お人形が見た夢

ACT.1   ACE OF HEARTS

  人間が住む地上の裏側には、悪魔の住む地獄が広がっていた。地上とは重力が逆方向に働くため、私たちは逆さまになって、地表の裏側に立ってることになる。

地平線も地上とは逆になるわ。巨大なボールの内側で暮らしてる、というわけ。

 そこに太陽はなく、空は永遠の夜で満たされていた。

その夜空で星に見えるのは鬼火であって、人間の魂。地上で死んだひとの魂は、この地獄にやってきて、いつしか彼方へと消えていくの。

 でも陰鬱だったり、物悲しいといった雰囲気はなかった。地獄には悪魔や精霊、ほかにも人間以外の者が住んでいて、街だってある。

とりわけ私の住む『ネヲンパーク』は、街ひとつが丸ごとテーマパークになっており、地獄でも一際賑やかな場所だった。

街中をジェットコースターが走り、観覧車もまわってる。

ほかの地域では鬼火を照明にするらしいけど、ネヲンパークは近辺の雷雲地帯から電力を引くことで、煌びやかな七色の灯を湛えていた。

人間の世界からあれもこれも拝借しているおかげで、映画館ではいつでも最新作を観ることができるし、楽器やドレスも買える。地獄の通貨さえあれば、ね。

少し北には魔王アスモデウスの居城があり、ネヲンパークはそのお膝元として、ありとあらゆる娯楽が許されていた。むしろバカ騒ぎを奨励されてるわ。

そんなネヲンパークの中心には、北の魔王殿にもひけを取らない、荘厳なカジノが聳えていた。ネヲンパークの象徴として、街の管制塔の機能も持つ。

支配人の厚意もあって、私はそのカジノで暮らしていた。私室のほか、人形の身体に不調があれば、こうしてメンテナンス室の世話になる。

「すぐ直せそう? ジニアス」

「いつも外れてるところが、また外れただけだからねー」

私はカジノの制服を脱ぎ、下着だけの恰好になってから、手術台のような椅子に座った。左腕は外れ、肩から無数の糸が垂れたまま。

いつも修理を担当してくれているジニアスが、眉を顰める。

「あのさぁ、アンジュ。僕は男なんだから、そーいう恰好されると、困るんだって」

「仕方ないでしょ? ……困るって言うなら、じろじろ見ないで」

私は右腕で、気持ち程度に胸元を隠した。

人形の身体なんだから、見られても別に問題ない。汗をかくことさえないため、そもそも下着をつけることに意味がなかった。それでも、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 心臓の代用として仕込んである時計が、鼓動みたいに音を鳴らす。

 カチ、カチ、カチ……。

手袋も外すと、人形らしい人工的な可動部は、ほぼすべて露わになった。

「じっとしてなよ。すぐ済むからさ」

ジニアスが左目のゴーグルを光らせて、私のボディの点検を始める。

天才発明家を自称する彼のフルネームは、ジニアス=ゲイボルグ。雷雲地帯から電力を引いてきたのも彼であり、『天才』であることを疑う余地はない。

ただし稀代の変人でもあって、奇想天外な行動も目立った。ネヲンパークの郊外にラボを構え、普段はそこで妙ちくりんな発明ばかりしてるの。

天才を意味する『ジニアス』っていうのも、たぶんハンドルネームね。

彼は常にゴーグルで左目だけ保護していた。隠してる、といったほうが正しいかも。

見た目には二十歳に近いくらいの容姿だけど、地獄の住人に人間の年齢基準は当てはまらない。十歳くらいの女の子が実は百歳だった、なんてパターンもあるんだもの。

悪魔や精霊は人間よりも寿命が長い。

ジニアスもそのはずで、実年齢は私の知るところではなかった。

「なんならさ、僕の新作、左腕にしてみない? ランチャーも付いてるし」

「それで悪霊が追い払えるんなら、是非ともお願いしたいわ」

ジニアスが調整を終え、額の汗を手首で拭う。

「糸は何本か替えとくねー」

 人形の身体は、内部に張り巡らされた糸を一種の神経として、動きを制御していた。この糸は地獄の雨露が結晶化したもので、適度な硬さと柔軟性を併せ持つ。

 それ以上に人形のボディーは貴重であり、左腕のパーツにも替えがなかった。訳あって地獄では『人形』の制作や所有が禁じられている。

 さっきのアンティークドールも、今頃ディーンが処分してるはず。

私のボディーは左腕のパーツが欠けていたため、あるひとに借りているものだった。ジニアスが左肩の穴を覗き込みつつ、糸を器用に繋ぎなおす。

「はい、お待たせ。腕をつけるよ」

 仕上げに左腕が合わさると、感覚が戻ってきた。私の思った通りに指も曲がる。

「これって外れにくくするとか、できないの?」

「外れちゃうくらいがいいんだって。完全にくっついてると、いざ破損した時のダメージが大きくなるしね。それに、このほうがメンテナンスも簡単でしょ」

 ジニアスは私の左腕をコンコンと叩き、反応を確かめた。

「どう? 感覚ある?」

「ええ。ちゃんと感じるわ」

 痛みはほとんど知らない身体だけど、暖かさや寒さは大体くらいに感知できる。それは身体で感じているのではなく、私の『魂』が感じているんだとか。

 意外に不自由せず、この二年で、私は人形の身体にすっかり馴染んでしまった。しかし生身の肉体を知っているからこそ、不満もある。

 ひとつは食事。カスレとか、手の込んだ料理を作るのが好きなのに、自分で食べることができないんだもの。

 それから、もうひとつはヘアスタイル。人形の場合は、植毛の段階ですでにヘアスタイルが決められており、あとから自由に変更できない。おかげで私は子どもっぽいツーサイドアップ、通称『ツインテール』を余儀なくされていた。

「身体のことで悩んでるなら、いつでも相談に乗るよ、アンジュ」

「近いうちにそうさせてもらうわ。今日はありがとう」

 ジニアスに頼るという手もあるけど、重火器やらを積まれても困る。私は彼になあなあに返しつつ、仕事着でもあるブラウスとタイトスカートを手に取った。

「じゃあ、僕はラボに戻るからさ。エリザにもよろしく」

「伝えておくわ。またね、ジニアス」

 ジニアスがメンテナンス室を出ていくのと入れ替わりで、ディーンが入ってくる。

「よっ、ディーン。彼女のお見舞いってわけ?」

「そんなんじゃない。杏樹、もうい……」

 ディーンは私の着替えを目の当たりにして、さっと顔を背けた。

「ご、ごめん」

 しかしその顔を赤らめるのではなく、むしろ青ざめる。

 一瞬の沈黙が流れた。ここは私が悲鳴のひとつでも上げて、肌を隠すのが正しい。でもそれは、きっと彼のトラウマを逆撫でしてしまう。

 ディーンは女性の肌に嫌悪感を持ってるから。

「外で待ってて。すぐ着替えるわ」

「……………」

 私が柔らかく諭すと、ディーンは無言で部屋を出ていった。

 この造り物の身体でさえ、彼を動揺させる。決して興味や期待を抱かせるんじゃない。女性という存在は、彼に不安や劣等感を与え、苦しめることさえあった。

人形じゃなかったら、ディーンは私に近づこうともしなかったでしょうね。

そして私は、少なからず『意図的』に彼と曖昧な関係を続けてる。

人形の身体にも慣れて、着替えは楽々とこなすことができた。ツインテールが解けないため、上から被る服は着るのが難しい。だからこのディーラ服のように、両脇から閉じるタイプの服は都合がよかった。

ゴスロリ調のリボンは、個人的には必要なかった。しかし恩人でもある支配人、エリザの好みなので、諦めておさげの根元に飾っておく。

姿見に銀髪の女性ディーラーが鮮明に映った。華奢な身体つきは手足がほっそりとして、肌は色素が薄い。地獄では日焼けすることもなく、白磁のような光沢を放つ。

これが今の私、なのね……。

睫毛は長く、瞼が二重になっていた。瞬きも可能で、丁寧に植毛された眉まで動く。

顔はボディと色合いこそ同じだが、材質が異なり、より伸縮性を持っていた。おかげで表情を『それなり』に変えることができるの。

唇は薄いピンク色で染められ、中には綺麗な歯が揃ってる。舌もあるけど、残念ながら紅茶の味がわかるだけ。

白銀色の髪は、人喰い鬼のお姫様のモノを使ってるらしいわ。

この姿を見ていると、本当の自分を忘れそうになる。黒髪の両親から隔世遺伝的に生まれた、金髪の娘――朱鷺宮杏樹の容姿を。

メンテナンス室を出ると、壁際でディーンが顔をあげた。

「杏樹、これから仕事なんだろ?」

「悪霊退治じゃないほうのね」

「オレも行っていいよね、客として。暇だし」

 いつものように勝手についてくる。

 私も断るつもりなんてなかった。不愛想な王子様にテーブルを占拠してもらえば、仕事が楽になるもの。それに会話が弾むほどじゃなくても、彼と過ごすのは嫌いじゃない。

 ネヲンパークの象徴であるカジノは、フロアごとに古今東西のジャズが流れており、優雅なムードを演出していた。ワルツでも始まりそうな奥ゆかしい調べが心地よい。

「こういうのも弾けるようになりたいわ」

「こういうの『も』って……あんた、何も弾けないじゃん」

「言葉のあやよっ。目標は高いほうがいいでしょ」

 人形の指を動かす練習として始めたピアノは、まるで上達の兆しが見えなかった。一方でディーンはバイオリンが達者で、音を合わせてもらえないのが悔しい。

 ちなみに人形の私には肺がないため、吹奏楽器は一切演奏できなかった。呼吸も空気が出入りしているだけで、胸の時計と同様に意味はない。

 私の日常は地獄に来たことで一変した。

「杏樹は、さ……帰りたいって思わないの?」

 似たような境遇にあるディーンが、何気ない調子で囁く。自分にとって重要なことを、こうやって他人事みたいに淡々と話すの、こいつの悪い癖ね。

「あなたはどうなのよ」

「帰りたいに決まってるじゃないか」

彼は地上で暮らしていたけど、三年前、地獄へと強引に連れてこられた。

 そして私も二年前、事故によって地獄へと堕とされてしまったの。

生きた人間は重力が逆に働くため、地獄では『空に向かって落下』してしまう。私の肉体は地獄の夜空の彼方へと消え、魂だけが残った。二度と地上に戻ることはできない。

「あんたが帰れないの、オレのせいだけどさ……」

「それは言わないって約束でしょ?」

 でも、仮に地上に戻れたとしても、やりたいことがあるわけでもない。むしろ帰らずに済むことに、安心さえしてしまっている。

 だから私は、人形になっちゃったとはいえ、現状に概ね満足していた。

地上にいた頃は考えもしなかった日記を、毎日つけるほどに。

「チャンスはあるわよ。またジニアスに、地上行きの汽車を造ってもらうとか」

「あいつの発明品には二度と関わりたくない。なんだって、自爆ボタンなんかを……」

 ディーンが私にちらっと横目を投げ、不自然に距離を取る。

「この身体にはそんなの、付いてないってば!」

 と否定しつつ、私はジニアスに修理してもらったばかりの左腕を確認した。天才発明家の自爆ボタンで酷い目に遭ったことがあるのは、ディーンだけじゃない。

 ディーンは足を止め、回廊の窓から地獄の夜空を眺めた。宝石色のネオンが、夜の闇に抗いながら、テーマパークを輝きで満たしている。

「まあ……オレも今更帰ったってさ、父さんを殴るくらいしかねえけど。ここのやつらの言いなりにはなりたくないんだ」

 彼の焦燥感は、今でも急に燻ることがあった。そこに諦めの感情が混ざっているのに気づき、私は口を噤む。下手な同情はおそらく彼を傷つけるだけ。

「よう、ご両人……」

 そこへ諸悪の根源ともいえる人物が通りかかった。

ディーンの瞳に怒りが滲む。

「……こっちに来てたのかよ、あんた」

「なんだァ? お前を保護してやってる叔父サンに、冷てえなァ」

 ディーンの叔父に当たり、魔王アスモデウスの次男坊、それがこのデュレン=アスモデウス=カイーナという男だった。どこぞの国旗みたいに髪を三色に染めあげ、逞しい胸肌を広々と露出させている。人間でいうなら、二十代半ばくらいの印象ね。

 アイシャドウの入った双眸は、毒蛇のような殺意を秘めていた。

私を見詰める視線は睨んでいるも同じで、本能的な危機感が過敏に反応してしまう。

「相変わらずお人形さん遊びか。てめえもよく付きあってられるなァ、アンジュ」

 ディーンの手前、私は反抗心を堪えた。

「……人形ですので、お人形扱いには慣れてます。閣下」

デュレン『閣下』に形だけでも挨拶し、早足でやり過ごすことにする。

ところがデュレンは私の肩を掴んで、引きとめた。

「そう邪険にするなよ。おれとてめえは、敵対関係じゃないはずだぜェ……?」

ディーンの目の前で、わざとらしく私の背中に触れ、見せつける。

「杏樹に触るなっ!」

 ディーンは激昂し、叔父相手に怒号を張りあげた。しかし拳を力ませるだけで、怒りと同等かそれ以上の、悔しさを滲ませる。

「ちょっと触ったくらいで、がなるなよ。クックック」

 デュレンはディーンの葛藤を鋭く見抜き、あえて挑発した。にやにやと酷薄な笑みを浮かべながら、私のおさげを無断で梳きおろす。

「や、やめてください。私は……閣下の人形ではありませんので」

 私は嫌悪感を堪えきれず、デュレンを押し返してしまった。

「おっと、そうだったなァ。そもそもてめえは『人間』だ、おれの玩具ではあるが、部下じゃあない。あと、好みでもねえ」

 けれどもデュレンは余裕を崩さず、不敵にやにさがるばかり。実質的に魔王の立場にありながら、膝をつき、私の右手に謝罪の口づけを残す。

「こいつでチャラだ。……いいだろォ?」

「え、ええ……」

 高圧的ではあるのに、決して私をぞんざいに扱うことはしない。むしろ、ディーンの前では私をひとりの女性とみなし、紳士的に振舞った。ディーンへのあてつけ、ね。

「そのキレーな髪で首を絞められたくはねえからなァ。ヒヒヒッ!」

「そんな機能はありませんよ」

「喩えだよ、喩え。てめえが悪霊をしばき倒せるのも……まあいい、ところで」

 デュレンは立ちあがると、上から目線で甥のディーンを見下ろした。ディーンの背丈も170センチはあるけど、相手はさらに十センチも高い。

「まだ帰りたいなんて思ってやがったのかァ? ディーン」

「当たり前だ。オレは魔王になんかならない」

 正面切って睨みあうふたりの顔つきは、どことなく似ていた。切れ長の瞳も、整った鼻の筋も、頬に掛かる唇の角度も。

 事の発端は、ディーンの父親だった。魔王アスモデウスの長男で、デュレンの兄であるその男は、人間の女性と恋に落ちたの。

 息子を跡継ぎにするつもりだった魔王アスモデウスは、結婚に猛反対したわ。

 そこで長男はひとつの妥協案を提示した。自分に代わって、将来生まれてくる子どもに魔王アスモデウスを継がせる、と。

 その条件は承諾され、次男のデュレンが立会人となった。そして三年前、長男の息子であるディーンが次期魔王として、地獄へと連れてこられた……というわけ。

 魔王アスモデウスは隠居しているも同然で、ほとんど表に出てこない。実質的にデュレン=アスモデウス=カイーナが、その任務に当たっている。

「楽しんじまえばいいのによォ……ここじゃあ、てめえが王だ。魔王らしく、悪魔の娘を片っ端から『お試し』しちまうとか、なァ?」

「……誰がっ!」

 甥っ子の顔に触れようとした叔父の手を、ディーンは強情に振り払った。彼にとっては勝手な約束をした父親こそ許せないが、デュレンも許せない理由がある。

 まだ私が地獄にいなかった頃のこと。デュレン=アスモデウス=カイーナは甥っ子に魔王を継がせるべく、ディーンに悪魔の寵姫らを差し向けたらしい。

 要は女の色香で篭絡しようとしたのね。

 だけど当時のディーンは、まだ性に疎いこともあって、それを『恐怖』と感じてしまった。そのせいで、女性に強迫観念めいた苦手意識を持つようになってしまったの。

 デュレンは不埒な酷笑を浮かべた。

「女どもはてめえのことが気に入ってんだ。今からでも遅くないぜェ? 本当は味見したくて、たまんねえんだろォ? ケケケ!」

「いい加減、黙れよッ!」

 憤怒に呼応し、ディーンの黒髪が赤く染まる。

勢いそのままにディーンは拳を振りあげ、デュレンに殴りかかった。ところがデュレンにあっさりと受け止められ、逆に腕を捻りあげられてしまう。

「地獄に来て三年も経つのに、弱ェなあ……。こうしたかったの、かっ?」

 直立の姿勢で伸びきったディーンのみぞおちに、強烈なストレートがめり込んだ。

「ぐはあっ!」

 ディーンの身体が『く』の字に折れる。

 それでもデュレンは容赦なしにディーンの襟ぐりを掴みあげた。苦痛に歪むディーンの顔を、べろりと獰猛に舐める。

「知ってるかァ? 野郎ってのはな、蹴られるより、殴られるほうが屈辱なんだよォ」

「げ、げほっ、ごほ……や、やめろ……き、気色悪ぃ……」

 もう見ていられない。

「それ以上続けるなら、私はディーンにつきます!」

 私はトランプを高速でシャッフルしつつ、正面に魔方陣を展開した。人形の身体が青白い電流をまとうように帯び、火花を散らす。

 雷撃の魔力が高まるごとに、回廊の窓がガタガタと揺れた。これだけの大魔法をここで放てば、カジノが無事では済まないのは、わかってる。

 まともに戦えば、間違いなくデュレンのほうが強いこともわかっていた。

「おいおい、おれごとこいつも消し飛ばす気かァ? 勇ましい女だぜ、てめえは」

「……くっ」

 でもディーンを見捨てることなんてできない。今だけ警告になれば、それでいい。

 デュレンは私とアイコンタクトを交わすと、ようやくディーンを解放した。ポケットに両手を突っ込んで、苦悶に伏すディーンを、冷ややかに見下ろす。

「女に庇ってもらってちゃあ、世話ねえよなァ」

「はあっ、はあ……」

 ディーンは呻くだけで、もう強がる余力もなかった。

 私は内心安堵して、魔方陣を解く。

「アンジュのほうは、たったの二年で上達しやがったなァ。人間の女ってのは、飲み込みが早ェ。そのうちアンティノラ級と戦わせてやるぜ、クーックククッ!」

 デュレンは高笑いを残し、いけしゃあしゃあと去っていた。

 緊張感から解放され、私もその場で膝をつく。

……嫌な汗かいちゃったわ。

 人形の身体で汗なんてかくわけないけど、そう錯覚するくらい、私は剣幕を張っていたみたい。肺がなくても、唇を灼けた息が出入りする。

「大丈夫? ディーン」

 ディーンは屈辱に顔を顰めつつ、よろよろと起きあがった。私が支えようとすると、反射的に距離を取りたがって、余計に表情が歪む。

「……ごめん。杏樹まであいつに、目ぇつけられちゃって……」

「前からつけられてるわよ。それに、あのひとが最低ってことは、私も同感だから」

 それほどに傷つき、弱っている彼に、触れることはできなかった。撫でることも、抱き締めることも許されない。彼のトラウマは、いつだって私を遠ざける。

 でも今は、彼を慰めないほうが正しいのかもしれなかった。

デュレン=アスモデウス=カイーナは悪魔的かつ残酷な頭脳の持ち主であり、ディーンを追い詰める手もいちいち狡い。

まずは目の前で女を奪い、激怒させる。

次に力ずくでねじ伏せ、女に庇う真似をさせる。

そのうえで女に慰められようものなら、男のプライドはズタズタになるわ。

何よりデュレンという男は、私に秘密の命令をくだしていた。

『ディーンをおだてて魔王にしろ。成功すりゃ、人間の身体を用意してやる』

 この私、朱鷺宮杏樹は、デュレンによって送り込まれた寵姫でもあるの。一触即発のムードも、私にディーンを慰めさせるための演出、という可能性があった。

 デュレンに従うつもりなんてない。ディーンを苦しめるのは嫌だし、報酬の身体というのも胡散臭いものね。ほかの人間の身体だけ強奪してくるのが、目に見えている。

 私は腕組みを深め、毒づいた。

「いっそ、あの男が魔王になればいいと思わない?」

ディーンも舌を吐く。

「あいつが魔王になるくらいなら、オレがなってやるさ」

「自棄にならないで。もう行きましょうか」

 彼と一緒に、改めて私は仕事場へと向かった。窓のガラスが割れていないことにほっとしつつ、ディーンとアーチをくぐっていく。

「魔王はともかくとして……あいつより背が低いの、気に入らない」

 ふとディーンの視線が私の頭上に差しかかった。

人形である私の背丈は、155センチから1ミリと変わることがない。

「杏樹の背はだいぶ離せたけどね。ほら」

 この二年でディーンの背はかなり伸びてる。いつの間にか、私のほうが見上げる角度が当たり前になってしまった。

 人間だった頃の私なら、160センチはあったんだけど……。

「ディーン、私の人間の姿って、どんなだったと思う?」

「そんなの考えたことないよ。今のその姿が、オレにとっての杏樹なんだし」

 二年前、私はごくまれに発生する『アビスゲート』という現象に巻き込まれた。地上と地獄を突発的かつ一時的に繋げる、いわばトンネルよ。

 地獄は逆さまになってるから、さらに下層は、私たちの遥か上空にあるはずだった。私の身体はそのあたりまで『堕ちた』のかもしれない。人形として生きることを余儀なくされた私には、身体が成長するような機会も二度となかった。

でも、ほかのひとの成長を傍で見守ることはできる。

「あと10センチは遠いわよ、ディーン」

「まだ伸びるかもしれないだろ」

 どうか、これ以上は身長に差が開きませんように。

 

 

 私たちは冷めやらぬ熱気と興奮を優美に彩った、カジノのメインホールへ。ネヲンパークが有するカジノは、さながら王宮のように絢爛。

メインはカジノだけど、ビリヤード場やドリンクバーもあり、パーティー会場まで完備している。支配人の趣味もあって、月に一度はダンス会も開催されてるわ。

床には曼荼羅模様の絨毯が敷かれ、人々の足音を打ち消していた。その摩訶不思議な模様のループには、ギャンブルを白熱させる催眠効果もあるとか。

天井ではシャンデリアの群れが輝きを放つ。

奥の壁面には大きな針時計があり、1から7までの周期で時間を刻んでいた。その下は壇のステージになっており、煌びやかな楽隊がジャズを奏でている。

ゲームは定番のポーカーから、ルーレットにダーツなど、実にさまざま。

 地獄の悪魔たちはここでゲームに興じ、一喜一憂していた。賭け事に挑んでるというより、娯楽の一環として嗜んでる印象ね。上級の悪魔ほど、その傾向が強い。私も賭け事には肯定的になれないから、さほどお金のやり取りにならないことには安心してる。

不意にスロットマシンがじゃらじゃらとコインを吐きだし、注目を集めた。大当たりを引いたのは悪魔のお客さんではなく、死者の霊魂。

生前に遊び足りなかった人間の魂も、カジノのお客さんに紛れ込んでるの。姿がおぼろげだったり、顔がなかったりするけど、『そこにいる』のは確かみたい。

大時計の下の楽隊にも、ひとり混ざってるわ。

もとより地獄は、死んだ人間の魂がやってくるところだもの。ちょっとした心霊現象は日常茶飯事で、みんなも慣れていた。

私はまだ慣れないけど……。

これはネヲンパークなりの、魂の慰め方でもある。静粛に冥福を祈るやり方のほうが一般的で、地獄でも余所はそうしてるらしいけど、ネヲンパークは手法を変えた。

地上の人間が故人を弔うにしても、国や土地によってやり方が違うでしょ。私の故郷では当然の火葬が、余所では『死者を火あぶりにするなんて』と嫌悪されることもある。

魂と一緒にゲームで盛りあがるのが、ネヲンパークの流儀というわけ。利益をあげるためのカジノ経営ではなく、魂を慰め、清めることが第一の意図だった。

……やっぱり単に遊びたいだけかもしれないけど、ね。

カジノではゲームごとに専門のディーラーが進行を務める。この私、朱鷺宮杏樹もまたひとりのディーラーとして、ブラックジャックを担当していた。

向かいの客席は大抵、ディーンが独占してる。

「指名があっても、行かないでよ」

「人形を指名したりする酔狂なお客さん、いないってば」

「どうだか。あんたが人形だって、知らないやつもいるし……」

どうにもブラックジャックは不人気らしくて、閑古鳥が鳴いているのをディーンが占拠する分には、暗黙の了解も働いていた。これならほかの従業員が、王子様の応対に気をまわすこともないでしょ。

 ただし私とディーンがこうしているだけでも、カジノ場では目立つ。

 片や魔王の孫であり、それはみんなの知るところ。

一方でディーラーのほうも、この場に似つかわしくない異質な存在感を放っていた。

白のブラウスと、黒のタイトスカート、燕尾のついたベスト、ストッキング、それから蝶ネクタイ。これを身に着けているのが、おさげの愛らしい少女なんだもの。

グラマラスな美女が着てこそのディーラー服が、コスプレ衣装になっちゃってるようなチグハグ感。我ながら自覚はしていた。

だけど私としては、ドレスよりもディーラー服のほうが気に入ってたりする。ゴシックドレスは普段着にするには重いし、関節にフリルが挟まったりするのよ。

それに対して、ディーラー服は優秀ね。腕はブラウスの長袖があるくらいで、燕尾つきのベストもノースリーブのため、肩や肘を動かすのが楽。

下半身はストッキングが関節を適度に保護しつつ、生地が張っていて丈の短いタイトスカートも、邪魔にならなかった。

手袋も薄く、トランプを自在に捌くことができる。

ただし残念なことに、このディーラー服を普段着にしていたら、ゴスロリ趣味の支配人に怒られてしまった。

 そんな私と、魔王の孫とのツーショットは、ひとを遠ざけこそすれ、近づけることは滅多になかった。ディーンが自分のグラスにサイダーを注ぎ、私に向ける。

「乾杯。別に何の記念でもないけどね」

「……ええ、乾杯」

 私もアイスティーのグラスを傾け、その角をチンと鳴らした。

 カジノでの飲食はドリンク類のみ許可されており、酒類も豊富に揃ってる。お酒のことはよくわからないけど、洋酒が多いみたいね。

 悪魔の娘たちがバニーガールとなって、注文を受けたり、運んだりしている。

 ディーラーの私は時々、気まぐれな死者の魂とブラックジャックに興じるくらいだった。こっちももとは人間だからなのか、魂は私に親近感を示すことが多い。

 それをディーンは頬杖ついて眺めてる。

 ブラックジャックは持ち札の合計を『21』に近づけるゲームよ。ただし22以上になってしまったら、その時点で負け。相手の出方を窺い、時にはハッタリを利かせるのも立派な戦略で、醍醐味だと思うわ。

「こ、こっちは悪くないわよ。そっちは引かなくていいの?」

 駆け引きの言葉には含みをたっぷりと込めて、心理戦に持ち込む。ただし相手は幽霊だから、ちょっぴり怖い。

ここで二年間ゲームに興じてきた経験上、『引いたほうがいいわよ?』より『引かなくていいの?』のほうが相手を惑わせるらしい。不安を煽ったほうがいいってことね。

隣で勝負を眺めているディーンは、この手のゲームが弱かった。

「あなたも勝負しない?」

「嫌だね。杏樹が勝つに決まってる」

 魔王アスモデウスの孫として、ギャンブルに関して妙な才能を持っているのは確か。スロットのリールは呆気ないほど簡単に揃うし、ルーレットもドンピシャよ。

 一方で、相手との駆け引きが鍵となる勝負では、負けが込んだ。私もカード勝負で彼に敗れたことはほとんどない。

何でもかんでも顔に出ちゃうのよ、ディーンは。

 裏を返せば、それは『嘘をつけない』ということ。だけど、嘘や欺瞞が交錯する地獄の世界で、彼の純朴さは徹底的に裏切られた。

 両親が自由を得るための捨て駒にされ、色香で強引に篭絡されそうになって。今では口数も少なくなり、私やジニアス、あとは支配人としか、ろくに言葉を交わさない。

 ディーンはサイダーにあまり口をつけることなく、時間だけが過ぎていった。炭酸の弾ける音がなくなる頃には、お客さんの顔ぶれもだいぶ変わってる。

 時間を忘れそうになるわね……。

 壁の大時計には1から7までしか数字がなかった。

そもそも夜が明けることのない地獄では、時間を数えることに意味がない。このカジノのみならず、ネヲンパークには開店時間や終業時間という概念さえないの。

私たちは気の向いた時に働いて、お客さんも気の向いた時にやってくる。ところが、そんな調子でもネヲンパークはテーマパークとして機能していた。

 今が何月何日で、何時何分なのか、正確なことは誰にもわからない。ただ漠然と、地上は夏だとか、今は冬らしい、という噂で見当をつける。

 私にとっては、数字の足らない大時計より、ディーンの腕時計のほうが頼りになった。彼の左腕で、小さな針が地上の時を数えてる。数字もちゃんと12まであるわ。

「電池は大丈夫? それ。そろそろでしょ、こっちで充電しておくわよ」

「……そうだな」

 ディーンは腕時計を外し、テーブルの上に静かに置いた。直接手渡したら、私に『触れて』しまうかもしれないものね。

「ジニアスには触らせないでくれよ」

「しないってば、そんな自殺行為。じゃあ借りるわね」

 地上の、私の留学先でもある西洋は今、昼下がりのようだった。行方不明扱いで二年も経っているから、学校には籍も残ってないはず。

 慣れない外国の街で、時計塔をぼんやりと眺めていたのを思いだす。

 間もなくカジノの大時計が、長針を真上に向けた。ジャズが途切れ、荘厳な鐘の音がメインホールに響き渡る。その音色はおそらくネヲンパークの端まで届いていた。

 鐘が鳴りやむと、大時計の正面が開いていく。従業員は一様に起立し、私とディーンも立ちあがって姿勢を改めた。

 時計の中から姿を現したのは、ドレスからして豪奢な人形。二十代後半の女性を剥製にでもしてしまったかのような、奇妙さと美しさを兼ね備えている。

 髪は貴婦人らしく後頭部で盛りあげ、耳元を梳いていた。イヤリングは大玉のエメラルドを揃え、ネックレスとともに輝きを散らす。

 決して大きくはない胸元は、デコルテで妖艶に引き立てられていた。

佇まいのしとやかさが、女の魅力と品格を同時に高めてる。仮に私が同じ恰好をしても決まらないことは、想像に容易い。

深緑色のドレスがスカートを揺らし、華やかなフリルの群れで足元を払う。

彼女の動きは機械的で、一切の無駄がなかった。私とは違い、誰が見ても『人形』だと一目で判断できるほど。

「聞け、みなの衆」

 しかし口を開いたのはほかでもない、その人形だった。

 エリザ=キリエム。彼女は魔王アスモデウスよりネヲンパークの統治を一任され、実に六十年もの間、支配人の座に就いている。七十年前、最初の死神となった七人のひとりで、『ナンバー7』とも呼ばれてるそうだわ。

 エリザは両腕を広げるような素振りで、右腕だけ掲げた。その身体に左腕はない。

「そなたらの踊りを見とうなった。ダンスパーティーをしようぞ!」

 カジノで拍手が巻き起こる。

 私もつい笑みを浮かべ、拍手に力が入ってしまった。

 やったわ! パーティーが楽しみ!

 まれにエリザはこうしてカジノに現れ、ダンスパーティーを宣言した。その場に居合わせた者は、従業員であれ、お客さんであれ、ダンス会でひとつの特権を与えられる。

 前回のダンスパーティーでは出番が少なかっただけに、嬉しい。

 しかしディーンは乗り気じゃない面持ちだった。エリザの開会宣言を聞いた以上、パーティーには必ず出席しなくてはならないから。

 とはいえ、なるべく会場で目立たずに済ませる方法もあった。私は人差し指を立て、ちょっと得意になって提案する。

「ディーン、私と一緒にお料理しましょ。私だと味見ができないもの」

「いいよ、それで。杏樹のカスレが食べたいな」

 ディーンもほっとしたように口元を緩め、はにかんだ。

 給仕や楽器演奏でも、パーティー参加の面目が立つ。エリザも楽しめない者には無理強いせず、ある程度の口実は許された。要は主催者に失礼にならなければいいの。

 ただ、ひとつ厄介なのは、開催の日程や時刻が曖昧すぎること。

「この短針があと十周したら、宴じゃぞ。準備をしておけ」

 そもそもネヲンパークで『時計』と呼べるものは、このカジノにしかなかった。エリザのコレクションみたいなものね。

カジノに来ないひとには、時刻を知る手段がない。

 従業員やお客さんだって、日がな一日ここにいるわけじゃないわ。

 地獄ではそれが普通らしいけど、私やディーンみたいな『人間』には、なかなか馴染めない習慣だった。おまけにエリザ自身、時間を勘違いすることがある。しかも自分の都合に合わせて針を早めたり、遅らせたりもした。

幸い私たちにはディーンの腕時計がある。数字が7までの大時計とは、一分の間隔も少し違うけど、大体の目安をつけることはできるわ。

骸骨の執事がダンスパーティーの優待チケットを配ってまわる。

 私とディーンもチケットを受け取った。逆にこれがないと、たとえ魔王であっても入場を制限されるため、デュレンに邪魔される心配もいらない。

「確かに伝えたぞ。ではダンスパーティーで……おお、そうじゃ、アンジュ」

 エリザが去り際、私を呼ぶ。

「あとでわしの部屋に来い。お茶をしよう」

「ええ。喜んで」

 私はカードテーブルから歩み出て、彼女に一礼を捧げた。

 エリザの姿が大時計の向こうに引っ込むと、俄かに騒がしくなる。

「こないだ買ったドレスに合う靴、探さなきゃ!」

「そっちの魂ども、わかってんのか? パーティーまで消えずにいろよー」

 みんなしてダンスパーティーの話題になり、ゲームどころではなくなってしまった。エリザの気まぐれで始まる、ネヲンパークのビッグイベントだものね。

 死者の魂まで浮かれてる。

「ディーン、どうする? 私はエリザのところに行くけど」

 これではもう仕事にならないから、私は一足先にあがることにした。ディーンが炭酸の抜けたサイダーを飲み干し、息を吐く。

「オレも行こうかな」

「前みたいに女の話になるかもしれないわよ?」

 正直な顔がげんなりと曇った。

「……やめとく。ジニアスのラボでも冷やかしに行って、そのまま魔王殿に戻るよ」

「そう? じゃあね。また明日……っていうのもおかしいけど、明日に」

 引きあげるついでに、私はふたり分の空いたグラスをさげておく。

 

 

 エリザのお誘いはいつだって唐突で、私に準備の暇を与えてくれない。以前にもドレスを支度しているうちに、エリザが気まぐれを起こし、出かけてしまったことがあった。

 そのくせ、あとになって『なぜ来ないのじゃ』と怒ったりする。

 だけど生まれた時から人形の彼女が、私たちとズレているのは仕方ない。

エリザ=キリエムは、私のように人間の魂が乗り移った人形ではなかった。正真正銘、唯一無二の『生きた人形』なの。

私は歯車の駆動が剥きだしのエレベーターに乗って、カジノの最上階に直行する。

 そこにはエリザの執務室と、寝室と、衣裳部屋があった。衣裳部屋がもっとも大きく、執務室はもっとも小さい。支配人がこれでいいのかしら。

 さらに屋上には、地獄の夜空の下、芳しい庭園が広がっていた。人形のボディーに嗅覚はなくても、私の魂がその芳香を感じ取る。

 ラベンダーやストックなど、花壇の色合いは青系で統一されていた。エリザはドレスには緑を、花には青を好む。

 彼女はすでに席について、執事の骸骨さんにお茶の支度を命じていた。私の気配にいち早く気づき、一度は声を弾ませる。

「もう来おったか、アンジュ。……ん?」

 しかし私の服装を見るや、おそらく顔を顰めた。私のように表情筋の機能がないため、

エリザの感情を視覚的に読み取るのは、相当難しい。

「また仕事着でうろうろしおってからに。ドレスはどうしたのじゃ?」

 ここは職場なんだから、仕事着でいるのは普通なんだけど……。

「早くエリザに会いたくて、急いで来たのよ」

 席につく前に、私は深々と頭をさげる。

 半分は本当よ。気まぐれな彼女に合わせるなら、迅速に動かなくちゃいけない。

 もう半分は、部屋に戻ってドレスに着替えなおすのが面倒だったから。エリザとお茶会なんて予定は、ついさっきまでなかったんだもの。

「まあよい。そなたのドレスは、ダンスパーティーの楽しみにしていよう」

 エリザは淡々と語りつつ、読みかけの本を閉じた。右手しかないため、本が傷まない程度に文鎮を併用している。

 執事が椅子を引いたところへ、私はしずしずと腰を降ろした。

「アンジュ様は何をお召しあがりになりますか?」

「えぇと……ホットのレモンをください」

 さっきもアイスティーを飲んだばかり、とは言いだせない。

 しばらくして、彼(彼女ではないらしい)が私にレモンティーを、エリザにはいつものダージリンを持ってきた。私のレモンティーのほうが、琥珀色の明るみが強いわね。

 地獄の空気は冷えるから、屋外ではアイスではなくホットが定番だった。まずはエリザが味見程度に口をつけ、満足そうに微笑む。

「……うむ。落ち着くのう」

 私もレモンティーを味見してみた。柑橘系の爽やかな旨味が口の中に広がって、人形であることをつい忘れそうになる。

「美味しいわ」

人形の私たちでも楽しめるように、香りも強くしてくれてるみたい。

 紅茶の味がわかるのは、天才発明家ことジニアス=ゲイボルグのおかげ。お茶会の主催者として、エリザは紅茶を切に飲みたがり、それをジニアスの発明が叶えた。

 茶飲み友達として、私にも同じ機能が搭載されている。飲んだお茶がどこに消えるのか、不思議ではあるけど。

 人間みたいにお茶を楽しめるから、エリザとの会合は欠かせない。

 カジノの屋上からはネヲンパークを一望することができた。もっと高い位置には観覧車があって、ゴンドラを緩やかに運びあげては、降ろす。

 急にジェットコースターが線路を駆け抜け、鬼火の群れを驚かせた。宙返りするような軌道を描き、地獄の夜空を騒がせる。

 一度だけディーンを無理やり乗せて、遊んだわね……。

 エリザは紅茶の香りを仰ぎつつ、ぽつりと呟いた。

「妙じゃな……また魂どもが怖れておる」

「罪人の魂が逃げだしたりしたんじゃないの?」

「そうではない。そなたは感じぬか? あれじゃ、胸騒ぎというやつを……」

 私たちの胸に心臓はなく、代わりに時計が埋め込まれている。それは持ち主の感情に合わせて、秒針の速度を変えるだけのもの。

 カチ、カチ、カチ、カチ。

時間を計るものじゃない。エリザが鼓動がないのを虚しく思って、入れてるだけ。

「なんだか、よく早くなっちゃうのよ。私の時計」

「よいことじゃ。やはり、そなたには『こころ』があるんじゃろうて」

 彼女の穏やかな言葉が、胸の時計に染みた。

 私には心がある――。

 私の魂は、死によって肉体から分かたれたのではなく、悪魔によって一時的に抜き取られたのでもない。極めて不安定な状態であり、仮の器が必要だった。

 この人形の身体も、心臓の代わりになっている時計も、エリザに貰ったものばかり。私の素体には欠けていた左腕だって、彼女が不憫に思い、貸してくれてるの。

「わしの腕に不備はないか? 外れやすいと聞いたぞ」

「大丈夫よ。ジニアスがわざと外れやすくしてるみたいだし」

 私は手袋を外し、その左手でグーやパーを作ってみた。内部では指先まで糸が伸びており、私の意志が完璧に動きに反映される。

「あなたのほうこそ、不便はない? 私ばかり融通してもらって悪いわ」

一方でエリザは、左の袖を垂らしていた。地獄では『人形』の制作が禁止されているため、替えのパーツがない。

「気にするでない。こうしてわしの茶に付きおうてくれれば、な」

 にもかかわらず、彼女は我が身を一笑に伏した。

「それにじゃ、ジニアスのやつが替えの左腕を色々持ってきおってのう。この間の、ジャバラゆうんは傑作じゃったぞ」

 私と違って、糸一本でほかの腕を自由に付け替えられるし、魔法も達者だから、さほど不便はしていない様子ね。腕を借りっ放しの私も、肩の荷が降りた気持ちになる。

 しかしエリザはネヲンパークの支配人として、私に釘を刺した。

「ところでそなた、さっき、第5か第6サークルの魔法を使おうとしたじゃろ? カジノを吹き飛ばす気か」

「ご、ごめんなさい。カッとなっちゃって……」

「精霊に教わった魔法を街で使うのは、禁止じゃぞ」

 高圧的な命令系で、私に有無を言わせない。でも彼女の言うことは正論だわ。

 謝る立場として、私はレモンティーに口をつけにくくなってしまった。向かいのエリザは悠々とダージリンを味わいながら、青い花壇に視線を差し込む。

「……にしても、デュレンにも困ったものじゃな。魔王なんぞ、あやつが継いでしまえばよいものを。支持者も多かろうて」

「あのひとの性分には合わないんじゃないかしら」

 魔王アスモデウスの後継者問題には、エリザも辟易していた。デュレンがディーンに押しつけ、ディーンは拒絶するという堂々巡りを、もう三年も繰り返している。

 ふと、汽笛の音が聴こえた。ジェットコースターのものとは別に地面に伸びている線路を、古めかしい汽車が駆けあがってくる。

 先頭車両の煙突が灰色の蒸気をもくもくと噴きあげた。電力を供給されているのはネヲンパークくらいのもので、地獄では蒸気機関が用いられることが多い。

 北の魔王殿へと向かう、その汽車こそ、罪人の魂を連行するための足だった。地上のありとあらゆる地下鉄線と繋がってるの。

 汽車は地上に出ては、まだ生きている罪人たちの魂を、手当たり次第に回収した。

 彼らに与えられる猶予は、四十九日。その間に更生を果たせなければ、死神によって厳粛に……処分されるわ。

「大戦はとうに終わったというに、罪人の数は減らんのう」

 事の発端は、私も歴史の授業で習った七十年前の、くろがねの世界大戦。

「当時の地獄は凄ったんでしょ?」

「うむ。大雨が降りやまぬかのようじゃった」

 それは人類に未曽有の死をもたらし、穢れた魂が地獄へと洪水のごとく押し寄せたの。しかも罪深い人間の魂は黒ずんで、ほかの魂にまで悪影響をもたらす。

 地獄はすべての魂を受けきれず、一度は半壊してしまった。

 その後、新しい体制が整えられ、ひとまず魂は正常に巡回するようになったわ。

 ただし正常でいられるのは、死してなお清らかな魂の場合であって、穢れた魂はすでに地獄の飽和量に達している。

 そこで地獄の支配者らは、これまでにない画期的なシステムを作りだした。

 死んでしまった人間の穢れた魂を浄化するのは、難しい。だったら、その人間が死んでしまう前に浄化すればいい。罪人が生きているうちに罪を自覚させ、更生を促すの。

 かくして地上の罪人たちは、生きている間に魂を引き抜かれ、地獄へと集められて。四十九日のタイムリミットに追われながら、自身の罪に向きあわされた。

 さっきの汽車の罪人らも、これから魔王殿で裁きを受けるんでしょうね。つまり魔王の仕事とは、裁判官みたいなもの。閻魔大王といったほうがしっくりくるかしら。

 それはデュレン=アスモデウス=カイーナが跡を継ぎたがらない理由でもあった。自由奔放な彼にとって、魔王殿で裁判だけの日々なんて苦痛に決まってる。あのひとが魔王になったら、誰も更生できなくなるだろうし……。

 エリザは夜空を見上げ、蒸気の煙が晴れるのを待った。

「急いで決めることでもあるまい。ディーンのやつも気が変わるかもしれんて」

 デュレンほど横暴ではないにせよ、実は彼女もディーンを次代の魔王に推している。

「荷が重いわ、そんなの。ディーンに無理だとまでは思わないけど……」

「人間を裁くも許すも、同じ人間がするのが一番じゃ。わしらでは、人間の価値観やら何やらは、あまりわからんでな」

 エリザの言い分にも一理あって、私は内心、説得力を感じていた。

 ひとがひとを裁くのは傲慢だ、そんな資格は誰にもない、とみんなが言う。

 けど、それは同時に怠慢でもあった。責任は負いたくない、判断に自信がない、ほかの誰かがやってくれればいい、とみんなが思ってる。私だってそのひとりよ。

「じゃから、わしらよりそなたのほうが、素養もあるわけじゃ」

 しかしエリザはそんな私に、カジノの業務とは別に、人間の魂に関わる重大な仕事を与えていた。それが朱鷺宮杏樹の悪霊退治。

「……それこそ荷が重いわ」

 私は人形の顔で俯き、溜息を漏らした。

 システムで拾いきれない穢れた魂を浄化するのが、私の役目なの。

 カジノでテーブルをひとつ担当しているのも、依頼を受けるためよ。今日の悪霊騒ぎも劇場のほうから要請が入って、ディーンとともに急行したのだった。

「そなたはよくやっておる。ほんに頼もしいぞ」

「あ、ありがと……」

 本音をいうなら、嫌で嫌でしょうがない!

 死者を冒涜するつもりはないけど、悪霊なんて怖いに決まってるじゃない。悪霊は凶暴かつ攻撃的で、狂っており、私を殺そうとさえする。

 でもエリザには恩返しもしたいから。彼女の役に立つのはやぶさかではないと、前向きな気持ちで私なりに頑張っていた。

 エリザがティーカップの縁を右手でなぞりつつ、ネイルアートを光らせる。

「じゃが、どうにも解せん。わしらのほかに人形なぞ、一体どこで……」

 人形というモノは魂に憑依されやすい。そのため地獄では、人形の制作は原則的に禁じられていた。許されるのは動物のヌイグルミまで。ところが今回も、悪霊が人形に憑依するという事件が発生してる。

「現場を調べてもみたけど、手がかりらしいものはなかったわ」

「ふむ……何やら不穏な動きを感じるのう」

 私たちは表情を引き締め、頷きあった。どこかで人形を作っている、もしくは地上から人形を持ち込んでいる不埒な輩がいるのかもしれない。

悪魔の女の子が趣味で集めてるとか?

 それくらいだったら見つけ次第、没収し、厳重注意で済む。

 しかしかれこれ二ヶ月もの間、立て続けに事件が起こっているにもかかわらず、一向に解決の糸口を掴めずにいた。

「わしのほうでも調べてみよう。そなたも頼むぞ」

「わかったわ。ディーンにも相談してみる」

「うむ、それがよい。あやつも世継ぎの自覚が出るじゃろうし」

「エリザ? ディーンは魔王を継ぐ気がないんだから、過度の期待は……」

 どかん、と遠くでいきなり花火があがる。

 ネヲンパークの端のほうで、爆発が起こったらしい。その方角からして、現地で確かめずとも火種の予想はついた。……天才発明家のラボだわ。

 ふとディーンの行き先を思いだす。

「あ。さっきディーン、ジニアスのところに行くって言ってたわ。……もしかして」

「運がないのう、あやつも。アンジュ、早う迎えに行ってやるがよい」

 私は額を押さえ、人形の頭でも熱っぽくなっているのを感じた。

 今日の日記は長くなりそう。

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