傲慢なウィザード

ACT.05 ルイビス

 街のひとびとも不安で眠れない夜が、午前零時をまわる。

 ニスケイア家の自家用ヘリは、いつぞやカイーナと化したオフィスビルの屋上に不時着する羽目になった。ビルが空っぽだったのは不幸中の幸いで、怪我人は出ていない。

 足を撃たれた哲平は、執事のゼゼーナンによって応急処置が施された。幸い大事には至らず、顔色もよくなってきている。

「本当にすみません。足手まといになってしまって……」

「誰もそんなふうに思ってないわよ。気にしないで」

 ビルの中にさまざまな物資が置き去りにされていたのは、運がよかった。医務室もあったおかげで、仲間を休ませることができる。

 哲平は責任を感じ、言葉に悔しさを滲ませた。

「先生に泳がされてたんですよ、ぼくは。御神楽さんたちの情報を集めるために」

 閂は人畜無害な教師を演じながら、虎視眈々と機会を窺っていたのだろう。まんまと騙されたことの口惜しさは、緋姫にもある。

「……悪いのはあいつでしょ。いいから休んでて」

 落ち込む哲平を励ましてから、緋姫はビルの屋上へとあがった。

漆黒のドレスをまとったまま、冷たい夜風に煽られる。ダンスパーティーの途中で学園を脱出してから、すでに四時間が過ぎていた。

 街は不気味な雰囲気に包まれ、おいそれと出歩く者はいない。車も通らず、信号機だけが黙々と点灯していた。

 ビルの屋上から、遠方にケイウォルス高等学園が見える。

しかし四階建てであるはずの本舎は、夜空に向かってまっすぐに階層を増やしていた。双眼鏡で見る限り、十階以上の高さがある。

そのうえ、周辺に巣食う悪霊の類が活性化し、そこらじゅうで怪奇現象が起こっているらしい。さらに状況が悪くなれば、街ごとカイーナに落ちる可能性もあった。

 クロードと紫月も屋上にあがってきて、地獄の塔を見遣る。

「あちこちで騒ぎになってるようだね。あれは何だ、と」

「俺が聞きたい。こんな状況では、周防を病院にも連れていけん」

 カイーナの影響か、通信系の機器は沈黙したままだった。携帯電話もまだ電池は残っているものの、電波を送受信できない。

 学園の方角を眺めながら、緋姫はうわごとのように呟いた。

「あたし、何も知らなかったんだわ。沙耶のこと」

 いつも傍にいて、一緒に笑ってくれた、大切な友達。その笑顔の裏に、被験体ナンバー666としての恐怖と絶望が隠れていたのかと思うと、やるせない。

 ごめん、沙耶……。

気付きもしなかった自分が、許せなかった。

 紫月が険しい表情で腕を組む。

「それにしても、閂のやつめ、どうして学園をカイーナにしたんだ? 狙いは俺たちだけのはず……学園の生徒まで巻き込むことに、利益があるとは思えん」

「僕も同感だ。どうもおかしい……」

ここまで騒ぎを広げることは、多くの機密を保持する彼にとっても、リスクが高いに違いなかった。仮に学園のカイーナ化が閂の命令であれば、御神楽緋姫を手に入れる以上の目的があるのかもしれない。

「閂のやつから、もっと情報を聞き出したかったけど」

逃げに徹したのは、緋姫以外はアーツが使えなかったため。

現状の緋姫たちは全力を出したくても出せないどころか、並の人間と変わらなかった。なのに第六感は研ぎ澄まされ、街じゅうで蠢く悪霊の気配を、びりびりと感じる。

「学園がカイーナになるなら、俺たちのアーツも制限は解かれたわけか……いや、やはり優先すべきは、周防の救出だったな」

歯痒そうに紫月はこぶしを握り締めた。

「哲平くんが無事でも戦えなかったわよ。あの時は、愛煌を人質に取られてるような状況だったもの。……それに、あのカイーナのフロアキーパーは、きっと……」

 緋姫は俯き、今にも消え入りそうな声で口ごもる。

学園のカイーナを統べるのは仮面の魔女、九条沙耶だった。たとえアーツの力が万全であったとしても、相手が親友の沙耶では、戦えるわけがない。

「こうなっては愛煌さんも心配だね。……閂め、この借りは必ず」

 クロードはらしくもない憤怒を浮かべ、歯軋りまでした。普段はスマートな紳士を気取っている彼でも、今夜は激しく感情を燃やす。

「愛煌さんを見捨てたのは、僕の判断だったんだ」

「あなたのせいじゃないわ」

 同じ気持ちで緋姫も肩を震わせた。

 愛煌を捕らわれ、哲平を傷つけられ、学園を地獄へと落とされて。

沙耶の笑顔を奪われたことに、怒りが込みあげる。

 だが、今すぐ学園へと向かう術もなかった。司令の愛煌が不在のうえ、通信は不可、しかも司令部が学園の地下にあっては、近辺のイレイザーに召集も掛けられない。

 緋姫のスペルアーツはまだ破損状態にあり、スキルアーツのアーロンダイトは逃げる途中で落としてしまった。

「とにかく朝を待って、余所のイレイザーと合流するしかない、かな」

「ARCを信用できるのか? どこに閂の手の者が潜んでいるか、わからんぞ」

「う、うーん……下手に応援は頼めないか」

 負傷した哲平を連れて逃げきっただけでも、及第点とするべきかもしれない。

 三人で黙り込んでいるところへ、執事のゼゼーナンがやってきた。

「みなさま、お夜食の用意ができております。腹ごしらえをなさってはどうでしょう」

「気を遣わせてすまないね、ゼゼーナン」

 けれども緋姫は学園が見える屋上を、まだ去る気になれない。クロードと紫月も同じ気持ちのようで、動こうとしなかった。

「ごめんなさい。あたしたち、もうちょっとだけ……」

「でしたら、ここまでお持ちしますよ。カップ麺でよろしいですか?」

「はい。ありがとうございます」

 肌寒い夜風が吹く。

 緋姫の焦りとは裏腹に、時間は緩慢に流れた。緋姫は携帯電話で時刻のデジタル表示を見詰め、当分は明けそうにない魔の夜に、不安を募らせる。

 そういえば……愛煌のケータイ、預かってたわね。

 ドレスの内ポケットにはもうひとつ、愛煌=J=コートナーの携帯もあった。

 おそらく司令のものには、近隣のイレイザーを統率できるほどの影響力があるはず。実際、黒幕の閂を前にして、愛煌は外部に指示を送ろうとしていた。

それだけに、現状の電波の不通がもどかしい。

「周防の離脱は大きな痛手だな。俺たちだけでは、通信の復旧などままならん」

「ゼゼーナンも素人ではないさ。ヘリの通信機を調整させてある」

 虚しい沈黙を埋めながら、緋姫たちは夜風に煽られる。

 ルイビス……あなたは知ってたの? 沙耶のこと。

(妙な少女だとは思っていたが、まさか彼女もプロジェクトの被害者だったとはな)

 今すぐ沙耶を助けに行きたかった。

 しかし今の緋姫には戦う力がない。カイーナと化した学園まで行く手段もない。

 何より沙耶と戦うことなどできなかった。狡猾な閂は、必ず魔女を緋姫らにけしかけてくるだろう。今までにないほど戦いを『怖い』と感じ、足が震える。

 ド……コ……ナ……ノ……?

 夜風に紛れて、小さな声が聞こえた。

 何か言った? ルイビス。

(いいや。この気配は……ヴァージニアの魔眼に見つかったな)

 俄かに瘴気が濃くなって、ビルの屋上を覆い尽くす。

「紫月! こっちに集まって!」

「了解だ! クロードも聞こえてるなっ?」

緋姫たちの視界は、暗雲の中のように見通しが悪くなった。お互いを大声で呼びあいながら、何とか背中合わせに合流する。

「こいつはまずいよ、お姫様。作戦はあるのかい?」

「姫様の判断が最良だろう。俺たちは従うまで」

 ふたりの背中がいつになく頼もしく思えた。紫月もクロードも今はアーツを使えないにもかかわらず、安心してしまう自分がいる。

 これが『信頼』ってやつなのね。

 そんな彼らをこれ以上、巻き込みたくはなかった。

「もう逃げようがないわ。狙いはきっと、あたしよ。あなたたちだけでも逃げて……」

 緋姫は一歩前に出て、なお膨張を続ける瘴気の渦と向かいあう。

 しかしクロードも、紫月も、緋姫と一緒に踏み出した。

「それはないじゃないか。第一の下僕として、最後まで君を守らせてくれ」

「不肖ながら、この俺も付き合わせてもらうぞ。姫様の第二の下僕として、な」

 冗談めいた本気の言葉が、緋姫を奮い立たせる。

「……ありがとう。ごめん」

 お礼が言いたいのか、謝りたいのか、わからなかった。

 緋姫たちの目の前で、瘴気が時計まわりに、円の輪郭を取り始める。それは巨大な魔眼へと変貌を遂げ、緋姫をぎょろっと睨みつけた。

 ヒ……メ……サ……ン……!

「沙耶なのっ?」

 前のめりになった緋姫を、クロードが引っ張り戻す。

「危ない!」

 緋姫の真正面を鋭い刃が横切った。魔眼の周囲でいくつも鎖が伸び、鎌を振るう。

「くうっ! さすがに武器がこれでは……」

 蛇のように襲い掛かってくる鎖鎌を、紫月は『鍔だけの朝霧』で弾いた。刀身は実体化せず、空を切ることもできない。鎌に反撃され、袖が裂ける。

「沙耶なんでしょ? どうして、あたしのことがわからないのっ?」

 緋姫が声を張りあげても、魔眼はぎらつくだけで、何も語らなかった。

 その視線の向こうに沙耶がいるかもしれないのに。

「こっちだ、お姫様! 紫月も来い!」

 クロードは緋姫を庇いながら、鎌をくぐり抜け、ビルの扉に飛び込もうとする。しかし鎖のバリケードに先まわりされてしまった。

 紫月と三人で背中合わせになって、鎌の動きに肝を冷やす。

「なんだか似てるわね、初めてレイに遭遇した時と……」

 正体不明の怪物に襲われ、成す術もなかったのは、これで二度目だった。イレイザーはこのような窮地において、己の力となるレイと運命的な出会いを果たすらしい。

 すでにルイビスと一緒だった緋姫を除いて。

「あの時は無我夢中だった。気が付いたら、朝霧がこの手にあったのさ」

 紫月は刃のない刀をしかと構えた。凛然とした表情は、まだ戦いを諦めていない。

「お前も同じようなものだろう? クロード」

「まあね。自然と力が湧きあがってきて、アイギスが現れた」

 クロードも両手を突き出し、アイギスの実体化を試みた。十センチ四方のサイズに過ぎないものとはいえ、わずかに守護の輝きは残っている。

 ニゲテ……ニゲテ……!

 魔眼は徐々に鎖鎌の包囲網を狭めてきた。決死の緊張感に背筋が凍り、足が竦む。

あたしのスペルアーツさえ万全なら……?

 脳裏に閃きが走った。鎌が一斉に襲い掛かってくるのに先んじ、緋姫は右手でクロードの左手を掴む。同時にクロードの雄叫びが木霊した。

「僕らを守ってくれ、アイギスーッ!」

 光の盾が波動とともに広がって、すべての鎌を弾き落とす。

 クロードは目を見開き、半ば呆然としていた。

「アイギスが……発動した……?」

 緋姫と繋いだ手に熱い力が漲っていく。

「いちかばちか、だったわね。こうやって、あたしがあなたたちのアーツのイニシアチブを借りちゃえばいいのよ」

 安堵するとともに緋姫は勝気な笑みを取り戻した。

アーツを熟知しているはずのルイビスさえ、奇跡に驚愕する。

(この一瞬でプロテクトを誤魔化して、イニシアチブを奪取したのか! 面白い!)

 緋姫は確信を抱き、もう一方の手を紫月に伸ばした。

「次はあなたの出番よ、紫月!」

「承知した! あれを斬るぞ、力を貸せ、朝霧!」

 紫月の右手とともに、緋姫の左手が朝霧の白刃を抜き放つ。

 迫りくる鎖鎌をアイギスでいなしつつ、緋姫たちは魔眼の懐へと飛び込んだ。紫月と緋姫のふたりで握り締めた朝霧が、巨眼を一刀両断する。

 邪悪な気配は瘴気とともに霧散した。とどめの一撃を、クロードが茶化す。

「とんだケーキ入刀があったものだね」

「菓子などと呼べる代物か?」

 奇妙な敵を撃破しても、ふたりとも、緋姫と繋いだ手を離そうとしなかった。緋姫は硬直し、顔を赤らめる。

「ちょ、ちょっと? いつまで握ってるのよ、これ」

 クロードが温和そうで腹黒い笑みを浮かべる。

「お姫様から繋いでもらえるなんて、嬉しくてね。ダンスの続きと行くかい?」

「そっちが離せば、俺も離そう」

 紫月も仏頂面の口元を緩めた。両方の握る力が少し強くなる。

「ふざけないでったら」

 今度こそ緋姫はふたりの手を振り解いた。スキルアーツを発動させるための行為に過ぎないのに、胸が高鳴ってしまって、鎮まらない。

「それよりさっきのは、一体……?」

 禍々しい気配は依然としてケイウォルス高等学園のほうから感じられた。とはいえ、魔眼に睨みつけられた時ほどの威圧感はない。

「手応えも妙だった。まるで、最初からここにはいなかったような……」

 紫月の服には鎌で裂かれた形跡もなかった。

(その男は察しがいい。今のはヴァージニアの作った、幻に過ぎん。幻といっても、殺される可能性はあったがな)

 ……ヴァージニアって、誰?

(沙耶に憑依してる……いや、憑依させられてる亡霊さ)

 ルイビスの言葉が含みを込める。

(あの少女はお前を捜すために、ヴァージニアの魔眼を使ったのだろうな。もっとも、魔眼の力を制御できず、お前たちを危険に晒してしまった……というところか)

 襲われはしたが、スキルアーツを発動させる手段は得た。これなら沙耶を助けに行くことができるかもしれない。

 そう思うと、急にお腹が減ってきた。ゼゼーナンが夜食を運んできてくれる。

「お待たせしました。……何かあったのですか?」

 緋姫たちの意志が前向きになっていることが、わかったらしい。

「なんでもないさ」

「そうでございますか。さあ、冷めないうちにどうぞ」

「俺たちの分まで、恩に着る」

「わたくしはヘリにおりますので、ご用の際はお声掛けください」

 ゼゼーナンは温かい夜食を置いてから、屋上で待機中のヘリに乗り込んだ。 

クロードと紫月がカップラーメンを手に、傍で腰を降ろす。

「姫様も座るといい」

「そうね。いただきましょ」

 緋姫もカップ麺を取って、ドレスのスカートに気を付けながら、しゃがみ込んだ。

「せっかくのお姫様との夜なのに、ラーメンだなんて……はあ」

「たまにはこういうのも、悪くないさ」

 いつもと変わらない漫才のおかげで、気持ちが安らぐ。

「紫月の『悪くない』って、ほんとはすごく気に入ってるって意味でしょ?」

「それ、僕も思ってたんだ」

「そうなのか? ふむ、自覚はないんだが……」

 数か月前、このビルで一緒に戦っていた頃は、お互いもっと距離があった。それが今では強く結びついており、信頼を寄せあうのが当たり前になっている。

 愛煌とも、少しは距離が縮まったものと思っていた。

 キスされちゃったのよね……。

 意識していないつもりでも、薬指で唇をなぞり、感触を確かめてしまう。

 瘴気のせいで淀んだ夜空を、クロードが何気なく仰いだ。

「次はクリスマスと、お正月だね。みんなでパーティーでもしようか。エンタメランドの時の面子でさ、九条さんも誘って」

「賛成だ。だったらなおのこと、愛煌のやつを助けんとな」

 紫月も彼と同じものを眺め、はにかむ。

「あなたたち……」

 沙耶を救い出せる根拠などなかった。それでも彼らはケイウォルス学園に向かうため、腹ごしらえをしている。

「姫様も食べておけ、力が出せんぞ?」

 ふたりともまだ諦めていなかった。強い意志が瞳に宿っている。

 借り物のドレスに構わず、緋姫もラーメンを啜ってやった。

「学園にさえ辿り着けたら、あなたたちも自由にアーツが使えるわ。あたしも、アーロンダイトを回収すれば、最低限の戦いはできるはずよ」

「真井舵とも合流せんとな。あいつのことだ、無事だとは思うが……」

 自分たちだけで、やるしかない。独断先行は第六部隊の専売特許。

 愛煌に託された携帯電話が、緋姫の懐で着信を報せた。

「それは愛煌さんのじゃないか?」

 取り出すと、天使のストラップが指に引っ掛かる。

「ええ。どうしてこんなものを、あたしに……」

 画面には未開封のメールがひとつあった。

 愛煌のプライバシーに配慮して、一度は携帯電話をドレスのポケットに戻そうとする。しかし通信ができない今の状況で、メールが届いたことに、はっとした。

「……まさかっ?」

 紫月とクロードの携帯にもメールが届く。

 差出人は九条沙耶で、たった一言のメッセージが添えられていた。

『ごめんなさい』

 懺悔の言葉が緋姫たちの胸に響く。

「レディー、君は……」

「九条も苦しんでるんだろう」

 ところがもうひとつ、遅れて鳴り出す携帯があった。緋姫の携帯電話には、彼女から、まったく違うメッセージが届けられる。

『助けて』

 緋姫の心で波が起こった。怒りでも悔しさでもないものが、奮い立つ。

「急に黙り込んで、どうしたんだい? お姫様」

 緋姫にだけ送られた、沙耶の本音。それは緋姫の願望でもあった。

「行きましょう。あの子のところへ」

 ゼゼーナンがヘリから慌ただしく飛び出してくる。

「クロード様! ヘリに通信が入りました!」

「すぐに開いてくれ!」

 緋姫たちは待機中のヘリに飛び込み、雑音だらけの回線に耳を澄ませた。

『繋がったか! こちらARCケイウォルス司令部、イレイザー第六……第四部隊。応答を願う、こちら、ARCケイウォル……』

「輪っ! 無事だったのね!」

『御神楽か? こっちは何とかな』

 輪の声を聞いて、紫月とクロードも前のめりになる。

「よく通信できたな」

『そっち方面に強いやつが第四にいるんだ。でも、長くは持ちそうにない』

「了解よ。そっちの状況と、用件を教えて」

 輪によれば、ケイウォルス高等学園には地獄の瘴気が蔓延し、一般の生徒は昏倒してしまっているという。犠牲者が出てしまうのも時間の問題だった。

 相手の顔が見えない通信機を、緋姫はつい覗き込む。

「あなた、どうしてスキルアーツが使えたの?」

『お前らを助ける時か? なんでか、オレのアーツにはプロテクトが掛からないんだよ。そうそう、さっきの兵隊どもは、ふん縛っておいたぜ』

 輪の口振りはけろっとしていた。

 なら、輪もARCに狙われてるんじゃ?

(どうもわからん、この男は……どこかで会ったことがある気もするが)

 通信の向こうには輪のほか、何人かのイレイザーの気配がある。 

『それより妙だぜ、御神楽。カイーナなのに、レイが一体も出てこないんだ』

「レイが……?」

 緋姫はクロードや紫月とアイコンタクトを取った。

「なら、学校のみんなはひとまず無事、ということかい?」

『今のところはな。けど、のんびりしてはいられないだろ。オレはこれから、第四部隊と一緒に校舎に突入するぜ。まだ先生と、生徒も何人か取り残されてるんだ』

「本気か? ARCの応援も呼べないんだぞ」

 輪の言葉には決意が漲っている。

『オレたちだけでも、やるしかない。そっちも動くなら、タイミングを合わせないか』

 ふたつ返事で頷きたかった。しかしこちらには、学園へと突入する手段がない。

「ゼゼーナンさん、ヘリは動かせますか?」

「申し訳ございません。話はよくわかりませんが、修理が必要な状態でして……」

 紫月とクロードは狭いヘリを出て、起きあがった。

「走っていくしかないな」

「どこかで車を借りてもいいね。運転はゼゼーナンに任せて、さ」

『おい、早く決めてくれ。もう通信が持たないぞ』

 頭を悩ませる緋姫に、ルイビスが声を掛ける。

(愛煌=J=コートナーの電話を使え。アルテミスが飾りになっているぞ)

「これが……アルテミス?」

 緋姫の独り言にしては大きな声に、紫月たちは目を丸くした。

「たまに誰かとしゃべってるな、姫様は」

「そ、それは……」

 しかしアルテミスがあったところで、使えそうにない。クロードのアイギスにしろ、紫月の朝霧にしろ、さっきは本来の持ち主がいたからこそ、発動できた。

 だめよ、ルイビス。愛煌がいないんだもの……。

 頭の中で声を落とすと、ルイビスの含み笑いが聞こえてくる。

(アルテミスは魔具だ。ヴァージニアの瞳と同じ、な。愛煌=J=コートナーはアーツを併用しているから、アーツに思えるだけだろう。今のお前でも少しは使えるさ)

 携帯のストラップには愛煌の温もりが残っていた。

 これなら、なんとかなるかもしれない。まだ手段はある。緋姫はマイクを掴んで、隊長らしく、はきはきと指示を伝えた。

「作戦は決まったわ。輪、午前二時に決行よ」

 いつぞやと同じ時刻になる。

『わかった。そっちは最深部に直行するつもりだろ?』

「ええ。学校のみんなは頼んだわよ。あてにしてるんだから」

 生命線のような回線はぷつりと切れた。

 緋姫は再び屋上から学園を見据え、愛煌の携帯をかざす。ルイビスの言う通りにアーツを構成すると、天使のストラップからアルテミスの弓が実体化した。

 漆黒のドレスと真っ白に光り輝く弓とのコントラストに、クロードが目を見張る。

「お姫様、それは!」

「これに乗って、突撃しましょ」

 アルテミスの眩しさだけでなく、緋姫の言動にも紫月は眉を顰めた。

「……乗って、だと?」

「思いついたの。命懸けになるけど、どうする?」向こう見ずな自信が強気な笑みになる。

 

 

 午前二時、街は瘴気の闇に沈みつつあった。赤い月が血に濡れたようにぎらつく。

 オフィスビルの屋上から、さらに貯水タンクへとあがって、緋姫は夜風に煽られた。闇色のドレスが、群青色の夜空に溶け込む。

 緋姫の手によって、アルテミスに一本の矢が番えられた。左利きのため、右手で弓を垂直に構え、左手で矢を引き絞る。狙うは、ケイウォルス高等学園。

 緋姫の瞳がフィルターを通し、照準を決める。

「言うこと聞いてよ、アルテミス。照射モードにチェンジ! 最大出力!」

 緋姫の肩に触れながら、クロードはアイギスを拡大させた。

「僕のアーツは七十……いや、六十パーセントくらいの力しか出てないよ、お姫様」

「やるしかないわ。作戦通りにお願い」

 彼らのアーツはカイーナでのように完全とはいかないらしい。一方、緋姫だからこそ、アルテミスは真価を発揮した。

「でも、こういう賭けは二度と御免だって、言わなかったかな? 僕」

「腹を括れ。姫様のご命令だぞ」

 紫月は前傾姿勢となって、タイミングを待つ。

 膨大なエネルギーがアルテミスに集束した。静まっていた大気に振動が伝わる。

「一発勝負よ、クロード!」

「仰せのままにっ!」

緋姫の裂ぱくの気合とともに、黄金色の矢が放たれた。レーザー状の光線となって、瘴気の層を突き破り、あるはずのない校舎の七階を貫く。

その光線にアイギスを乗せて、緋姫たちは素早く飛び移った。

アイギスの盾をサーフィンのように使い、ケイウォルス高等学園へと突っ込む。

「生きた心地がしないわ……!」

「し、紫月、頼むよ? 僕らの命が掛かってるんだ」

 いちかばちか。紫月は緋姫の手を取りながら、朝霧を抜き放った。旋風が生じ、アイギスの突撃にブレーキを掛ける。

「南無三っ!」

 カイーナへと突入した途端、上下がひっくり返った。

 

「あいたた……さすがに無茶だったわね」

 風穴が空いた校舎の中で、おもむろに目を覚ます。

 緋姫は天井に寝ており、床は上にあった。カイーナとなった学園は、斬新な騙し絵であるかのように逆さまになっている。

 突入自体は成功した。時刻は午前二時四分で、それほど気を失っていたわけではないらしい。輪たちの第四部隊も、上で救出活動を始めた頃合いだろう。

 ところが、仲間の姿が見当たらなかった。

「紫月! クロード!」

焦って立ちあがろうとして、緋姫は足元の蛍光灯に躓く。

しまったわね。アルテミスは次元を貫通できても、あたしたちはそうじゃないもの。

おそらく紫月たちとは突入の際にはぐれてしまった。失神していたほんの数分が恨めしく、焦燥感に駆られてしまう。幸い、緋姫にはアルテミスの弓があった。

「早くふたりと合流しなくちゃ」

 逆さまの階段を滑るように降りて、校舎の『最上階』を目指す。

 ケイウォルス学園の校舎は本来、四階までしかないはずだった。緋姫の突入した七階以降のフロアも、構造は単純で、普段の学校と変わらない。

「……カイーナは迷宮になるんじゃないの?」

(あの少女には、お前を拒むつもりがないのさ。助けて欲しいのだからな)

 沙耶が作り出した、偽りの学校。それは小奇麗であっても、誰もおらず、無色の寂しさだけが潜んでいた。

 緋姫の直感がひとつの回答を弾き出す。

なるほどね。ずっと不思議に思ってたことが、解けたかも……。

いかに複雑なカイーナであっても、フロアキーパーのもとには必ず辿り着くようにできていた。フロアキーパーは後ろめたい本心を悟られまいと、迷宮で他者を拒む。一方で、誰かに自分の苦しみをわかって欲しくもあって、きっと道を用意していた。

「輪の言ってた通り、レイもいないようね」

(ここは本物の地獄に近づきつつあるのさ。あれを見ろ)

 廊下の先にいる紫月を、ルイビスが先に見つける。

「紫月? 無事で……」

「どうしてまた俺の前に出てきた!」

 しかし紫月は緋姫に気付かず、凄みのある剣幕で、幼い少年と対峙していた。

 男の子は紫月にそっくりで、ぶかぶかの剣道着を着ている。

『知ってるんだぞ、おれ。ルールってのは、弱いやつが自分を守るために作ったんだ』

 少年の言葉に紫月は動揺し、憤慨した。

「違う! 俺は二度と、あんな試合をするものか!」

『何言ってるんだよぉ、ケケケ……門下生のやつらに、目にもの見せるんだろ』

 ふたりの周囲で鬼火が漂う。

『才能ガアルカラッテ、調子ニ乗リヤガッテ。マタ病院送リダトヨ』

『オ姉サンノホウハ、アンナニ優シイノニナ』

 少年が人間ではないことに勘付き、緋姫はアルテミスを放った。

「紫月、さがって!」

光の矢が少女の姿となって、男の子の頬を引っ叩く。

『いい加減にしなさい、紫月! 今日から一ヶ月、道場には出入り禁止よ』

『ど、どうして、姉さん? おれ、何も悪いことしてな、ひぐっ、わあああん!』

 悪しき気配は消え、紫月だけが残された。疲れた表情で緋姫を見詰め、自嘲に沈む。

「……すまない、姫様。無様なところを見せたな」

「ううん。だけど、今のは……」

 周囲を警戒しながら、緋姫はそっと紫月の肩に触れた。

 ルイビスが真実を明かす。

(地獄とは、罪人を罰する場所だろう? ああやって、迷い込んだ者の罪を暴き、苦しめる。それこそが第一地獄カイーナだ)

「罪、を……罰する……」

(その男はすでに罰を受けていた。だから解放するのも簡単だったのさ)

 ルイビスの声が聞こえない紫月でも、地獄の真相に勘付いてはいるようだった。

「俺は昔、剣道で天狗になっていてな。試合で暴力沙汰もしょっちゅうだった。それをいつも厳しく叱ってくれたのが、姉さんなんだ」

「紫月……」

 誰しも後ろめたいものを持っているに違いない。それを強引に引きずり出し、責め苛むという地獄のおぞましさに、嫌悪感が込みあげてきた。

「姫様、クロードはどうした?」

「そうだわ。もしかしたらクロードも同じ目に……急ぎましょ!」

 緋姫と紫月は頷きあって、逆さまの廊下を駆け抜ける。

 もうひとつ階を進むと、クロードがいた。金髪の男の子にやたらと怯え、両手で頭を抱えるようにして蹲っている。

「僕の前から消えろ……頼む、消えてくれっ!」

 少年は邪気のある笑みを浮かべ、鬼火をぐりぐりと踏みつけた。

『ぼくが庶民の学校だなんて、父様はどうかしてるよ。汚いのが伝染るじゃないか』

 子どもとは思えない辛辣な物言いで、ふんぞり返る。

『お前らがぼくと同じ空気吸ってるだけで、イライラするんだよ!』

「クロード、今助けるわ!」

 緋姫のアルテミスがさっきと同じように幻影を作り出した。ゼゼーナンの姿となって、幼いクロードにも容赦なく平手打ちを食らわせる。

『馬鹿者ッ! 富の差でひとを見下すなと、教えただろうが!』

『わあああんっ! 母様、ゼゼーナンがぼくをぶったぁ!』

 少年は苛めていた鬼火とともに消えた。

 本物のクロードが顔をあげ、掠れた声を漏らす。

「……お姫様、紫月?」

「相当応えたみたいね。もう大丈夫よ」

「俺もさっき似たような目に遭った。……まあ、内容もお前とそう変わらん」

 さしものクロードも忌まわしい過去を暴かれ、沈みきっていた。緋姫の説明を聞き終えて、ようやく普段のポーカーフェイスを取り戻す。

「カイーナは僕たちの罪を……なるほど。子どもの頃の僕は、お金があるってだけで偉いと、思いあがってたからね。よくゼゼーナンに怒られたものだ」

「あなたも紫月も叱ってくれるひとがいたから、この程度で済んだんだわ」

「言っただろ? ゼゼーナンは優秀だとね」

 無事に合流を果たし、緋姫はほっと胸を撫でおろした。

 だが、下のフロアから銃声が聞こえ、また空気が張り詰める。

「次はまさか……行きましょう」

 緋姫たちは逆さまの校舎をさらに降りた。

 銃声がひっきりなしに鳴り響く。鼻をつくのは、真っ赤な血のにおいだった。

 廊下の向こうから歩いてくるターゲットに目掛けて、武装兵らが一斉に銃を撃つ。にもかかわらず、その少女は少しも歩みを止めなかった。

『すぺる・たて』

 堅固な障壁に阻まれ、銃弾は彼女まで届かない。

 少女は首を傾げながら、淡々と、荒れ狂うほどの業火を召喚した。

『えぇと……すぺる・ひ』

 赤い炎が波打って武装兵を頭から飲み込む。

『C区画にナンバー721が接近中です! 至急、応援を!』

『すぺる・こおり』

 続けざまに青白い吹雪が巻き起こった。武装兵らを瞬く間に氷漬けにする。

 たったひとり生き残った兵は戦意を喪失していた。

『た、助けてくれ……』

『すきる・あーろんだいと』

 命乞いする者にさえ、少女は躊躇わない。

 凄惨な地獄絵図を前にして、緋姫は立ち竦んだ。足が震えてならない。

「ナンバー721……あれが、昔のあたし……」

 そんな緋姫の左右から、紫月とクロードが飛び出した。

「姫様を惑わせるなっ!」

「僕たちまで騙せはしないよ!」

 クロードのアイギスが炎をのけ、紫月の朝霧がナンバー721を一刀のもとに斬り捨てる。少女の幻影とともに、武装兵たちの亡骸も消えた。

「……ありがとう、ふたりとも。助かったわ」

 緋姫は安堵し、頼もしい仲間とアイコンタクトを交わす。紫月はしかと頷いて、クロードはウインクで茶目っ気を出した。おかげで再び力が漲ってくる。

 もう孤独な被験体ではなかった。緋姫には紫月が、クロードが、そして沙耶もいる。

(意趣返しといこうじゃないか、緋姫)

 ええ、ルイビス!

 第六部隊の三名は、ついに最深部へと足を踏み入れた。

 

 底に位置する『最上階』には、ダンスパーティーがおこなわれた講堂と、まったく同じメインホールが広がっていた。

 生徒らの幻が手を取りあって、優美なダンスに耽る。だが、楽隊の演奏もなく、無言のパーティーは不気味さを醸し出していた。

「……寂しいね。あのパーティーが、レディーにはこんなふうに見えてたのかい?」

「九条にはわかってたのだろう。あれが最後の一時になる、と」

 これが『彼女』にとって、人間らしい最後の記憶なのかもしれない。

 窓の外は暗いものの、うっすらと逆さまの山並みが見えた。地上の街ではない。

(カイーナに落ちたか……お前たちは今、地表の裏まで降りてきたのだ)

 逆さだから、上がってるんじゃなかったの?

(地獄というのはな、地表の裏に張りついてるのさ。だから、地獄の力が及ぶと、地上のものは『逆さま』になる)

 頭の中がこんがらがってきた。

 地獄の正体がどうであろうと関係ない。緋姫は紫月、クロードとともに、メインホールの中央で仮面の魔女と対峙した。彼女の手には『ヴァージニアの魔眼』もある。

「助けにきたわよ、沙耶」

「……………」

 沙耶は何も答えなかった。

魔女の障壁によって守られた閂が、邪悪な笑声を響かせる。

「ハハハッ! ようこそ、魔女の晩餐会へ。わざわざ来てくれるとは思わなかったよ」

 紫月は朝霧を抜き、剣幕を張った。

「閂ッ! 貴様の悪行もここまでだ、覚悟しろ!」

「あなたはもうおしまいだよ」

 一方、クロードは落ち着き払う。しかし言葉の節々には怒りが滲んでいた。

「真相に迫りつつあった僕らを秘密裏に排除し、お姫様さえ手に入れれば、あなたの目的は達成できたはずだ。だが学園をカイーナに落とし、派手にやらかした。なぜだ?」

 閂が眼鏡を光らせ、自信を覗かせる。

「フン。君たちに僕の崇高な叡智が計り知れると、思うのかい?」

 ほくそ笑む閂に、緋姫は涼しい顔で挑発を仕掛けた。

「わかってるのよ。あなたは沙耶を制御なんてできてない。このカイーナは、沙耶が自分で作ったんじゃないの? あなたを地獄に閉じ込めるために」

 適当に言ってみただけの推測に過ぎない。

しかし、状況が閂の思惑から外れているであろうことには、確信があった。クロードも言った通り、彼には学園をカイーナ化させる理由がない。

「勝手にほざいてろ。あれを見せてやれ、沙耶!」

 魔女が杖を掲げると、上から鳥かごのような檻が降りてきた。

その中では愛煌がくたっと眠っている。

「愛煌っ? 目を覚まして!」

 緋姫が大声で呼びかけても、反応はなかった。

「僕は何もしていないよ? 己の『罪』に絶望したのさ、彼女……いや、彼は。ひとりの男としてねぇ……実に傑作だったよ、クックック!」

 愛煌もまた紫月たちのように、地獄の洗礼を受けたらしい。閂の耳障りな笑い声が、緋姫の神経を逆撫でする。それでも緋姫は感情を荒らさず、冷静でいた。

「……どういうこと?」

「彼は君が好きなのさ。こんなドレスを着て、美少女ぶっていても、御神楽、君に劣情を催していた。いけないねえ、教師として、どうかと思ったよ!」

 クロードが怒りを露わにする。

「下種め……っ!」

 愛煌のキスに意味があったことを、緋姫は今さら自覚した。

 床の一部が開き、愛煌の入った檻を宙ぶらりにする。

「こんな生徒は地獄に落としてしまおうか。おっと、この下は『空』じゃないぞ? 見えるだろう、真の地獄……第一地獄カイーナが」

 穴の下には数多の鬼火が漂っていた。生贄を貪り喰らおうと群れている。

「愛煌=J=コートナーを助けたくば、おとなしくすることだ」

 閂の卑劣さに、紫月もクロードも声を荒らげた。

「どこまでも見下げ果てた教師だ……!」

「コートナー家の子息を殺したとなっては、あなたもただでは済まないんだぞ!」

「クククッ! 僕が殺った、という証拠が残るのかなあ?」

 依然として閂は余裕を崩さない。

「やってみなさいよ」

 ところが緋姫は淡々と言ってのけた。小悪党が顔を顰める。

「……なんだって? 御神楽くん」

「やってみなさいって言ったの。そうしたら、あたしはあなたを八つ裂きにするだけ」

 殺気が緋姫の瞳を染めた。鬼火が溢れてきて、緋姫にまとわりつく。しかし喰らうことはせず、御神楽緋姫こそが主人であるかのように付き従った。

 閂の表情に焦りが走る。

「ナンバー721、お、お前は一体……もういい、やれ、沙耶!」

 命令され、沙耶の身体がどくんと脈打った。ヴァージニアの魔眼が禍々しく輝き、沙耶にどす黒い地獄の瘴気を集束させていく。

 その背中から放射状に影が広がった。六枚の翼となって、はばたく。

 おぞましい気配が一気に強くなり、緋姫たちはあとずさった。

「な、何だって言うのよ? 羽根が生えたくらいで……」

 クロードがアイギスを構え、一歩ほど前に出る。

「あれはまずいね。エンタメランドで戦ったキングが、可愛く思えるよ」

「今までのやつらとは次元が違うぞ!」

 沙耶の『形』はさらに膨れあがった。純白のドレスが内側から破れ、散る。

 それは人間の姿でもなければ、もはや悪魔の姿でもなかった。ひっくり返した生ゴミのような異形と化し、緋姫たちを戦慄させる。

「こ、これが沙耶だなんて……」

 閂の笑声が木霊した。

「ヒャーッハッハッハ! さあ、どうするぅ? 攻撃なんてしたら、痛い思いをするのは沙耶だ。君たちの大事なお友達が、痛がって苦しむわけさ!」

 異形の中央あたりに、かろうじて仮面を視認できた。

紫月が歯痒そうに朝霧を降ろす。クロードもアイギスの裏で舌打ちした。

「九条を斬るわけにはいかんぞ……」

「ちいっ! レディーを助けに来たっていうのに」

 緋姫もアルテミスで沙耶を撃つなど、できるはずがない。

「くっ……」

 勝利を確信したのか、閂はせせら笑った。

「さあさあさあ、沙耶に殺されろっ! 血と肉の塊になれ、ヒャーッヒャッヒャ!」

 空笑いが狂っている。自分にあとがないことを、認識はしているのだろう。

 化け物の中で仮面がわずかに動いた。

「おねがい、です……わたしを、ころし、て、くだ……さい……」

 沙耶の慟哭が胸を痛めつける。

 ルイビス、手はないの?

(容易いことだ。要は沙耶が苦しまなければ、いいんだろう?)

 そういうことは早く言ってってば!

 緋姫は覚悟を決めた。アルテミスを構えなおし、仲間に指示をくだす。

「沙耶を助けるわよ! 紫月は左、クロードは右! 回避重視で、引きつけて!」

「了解だ、姫様! 任せろ!」

「そこは『仰せのままに』だよ、紫月!」

 緋姫の気迫を見て、紫月とクロードも発奮した。

伸びてきた触手は、紫月の朝霧が斬り払う。

「あぐうっ?」

 沙耶が苦痛の声を漏らした。ダメージは彼女にもダイレクトに伝わってしまう。

クロードのほうは躊躇し、アイギスを引いた。

「どうするんだい、お姫様?」

「こうするのよっ!」

 そのアイギスを蹴って、緋姫は反動をつけ、触手の群れをかいくぐる。

そして右手を伸ばし、魔女の仮面を一息に引き剥がした。

仮面ではなく、沙耶の霊魂を。

「……うああっ? ひ、緋姫さん!」

「さっすが地獄の死神様ね。右手を貸して正解だったわ」

 彼女の『霊』が汚らわしい肉塊から脱し、清らかな輝きを放つ。

閂が眼鏡越しに目を剥いた。

「馬鹿なっ! そんな芸当できるわけがない!」

(魂を引き抜くのが、われら死神の仕事だ。あの男は私たちの力を見誤ったな)

 沙耶は歓喜の涙を浮かべながら、緋姫に抱きつく。

「緋姫さん! わたし、わたひ……!」

「もう大丈夫よ。あたしのお姫さま」

彼女を奪還しながら、緋姫は図体だけの肉塊から間合いを取った。一部始終を見ていた紫月もクロードも、やにさがって、スキルアーツのエネルギーを高める。

「やっちゃって、紫月!」

「承知! 問答無用で行かせてもらうぞ!」

 紫月の朝霧が続けざまに剣閃を放った。化け物の向かって左半身を切り刻む。

 クロードもアイギスを槍の形態に変え、突撃した。

「とっておきをくれてやるさ。アイギス、ランスモード!」

 怒涛の一撃が右の脇腹を串刺しにする。

 さらには紅蓮の炎が巻き起こって、穢れた巨体を包んだ。檻の中でうつ伏せになりながらも、愛煌が渾身のスペルアーツをぶち込む。

「あなたたちにばっかり、はあっ、いいカッコさせないってぇの……っ!」

 灼熱が赤々と燃え盛った。

 瞬く間に逆転され、閂は愕然とする。

「どうした、化け物? さっさとあいつらを殺せえ!」

 緋姫は沙耶のレイを降ろしつつ、小悪党をぎろっと睨みつけた。

「うるさいわね、あなた。あとで相手してあげるから、黙ってなさい」

「……ヒッ?」

 腰を抜かす閂など放って、アルテミスに力を込める。

「ブラスターを使いなさい、御神楽!」

「わかったわ! みんな、さがって! アルテミス、ブラスターモード!」

 光の矢がいなないた。愛煌の炎さえまといながら、不浄な魔物に食らいつく。

 魔女の仮面に亀裂が走った。血の涙を流し、ばりんと割れる。

 

 メインホールは静まり返っていた。戦いは終わり、化け物の姿もない。

 紫月は朝霧で檻を破壊し、愛煌を救出した。

「無事のようだな」

「じゃないわよ。とんだ大失態だわ」

 愛煌はまだ立って歩ける状態ではなく、渋々、紫月の肩に掴まる。

 緋姫の前では、沙耶の裸体が仰向けになっていた。クロードが目を逸らしつつ、上着を彼女にそっと被せる。

「終わったね。……閂のやつは?」

「逃げたんじゃない? あんなのはあとよ、あと」

 閂はすでに逃走したようで、ヴァージニアの杖も見当たらなかった。

 レイの沙耶が、不思議そうに自分の肉体を覗き込む。

「ちゃんと戻れるんでしょうか? わたし」

 ルイビスが無責任に笑った。

(あれだけ袋叩きにして、よく肉体が五体満足で残ったものだ。運がよかったな)

 あなたねえ……沙耶をユーレイにするつもりだったわけ?

 緋姫は呆れ、疲労の分も含めて、溜息を漏らす。

「戻れるみたいだから、安心して」

 とにもかくにも沙耶を助けることができた。

 クロードや紫月も沙耶の無事を喜ぶ。

「レディーをARCに渡すのは避けたいね。しばらく僕の屋敷に来ないかい?」

「俺の道場でも構わんぞ。姉さんも話のわかるひとだしな」

「うふふ、ありがとうございます。それから……」

 沙耶は表情を硬くして、声を上擦らせた。

「巻き込んでしまって、ごめんなさい。エンタメランドの時だって……」

 緋姫はクロードばりにウインクを決め、助けたばかりのお姫さまを慰める。

「何言ってるのよ。友達でしょ? ううん、恋人かしら」

「あなたこそ何言っちゃってるのよ。バッカみたい」

 皆の笑いが起こった。沙耶も嬉しそうに口元を緩め、健気な笑みを涙で濡らす。

「ありがとぅ、ござひ、ます……!」

 彼女を守ることが、緋姫には自分の使命に思えた。

魔女としての過去がある限り、今後も受難はあるかもしれないが、これからは緋姫が傍にいる。もう二度と、ひとりで苦しい思いをさせるつもりはない。

 カイーナが俄かに振動を始めた。

 クロードが沙耶の身体を『お姫様抱っこ』で抱えあげる。

「早く出るとしよう。紫月、君は愛煌さんを頼む」

「了解だ。……おい、じっとしろ」

「ちょっと? 嫌よ、自分で歩けるから……やだ、どこ触って!」

 まともに動けない愛煌も、紫月の腕の中で『お姫様抱っこ』に納まった。

「軽いな、お前。もっと食ったほうがいいんじゃないか」

「余計なお世話よっ!」

 真っ赤になる愛煌をおかしく思いながら、緋姫はクロードに釘を刺しておく。

「あなたこそ、変なとこ触るんじゃないわよ?」

「しないよ。僕らにとってもレディーは大切な女の子だからね」

 さすがクロード。真井舵輪とかいうスケベとは違った。

「輪にもお礼、言っとかないと……今頃、みんなを助け終わってるはずだわ」

「真井舵さんも来てるんですか? うぅ……」

「そこまで毛嫌いしなくても。あれはあれで、割といいやつなんだし」

 緋姫たちは地獄からの脱出を始める。

 

 

 消滅しつつある逆さまの校舎の中を、閂はふらふらと歩んでいた。

「はぁ、はあ……あいつらめ」

 ヴァージニアの魔眼を杖にして、満身創痍の身体を引きずる。

 九死に一生を得たのは、これで二度目だった。前はARCの研究所で、プロジェクト・アークトゥルスに携わっていた時のこと。被験体ナンバー721の暴走によって、研究所はことごとく破壊され、研究員もほぼ全滅している。

 それでも閂は、唯一の成功例だった被験体ナンバー666を連れ、逃げのびた。

 二度目となる今回も、自分を脅かしたのは被験体ナンバー721。あの殺気に満ちたまなざしを思い出すだけで、鳥肌が立つ。

「まだ終わりじゃないぞ……ヒヒヒッ、そうさ。僕にはまだ、これがある」

 怯える閂の手には、ヴァージニアの魔眼があった。この謎の多い魔導具を解明すれば、一発逆転の可能性も充分にあるだろう。閂の表情が虚勢を張る。

 そんな彼の行く手を、ひとりの少女が遮った。

「みっ、御神楽?」

 閂はぎょっとして、慌てふためく。

「……あとで相手をしてやると、言っただろう? 雑魚め」

 緋姫の口振りは異様に尊大だった。御神楽緋姫の顔でありながら、まるで別人のような冷笑を浮かべる。冷ややかな視線は、閂という小悪党を見下していた。

「殺しに来てやったぞ」

「フ、フン? ならば、ヴァージニアの魔眼の実験に付き合ってもらうまでさ」

 閂の右手がヴァージニアの魔眼を振りあげる。

「そんなレプリカで私を惑わせる、だと?」

 ところが、緋姫がぱちんと指を鳴らすだけで、魔導の杖は折れてしまった。

目玉がぼとりと転がり、閂は腰を抜かす。

「……どうした? 何かやるんじゃなかったのか」

「ひいいぃ! くっ、来るな!」

 緋姫はなくしたはずの拳銃アーロンダイトを召喚した。そこに弾丸ではなく、植物の種子を装填し、閂の脇腹に狙いをつける。

「冥土の土産に教えてやろう。貴様らの開発したプロテクトは、ヴァージニアの幻術で、ロックが掛かってると思わせているに過ぎんのだ。……ただの催眠術だな」

 ドンッ、と銃声が響いた。 

 撃たれた閂は激痛のあまり、のたうちまわる。

「ぐおっ、おおお……ひぎぃいッ!」

 苦悶の有様を見ても、緋姫は眉ひとつ動かさなかった。

「痛いのはこれからだぞ? そいつはな、五臓六腑や脊髄を避けて成長し、やがて脳へと達する、地獄の花だ。当分はお前にも養分を分け、養ってくれるだろう」

 閂の血走った両目がぎくりと強張る。

「お、お前は何者なんだ、ナンバー721……!」

「ヴァージニアの上司さ。昔のな」

 緋姫は容赦なしに閂を掴みあげ、窓の外へと捨てた。

 大目玉がごろんと転がる。

「催眠術呼ばわりだなんて、ひどいなあ……。相変わらずだね、ルイビスちゃんは」

「貴様もな。あの程度の俗物にいいようにされる、貴様でもあるまい」

「僕だって生前ほどの力はないさ。ルイビスちゃんもでしょ?」

 魔女の瞳は少年のような声で語った。

「僕の力は、沙耶ちゃんには荷が重かったようだね。無理もないけど……」

「あの娘の肉体を守ったのは、やはり貴様か」

「さあ? 緋姫ちゃんの実力でしょ。あーあ、僕も彼女と一緒がよかったなあ」

 緋姫の口元には、酷薄な微笑。

「じゃあね、ルイビスちゃん。ばいばい」

 ヴァージニアの魔眼は石と化し、音もなく割れた。

後ろのほうから輪が駆け込んでくる。

「御神楽! 急にいなくなるから、捜したぞ? 何してるんだ」

 緋姫は振り返って、勝気な笑みを弾ませた。

「ごめん。ちょっと野暮用が、ね」

「……?」

おかしなものを見たかのように、輪が目を擦る。

「まあいっか。みんなはもう脱出した、オレたちも急ごう」

「オッケー、行きましょ」

 緋姫の影は、髪の長い女のものになっていた。

 

 

 

エピローグ 

 

 

 

 クリスマスシーズンに入って、いよいよ寒さも本格化してきた。部活で水泳があるはずもなく、放課後、緋姫はARCケイウォルス司令部に直行する。

「あっ、お疲れ様です! 御神楽さん」

 司令部ではいつものように哲平がオペレーターを担当していた。机にはコーラと、サンタの人形も置いてある。

「哲平くんもお疲れ様。試験はどうだったの?」

「可もなく不可もなく、ですね。真井舵さんはまた追試みたいですけど」

 司令部には愛煌もいた。今日も偉そうに腕を組んでいる。

「どうしようもないわね、輪のやつは。御神楽、あなたは大丈夫だったんでしょ?」

「もちろん。あとは終業式を待つだけだわ」

 緋姫は適当な椅子に座って、次の任務の概要に目を通した。スペルアーツの力も完全に復活し、今は破竹の勢いでカイーナを攻略している。

 第六部隊のメンバーは比良坂紫月とクロード=ニスケイアで、輪は第四部隊に戻ることになった。代わりに愛煌=J=コートナーが頻繁に隊列に加わる。

「やっぱりスペル専門の仲間が欲しいですね。御神楽さんの負担が大きいですし」

「レベルが高すぎるのよ、第六部隊は。ついていけるやつがいないわ」

 ARCはコートナー家の主導のもと、再編成をおこなっていた。プロジェクト・アークトゥルスの全貌が明るみに出たことで、閂の一派は失脚し、組織内の混乱も多い。閂浩一郎はカイーナで行方不明となり、生存は疑問視されている。

「お仕事の話はあとでいいじゃない」

 しかし何より緋姫にとって大事なのは、来週のクリスマスパーティーだった。

「当日は生徒会の仕事でしょ、愛煌。間に合うの?」

 愛煌が不満そうにむくれる。

「問題ないわよ。はあ、私の屋敷でいいって言ったのに……」

 パーティーの会場は愛煌もしくはクロードの実家だったはずが、今回は紫月の道場に決まった。紫月の姉が腕によりをかけて、ご馳走してくれるらしい。

 ちなみに輪は欠席。第四部隊の美少女たちと、それはもう甘美な聖夜を過ごす、という噂が流れていた。

 クロードと紫月も司令部にやってくる。

「やあ、お姫様。その様子だと、試験の結果も絶好調だったみたいだね」

「姫様は要領がいいからな。俺は今回、英語が少々危なかった」

 紫月が『危なかった』と言いつつ見せた点数は、五十三点。あまり振るわない結果だが、それほど絶望的な数字でもない。

「古典は上出来だったんでしょ? 別にいいじゃないの」

「姫様の数学には及ばんさ」

 高校生らしい話で盛りあがっていると、哲平がうなだれた。

「勉強はいいんですよ。年明けのマラソン大会が、ぼく、もう嫌で嫌で……」

「情けないわね、周防は」

 文武両道を自負する愛煌が、麗しいロングヘアをかきあげる。

 愛煌って、ほんとにあたしのことが好きなのかしら?

 自分よりも美少女然としている『彼』の容姿に、緋姫は内心、戸惑った。学園祭の夜のキスも有耶無耶になってしまい、曖昧な関係が続いている。

「ちょっと顔出したかっただけだし、帰るわ」

 緋姫は鞄を持って、席を立った。

「車で送ろうか? お姫様のエスコートなら、ゼゼーナンも喜ぶよ」

「また今度ね。ゼゼーナンさんによろしく伝えておいて」

 クロードたちと別れ、エレベーターで校舎の一階にあがる。

 年末年始の長期休暇を前にして、ほかの生徒らも浮かれていた。苛酷な試験からの解放感もあり、あちこちで笑い声が聞こえる。

カイーナという怪異に巻き込まれたことも、忘れられつつあった。

 下駄箱の隅で、緋姫は『可愛い彼女』と落ち合う。

「お待たせ、沙耶」

「はいっ! 待たせされちゃいました」

 沙耶はにこやかに笑ってくれた。

 同じ被験体としての過去を持ち、今は一緒に暮らしている。緋姫は沙耶を守るナイトを気取って、四六時中、傍にいた。幸い沙耶には、肉体と霊魂が分離した後遺症もない。

 愛煌たちの介入のおかげで、ARCからの追及もなかった。

「やっと冬休みですね。今年は予定がいっぱいで、大変そうです」

「初詣にも行かないと、ね」

 二年生になったら同じクラスになりたい、などと初めて思う。御神楽緋姫は悪目立ちを避けたいがための一匹狼ではなくなっていた。

「交換用のプレゼント、買いに行くんでしょ? あたしもだし、付き合うわ」

「何がいいか、迷いますね。うふふっ」

ふたりは手を繋ぎ、高校生らしい寄り道に繰り出す。

「いつもありがと、沙耶」

「どうしたんですか? お礼なんか言っちゃって」

「愛してるって言ったほうが、よかった?」

 

 あの時、ルイビスが囁いた。

(地獄に落ちた人間の女は、恋をするものらしい。行ってみるか?)

 ……やめとく。あたしにはもう居場所があるもの。

 

~To Be Continued~   

 

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