蒼き海のストラトス

第4話

 翌日からノアの調査が始まる。

 メンバーはレオナルド王子をリーダーに、チトセとジュリオ。それから騎士らによって編成された『第一調査隊』が主力となった。シグナートの乗組員やロッティ、シモン医師は『第二調査隊』として、シグナート及び拠点で待機する。

 まずは五年前の調査隊の足取りを追うことになった。

 塔の外壁で剥き出しになっている階段を、第一調査隊が一列になって降りていく。螺旋階段のようだが、塔の円周が島並みに大きいため、ほぼ直線に感じられた。

 強風に髪やスカートを煽られると、ジュリオが支えてくれる。

「ズボンのほうがよかったんじゃねえの? ほら、ロッティのを借りるとかよ」

「それはそうだけど……」

 チトセは『しーっ』と唇の前で指を立て、声を潜めた。

「レオナルド様にいただいたんだもの。しょうがないじゃないの」

 探検服にしては派手なコーディネイトは、王子がじきじきに見繕ったものらしい。それを着ずに済ませるわけにはいかなかった。

 ジュリオが不満そうにむくれる。

「ちぇっ。そんなにあいつが偉いっていうのかよ」

「ばか、聞こえるでしょ」

 レオナルドの耳には届かなかったようで、チトセは胸を撫でおろした。

 どうもジュリオはレオナルド王子に好意的な印象を持っていない。同様にチトセにとっても、レオナルドは警戒すべき人物になりつつあった。

「頼るなら俺にしろよな、チトセ」

 自信満々にジュリオが鞘入りの剣を鳴らす。

「あなた、剣が使えたの?」

「父さんにずっと習ってたんだぜ? お前が知らないだけで」

 アヴィン=マクスエはアスガル王国でも名の知れた騎士だったという。ジュリオの剣はナナリーが大事に取っておいた、アヴィンの剣だった。

「その剣、お父さんはここの探検に持っていかなかったのね……」

「練習用にって、俺が貰ったやつだしな。ガキには重すぎるってーの」

 父親のことを素っ気なく語りながらも、ジュリオは懐かしそうにはにかむ。

 マクスエ家でアヴィンの話題が出ることは滅多になく、チトセも遠慮していた。しかし辛いものがあるから避けていたわけではない、らしい。会ったこともないアヴィンという人物に、親近感さえ沸いてくる。

「好きだったのね、お父さんのこと」

「そりゃな。父さんが騎士っつーのは自慢になったし」

 そんな話でもしていないと、外壁の階段が怖くてならなかった。雲が掛かるような高さにあって、一歩でも踏み外そうものなら、たちまち落下してしまうだろう。

 しかしレオナルドやジュリオ、後続の騎士らは平然としている。高い場所で恐怖を感じるチトセだけが、このメンバーでは特異だった。

 しばらく降りると、塔の内部へと侵入できる門に行き着く。

「気をつけろよ、みんな。最優先で守るべきは僕じゃない。チトセだ」

 レオナルドは足を止め、苔だらけの門を見据えた。扉は石とも金属とも判別できない、光沢のある材質でできている。

「チトセの傍を離れないでくれよ、ジュリオくん」

「……了解」

 五年前の調査であらかた駆除されたとはいえ、ノアでは魔物の存在が報告されていた。ジュリオの父親は魔物に殺された可能性もある。

 重々しい扉を開くと、俄かに潮の香りが強くなった。

「これが……ノア?」

 内部の広々とした構造を見渡し、チトセもジュリオも瞬きを繰り返す。

そこは屋内であることを忘れそうなほど広い。

「でっけえ歯車だな。いや、水車か?」

 巨大な水車が上下に並んで、遥か下のほうから水を汲みあげていた。最上段まで達した水は落とされ、水車の動力にもなっている。

透明に透き通っているそれは、香りからして海水のようだった。水路の節々では緑色の苔が群生している。

さしものレオナルドも驚きを隠せない。

「報告で聞いていた以上のスケールだね。こいつはすごいな……」

 壁面は柱だけの箇所も多く、陽光が入りやすいおかげで、塔の内部には充分な明るさが満ちていた。水面が揺らめくように波打って、きらきらと光を反射する。

 ここに……あたしの秘密が?

 疑問を胸に秘めながら、チトセはジュリオとともに内壁の階段を降りていった。

 報告にあったような魔物は見当たらず、騎士らが剣を納める。

「お前たちはこのフロアで、引き続き警戒に当たれ。僕たちは先に進む」

「ですが、自分たちは殿下の御身のため……」

「信頼しているから、こうして任せてるんだ。あとは頼むぞ」

 レオナルドの不可解な指示に、チトセは首を傾げた。

 王子が従者をつけずに行動するなど、あってはならない。しかもここは魔物が出没する危険な場所なのに。これから先の調査に関して、知られたくないのだろうか。

「行こう。チトセ、ジュリオくん」

「……はい」

 チトセとジュリオは視線を交わしつつ、レオナルドを追って下の階層を目指した。

 水車のフロアは延々と続き、一時間ほど降りても終点が見えない。階段や踊り場、橋の連続で、だんだん足も痛くなってくる。

 海水は橋の左右で滝のように流れ続けていた。しぶきが薄白い霧となって、水面に立ち込めている。

「なんのために海水を汲みあげてるのかしら?」

 ぼんやりと呟くと、先頭のレオナルドが振り向いた。

「ここの水はカイスイっていうのかい?」

「あ、いえ……知ってるわけじゃないんです。気にしないでください」

 咄嗟に誤魔化してしまったが、レオナルドの反応は『そうか』の一言だけ。しかし笑みは柔らかくとも、その瞳は含みを込め、鋭く切れ込んでいた。

 道が分かれていようと、王子の歩みに迷いはない。その手には地図もあった。

「このあたりまでは調査が済んでるからね。問題はここからだよ」

 やがて開きっ放しの門に突き当たる。

 ところが門をくぐった先は、立方体の空間でしかなかった。終点が単なる行き止まりだったことに、ジュリオが苛立つ。

「おいおい、ここまで降りてきて、そりゃねえだろ?」

「僕もそう思うよ、ジュリオくん」

 海水はまだ下へと流れているため、この道にも続きがあるはずだった。

 手前の橋からロープを降ろせば、ある程度の深さまで調べることはできる。五年前の調査団は実際にその方法で降りたらしい。が、成果はなかった。

 高度はそろそろ白雲層に達するはず。

 ジュリオは橋の欄干から下のフロアを覗き込んだ。

「……そうか。だから、飛行艇で降りようって話になったのか」

「だろうね。そしてアヴィン=マクスエは……」

 レオナルドが語ろうとした人物の名に、チトセは口を噤む。

 ノアの広さなら、内部を飛行艇で降りることも不可能ではなかった。外からでも、柱の間を上手にすり抜ければ、侵入自体は容易い。ジュリオの父はその手段を用い、さらなる下層を目指したのだろう。

 まさかジュリオも飛行艇で……。

 怖い想像をしてしまった。今の彼には、飛行艇に乗って欲しくない。

「絶対にだめよ、ジュリオ。飛行艇で降りたりしないで」

「……わかってるって」

 ジュリオの声には悔しさが滲んでいた。父親の行方を求めて、同じ挑戦をしたいのかもしれない。そのためのウインド号も、シグナートの格納庫にある。

「とりあえず、このあたりを見てみようじゃないか。僕は橋を調べるから、レディーとジュリオくんは行き止まりのほうを頼むよ」

 レオナルドの指示のもと、しばらく周囲を調査することに。

 突き当たりの部屋には、壁に奇妙なパネルがあった。

「これって、光ってるんじゃない? ジュリオ」

「……みてえだな」

 パネルには指も通りそうにない溝がある。

 こういうの、どこかで見たことあるんだけど……。

その後も三人で小一時間ほど調べてみたが、新たな発見はなかった。お腹が空くうち、集中力も途切れがちになってくる。

 チトセは橋の中央で敷物を広げ、手製のお弁当を取り出した。

「んなもん持ってきてたのか? お前なあ、ピクニックじゃねえんだぜ」

暢気な行動にジュリオが呆れる。

「でも食べなくちゃ、でしょ? ここから上まで戻らなきゃいけないんだもの」

「レディーの言う通りだね。ジュリオくんも休憩にしよう」

 チトセたちはバスケットを囲んで、一息ついた。

 今日のランチは、シグナートの厨房にあったもので作ったサンドイッチ。気が緩んだらしいジュリオが一番に手を伸ばし、もぐもぐと頬張る。

「パン生地はもうちょい焼いたほうが、俺の好みなんだけどな」

「お夕飯はあなたが作ってくれるってことね、それ」

「いいけどよ……そういや、ロッティは料理のほうはどうなんだろうなぁ」

 チトセらが談笑する一方で、レオナルドは黙々とサンドイッチを味わっている。

「あ、ごめんなさい。ふたりでばかり話しちゃって……」

「ん? いや、気にしないでくれ。それより上出来じゃないか、チトセ」

 庶民的なメニューになってしまったものの、王子の受けはよかった。チトセなりに趣向を凝らし、挟む具材にバリエーションをつけた甲斐もあったらしい。

「恥ずかしい話だよ。僕は料理をしたことがなくてね。確かジュリオくんも、料理の腕はなかなかのものなんだろう?」

「俺は一応、喫茶店の息子ですから」

 レオナルドは食事の手を休め、自嘲の笑みを浮かべた。

「ここだけの話、どうも僕は過大評価される傾向にあるんだ。さすが未来の国王、大した器だってふうにね。だけど実際は、そんなに大した男じゃないんだよ」

「ご謙遜を……」

 彼の本音に、チトセは今ひとつ共感できない。

 レオナルド=アスガルの名は、物心がついたばかりの子どもでも知っていた。剣の腕前は二十歳にして、歴代の騎士団長にもひけを取らない。正義を信条とし、格式は高くとも傲慢ではない人柄は、人気が高かった。

飛行艇の操縦に関しても、先日のスカイレースで皆の知るところとなっている。

「レオナルド様のご活躍ぶりは、フラン島にも届いてますよ」

「そうだよな。……っと、そうです。気にすることありませんって」

 ところが本人はかぶりを振る。

「単なる人間ってことさ、僕も。君たちと同じね」

 その言葉がチトセの心に沁みた。白い髪のチトセも皆と同じ、人間。

 ……うん、同じでいいじゃない。

 つっかえていたものが外れ、気持ちが少し楽になった。

「でしたら、レオナルド様もお料理に挑戦してみてはどうですか?」

「……僕が?」

 チトセの小粋な提案に、レオナルドは目を丸くする。

「あたしから料理長にお願いしてみます。それでいいでしょ、ジュリオも」

「は? なんで俺に聞くんだよ」

「作ってくれるんじゃないの? お夕飯。ついでにレオナルド様に教えてさしあげて」

 ジュリオはぎょっとして、畏れ多い王子と顔を見合わせた。

 レオナルドが破顔一笑する。

「いいね! 僕に教えてくれないか、ジュリオくん。いや、ジュリオ先生かな」

「はあ……わかりましたよ。わかりましたから」

 今から夕飯が楽しみになってきた。ジュリオが気後れしながら王子に手ほどきするのを、想像するだけで、にやけそうになってしまう。

「頑張ってください、レオナルド様。ジュリオ、ちゃんとサポートするのよ」

「へーへー。ったく、元気が出たと思ったら、これかよ……」

 ジュリオの溜息はやるせなかった。

 

 

 ランチのあとも調査を続けたが、これといった進展もなく、引きあげることに。

 シグナートに戻ったら、すぐにレオナルドの『調理実習』が始まった。城では自由の利かない立場だからこそ、こういった機会を逃したくないのだろう。

シグナートのクルーも温かく見守っている。

 厨房ではジュリオとレオナルドがエプロンをつけ、調理に当たった。

「そんなに力まなくても切れますよ」

「ふむ……思ったより難しいな」

 手際のよいジュリオに比べ、初心者のレオナルドは包丁の扱いにも手こずっている。

 シグナートには常温でも保存の利く食材が多めに蓄えられていた。氷河島の万年氷によって、卵や肉類も冷凍されている。

 やがてレオナルドは初めてなりにクリームシチューを完成させた。

 むしろジュリオのほうが安堵した顔つきで額を拭う。

「もっとじっくり煮込むと美味くなるんですけど、今日は時間もありませんから」

「みなを待たせるわけにもいかないしね。勉強になったよ、ありがとう」

 レオナルドの表情も達成感に満ちていた。

 そんな微笑ましい様子を眺めつつ、チトセはもうひとりの料理人をじとっと睨む。

「……それ、どうするの? ロッティ」

「う。気づいてたわけ?」

 黒焦げの食材をこっそり隠そうとしているのはロッティだった。王子に手製のデザートを振舞うと意気込んでいたはずが、出来上がったのは『それ』。

「お料理がこんなに難しいなんて、知らなかったわ……」

「練習しなくちゃね」

 ロッティは厨房の隅っこで頭を抱え、珍しく落ち込んでいた。

 ジュリオたちに気づかれないうちに、彼女の失敗作を片づけておく。

 シグナートの食堂には乗組員が集まり、王子の手料理を待っていた。香りのよいシチューの出来栄えに、皆が感嘆の声をあげる。

「おおっ! お上手ですよ、殿下」

「ジュリオくんに教わった通りに作ったのさ。冷めないうちに食べてくれ」

 チトセの右にはレオナルドが、左にはジュリオが座った。

 定着しそうね、このポジション……。

ふたりの緩衝材になっている気がしなくもない。

 ジュリオのサポートもあって、レオナルド王子のシチューは美味だった。ロッティの失敗作を見たせいか、チトセにはいっそう上手に思える。

「美味しいです、レオナルド様」

「喜んでもらえてなによりだよ。また、別の料理にも挑戦したいな」

 右を向いて話していると、左から声を掛けられた。

「チトセ、ほっぺ。子どもじゃねえんだからよ」

 頬についていたらしいシチューを、指の背で拭き取られる。

「なによ、もう。あなただって、ちょっと前までは子どもっぽかったくせに。昔は『俺』なんて言わなかったし……」

「いつの話をしてんだ」

「三年くらい前? 急にカッコつけるようになったじゃない」

 左のジュリオと話していると、今度は右で小さな笑いが漏れた。

「……ふふっ」

 チトセとジュリオの痴話喧嘩じみた小競りあいを眺めて、レオナルドがはにかむ。

「仲がいいんだね、君たちは。羨ましいよ」

「いえ……家族ですから」

 チトセは照れ、はぐらかした。他人から見ても『仲がいい』のだから、ジュリオとの関係に自惚れてしまいそうになる。

『母さんの治療法と、父さんの行方を捜して……全部片づいたら、また家族になろう』

 昨夜ジュリオに投げかけられた言葉に、期待もあった。彼も同じ気持ちでいてくれるのなら、チトセの薬指にリングがつくことになるかもしれない。

 ……さすがに気が早いかしら?

 そんな妄想を見透かすかのように、ロッティが呆れる。

「ほーんと仲がよろしいことで。ねえ、殿下?」

「僕も失敗作を隠してもらえるくらい、仲良くなりたいよ。ロッティくん」

「へっ? い、いえ、あれはその……!」

 お菓子作りの件はばれていた。ロッティの慌てふためくさまに、皆が陽気に笑う。

「と、ところで殿下、下のほうはどうだったんですか?」

「そうだね……前回の調査隊の足取りを辿ることはできた、かな」

 シチューはどんどん減り、完食となった。

 

 食事の片づけはチトセとレオナルドが担当することになった。ジュリオやロッティには飛行艇の整備があって、しばらく手が離せない。

 拙い手つきで皿を洗いながら、レオナルドは呟いた。

「やはりジュリオくんには、あまりよく思われていないようだね、僕は」

 チトセはぎくりとして、当たり障りのないフォローに入る。

「そんなことありませんよ。ジュリオは誰にでも、あんな感じですし……」

 王子に対するジュリオの態度がぎこちないのは、おそらく不慣れな敬語のせいだった。普段からタメ口で商売しており、それは喫茶店の接客でも変わらない。

「シモンには普通に話すじゃないか」

「先生とはほら、付き合いも長いですから」

 レオナルドが洗い終えた食器を、チトセは順番に拭いていった。その流れ作業もチトセのほうに遠慮があるせいか、たまに途切れ、間ができる。

「君ともまだ距離を感じてしまうよ。孤独を気取ってるつもりはないんだけどね」

 今夜の彼はマイナス思考の口数が多かった。皆の前では威風堂々としている王子の、弱音を吐く人間らしい素顔に、チトセは親近感を抱きつつある。

「どうしたんですか? レオナルド様」

「いや……実はね、今回の探検は僕にとって、最後のモラトリアムなのさ」

「モラトリアム?」

 王子にとっての猶予。その意味するところは、チトセでも想像はつく。

「城に帰ったら、いよいよ次期国王として行動を始めないといけないんだ。だからかな、もしそういう立場になかったら、君たちみたいに過ごせたのかと思って、ね……」

 大航空時代がもたらしたのは、飛行技術の発展や、貿易による市場の拡大だけではなかった。国家間の思惑が交錯し、摩擦も生じている。

 アスガル王国もひとつの国家として、権威の誇示が必要不可欠だった。聡明な現国王に続き、次代を担うレオナルドの双肩にも王国の安泰がかかっている。

「応援しますよ、あたし」

「嬉しいね。君に傍で支えてもらえるなら、心強い」

 急に話が飛躍し、困惑させられた。

 レオナルドの姉だったクローディア姫も、唐突に決まったような縁談を受け入れ、隣国へと嫁いでいる。王侯貴族にとっては、それが普通のペースなのだろうか。

「あ、あの、レオナルド様……ガラスの靴の件ですけど……」

「僕の都合で悪いが、ノアの調査が終わるまでに返事をくれないか」

 YESと答えれば、レオナルド王子に花嫁として迎えられる。それはきっと、女性にとって最高の幸せに違いなかった。

 けれどもチトセの気持ちは別の男性に向いている。

「いいね? レディー」

「……はい。ちゃんと考えておきます」

 ここでジュリオの名前を出せば、またジュリオを巻き込みかねなかった。かといって上手な言い訳も思いつかず、レオナルドに気を持たせてしまう。

 このままじゃいけないのに……。

 優柔不断な自分を、チトセは心の中で軽蔑した。

レオナルドの好意をないがしろにしておきながら、ほかの男性のことばかり考えて。気持ちがジュリオのほうに揺れると、今度はレオナルドに申し訳なくなる。

「おい、チトセ」

 不意に声を掛けられ、心臓がびくっと跳ねあがった。

「ジ、ジュリオ? びっくりするじゃない」

「そんなに驚かなくても……あぁ、ロッティが風呂に行こうってよ」

 虚を突かれたせいもあって、不自然に警戒してしまう。チトセは我が身をかき抱き、入浴時の覗きには前科もある弟(兄)をねめつけた。

「……なんでそれを、あなたが言いに来るのよ。ロッティが来ればいいことでしょ」

「まだあのこと根に持ってんのか? 何回も謝ったじゃねえか」

 レオナルドが不愉快そうに割り込んでくる。

「ちょっと待て、ジュリオくん。どういうことかな」

「な、なんでもありませんって! ……チトセ、お前も余計なこと言うな」

 逃げるジュリオが小憎らしい。

 

 

 ノアの調査が始まって三日が過ぎ、四日目の朝を迎えた。同じところを探索するばかりで、依然として目立った成果はない。メンバーにも疲労が見え始めている。

 ジュリオやロッティの飛行艇で外壁を辿ってみる案も出たが、白雲層の存在もあって却下となった。五年前の調査では、アヴィン=マクスエが行方不明にもなっている。

 島の外は重力が弱いため、離陸さえ成功すれば、飛行艇が飛ぶのは難しくなかった。ところがシモンの分析によれば、白雲層では島と同等の重力が働くという。

「つまりじゃ、実は白雲層が普通で、空のほうがおかしい、っちゅう見方もある」

 ノアの屋上で、チトセはシモンとともに天候を観察していた。

「重力異常といったところかのぅ」

「おかしいのは、空……」

 昨夜は少し雨が降った空は、真っ青に晴れ渡っている。

 五年前の拠点もすでに調べ尽くしていた。

「ねえ! これって、なに?」

しかしそこでロッティが奇妙なものを見つける。

 掲げられたのは、一枚のカード。

 シモンはカードを受け取り、難しそうに眉根を寄せた。

「あぁ、これは五年前の調査でいくつか見つかったという……。磁気を帯びとるようなんじゃが、なんのためのものなのか、わからんままでな」

 チトセにはそのカードに既視感があった。おぼろげな記憶の中、自分の目の前で誰かがそれを『使った』のを思い出す。

『御船博士、至急、第三研究室までお越しください』

『あーもう、せっかく千歳と一緒なのに』

 イメージの通りなら、例の突き当たりで何かが起こるはず。

「わかったかもしれません、先生」

「本当か?」

 そう確信し、チトセはレオナルドのもとに急いだ。

 

 チトセ、ジュリオ、レオナルドの三人で、ノアの内部を降りられるところまで降り、行き止まりの四角い部屋に辿り着く。

「本当にわかったのかよ? チトセ」

「多分……あんまり自信はないんだけど」

 ジュリオは半信半疑の、レオナルドは期待の面持ちで、チトセの行動を見守っていた。チトセは固唾を飲んで、例のカードをパネルの溝に差し込む。

『管理者用あかうんと1029……照合シマシタ。きーこーどヲ入力シテクダサイ』

 頭の上で女性の声が響いた。

「な、なんだって?」

「誰だ? どこにいるんだ!」

 ジュリオもレオナルドも動揺し、声の主を探す。

 やっぱりこれで動くんだわ。でも……。

 屋上の拠点に転がっていたのはカード状の鍵だったらしい。そこまでは推測が当たったものの、キーコードなど、チトセには見当もつかなかった。

『きーこーどヲ入力シテクダサイ』

「どうしよう……正解の言葉なんて、わからないのに」

 レオナルドたちはそもそも音声の『言語』を理解できずにいる。

「レディー、この声はなんと言ってるんだい?」

「言葉が必要なんです。キーコードが……」

 ふと思い当たったのは、いつぞやレオナルド王子が口にしていたものだった。

「……タイダリア?」

 アスガル王家に伝わる、何らかの名称らしい。

しかし待てども反応はなかった。レオナルドが無念そうに溜息をつく。

「一旦戻って、シモンに相談してみようか。やっと進展したと思ったんだが……」

 一方、ジュリオはさほど困った様子でもなかった。

「片っ端から思いつくのを言ってみりゃ、当たるんじゃねえの?」

「そうね。やってみるわ」

 求められているキーコードはおそらくノアの言語だろう。チトセの知っている言葉である可能性は高い。記憶の中を探しつつ、色々な単語を発してみる。

やがてそれらしい語彙も尽き、言葉が出てこなくなった。

「はあ……だめね。もう喉が渇いちゃって」

「待ってろ。今、水筒を……」

 ジュリオが水筒をひっくり返し、唖然とする。中身がもうない。

「おいおい、嘘だろ? なんで入ってねえんだよ」

「参ったね……。そのあたりの塩水は飲めないし、上まで我慢するしか」

「……海の、水……」

 滝のように流れる海水を見詰め、チトセは閃いた。ノアの屋上で泉が光ったのを思い出しながら、青いハーモニカに唇を添える。

海の水があの曲で光るんなら、ひょっとして……。

「レディー? 何を」

 ハーモニカという楽器を知らないレオナルドは、首を傾げた。ジュリオが『お静かに』と声を制し、チトセの演奏を待つ。

 水音に紛れながらも繊細なメロディが響き渡った。『蒼き海』の儚くも懐かしい旋律が、奏者のチトセを無意識のうちに陶酔させる。

『――きーこーどノ照合ヲ完了。ゆーざーヲ1029デハナク、御船千歳ト認識』

 自分の名前を告げられ、チトセは我に返った。

 ミフネ、チトセ……?

 行き止まりの部屋が駆動し、自動で柵を閉じ始める。

「おい、チトセ?」

「行きましょ! これで降りられるの!」

 チトセと、それを追ってジュリオも四角い部屋に飛び込んだ。

「ま、待つんだ! チトセ!」

レオナルドが制止する間もなく、『エレベーター』が降下していく。

飛行艇で急降下するような負荷が全身に掛かった。チトセとジュリオは姿勢を低くし、その重さに耐えながら、終点を待つ。

相当な距離を降りて、ようやくエレベーターは止まった。

「着いた、のか……?」

「そうみたい。どれくらい降りたのかしら……」

白雲層より下まで来たのだろう。ふたりはエレベーターから出て、新たなフロアを見渡した。巨大な水車が海水を汲みあげているのは、上のフロアと変わらない。

「……こっちよ、ジュリオ!」

壁面の窓から外の世界を一望し、チトセは金色の瞳を輝かせた。

眼下に広がっているのは、瑠璃色の海。上空は白雲で覆われているため、日差しは弱いが、揺らめく海面を充分に目視することができる。

 海はあった。チトセだけが知っていた『蒼き海』が、そこに。

 同じ光景を目の当たりにして、ジュリオは驚愕し、前のめりになった。

「こ、これ全部、水なのか?」

 サファイアの宝石が波打っているかのような一面の海景色に、『すげえ』と息を飲む。

「冗談だろ、空が水でいっぱいになってるなんて……」

「言ったでしょ? あれが海なの」

 波の音を聴くには、海面はまだまだ遠い。

 ジュリオと一緒に海との邂逅を果たせて、嬉しかった。今度はチトセのほうがジュリオを新しい世界へと導くことができて、お相子となる。

 塔の中をさらに降りていけば、海面にも出られるに違いない。

「おい、もういいのか? 不思議に思わねえのかよ、お前は」

「島が浮いちゃってるほうが不思議なんだってば」

 青い海原に胸を躍らせながら、チトセはほかのルートを探した。エレベーターまでの道を戻りつつ、途中で分岐点がなかったかを確かめていく。

「……なあ、チトセ。俺たち、ふたりだけで降りて来ちまったけど……」

「え? ……あっ、レオナルド様!」

 しかしエレベーターの前まで戻って、大変な状況に気づいた。レオナルドを置き去りにして、勢いで降りてきてしまっている。

「やだ! 止まって!」

 そのうえエレベーターはチトセたちを乗せることなく上昇を始めた。降下に比べて上昇は遅く、往復するには、相当の時間が掛かるだろう。

 遠のく昇降機を見上げ、チトセとジュリオは半ば呆然とした。

「……殿下はあれの使い方、わかると思うか? 下手すりゃ、俺たちも戻れねえぞ」

「ごめんなさい。先走っちゃって……」

 しばらく待ってみたものの、レオナルドが降りてくる気配はない。

「じっとしててもな……チトセ、そのへんを調べてみようぜ」

「うん。あとで戻ってきましょ」

 合流はあとまわしにして、探索を再開する。

 ジュリオの顔には期待と焦りが入り混じっていた。塔の内部で行方不明になった父、アヴィンの手がかりがあるかもしれない。

 これより下への階段は見当たらず、水車によってリフトが上下していた。

「掴まれ、チトセ」

落下しないようジュリオに手を引いてもらいながら、次のリフトへ移っていく。

 足場の悪い場所が続くせいもあって、鼓動が鎮まらなかった。ジュリオの手をしっかりと握るうち、汗ばんできてしまって恥ずかしい。

「無理するなよ」

「だ、大丈夫。平気だから」

 本当は大丈夫でも平気でもなかった。

ナナリーの治療法を見つけ、一緒に帰れば、またジュリオと家族になれる。チトセとしては、ウインド号で飛びまわる彼を待つだけの日々より、三人でお店を続けたい。

「ねえ、ジュリオ。も……もしもよ? あなたのお嫁さんが『飛行艇に乗らないで』って言ったら、あなた、どうする?」

「んなの、聞くわけねえだろ。好きで飛んでんだからよ」

ジュリオはしれっと即答し、肩を竦めた。

「俺に飛ぶのを辞めて欲しいのか? お前は」

 本音を悟られ、チトセは動揺する。

「ち、違うってば! ちょっと聞いてみただけで……きゃっ?」

「落ちるぞ? じっとしてな」

 おまけにジュリオの腕に抱かれ、顔から火が出そうになった。足場が不安定では暴れるわけにもいかず、チトセはジュリオに寄り添う姿勢で、バランスを保つ。

 片腕で抱き込まれるくらいに自分が華奢なのか。

それとも彼が逞しくなったのか。

「お前はやっぱ飛行艇が怖いんだよな。無理に乗せたりはしねえから、さ」

「飛行艇じゃなくて、高い場所が怖いのよ」

 リフトを降りても、ジュリオはチトセから手を離さなかった。チトセもそれが自然に思えて、胸は高鳴っているのに、とても和やかな気持ちになる。

『僕の家においでよ』

窮屈な揺りかごから自由な空へと解放してくれた、あの男の子が微笑んだ。その瞬間から、チトセの記憶には鮮やかな色がついている。

ジュリオと一緒に空の色に染まった日々。

好きなのよ、あなたのことが……。

チトセの瞳には彼の横顔が溶け込むように映っていた。

 やがて海水の流れていない、ドーム状の空間に辿り着く。シグナートのメインブリッジと構造が似ており、前方は全面が窓になっていた。

海面はまだ遠い。

ドームの天井にはフラスコのような水槽がぶらさがっていた。中はおそらく海水で満たされ、こぽこぽと泡が湧いている。

……あたし、ここにいたの?

この空間にも既視感があった。しかし記憶の映像はやけに揺らめく。

「ここで水車を制御してるんじゃねえか? すげえ技術だな」

「でもコントロールなんて、どうやればいいのかしら……」

 中央のパネルにチトセの手が触れると、少女のビジョンが浮かびあがった。立体的な映像の精巧さに、ふたりは目を丸くする。

『オ帰リナサイ、御船千歳』

 その少女はチトセの、五、六歳くらいの頃の姿だった。同じ白い髪が波打つ。

「あ、あなたは……?」

『のあノ管理ヲ一任サレテオリマス。あにえるヲ、オ忘レデスカ?』

 アニエルのビジョンに無数の数式が流れた。瞳の色は赤や青にも変わる。

『御船千歳、ゴ用件ヲドウゾ』

「ちょっと待って? あたしには、なにがなんだか……」

 チトセは混乱し、熱っぽい額を押さえた。

ふらつくと、ジュリオが背中を支えてくれる。

「落ち着けって。こいつはなんだって?」

「う、うん。この子はアニエルっていって、あたしに『用件は何だ』って聞いてるの」

 ノアの言語を理解できるのは、やはりチトセだけらしい。

 おそらく彼女はチトセの正体を知っていた。しかし質問しようにも、戸惑いが大きく、言葉にならない。心臓が怯えるほど、不安は膨張する。

 あたしは誰なの……?

 チトセはごくりと息を飲んだ。すぐには踏み出せそうにない。

「あ、あの! 言葉を……ジュリオにもわかるようには、できないの?」

『検証中。……アヴィン=マクスエとの会話データより、言語の構築に成功しました』

 アヴィンの名前にジュリオが顔色を変えた。

「アヴィンだって? お前、俺の父さんを知ってるのか!」

 アニエルが淡々と語り出す。

『御船千歳の同行者、発言を許可。……アヴィン=マクスエは4036年、獅子の月、14日に侵入。致命傷のため、治療できず。栄養剤のみを投与』

 彼女の手前にある突起が内側から開き、一冊の手記を差し出してきた。

『アヴィン=マクスエのものです』

「父さんのっ?」

 ジュリオがそれを焦ったように手に取り、ぱらぱらと捲っていく。

 チトセも横から覗き込んで、押し黙った。

アヴィン=マクスエの手記には、ここに辿り着いてから七日間のことが、びっしりと綴られている。その最期の七日を、彼はアニエルとの会話に費やしたようだった。

 五年前の出来事が明らかになる。

 

 一日目。飛行艇でノアの中を降りていたら、重さに舵を捕らわれた。なんとか下のフロアには着いたが、飛行艇は破損。私も負傷し、身体がまともに動かない。

 二日目。すまない、ナナリー、ジュリオ。私はここまでだ。

 三日目。目の前に現れた少女は、死神ではないのか。私は彼女との会話を試みたが、意思疎通はできなかった。

 四日目。まだ意識はある。少女との会話を続ける。

 五日目。だんだんと言葉が通じるようになってきた。彼女の名はアニエル。後ろで眠っている子はミフネチトセというらしい。

 六日目。ノアを制御しているのは、後ろの女の子だという。よくわからないが、彼女を媒介にして、コントロールを維持している、と……。私にはノアが、この子たちにとって大きな棺桶のように思えてならない。

 七日目。まだ身体が動く。私は残された力を何に使うか、決めた。ノアの生体コアにされた、この哀れな少女を、自由な空へと解放してやりたいのだ。

 

 チトセは蒼白になり、震えを禁じえなかった。

 おぼろげだった記憶が恐ろしいほど鮮明になっていく。

『彼はノアの小型船に御船千歳を乗せ、空へと放つことに成功したのです』

 かつてのチトセは、ノアに組み込まれた『生体コア』だった。チトセの神経や脳波を介することで、ノアの全体にコントロールが行き渡っていたらしい。

 二千年もの間、ずっと。

 ところが五年前、チトセはアヴィンによって救出された。それから小さな舟を揺りかごにして、一年ほど空を彷徨い、ジュリオに発見されている。

『海の民がなき今、ノアの制御権は御船千歳、あなたにあります。生体コアがありませんので、実行できる命令は限られますが』

 ショックのあまり、チトセはその場でくずおれた。

「……あ、あたしは二千年前の、人間……?」

「しっかりしろ、チトセ!」

 ジュリオも屈んで、チトセの肩を揺する。

 今まで忘却していた情報が、頭に一気に雪崩れ込んできた。この身体には『海の民』の血が流れており、金色の瞳は海水に強い。

 白雲層に遮られ、太陽の光が届きにくいため、髪の色味も変化したのだろう。

 事の発端は今より二千年前。

月の位置が変わったことで、引力が狂い、海と陸のバランスが崩れた。それは重力異常をもたらし、大陸は地表から剥がれ、空に浮かんだ。

やがて大陸と海との間で戦争が起こった。

 その結果、大陸は無数の島に分かたれ、海は白雲層で覆われた。

 このノアは、海に沈みゆくひとびとが、空にのぼるために建造したもの。しかしそれは叶わず――おそらく御船千歳だけが、ノアの生体コアとして生き延びた。

 それまでのあらましを、アニエルがジュリオに明かす。

『……以上です。ご理解いただけましたか』

「あ、ああ。俄かには信じ難いけどな」

 世界の真相に戸惑いながらも、ジュリオはまだ落ち着き払っていた。

「でもよ、アニエルだっけ? お前はチトセを逃がすのを止めなかったんだな」

『私はアヴィン=マクスエの行動の是非を判断する立場にありませんでした。情報を提供したのも、単に彼に協力してはならない理由がなかったからです』

 チトセはジュリオの胸元にしがみつき、涙を浮かべる。

「ジュリオ、あたし……」

「気にすんなって。大昔のことじゃねえか、お前はなにも変わらねえよ」

 きっとひとりでは耐えられない苦しみだった。ジュリオに抱き締められると、二千年も昔ではない、『今』が自分の時間に感じられる。

 コントロールルームにレオナルド王子もやってきた。

「……すまない。出るタイミングがなくてね、立ち聞きしてしまったんだが」

上品に片膝をついて、チトセの涙に濡れた頬を拭おうとする。

「レオナルド様……」

「待ってください。チトセはまだ」

 悲嘆に暮れている場合でもなかった。レオナルドのまなざしがチトセを鼓舞する。

「とりあえず望みを叶えるといい。話はあとにしよう」

 ここに来たのは、ナナリーの病気を治すため。彼女を『お母さん』と呼ぶためにも、ハクカ熱の治療法を持ち帰らなければならなかった。

 チトセはおもむろに立ちあがり、アニエルのビジョンと向かいあう。

「知っているなら、教えて。お母さん……ナナリーさんのハクカ熱を治したいの」

『その病名はデータにありません。症状をご説明ください』

 風邪に似た症状が出ること、特に皮膚が白化することを強調して伝えると、アニエルの全身にまた無数の数列が流れた。

『検索完了。該当する病気を一件に絞りました。保存している薬品は二千年ほど前のものになりますが、使用は可能と判断します』

「そ、それ! それをちょうだい!」

 先ほどアヴィンの手記が出てきたところから、緑色の薬液が入った小ビンが現れる。製法に関しての記述も、古代語によるものが添えてあった。

 ジュリオがほっと安堵を浮かべ、肩の力を抜く。

「意外にすぐ見つかったな。あとは島に持って帰るだけか」

「帰りはシグナートでフラン島に寄ってあげるよ。君たちはそこで降りるといい」

 だんだんと実感が湧いてきた。この薬があれば、ナナリーは助かる。

 肩の荷がおりた思いで、呼吸も落ち着いてきた。自分が遠い昔の人間だったことは、今はさておいて、フラン島が恋しくなる。

『ほかにご用件は?』

「あ、えぇと……レオナルド様、上には戻れるんですか?」

「あの上下に動く箱なら、機能してるよ」

 ここまで来ることができたのも、レオナルド王子のおかげだった。結婚の申し出は断るつもりでいる以上、せめて別の何かで恩を返したい。

 チトセはアニエルへと振り向き、問いかけた。

「もうひとつ、いいかしら。タイダリア……っていうの、ある?」

『……御船千歳の肉声により、タイダリアの最終解除コード、確認しました』

 レオナルドが不敵にはにかむ。

「ありがとう、チトセ。これで僕もアスガル王国にいい土産ができたよ」

「はい。タイダリアがどんなものなのかは、知りませんけ、ど……」

 チトセの脳裏で不意に恐るべき光景が蘇った。

 海面から噴きあがった怒涛の水柱が、空の大陸を打ち砕く――そのシーンが何度もフラッシュバックし、激しい頭痛をもたらす。

「あぐっ、ん、うぁ……?」

「どうした、チトセ! 痛むのか?」

 蹲るチトセを、すかさずジュリオが抱え起こそうとした。

ところがそれを、レオナルドが不意打ちで弾き返す。

「われらがノアの女神に空の民が触らないでくれるかな、ジュリオくん」

「な……なんだって?」

 ジュリオとレオナルドの間で緊張が走った。

チトセは悶絶し、両手で頭を抱え込む。

「やっ、やめて、アニエル! あれを起動しないで!」

「そうはいかないよ。アニエル、僕も海の民の末裔だ。生体コアに従うべきか、僕に従うべきか、お前ならわかるはずだ」

 チトセの苦悶から目を逸らすように、アニエルは瞼を伏せた。

『外壁を分離します』

「そうだ、それでいい。ふふふっ……さあ、タイダリアとやらを僕に見せてくれ!」

 ノアが異様な振動を始める。すべての水車が回転を速め、海水を巻きあげた。

チトセは半身を起こしながら、アニエルに起動の中止を訴える。

「やめてっ! 上にはロッティたちだっているのよ!」

「心配いらないさ、レディー。このノアはすでに僕らの制御下にある」

 窓の向こうで、塔の外壁が剥がれていくのが見えた。上のほうから古い飛行艇の残骸が落ちてきて、チトセたちの目線の高さを通り過ぎる。

 ジュリオが大きく前に踏み出した。

「まさか、父さんの……?」

「アヴィン=マクスエか。女神を聖域から追い出すとは、とんでもない大罪人だね」

 レオナルドの冷ややかな侮辱が、ジュリオの神経を逆撫でする。

「てめえ……っ! 最初からこのつもりで、チトセを利用しやがったな!」

 ジュリオは怒りとともに剣を抜き、王子に切っ先を向けた。

 レオナルドも両刃の剣を構え、ジュリオと対峙する。

「僕とて、すべてを知っていたわけじゃない。ただ……これだけははっきりさせておこうか。レディーは僕の花嫁となる。君は母親の薬だけ持って、おとなしく身を引け」

「王子だろうが関係ねえ。チトセは、俺が連れて帰るっ!」

 ふたりの剣が荒々しく激突した。

 ギン! ガキンッ!

刃が交差するたび、耳障りな金属音が響く。

「うぅ、ジュリ、オ……!」

 頭痛に耐えながら、チトセはハクカ熱の特効薬を握り締めた。自分がどうなろうと、これだけはジュリオに、母のもとまで届けてもらわなければならない。

「お願い! ……お母さんを、助けて……!」

 ところが全身に強い痺れが走って、力が抜けてしまった。薬液の瓶が床に転がる。

「チトセ、すぐに俺が……ぐあっ?」

 それを拾おうとして屈んだジュリオに、レオナルドが強烈な蹴りを叩き込んだ。ジュリオの身体が『く』の字に折れ、発作的に咳き込む。

「個人的には、君は父親より許せないよ。レディーと一緒に暮らしてただなんて……」

「はぁ、はあ……悪かったな。間違えて、風呂で裸を見たこともあんだぜ?」

 それでもジュリオは往生際の悪い挑発を続けた。飄々としていたレオナルドの顔に、ありありと不快感が露になる。

「……ちっ。そいつを持って、さっさと消えろ!」

 苛立たしそうにレオナルドはジュリオの剣を奪い、投げ捨てた。

 ジュリオの目の前にはハクカ熱の特効薬が転がっている。

「冗談じゃねえ、はあ、俺はチトセを……」

『御船千歳の接続を開始します』

 どこからともなくチューブが伸び、チトセの四肢にまとわりついた。

「たす、けて……ジュリオぉ……!」

頭の中で火花が散るような感覚がして、意識が遠のく。

「チトセーーーっ!」

慟哭が響き渡った。それがジュリオの声だと知りながら、チトセは気を失う。

 

『タイダリア、起動完了しました』

 再びアニエルの声を聞いた時、ジュリオの姿はもうなかった。

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