蒼き海のストラトス

第2話

 朝のうちにアスガル本島を発って、昼前にはフラン島へと帰ってきた。

一昨日に続いて昨日も、ナナリーがひとりで店を切り盛りしてくれたに違いない。今日こそはランチタイムを手伝おうと、チトセはジュリオとともに帰宅を急いだ。

 ところが、店の扉にはまだ『準備中』の札がかかっている。

「……母さんのやつ、どうしたんだ?」

「おかしいわね。もうお昼なのに」

 チトセたちは首を傾げつつ、扉を開けた。

 昼時には定番の美味しそうな香りが漂ってこず、照明も落ちている。店内はしんと静まり返っており、チトセとジュリオの足音がやけに響いた。

 カウンターの裏で何かを見つけたらしいジュリオが、声を荒らげる。

「母さんっ? おい、しっかりしろ!」

 驚きのあまり、チトセは呆然としてしまった。

「う、嘘……でしょ?」

お土産でいっぱいの手提げを落とし、中身をばらまく。

 ナナリーはエプロン姿で床に横たわっていた。額にはべっとりと汗をかいており、息も荒い。ジュリオが気つけ程度に頬を叩くと、苦しげな呻きが返ってくる。

「俺が部屋まで運ぶ。チトセは早く医者を呼んでくれ」

「え? で、でも……」

「医者だ! シモン先生が暇してるはずだろ?」

 動揺しつつ、チトセは我に返った。

「わ、わかったわ。お母さんをお願い!」

介抱はジュリオに任せ、急いで外に飛び出す。

 お母さんが倒れちゃうなんて……。

 俄かには信じられなかった。柔らかい笑顔で『おかえりなさい』と言ってもらうつもりだったのに。強迫的な焦燥感に駆られ、全力で走っていても、もどかしい。

 

 小さな田舎のフラン島には、医者と呼べる人物はひとりしかいなかった。人望の厚い初老の男性で、皆から『シモン先生』と慕われている。

 ナナリーの喫茶店にもたまにコーヒーを飲みに来ていた。

「ふぅむ……どうしたものか」

 チトセはジュリオと不安を募らせながら、診察が終わるのを待つ。

 ベッドで楽な姿勢になっても、ナナリーはつらそうに息を切らせていた。その様子をシモンが、張り詰めた表情で覗き込む。

「ひとまず命に別状はないようじゃ。あくまで現段階では、な」

 医師の回答はとても安心できるものではなかった。

 シモンは決して無神経な人物ではない。おそらく慎重に言葉を選び、そのうえでチトセたちに現状を説明している。

「発熱と咳は、熱病の典型的な症状と言えようが……手首のあたりをよく見てみい」

 チトセとジュリオは隣りあって、恐る恐るナナリーの右腕を確認した。

 日焼けの少ない綺麗な肌が、うっすらと白化しつつある。

「お、おい、先生? なんなんだよ、こいつは!」

 ジュリオに前のめりで問い詰められるも、シモンは静かにかぶりを振った。

「わしにもわからん。この島の病ではないようでな、わしも初めて見る」

「島の病気じゃない、って……でも、母さんがフラン島を出たのなんて、最近じゃ、スカイレースの観戦に行ったくらいだぜ?」

 無意識のうちにチトセはくずおれ、愕然とする。

「お母さんが、そんな……」

一緒に暮らしているのに、ナナリーの不調に気づけなかった。優しい母のことだから、息子たちに心配を掛けまいと、無理をしていたのかもしれない。

「一昨日までなんともなかったじゃねえか……」

 ジュリオも肩を落とした。険しい表情に悔しさが滲む。

「落ち着け。症状について、わかる限りのことは説明しよう。チトセもよいか?」

「……お願いします、先生」

 名医はカルテに目を通しつつ、顎鬚を撫でた。

 シモン=ピオットはアスガル本島で大病院を営んでいた経歴があり、考古学者としても名高い。嘘か真か、レオナルド王子の家庭教師を務めた人物でもあった。

「そうじゃのう、ふむ……『ハクカ熱』とでも呼ぶか」

 ナナリーが苦しそうに寝返りを打つ。

 この病気は症状がインフルエンザに似ており、余所の島からもたらされた可能性が高かった。現にナナリーの店には、色んな島から大勢の客がやってくる。

ところがチトセやジュリオには何ら影響が見られない。ハクカ熱の症状が現れているのは、現時点ではナナリーのみ。

 何より不可解なのは皮膚の白化現象だった。右手の甲のあたりは色が落ちて、石のような色合いになってしまっている。

 シモンは壊れ物にでも触れるかのように、注意深く触診を続けた。

「少し硬くなってきておる。……心配じゃろうが、あまり触らんようにな」

 ふとナナリーが目を覚ます。

「……あら、シモン先生? どうしてここに……」

「お、お母さんっ!」

 チトセはジュリオよりも前のめりになって、涙を浮かべた。

 ナナリーの表情は力なく疲れきっている。

「そうだわ、早くお昼の準備をしないと……ゴホッ! ケホッ!」

「無理すんなって、母さん! 店どころじゃねえだろ」

 今にもナナリーに抱きつきそうなチトセを押さえながら、ジュリオは眉を顰めた。

 ひどく咳き込むナナリーに、シモンがガーゼを差し出す。

「今は休め。なあに、すぐよくなるじゃろうて」

「……お手数をお掛けして、はあ、ごめんなさい。先生……」

「医者が病人を診るのは当たり前じゃよ」

 ナナリーを休ませるため、チトセたちはおずおずと寝室をあとにした。

 大丈夫かしら、お母さん……。

 いつもは賑やかなランチタイムの店内が、今日は空席だらけで寂しい。ナナリーの亡き夫が愛用したというレコードプレイヤーは、針がレコード盤から浮いている。

 ジュリオが『臨時休業』の札を外にかけ、戻ってきた。

「参ったな。……まさか、母さんがよ……」

 ふたりでお土産をたくさん持って帰ってきたのは、ほんの一時間ほど前。母親に免許証を見せびらかすこともできず、さすがの彼も気落ちしていた。

 カウンターの席にシモンが腰を降ろす。

「元気を出せ、ふたりとも。不治の病と決まったわけでもないんじゃ」

 コーヒーを勧めながら、チトセは視線を落とした。

「……ですけど」

 あまりに突然のことで、まだ気持ちの整理ができていない。不安の大きさに対し、病気についての情報は少なく、嫌な想像ばかりが脳裏に浮かんだ。

 落ち込むチトセを見かね、シモンが頭を撫でてくれる。

「わしも色々当たって調べてみる。その間、お前はナナリーの食事や風呂を世話してやっとくれ。チトセ、お前にしかできんことじゃ」

「あたしにしか……」

 自分にもできることがある――沈みきっていた気持ちが、少しは浮上した。

「わかりました。お母さんには栄養を取ってもらわなくちゃ」

 チトセは顔をあげ、エプロンを結びなおす。

「その意気じゃよ。ジュリオ、お前は男なんじゃから、アヴィンの分までしっかりな」

「男ってのはあんま関係ねえと思うけど……俺しかいねえんだもんな」

 ジュリオもやっと小さな笑みを綻ばせた。父親の名に鼓舞されたのかもしれない。

 アヴィン=マクスエ。彼のもとにナナリーを逝かせるのは早すぎる。

「夜になったら、また様子を見に来るよ」

「頼りにしてるぜ、先生」

 シモンはコーヒーに一口つけ、いそいそと喫茶店を出ていった。

 

 やがて陽も傾き、窓の外がオレンジ色に染まる。

 寝室のベッドではナナリーがまだ苦しそうに呻いていた。すっかり衰弱し、お粥は半分も食べることができない。

 それでもチトセは頻繁に寝室を訪れ、リンゴを剥いた。

「……ごめんなさいね、チトセ……」

「いいの、気にしないで。早く元気になってね」

 傍で見守っていても、心配でならない。

普通の風邪ならまだしも、未知の病となっては不安が尽きなかった。

白化した部分は感覚や神経も弱っている。持ち前の若々しさもなりを潜め、ナナリーの美貌には疲労感が満ちていた。

ノックの音がして、チトセは静かに席を立つ。

「お母さんは寝てて」

 寝室を出たところで、ジュリオは『大きな声を出すなよ』と人差し指を唇に添えた。仕事用のジャケットを羽織り、ゴーグルも掛けている。

「わりぃ、チトセ。今夜はちょっと出るから、母さんを頼む」

「どこに行くの?」

「都会島の病院をまわって、情報収集をな。っと、先生の指示でもあるんだぜ」

 じっとしてなどいられないらしい。

チトセも一歩前に出た。

「あたしも行くわ! 連れてって、ジュリオ」

 しかしジュリオはかぶりを振って、正面からチトセの両肩を掴む。

「母さんを頼むって、言っただろ? すぐに帰ってくる。それまで……な」

 まさか病床のナナリーを放置するわけにもいかなかった。焦って先走ったところで、空の世界に不慣れな自分には、大したことができるはずもない。

「ごめんなさい。あなたも無茶しないで」

「ああ。お互いな」

逸る気持ちを抑えながら、チトセはジュリオの夜間飛行を見送りに出た。

 ウインド号がライトを点け、今夜は曇りがちな夜空を照らす。力強いエンジン音はチトセの足元まで響いた。ジュリオがゴーグルを嵌め、操縦桿を握る。

「そんじゃ、行ってくる」

 間もなくウインド号は離陸し、夜空を東へと横切っていた。残されたチトセの髪を、肌寒いくらいの夜風が煽っていく。

 ……そうよね。あたしも、できることをしなきゃ。

 ナナリーのためにも。ジュリオのためにも。

チトセは私室に戻り、真っ白な便箋にペンを走らせた。

 

 

 ナナリーが倒れた翌々日から、喫茶店は営業を再開した。ランチタイムはジュリオが厨房に立ち、チトセは接客を担当する。

 馴染みの客は誰もがナナリーを心配してくれた。

「早くよくなるといいね、チトセちゃん」

「ありがとうございます」

「おーい、チトセ! さっさと持っていってくれよ」

 厨房のほうからジュリオのぶっきらぼうな声が飛んでくる。

 ジュリオの手料理はナナリーに比べて雑だが、手際はよかった。てきぱきと複数の調理をこなしつつ、チトセを急かす。

 こんなにお料理できるんなら、もっとお店のお手伝いすればいいのに……。

 ジュリオのほうが自分より料理上手で、少し悔しかった。

「お待たせしましたー!」

元気な笑顔を振りまきながら、チトセは出来立てのオムレツを運ぶ。

島の皆もお見舞いの品を持って、様子を見に来てくれた。それだけナナリーは慕われ、病気のことを気に掛けてもらっている。

「忙しい時間にごめんねえ。困ったことがあったら、遠慮なく言うんだよ」

「風邪くらい、ナナリーならすぐによくなるさ」

 皆に余計な不安を与えたくなくて、未知の病であることは伏せていた。感染力の強い病気だと早とちりされようものなら、フラン島は大騒ぎにもなる。

 やがて昼も過ぎ、店はチトセとジュリオだけになった。

「ちょいと隣の島まで行ってくっから。チトセ、片づけやっといてくれ」

 ジュリオは一枚も皿を洗おうとせず、邪魔そうにエプロンを剥がす。

「お片づけまでがお料理なのよ?」

「わかった、わかった」

 素っ気ない返事にチトセは呆れ、溜息をついた。

とはいえ彼の気持ちもわかる。やっと念願の免許を獲得したのに、母親のため、ジュリオは運送業を再開できずにいた。合間を見て飛ぶくらい、好きにさせてやりたい。

ほんっと、飛行艇が好きなんだから。

 チトセは店に残って、後片づけに精を出す。

 洗い終わった皿を拭いていると、鐘が鳴った。シモンが往診に来てくれたものと思い、早足で迎えに出る。

「シモン先生、お疲れ様で……?」

 ところが玄関先で騎士団に囲まれ、チトセは目を丸くした。彼らの甲冑にはアスガル王国の象徴、ペガサスの刻印が刻まれてある。

中央の女性が前に出て、眼鏡越しにチトセを見据えた。

「こんにちは。ナナリー=マクスエの娘さんで、間違いありませんか?」

「は……はい。チトセと申します」

 やや高慢な物言いにチトセはたじろぐ。

 その女性は二十半ばくらいの風貌で、知的な雰囲気をまとっていた。眉を顰めることで美貌が引き立つタイプらしい。

「……失礼。私は王立病院の医師、シリカ=イングリッド。このたびはレオナルド殿下の命を受け、ナナリー=マクスエの容体を確認に来たのです」

「レオナルド様がっ?」

 ナナリーが倒れた日の翌朝、チトセはレオナルドに手紙を出していた。その手紙で事情を知った王子が、アスガル本島の医師をフラン島へと派遣してくれたのだろう。

 そこへ田舎島の医者もやってくる。

「チトセ、ナナリーの具合は……ん? 誰かと思えば、シリカではないか」

「ご無沙汰しております、先生」

 シモンとシリカは互いに顔馴染みのようだった。シリカがきびきびと姿勢を改め、年長の名医に一礼する。

「王立病院にはお戻りにならないのですか?」

「その話はナシと言ったじゃろう? そっちにはお前がおれば、充分じゃ。ロートルのわしが今さら出張ることもないわい」

「ふふっ、ご謙遜を」

 挨拶もそこそこにして、彼女はチトセのほうに向きなおった。

「さて……本題に入りましょうか。チトセさん、お母様のナナリーさんを診察させていただいてもよろしいですか?」

 シモンも隣で『そうしてもらえ』と頷く。

 シリカさんってちょっと怖そうだけど、シモン先生が言うなら、大丈夫よね。

「それじゃあ、よろしくお願いします」

 チトセはシリカとシモンを、ナナリーの寝室へと招き入れた。人数が多いため、騎士団の面々には店のホールで待ってもらうことに。

シモン医師に代わってシリカがマスクをつけ、ナナリーの診察を始める。

「聞こえますか? じっとしていてください、ナナリーさん」

シリカの横顔は険しく、ナナリーの病気が難しいものであることは、素人のチトセにも伝わってきた。不安を募らせるチトセを、シモンが励ます。

「シリカに任せておけば、心配いらん。手ぶらで来たわけでもあるまい」

「さすが先生、ご明察です」

 シリカは不敵にやにさがると、鞄から薬品を取り出した。

「王立病院とお城の記録を参考に、調合してきました。特効薬というほどではありませんが、進行を遅らせるくらいの効果はあるでしょう」

 進行、という言葉にチトセはぎくりとする。

 やっぱりそうなんだわ……。

 ナナリーの白化は少しずつ面積が広がりつつあった。最初は手の甲にだけ見られたものが、今は指の付け根に達している。いずれ手首のほうにも進むかもしれない。

 縋る思いでチトセはシリカに頭をさげた。

「お願いします! お母さんを助けてください。お金ならお支払いしますから」

「報酬なら殿下からいただきますので、お気になさらずに」

 恩を着せる素振りもなく、シリカは淡々と投薬の準備を進める。

 ナナリーの細い腕はてのひらを上に向ける形で、念入りに消毒された。柔らかい肌に注射器の鋭利な針が添えられる。

 お母さん……っ!

 チトセは胸の高さで両手を合わせ、ひたむきに祈った。

 ナナリーは注射の痛みにさえ反応しない。苦悶の表情のまま横たわっている。

「……処置はしました。あとは経過を見ましょう」

 シリカがマスクを外したことで、チトセは投薬が済んだらしいことを認識した。シモンも認める王立病院の医師が診てくれたのだから心強い、と胸を撫でおろす。

 大丈夫よね……今夜にはきっと。

 むしろ自分にそう言い聞かせていた。どこかで安心したかったのかもしれない。

 チトセたちはナナリーを寝室に残し、店のほうまで戻った。

「わしはこれを『ハクカ熱』と名づけたが、前例が記録にあったのか?」

「似たようなものでしたら、北方の島に由来するものがいくつか」

 依然として病気の正体ははっきりとしない。シリカとシモンの話も専門性が強くなってきて、チトセにはほとんど理解できなかった。

「あの……お茶を入れましょうか?」

「お気遣いなく。われわれはすぐに発ちますので」

 コーヒーをご馳走する間もなく、シリカが席を立つ。

 一団は早々に喫茶店から去っていた。シモンが呆れ顔で肩を竦める。

「忙しいやつめ。相変わらず『サボる』っちゅうことを知らん」

「どういう方なんですか? シリカさんって」

「少々ひねくれてはおるが、腕は確かじゃ。まあ医学にしか興味がないようでの、わしが考古学も選考しておると、二足の草鞋がどうこうとウルサイんじゃよ」

 コーヒーが冷めた頃になって、ジュリオが帰ってきた。

「ただいまー。来てたのか、先生」

「お邪魔しとるよ」

 ジュリオの手提げには山ほどの果物が入っている。

 その量を目の当たりにして、チトセは口元を引き攣らせた。

 ナナリーにしっかり栄養を取ってもらうためにも、柑橘系は好ましい。とはいえ病床の人間に食べさせるには、量的に限度がある。

食べきれないうちに鮮度が落ちてしまうのは、目に見えていた。

「……ちょっと多すぎない?」

「店で使えばいいだろ」

 ジュリオがカウンター席に座って、遠慮なしにコーヒーを催促してくる。

「それでは、わしはここらでお暇するかの」

「ありがとうございました、先生」

 入れ替わるようにシモンが踵を返し、勘定を置いていった。

「そうそう。さっき王立病院からお医者様がいらしたの」

「そんなとこから? どうしたっていうんだよ」

 追加でコーヒーを淹れながら、チトセは先ほどの経緯を説明する。

 ジュリオは怪訝そうな顔で腕組みを深めた。

「昨日の朝に手紙を出して、もう来たってのか? 王子ってやつは暇なのかね」

「レオナルド様がいらっしゃったわけじゃないわよ。お忙しいに決まってるじゃない」

「そういう意味じゃなくてだな……」

 彼の言う通り、レオナルドの対応は妙に早い。しかも未知の病であるにもかかわらず、診察の前に薬の調合まで済ませていた。確かに違和感がある。

「まあいっか。母さんが元気になってくれるってんなら」

「でしょ? なんだか、よくなる気がするの」

 

 その夜、ナナリーの容体は目に見えてよくなった。ベッドの上で身体を起こせるくらいには回復し、お粥も綺麗に平らげる。

「ごちそうさま。美味しかったわ、チトセ」

 咳のせいで声は枯れているものの、顔には生気が戻ってきた。

 空になった皿を回収し、チトセは安堵する。

「無理はしないでね、お母さん」

「はいはい、いい子にしてるわ。ジュリオもお店を手伝ってくれてるみたいだし」

 ナナリーとしては、息子には喫茶店を継いで欲しいらしかった。五年前の空の事故で夫を亡くしたこともあって、ジュリオの飛行艇稼業を心配している。

 ほんとによかった……お母さんが元気になってくれて。

「リンゴがあるのよ。食べられそう? ジュリオがたくさん買ってきちゃって……」

「なら食べないとね。いただくわ」

まだ予断を許さない状態であっても、肩の荷はおりた。目の前でナナリーが笑みを綻ばせるだけで、喜びが込みあげてくる。

「すぐ持ってくるわね。お母さんは休んでて」

「ありがとう、チトセ」

 ナナリーに布団を被せてから、チトセは寝室を出た。

 厨房でリンゴを剥いていると、ジュリオが様子を窺ってくる。

「母さんの具合はどうだ?」

「気になるなら、見に行けばいいじゃないの」

「そりゃそうだけどよ……着替えとか、してたんだろ」

 息子の照れくさそうな顔が微笑ましくて、噴きそうになった。しかしジュリオの言い分もわからなくはない。

「今夜はお風呂に入れても大丈夫よね。さっぱりさせてあげなくちゃ」

「そうだな。ずっとベッドの上じゃ、気も滅入るだろうし」

 この調子でナナリーが快方に向かえば、じきに今までの生活に戻れるだろう。ここ数日の不安は薄れ、期待に胸が膨らむ。

 またお母さんと一緒にお店ができるんだわ。

 チトセはそう信じていた。

 

 

 ナナリーが原因不明の病を発症してから、一週間が過ぎた。にもかかわらず、ナナリーの病気は一向に治る気配がない。

当初ほど重篤な状態ではないものの、皮膚の白化は徐々に進行していた。

ナナリーにも自覚はあるようで、あまり肌を見せたがらない。チトセやジュリオを不安にさせたくないのだろう。昨夜は入浴も拒否されてしまった。

 島の住人らもナナリーの異変に勘づいており、たびたび見舞いに訪れる。おかげで寝室の花瓶は毎日、違う花を咲かせていた。

王立病院の医師も尽力してくれているが、病気の正体すら掴めない。

「すみません、シリカさん。遠くから何回も来てもらって……」

「医者の仕事ですので、お気になさらず」

 今日の診察を終えてから、シリカは店のカウンターで溜息をついた。王立病院の記録をひっくり返しても、ハクカ熱の具体的な治療法はわからないという。

「チトセさん、これをシモン先生に渡しておいてください」

「わかりました。ありがとうございます」

 彼女が立ち去ってから、チトセは診察表を覗き込む。しかし専門的すぎて、何が書いてあるのか、まるで読めなかった。

「お世話になりっ放しよね。一度、レオナルド様にもお礼に行かないと」

「……………」

 ジュリオは窓際にもたれ、黙りこくっている。

「……ねえ、ジュリオ? お城に……」

「行きたきゃ行けばいいだろ」

 投げやりに返され、ぎくりとした。

ジュリオが前髪をかきあげるように額を押さえ、溜息をつく。

「……すまねえ。少し気が立っちまってた」

顔にはありありと疲労の色が見え始めていた。チトセも俯き、嘆きたいのを堪える。

「ううん。気にしないで」

 このままではふたりとも精神的に消耗していく一方だった。今週になってからウインド号は一度も空を飛んでいない。

 ジュリオの手がそっと、名残惜しそうにレコードプレイヤーに触れた。

「父さんが帰ってこなかった時のこと、思い出しちまうんだ」

中指や薬指を針みたいにレコード盤に立てても、音は鳴らない。

 アスガル王国の騎士だったというアヴィン=マクスエは、五年前、飛行艇の事故で消息不明となった。その一年後、チトセは例の舟でジュリオに発見されている。

 そして今、母親のナナリーが病床に伏せていた。もう一度『家族』を失うかもしれない暗い不安が、ひとり息子のジュリオを苦悩させる。

 ジュリオ……。

 自分より大きいはずの背中が、とても小さく、寂しそうに思えた。チトセは後ろから彼に寄り添い、両手でぎゅっと抱き締める。

 本当の兄妹ではない、けれども、力になってあげたくて。

「な、なんだよ? チトセ」

「ちょっとだけこうさせて。あたしも……不安だから」

 強張っていたジュリオの肩から、力が抜けた。

お互いの温もりが身体に満ちて、冷えつつあった心を満たす。

あたし……なにしちゃってるのかしら?

まるで恋人同士のような触れあいを自覚した時には、胸が高鳴っていた。遠慮しつつも相手に依存する感覚は、兄妹ではきっと感じられないもの。

「……ごっ、ごめんなさい」

 意味深になってしまった抱擁を解き、チトセは顔を赤らめた。身体を離しても、彼の温もりが腕の中に残っている気がして、こそばゆい。

 ジュリオは振り返ると、照れくさそうにはにかんだ。

「お前のおかげで、なんか元気出てきたぜ。俺たちまで参ってたら、だめだもんな」

「そうよね。お母さん、治らないって決まったわけじゃないんだし」

 彼にとっては自分も大切な『家族』なのだと、実感する。ジュリオへの気持ちが特別なものらしいことに気づきながら、チトセは家族として、穏やかな笑みを浮かべた。

「ちょっとシモン先生んとこに行ってくるぜ」

 ジュリオが診察表をくしゃっと上着のポケットに放り込む。

「先生によろしくね」

「おう。じゃあ、母さんを頼む」

 ひとりになったチトセは、店内の掃除を始めた。

島の皆が足しげく通ってくれるおかげで、喫茶店の営業に問題はない。だからこそ万全の状態で客を迎えたかった。フラン島の一員としての自覚は、チトセにもある。

あたしとジュリオだけじゃないんだもの。頑張らなくっちゃ。

 窓を拭いていると、向こうでロッティと目が合った。ロッティは周囲を警戒する雰囲気で、『しーっ』と人差し指を立てる。

 扉を開けてやると、彼女は同行者とともに隠れるように入ってきた。

「ありがと、チトセ。……聞いたわよ、大変なことになってるそうじゃない」

「お母さんのこと? ごめんなさい、伝えるのが遅くなって」

 ロッティも免許を取ったことで、この一週間は忙しかったに違いない。文字通り各地を飛びまわっている彼女とすぐに連絡を取るのは、不可能に近かった。

 ロッティがひそひそと声を潜める。

「そのことなんだけど……レオナルド様がお話があるっていうから、お連れしたの」

 彼女と一緒にやってきた男性が、フードを外した。

 その顔つきが王子のものであることに、チトセは目を見開く。

「レオナルド様?」

「驚かせてすまないね。でも、君と話がしたかったんだ」

 真剣な表情の彼と目を合わせていると、ロッティが居づらそうに咳払いした。

「こほんっ。お忍びなんですから気をつけてくださいよ、殿下」

 じとっとした視線がちくちくとチトセに刺さる。

 あたしとレオナルド様って、そういう関係じゃないんだけど……。

 ロッティは席を外し、店内はチトセとレオナルドのふたりだけになった。壁の時計が長針を傾け、午後二時の鐘を鳴らす。

「……ジュリオくんはいないのかい?」

「お医者様のところに出掛けてるんです。一時間ほどで戻ると思いますよ」

「いや、構わないさ。僕が用事があるのは、君だしね」

 レオナルドは適当なテーブルについて、メニューを開いた。

「あ、それはランチタイムのメニューなんです」

「ランチ? あぁ、時間が決まってるのか」

 王子様だけあって、世間一般の常識には疎いらしい。かくいうチトセも、四年前は言葉も知らない状態だったせいか、少しだけ親近感が沸いた。

 レオナルド様がお店にいらっしゃるなんて……。

 背中に強い視線を感じ、緊張しながらコーヒーを淹れる。出掛けたばかりのジュリオが恨めしい。

「お口に合うか、わかりませんけど……」

「気を遣わせてしまったかな。いつも紅茶だから、新鮮だよ」

 レオナルドは午後のコーヒーを悠々と味わい、満足そうに一息ついた。

「お母さんは寝てるみたいだね」

「は、はい……」

 座るように促され、チトセは向かいの席に腰を降ろす。

 突然の訪問に戸惑いはしたが、お礼を言える機会でもあった。

「ありがとうございます、レオナルド様。お手紙、びっくりされませんでしたか?」

「驚いたとも。しかしまあ、大事にはなっていないようで、なによりだよ」

 母が病気になった、助けて欲しい。そのような行き当たりばったりの手紙に、レオナルドは律儀に応じてくれている。

 彼の厚意に感謝しつつ、だからこそチトセは口を噤んだ。

これだけ尽力してもらっているのに、母の病気はまだ治っていない。それが申し訳なくて、後ろめたい気持ちになってしまう。

「……ところで君は、人間がどうして病気になるか、知ってるかい?」

 塞ぎ込むチトセに、レオナルドは意味深に問いかけてきた。

「なんのことですか?」

 質問の意図がわからず、チトセは首を傾げる。

「病には必ず原因……病原体という存在がある。そのことを僕たちは知ってるね」

 病原体と聞いて、ひとつのイメージが浮かんだ。

「ウイルス、でしょうか……」

 それは目では見えないほど小さい、何か。

 大航空時代には新しい島とともに、謎めいた遺跡が相次いで発見されている。そこには病気についての記録もあり、ひとびとはウイルスの存在を知った。

「そう。ウイルスだ」

 レオナルドがしたり顔で両手の指を編みあわせる。

 ウイルスという概念が明らかになったことで、島々は伝染病への対応手段も得た。大航空時代にひとびとが獲得したものは多い。

 飛行艇という乗り物も、遺跡に原型が残っていたものを再現している。巨竜シグナートもアスガル本島の古い遺跡にあったものであり、現在の技術で改良されていた。

「歴史学では通説になってることでね。もとはひとつの大陸だったものが、今の形になったのさ。そうでなければ、説明のつかないことがある、だろう?」

「シモン先生……この島のお医者様に聞いたことがあります。星が落ちてきたって」

「ああ。なにかがあったんだ」

 この空の世界には、未だ解明されていない秘密がある。

 例えば、遠い島でも同じ言語体系が根底にあったり、瓜二つの建築様式が見られたりした。群島がもとはひとつの大陸だったとするなら、これらに一応の説明がつく。

 もしくは群島を統べる、天空の文明があったのかもしれない。

 しかしチトセはまったく別の想像をしていた。

 ……ううん。地上にあった大地が浮きあがって、今の空になったのよ。

 やはり自分の感覚だけ誰とも違う。『島が浮いている』こと自体に違和感を抱く。

 レオナルドの金色の瞳がチトセをじっと映し込んだ。

「もうひとつ、よくわかっていないものがある。神話に出てくる『洪水』というやつだ」

 この世界の成り立ちは、一種のおとぎ話として語り継がれている。

 多くの陸地が洪水で沈んだ、と。

 だが、一組の男女は大きな飛行艇を作り、動物たちとともに難を逃れた。その子孫が四方の島々に分かれ、現在の文明の礎を築いたという。

「実は『沈む』という表現には諸説あってね。島が『落ちる』というなら、まだわかるんだが……しかも洪水で、というのが、ずっとわからなかった」

 大雨で島が水浸しになることはあっても、沈むことはありなかった。雨水はすべて島の外へと流れ、落ちていく。

「前に君は言ったよね? 白雲層の向こうには『水』がたくさんある、と」

 疑惑の視線を向けられ、チトセは息を飲んだ。

「それは、あの……」

 悪いことをしたわけではないのに、咎められるように感じ、椅子の下で足が震える。

「知ってるんだろう、君は。下にある『水』とは、なんだ?」

 頭の中で海のイメージが鮮明になった。

 浜辺に打ちつける波。瑠璃色の海面。遥かな地平線――。

「……あたしにはわかりません」

 それを知っていることが無性に怖くなってきた。

 レオナルドが不敵な笑みを浮かべる。

「ふむ……眠っていた以前の記憶がない、というのは本当のようだね」

「あ、あたしのこと、知ってたんですかっ?」

 チトセはあとずさるように立ちあがり、椅子を蹴ってしまった。

「知ってるとも。四年前には、不思議な少女が見つかった、と報告もあったんだ。スカイレースに参加したのも、パーティーに招待したのも、すべては君を見極めるためさ」

 王子の唇が恐ろしいことを囁く。

「話を戻そうか。君のお母さんは、この島にはないウイルスに感染した」

 その指がまっすぐにチトセの胸元を指した。

「どこからだと思う? 君からさ」

 視界がぐらりと揺れる。よろめいた自覚もなかった。

 残酷な真実が淡々と語られていく。

「君の身体は、この空にはない病原体を有していた。君は免疫があったおかげで発症しなかったが、どうやらナナリー=マクスエはそうはいかなかった」

 ナナリーの苦しげな表情がフラッシュバックした。

「いくら感染力の弱い病気であっても、四年も一緒に生活していれば、ね」

「だって……でも、ジュリオは全然」

「彼はどうかな? 抵抗力が強いのかもしれないし、これから発病するかもしれない」

 チトセは自分のてのひらをこわごわと見詰め、慄然とする。

 あたしのせいでお母さんが……?

 育ての母に奇病を与えたのは自分、かもしれなかった。罪悪感で胸が張り裂けそうになる。我が家みたいに思っていた、この喫茶店が、急に知らないお店に感じられた。

 今しがた『家族』として、ジュリオを宥めたばかりなのに。

「安心するといい。君のお母さんを救う方法はある」

「本当ですか?」

 レオナルドを信じるほかに選択肢はなかった。

「下の空を探せば、もっと色んなことがわかるだろう。おそらく治療法も……」

 含みを込めた言いまわしが、チトセに覚悟を要求する。

「来てくれるかな? 僕と一緒に」

 返事は決まっていた。

 

 

 明日にはアスガル王国の本島に移って、レオナルドと行動をともにすることになった。なぜ王子に誘われたのかはわからないが、ナナリーの治療法は自分で探したい。

 母の病気にはおそらく自分が関わっているのだから。

 部屋で荷物をまとめていると、ジュリオがノックもなしに入ってきた。

「おい、チトセ。どこに行くってんだよ」

「……ジュリオ」

 四年の歳月を一緒に過ごした彼は、誤魔化せそうにない。

「夕飯ん時も黙りっ放しでよ。なにがあったんだ?」

 チトセはジュリオと目を合わせることもできず、うなだれた。

「ごめんなさい。あたし、レオナルド様と一緒に空を探検したいの」

「……はあ?」

 ジュリオが素っ頓狂な声をあげる。

 レオナルドには当てがあるらしかった。決して闇雲に探すのではなく、手段として巨竜シグナートも使える。チトセにとっては頼もしい話だった。

 ただし『チトセの同行』が条件とされている。

「お母さんを助けるためよ。本当に」

「それで納得するわけねえだろ。俺のウインド号じゃ、だめだってのか?」

 ジュリオはわしゃわしゃと頭を掻いて、ふてくされた。

「お前以外のやつを乗せたことはないんだぜ、俺」

 彼の愛機に同乗を許されているのは、チトセだけ。そのことはチトセも知っているし、秘めやかな自慢でもあった。

 しかしナナリーを苦しめている立場で、ジュリオまで巻き込むわけにはいかない。

「あなたには嫌われたくないの、もう聞かないで。……ナナリーさんをお願い」

「ナナリーさんって……お前」

 チトセのたった一言が、家族の関係を解消した。

もとよりナナリーの厚意で居候をさせてもらっていたに過ぎない。

「……勝手にしろ!」

チトセの頑なさにジュリオは苛立ち、背を向けた。これ以上は話すことはないとばかりに、荒々しく扉を閉ざす。

 ごめんなさい、ジュリオ……。

自分を家族の一員にしてくれた彼を、ないがしろにしてしまった。己の身勝手さを噛み締めながら、チトセは明日の準備を急ぐ。

ナナリーのハクカ熱が進行しきらないうちに、治療法を見つけなければ。

待ってて、お母さん。必ず助けてあげるから。

 タイムリミットは刻一刻と迫っていた。

前へ     次へ

※ 当サイトの文章はすべて転載禁止です。