傲慢なウィザード #3
ACT.19 境界線の抵抗
ついに緋姫、紫月、リィンの三人はフィオナのもとへ辿り着いた。
守護者との戦いで、ほとんどの仲間が応戦することになったため、これだけの面子しか残っていない。それでも緋姫にとって、紫月とリィンは信頼の置けるふたりだった。
フィオナの傍では、クロードが虚ろな表情で佇んでいる。
「クロード……」
緋姫はいつでもスペルアーツを撃てる状態で、フィオナらと対峙した。
リィンは大鎌を構えたが、紫月はまだ朝霧を抜かない。
「戻ってきなよ、クロード。プリンセスがいるって、わからないの?」
「無駄だな。今のやつは正気じゃない」
クロードに対し、紫月の言葉は投げやりだった。
愛らしい少女の姿をしたフィオナが、両手を広げ、緋姫を迎える。
「……わたしのもとに来ませんか? ルイビス。かつてのあなたは、わたしの王国のために尽力してくれました。あなたがいてくれるなら、これほど心強いことはありません」
「お断りよ。それにあたしは、もうルイビスじゃなくって、御神楽緋姫なの」
昔、カトレア王国という小国家があった。
ルイビスは騎士団長として、王女フィオナに仕えた。
だが、史上初めて戦車や戦闘機が投入された、くろがねの世界大戦によって、カトレア王国は潰えている。ルイビスはその時、地獄へと落ち、最初の死神となった。
フィオナが無念そうに俯き、視線を落とす。
「そうですか……。では、仕方ありません。あなたがたは楽園に入る資格がないのですから、いずれ地獄とともに滅びゆくことでしょう」
傲慢な王女にリィンが鎌を向けた。その顔には、以前のような意志の弱さはない。
「言ってなよ。死神のぼくなら、その人形から簡単に魂を剥がせるんだ」
それでもフィオナは眉ひとつ動かさなかった。あくまで神を気取り、迷える子羊を導くかのように、尊大な言葉を響かせる。
「リィン=セツナですね。罪人の魂を地獄へと連行し、時には罰することもした、穢れた死神……あなたも、楽園に踏み入ることは許されません」
紫月に対してもトーンは変わらなかった。
「比良坂紫月、あなたも多くの者を傷つけてきました。諦めなさい」
「楽園……か」
紫月が前に出て、フィオナに答える。
「穢れなき魂、つまりは善人だけが幸福に生きる。確かにそれは楽園かもしれんな」
「そうです。悪人は善人を不当に傷つけ、時に命さえ奪うではありませんか」
「……うむ。貴様の言うこと、すべてを否定するつもりはない。俺も、姫様も、そういった事件に関わってきたからな」
プロジェクト・アークトゥルスのことに違いなかった。
悪意による人体実験のせいで、緋姫も沙耶も、人生を滅茶苦茶にされている。罪のない者を虐げる、ひとの姿をした悪魔が存在することは、身をもって知らされた。
紫月の懺悔には気迫さえ満ちている。
「俺は子どもの頃、剣道の試合でよく対戦相手に重傷を負わせた。そのたびに姉さんが猛烈に怒ってな、俺は道場の裏で泣いたものだ」
「それはあなたが愚かにも、一時の暴虐に酔いしれたからです」
「……ふ。やはりわかっていないようだぞ、こいつは。なあ? 姫様」
彼の言わんとしていることが、緋姫にも読めてきた。
「あの頃があったからこそ、俺は姉さんと今も姉弟でいられるし、剣道を愛せる。怪我をさせたやつの前では言えんが、俺には必要だったのさ。罪と罰が」
紫月とともに緋姫はフィオナを見据える。
「人間、間違えることだってあるわ。傷ついて、泣くこともある。でも……それがないと人間って言えないのよ。楽しいだけでも、楽なだけでも、だめ」
リィンの大鎌がきらりと光った。その刃に彼の真剣な表情が映り込む。
「あんたが言ってる『善人』って、何もできないよ。間違うことさえ許されないって、そういうことでしょ。知恵の実を食べる前のアダムとイヴだね」
「上手いな、リィン。あとは……そっちのクロードがどう思ってるのか」
フィオナは静かに瞼を伏せた。
「……憎むべき罪を美化するのですね。ですがそれは人間の、ある種の防衛本能……あなたがたは己の罪に、意味を作りたがっているに過ぎないのです」
足元のものとは別に、無敵のアイギスがフィオナの正面で展開される。
「話は終わりです、浅はかな罪人たちよ。ルイビス……わたしは残念に思います。王国のために奮闘してくれたあなたと、こうして袂を分かつ結果となったのですから」
「そうね、本当に残念だわ」
アイギスがある限り、緋姫たちはいかなる手出しもできなかった。
それでも紫月は朝霧を抜きながら、鋭い眼光を放つ。
「さがっていろ、姫様、リィン。ろくな気のこもっていないアイギスなど、俺が斬る」
一度はアイギスに折られた刀身が、みるみる復元されていった。
「抵抗はよしなさい。潔く現実を受け入れ……」
「黙れ」
たった一言がフィオナをたじろがせる。『問答無用』とばかりに放たれた台詞が、百の言葉を並べる以上に、憤怒を燃えあがらせた。
紫月が朝霧を握り締め、音速じみた剣閃を放つ。
だが、依然としてアイギスは健在だった。朝霧も折れはしなかったものの、クロードの盾には傷のひとつもついていない。
この結果を、フィオナはさも当然のように語った。
「気合ひとつで破れるほど、このアイギスは簡単ではありません」
「……果たしてそうかな? 姫様、頼む」
緋姫は得意のボルト系スベルを連発し、アイギスを弾幕で覆い尽くす。
「まだまだ! 勝負はこれからよ!」
「ぼくにも任せて」
わずかなインターバルをかいくぐって、リィンが大鎌を水平に振りきった。それでもアイギスは堅牢さを維持し、フィオナを守り続ける。
フィオナの幼いながらも傲慢な表情は、揺るぎない勝利を確信していた。
「あなたがたもご存知の通り、アイギスの効力は、クロード=ニスケイアの心身の状態によって左右されます。ですが、今これを発動しているのは、彼ではありません」
彼女の強靭な精神力が、アイギスの防衛力を限界以上に高める。
緋姫たちは一ヶ所に集まり、リィンが前に出た。
「クロードの脆い部分をシャットアウトして、アイギスの端末にしてるのか」
「何が『クロードには資格がある』よ。あいつが欲しいのはアイギスだけじゃないの」
緋姫は紫月に寄り添って、朝霧のアーツ構成に修正を施す。
フィオナは正面のアイギスを二重に張った。
「私から攻撃することはありません。あなたがたがいずれ力尽き……諦め、己の罪深さを悔い改めるのを、見届けるだけにいたしましょう」
アイギスを張っている限り、彼女の攻撃が緋姫たちに届くこともない。
それでもなお、緋姫と紫月は諦めなかった。瞳に力強い意志を宿し、アイギスの向こうにいる、クロードを見据える。
「頼んだわよ、紫月」
「仰せのままに」
緋姫とリィンはさがって、紫月だけがフィオナと対峙した。
「私が痺れを切らし、アイギスを解くのを待っているのでしょうが、無駄です」
「独り言なら余所でやれ。俺はクロードに用があるんだ」
高々と掲げられた朝霧の刀身が、鋭い光を弾く。
怒号が木霊した。
「お前の妹への気持ちは本物だろう、クロード。まだ肉親を失ったことのない俺には、偉そうなことは言えん。……だが、いい加減、目を覚ませっ! 姫様の御前だぞ!」
紫月が渾身の力を込め、裂帛の気合とともに朝霧を振りおろす。
アイギスは輝きを保っていた。
「言ったはずです。無駄だ、と……?」
ところが上から下へと、アイギスに一本の線が走る。
「……手応えあり」
そこから無数の亀裂が広がって、無敵の盾は粉々になってしまった。
フィオナは狼狽し、少女の姿でうろたえる。
「そっ、そんなはずがありません! アイギスが、なぜ……?」
その答えは緋姫がよく知っていた。
「あなたも自分で言ってたじゃない。アイギスを張ってたら、攻撃できないって。アイギスは時々、戦術の妨げにもなるから、朝霧にはアンチ・アイギスの力が備わってるの」
最強の盾にも欠点はある。
アイギスで防御している間は、身動きが取れないうえ、攻勢に転じるのも難しい。アイギスの防御力が絶大であるがゆえに生じた、致命的な弱点だった。
「そんなはずは……アイギスのアーツ構成は、私が調整を加えたのですよ?」
「さあ? その調整ってのが甘かったんじゃない?」
対話で時間を稼いだのも、アイギスのアーツを構成を緋姫が見極め、朝霧のアンチ・アイギスをより確実なものとするため。
とはいえ、理屈でもなかった。
「姫様を守るためのアイギスであれば、俺でも斬れんさ……」
紫月の乾坤一擲の一撃が、今度こそアイギスを上まわっただけのこと。
「私のアイギスは完璧です! こ、こんなはずは」
「三流の悪党みたいな台詞、吐いてるわよ? あなた」
朝霧の一太刀でアイギスを破られたことに、フィオナはただ驚愕していた。一方、緋姫にはわかっていた結果に過ぎず、カタルシスこそあれ、驚きはない。
一瞬の隙をついて、リィンがフィオナに迫った。
「さようなら」
ホムンクルスの本体から、大鎌でフィオナの魂を切り離す。
「わ……わたしは、魂の救済のために……!」
さらにリィンはフィオナの魂を吸い込み、飲み込んでしまった。
「ふう。こいつは地獄に連れてって、あとは女王様にでも任せるとするよ」
「お別れを言い損ねちゃったわね」
フィオナにも正義はあったのだろう。だが、第四部隊のメンバーを操り、クロードを苦しめた『神』の正義など、卑劣な思いあがりでしかなかった。
クロードがフィオナの支配から解放され、よろける。
「……クロード!」
それを緋姫は真正面から抱きとめた。
天と地を分断していたアイギスに、夕焼け色の亀裂が走る。東の街並みは群青色に染まりつつあった。紫月は朝霧を逆手に持ち替え、今一度、アイギスを貫く。
「はああぁああああッ!」
空が割れた。
緋姫たちはケイウォルス学園の屋上へと降り立つ。
緋姫の腕の中で、クロードはおもむろに目を覚ました。すべてを悟ったかのような、切ない表情で、愛する妹の名を呟く。
「マリアン……そうか、いなかったんだな。マリアンなんて、どこにも……」
リィンが抱えている人形は、もうマリアンでも、フィオナでもない。
この優しい兄を責めることなどできなかった。少しでも彼の苦しみが楽になるように、緋姫はクロードを柔らかく抱き締める。
「おかえりなさい」
「……ただいま、お姫様、リィン。それから……」
紫月は背を向け、あくまで腕組みのポーズに固執した。
「第一の下僕を気取る割に、姫様への忠誠心が足りてないんじゃないのか」
「ははっ。そうだね……とんだ下僕だよ、僕は」
クロードの懺悔は緋姫の胸にも響く。
「自己満足でも何でもいい。僕はマリアンを守ってやりたかったんだ。たとえお姫様たちと道を違えようと、妹を守るお兄ちゃんで、いたかったのさ」
兄弟どころか両親もいない緋姫には、彼の苦悩のすべてはわからなかった。ただ、そこまで真剣に想える相手がいることは、羨ましい。
「ほら、立って? クロード。きっとどこかでマリアンが見てるわ」
「……ああ」
緋姫はクロードを起こし、紫月と並んだ。戦いが終わった街を三人で眺める。
「まさかお前のアイギスと戦う羽目になるとは、な」
「ごめんよ。でも……紫月なら、アイギスを斬って、終わらせてくれると思ってた」
リィンは冗談っぽくふてくされながら、ホムンクルス体を降ろした。
「ぼくの入る余地がないじゃないか」
「あなたにだって感謝してるわよ、死神さん」
夏の陽も沈みつつあり、夜が始まる。
愛煌たちのグループがふらふらと宙を漂いながら、学園の屋上へと近づいてきた。シオンの浮遊スペルで飛んでいるようで、見るからに危なっかしい。
「定員オーバーだって! 重たいやつは下を走ってけよなあ、もう」
「……ミユキ」
「ちょっと、ヤクモ! それ、どーいう意味よっ!」
愛煌、ミユキ、シオン、ヤクモ。それから海音と凪も、屋上へと降りてきた。
「今回は肝が冷えたぜ。迷惑かけちまったな」
「そもそも海音が『あの子を助けよう』って言いだしたのが、悪いんだよね」
「おまっ! オレだけのせいにするんじゃねえ、お前だって……」
多少の怪我は見られるものの、誰も大事には至っていない。しかし沙耶など、メンバーはまだ半数ほど足りなかった。
「輪と五月道さんは?」
「第四なら別で降りたわ。守護者は全員、正気に戻ったから」
浮遊スペルを終えたシオンが、エクスカリバーを無造作に投げ捨てる。
「あーもう。手伝ってくれりゃいいのに、こいつはウンともスンとも言わないしさぁ」
ミユキはすっかり勝利に酔っていた。
「今夜は打ち上げしよーよ、打ち上げ! ご馳走はヤクモにでも作らせてさあー」
「おれも疲れてんだけど……手伝って、リィン」
「しょうがないね。ミユキのワガママに付き合ってあげようか」
だんだん緋姫も嬉しくなってくる。
皆で一致団結して、今回も危機を乗り越えたこと。誰かひとりが欠けても、こんなハッピーエンドにはならなかった。
デュレンたちは街を守り、愛煌たちは守護者と戦い。
だからこそ緋姫はクロードを奪還できた。
「みんなで夏休みの続きをしなくちゃね! 紫月、クロード」
緋姫は紫月とクロードの腕を一緒くたに捕まえ、中央の自分へと引っ張り寄せる。
「ふっ。仰せのままに」
「先に言われちゃったか。もちろん、仰せのままに」
ふと、残った夕焼けがきらりと光った。
「……なにかしら? あれ」
翼の生えた、真っ黒な水晶体が、こちらに向かって飛んでくる。それを後ろから猛追するのは、血相を変えた沙耶とデュレンだった。
「緋姫さん! 止めてください! 闇の精霊アルベリクです!」
「ホムンクルスだ! いいからさっさと、その人形をぶっ壊しやがれ!」
突風とともに、水晶体は緋姫の頭上を通り過ぎてしまう。
勝利のムードに湧いていた緋姫たちでは、対応が間に合わなかった。闇の精霊とやらがホムンクルスを奪い、そこに人間の魂を流し込む。
「……ごめんなさいっ!」
沙耶はエクスカリバーを拾い、水晶体ごとホムンクルスを貫いた。
かに見えたが、闇の精霊はすでに三メートルほど右にいる。
「魔眼でも捉えられなかったの? クスクス……アハハッ、アーハハハハハ!」
少女のものにしては冷酷な笑声が響き渡った。
「だ……誰なの」
狂ったような殺気がびりびりと伝わってくる。クロードは緋姫を庇い、紫月は朝霧を抜いた。愛煌や凪も臨戦態勢を取って、闇の精霊アルベリクを取り囲む。
しかしミユキは怯え、ヤクモもあとずさった。
「だめよ、こいつ……やばすぎて」
「閣下の言ってた、人形遣い? だとしたら……」
デュレンは間合いを取りながら、忌々しそうに舌打ちする。
「チッ! やつにとっちゃあ、おあつらえ向きの肉体になっちまったか。シエル!」
「ウフフフ! これよ、これ! 気持ちいい……アンジュの身体以来だわぁ」
マリアンの姿だったものが、徐々に顔つきと身体つきを変貌させた。緋姫と同じくらいの背丈となって、髪の色は鮮やかな紫になる。
着ていたドレスは瘴気に浸され、漆黒に染まった。
アルテミスを構えていた愛煌の手が、わなわなと震える。
「なんて気配なのよ? 息が……」
それこそ息も詰まるほどの、おぞましい殺気だった。海音や凪も冷や汗に濡れる。
「こいつが杏樹の言ってた、シエルってやつか」
「今度こそ外見に惑わされないでよ。女の子だからって、手加減はさ」
アルベリクの水晶体が割れ、誕生したばかりの少女を吐き出す。彼女はほかの誰でもなく、あえて選んだように緋姫を見詰めた。
「あなたがミカグラヒメね。初めまして……クスクス。しえるはねえ、しえる」
「聞かない名前ね。地獄の関係者かしら?」
気丈に振る舞ってはみたものの、身体じゅうで鳥肌が立つ。
「そいつは危険よ、緋姫!」
愛煌たちはスキルアーツ製の武器を手に、じりじりと包囲網を狭めた。
にもかかわらず、シエルは邪悪な笑みを絶やさない。
「ふぅん? みんなでしえるのこと、苛める気なんだ? だったらあ……」
パペット用の繰り糸が伸びた。海音のバトルアックスが絡めとられ、奪われる。
「おっ、おいおい? なんて力だよ!」
続けざまにヤクモの鈎爪、凪の手裏剣、紫月の刀までもが、あたかも手品のようにシエルの手に渡ってしまった。紫月が瞳を強張らせる。
「な……なんだと?」
「アイギスは壊れちゃってるのね、残念。まあいいわ、これで」
紫月たちのスキルアーツはシエルの周囲で浮遊しつつ、ゆっくりと旋回した。さらにシエルは、ミユキのものであるはずの、ケルベロスの鞭を振りあげる。
「え? いつの間にミユキのも?」
シエルの嘲笑は緋姫へと向けられた。
「ウフフ……あなた、スペルアーツなら何でも使えるんでしょ? しえるも同じなの。しえるのはスペルアーツじゃなくって、スキルアーツなんだけど……キャハハッ!」
皆のスキルアーツが奪われた原因を、緋姫は直感する。
「……もしかして」
「そう! これがしえるのアーツ……『ゾディアーク』なの!」
十二星座の総称を冠する力は、ありとあらゆるスキルアーツを支配できるらしい。
「スキルタイプでは戦えないわ! さがって!」
すかさず愛煌はアルテミスを解除した。スペルアーツの詠唱に切り替えながら、シエルを睨みつける。リィンも繰り糸を切り、ネメシスを把持した。
「ミユキとシオンは逃げて」
すでにシオンもスキルアーツを奪われ、たじろぐ。
「ま、待てよ、なんで戦うんだ? べっ、別にボクらの敵じゃないんだろ」
「るせえぞ、シオン! デートに誘える相手に見えるかァ?」
上空でデュレンは翼を広げ、火炎の大渦を編みだした。沙耶でさえ、ヴァージニアの瞳を解放し、無数の羽毛でシエルひとりに狙いをつける。
「ヴァージニアも言ってるんです。ここで止めないと、地獄は……」
「アハハッ! わかってるじゃない。……そうよぉ? しえるの願いは、ただひとつ」
その瞬間、シエルが跳躍した。
「しえるに酷いことした、地獄を壊して! パパとママの仇を討って! お人形さんだけの王国を作ることなんだからあっ!」
ぶしゅう、とデュレンの脇腹から真っ赤な血が噴きだす。
「ぐはああっ? て、てめえ」
魔王を易々と引き裂いたのは、朝霧だった。全員が驚愕した一瞬のうちに、ケルベロスが伸び、沙耶の翼を雁字搦めにしてしまう。
「しえるのこと、魔眼で見ないでっ!」
「きゃああああ!」
ケルベロスに牽引され、沙耶は勢い任せに運動場へと投げ落とされた。
「沙耶っ!」
緋姫は浮遊のスペルにブーストを掛け、屋上から飛び降りる。
かろうじて沙耶を拾いあげ、間に合いはした。しかし翼を傷めつけられたせいか、沙耶はぐったりとして、反応がない。
「しっかりして、沙耶! 起き……」
上のほうで仲間たちの声がした。ミユキの痛切な叫びが木霊する。
「いやあああああ! ヤクモ! ヤクモおっ!」
「おれが時間を稼ぐ! 凪、お前は愛煌ちゃんとミユキちゃんを……ガハッ!」
背筋を凍らせながら、緋姫は致命的な失敗を自覚した。
しまったわ……!
メンバーの大半はスキルアーツを奪われ、戦うに戦えない。緋姫がいなければ、愛煌くらいしかスペルアーツで応戦できる者がいなかった。
シオンが恐怖で涙を浮かべながらも、ミユキを背負い、壁面を駆け降りてくる。
「ヒメ姉っ! こ、このままじゃ、みんな!」
「すぐに行くわ! 沙耶もお願い!」
緋姫は壁を蹴って、弾みをつけ、一気に屋上へと舞い戻った。そこで死屍累々とした惨状を目の当たりにし、絶句する。
「……そ、そんな……」
ほんの一分足らず、だったのに。デュレン、海音、凪は倒れ、血を流していた。端で転がったままのクロードにぶつけるように、紫月が投げつけられる。
「ぐあぁ! に……逃げろ、姫様……!」
「ア、アイギスさえあれば……いや、奪われるだけか」
立っているのは愛煌とリィンだけ。
さっきの彼女の言葉が、ふと脳裏をよぎった。
『しえるも同じなの』
アーツには『ひとを傷つけてはならない』という不文律がある。その力を行使できるのは、あくまでレイとの戦いにおいて。もしくはアーツ同士の戦いにおいて。
にもかかわらず、シエルは『丸腰』の相手にアーツを振るった。彼女にスキルアーツを奪われた時点で、紫月らは攻撃の対象から外れるはずなのに。
「あなたのアーツも、不文律を……?」
「クスクス! どんなことにだって使えるのよ? しえるの。プロジェクト・アークトゥルスをおしおきした、あなたのと、お、ん、な、じ、でしょ!」
快感が極まったかのような笑声が木霊する。
シエルは真っ赤な返り血を浴びた、おぞましい恰好で、にんまりと微笑んだ。
「そっちの可愛い男の子は、そうねえ、しえるの言うこと聞くなら、お人形さんにしてあげる。死神さんも、どお? しえる、お友達が欲しいの」
「誰が、あなたなんかと」
愛煌はスペルアーツの詠唱に専念し、それをリィンが守りに入る。
そんなふたりを緋姫は『待って』と制した。
「……あたしがやるわ」
制服をマジカルプリンセスの衣装にチェンジして、アーツの力を最大まで高める。
「しえると遊んでくれるんだ? キャハハハッ!」
「遊んであげるわよ。こんなふうにね!」
緋姫のファイアボルトがシエルに急襲を仕掛けた。上空へと逃れたシエルだが、そこにアイスボルトが数を増やしながら殺到する。
「すごい、すごーい! これがヒメちゃん……ううん、ルイビスの……?」
同時にシエルの頭上からはサンダーボルトが降り注いだ。
緋姫は素早く跳躍し、空中でシエルに詰め寄る。
「怒ってんのよ、あたしは!」
そう叫ぶほどに緋姫のスペルアーツは威力を増した。ダイアモンドダストの氷塊が海音の『九頭龍』をへし折り、テンペストの暴風が凪の『般若』を噛み砕く。
「きゃあああっ! こ……こないでえっ!」
優勢にあったシエルは瞬く間に追い詰められた。ボルト系の弾丸を全方位から受け、奪ったスキルアーツは、合成スペルでことごとく破壊されていく。
一度は緋姫も蹴り飛ばされ、沙耶の傍まで墜落した。しかし落下のついでにエクスカリバーを拾い、握り締める。
「あたしに力を貸してっ、鋼の精霊!」
エクスカリバーは緋姫の怒号に共鳴し、膨大な量の光をたわめた。
「ファイナル・グランドクロス!」
巨大な光の十字が、夜空でシエルを磔にする。
「あああああああッ!」
ところが、闇の精霊アルベリクがシエルのカバーに入った。どす黒い波動を放ち、グランドクロスさえ相殺してしまう。
シエルはぎょろっと目を剥き、逆上した。
「ミカグラヒメ……ミ、カ、グ、ラ、ヒ、メェエエエエ!」
強力なアーツを立て続けに使いまくったせいで、緋姫も満身創痍になっている。
「はあ……はあっ、まだ倒れてくれないなんて……」
「加勢するよ、プリンセス!」
リィンがネメシスを振るい、空間を裂いた。
「シエルをここに落とすんだ! 次元の狭間にでも飛ばしちゃえばいい!」
愛煌はできる限りシエルから離れ、アルテミスの弓を引く。
「ナイスアイデアよ、リィン!」
緋姫にとっても、ほかに手はなかった。
虎の子のオーバードライブを詠唱するだけの猶予もない。緋姫はエクスカリバーを左手に持ち替え、右手には雷龍のエネルギーを蓄える。
「シエルを捕まえるのよ! ライトニングドラグーン!」
「あ、ああ……アルテミスをちょうだいっ!」
シエルの繰り糸が愛煌のアルテミスを絡め取った。ところが糸は弾き返される。
「残念だったわね、シエル。私のはアーツじゃないの」
その隙に雷龍がシエルに食らいついた。青白い電流で夜空を薄明るく染めながら、シエルを空間の裂け目へと押し込もうとする。
「しっ、しえるはまだ……しえるは、まだぁあッ!」
それでもシエルは屈さず、ライトニングドラグーンに抗った。
「させないわ!」
雷龍とともに緋姫も突撃する。
「エクスカリバー! もっと出力をあげて!」
「あっ、アルベリクぅ! しえるを守ってよお!」
アルベリクとエクスカリバーのエネルギーが真っ向からぶつかった。かろうじてエクスカリバーが勝ち、シエルはアルベリクとともに次元の裂け目へと落ちていく。
だが、シエルの手は緋姫の足を掴んでいた。
「プリンセスっ!」
「緋姫! 早く振り解いて!」
視界がぐるりと反転する。リィンと愛煌の顔が逆さまになった。
あ、あたし……?
すべてが走馬燈のようにゆっくりと見える。落ちる――と悟った時は、すでに次元の狭間へと飲まれたあとだった。
「リィン! 紫月! クロード! 愛煌ぁああああああ!」
慟哭さえ届かない。
緋姫はシエルと一緒に闇の中へと投げ出された。
エピローグ
傍では同い年くらいの女の子が泣いている。
「うえぇ……みんなが、ひっぐ、しえるを苛めたりするからぁ……」
傷だらけの彼女は戦意を喪失していた。幼子のように蹲って、涙を流すばかり。
緋姫は起きあがって、呆気に取られる。
そこは橙色のカボチャがたくさん転がっている、城下町だった。城には無数の線路が通っており、古風な汽車が今しがた出発したのが、見える。
「ど……どこなの?」
緋姫ももはやシエルと戦うどころではなかった。うろたえ、半ば呆然とする。
シエルの傍にはアルベリクがいた。緋姫の手にはエクスカリバーも。
「地獄に落ちちゃった、とか……?」
その推測はおそらく当たっていた。死神は魂を汽車で運ぶという。目の前の城は、その本拠地となる、噂の万魔殿に相違なかった。
とはいえ、次元の狭間を永遠に彷徨うことに比べれば、ましな気はする。
地獄の風は冷たく乾き、じっとしていると寒気がした。
「ひっく、うぅ……ぐすっ」
泣いているシエルは、今の緋姫にとって、たったひとりの運命共同体らしい。緋姫は肩を竦め、シエルに、なるべく穏やかに声を掛けた。
「あたしもカッとなっちゃって、悪かったわよ。ほら、泣いてないで」
「ふ、ふえ……?」
ここが地獄であるのなら、汽車に乗って帰れるだろう。
死神が襲ってきても、緋姫とシエルなら何とでもなる。ところがシエルのスキルアーツは、ひとつかふたつしか残っていなかった。
「あなた、武器はそれだけ?」
「え? ええと……うん。朝霧と、アイギスの欠片で、全部……」
シエルがやけに素直に白状する。
まずいかもしれない。しかも早速、魔族の少年に見つかってしまった。
「おまえら、人間か? わかんねえな。なんでこんなとこに人間がいるんだよォ?」
えらく尊大な物言いで緋姫たちに凄んでくる。
「ったく……死神どもは何やってんだ? このおれさまを働かせる気かよ」
生意気な少年の面持ちには既視感があった。
緋姫は声を震わせながらも、少年の名前を言い当てる。
「ま、まさか、デュレン……じゃないわよ、ねえ?」
「はァ? てめえ、人間のくせに、どうしておれさまの名前を知ってやがる?」
どうやら帰還は困難らしいことを、直感した。
ここは『過去』の地獄。少なくともデュレンが子どもの頃であって、御神楽緋姫はまだ生まれてもいない。
「やっばいんじゃないの? これ」
ミユキの乗りで『やばい』という言葉を、久しぶりに使った。
デュレンの後ろから、ゆらりと長身の女性が現れる。
「勝手に出歩くな。悪ガキめ」
くるぶしまでありそうな髪が、風に靡いた。彼女の顔を緋姫はよく知っている。
「もしかして……ル、ルイビス、なの……?」
「ほう? 我が名を口にできるとは、いい度胸だな」
遠い過去の自分との出会い。
緋姫とシエルは時を超え、かつての地獄を前に立ち竦んだ。
☆
目覚めた沙耶は、長らく呆然自失としていた。
「……緋姫さん、どうして……」
シエルとともに緋姫が次元の狭間へと落ち、それきり戻ってこない。いくら待てども、あとを追った愛煌、リィン、そして凪からも音沙汰はなかった。
空間の裂け目はすでに閉じ、沙耶たちは追いかけることができない。
ただ、猛威を振るいつつあったアンティノラは消滅した。あの大迷宮のフロアキーパーはシエルだったのだろう。フィオナはシエルのアンティノラを、シエルはフィオナのホムンクルスを求め、協力関係にあったのかもしれない。
屋上では負傷したメンバーの治療がおこなわれていた。難を逃れた第四部隊が、海音やヤクモ、ミユキの手当てに専念してくれる。
「きっと無事ですよ、九条さん。御神楽さんはあんなに強いじゃないですか」
「はい。……ありがとうございます、五月道さん」
とうに陽は暮れ、夜空には月が輝いていた。
「――九条沙耶って誰かしら?」
どこから屋上まであがってきたのか、見覚えのない女性が忽然と姿を現す。彼女は狼の耳を生やし、ゴスロリ調のドレスをまとっていた。
「あ、はい。わたしが九条……ですけど」
「私はオルハ=アーロンダイト。地獄の死神で……っと、それより、あなたへの手紙を預かってるのよ。頼まれたのは私じゃないけど、ね」
「え……?」
わけもわからないまま、沙耶は黄ばんだ手紙を受け取る。
「手紙だと? 一体、誰から」
「僕にも見せてくれないか、レディー」
紫月とクロードも同じ紙面を横から覗き込んだ。
「……まさかっ?」
沙耶たちは『タメにゃん』の下手くそな落書きにびっくりする。
永遠の恋人、九条沙耶へ。
そっちはあたしが消えて、すぐだと思うわ。ごめんなさい。
こっちは今、七十年前の地獄にいるのよ。ルイビスやヴァージニアにも会ったわ。
ルイビスに正体がばれたらややこしいから、レオナって名前で、死神の仕事を手伝ってるの。なんか『ナンバー4』なんてふうに呼ばれちゃったりして……。
そうそう、凪くんと合流して、愛煌とリィンも来てるって聞いたわ。そのうち、全員でそっちに帰るから、あんまり心配しないでね。
シエルも一緒よ。レオナなんて派手な名前を考えたの、あの子なんだから。
それじゃあね。紫月やクロードにもよろしく言っといて。
御神楽緋姫より。
文章のあとは、デッサンの崩れたタメにゃんと、可愛くデフォルメされたタメにゃんの落書きが並んでいた。凪のサインもある。
紙面に沙耶の涙がぽたっと落ちた。
「ほら、緋姫さん……ぐすっ、元気してるじゃないですかぁ」
「さすが姫様といったところか。ふっ」
「やっぱり最強だね、僕らのお姫様は。あっはっは」
紫月とクロードも涙を浮かべつつ、七十年も前の緋姫の健在ぶりを称える。
緋姫たちが帰ってきたのは、白い雪がちらつき始めた頃だった。
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