傲慢なウィザード #2

ACT.07 衝撃のプロポーズ

 そろそろ二年生の授業も本格化する。

 ケイウォルス高等学園では、二年生で『音楽』が必修となった。午後の音楽室で、破滅的な歌声が反響し、クラスメートを阿鼻叫喚させる。

「あ~、ああ、あ~! あああ~!」

 うっとりと聴き入っているのは、沙耶だけ。哲平など自前のヘッドフォンで、その騒音をシャットアウトしていた。

 歌い終わると、音楽教師が口元を引き攣らせる。

「な、なんとも独創的な歌声だねえ。たまにいるんだよ、君みたいなのが」

 褒められているわけではなかった。緋姫にも自覚はある。

 今の今まで歌う機会などなかったため、気付きもしなかった。しかし去年、沙耶たちと初めてカラオケに行き、己の音波兵器ぶりを知った。

御神楽緋姫は歌が下手すぎる。

音感もリズム感も滅茶苦茶。なのに、緋姫としては『ちゃんと歌っている』つもりだったりする。水泳に続き、音楽はすっかり苦手なジャンルとなった。

 さっきのはあたしなりに、上手に歌えたんだけど……。

しかし自分にも『できないこと』があると、ほっとする。

プロジェクト・アークトゥルスの忌まわしい人体実験によって、緋姫の自我は一度崩壊してしまった。そこに地獄最強の『霊』が融合したことで、自我を保つとともに、人並み外れた能力まで獲得している。

動体視力も、判断力も、すべてその『霊』の力によるところが大きい。

だからこそ、それが発揮されない苦手な科目では、並みの人間でいられた。とはいえ、今年こそは泳げるようになりたい。

「それじゃあ、次は九条さん。前に出て」

「はーい!」

クラスメートは悪魔の慟哭を忘れ、天使の歌声に聴き入った。

 

 音楽室を出て、二年一組の教室に戻ったところで、クラスメートに呼び止められる。

「あー、御神楽! なんか隣のクラスのやつが、話があるってよ」

「……あたし、に?」

 沙耶は一足先に教室に入っていった。

「先に次の準備、してますね」

「うん、ありがと」

 彼女に音楽の教材を預けつつ、緋姫は首を傾げる。

 クラスメートとともに現れたのは、大人びた印象の男子生徒だった。同い年にしては随分と落ち着き払っており、背も高い。

 髪は白に近い銀色で、水面のような光沢を帯びていた。クロードのような留学生なのかもしれない。蒼い瞳がまじまじと緋姫を見詰め、穏やかな笑みを宿す。

「初めまして、プリンセス」

 がつん、と頭を殴られるくらいの衝撃があった。緋姫はよろけ、一度は耳を疑う。

「……今、なんて?」

「きみのことだよ。ずっと会いたかったんだ」

 ほかの生徒らもぎょっとして、白昼堂々のワンシーンに注目した。

「ぼくと結婚して、一緒に地獄で暮らさないか……?」

 周囲で女子の声援があがる。

「やだ、告白ぅ? ねえねえっ、御神楽さんがコクられてるんだけどー!」

 大胆な告白を目の当たりにして、観衆は大いに盛りあがった。

しかし渦中の緋姫は、凍りつくほどに冷たいものを感じる。衆人環視の状況で、初対面の男の子に交際どころか、結婚を申し込まれて。

 沙耶が血相を変え、教室から勢いよく飛び出してきた。

「いけませんっ! だめですよ、緋姫さんと付き合うだなんて!」

「……え、どうして?」

 まだ名前もわからない彼が、蒼い瞳を瞬かせる。

「緋姫さんとお付き合いしていいのは、緋姫さんが好きになったひとだけです。とにかくわたしは許しませんから。絶対です!」

 沙耶は本人に代わってきっぱりと断り、緋姫の手を引いた。

「さあ緋姫さん、こっちでお話しましょう」

「ち、ちょっと、沙耶?」

 平穏な学園生活とやらは、まだ遠い。

 さっきの、本気かしら……?

 肩越しに振り向くと、例の男子は残念そうに視線を落としていた。

 

 

 放課後は部活動をキャンセルし、沙耶と一緒にケイウォルス司令部へと直行する。

 告白の件を沙耶から一通り聞いて、愛煌=J=コートナーは顔を顰めた。

「緋姫に交際を? 命知らずがいたものね」

「それ、どういう意味?」

 当事者の緋姫は疲労感を背負いつつ、デスクでうなだれる。

 御神楽緋姫という女は、沙耶の贔屓目を除き、これまでに『可愛い』と持てはやされることがなかった。ただ、『美人』と評価されたことは、何度かある。

 聡明そうな顔つきと、斜に構えた性格が、美人という印象を生み出すらしい。

 沙耶はまだ頬を膨らませて、怒っていた。

「緋姫さんはもっと自分の可愛さを自覚するべきなんですっ」

「え……あたしのせいなの?」

 エレベーターからクロード=ニスケイアが降りてくる。

「賑やかだねえ。何のお話だい?」

「あっ、クロードさん! 大変なんです、緋姫さんが怪しいひとに告白されて……」

 友達が告白されたら、女子は喜々として持ちあげそうなものなのに。大親友の沙耶は警戒を強め、誰にも緋姫を渡すまいと、息巻いていた。

 事情を聞いたクロードが、愉快そうに微笑む。

「確かにレディーの言う通りだね。最近のお姫様は隙が多いから、いけない」

 隙があることには緋姫も薄々、勘付いていた。溜息が重たくなる。

 去年のうちは『一匹狼』を気取って、誰とも関わろうとしなかった。しかし沙耶と仲良くなってからは、周囲の評価も変わり、二年一組にもすっかり打ち解けている。

 一匹狼時代の警戒心は、もはや働いていなかった。

「そんなだから、こういうのを撮られたりするんだよ?」

 クロードが一枚の写真を見せびらかす。

「……ちょ、何よ、これ!」

 緋姫は仰天し、しかと目を見開いた。

 映っているのは、水泳部の陸上トレーニングのショットに違いない。ジャージ姿の御神楽緋姫が柔軟で身体をほぐすさまが、ばっちりと捉えられている。

「どこにあったのよ、こんなの!」

「写真部が販売してるんだ。お姫様の写真も、ようやく入荷されたみたいでね」

 即座に写真を回収しようとしたものの、クロードはそれを沙耶にまわしてしまった。

 緋姫のトレーニング姿をひとしきり眺め、沙耶がアンニュイな溜息をつく。

「なんだか複雑です。みなさんが緋姫さんの魅力に気付いてしまって……でも、所詮は学校でしか、緋姫さんに会えないんですから。うふふ」

 彼女が自信満々に開いた携帯を、クロードと愛煌が覗き込んだ。

「おおっ! こ、これは……!」

「うそでしょ? あの緋姫が、こんな可愛いパジャマ……」

「ぎゃあああああっ!」

 緋姫は真っ赤になって絶叫し、前のめりの姿勢で、沙耶の携帯を取りあげる。

「なんてもの公開しちゃうのよ、沙耶!」

 この春から着るつもりで彼女と一緒に、パジャマを買った。模様は沙耶がパンダで、緋姫はネコ。どうせ家でしか着ないからと、安心していたのに。

 データを消しても、沙耶はしれっと勝ち誇った。

「秘密のフォルダには、まだまだたくさん、緋姫さんの写真があるんですよー?」

「ほかのも見せてくれ! 心のフィルムに焼き付けておきたいんだ!」

 もっとも警戒するべき相手は、この沙耶かもしれない。

「私にも一枚、もらえないかしら。脅迫とかに使えそうだし」

「しょうがないですねえ。愛煌さんは女の子ですから、特別に差しあげちゃいます」

 愛煌まで悪乗りして、沙耶も相槌を打つ。

「あ、あなたたちねぇ……」

 どっと疲れが込みあげてきた。沙耶が愛煌=J=コートナーの本当の性別を知ったら、どうなることやら。キスの件も沙耶には話していない。

 愛煌のやつ、あたしのこと、どう思ってんのかしら……。

 オペレーターの哲平だけは、まともに緋姫の話を聞いてくれていた。緋姫とは同じ二年一組のため、すでに例の男子を目撃している。

「見つけましたよ、さっきの。えぇと……あれ、カタカナしかないのかな」

 モニターに銀髪の男子生徒が映った。

「名前はリィン=セツナ。この春に編入してきたみたいです」

「……り、りぃん?」

 その名の響きに、一同がげんなりとする。

 ケイウォルス司令部には、緋姫たちの第六部隊のほかに、学園の生徒で構成された第四部隊が存在する。メンバーは美少女が五人と、変態がひとり。

 愛煌が同情を滲ませた。

「輪と同じ名前だなんて、可哀相ね……」

「まあまあ。真井舵輪でマイダーリンってわけでもないんだし」

「この間なんて、あのひと、女子更衣室から出てきたんですよ? 怪しすぎます」

 クロードは無邪気に笑い、沙耶は辟易する。

 そんな男の悪口大会で盛りあがっていると、紫月がシオンを連れ、やってきた。

「待たせたな」

「あっ、ヒメ姉! じゃなくて、えぇと……もう、そっちのあんたでいいや」

 シオンは緋姫を避け、沙耶を避け、愛煌を避け、クロードに縋りつく。

「今夜はそっちに泊めてくれよ。ミユキたちのやつ、ホテルも引き払っちゃっててさ」

「僕の家に、かい? それは構わないが、どうして……」

「どーしたも、こーしたも! あいつのお姉さん、滅茶苦茶なんだもん!」

 シオンの頬には大きな絆創膏が貼られていた。四肢の動きも、昨日よりぎこちない気がする。紫月の姉、詠に散々扱かれたのだろう。

 その弟が不敵ににやつく。

「逃がすと思うか? いい機会だ、性根から叩きなおしてもらえ」

「い、や、だ、よ! 竹刀でバシバシ殴りやがってぇ」

 比良坂紫月の実家は古めかしい剣道場。師範代は彼の姉、詠が務め、門下生の指導に当たっていた。普段は温厚な詠お姉さんでも、稽古の最中は鬼と化すらしい。

「あれで、門下生の男子には人気が高いんだ」

「わかってないなぁ、紫月。世の中には、綺麗な女性にぶたれたい、蹴られたいっていう男が多いのさ。ねえ、お姫様?」

「あたしに振らないでよ。ったく、困った変態が多いわね」

 緋姫はじろっと愛煌を睨みつけた。女装趣味の変態のくせに、可愛いのが腹立つ。

「はいはい、おしゃべりはそこまでよ。ちょっと面倒なことになってるから」

 壁面のスクリーンに近辺の地図が映し出された。中央にケイウォルス高等学園があり、線路は東西に伸びている。

西は面白味のないオフィス街で、生徒らが足しげく通うのは、東の歓楽街だった。緋姫もよく沙耶と一緒にショッピングモールを覗いている。

「残念ながら、シオンの警告通りだったわ。街全体でカイーナ化の兆候が見られるの」

「……本当なの? それ」

 地図のあちこちで赤い印が表示された。BやCといったアルファベットで、その地点の危険度を示す。それを確認しながら、クロードは椅子の上でのけぞった。

「ん? ランクAは存在していないようだけど……?」

 Aがもっとも危険なレベルであり、そこは完全に『地獄の迷宮』と化している。しかしざっと見たところ、最大でもランクB止まりだった。

 哲平がキーボードを叩き、次々と表示を切り替えていく。

「ですが、この数の多さは異常ですよ。それに先日、通常の空間にレイが出現したことといい、嫌な予感がします。やっぱり何かが起こってる、としか……」

 頭の中で情報を整理しつつ、緋姫はシオンを見据えた。

「あなたは知ってるんじゃないの? 目的があって、あたしの前に現れたんでしょ」

「ボクも詳しいことは知らないんだってば」

 シオンは話半分にしか聞いていない調子で、ゲーム機を弄っている。

「閣下がさぁ……あ、デュレン閣下ってのは、ボクらの上司ね。そいつが、ケイウォルスでイレイザーの手伝いをしろっていうから。ボクも地上に帰りたかったしさ」

「デュレン……」

 緋姫の脳裏で、いつぞやの地獄の光景がフラッシュバックした。

 この地表の裏側に広がっている、死の世界。そこで緋姫が見たものは、夥しい数の怨念と、太陽が届くことのない寂しい闇の色だった。

「でさあ、ボクらは四人で地上に出たんだけど……編成がスカウトとヒーラー、あとは前衛のスキルアーツ系がふたりで、マジシャンが足りないって話になって。現地調達しようと思って、ヒメ姉に声掛けたってわけ」

「声掛けたっていうより、襲ってきたんじゃないの、あなた」

「それはさあ、『ミカグラヒメってやつの力を試せ』って、閣下の命令もあったし?」

 今回の異変について、どうやらシオンも本当に詳細は知らないらしい。

 愛煌が咳払いで仕切りなおした。

「こほん。ひとまず、このランクBをひとつずつ調査してみようと思うの。あなたたち第六部隊は、ここの廃病院よ。早速、明日の夜からね」

 沙耶が花柄のスケジュール帳を開く。

「明日は緋姫さんが夕飯の当番ですけど、替わりましょうか?」

「ありがと。でも、遅くなるかもしれないわよ」

 その時、緋姫はまだ、それが悪夢の一夜となることを予見できていなかった。

「廃病院、か……いかにもだな」

 紫月だけが冷静に予感していたのかもしれない。

 

 

 第六部隊のメンバーは御神楽緋姫をリーダーとして、クロード=ニスケイア、比良坂紫月、それから愛煌=J=コートナーで構成される。

 愛煌はケイウォルス司令部の最高責任者でありながら、こうして第六部隊と行動をともにする機会も多かった。緋姫としても、強力なスキルアーツ『アルテミス』を持ち、マジシャン系のスペルアーツまで扱える彼女を、あてにはしている。

 ところが今夜に限って、その愛煌が駄々を捏ねた。

「や、やっぱりいいわ、私は。司令部のほうで待ってるから」

「ここまで来て、それはないでしょ?」

 何しろ、これから調査するのは、怪談の絶えない廃病院。近隣でも『マジで出る幽霊物件』と恐れられ、業者も手をつけようとしなかった。

 愛煌がふんぞり返って、虚勢を張る。

「こ、怖いってんじゃないのよ? 道が狭そうだから、五人は多いってだけで」

 緋姫、クロード、紫月、愛煌、そして今夜はシオンもいた。そのシオンがぼやく。

「いつも『レイ』と戦ってんだろ? お化けの『霊』なんて今さらじゃん」

 カイーナに出現する魔物、レイとは、いわゆる悪霊を意味した。自我の強い個体ほど、生前は人間だった可能性が高い。

 クロードと紫月は涼しい顔で、探索が始まるのを待っていた。

「お姫様ももうちょっと怖がってくれたら、ねえ?」

「姫様は肝が据わってるからな」

「可愛くなくて悪かったわね。だったらなおのこと、愛煌は必要でしょ?」

 緋姫としては、何が何でも愛煌を同行させたい。

 普段は振りまわされているのだから、たまには仕返しがしたかった。それに肝試しは、怖がる人間もいるほうが面白いだろう。

「怖かったら、抱きついていいのよ? ひひひ」

「じ、冗談じゃないわっ! わかったわよ、は、入ってやろうじゃない」

 自尊心を逆撫でされ、愛煌は腹を決めたようだった。

 カイーナじゃないんだし、危険もないでしょ。どう脅かしてやろうかしら?

 緋姫の顔に意地悪な笑みが浮かぶ。

「カイーナ以外の調査は久しぶりだな。お前たち、油断はするなよ」

 紫月を前衛として、一行はいよいよ廃病院へと足を踏み入れた。

中衛にはクロードとシオンが続く。

「あーあ、ボクも高等部のほうがよかったなー。中等部って退屈なんだもん」

「来月の体育祭は合同じゃないか」

「えっ、マジ? でもそれって、中等部は不利なんじゃねえの?」

そして後衛には緋姫と愛煌というフォーメーションとなった。愛煌は終始きょろきょろとして、落ち着きがない。

「なんだって、こんな時間に調査だなんて……」

「みんな、夕方までは忙しいからでしょ」

 とっくに陽は暮れ、あたりは夜の静寂で満たされていた。

 廃病院の中は真っ暗なため、懐中電灯で足元を照らしながら、慎重に進む。

「地図ならインプットしたぜ。ヒメ姉、何階から見てまわる?」

 シオンが協力の姿勢でいてくれるおかげで、助かった。

「スカウト系アーツの手間が省けるわね。いっそ、第六部隊に来ない?」

「それもいいかもなー。ミユキはうるさいし、ヤクモは気色悪いし」

 誰かの爪先が空き缶を蹴る。

 からんと音がするや、愛煌がびくっと肩を震わせた。

「ちょちょ、ちょっと! 驚かさないでよ!」

「ただのゴミじゃないの。……ひとの出入りはあるみたいね」

 愛煌の怯えように呆れつつ、緋姫はアーツのバイザーを通して、情報を再確認する。

 この病院はどこにでもありそうな心霊スポットだが、不可解な事件も起こっていた。最近では先月、ここで遊んでいたらしい大学生のグループが、怪物を目撃している。

 その怪物がレイである可能性はあった。

 クロードが懐中電灯の光だけ、紫月の前へと先行させる。

「カイーナならフロアキーパーを倒せば消えるけど、こういう心霊スポットは、イレイザーでもどうしようもないんだねえ」

「悪霊を払えるわけではないからな、俺たちは」

 ピチョン、と水の滴る音が響いた。暗闇の向こうに気配を感じる。

 やば……愛煌をからかうつもりだったのに、あたしまで怖くなってきたかも……。

 水音のするほうに進むと、手洗い場があった。しかし蛇口はどれも錆びついており、水は出そうにない。鏡にライトを当てると、反射の逆光で目が眩む。

『おいでよ……』

 鏡の中で、誰かが手招きした。

『ほら、こっちにおいで』

 緋姫だけでなく愛煌も、同じモノを見てしまったらしく、真っ青になる。

「ね、ねえ? 緋姫……ききっ、気のせい、よね……?」

「ああ、あたしに聞かないでったら。ほら、もう何も映ってな――」

 不意に目の前で真っ赤な閃光が弾けた。

「きゃあああっ?」

緋姫と愛煌は目を閉じ、強烈な光をかろうじてやり過ごす。

 そして次に目を開けた時、緋姫はおかしな場所にいた。一見すると、先ほどと同じ手洗い場だが、何かがおかしい。

「あ……あれ? 一体、どうなって……」

「あの子の悪戯じゃないでしょうね? ちょっと、シオン? ……シオンは?」

 傍にいるのは愛煌だけ。

紫月やクロード、シオンの三人は『鏡の向こう』で困惑し、緋姫たちを捜していた。

『どこだ、姫様! 愛煌っ?』

『さっきまで一緒だったのに、どこへ? シオン、検索を頼む』

『もうやってるって。えーと……ん? 病院にはほかに誰もいないよー?』

 緋姫と愛煌は鏡に張りつき、声を荒らげる。

「ここよ、紫月! 鏡の中に閉じ込められちゃったの!」

「聞こえてないわけ? クロード! こっち向きなさいったら!」

 しかし返事は返ってこなかった。

 緋姫はふと、壁の落書きが左右逆になっていて、読めないことに気付く。

「本当に鏡の中なんだわ……」

「ドアノブも反対になってるわね。カイーナみたいに……」

 カイーナでは上下が反転し、逆さまとなった。この空間は左右の方向に逆だが、カイーナにも通じる、得体の知れなさを感じる。

「窓を割れば、あっちに戻れるんじゃないかしら」

 緋姫は拳銃アーロンダイトを召喚し、そのグリップを手に取った。

 愛煌は武器を出さず、声を潜める。

「……いいえ、考えなしに行動しないほうがいいわ。少し調べてみるしかないわね」

 カイーナから壁を破壊して脱出しようとすると、次元の狭間に迷い込みかねない。それと同じことが、ここでも起こる可能性はあった。

 何がどうなってるの……?

 緋姫と愛煌は手洗い場を出て、忍び足で探索を続ける。懐中電灯が一本では視界が狭すぎて、心もとない。風もないのに、壊れたドアがぎいっと揺れた。

 愛煌が緋姫の腕にしがみつく。

「ちょっと? 歩きにくいんだけど……」

「こ、これ以上はぐれないために、してるだけよ」

 本来なら女子の緋姫が『彼』にしがみつくべきシチュエーションかもしれない。しかし愛煌という男の子は、緋姫よりもか弱い物腰で、幽霊を怖がっていた。

 キスされた時はもっとこう……男らしく思ったのにね。

 懐中電灯の光が廊下を這うように進んで、人影にぶつかる。

「しづ……ち、違うわ!」

 右手で電灯を向けつつ、緋姫は利き手の左でアーロンダイトを握り締めた。愛煌もあとずさって、こくりと固唾を飲む。

「誰よ、あなた! ここで何をしてるの?」

 その人物は、男性にしては長ったらしい髪で、目元を覆っていた。

「……あれ? おれの相手……女のほう? 間違えた……」

 前髪の隙間で、右目が赤々と光る。服装はケイウォルス高等学園のブレザーだが、袖も髪と同じように無駄に長く、両手とも隠れていた。

 その袖口から鈎爪が飛び出す。

「別にいいや。大丈夫……あとで治してあげるから」

 金属音がキンと響いた。敵の急接近を直感し、緋姫は声を張りあげる。

「来るわよ、愛煌! 早く構えてっ!」

「わかってるってば! 魔を祓いなさい、アルテミス!」

 愛煌のスキルアーツ、アルテミスの弓が真っ白に輝いた。おかげで懐中電灯に頼らなくても、廊下を見渡すことができる。

 敵は逆さまになって天井を駆け、緋姫の頭上を取りつつあった。

「そうはさせないわよ!」

 緋姫のアーロンダイトが弾丸を放つ。それが牽制となり、彼は飛び退くととともに、最初の位置まで後退した。その唇が感覚を研ぎ澄ませるかのように、鈎爪を舐める。

「へえ……やるね」

 御神楽緋姫のものを除き、アーツでひとを傷つけることはできないはずだった。ところが、今は愛煌のアルテミスも百パーセントの性能を発揮し、光の矢を番える。

 緋姫と愛煌は背中を合わせつつ、廊下の先にいる敵を見据えた。

「接近されたらまずいわね。緋姫、なるべく距離を取って」

「同感。でもあいつ、かなり速いわよ?」

 彼はさながら蜘蛛のように天井や壁を這いまわる。

「思ったより粘るね。泣いたら、そこまでにしてあげるのに」

 アーロンダイトの弾丸も、アルテミスの矢も、あっさりとかわされてしまった。まるでこちらの照準が見えているかのように、タイミングをずらしてくる。

 緋姫が弾を装填する分の隙は、愛煌がカバーに入った。

「あたしのスペルアーツで、広範囲を一気にって手もあるけど、どうする?」

「それをやるには狭すぎるわ。こっちの逃げ場がなくなるかも」

 逆に愛煌が矢を追加する際は、緋姫が前に出る。

「いちかばちかよ、愛煌。引きつけて!」

 敵は弾丸とも矢ともすれ違いながら、みるみる距離を詰めてきた。天井から飛び降りるとともに、両手の鈎爪を振りおろす。

「きゃあっ!」

 とうとう緋姫と愛煌は分断されてしまった。

「こいつ、ちょこまかと……」

すかさずアーロンダイトで狙いをつけるも、もし外せば、弾丸は愛煌のほうに飛ぶ。彼女からしても同じ状況となり、双方の射撃が鈍った。

「おれの勝ち」

おそらく敵は、このつもりで緋姫たちを分断したに違いない。次のターゲットを緋姫に決め、俊敏に襲い掛かってくる。

「ばいばい」

「行ったわよ、緋姫っ!」

 その背後に目掛けて、愛煌がアルテミスを放った。

しかし光の矢は敵の脇腹をすり抜け、緋姫の真正面へと迫っていく。にもかかわらず、緋姫は余裕を浮かべた。

「あたしの言うことも聞いてよ、アルテミス!」

 あらかじめ詠唱しておいた、反射のアーツを瞬時に張って、光の矢を跳ね返す。

「うああっ?」

 アルテミスの輝きが弾けた。強烈な眩しさに相手が目を閉じ、体勢を崩す。

「掛かったわね! そこよ!」

その一瞬を見逃す緋姫ではなかった。アーロンダイトで放った『種子』が、瞬く間に成長し、茨の網となる。

敵は茨で拘束されつつ、落下した。敗北を悟ったのか、自ら鈎爪を外す。

「……おれの負け。泣くまでやるってんなら、おれ、泣くから」

 俄かに次元が歪んだ。左右の反転はなくなり、掲示板の落書きも普通に読める。

緋姫と愛煌は同じ廊下にシオンを見つけ、はっとした。

「シオン! 無事だったの?」

「あれ、ヒメ姉と……あー、やっぱ、そっちにヤクモが行ってたのか」

 クロードと紫月の姿もある。ただしふたりは倒れ、クロードなど、踏みつけられている状況だった。愛煌にもひけを取らない、派手な装いの女の子が、不敵に微笑む。

「ヤクモは負けちゃったんだ? ミユキのひとり勝ちかあ」

「ちょっと、クロード? 紫月っ!」

 緋姫は驚き、ふたりのもとへ駆け寄った。

 しかしクロードはけろっと笑い、紫月も頭を掻くくらいの余裕を見せる。

「女性に手をあげるわけにはいかない、だろ? それに……たまにはこうやって踏まれるのも悪くない。お姫様じゃないのが残念だけど」

「おかしな冗談はよせ。ミユキといったな、そいつを解放してやってくれないか」

「しょうがないわね。まっ、いっか。別にタイプじゃないし」

 彼女――ミユキはクロードの背中から足をのけ、スカートを揺らした。ゴスロリ系のファッションで、紅いフリルを花のように咲かせている。

「ここじゃ狭いでしょ。外に出ない?」

「え、ええ……」

 緋姫たちは首を傾げつつ、ミユキらと一緒に廃病院をあとにした。

 外は街灯もあり、話し相手の顔が見える程度には明るい。今夜は月も輝いていた。

「ふあぁ……びっくりしたよ。いきなり出てくるんだもん、お前」

 シオンが欠伸を噛みながら、ミユキをなじる。

「ちょっとはミユキお姉さんにも懐きなさいよね、このォ」

 彼女はドレスを見せびらかすようにターンしてから、初めて名乗った。

「改めまして、ミユキ=フランベルでえっす! えーと……趣味は洋服作りで、彼氏募集中、かなぁ? もうすぐシオンと一緒に、第十三部隊ってやつに配属されるの」

 緋姫と愛煌が交戦した彼も、素性を明かす。

「……初めまして……おれ、ヤクモ=キーニッツ。大体は……そっちの女と同じ」

「そっちの女って、なによぉ? あ、こいつ、かなり危ないやつだから、気をつけたほうがいいわよ。怪我させて治療するのが好きって、いかれてるでしょ」

 ヤクモ=キーニッツはヒーラーらしい。

「ヒーラーであれだけ前衛向きのスキルアーツ持ちってのも、珍しいわね」

「おれの爪……名前、フェンリル」

 武具を具現化する『スキルアーツ』に長けるイレイザーは、スペルアーツを使えないパターンがほとんどだった。紫月やクロードもこれに該当する。

愛煌の場合は、アーツ能力を人工的に改良したことで、マジシャン系のスペルアーツも使用することができた。しかしメインはあくまでアルテミスであって、スペルアーツの威力はいまひとつ振るわない。

 ところがヤクモのフェンリルは、ヒーラーのものにしては攻撃的な形状だった。

 ミユキが不愉快そうに毒づく。

「こいつ、ミユキのケルベロスを真似て、フェンリルなんて名前にしたのよ」

「それ、違う……おれのほうが先……真似したの、ミユキ」

 シオンが背伸びして、こそっと緋姫に耳打ちした。

「な? ミユキはうるさくて、ヤクモは気色悪いって、言っただろ」

 初対面の緋姫でも、その評価は妥当に思える。

ミユキは今時の女の子らしい印象で、首にはヘッドフォンを掛けていた。ヤクモは何を思ったのか、こんなところで爪を研ぎ出す。

 あくの強すぎる面々を前にして、最高責任者の愛煌は嘆息した。

「要は私たちの実力を試してみたかっただけ、なのね?」

「そーそー。ほんとはミユキが、女の子のほう担当するつもりだったんだけどさぁ」

 ミユキが前のめりになって、愛煌に近づく。

「……あなた、『男の娘』ってやつなんでしょ? ねえねえっ」

「それが、どうかしたわけ?」

 愛煌があとずさっても、彼女は同じだけ前に詰めた。そして、半ば強引に愛煌の手を取り、満面に笑みを弾ませる。

「カ~ワ~イ~イ~っ! アキラくんだっけ? ミユキのモノになってよ」

「はあ? お断りよ。あなた、すごく面倒くさそうだもの」

「えー、いいでしょー? 可愛い子同士でくっついちゃえば、さあ」

 交際を申し込むにしては、軽かった。緋姫はふと、初対面で告白してきた、隣のクラスの男子とやらを思い出す。

「それくらいにしなよ、ミユキ」

 緋姫たちのもとへ、また別の人物が現れた。クロードが目を見開く。

「おや、君は……噂のダーリン二世じゃないか」

「あれ? ぼくのことを知ってるのかな」

 緋姫はぎょっとして、今までになく顔を引き攣らせた。

 現れたのは、つい先日、皆の前で堂々と緋姫に愛をぶつけてきた青年だった。銀色の髪をかきあげ、蒼い瞳に儚げな感情をたたえる。

「また会ったね、プリンセス。結婚のことは考えてくれた?」

「考えてるわけないでしょ……」

 頭が痛くなってきた。ミユキに言い寄られる愛煌の気持ちも、よくわかる。 

 彼はほかの誰でもなく、緋姫だけを見詰めて、名乗った。

「ぼくは第十三部隊の隊長、リィン=セツナ。リィンって呼んでくれ」

「リィン、ね……」

 知り合いに『輪』がいるものだから、ややこしい。

 緋姫とリィンの間に、紫月とクロードがわざとらしく割り込んできた。

「こちらも自己紹介しないとな。俺は比良坂紫月。そっちがクロード=ニスケイアだ」

「悪いが、抜け駆けは禁止だよ? このレディーは僕らのお姫様なんだ」

 特にクロードのほうは、リィンのことが気に入らないようで、睨みを利かせる。

「へえ? だったらなおさら、王子のエスコートが必要じゃないか」

「……言うねえ、君」

 リィンとクロードの間で火花が散った。

 王子って……沙耶は好きそうだけどね、そういうの……。

 緋姫としては、気障な男が増えたとしか思えない。

 リィンはクロードから視線を外し、ほかのメンバーをざっと一瞥した。

「それにしても、大きな怪我はなかったみたいで、よかったよ。アーツ同士の戦いでは、不文律もあんまり意味がないからね」

「っ! やっぱり、そういうことだったの……」

 薄々勘付いていたことが答えとなる。

 アーツには『犯罪には使えない』という絶対の制約があった。他人を傷つけたり、私利私欲で用いようとしても、発動さえしない。

 ところが緋姫たちは今しがたアーツで私的な戦闘をおこなった。

 シオンが両腕を頭の後ろにまわして、目線をあげる。

「レイだって、アーツで攻撃してくるだろ? 相手のアーツに対して、攻撃が許可される仕組みなんじゃないかなあ。あんたら、今まで気付いてなかったわけ?」

 クロードと紫月は疑惑の表情を並べた。

「……この件、ARCは把握してたと思うかい?」

「かもしれんな。だから不文律とは別に、例のプロテクトを義務づけたのだろう」

 ARCは去年までイレイザーのアーツに『プロテクト』を強要していた。

それはカイーナ以外の場所でアーツの発動を禁じ、表向きは民間人の目に触れないようにするためのもの。だが、その実、イレイザーを制御下に置くための策謀だった。

 リィンの瞳が緋姫の顔を映し込む。

「地獄の魔導を、地上の人間が使えるように調整したのが、アーツなんだよ。ただしそれで罪を犯したりしないように、不文律をブラックボックス化して、ね。地獄にとって、罪人が増えちゃうのは、本末転倒だから」

「初めて聞いたわ、そんな話」

「ARCは設立当初の目的から、大分ずれちゃってるからね。プロジェクト・アークトゥルスなんていう計画もあったくらいだし」

 そのプロジェクトの名が緋姫の忌まわしい記憶に触れた。

 ……ルイビスと出会わなかったら、あたしもほかの被験体のように……。

 リィンが夜空の月を見上げ、溜息をつく。

「ところで、ちょっと相談があるんだけど、いいかな」

「えぇと、どうかしら……内容次第ね」

 緋姫たちは戸惑いつつ、顔を見合わせた。まだ仲間として受け入れられる段階でもないのだが、リィンのほうに遠慮はない。

「実はさ、閣下にもらったお金が、なくなりそうで……住む場所がないんだ。イレイザーの給料が入るまで、一ヶ月くらい、泊めて欲しいんだよね」

シオンが切実な悲鳴をあげた。

「だ、だからホテルを出たのかよ? どうすんだよ、これから!」

「あんただってゲーム買ったりしてたじゃないの。ミユキはちゃんと我慢したのに」

「そのヘッドフォン、ゲームより高い……」

 彼らの無計画ぶりには呆れて、ものも言えない。

 最初に折れたのは紫月だった。

「ならシオン、お前は俺の道場に住め。稽古も途中だろう?」

「ひいいっ! ま、待ってよ……そうだ、クロード! ボクを泊めてよ!」

「君は紫月の世話になるといいさ。僕は、うん、そっちの彼にしよう」

 嫌がるシオンは紫月の道場で、自主性のなさそうなヤクモはクロードの屋敷で決まる。

「じゃあじゃあっ、ミユキは愛煌くんとぉ……」

「私のところは監視カメラもつけるわよ? 私はまだ、あなたたちを信用したわけじゃないし……リィン=セツナ、私の家には、隊長のあなたが来なさい」

 愛煌は体よくミユキをあしらい、リィンを選んだ。

 女のミユキは緋姫の家となる。

「ちぇー。でも女の子同士だし、野宿よりは全然いっかぁ」

「……大丈夫よね、あなた? まあ、沙耶も文句は言わないでしょうけど」

 今夜のところはここで解散となった。ミユキが病院の陰から旅行鞄を引っ張り出す。

「しばらくお世話になるわね。えっと、ヒメちゃん!」

「こちらこそ。ミユキ、でいいんでしょ?」

 別れ際、リィンが緋姫にだけ、ウインクを飛ばした。

「おやすみ、プリンセス」

 緋姫はげんなりとして、ミユキに小声で相談を持ちかける。

「あいつ、なんとかならない? この調子だと、学校でもつけまわされそう」

「結婚ってやつに憧れてんのよ、あのバカ。ヤクモとでもくっつけばいいのにさぁ」

 それもまた沙耶の好きそうな話だった。

 

 緋姫は今、九条沙耶とふたりでマンションの一室で暮らしている。

 そこにミユキを連れ込んでも、沙耶は嫌な顔ひとつしなかった。むしろ家族が増えたことを喜び、いそいそと布団の準備を始める。

「ベッドはふたつで、わたしたちは三人……これはもう、わたしと緋姫さんが一緒に寝るしかありませんねっ!」

「ミユキはどっちでもいーよ。それよりお風呂、借りていい?」

 居候となるミユキは、遠慮する素振りもなく、ドレスを脱ぎ散らかした。露わになった胸の大きさを目の当たりにして、緋姫は己の敗北を痛感する。

 あんなに大きいだなんて……。

 かくして始まった、高校二年生の新生活。

「明日はみんなで、ミユキちゃんのパジャマを買いに行きましょう。うふふっ」

「ミユキ、ウサギのがいーなー。同じやつ、あるかなあ?」

「……はあ」

 しばらくは連日のように夜更かしに付き合わされ、寝不足になった。

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