お人形が見た夢

PROLOGUE   WINNING HANDS

 夜の世界――。

 太陽の光が届くことのない地面の裏には、昼という概念もない。だから昼に対して『夜』と言うには語弊があるわ。頭の上はいつだって濃紺色の闇で満たされてる。

 それを夜ではなく『闇』と思うようになったのは、いつから?

本能的に夜行性らしい悪魔たちは、今夜もずっと享楽に耽ってる。

 永遠に明けることのない、今夜。

 死者の魂が静かに降る地獄にも、賑やかな街があった。映画館があって、ジェットコースターがあって、カジノまである、娯楽と堕落のテーマパーク。

 その一角にある古風な劇場で、私たちはいつもの事件に当たっていた。

「こっち来ないでって、言ってるでしょ!」

 階段の踊り場でもたつくタイムロスが惜しくて、私は手すりを飛び越える。でもタイトスカートのせいで両足飛びになり、勢いがつきすぎた。

 その拍子に一対のおさげが後ろへと波打つ。ツーサイドアップもとい、最近ではツインテールって呼ばれてるやつね。白銀の髪は、熟練の織物みたいな光沢を帯びていた。

だけど、その銀髪は私の自前ではなく……上質の陶器のように白い肌も、実は私のものじゃない。正面の窓に映った『別人』の姿に、私はつい気を取られてしまう。

小さな追跡者がみるみる距離を詰めてきた。

「きゃああっ!」

 アンティークドールが私の頭上を掠めるように通り過ぎる。それは宙で蛇行しつつ、楽屋のほうへと逃げていった。

正真正銘のオバケよ。……ううん、オバケというより『悪霊』ね。

曲がりなりにも私はあれを退治しに来たんだけど、逆に追いまわされる羽目になって。無人のロビーに不気味な笑い声が響き渡ると、怖くてたまらず、私は耳を塞ぎ込む。

『ヒヒヒッ! ヒィーヒヒヒ!』

「無駄に怖がらせないでよ! 悪霊ってのはどうして、いっつも……」

「杏樹? 何やってんだ?」

 やっとパートナーが戻ってきてくれた。地獄に仏、九死に一生という安心感とともに、私は薄情なこの男にありったけの文句をまくしたてる。

「ディーン、どこ行ってたの? ひとりにしないでって言ったじゃない!」

「罠を張ってただけ。大体、杏樹が勝手に逃げたんじゃないか」

 相棒のディーンは黒い前髪をかきあげ、つまらなさそうに呟いた。切れ長の双眸が睫毛を押しあげ、翡翠の色に輝く。

 ディーンは私の手を引いてくれることもなく、走りだした。

「こっちだ、杏樹」

「ちょ、待ってってば!」

 ひとりになりたくない私も、最初の一歩で足をもつれさせながら、あとを追う。

 観覧席の扉を開け放つと、ドライアイスの煙みたいなものがくるぶしの高さまで溢れてきた。悪霊のせいで、一部は気温が氷点下まで下がってる。

 照明は舞台上のものしか点いておらず、無人の客席は闇に沈んでいた。

 ところが客席のあちこちに、ひとの気配があるの。椅子に座っている彼らは、顔つきがはっきりせず、のっぺらぼうでしかない。

地上で死んだ人間たちの、魂だわ。

 寒くて、怖い。得体の知れないものに恐怖を感じ、四肢が引き攣る。

 でもディーンにしがみつくわけにはいかなかった。だからせめて、私は彼の裾をほんの少しだけ、遠慮がちに掴む。

「……こ、これくらいなら、いいでしょ?」

「そんなに怖いわけ?」

「こっ、怖いに決まってるじゃない!」

 ディーンは呆れながらも、怖がりな私に歩調を合わせてくれた。ふたりで一緒に、ライトアップされている舞台を目指す。その様子を、魂たちは無言で見守っていた。

 ステージの緞帳は天井まで巻きあげられている。

 悪霊が出てくる直前まで、東洋の劇を演じていたのかしら? 舞台の上にはぼんぼりが並び、雅やかな雰囲気を醸しだしていた。

かくいう銀髪の私、朱鷺宮杏樹も、東方の出身だったりする。

「どう? ディーン……いる?」

「それがわかるの、杏樹だけでしょ」

 しかし髪の色合いでいったら、黒髪のディーンのほうが、私よりよほど舞台劇の世界観にマッチしていた。それでいて礼服はホワイトを基調とし、彼のスレンダーな身体つきを一際美麗に引き立てている。

 不意に楽屋のほうから物音が聞こえてきた。さっきのアンティークドールが、ディーンの張った罠に引っ掛かったみたいね。どすん、ばたんと騒々しい。

 私たちは息を飲んで、押し黙った。

 ……来たわ!

しばらくして、ターゲットがふらふらとステージに現れる。アンティークドールは宙に浮き、作り物の瞳を赤々と光らせた。たちの悪い霊が憑依しているせいで狂ってる。

 舞台の照明がちかちかと点滅した。前触れもなく館内放送がオンになり、砂を擦るようなノイズだけを延々と流す。

「オレが押さえるから。杏樹がやって」

 ディーンは私を庇うわけでもなく前に出て、印を結んだ。ステージの床に魔方陣が浮かび、宙の人形を引きずり降ろすべく、加重を与える。

 追い詰められたことで、アンティークドールは怒りの感情を剥きだしにした。奇声をあげて重力に抗いつつ、暴風じみたポルターガイストを巻き起こす。

「ちょっ……ディーン! やり方が強引すぎよ!」

 頭上で照明のいくつかが割れ、破片が散乱した。舞台の上で突風が生じ、私のおさげを千切らんばかりに押し返す。

「また逃げられても面倒でしょ。杏樹、早く」

「わ、わかってるってば。やるから!」

 狂った人形に恐怖こそあれ、さっさと終わらせてしまいたい気持ちもあった。私は一歩前に出て、トランプを取りだし、呪文を唱えながらシャッフルする。

 ディーンの魔方陣に抑え込まれ、アンティークドールがびくびくと痙攣した。白目を剥き、かろうじて動く首だけでのたうちまわる。

 あまりの気色の悪さに、私は怖気づいてしまった。

 さ、最悪だわ……。

頭の中で詠唱が途切れ、カードを捌く手もわずかに鈍る。

「……おい! 杏樹っ!」

 咄嗟にディーンが私を庇おうとした。

しかし彼の手は、私に触れる寸前でぎくりと止まる。その手が届かないうちに、私は人形の衝撃波じみた叫び声をもろに受け、弾き飛ばされてしまった。

「きゃああああっ!」

 私の視線が天井を駆け抜け、視界を反転させる。

「てめえ、ふざけやがって!」

 ディーンは激昂し、私に触れることのできなかった手で、人形の首を絞めあげた。アンティークドールがめきめきと音を立てる。

「杏樹、早くしろ!」

「え、ええ。……その器を不可侵とし、穢れを禁ず!」

 すかさず私は起きあがり、ダイヤの5をターゲットの額に叩きつけた。カードから激烈な電流が放たれ、私の目も一瞬、眩む。

 人形は目を見開いたのを最後に、がくりと虚脱した。ディーンの握力に耐えきれず、首から上が外れて落ちてしまう。

 アンティークドールの顔は白目を剥くこともなく、元の愛らしさを取り戻していた。しかしごろんと無造作に転がっていては、不気味でしかない。

 ディーンは人形の頭と身体をくっつけながら、申し訳なさそうに呟いた。

「……ごめん。さっきのは、オレが」

「気にしないで。私が不注意だったから、でしょ」

 私は平気であることを強調したくて、両手をパーに広げる。

「ほら、全然だいじょう……」

 そのつもりが、左腕がなくなっていたの。ディーラー服は肩口で裂け、そこから数十本の糸が溢れるように垂れている。

 左腕は足元に落ちていた。肘の位置に上腕と前腕の合わせ目があり、人間の腕と同じく動くようになってる。その表面は丹念に磨き込まれ、色白の肌を再現していた。

 ただし指は可動部分が多くて不格好なため、手袋で誤魔化している。

 銀色の髪もこれと同じ。私のものであって、私のものじゃない。

「大丈夫じゃないね、どう見ても」

「……そうみたい。別に痛くはないんだけど」

 ディーンは少し躊躇いつつ、私の左腕を慎重に拾いあげた。先ほど人形を絞めあげた時の荒々しさはなく、丁寧に扱ってくれる。

「気をつけなよ。こっちの腕はあんたのじゃないんだしさ」

「ごめんなさい。怖くなっちゃって」

「杏樹も人形なのに?」

 ディーンの割と無神経な一言を、私は愉快に思ってしまった。彼には女扱いされるよりも、人形扱いされるほうが楽な気がする。

「あ……ごめん。言い過ぎた。半分は人間だもんな、杏樹は」

「あなたも半分は、ね。王子様?」

 言われた分を言い返してやると、ディーンは仏頂面を少しだけ緩めた。それが彼の笑い方なんだってことに気付けるのは、私くらいね。

「王子様はやめてくれって言ってるだろ? お人形さん」

「あら、あなたにお人形遊びの趣味があったなんてね」

 同じく彼も、人形である私の表情を、正確に読み取ってくれる。

 この私、朱鷺宮杏樹は……死ぬことなく身体を失ってしまった、人間の女だった。

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