蒼き海のストラトス
第3話
小型艇に乗せてもらってフラン島を発ち、アスガル本島へと飛ぶ。
いつもと同じゴーグルを使っているのに、今朝は青空が褪せたように見えた。この空でひとりになってしまったのを実感する。
持ってきたのは数点の着替えと、ハーモニカがひとつ。これはチトセだけが持っている吹奏楽器であって、空のひとびとは知らないという。
本島の港に到着すると、城の騎士らに仰々しく出迎えられた。
「こちらへどうぞ、チトセ様」
「は、はい……」
周囲の皆が何事かと注目する中、チトセは手荷物とともに馬車に乗り込む。
「自動車でお迎えにあがってもよかったのですが、殿下より、馬でごゆるりとアスガルの美景を楽しんで欲しい、とのことでして」
「いえ、お気遣いなく……ありがとうございます」
陸上の車にエンジンを搭載する『自動車』も実用化されつつあるものの、道が空ほど広くはないため、事故が多発した。大半の都会島では自動車の運用に制限を設けている。
馬車に揺られること一時間、街並みの向こうに王城が見えてきた。入城の手続きを終えたら、門をくぐり、中庭の馬車停で降ろされる。
「ようこそ! レディー」
右も左もわからないチトセのもとへ、レオナルド王子がやってきた。自信に満ちた顔つきで、重そうなマントを凛然と靡かせる。
「……おはようございます、レオナルド様……」
「そう畏まることはない。ふたりの時は、呼び捨てでも構わないよ」
レオナルドは執事を呼びつけながら、チトセの肩に手をまわした。チトセの荷物は執事が受け取り、運んでくれる。
「君の部屋を用意してあるんだ。きっと驚くだろうね」
緊張しつつ、チトセは荘厳な王城を仰いだ。
お城に私室など畏れ多くて、喜ぶに喜べない。何より、大切な使命があってここに来たのだから、部屋など興味もなかった。
お母さんを助けるための手がかりが、どこかに……。
レオナルドに連れられ、初夏の香りがする並木道を抜けていく。
行く先にあった巨影を見上げ、チトセは唖然とした。
「……あの、レオナルド様? どうして」
眼前で寝そべるように翼を休めているのは、巨竜シグナート。
その脇腹へとタラップが架設され、乗組員らが忙しそうに出入りしている。
「入ってみれば、わかるさ」
促されるまま、チトセはタラップの階段を上がった。
シグナートの中はさながら宮殿のような造りで、絨毯まで敷かれてある。小さいが円形の窓もあり、狭い割に閉塞感はなかった。むしろ、ゆったりとした空間に感じられる。
シグナートが身体を起こさず、うつ伏せの体勢でいるのは、この中をひっくり返さないためだろう。メインブリッジは頭部にあるらしい。
「ここが君の部屋さ」
チトセのために用意された私室も、格式の高いものだった。クローゼットやドレッサーは一式が揃えられており、大きなベッドには煌びやかな天蓋までついている。
気後れしてしまって、眩暈さえ覚えた。
「ここまでしていただかなくても……あたし、探検にご一緒できれば、それで」
度が過ぎた厚意を受けきれず、たじろいでしまう。
そんな反応を確信していたかのように、レオナルドは笑みを噛んだ。
「そうはいかないよ。君は大事なレディーだからね。靴は持ってきてくれたかい?」
「あ、はい。お持ちしました」
執事が運び込んでくれた手荷物から、チトセはガラスの靴を取り出した。指示があったために持ってきたものだが、自分には不釣り合いな高級品で、扱いに困っている。
靴であっては、サイズの違いからナナリーが履くこともできない。
「これ……やっぱりお返しします」
その靴を差し出しても、レオナルドは受け取らなかった。
「いいや、それは証なんだよ。レディーが僕のパートナーであることの。履くべき時はこちらで指示するから、大切にして欲しい」
ガラスの靴が眩い光沢を放つ。
「準備ができ次第、出発しよう。それまでゆっくり休んでくれ」
レオナルドは柔らかく微笑むと、執事とともに部屋をあとにした。
扉の向こうでガチャリ、と施錠の音が鳴る。
「……レオナルド様っ?」
まさかと思った時には、すでに閉じ込められていた。
押しても引いても、扉はびくともしない。
「誰か! 開けてください!」
声を張りあげても、助けが来る気配はなかった。
窓は小さいうえに開閉もできない。飛行中に開いたり、割れたりしないよう、頑丈な造りが徹底されている。
チトセは無力感とともにベッドに腰掛け、うなだれた。
なにをお考えになってるの? レオナルド様……。
嫌な予感がした。おかしな企み事に巻き込まれているのかもしれない。
ひとりで不安に駆られていると、いつも傍にいた、あの勝気な笑みを思い出した。
まだ怒ってるのかしら、ジュリオ。
小さな舟で眠りこけていた自分を揺り起こし、大空へと連れ出してくれた男の子。そんな彼との温かい関係を解消してしまった愚かさが、身に染みる。
あたしが閉じ込められてるって知ったら、助けに来てくれるかしら……?
我ながら身勝手な想像だった。ジュリオを巻き込まないために飛び出してきたのに、心のどこかでジュリオを求めてしまっている。
空の探検も、彼のウインド号で行きたかった。
海を探しに。
★
外からしか操作できないドアが開く。
「気分はどう? 千歳」
その女性は申し訳なさそうに娘の白い髪を撫でた。心細い思いをしていた少女も、彼女にひしと抱きつき、あどけない笑みを綻ばせる。
「大丈夫よ、ママ。それよりあの曲、吹けるようになったの」
「すごいわね。聴かせてちょうだい」
小さな手が瑠璃色のハーモニカを構えた。少女の息遣いが儚い旋律をもたらす。
タイトルは『蒼き海』。
娘の巧みな演奏に母親はじんと聴き入っていた。
「とっても上手になったじゃないの、千歳」
「えへへ、練習したもん」
十三歳にしては幼い、無邪気な笑みが弾む。
そんな娘を不憫に思ってか、彼女は神妙な面持ちで呟いた。
「ノアの適合者候補に選ばれなければ、あなただって、今頃は友達と……いいえ、どのみちこんな状況だもの。終わりが近いのかもしれないわ」
「……ママ? どーしたの?」
部屋の端末が呼び出しを報せる。
『御船博士、至急、第三研究室までお越しください』
「あーもう、せっかく千歳と一緒なのに」
母親はふてくされながら、端末の溝にカードを差し込んだ。すると映像の回線が開き、第三研究室と繋がる。
『そちらにいらっしゃったんですか、博士。タイダリアの開発状況について、上層部から報告をせっつかれておりまして……』
「一昨日も報告したばかりなのに? そんなにすぐ進展があるわけないでしょう」
少女の頭の上に溜息が落ちた。
窓の高さは空にも近く、大海原を地平線まで一望できる。
少女は海を知っていた。
小さな窓から見える、果てしない蒼の大海。だが、空は白雲で覆われているため、太陽の光が海面まで届くことはなかった。
シグナートの一室でチトセはふと目覚める。
時計の針は夜中の三時を指しており、窓の外はまだ真っ暗だった。身体はべっとりと汗ばんで、どうにも気分が悪い。
「……今のは、夢?」
ただの夢とは思えなかった。さっきの海の景色をチトセは『憶えて』いる。
夢の中で吹いていたのと同じハーモニカも、手元にあった。
『いい? 千歳。困ったことがあったら、あの曲を吹きなさい。あなたの分身がきっと力になってくれるわ。これだけは忘れてはだめよ』
そう教えてくれたのは、本当の母親だったのだろうか。ナナリー=マクスエの娘でありたいという気持ちは、叶うことのない願望になりつつある。
「ちょっとだけ……吹いてみようかしら」
夢の続きと思って、チトセはハーモニカに口をつけた。
綺麗であっても物悲しい音色が響く。
★
三日後の夜、王宮で雅やかなパーティーが催された。チトセは慣れないロイヤルドレスをまとって、レオナルドとともに出席することに。
シルクのような光沢がある白い髪は、後ろで結いあげ、貴族令嬢らしいヘアスタイルに仕立ててもらった。レオナルドに貰ったルビーのネックレスが、胸元で煌く。
ブルーのドレスはスカート丈を膝まで上げたもので、ガラスの靴がよく見えた。この靴をメインとしたコーディネイトらしい。
今夜のパーティーはシグナートの出立を祝ってのもの。
「英気を養っておきませんとなぁ、殿下。ハハハ」
「からかわないでくれよ、セルゲイ」
しかし目的はほかにあるようで、世間知らずのチトセでも、だんだん自分の立場がわかってきた。チトセの拙い会釈にも、貴族らは惚れ惚れとしている。
「ご無沙汰しております、チトセ=マクスエです。先日のパーティーではどうも……」
「本当にお美しい方ね。ウフフ、殿下とお似合いですことよ」
王族の男性が市井の女性を妻として迎えること。そのためのガラスの靴であって、チトセはレオナルドの恋人と認識されつつあった。
シンデレラのお話みたいね……。
けれどもチトセには、まるで現実感がない。自分ひとりを置き去りにして、世界の時間が流れていく気さえする。
あの舟で眠っていた時のように。
饒舌な貴族らをやり過ごしつつ、テラスへ出ると、先客がいた。
「僕だって、もう姉さんだけじゃないんだよ。彼女なら……」
レオナルドがロケットの中を見詰めている。
「……レオナルド様?」
「ん? あぁ、レディーか。ひとりにさせてしまって、すまないね」
チトセが声を掛けると、彼は別段隠すふうもなくロケットを仕舞った。ドレス姿のチトセをしげしげと眺め、満足そうに微笑む。
「よく似合ってるよ。レディーは青と相性がいいみたいだね」
「あ、いえ……」
レオナルドの手が自然と肩にまわってきた。涼やかな夜風に彼の囁きが紛れ込む。
「今度の探検が成功すれば、君も名声を得る。僕の花嫁になってもおかしくないくらいにね。無論、そこまで強制するつもりはないんだが」
嫌な気はしなかった。王子様に見初められたうえ、この世にひとつだけのガラスの靴を贈られて。従順にしていれば、ナナリーの今後も取り計らってくれるに違いない。
「……考えさせてください」
それでも前向きにはなれなかった。脳裏でジュリオの顔がちらつく。
『ナナリーさんって……お前』
『……勝手にしろ!』
ずきりと胸が痛んだ。それがほかの誰でもない、ジュリオの言葉だからこそ、響く。
ナナリーの治療法を見つけなければならないという責任感。一方で、ナナリーの看病をジュリオに押しつけ、飛び出してきてしまったことの後悔。
せっかくの華やかなパーティーなのに、チトセの気持ちは沈む。
「ゆっくり考えるといい。大事なことだからね」
「え? あ……はい、ありがとうございます」
レオナルドと何の話をしていたのか、忘れそうだった。
チトセの意志を尊重する、と彼は言うものの、レオナルドの口振りには有無を言わせない圧力があった。周囲の貴族も今さら撤回は望まないだろう。
レオナルド様のお嫁さんだなんて……。
それこそナナリーに相談したかった。急に結婚と言われても、ぴんと来ない。
依然としてシグナートでの監禁じみた生活も続いていた。今夜のようなパーティーでもない限り、外出は許されず、外と連絡を取りあうこともできない。
本当にレオナルド様についてきて、よかったの?
ガラスの靴を重たく感じた。
☆
二週間ほどが過ぎ、出発の朝が来る。
シグナートの私室でチトセは、履き慣れた靴の紐を結びなおしていた。そこへレオナルドが訪れ、チトセを初めて、この飛行艇のメインブリッジへと連れていく。
「今まで窮屈な思いをさせてすまなかったね、レディー」
「……いえ」
メインブリッジでは乗組員らが発進の準備を進めていた。窓は大きいものが前方と左右にあり、早朝の城下町を一望することができる。
「殿下、いつでも発進できます」
「ご苦労。予定通り、九時になったら出発しよう」
やがて定刻となり、全員が配置に着いた。レオナルドはメインブリッジの指揮を、チトセはその隣の席につく。
こんなに大きなものが、本当に飛べるの……?
エンジンに火が入ると、シグナートの全体が振動を始めた。
「総員、衝撃に備えよ!」
雄々しい巨竜が鎌首をもたげ、翼を広げる。
「シグナート、テイクオフ!」
レオナルドの号令とともに、艦体がゆっくりと浮きあがった。一対の翼をはためかせながら、シグナートが青空を上昇していく。
加速がつくや、チトセの身体にも重さが掛かった。
「あうっ……!」
発進の負荷に不慣れなチトセを、レオナルドがしっかりとかき抱く。
「大丈夫。すぐに安定するさ」
飛び立ってからしばらくすると、艦体の振動も和らいだ。窓の景色は青色で満たされ、白い雲がまばらに浮かんでいる。
レオナルドは中央の席で脚を組み、きびきびと指揮を執った。
「目的地はフラン島の南西、ポイントDだ。雨雲との接触に注意し、進め」
「了解!」
乗せてもらっているだけのチトセにも、シグナートの安定した飛行を実感できる。
レオナルドはチトセに『休んでてくれ』と微笑んだ。シグナートの船内なら、自由に歩きまわっても構わないらしい。
「お昼は一緒に食べようか。食堂で会おう」
「わかりました。じゃあ、失礼します」
チトセはひとりでメインブリッジを出て、ほっと胸を撫でおろした。レオナルドの、こちらの本心を見透かすような視線には、まだ慣れそうにない。
空の上では逃げ場もないものの、とりあえず監禁状態からは解放された。
シグナートの中には食堂や医務室、遊戯室まである。
お夕飯の支度なら、お手伝いできそうね。
食堂のシェフにその旨を申し出ると、王子の許可が降りるのなら喜んで、と快諾してもらえた。次に遊戯室を覗き込むと、ビリヤード台が目に入る。
揺れたりするのに、ビリヤードなんてできるの?
黒光りするグランドピアノまで置いてあった。貴族の優雅な一時には事欠かない。
艦内の高級感に感心しつつ、チトセは医務室にも足を踏み入れてみた。そこで馴染みのある人物と再会し、あっと驚きの声をあげる。
「……シモン先生っ?」
「おぉ、チトセか! 先週の検査以来じゃのう」
シモン医師はカルテらしい書類を閉じ、気さくな笑顔でチトセを迎えた。
「先生はどうしてこちらに?」
「船医というやつじゃよ。フラン島の診療所はシリカに任せてきたわい」
長期の探検となれば、医者の同行も必要となる。そこで、腕がよく、考古学者としても博識なシモン医師に白羽の矢が立ったという。
「やはりお前も来ることになったか。殿下が随分とご執心のようじゃったし……」
「先生はご存知なんですね、レオナルド様のこと。家庭教師だったんでしょ?」
「昔の話じゃよ。子どもの頃から、殿下は頭の回転が早くての」
レオナルドの話題になって、シモンはさり気ない苦笑を浮かべた。家庭教師として思うところはあるようでも、王子のことを悪くは言えないらしい。
「クローディア様にべったりだったのが懐かしいわい。クローディア様にたくさん褒められようと、健気に頑張っておられてな」
レオナルドが姉のクローディア姫に入れ込んでいたことは、チトセも噂程度には聞いていた。それだけに姉の結婚には反対もしたとか。
シモンは思い出したように一通の手紙を取り出した。
「ナナリーのことならシリカが見てくれよう。あやつも外の島で、町医者の経験を積まんとな。……そうじゃ、お前にと、こんなものを預かっておる」
「シリカさんから、ですか?」
チトセはそれを受け取り、封を開ける。
そこには達筆で、ナナリーに関するシリカの所見が記されていた。
『チトセ=マクスエへ。
先日ナナリー=マクスエに投与した薬ですが、あれの素材や配分を決めたのは、私ではありません。レオナルド殿下のご指示だったのです。
危険なものではありませんでしたから、投与しました。
あの薬がなぜハクカ熱の進行を遅らせているのか、実は私にもわかりません。
おそらく殿下はなにかしらご存知なのでしょう。
レオナルド殿下は聡明で誠実な方でいらっしゃいますから、おかしなことにはならないと思います。ただ、注意はしたほうがよろしいかと思います。
ナナリー=マクスエのことは、私に任せてください。
シリカ=イングリッドより』
チトセの予感していたものが、だんだんと輪郭を露にしていく。
やはりレオナルドには企みがあるようだった。ナナリーの治療法があるとにおわせて、チトセを誘い出したのかもしれない。
しかし、それだけの利用価値が自分にあるのだろうか。
あたしは一体、何者なの……?
「どうかしたのか? シリカのやつは、なんと?」
シモン医師の声にはっとし、チトセは笑みを作った。
「いいえ、お母さんの心配はいらないから、頑張りなさいって……」
「ほお。あやつも少しは気を遣えるようになったんじゃのう」
つい誤魔化してしまったが、シモンは勘づいていない様子で、口元を緩める。
「おぬしもなにかあったら相談に来るといい。わしは大抵ここにおるでな」
「ありがとうございます、先生」
チトセは一礼し、彼の邪魔にならないうちに医務室をあとにした。
今になって自分の正体を知るのが怖い。だがシグナートに乗ってしまった以上、もはや引き返すことなどできなかった。
なるべく人目につかないようにしたくて、私室へと戻る。
小さく丸い窓から、果てのない空を眺めていると、ふたつの機影が見えた。
「……あれは?」
信号を出しつつシグナートに並び、接近してくる。
ライトグリーンの飛行艇はロッティのイーグル号。そしてバーミリオンのもう一機は、ジュリオのウインド号に違いなかった。
本当にジュリオが?
チトセは部屋を飛び出し、早足でメインブリッジへと急ぐ。
「レオナルド様! 今、飛行艇が……」
「うむ、ジュリオくんとロッティくんだね。着艦を許可する、リードしてやれ」
シグナートは速度を落とし、脇腹のカタパルトを開放した。そこにイーグル号が、続いてウインド号が滑り込む。
「よろしいのですか、殿下? 予定にはないことですが……」
「ちょうど格納庫に二機分の空きがあっただろう? 彼らなら問題ないさ」
レオナルドは乗組員に現状維持を命じ、すっくと立ちあがった。
「君もおいで。挨拶をしようじゃないか」
「あ、はい……」
ジュリオとは喧嘩別れになっているせいで、顔を会わせづらい。一方で謝りたい気持ちも同等にあった。レオナルドとともに格納庫へと向かう。
格納庫には王子がスカイレースで搭乗した、黒い飛行艇が四機ほど搭載されていた。左右ともに最後尾のハンガーで、イーグル号とウインド号が固定される。
ちょうどロッティがイーグル号から降りてきた。
「でっかい飛行艇ね、シグナートって。……あ、チトセ!」
「ロッティ! どうして?」
「待って、先に殿下にご挨拶しておきたいから」
彼女の顔に営業スマイルがころっと浮かぶ。
「いきなり押しかけてしまって、恐れ入ります、殿下。シグナートで空を探検なさると伺いまして……よろしければ、私たちも同行させてください」
「構わないさ。僕も、君らがいてくれると心強い」
レオナルドもはにかんで、ロッティと握手を交わした。
ウインド号のほうからもジュリオが降りてきて、ゴーグルを上にのける。
「先に行くなよ、ロッティ。殿下が二度手間になっちまうじゃねえか」
「あんたがトロトロしてるからでしょ?」
ふたりが行動をともにしているのも珍しい。商売敵の関係にあって、どちらも競争心が強いため、こうして足並みを揃えるのは意外だった。
レオナルドの瞳がジュリオを映し込む。
「よく来てくれたね、ジュリオくん。前に誘った時は断られてしまったが……」
「あの時は、その……すみません。俺にも協力させてください」
「もちろんだとも。小型艇のパイロットはもう少し欲しいと思ってたしね」
寛大な王子と握手しつつ、ジュリオはチトセにちらっと素っ気ない横目を向けた。
やっぱり怒ってるみたいね。どうしようかしら……。
チトセはレオナルドの背後に隠れ、ジュリオの視線をやり過ごす。
「飛行艇のメンテナンスについては、整備士と打ち合わせしておくといい。シグナートのクルーだからね、腕のほうは保証するよ」
「あ、ありが……」
「ありがとうございます!」
不愛想なジュリオを押しのけ、ロッティは満面の笑みでレオナルドに応えた。よく見ると、飛行艇に乗る格好にしては、念入りにめかし込んでいる。
「部屋はすぐに用意させよう。シグナートの中では好きにしてくれ」
レオナルドはチトセに目配せすると、メインブリッジへと戻っていった。『余計なことをしゃべってはいけないよ』と念を押された気がする。
「……俺、向こうに用事あっから」
ジュリオはチトセと向かいあおうとせず、整備士らの輪に加わった。
勘のよいロッティが探りを入れてくる。
「ジュリオとなんかあったわけ? わたしでよけりゃ、聞いてあげるわよ」
「うん。……ここじゃなんだし、お部屋に行きましょ」
チトセはジュリオの背中から目を離すと、ロッティを連れ、艦内の私室へと戻った。
寝室の王宮並みの華やかさに、ロッティがあんぐりと口を開く。
「はあ~っ! お姫様みたいな待遇じゃないの」
「でも閉じ込め……と、ロッティはどうして、ここに?」
話を逸らしながら、チトセは寝台に腰を降ろした。隣にロッティのお尻が勢いよく飛び込んできて、ふかふかのベッドを揺らす。
「レオナルド殿下がシグナートで探検するって、ジュリオに聞いてね。王子様の『友達』なんだから、お手伝いに来るのは当然でしょ」
彼女の狙いには薄々勘づいていた。
「レオナルド様が好きなの?」
「好きってゆーか、普通は憧れるものじゃない? 王子様なんだもの」
レオナルド=アスガルは次代の王だけあって、カリスマ性に溢れている。外見も抜きん出ており、その美貌とスタイルは、国民女性の憧れの的だった。
ロッティがチトセをじとっと睨む。
「そうそう、ガラスの靴のことなら親父に聞いたわ。チトセ、ずるい」
「あ、あれは……違うのよ? まだ決まったわけじゃなくて」
狼狽しつつ、チトセは両手を振って否定した。
「ふーん。まあいいけど」
ロッティもそれ以上は追求してこない。しかし誤魔化しきれない質問もあった。
「……で? ジュリオとギスギスしちゃってるのは?」
さっきまでのおどけた調子はなく、真剣に問い詰めてくる。
チトセは膝元のスカートをぎゅっと握り締めた。
ナナリーやジュリオに対する罪悪感が、ずっと心の底に沈殿している。『家族』には打ち明けられないそれを、第三者のロッティなら汲み取ってくれるかもしれない。
レオナルドには暗に口止めされていても。
「実は――」
思いきって白状すると、ロッティは『なるほどね』と呟いた。
「強引な話じゃないの。でも、ほんとにナナリーさんの病気、チトセが原因なわけ?」
「多分……先週の血液検査で、未知のウイルス反応もあったの」
王立病院が検査を担当したのだから、事実に相違ない。
「ナナリーさんの病気を治す方法、ねえ……」
ロッティと同様にチトセにも、疑いたい気持ちはあった。
とはいえレオナルドの言い分も筋は通っている。
チトセの身体にはハクカ熱に対する免疫がある。ということは、過去にハクカ熱に関与し、抗体を得た可能性が高かった。ワクチンの投与によって発症しなかった、もしくは、発症はしたが治療に成功したのだろう。
現在はシモン医師がチトセの血液をもとに、ワクチンの精製を進めていた。それが成功すれば、ハクカ熱の予防接種は可能になる。
だが、すでに症状が進行しているナナリーを救うことはできない。
「もしかしたら、まだ症状が出てないだけで、病気になってるひともたくさんいるかもしれないの。よくわからないんだけど、潜伏がどうこうって、シモン先生が……」
「チトセ、わたしもハクカ熱になっちゃうとか、思ってない?」
不安ばかり募らせていると、ロッティがしっかりと手を握ってくれた。
「だめよ、病気が――」
「それで素直に閉じ込められてたわけ?」
その手を振り解こうとしたものの、図星を突かれ、ぎくりとする。
彼女に打ち明けたのは、あくまでハクカ熱に関することだけ。なのにロッティには、監禁の状態にあることまで、すでに見抜かれてしまっていた。
「昨日今日使い始めた部屋じゃないでしょ、ここ。ベッドとかドレッサーに使用感があるし、チトセも慣れてるみたいだもの」
洞察力の鋭さにチトセはきょとんとする。
ロッティはチトセの右手を、両手で温めるように包み込んだ。
「レオナルド殿下にもお考えがあるんでしょうけど、本当に嫌なことは『イヤ』って言いなさいよ? どうしてもってんなら、わたしのイーグル号で逃がしてあげるから」
本当はレオナルド王子の応援に来たのではなく、チトセを心配して来てくれたのかもしれない。勝気な彼女のウインクはとても心強かった。
「ありがとう、ロッティ。頑張ってみるわ」
「その調子よ! いざって時は、わたしに任せなさいって」
ロッティがにやにやと悪い笑みを浮かべながら、部屋を出ていく。
「じゃ、ちょっくら営業に行ってくるわ」
「……営業って、誰に?」
「殿下に決まってるじゃない。またあとでね~」
冗談みたいな切り替えの早さには、呆気に取られてしまった。
やっぱりレオナルド様目当てで来たんじゃ……?
ロッティとはナナリーやジュリオに次いで長い付き合いだが、まだ彼女のペースとやらが掴みきれない。おかげでチトセは肩の力を抜き、やるべきことが心に決まった。
「……ジュリオに謝らなくっちゃ」
豪華なだけで何の愛着もない部屋を出て、さっきの格納庫を目指す。
シグナートの中は広いが、構造そのものは単純で、艦内地図もあった。ところが格納庫には、いるはずのジュリオの姿が見当たらない。
「すみません。えぇと、ジュリオ=マクスエがどこに行ったか、知りませんか?」
「ウインド号の彼なら、適当に見てまわるって言ってたよ」
医務室や遊戯室も覗いてみたが、ジュリオには会えなかった。
避けられているような気がして、胸が苦しくなる。
やっとジュリオと再会できたのは、午後三時になって、メインブリッジに呼び出されてからだった。ロッティやシモンも集まっている。
「ジュリオ! あの、話が……」
「あとでな。それより見てみろよ、ほら」
ジュリオは淡々とした口振りで、窓の外に親指を向けた。
遥か前方の『それ』を見詰め、レオナルドは満足そうにはにかむ。ロッティは目を点にして、首を傾げた。
「どうなってんの? 島、じゃあないでしょ?」
同じものを見て、チトセは強烈な既視感に襲われる。
天へと向かって伸びる、巨大な建造物――。
「あれは……なんですか?」
それを『塔』と直感しながら、チトセはうわごとのようにレオナルドに尋ねた。
進行方向に見えてきたのは、ひとつの島。しかし人工的な円柱の形をしており、白雲層の下まで続いている。
「僕らは『ノア』と呼んでる。あれを解き明かすのが、われわれの使命さ」
やがてシグナートはノアの上空に達し、その屋上へと降下を始めた。木々を押し倒しつつ寝そべり、一対の翼を折り畳む。
「少し出てみようか。チトセ、ついてきたまえ」
「……はい」
レオナルドを先頭に、チトセたちはシグナートからノアへと降り立った。
ノアの屋上には草木が生い茂っているものの、花は枯れ、生気が感じられない。かつてチトセが眠っていた舟と雰囲気が似ている。
あそこは花が咲いてたけど……。
風とともに、得体の知れない寂しさが胸を吹き抜けた。
「もとは綺麗なところだったのかしら?」
憂うチトセの傍らで、ジュリオが足元の土を弄る。
「乾いてるってわけじゃなさそうだな。養分がもうないんだろ」
ここは時間の流れから置き去りにされていた。色褪せた花は、チトセの手が少し触れるだけで崩れ落ちてしまう。
レオナルドが振り向き、マントを翻した。
「本格的な探索は明日からにしよう。まずはここにベースキャンプを作ってからだ」
寝泊まりはシグナートの艦内でできるにしても、連絡のたびにメインブリッジまで上がるのは手間が掛かる。そのためフットワークの軽い拠点も必要となった。
ところが木々の向こうにペガサスの国旗が見える。
「あれ? もう準備できてるんじゃないですかー、殿下」
「そうではないよ、ロッティくん。前の調査隊が残していったものさ」
そこには無人の野営が一式、残されていた。テントの金具などに錆は見られるものの、チトセたちが二週間ほど使う分には問題ない。
不意にジュリオが立ち竦んだ。
「本当だったのかよ……」
ぎくりとするように顔を強張らせる。
「どうしたの? ジュリオ、シグナートで酔ったりした?」
「ん……あぁ、ちょっとな。操縦しねえで乗ってるだけってのは、どうも」
ジュリオの笑みを、チトセは無理があるように感じた。喧嘩の気まずさとはまた別の、神妙なぎこちなさがあって、おいそれと踏み込めない。
「応援に来てくれたからにはしっかり働いてもらうよ。ジュリオくん、ロッティくん」
「わかってますって。ここまで設営できてりゃ、あとは物資の搬入だけですし」
「シグナートからわたしらの飛行艇で運んだほうが早そうね」
一行は作業を分担しつつ、拠点の改善に取り掛かった。
拠点の設営を進めるうち、陽も暮れる。
赤々としたオレンジを経て、やがて空は群青色に染まった。星々が静かに瞬き始める。スカイレースの祝賀会では三日月だった月は、金色の真円に近づきつつあった。
シグナートの艦内で夕食と片づけを済ませてから、チトセはひとりで外に出る。どことなく懐かしいノアの空気を、今一度ゆっくりと吟味したかった。
「……ここが、ノア……」
深呼吸ひとつで身体がざわめく。
かつて大雨によって洪水が起こり、大半の陸地が沈んだという伝説。方舟で難を逃れたのは、たった一組の男女と、動物たちだけだった。
脚色されたものであれ、それは何らかの出来事を示唆しているらしい。
ノアを調べれば、必ず自分の正体に迫れる気がした。その気がしてならない。
「……あたしは誰なの?」
泉のほとりで星空を眺めていると、木々の合間から声を掛けられた。
「よう、チトセ」
隣に並んだジュリオも、チトセより少し高い目線で、一緒に星空を仰ぐ。赤い流れ星が落ち、夜空の果てへと消えていった。
「突っ立ってないで、座ろうぜ。こっち来いよ」
「う……うん」
ふたりは手頃なサイズの岩に腰を降ろす。
「……この間はごめんなさい。勝手に家を出たりして」
今夜は気負うこともなく、自然と言葉が出てくれた。相手がジュリオだからこそ、彼の優しさに依存し、安心してしまっているのかもしれない。
「ったく、ひとりで思い詰めやがって。母さんの病気はお前のせいじゃねえだろ」
ジュリオが小石を拾い、泉に投げ込む。
「ねえ、お母さんは? シリカさんに押しつけて来ちゃったの?」
「ミーシャおばさんに任せてきた。それに……チトセ、俺がここに来たのはな、母さんに頼まれたからなんだぜ?」
波紋を広げる水面には、星の輝きがゆらゆらと漂っていた。
「心配してんだよ、お前のこと。娘じゃなくなるんじゃないか、ってな」
「お母さんが、そんなこと……」
病床のナナリーにまで気を揉ませていることに、チトセは胸を痛める。自分の力でどうにかしたかったのに、結局、ジュリオまで巻き込んでしまった。
「……ごめんなさい」
何にもならない謝罪しかできなくて、悔しい。
「いいんだよ。俺にも目的があるんだ」
俯きがちなチトセの肩を、ジュリオがそっと抱き寄せた。不意に距離が近くなったせいで、胸が驚いたように高鳴る。
「ジュ、ジュリオ?」
「聞いてくれ。父さんのこと、お前も知ってるだろ?」
その口振りには寂しさが含められていた。
ナナリーの夫アヴィンは五年ほど前、空の事故で行方不明となっている。息子のジュリオが飛行艇に乗り始めたのも、当初は父親を捜すためだったらしい。
その一年後、彼は手製の飛行艇で初フライトを試み、眠れるチトセを発見した。マクスエ家がチトセを快く受け入れたのも、父親を亡くした喪失感によるところが大きい。
チトセの肩を抱くジュリオの手に、ぎゅっと力が籠められる。
「レオナルド王子がよ、言ったんだ。父さんは……ここの調査団だったんだと」
「アヴィンさんが?」
アヴィン=マクスエはこのノアで消息を絶ったという。それはジュリオやナナリーにもずっと伏せられていた、真実の断片だった。
「もしかしたら父さんは、ここでなにかを見たのかもしれねえ」
もう幼くはないジュリオの瞳が、夜空の満月をまっすぐに見上げる。
「……お父さんを捜したいのね」
「さすがに生きてるとは思ってねえけどな」
チトセのほうからも彼に寄り添って、ちかちかと煌く星空を眺めた。コンプレックスでもある白い髪が、月明かりのおかげで綺麗な光沢を放つ。
「なあ、チトセ」
ジュリオのまなざしがチトセの横顔に差し掛かった。
「母さんの治療法と、父さんの行方を捜して……全部片づいたら、また家族になろう」
彼と目を合わせることを照れくさく感じながら、チトセも頷く。
「なんだかプロポーズみたいよ、ジュリオ」
「勝手に言ってろ」
まんざらでもない自分の気持ちに、驚きはなかった。チトセにとってジュリオの存在は日に日に大きくなりつつある。こうして傍にいるだけでも満たされた。
好きなんだもの、ジュリオのこと……。
胸の中がこそばゆい。これが幸せの感触なのだと実感する。
そんな心を落ち着かせたくて、チトセはハーモニカに口をつけた。
涼やかな月夜に『蒼き海』のソロが響き渡る。奏でるたび、その切ないメロディは、チトセの記憶の奥底にあるものを揺り起こそうとした。
空の世界には存在しない、たったひとつのハーモニカ。
チトセだけが知る、海の曲。
「相変わらず上手いな。……んっ?」
演奏していると、俄かに泉が光り出した。水面があたかも満月のごとく輝いて、暗さに慣れた目を眩ませる。
「……え?」
チトセは双眸を一度伏せ、こわごわと開いた。ハーモニカを握る手が力む。
ジュリオはおもむろに立ちあがり、薄明るくなった周囲を見渡した。
「さっきから妙なにおいがしねえか? どっちかっつーと、いいにおいが……」
懐かしい空気がその香りであることに、チトセははっとする。泉の水に触れ、一口舐めると、予想は確信に変わった。
「……海水だわ、これ。海の水なの」
「ウミって、お前が言ってるやつだよな。……うげっ、しょっぺえ!」
海水の強烈な塩辛さに、ジュリオが顔を顰める。
「なんだ、この水? 舌が焼けちまうぞ」
海の味に間違いなかった。潮の香りがチトセの脳裏にデジャヴをもたらす。
瑠璃色の海面と、遥かな地平線。浜に打ち寄せる波の音も聞こえた――気がした。
海に繋がってるんだわ、ここ。
草花が育たないのも、土が枯れていることだけが原因ではない。おそらく土壌が海水を多分に含んでおり、海洋性ではない空の植物は腐ってしまっていた。
ノアの塔は必ず白雲層の下まで続いている。
「明日から頑張りましょ、ジュリオ。絶対になにかあるのよ」
「おう。ここまで来たんだ、やってやるぜ」
広大な海との邂逅を予感しつつ、チトセとジュリオは決意を交わした。
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