔を見にきていたのだろう。

「腑抜けた兄様では、私には敵わない。そっちの女、レティシアもね。クヲンムラマサで斬られた以上、もはや不老不死ではなくなったもの」

 レティシアの胸の中で、心臓がささやかに鼓動を主張した。

 私もちゃんと死ぬんだわ。

それがいつか止まることを知り、安堵してしまう。絶望的な永劫の呪縛から、人間の心はやっと解放された。

 桜の木の周りに、大勢の気配が集まってくる。

「せっかく棺に閉じ込めておいたのに、誰かさんのせいで目覚めるから……」

 レティシアたちを囲んだのは、寵姫たちの成れの果てだった。腐った脚をひきずるようにして、青い花びらをかき分ける。

「みんな……」

 ヴィレッタへの怒りよりも、彼女らへの悲しみが込みあげた。

 王から血を与えられるほどには寵愛されなかった、ノスフェラトゥの姫たち。百番目の寵姫であるレティシアには、彼女らの怨嗟が嫉妬とともにつらく感じられる。

「ヴィレッタ、まさかお前は」

「兄様は黙っていて」

 荒ぶるベオルヴを無視して、ヴィレッタはハーモニカを咥えた。

 地獄には不似合いな、凛としたメロディが響き渡る。ハーモニカの優しい音色は桜の木に伝わり、幹から枝に掛けて、みるみる花びらの色が変わっていった。

 ノスフェラトゥの死の色である青から、爽やかなピンクへと。

 寵姫たちの屍も、ひとの顔と形を取り戻していく。

「ど、どうし、て……?」

 レティシアの視界は温かい光に包まれた。さながら舞踏会のように、清らかな魂の一団がより取り見取りのドレスを揺らす。

 シンシアが愉快そうにウインクして、レティシアを驚かせた。

「お世話になりましたわ、レティシア様」

「シンシアっ!」

 駆け寄って抱き締めようとしても、すり抜けてしまう。

 代わりにベオルヴがレティシアの肩を掴んだ。

「俺がずっと死の淵に留めていた魂が、浄化したんだ。……だろう? エリオット」

「その通りですよ、我が主」

 エリオットも羽根帽子の陰から現れ、肉のついた顔で小粋に微笑む。

 九十九人の寵姫とエリオットのほかに、サーシャ村でレティシアが喰らった老婆の姿もあった。そして、十年ぶりとなる懐かしいふたりも。

「……お父さん! お母さんっ!」

 父と母を見つけ、レティシアは大粒の涙を零した。人間の碧い瞳も、ノスフェラトゥの紅い瞳も、同じ娘の涙で氾濫する。

 処刑の寸前と違って、ふたりとも安からな笑顔だった。

「さようなら、レティシア。孫の顔が見られないのは残念だけど……」

 寵姫たちとともに、眩しい方向へと消えていく。

「ま、待って! 謝りたいことがあるの! 話したいことも! いっぱい!」

 レティシアは悲痛に叫んだ。

苦くてしょっぱい涙を飲みながら。

「お願い、置いてかないで! お父さん! お母さん!」

 けれどもベオルヴに後ろから抱き締められ、手を届かせることもできなかった。

「引き留めるんじゃない。俺と同じことはするな、レティシア」

「少しだけ! まだあたし、何も……!」

 駄々を捏ねるレティシアの前で、エリオットがお辞儀する。

「どうか泣かないで、レディー」

 優しすぎる道化に、ベオルヴは最後の命令を与えた。

「エリオット。レティシアの両親を送ってやれ」

「仰せのままに」

 シンシアが、エリオットが、両親が、美しい魂が真っ白な光に還っていく。

 桜の木は満開になり、ピンク色の花びらを降らせた。

「あああああああああああああッ!」

 レティシアの泣き声が魂の星空に木霊する。

 皆の温かさが胸に沁み込んだ。喪失感に苛まれながらも、人間らしく涙を流せることを実感する。化け物なんかじゃない、と自信が持てる。

「……泣き虫ね」

 ヴィレッタは演奏を終え、呆れていた。

エリオットや両親に会わせてくれたのは彼女であって、その素っ気ない態度も、不器用な照れ隠しなのかもしれない。

 レティシアが泣き止むまで、ベオルヴはずっと抱き締めてくれていた。

「死者の軍勢を作るんじゃなかったのか? ヴィレッタ」

「誰がそんな面倒くさいこと。……ったく、芝居まで売ってやったのに、おとなしく城で寝ていないから」

 桜の花びらが舞い落ちて、ヴィレッタの髪につく。

「魔具を取りに来たのも、この数の魂を慰めるのに必要だからよ。それだけ」

「……俺たちは無駄足だったわけか」

「そうでもないわ。寵姫どもの魂は、何年か掛けて鎮めるつもりだったけど……生きてる者に見送られてこそ、魂にとって弔いになるもの」

 彼女の視線がレティシアに差し掛かった。

「そっちの親やらはついでに、ね」

 真意を偽るところがベオルヴに似ている。ヴィレッタは墓守の使命を全うするべく、地獄までやってきたのだ。妖刀を振るったのも、きっとベオルヴやレティシアのため。

「ヴィレッタ、あなたは……」

「泣いていないで、さっさと脱出することね。年老いて死にたいのなら」

 不意に庭園が揺れる。

 頭上では逆さまの城が分解を始めていた。地獄の空間が歪む。

「フン。お幸せに」

 ヴィレッタは冷たく言い放つと、皮膜のない翼を広げた。桜の花びらをまといながら、弾丸のように飛び去っていく。

 呆然とするレティシアの手を、ベオルヴが引いた。

「もう俺たちではあいつを止められん。脱出するぞ、レティシア」

 レティシアは頷き、ドレスの袖で涙を拭う。

足元には桜の枝が転がっていた。

「帰りましょう、ベオルヴ」

 その枝とプルートを拾ってから、レティシアは最後の力で駆け出す。

 孤独を分かちあうように、ベオルヴと手を取りあいながら。

 

 さようなら、みんな。

 ありがとう、お父さん、お母さん。

 

ヴィレッタの残した軌跡が逆さまの城へと伸びており、最短の距離で進むことができる。邪魔な歯車や柱は、プルートで切り裂いてやった。

「急げ、レティシア!」

「ええ! 絶対に帰るわ!」

 崩れかかった回廊を一気に駆け抜け、湖の水面を目指す。

 クリスタルの魔城は崩れ、やがて地獄の空で大きな流れ星となった。

 

 

 山間から綺麗な朝焼けが差し込む。

 オレンジで始まったグラデーションは、みるみる鮮やかな青空の色になり、まばらな雲を下から照らした。霧が晴れた湖上の城にも、小鳥の囀りとともに朝が来る。

 レティシアとベオルヴは桟橋に腰掛け、居城を仰いでいた。黒水晶の屋根や壁面が朝日を受け、輝きを散らす。

 死の色だったバラは赤く色づき、生命力に満ち溢れていた。すべてのバラが情熱的な深紅に染まり、湖上の城を華やかに飾りつける。

「……美しいな」

 ベオルヴがぼんやりと呟く。

「赤など、血の色に過ぎんと思っていた」

「そうね……私もずっと忘れてたわ」

 レティシアも赤い花を眺め、早朝の涼しい風を堪能していた。

湖の水面が光を反射しながら、静かに波を打つ。そこに映っている逆さまの城は単なる映像に過ぎず、黙々と揺らいでいた。禍々しい気配はもうどこにもない。

命懸けで生還したことで、ふたりとも気が抜けている。

「こっちの城の権限は戻ってきたようだ。また霧を出しておかんとな」

 レティシアは靴を脱ぎ、足で水面を蹴った。

冷たくて気持ちがいい。

「泳いでみたいわ。教えて、ベオルヴ」

「……話を聞け。まあ、そのうち教えてやるさ」

 おそらくベオルヴは死ぬつもりだった。レティシアも取り残されるくらいなら、彼と一緒に死を選ぶつもりだった。ヴィレッタに勝てる自信もなく、殺されてしまえばいい、と心のどこかで諦めていたのかもしれない。

 だがレティシアもベオルヴも生き残った。ノスフェラトゥには厳しいはずの太陽が、今朝はとても温かく感じられる。

「部屋に戻るとするか」

「ここから、あの最上階まで行くの?」

 時計塔の最上階は遥か上。城主の権限でテレポートできるとはいえ、今朝のところは体力も魔力も残っていない。

疲れ果てたレティシアは昇る前から降参し、ベオルヴに縋った。

「どこの部屋でもいいじゃない。あたしたちだけなんだもの」

「それもそうだな。エリオットの部屋を借りるか」

 彼に手を引かれて立ちあがり、道化の部屋を目指す。

 城にはほかに誰もいなくなってしまった。雅やかな寵姫たちのティーパーティーは幻となり、閑散とした庭園には、赤いバラの香りだけが漂っている。

 エリオットの部屋の扉には、小生意気な猫のストラップが掛かっていた。

(シーツは替えておいたゼ!)

 大きなお世話が聞こえた気がする。レティシアは苦笑し、ストラップを抓った。

入室するや、ベオルヴが襟元のクラバットを外す。格式張った正装の隙間から肌がちらりと覗け、妙な妖艶さが醸し出された。

 意識し過ぎているせいだろうか。

「隣、座っていい?」

「構わんさ」

 彼と一緒にレティシアもベッドに腰を降ろす。

 家に帰ってきたかのような充足感があった。帰る場所など、もうないはずなのに。

 その安心感がレティシアに、当たり前の生活習慣を思い出させる。

「……お風呂、入りたいな」

「寵姫の自覚が出てきたな。なら、背中でも流してもらおうか」

「だ、誰が!」

 レティシアが真っ赤になって拒絶すると、ベオルヴはくくっと笑いを堪えた。

「冗談だ。まあ、身体を洗濯してしまいたい気分はわかる」

 手玉に取られて、悔しい。

しかし『まんざらでもない』などとも思ってしまう。

「……やっぱり入る。あなたと一緒に」

「そう意地になるな。風呂上がりに庭で干されでもしては、たまらん」

「あら? 昨日吊るしあげてくれたのは、誰だったかしら?」

 立場のないベオルヴが、無邪気な笑みを綻ばせた。

「悪趣味、だろう?」

 このひと、こんなふうに笑えるのね。

 彼の笑顔を愛らしいと感じたのは、初めてかもしれない。

 エリオットの手品道具から、ベオルヴは一本の短剣を手に取った。それをレティシアに渡し、淡々と囁く。

「好きにしろ」

 レティシアの手に、ベオルヴを殺す手段が握られた。

「お前から人間としての人生を奪ったのは俺だ。お前の両親を死なせたことに関しても、無関係ではないだろう。復讐したいなら、この場で果たすといい」

 ベオルヴにはノスフェラトゥの力がほとんど残っていない。不老不死ではなくなり、いずれ人間と同じように老いて死んでいく。

それはレティシアも同じだった。妖刀で斬られ、また大量に失血したことで、不老不死を維持できなくなっている。紅い左目はノスフェラトゥの名残となった。

「あなたはまだ、死にたいって思ってるの?」

 レティシアは短剣の刃を、ベオルヴの無防備な首筋に当てる。

「……わからん。ただ、願望を言うなら……残った寿命をお前とともに生きたい」

「しわくちゃのお爺ちゃんになるのよ? 私はしわくちゃのお婆ちゃん」

 ふたりは吐息が掛かる距離で見詰めあった。レティシアの瞳にはベオルヴがいて、ベオルヴの瞳にはレティシアがいる。

「そんなふうになったあたしを、永遠に愛せる?」

「さあな」

「そこは嘘でも『愛せる』って言ってよ」

「わかった、わかった。愛せるとも」

 ベオルヴは問答をすり抜け、レティシアを抱き締めた。純白のドレスに手を掛け、遠慮なしに脱がせていく。

「九十九人も愛人作ってたひとの言葉なんて、ンッ、信じられると思う?」

「死ぬまで言われそうだな。さすが百人目となると嫉妬深い」

 レティシアは短剣を捨て、彼に抱かれるままベッドで仰向けになった。傲慢な彼を篭絡できたのは、シンシアが選んでくれたドレスのおかげかも。

「あたしが殺すまで、死なないで」

 ベオルヴの鼓動を全身で感じる。吐息が熱い。

 自分も彼も生きている証だ。

「死なんさ。……いや、ふたりで生きよう。レティシア」

 心が満たされ、入りきらない分は瞳から溢れた。自然と涙が零れ、頬を濡らす。

「ひぐっ、なんで泣いてるのかしら、あたし……」

 嗚咽を漏らすばかりのレティシアに、ベオルヴが宥めるように囁いた。

「俺のせいだろうな」

「違うわ。あたしが勝手に泣いてるだけ」

「そう言うな。俺が理由でお前が泣いてるというなら、それはそれで気分がいい」

 ベオルヴのキスが頬に落ちて、レティシアの涙を味わう。

こんなに素直に泣いたのは、幼少の頃以来だった。あの時はハーブ棚を勝手に漁って、父に怒られ、母に泣きついて。

 帰れなくなった故郷の記憶が、レティシアに切ない望郷をもたらす。

「サーシャ村のみんなは大丈夫かしら」

「気になるか。だが、俺たちが出ていくのは得策ではない」

じきにサーシャ村でも魔女狩りじみた蛮行がおこなわれるかもしれない。

その責任の一端はレティシアにあった。ノスフェラトゥになったことを自覚せず、城の外に出てしまったせいだ。

「あたしが脱走なんてしたから……」

「いいや。俺が強引にでも止めておけばよかったんだ。時間の経過を知れば、お前はここへ戻らざるを得なくなる、と軽く考えていた」

 ベオルヴがレティシアの髪を手に取り、さらりと流す。

「綺麗な髪だな」

 少しでも間を空けようものなら、抱かれてしまう予感があった。レティシアはもぞもぞとドレスの裾を押さえつつ、まったく遠慮しないベオルヴを視線でなじる。

「同じこと、ほかの寵姫にも言ったんでしょ?」

「さて、どうたったかな」

 罪作りな王様は肯定も否定もしなかった。そこに多くの女性との関係が含められている気がして、百番目の嫉妬が燃えあがる。

 彼の一番の関心事は、自分であって欲しい。

「あたしが眠ってる間も、ずっと傍にいてくれたのよね? ベオルヴ」

 お返しに背中を撫でると、ベオルヴが緩やかに息を吐いた。

「楽しみにしていたのさ。お前の名前、お前の言葉、お前の仕草……田舎の村から拾ってきた人間の女が、どういったものか」

「失礼な言い方ね」

「文句なんぞ言わなかった、あの寝顔のほうが可愛げがあったぞ」

 ベオルヴもレティシアに触れ、撫でおろす。動きの読めない手つきがくすぐったい。

「王を堕落させようとは、とんでもない女だ」

 もっと満たされたくなった。彼にたくさんの血潮をもらった心臓が高鳴る。

「あなたはまだ、物足りなくって退屈?」

 ベオルヴは儚げな表情で、レティシアの真剣なまなざしに応えた。

「俺が死ぬことを望まなくなるくらい、楽しませてくれ」

「死にたいなんて寂しいこと、もう言わないで」

 何百年もの寿命を持っていたが故に、感情が希薄なノスフェラトゥの王。そんな彼に短命な人間の生き方を説いても、伝わらないのかもしれない。

 しかし彼には心がある。傲慢で、自尊心が強くて、そのくせ寂しがり屋で。人間の少女ひとりに固執して、彼もまた、王としての残りの人生を捨てる羽目になった。

「あたしが殺すまで、絶対に死んだりしないで」

「お前以外の誰かに殺されようなどとは、もう思わん」

 お互い、相手のほかに生きる理由がない。けれどもレティシアにとってベオルヴは、ベオルヴにとってレティシアは、真っ青な絶望を真っ赤な希望で染めあげてくれた。

 理由ならある。一緒に生きたい。

 これからはふたりで、歳を重ねながら過ごすのだろう。

「あなたは、老いて死ぬのが怖い?」

「どうかな……何しろ考えたことがないんだ」

 もう時間稼ぎはできない。純白のドレスを脱がされ、下着だけになったレティシアを、ベオルヴが愛しそうに抱き締める。

「あたしはちょっと楽しみよ」

 往生際の悪い唇は、熱いキスで塞がれた。

 

 

 

 エピローグ

 

 

 

 

 城の霧は薄くなり、日中の日差しを和らげる程度になった。ノスフェラトゥの存在を隠すにしても、今までのように百人も城にいるわけではない。霧は充分に機能している。

 レティシアは簡素なドレスを普段着にして、日々を過ごしていた。

 庭園の一角には墓がある。エリオットのしゃれこうべとともに、寵姫らの遺品を埋め、弔うことにしたのだ。毎朝ベオルヴが掃除をして、レティシアが花を添える。

 城での生活はふたりきり。炊事や洗濯はレティシアが担当し、ベオルヴは湖の底にある亡骸の供養に精を出していた。

「ベオルヴ! そろそろ夕飯にしましょ」

「もうそんな時間か? すぐ行く」

 夕焼け色の庭園を散歩がてら、彼と一緒に食堂へ向かう。

「早く終わるといいわね」

「……そうだな」

 黄昏の向こうで、くろがねの世界大戦は今なお続いていた。カレードウルフ共和国は瓦解し、ここがどの国家の領土にあるのかさえ、はっきりしない。

 サーシャ村はノスフェラトゥの事件をきっかけに、住民があちこちに移り、無人の山村となってしまった。

 レティシアとベオルヴにできることはない。まれに近辺に迷い込む人々を保護し、せめて物資を持たせてやるくらいだった。

 犠牲者の魂は、今も地獄に降り続けているのだろうか。

「ヴィレッタのやつは……また東にでも行ったかな」

 きっとどこかで、彼女のハーモニカが安からな鎮魂歌を奏でている。

 ヴィレッタがベオルヴとレティシアを急襲したのも、寵姫を全滅させたのも、すべてが悪意によるものではなかった。おかげでレティシアたちは呪いじみた寿命から解放され、新しい人生を歩みつつある。

「あたし、あの子ともっと色んな話をしてみたかったわ」

「また会えるかもしれんさ。運が悪ければ、な」

 食堂でベオルヴは先に席につき、レティシアの手料理を待った。

 今夜の献立はふかし芋とポタージュスープ、それから魚肉のサンドイッチ。城の食卓を豪勢に飾り立てていた寵姫たちのご馳走には、残念ながら遠く及ばない。

「もう少し何とかならないのか?」

 ベオルヴはそれが不満らしく、すっかり美酒を持て余していた。けれども田舎娘のレパートリーなど知れているし、レティシアにはまだ酒の味も理解できない。

「庶民の感覚でいったら、これでもディナーなのよ」

「料理の本ならあるだろう」

「あなたと違って、あたしは外国語はほとんど読めないの」

 レティシアには故郷の文字のほかに、ノスフェラトゥの文字しか読めなかった。東方のカンジとかいう複雑怪奇な字になると、数分のうちに眠気に屈してしまう。

「あなたが作ってくれもいいのよ、お料理」

「勘弁してくれ」

 文句を言いつつ、ベオルヴはレティシアの手料理をぺろりと平らげてくれた。食後は魚の骨を齧りながらワインを飲む、という不可解なことをする。

「酒の肴にもっとこう……わからないか? レティシア」

「王様のくせに、みみっちいこと言わないで」

 我侭な王様相手にレティシアも日に日に厳しくなっていた。力は対等なのだから、ベオルヴが一方的にレティシアを従えることができなければ、その逆もない。

 レティシアは緊張しつつ、グラスにワインをつぎ足した。

「大体ね、お料理は女の仕事って考えがよくないの。子育てまで押しつけるつもり?」

「……なんだって?」

 聡明なはずのベオルヴが首を傾げる。

「だ、だから子育てよ。あやしたり、抱っこしたりするの、あなたも」

「できたのか?」

 毎晩のように身体を重ねているのに、恥ずかしくなった。

 触ってみると、お腹がいつもより温かい気がする。

「……たぶん」

そんなレティシアをベオルヴが抱き寄せ、嬉しそうにはにかんだ。

「子孫ができたのなら、俺たちの寿命はじきに尽きる、ということか。はははっ!」

「大変なのよ? これから。あたしもあなたも死んでる場合じゃなくなるの」

 もうすぐ家族が増える。

 今はふたりだけのこの城で、子どもが生まれる。

 それはレティシアにとって願いであり、希望だった。

「いつか結婚式を挙げましょ、ベオルヴ」

「それは構わんが、誰を呼ぶんだ」

 まだ父親の自覚がないベオルヴに、レティシアが釘を刺す。

「家族。子どもたちに祝ってもらうのよ。その頃には孫なんかもいたりして」

「俺は子どもに兄妹婚をさせるつもりはないぞ」

「いずれあたしたち、この城を出る時が来るわ。そしたら子どもたちは人間と恋をして、結婚して、子どもを生んで……あたしとあなたは最後に結婚するの」

 ノスフェラトゥであっても、愛を知って子どもを作れるなら、人間と同じ時間の流れに乗ることができる。置き去りにされはしない。

「そいつは面白いな、レティシア」

「でしょ? でも、先はとても長いわよ」

 レティシアは自分のグラスにもワインを注ぎ、愛する夫とささやかに乾杯した。

「望むところだ。それ以上の暇潰しはない。……ふふっ」

 孤独に慣れすぎた王様が呟く。

「お前といると、退屈する暇もないな」

 

 

 

 戦後、ある老夫婦が小さな教会で式を挙げた。

 大勢の家族に囲まれ、幸せそうな笑顔だったという。

 

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