傲慢なウィザード #1

ACT.02 第六部隊、出動

 昼休みは中庭に集まるのが恒例になりつつあった。購買で適当なパンを買ったら、早足でいつもの場所へと急ぐ。

 ケイウォルス高等学園は中央に正方形の校舎があった。

南の正門は早朝と夕方を除き、閉ざされている。教師など、生徒以外の関係者は、東の駐車場から入ってくるものらしい。

西にはグラウンドが広がっており、日差しの強い日は、眩しいほどに照り返った。その向こうには体育館があって、バスケットボール部などが練習にも使用する。

北にはクラブ棟があり、道場や屋内プールが一通り揃っていた。ビリヤード場は教師らの憩いの場となっている。

そういった施設の間には並木道があり、昼休みなどは生徒の往来で混雑した。ところどころにベンチがあり、お弁当を広げている者も多い。

 花壇の傍にあるベンチで、九条沙耶は律儀に待ってくれていた。まだお弁当を開けず、鮮やかな夏の花を眺めている。

「遅くなっちゃって、ごめんね、沙耶」

「うふふ、気にしないでください。緋姫さん」

 緋姫は一年一組で、沙耶は一年三組。今までは接点もなかったが、屋上で一緒に授業をさぼったことがきっかけで、仲良くなれた。

 他人を遠ざける傾向にあるため、緋姫にはクラスに友人らしい友人がいない。

 輪のやつは……うん。友達ってわけじゃないしね。

 しかし沙耶には自分に近しいものを感じ、遠慮せずにいられた。ふたりでひとつのベンチに座り、昼食を始める。

「今日もパンなんですか? ひとり暮らしですよね、お夕飯は……」

「ちゃんと食べてるわよ。凝ったものは作れないけど」

 緋姫は包みを開け、ヤキソバパンにかじりついた。飲み物は缶コーヒーのブラック。

沙耶のほうは水筒に抹茶を入れている。抹茶味のお菓子やアイスなら馴染みもあるが、純粋にお茶として飲むのを見るのは、珍しい。

 彼女のお弁当は女の子らしい手作りで、こぢんまりとしていた。

ご飯の上の海苔はべちょべちょに湿っている。それが抹茶によく合うらしい。

「じゃあ、わたしもいただきます」

沙耶は手を合わせてから、お弁当を突っつき始めた。

可愛いなあ……。

同性の緋姫でも、そんなふうに思えてしまう。九条沙耶はおしとやかな雰囲気をまとっており、箸の使い方にも気品があった。

容姿端麗にして、物腰は柔らかい。ストレートヘアが彼女に優美な動きをつける。

「――で、猫さんの一家が住み着いたみたいなんです」

 話の内容も可愛いものだった。

「梅雨の大雨で、住んでたところが滅茶苦茶になっちゃったのかもね」

「わたしが飼えたら、いいんですけど……」

 近所の野良猫がどうしたとか、花を育てているとか。話に色気はないにしても、聞いているだけで穏やかになれる。

『一年一組、御神楽さん。社会科職員室まで来てください』

 ところが楽しいランチタイムは唐突に終わった。緋姫はがっくりとうなだれる。

「……呼び出しですね」

「ええ。心当たりもあるの、ちょっと行ってくるわ」

 校内放送で呼び出されては、逃げようもなかった。中庭のベンチに沙耶を残し、昼休みが終わらないうちに面倒事を済ませることにする。

 

 校舎一階の東側は、教科ごとに職員室やら準備室やらが並んでいた。保健室もその中にあるため、さぼり目的には使いにくい。

 社会科の職員室は相変わらず資料が散乱していた。世界史担当の閂浩一郎は、整理整頓というものに頓着がない。しかし教師として、生徒を叱ることはある。

「さぼってはいけないと言ったはずだよ、御神楽くん」

「……はい」

 世界史の授業を抜けたのは失敗だった。一年一組の担任でもある閂は、大抵のことは黙認してくれるとはいえ、限度もある。

「部活には出てるのかい? ゲームセンターに直行してないだろうね」

「えーと、夏になったので、来週から出ようと思います」

「……出てないんじゃないか、それは」

 閂が眼鏡を拭いて、掛けなおす。

「いいじゃないですか、先生。御神楽さん、成績は赤点ってわけじゃないんでしょ?」

 ごった返しの社会科職員室では、周防哲平が掃除に駆り出されていた。ふたりとも眼鏡を掛け、知的な印象はあるものの、やはり教師の閂のほうが落ち着き払っている。

「君らはもう少しやるものと思ってるんだけどねえ。勉強も」

「インテリ系だって思われがちなんですよ、ぼく」

 一年生はまだ前期の中間試験くらいしかデータがないが、周防哲平は中の上くらいの順位に入っていた。御神楽緋姫も似たり寄ったりの評価となっている。

 ただし緋姫は答案に、意図的に空欄を作っていた。

 ほんとは解けるんだけど……ルイビスの力でもあるんだもの。

 特に数学などは、ルイビスの計算が勝手に頭に流れ込んでくるせいで、自力で解くのが難しい。悪目立ちしたくないこともあり、試験では適度に手を抜いてしまう。

「ARCの任務で忙しいんです」

「その言い訳をされると、こっちとしても苦しいなあ」

 閂浩一郎は世界史の教師であり、またARCケイウォルス司令部に所属する、在校生イレイザーたちの顧問でもあった。学園とARCの間に立って、任務で抜けた授業の補てんや、健康状態の管理をおこなっている。

「まあ僕にも立場ってやつがあってね。中間管理職は苦労も多いのさ」

「だから、おとなしくしろ、って言いたいんですか」

「結論から言えば、そうなるかな? 何しろ御神楽くんは貴重な戦力なんだ。お偉いさんからの注文も多くてねえ」

 職員室にはほかに誰もいないため、ARCの話題に支障はなかった。バインダーのファイルをサイズ別に整理しながら、哲平が報告をくれる。

「そういえば、認可されましたよ、あれ。御神楽さんの能力名」

「あぁ……ウィザードのこと?」

 マジシャン系、ヒーラー系、スカウト系の全スペルアーツを扱える、御神楽緋姫の圧倒的な力。その名を『ウィザード』と申請したら、どうやら認められてしまった。

 哲平が嬉しそうに笑みを弾ませる。

「ようやくわかってきたみたいですね、御神楽さんも。この調子でスペルにもカッコいい名前つけましょうよ。ストームブリンガーとか、コキュートスとか」

「却下よ、却下」

 アニメやゲームが大好きという彼の趣味に合わせれば、スペルアーツ名が珍妙なものになってしまうのは、目に見えていた。

 しかし『スペル・火炎』や『スペル・解毒』では、語感も悪い。

「御神楽くんは確か、スキルアーツの拳銃には名前をつけてなかったかい?」

「アーロンダイトです。あれは、まあ……」

「ですから、スペルアーツもカッコよくするんです!」

 ファイアボルトやサンダーボルトくらいなら、妥協しようとも思えてきた。頑なに拒み続けるのも、それはそれで『皆に合わせようとしないやつ』などと角が立ちかねない。

「じゃあ哲平くんにお願いするわ。なるべく平凡なのでお願いね」

「了解! あとは戦闘服も……」

「それは却下。制服でいいわよ、慣れてるし」

 生徒の哲平に片付けをさせておきながら、閂は暢気にお茶を飲んでいた。

「哲平くんと閂先生は、お昼は食べたんですか?」

「僕は四限のうちにね。今日は授業がなかったものだから」

「とっくに食べましたよ、ぼくも」

 要領のよいこの教師が、生徒が聞きもしない説教のためだけに、自分を呼び出したとは思えない。整理整頓の手伝いを指示されたら、緋姫はさっさと逃げるつもりでいた。

「ところで……御神楽くん。ひとつ相談があるんだよ」

「……なんですか?」

 緋姫の怪訝そうな表情を見据えて、閂が確信犯的ににやつく。

「第六部隊のことでね。君たち、もう少し仲良くできないのかい? 比良坂くんやニスケイアくんとは、任務以外で会うこともないんだろ?」

 そんなことか、と緋姫は肩を竦めた。

「あたしが余所で紫月とかに会ってたら、デートになりますってば……」

 紫月やクロードとは仲違いするような関係でもない。任務において、少なくとも緋姫は彼らの実力を信用している。むしろ後ろで指揮を執る愛煌のほうが、信用ならない。

 しかし『友達』と言えるほど親密でもなかった。同性ならまだしも、やはり男子と女子では勝手が違う。

「紫月はいつも剣道部ですし、クロードは……演奏部には行ってるのかしら?」

「部活はまた別の話さ。特に御神楽くんと、今度から第六部隊となる真井舵くんは、喧嘩ばかりしてるって話じゃないか」

 輪の名前を聞いて、頭が痛くなってきた。

 あのトーヘンボクのせいじゃないの……もう。

 輪の加入によって、メンバーが互いに疎遠になるのではないか。第六部隊の戦力が低下するのではないか。おそらくそういったことが危惧されている。

 現に第六部隊には錚々たる顔ぶれが揃っており、上層部の期待も大きい。

 あらゆるスペルコードを使いこなす、御神楽緋姫。

 攻撃に特化し、『朝霧』による一撃必殺を得意とする比良坂紫月。

 防御に特化し、防衛戦でこそ真価を発揮する、クロード=ニスケイア。

ところが前回の任務でも、隊長の緋姫が単独行動に走り、隊の危機を招いている。レイとの戦闘においても、戦術らしいものはなく、個々人の実力任せになっていた。

「たまにはほら、一緒に街に出掛けて、遊んだりするとか……」

「それ、あたしにだけ言うんですか?」

「君は第六部隊のリーダーじゃないか。よろしく頼むよ」

 話を聞いていた哲平が横槍を入れてくる。

「御神楽さん、とりあえず経費はもらっておいたら? 出るんでしょ、先生」

「う。ま、まあ……少しくらいなら出してあげよう」

閂は口元を引き攣らせつつ、渋々と財布を開いた。哲平は応援のつもりで要求してくれたのだろうが、お金などを渡されてしまっては、いよいよ逃げられない。

「はあ。善処はします」

緋姫は閂のポケットマネーを受け取り、踵を返した。

 

『行動したけどだめでした』と『何もしませんでした』では、言い訳としての説得力がまったく異なる。緋姫は気持ちを切り替え、できそうな範囲で取り組むことに。

 ひとまずクロードはあとまわしと決めた。社交的で愛想のよい彼なら、こちらの都合もわかってくれるはず。一方、もっとも難しいのは輪だろう。

紫月へのアプローチから始めるのが順当となる。しかし比良坂紫月の携帯に掛けてみたところ、繋がらなかった。

 ……あぁ、そっか。練習中なんだわ。

 紫月の居場所に見当をつけ、緋姫は北のクラブ棟まで足を運ぶ。

放課後、剣道部の道場では素振りの稽古がおこなわれていた。部員らの気迫とともに竹刀がしなって、風を切る。

「セイッ! ハッ!」

 男女ともに同数くらいの部で、道場の右半分は男子、左は女子が使用していた。勝手に踏み入ってよいものか迷っていると、上級生らしい女子が気軽に許可をくれる。

「見学の方? こっちにどうぞ、静かにね」

「あ、いえ……しづ、比良坂先輩に用があって、来たんです」

紫月は道場の隅で目を閉じ、黙々と座禅を組んでいた。緋姫が近づくと、待っていたかのように目を開ける。

「任務か? 姫様」

 緋姫の愛称に驚いたのか、部員らの視線が集中した。

「……『姫様』はやめて。ちょっといい?」

「構わんぞ。外に出るか」

 女子の視線だけ、じとっと警戒を含む。部員でもない一年生の女子が道場にあがり込んで、美男子を連れ出すのだから、疑惑を向けられるのも当然だった。

 あんまり近づかないほうがいいわね、ここも……。

 道場を出て、自販機の前で足を止める。

 どこの部も今は活動中のため、クラブ棟の廊下に人気はなかった。無言で営業を続けている自販機に、緋姫は小銭を投入し、コーヒーを選ぶ。

「姫様はいつもブラックだな」

「でしょ? ほかのは買うことがないもの」

 任務以外で顔を会わせることがないとはいえ、お互いについて、何も知らないわけでもなかった。胴着姿の紫月は今、財布を持っていないに決まっている。

「一本くらい奢るわよ」

「いや、いい。すぐ練習に戻るさ」

 彼の切れ込むような瞳が、制服姿の緋姫を一瞥した。

「水泳部はどうした? 確か、向こうでトレーニングをしていたぞ」

「パスしたの。そろそろ顔出すつもりなんだけど」

「プールが解禁されてから、か? 上級生が納得するのか、そんな調子で」

 水泳部は近いうちに辞めるかもしれない。だが水泳を練習できる環境は欲しかった。

「……泳げないのよ、あたし」

「なのに水泳部に入ったのか? そいつは大きく出たな」

 実際にプールで練習が始まれば、先輩たちも呆れるに違いない。その真相が愉快だったようで、紫月は穏やかにはにかんだ。

「それより、用があって来たんじゃないのか?」

「そうなのよ。実はちょっと閂先生に、面倒なこと頼まれちゃって……」

 長くならないうちに、彼に今回の経緯を説明する。

「あたしたち、あんまり仲がよくないって思われてるみたいで。だから、みんなで遊びにでも行って、アピールしとこうってわけ」

 一匹狼を地で行く緋姫には、抵抗もあった。紫月やクロードと遊びに行って、楽しめる自信はない。それこそ、どうせなら沙耶と一緒がよかった。

 きっと紫月も同じ感覚のはず。

「賛成だ。クロードも誘って、出掛けよう」

 ところが紫月の返事は異様に乗り気だった。緋姫はきょとんとして、首を傾げる。

「もしかして、遊びたいの?」

「少し違うな。その……なんだ、恥ずかしい話になるんだが」

 そう前置きしたうえで、紫月は仏頂面のまま、おそらく照れていた。

「友達というやつがいないんだ、俺には」

 緋姫はもう一度、今度は逆の方向に大きく首を傾げる。

「……は? それ、どういう意味?」

「言葉通りの意味だが? どうにも昔から、俺には気の合う友人ができなくてな。実家の道場でも、みな、俺に遠慮するばかりで上手くいかん」

 ここまで饒舌になる紫月も珍しい。

「なんというか、こう……愛称で呼びあえるような? そういう友人が欲しいんだ」

「あ……だからあなた、あたしのこと『姫様』って呼ぶのね」

 比良坂紫月が集団の中で孤立しているとは思えなかった。大会では次鋒を務めるなど、剣道部でもそれなりの立場にあり、その勤勉さは皆が認めている。

 けれども本人は満たされていない。

「できることなら、クロードと打ち解けたい」

 前のめりになるほど前向きになられて、緋姫のほうがたじろいでしまった。

「そ、そう? 助かるわ」

 偏屈な人間ではないものの、比良坂紫月は少々変わった感性の持ち主らしい。彼の『初めての友達作り』に協力することになる。

「っと、続きは部活が終わってからで、いいか?」

「ええ。あたしも、久しぶりに水泳部を覗いてみるわ」

「それがいい」

 おかしな流れになってきたのを直感しつつ、緋姫は紫月を見送った。缶コーヒーで一服してから、暇潰しに水泳部の陸上トレーニングを眺めに行く。

 

 意外にも水泳部の面々には悪い顔をされなかった。来週からはプールも開放されるようで、泳げない緋姫のため、指導してくれるという。

 夏の大会に向けて、部員には大事な練習があるにもかかわらず。

 ケイウォルス高等学園の水泳部といえば、昔は名の知れた強豪だったらしい。立派な屋内プールやシャワー室の完備も、当時の活躍があってのもの。

 距離を取り過ぎるのも考えものね。でも、あたしが部員でいいのかしら……。

 そんなことを考えながら、クラブ棟の前で待っていると、紫月が出てきた。竹刀は私物のようで、学生鞄とともに肩に掛けている。

「待たせたか、すまない」

「そんなに待ってないわよ。じゃあ、行きましょ」

 緋姫たちの当面の目的は、クロードと親密になること。緋姫としては上辺だけのもので充分なのだが、紫月は俄然やる気になっていた。

「ついでに買い物にも付き合ってくれ。姉さんに頼まれてるものがあるんだ」

「紫月って、お姉さんがいたのね。ちょっと想像できないわ」

 下校しながら、打ち合わせ。

「しかし……クロードと友達になるには、何をどうすればいいんだ? 姫様」

「え? それはほら、ええっと……」

 ところが初っ端から行き詰まる。

「……まさか姫様も、友達がいないんじゃないのか?」

 まごついていると、あっさりと図星を突かれた。

「さっ、最近はいるのよ? 仲良くなった子。九条沙耶って子で……」

「大丈夫なのか? 姫様。頼りにしてるんだが」

 ぐうの音も出ない。緋姫は開きなおって胸を張り、隣の紫月を追い越した。

「なるようになるわよ。そんなことより何か食べて行かない? 閂先生から『経費』もらっちゃったから、使わないといけないの」

「下校時に寄り道か。……いいな」

 紫月も早足になって、ケイウォルス高等学園の正門をくぐる。

 学園の周囲には住宅街が広がっていた。最寄りの線路は、『ケイウォルス学園前』駅から東西に伸びており、東は歓楽街、西はオフィス街へと続く。

 緋姫の住むマンションは、西のオフィス街にあった。

「紫月はどこに住んでるんだったかしら?」

「東西線で、六駅ほど西だ。各駅しか止まらん、静かな街さ」

「じゃあ帰る方向も一緒ね」

 学園最寄りのコンビニでは、ちらほらと生徒の姿もある。彼らも部活あがりらしく、鞄のほかに大きなスポーツバッグを抱えていた。

コンビニの駐車場では、男子の二人組がグラビア雑誌をしげしげと眺めている。

「やっぱヒカルちゃんだろ? いいカラダしてんなあ」

「おれはレイちゃんのが好みだなー」

 学校から目と鼻の先なのに、いい度胸してるわね。

 そう思いつつ、緋姫はコンビニを通り過ぎようとした。しかし紫月は足を止め、真剣な顔つきで、彼らを指差す。

「クロードとはあれくらい打ち解けたいんだ」

「……はあっ?」

 斜め方向の発言に、緋姫は素っ頓狂な声をあげてしまった。

 比良坂紫月という生真面目な人物に、グラビア雑誌で盛りあがれるようなキャパシティはないだろう。これは目標のハードルが高いというより、ずれている。

「あたしも友達少ないから、偉そうなこと言えないけど……紫月はそれでいいの?」

「男同士の友達といったら、ああいう感じじゃないか」

 緋姫の話は聞いてくれそうになかった。

 しかしチャンスでもある。ここで早々に失敗すれば、閂に『頑張ったけど無理でした』と言い訳したうえで、切りあげることができた。緋姫は顎に親指を当て、頷く。

「……わかったわ。あのふたり、あたしのクラスメートだし、任せて」

「ん? 姫様、どうするんだ」

「情報収集よ。どういう雑誌がいいとか、聞いてくるから」

 二人組は緋姫の接近に気付くと、後ろめたそうに雑誌を閉じた。色気とは無縁の緋姫でも、一応は女子として認識されているらしい。

「ねえ、えぇと……高井くんと山本くん、だっけ」

「お、おう。何か用か、御神楽?」

 戸惑う彼らに対し、緋姫は割り切っていた。

 ここで多少の恥をかいて、言いふらされたとしても、今さらクラスで『一匹狼』の評価が変わることもない。闇雲に調べまわるより、直接尋ねるほうが性にも合った。

「そういう雑誌って、良し悪しってある? どのへんを重視して買うの?」

「は? あー、うん……どうだろーな、高井?」

 二人組は目を点にして、顔を見合わせる。

「お、おれはピンナップとかで決める、けど? 目当てのアイドルが載ってれば買うってやつも多いんじゃないかな」

「ちょっと見せてもらって、いい?」

 緋姫はグラビア雑誌を手に取り、ぱらぱらと眺めた。しかし芸能界に疎いせいか、内容まではよくわからない。

「男の子って、ほかにはどういうことで盛りあがるのかしら」

「そりゃまあ、テレビとかスポーツとか……女子とあんま変わらないんじゃねえの?」

「バイクは流行ってるけどな。免許取りたいって話は、よく聞くし」

 なるほどと納得しながら、緋姫はグラビア雑誌を返した。

「ありがと。色々参考になったわ」

「ど、どういたしまして?」

 呆ける彼らに背を向け、紫月のもとへと戻る。

「男の子はアイドルと、バイクと、スポーツよ。紫月、どれならいけそう?」

「ふむ。スポーツならわかると思うが、ほかは自信がないな……。本屋にでも寄って、資料になりそうな本を探してみないか、姫様」

「いいわよ。行きましょ」

 緋姫たちが去ってからも、二人組は呆然としていた。

「変なやつだよな、御神楽って……あっちの上級生は彼氏なのか?」

「え? おれ、御神楽は女子と付き合ってるって聞いたぞ」

 噂には根も葉もない。

 

 駅前の書店で、緋姫たちは手頃な雑誌を物色した。携帯電話で哲平にもアドバイスを聞きながら、目ぼしいものをピックアップしていく。

『アイドルはぼくもわかんないですよ』

「忙しい時にごめんね。そっちはまだ、カイーナの監視?」

『前回のビルの件、フロアキーパーには逃げられてますから。近いうちに御神楽さんたちにも出動の要請があると思います』

 結局、買ったのは週刊誌が二冊と、バイクの特集誌だった。

「グラビアのもいる?」

「……いらん」

 書店を出て、紫月と車道沿いに駅へと向かう。

 車道の側を歩き(歩かされ)ながら、緋姫は仏頂面の彼に問いかけた。

「ねえ、紫月。あたし、思うんだけど……あなたとクロードって、あんまり相性よくないんじゃない? タイプが違いすぎるもの」

「だろうな」

 紫月がわかっていたように頷く。

 彼に合う人間なら、剣道部などにいくらでもいそうだった。わざわざ不慣れな知識をかき集めてまで、クロードに固執することもない。

「だが……俺はあいつを信用してるんだ。ほかの誰よりも、な」

 それでも紫月にとって、クロードは大きなウェイトを占めているらしかった。

「……どうして?」

 疑問符を浮かべる緋姫のショートヘアに、紫月の手が触れる。

「カイーナで俺がどう戦おうと、あいつが必ず姫様を守ってくれるからだ」

 切れ長の瞳に優しげな光が宿った。

 目を合わせているだけで、照れくさくなってくる。緋姫は視線を車道へと逸らし、我ながら下手な悪態をついた。

「あ、あなた、友達はいないとか言ってるくせに、彼女はいるんじゃないの?」 

「まさか。女子と出歩くのも、今日が初めてだぞ」

 一台の高級車が通り掛かって、緋姫たちの傍で停まる。

 リアドアの窓から顔を出したのは、偶然にもクロード=ニスケイアだった。

「やあ、お姫様、紫月。珍しい組み合わせだね。デートかい?」

「違うってば。あなたも今、帰り?」

「まあね。方向が同じなら、送っていくんだが……」

 彼の車は東、つまり緋姫たちとは逆の方角に向かっている。

「君となら遠まわりもいいかもねぇ。どうだい、お姫様? ついでに僕と夜景でも」

「どれだけ遠まわりするつもりよ」

クロードは緋姫をからかいつつ、紫月にちらっと視線を投げた。

「そうだ、紫月、ケータイはどうした? 全然繋がらないじゃないか」

「あぁ……家だな、多分」

「携帯してくれ。実は週末の夜会で、欠員が出てね。代役を頼みたいんだよ」

 クロードの友好的な誘いに、紫月が目を丸くする。

「……俺でいいのか?」

「君は『信用できる』男だからね。お姫様とふたりきりなのは、いただけないが」

 緋姫と紫月があれこれと練る必要もなかった。クロードはすでに紫月をひとりの友人と認め、対等に接しようとしている。

 おそらく紫月は緋姫以上に拍子抜けしていた。

「わ、わかった。またあとで連絡をくれ」

「ケータイの電池切れ、なんてオチはなしにしてくれ。じゃあね、お姫様」

 クロードの小粋なはにかみが、ガラスの向こうに隠れる。

 間もなく車は発進し、青信号を越えていった。左ハンドルの外車を運転していたのは執事のようで、やはり彼は資産家の息子らしい。

「……もう友達じゃないの、あなたとクロードって」

「そ、そうなのか?」

 紫月の鈍さには付き合いきれなかった。

 緋姫の携帯が着信を報せる。電話を掛けてきたのは、さっきのクロード。

「なぁに? クロード。紫月に話なら替わるわよ」

『紫月だけずるいと思ってね。来週の祝日は、僕と一緒してくれないか』

 優男からの誘いには嫌な予感がした。下心というほどのものではないにせよ、その愉快そうな口振りからして、企みを感じる。

『一日だけ、僕の恋人になって欲しいんだ。どうかな?』

「車で寝てるの? おかしな寝言が聞こえるわね」

 正直すぎる男の次は、裏がありそうな男。

『ふふふっ、最高のおもてなしを約束するよ。お姫様のために』

 休日を予約されてしまった。

 

 

 クロードと付き合う羽目になった日の朝は、十分前には駅前で待つ。

 おかしなことになってしまった。クロードと休日を過ごすだけならまだしも、『恋人』というのが引っ掛かる。

 もちろんクロードの彼女になるなど、考えられなかった。

「どうせなら沙耶を彼女にしたいわ……」

 朝から何度目かの溜息をつきながら、曇り空を見上げる。午後からは天気が回復するという予報だが、街はまだ薄暗さに沈みきっていた。

 黒い高級車が一度は通り過ぎながらも、戻ってきて、金髪の男子を降ろす。

「おはよう、クロード」

 ところがクロードは緋姫を見るや、『そうじゃない』とかぶりを振った。

「ちょっと待ってくれ、お姫様。僕とふたりで会うのに、そんな恰好で来たの?」

 本日の緋姫のコーディネイトは、安物のジーンズに無地のパーカー。近所のゲームセンターに行くくらいの感覚で、キャップを目深に被っている。

「今日は恋人になって欲しい、と言ったじゃないか」

「そんなの了承した憶えがないもの」

 おまけに緋姫の手には、先日のバイク雑誌があった。クロードの車がさっき通り過ぎたのは、緋姫を小柄な男の子、とでも思ったせいだろう。

「はあ……行くとしようか」

 クロードに続いて、緋姫も外車の後ろに乗り込む。車には乗る機会がないため、ゆとりのある高級車であっても窮屈に感じた。

「あなたは車で通学してるんだったわね。……バイクってどうかしら?」

「免許でも取るつもりかい? 確かにケイウォルスでは、禁止じゃあないけど……ゼゼーナン、どう思う?」

 左ハンドルは五十代くらいの執事が握っている。

「お嬢様はどちらにお住まいで?」

「学校から二駅ほどのマンションです。電車を使うには近すぎて」

「ふむ……それならまだ自転車のほうがよろしいでしょう。バイクは便利そうに思えますが、あれはあれで、何かと面倒事も多いのです」

 イレイザーの任務には給料もあるため、バイク通学も不可能ではなかった。しかし相談したところ、閂にも渋い顔をされている。

「あれは好きでないと乗れませんよ。はっはっは」

「ふぅん……」

「おい、ゼゼーナン。僕のお姫様を横取りするんじゃない」

 車は歓楽街に入り、駐車場で停まった。クロードに連れられ、緋姫も降りる。

「どこへ行くの?」

「準備だよ。そんな恰好でいられては、僕の沽券に関わるからねえ。それに……お姫様とふたりで、こうやって気ままに歩いてみたかったんだ」

 優男の不敵な笑みが緋姫をなじった。

「紫月だけ、ずるいじゃないか?」

「そういうんじゃないってば、こないだのは」

 緋姫はかぶりを振って、さり気なく仲間について問いかける。

「あなたはどう思ってるの? 紫月のこと。信用できるって言ってたけど」

 クロードは『右だよ』と方向を変えつつ、淡々と答えた。

「言葉通りの意味さ。僕がお姫様を守ってさえいれば、彼が敵を倒してくれる。だろ?」

 カイーナでの戦い方は、三人で相談して決めたわけではない。それでも緋姫は支援、クロードは防御、紫月は攻撃というフォーメーションが自然と出来上がっていた。

 緋姫もクロードや紫月のことを、戦力としては信頼している。

「僕は怖がりだからね、アイギスに隠れていたいのさ」

「冗談でしょ?」

「いやいや。君が思ってる以上に臆病なんだよ、クロードってやつは」

 彼は饒舌に語りながら、自嘲を込めた。

「貴族社会では、表情ひとつで面倒事が起こったりするからね。いつも僕は、こんなふうに『笑って』済ませるのさ」

 それが本当のことなのか、単なる冗談なのか、緋姫にはわからない。しかしクロードと腹を割って話していることが新鮮で、悪い気はしなかった。

「自分では賢いやり方だって、思っちゃうのよね」

「お姫様にもあるのかい?」

「……ちょっとね。よく悪目立ちして、叩かれたりしてたから」

 クロードの『いつもの笑み』に親しみが沸く。

「おっと。今のは、紫月には内緒にしてくれよ? お姫様」

「ふふっ、わかったわ」

 ところが彼の行き先は洒落たブティックだった。ショーウインドウにはこの夏のモードらしい、華やかな洋服が展示されている。

「ち、ちょっと? クロード……」

「覚悟してもらうよ。さあ、ドレスアップの時間だ」

 戸惑う緋姫を尻目に、クロードは店員に気さくに声を掛けた。

「いらっしゃいませぇー」

「彼女に似合う服を見繕ってくれないかい? そうだね、カジュアルな感じで」

「はい! お客様、こちらにどうぞ」

 あれよあれよと店の奥に引っ張り込まれ、次々と洋服を当てられる。

「あの、あたしは」

「好きな色などございましたら、お申し付けくださいね。帽子はお預かりしますー」

 緋姫のほうは困惑しているにもかかわらず、店員は営業スマイルを弾ませた。ボーイッシュな身なりの緋姫を『女の子』に仕立てるのを、楽しんでいる。

「美人さんですねえ。お兄さんの彼女ですか?」

「ははっ。その予定、かな」

 クロードは調子のよい笑みを浮かべると、『向こうで待ってるよ』と席を外した。緋姫は観念し、しばらく着せ替え人形になる。

 美人、ねえ……。

 これまでに『可愛い』と言われることは滅多になかった。しかし、たまに同性から『美人』と評されることがある。現に背は低くとも、顔立ちは大人びていた。

 試着のついでに、ショートヘアに櫛を通される。

「綺麗な髪ですねえ。このサラサラ感、羨ましいですよ」

「はあ、ありがとうございます」

 お世辞ね、と思いつつ、緋姫は鏡に向かって溜息をついた。

 ルイビスとかいう悪霊に憑依されているせいか、緋姫の髪は異様に伸びやすい。市松人形の髪が夜な夜な……という怪談と同じで、入学時は、毛先が膝の裏まで届いていた。

 それを生徒会長の愛煌に注意され、ばっさり。クラスメートも驚いたようで、御神楽緋姫の印象は『一匹狼』で確定した。

 三度目の試着で、ようやく店員も納得する。

「彼氏さーん! できましたよぉー」

「どれどれ? ……へえ、決まってるじゃないか、お姫様」

 出来上がったのは、スリーブシフォンのブラウスと、スキニーパンツのコーディネイト。アクセサリとして、太ベルトを腰に巻いてあった。

「じ、じろじろ見ないでったら」

 不慣れな恰好のせいで落ち着かず、恥ずかしい。顔だけでも横に向ける。

 そんな緋姫をしげしげと眺め、クロードは満足そうに頷いた。

「うん、うん! いいねえ、期待以上にスタイリッシュで。ボーイッシュな路線で巧みにお姫様のパーソナリティを引き出してる」

「……カタカナが多いのよ、あなた」

 照れることにも疲れ、緋姫は両肩でうなだれる。

「彼女が今着てるの、このまま貰えるかい?」

「かしこまりましたー。さっきの服は、手提げに入れておきますね」

 クロードは平然とカードを取り出し、支払いを済ませてしまった。慌てて緋姫はレシートに手を伸ばす。けれども彼のポケットに入ってしまい、確認できない。

「ごめん! あとで返すわ」

「何言ってるんだい? 今日の君は僕の『恋人』なんだよ」

 こういった量販店では商品に値札がついておらず、金額は予想するしかなかった。それなりの額に達したのは間違いなく、不安になる。

にもかかわらず、クロードは当然のように提案した。

「靴を見に行こう」

「……えっ、まだ買うつもり?」

 ブティックに続いて、今度は靴屋へ。

 そちらの店では商品に値札がついていたため、かえって眩暈がした。

 

 高校一年生に総額五万円以上のショッピングは、精神的にきつい。しかも全部『彼氏』の奢りでは、居たたまれなかった。

「やっぱり払うわよ。借りを作りたくないの。給料だってあるし……」

「ここは素直に受け取っておくのが礼儀だよ、お姫様」

 幸いクロードの性格からして、恩着せがましいこともない。困り果てる緋姫を見たかっただけ、かもしれなかった。

「申し訳ないと思うなら、今日は一日、僕の恋人でいることだね」

「……それなんだけど、一体どういうことなの?」

 再び車に乗って、彼の目的地へと向かう。

「お見合いの話が転がってきてね」

「あら、おめでとう」

「他人事みたいに言わないでくれるかな。要は正式な縁組になる前に、断りたいのさ」

 緋姫は心から『他人事』と思って、肩を竦めた。

 資産家の息子が、親の決めた縁談を破談にするため、恋人を連れていく。あまりに短絡的かつ典型的な手段には、溜息しか出ない。

 しかし頭の切れるクロードが、そのような下手を打つとは信じられなかった。彼ならもっと利口なやり方で、縁談のひとつやふたつ、無難に回避できるだろう。

「……あなた、遊んでるでしょ?」

「ははっ、もちろん。一波乱起こしてやりたいのさ」

 やはりこの優男は意地が悪い。

 口元では笑いつつ、クロードは眉を顰めた。

「でも、ふざけているのは相手の家なんだ。僕を馬鹿にしてる」

笑みを絶やさない彼なりの顰め面は珍しい。それだけに苛立ちが伝わってくる。

「だから、ちょっと痛い目に遭わせてやるのさ。よろしく頼むよ、お姫様」

「しょうがないわね。けど、あんまり期待しないでよ?」

 緋姫も少し楽しくなってきた。どうせならクロードと一緒に、不躾な縁談とやらをひっくり返してやるのも面白い。

 

 昼過ぎになって、緋姫たちは高級レストランへと到着した。十二階建てのビルの七階という高さにあり、窓の外には、ミニチュアみたいな街並みが広がっている。

「いらっしゃいませ」

 そこで意外な人物に出くわした。

「何やってるの? 紫月」

 ウェイターの顔は、どう見ても知り合いの比良坂紫月。姿勢のよい長身だからこそ、フォーマルな装いもしっくりとして、違和感がない。

 笑いを堪えるクロードを一瞥し、ウェイターはやれやれと嘆息した。

「こいつに『面白いものが見られる』と誘われて、来てみれば、これだ」

「……ご愁傷様」

このレストランはニスケイア家の系列らしく、多少の無茶も通るのだろう。

 紫月は緋姫のカジュアルなスタイルを眺め、ほうと感心した。

「姫様の私服を見るのは、初めてだな。似合ってると思うぞ」

「あ、ありがと……」

 自分で選んだ洋服ではない事実が、後ろめたい。

「っと、向こうはもう来てるようだね。僕たちも座ろう」

 窓際のテーブルでは一組の男女が待っていた。緋姫とクロードは社交辞令の挨拶を切り出し、席につこうとする。今日は本人同士の顔合わせ程度のようで、親はいない。

ところが、そこでも意外な人物と遭遇してしまった。

「……………」

 派手なほどに煌びやかなスタイルの彼女は、愛煌=J=コートナー。しかも隣には、真井舵輪が硬い面持ちで座っている。

「何とか言いなさいよ、緋姫。どうしてあなたがいるわけ?」

「こっちの台詞よ、それ。お見合いの相手って、まさか」

 クロードと愛煌の間で火花が散った。

「やあ、お美しいお嬢さん。ここでは『初めまして』と言うべきかな?」

「ご機嫌よう、色男さん。あなたみたいな方に会えて、光ッ栄だわ」

 さしもの緋姫も口を噤んで、成り行きを見守る。険悪な雰囲気が立ち込め、とても食事どころではなくなった。おまけに正面には輪もいる。

「……クロードと付き合ってたのか、お前」

「そーよ。第六部隊に入ってきたばかりのあなたは、知らないでしょーけど」

 緋姫はそっぽを向いて、淡々と言ってのけた。

 臨戦状態のテーブルへ、紫月がコースのメニューを運んでくる。

「賑やかで楽しそうじゃないか」

 このギスギスした会合が、彼には『昼下がりのパーティー』に見えるらしい。

 無言でいるのを、緋姫と輪は食事で誤魔化すほかなかった。クロード御用達のレストランだけのことはあり、料理は美味しい。

 愛煌は不機嫌そうにむくれ、クロードにあてつけた。

「はあっ、今日は生徒会のみんなと、お茶会の予定だったのに……」

「この店ではご不満かな?」

「あら、そうは言ってないわ。こんなに気分が晴れないのは、面子のせいかしらね」

 持ち前の可愛い小顔を顰めてまで、嫌味をまくしたててくる。

 それに対し、クロードは澄まし顔を崩さなかった。甘い笑みを浮かべ、ボーイッシュな恰好の『恋人』に囁きかける。

「僕は楽しいけどねぇ。ほら、お姫様、アーンして」

「え? え、ええ……」

 戸惑いながら、緋姫はおもむろに唇を開いた。こうなったら乗りかかった舟、一時の恥はかき捨て、付き合ってやることにする。

 愛煌は驚いたように眉をあげた。

「本当に交際してるの? あなたたち」

 緋姫の髪を弄りながら、クロードが余裕綽々に答える。

「ご覧の通りさ。……ところで君たちのほうは、どういう関係なんだい?」

 その口振りに神経を逆撫でされたのか、今度は愛煌がフォークを取って、輪に食べさせようとした。それを輪が、のけぞるようにかわす。

「あなたもアーンしなさいよ、輪!」

「あ、危ねえな! 対抗するようなことかよ」

 事の馬鹿馬鹿しさに緋姫は呆れた。

 お見合いの席にもかかわらず、両者とも別の異性を連れている。つまり愛煌のほうも、今回の縁組を破談にするつもりに違いなかった。

 クロードも大変ね。

 同情するも、やはり『他人事』にしか思えない。相手が深窓の令嬢であったなら、気を遣ったかもしれないが、愛煌では配慮も遠慮もいらなかった。

「これじゃあお見合いにならないわね、クロード」

「ああ。ソロの愛煌さんはともかくとして、僕には恋人がいるからねえ。ふっ」

 緋姫とクロードが息を合わせると、愛煌のボルテージが高まっていく。

「ちょっと、輪? 彼氏らしくしなさいって言ったでしょ! わたしがフラれるみたいな流れになってきたじゃないの」

「もうフラれて終わり、でいいだろ。企みはバレてんだし」

 冷静な輪はこちらの演技を見抜いていた。面倒くさそうに舌を吐く。

「大体なあ、見合いが嫌なら、もっとほかにあるだろ? 彼氏がいるから婚約しません、なんつったら、相手に失礼なんじゃねえの」

「うぐ。そ、それは……」

 愛煌の目的は大方、クロードに一杯食わせることだったのだろう。

 紫月が締めのデザートを運んできた。

「こいつはサービスらしいぞ。姫様、好きなのを選べ」

「ほんと? じゃ、あたしはガナッシュで……」

「ちょっと、ちょっと! 最初に聞くべきなのは、私に決まってるでしょ?」

 この面子で仲良くランチタイムなど、不可能に等しい。

 はあ……災難だわ。

 ガナッシュの代わりにミルフィーユを押しつけられたところで、マナーモードのはずの携帯がやかましく着信を報せた。緋姫だけでなく、クロードや愛煌の携帯も鳴り出す。

「紫月、ケータイは?」

「ロッカーだ。……指令が来たんだな」

 ARCからの出動要請だった。監視中のカイーナが活性化、フロアキーパーが再び出現とある。そのため、交戦の経験がある第六部隊に召集が掛かった。

司令官の愛煌が表情を引き締め、席を立つ。

「状況は一刻を争うわ。すぐに行くわよ、あなたたち!」

デザートを食べる暇はなかった。

 

 

 ケイウォルス司令部には寄らず、クロードの車で西のオフィス街へと直行する。

「午後から晴れるって予報じゃなかったの?」

「予報は予報さ。ゼゼーナン、次の信号のあたりで停めてくれ」

 灰色の雲は朝よりも垂れ込め、今にも降りそうな気配だった。通りの人気も少ない。

 問題のビルの周辺にはARCの作戦車両が二台、停車していた。協力関係にある警察が『立ち入り禁止』のテープを張り巡らす。

 その中で周防哲平はノートパソコンを開き、データをリアルタイムで更新していた。

「みなさん! 休日に呼び出して、すみません」

「しょうがないわよ。哲平くんも、今日はオフだったんで……」

「暢気なこと言ってないで、さっさと状況を教えなさい」

 緋姫を押しのけ、愛煌が前のめりになる。

 哲平はキーボードを叩きながら、ビルの現状について詳細を明かした。

「は、はいっ! カイーナ化は最上階まで進行しています。第四部隊がフロアキーパーを確認、交戦には至ってません。ほかに小型のレイが多数、発生しているようです」

「どうして戦わなかったの?」

「不測の事態だったんです。今日は調査だけで、フロアキーパーとの戦闘は想定してない編成でしたから……」

 ビルの窓がカタカタと震えた。中に入らずとも、おぞましい気配を感じる。

 緋姫は紫月、クロードと頷きあって、危険なビルの入口へと近づいた。

「せっかくの休日を台無しにしてくれた、お礼をしなくちゃ」

「同感だよ。ちょっと許せないねえ」

「やるしかあるまい。カイーナ化を外まで広げるわけにはいかんしな」

 紫月の意気込みだけは優等生のものらしい。いつものメンバーに、今日は輪と、愛煌まで強引に加わってくる。

「オレも行くぞ。もう第六部隊に配属されたんだからな」

「私も行くわ。嫌とは言わせないわよ? 御神楽」

 輪はともかく、愛煌の同行は、できれば断りたかった。とはいえ、カイーナに突入する前から、ああだこうだと揉めてもいられない。

 これで万全の五人編成。しかし哲平はひとつの懸念を強調した。

「みなさん、制服は?」

「そんなの持ってないってば」

 イレイザーはスキルアーツの力を応用し、衣服の防御力を高めている。着慣れた制服であれば、充分な耐久性が得られた。だが制服を取りに行く時間もない。

「やっぱり作りましょうよ、専用のバトルスーツ」

「それは愛煌にでも相談して。行くわよ、紫月、クロード、輪!」

「ちょっと? 指揮するのは私でしょ!」

 第六部隊はそれぞれスキルアーツで武具を取り出し、カイーナへと踏み込んだ。上下が逆転し、天井へと『着地』する。

 足元では蛍光灯が鈍い光を放っていた。頭上には床がある。

同じく頭の上にあるゴミ箱や掃除用具は、落ちてこない。カイーナでは侵入者である緋姫たちの重力だけが反転した。

 どうして逆さまになるのかしら……?

 カイーナやレイについては、判明していないことも多い。ARCが果たして、どこまで真相に迫っているのかも、推測の域を出なかった。

 ビルが逆さまになっているため、フロアキーパーがいるらしい最上階までは、ひたすら降りていくことになる。緋姫はスカウト系のスペルアーツで周辺を探知した。

「破損してるスキルアーツが落ちてるわね」

「そんなの無視よ、無視。私たちの目的はフロアキーパーの消去!」

 今回は要救助者がおらず、第四部隊も脱出済みという。

 前衛は紫月と輪、中衛はクロードと愛煌、そして後衛は緋姫となった。紫月は朝霧の刀を抜き、愛煌はアルテミスの弓を引く。

「僕のアイギスといい、みんな『ア』がつくんだね」

 クロードが緊張感のない笑みを浮かべた。アイギスの盾が光を弾く。

「あなたのアイギスと紫月の朝霧なんて、語呂も似てるものね」

 緋姫は利き手の左で拳銃アーロンダイトを構え、後衛の位置から前方を見据えた。紫月とともに前衛に立つ輪は、両刃の剣を握り締める。

「……待ってくれ。オレの剣にはそんな名前、ないぞ?」

「じゃあ、なんて呼んでるのよ」

「ブロードソードとしか……前の部隊の子が、そう呼んでたんだ」

 緋姫たちの行く先に、レイの群れが突如として出現した。

いの一番に紫月が駆け、刀で水平に一閃を放つ。

「ならば、俺たちで名前を考えてやろう。俺の朝霧に合わせて、夕霧はどうだっ?」

「暢気な連中ね! これだから第六部隊は……」

 愚痴を零しながら、愛煌も矢を撃った。

「悪いことは言わないわ。シルヴァンスにしておきなさい、輪!」

 こちらの先制攻撃で蹴散らされながらも、レイは続々と押し寄せてくる。

すかさずクロードが前に出て、鉄壁のアイギスを張った。

「何も剣の名称に拘ることはない。ノブレスオブリージュ、でいいじゃないか」

 その隙に詠唱を済ませた緋姫が、群れの中心に業火を放り込む。

「スペル・火炎とスペル・突風を合成……改め、ファイアストームっ! あと、輪の剣の名前はダーリンブレイドでっ!」

 灼熱が残りのレイを焼き尽くした。これが緋姫の十八番、合成スペルアーツ。二種類のスペルを合わせて、より強力なアーツを繰り出すことができる。

最後の一匹は輪が剣で突き刺した。

「お前ら、好き勝手言いやがって……」

 この戦いでは連携が効果的に決まった。緋姫と紫月、クロードの三人は以前から一緒に戦っているため、ある程度は身体が勝手に動く。

初見で息を合わせることのできた愛煌には、センスがあった。

「さすがじゃないの、愛煌」

「ふん、私を誰だと思ってるわけ?」

 一方、輪は緋姫たちの連携のあと、ひとりで行動を始めている。このメンバーに不慣れであると同時に、レベル不足のせいもあった。

 あくまで評価のうえではって話、だけどね……。

 イレイザーは実力を数値によって評価される。第六部隊は平均レベルが四十を超えるのに対し、第四部隊は二十台の前半。その中でも輪は一番レベルが低かった。

「あんなのと何回も戦ってられないわ。一気に降りましょ」

「了解、お姫様」

 第六部隊は逆さまの階段を立て続けに降り、一番下の『最上階』を目指す。

 最上階は展望台となっており、戦うには充分な広さがあった。緋姫の探知スペルが、その中央にいつぞやの、蠍の怪物を発見する。

あいつに会うのは、これで三度目ね。もう逃がさないわ。

 あれを倒せば、カイーナは消滅し、ビルは正常な空間へと戻るはずだった。緋姫の含みを込めたアイコンタクトに、紫月とクロードはわかったふうに頷く。

「紫月、お姫様のことは僕に任せろ」

「言われなくとも。やつは……俺が斬る」

 さらに緋姫は、ほかのふたりにも指示を出した。

「愛煌と輪はあいつの後ろにまわり込んで!」

「しょうがないわね。今回だけは言うこと、聞いてあげるわ」

 緋姫たち三人の連携には割り込むまいと、判断してくれたのだろう。愛煌は素直に指示に従い、レイの背後にまわった。

「早くなさい、輪!」

「わ、わかってるって……うわっ?」

 ところが、それに勘付いた魔物が尻尾を振りおろし、輪を掠める。同時に前方では、巨大な鋏で紫月の刀をあっさりと受け止めてしまった。

「……なんだと?」

 挟み撃ちに対応されたことで、緋姫たちの足並みが乱れる。

「気をつけて! こいつ、前より知恵がついてるのよ!」

「生意気ね。レイのくせに」

 紫月に先陣を切らせながら、緋姫とクロードは時計まわりに走った。化け物の側面に立ち、ひとまず鋏の攻撃範囲から逃れる。

(さっきのは違うな。知能が高まったんじゃない、あの身体に慣れたのだ)

 この忙しい時に何よ? ルイビス!

 緋姫にだけその声が聞こえた。

(いつぞや、お前が初めて倒したレイがいただろう? それと同じさ)

 映画館でカイーナに迷い込む羽目になり、イレイザーの輪と出会った、あの時。御神楽緋姫はアーツの力に目覚め、たった一撃で怪物を消し炭にしている。

 あれと同じって……と、それどころじゃないわ!

 緋姫は頭を切り替え、スペルアーツの詠唱に入った。

 愛煌と輪のタッグは敵の周りを半周し、鋏の側へとまわり込む。

「ちょっと、愛煌? そこは危ないってば!」

「あなたたちと向かいあわせになってたら、アルテミスが撃てないでしょ?」

 アルテミスが金色に輝く矢を放った。ターゲットは堅い甲殻で覆われているものの、関節にはぐさりと刺さる。

「この機は逃さん! でやあっ!」

 魔物が前方の愛煌たちに気を取られているうちに、紫月が尻尾を斬り捨てた。

 放物線を描いて飛んできた尻尾を、クロードのアイギスが弾く。

「ヒュウ! さすが紫月だね、頼りになるよ」

「お前が守備に徹してくれるおかげさ」

 このふたり、息がぴったりだった。緋姫が間で取り持つ必要もない。

 のたうちまわる怪物を見て、輪が剣を構える。

「こいつで決めてやる!」

「っ? だめよ、さがって!」

 ところが緋姫は、魔物にエネルギーが集束するのを直感した。蠍の口が開き、そこから火炎のスペルアーツが放たれる。真正面にいた愛煌と輪は巻き込まれてしまった。

「きゃあああっ! この……輪、さがりなさい!」

「くそ! やっちまったか」

 ふたりとも軽傷で済んだらしい。魔物から距離を取り、輪だけ膝をつく。

「あたしが止めるわ! スペル・氷結……じゃない、ブリザード!」

 緋姫は氷の魔球を投げつけ、それをアーロンダイトの銃弾で砕いた。瞬く間に青白い冷気が溢れ、化け物の脚と鋏を凍りつかせる。

「蠍であれば、急所はここだ!」

 紫月は跳躍して、刀を下に向け、尻尾の付け根あたりを突き刺した。

 魔物が苦しそうにのたうちまわり、転がっていく。その途中でカイーナ化が解け、重力の向きが正常に戻った。

にもかかわらず、敵は壁を突き破り、隣のビルの屋上へと落下してしまう。

服の一部が焼けてしまった愛煌は、舌打ちしつつ、回線を開いた。

「ちいっ、ターゲットが外に出たわ! 哲平、補足して!」

『捉えました! まだ動きがあります、気をつけてください!』

 皆が重力の変化に足を取られる中、緋姫は我先に壁の穴から飛び出す。隣のビルまで数メートルの距離は、疾風のスペルアーツの応用で跳躍した。

「ま、待ちなさい、御神楽!」

「これでおしまいっ! ライトニング!」

 両腕を頭上でクロスさせながらエネルギーを高め、振りおろすとともに放つ。

 青い稲妻が蠍の背中に突き刺さった。全部の脚がぴくぴくと痙攣し、動かなくなる。

 咄嗟に身体が動いてしまって、愛煌の制止では踏みとどまれなかった。緋姫は敵から間合いを取りつつ、その屋上へと着地し、仲間のほうに振り返る。

「ふう。仕留めたわよ、みんな?」

しかし愛煌はさっきのビルから降りようとせず、ほかの面子も留まって、緋姫のスタンドプレーを傍観している。

「あーもう。待ちなさいって言ったでしょ? 普通はプロテクトがあるの」

「……あ」

 すっかり忘れていた。

 レイとの戦闘以外では使用できないように、アーツには厳重なプロテクトが掛けられている。カイーナの外で用いる際には、必ず許可を取らなければならない。

 ところが緋姫のアーツにはプロテクトが一切掛からなかった。いつでも、どこでも、自由自在にアーツを繰り出せてしまう。

このことを愛煌は秘密にしたがっていた。

「私に確認を取れって、話さなかったかしら? さっきみたいな場合は、上層部に掛けあえば、すぐに許可が降りるんだから」

「ごめん。今のは迂闊だったわ」

 ウィザードの能力に興味を持っているらしい上層部が知ったら、面倒なことになりかねない。緋姫は反省しつつ、浮遊のスペルで皆をこちらの屋上へと運んだ。

 クロードのアイギスはひとりでに分解し、紫月の朝霧は刀身が消滅してしまう。

「本当にお姫様のアーツだけ、プロテクトが掛からないんだね」

「カイーナを出た途端、俺のもこれさ」

 輪は消えるより先に自ら武器を納め、一番に着地した。

「さっきので充分だろ。御神楽、そいつを殺さないでやってくれ」

「……ころさないで、って?」

 輪の思わぬ同情じみた発言に、緋姫は首を傾げる。

カイーナの外では、レイは力を半減させるのが常だった。今回もその例に漏れず、緋姫のライトニングが致命傷となり、もう動き出す気配はない。

そのはずが、蠍の背面にある甲殻が割れ、別の何かが起きあがってきた。

「え? うそでしょ、人間……っ?」

同い年くらいの男子の成れの果てに、緋姫は驚く。

 彼の下半身は化け物と同化していた。上半身は粘性の液にまみれ、滑光る。

「いやだ、いやだよぅ……なんで、こんなことに……?」

 おぞましい怨嗟の声に、クロードが顔を顰めた。

「一年三組の中嶋じゃないか? 確かにそうだ、演奏部の見学に来たことがある」

「行方不明の? どうしてその子が、あんな姿になってるのよ」

 凄惨な有様に瞳を強張らせながらも、緋姫はルイビスの台詞に納得する。

『知能が高まったんじゃない、あの身体に慣れたのだ』

 今回のレイの正体は、人間だった。

彼はうわごとを繰り返すだけで、自我が崩壊してしまっている。

「まじょ……まじょにだまされたんだ。ほしいものがてにはいる、って……」

「……魔女だと? 何を言ってるんだ、この男は」

紫月が神妙な面持ちで呟いた。

 巨体は徐々に崩れ、ついには彼の上半身のみとなる。それもやがて灰と化した。

 死んじゃったの……?

 そのような光景を目の当たりにして、平然としていられる自分が、少し怖い。一方で輪は、見ていられないとばかりに顔を背け、唇を噛んだ。

 愛煌の声が淡々と響く。

「もっと情報が欲しかったけど、仕方ないわね」

「そんな言い方ないだろ? 事情があったかもしれないじゃないか」

 輪は苛立ちを隠さなかった。

紫月やクロードも納得している顔ではない。それでも愛煌のフォローにまわる。

「犠牲者も出てるんだ。彼だけ特別扱いするわけにはいかないさ。だろう?」

「そういうこと。下手に延命させても、サンプルにされるだけでしょうし。上には、周防のデータも改ざんして、外に出た時点で絶命してたって報告しておくわ」

 サンプルという言葉が、緋姫の頭に痛みを走らせた。

 うっ? ……何なの?

 脳裏で灰色の映像が浮かびあがる。汚らしいゴミ捨て場、捨てられたモノたち――。

 しかし痛みはすぐに引いた。もっと大変なものに気付いて、瞳を瞬かせる。

「愛煌。見えちゃってるわよ」

「何がよ? ……あ」

 愛煌=J=コートナーの服は焼け、胸元が肌蹴てしまっていた。華やかなピンク色のブラジャーが見える。

にもかかわらず、本人はさっきまで前を隠すことも忘れていた。

「んもう、今日初めて着たやつだったのに……サイッテー」

 今さら頬を染め、胸を隠す仕草がぎこちない。下着の形にも違和感がある。

 まさか……いや、まさか……ねえ?

 緋姫はこきこきと指を鳴らし、疑惑だらけの美少女を見据えた。空気が変わったことで輪はきょとんとする。

「……どうしたっていうんだ? 御神楽」

「ちょおっと身体検査をね。逃がさないわよ!」

 紫月は目を逸らし、クロードは笑いを堪えていた。緋姫の手が、往生際の悪い愛煌を捕らえ、平べったいブラジャーに触れる。

「きゃあああっ! 何するのよ、ヘンタイ! 離しなさいったら!」

「いいから、じっとして! ……ひゃあああああっ?」

 ところがスカートを捲って、今度は緋姫が悲鳴をあげる番になった。真っ赤になりながら、大袈裟に間合いを取り、怖気に震える。

「あっ、あぁ、あなた、おっお、お、オトコじゃないのッ!」

 全身で一斉に鳥肌が立った。

 愛煌=J=コートナーの正体は、女装した男の子。しかも、そこいらの女子より美麗で可憐な仕上がりになってしまっている。

「べ、別にいいでしょ? 私は可愛いんだから」

 愛煌は美少女フェイスでふてくされた。これだけなら、男子には見えない。

 クロードはとうとう噴き出した。

「あっはっは! だから言ったでしょ、お姫様? 『ふざけたお見合い』だって」

 以前から愛煌の性別を知っていたからこそ、今日のような遊びに走ったらしい。緋姫は両手で頭を抱え、貴族社会の倫理観を疑いまくる。

「どーいうお見合いなのよ、どーいう……」

「ははっ。余所の家のことなら、止めはしないけど……ねえ、紫月?」

「俺に振らないでくれ。……司令がまさか、男だったとは」

 あとで哲平に教えてもらったところ、愛煌のような女装趣味の男子を『男の娘』というらしい。ほかでは役に立たない知識が、また増えてしまった。

 

 

 ビルのカイーナは消滅し、正常な空間へと戻った。第六部隊は現地解散となる。

 緋姫はクロードとの偽デートを切りあげ、早々に帰ることにした。東西線の駅まで、輪と一緒に向かうことにする。

「今日は災難だったわね、お互い。どうして愛煌の彼氏役なんて、引き受けたのよ」

「その、なんだ……弱みを握られたというか。聞かないでくれ」

 輪の溜息が重い。何しろ男の彼氏役を演じさせられたのだから、同情もした。

「第四部隊の子たちにも誤解されてるんじゃないの?」

「なんでお前がそこまで知ってるんだ」

 緋姫は呆れ、休日には打ってつけの、今さら晴れあがった空を見上げる。

 ……ほんと、あれが男の子だったなんてね。

 ただ、愛煌のおかげで、フロアキーパーの件には冷静になることができた。

一年三組の中嶋が行方不明となっていたのは、レイと化し、長らくカイーナに潜伏していたためだろう。あのカイーナも、フロアキーパーの彼が作り出したことになる。

「あなたは気付いてたのね。あのレイが人間だってこと」

 輪にも聞いて欲しくて、緋姫は何気なく呟いた。

「初めて会った時も、そういうことだったんでしょ? あたしがレイを、人間と知らずにやっつけちゃったから」

「気にするなよ。……とどめを刺せずにいた、オレが悪いんだ」

 輪が無念そうに自嘲を浮かべる。

 彼によれば、すべてのレイが人間というわけではなく、低級のものは雑音のような存在に過ぎない。しかしフロアキーパーのレベルになると、人間の可能性が高かった。

 人間が凶暴なレイに変異し、カイーナを統べている。

 ところが緋姫や紫月、クロードは、その事実を知らされていなかった。ARCは意図的に情報を伏せていたに違いなく、緋姫の中で不信感が膨らむ。

 どうにも嫌な感じね。

 三種のスペルアーツを使いこなす御神楽緋姫の能力『ウィザード』に関しても、ARCは何やら固執している様子だった。使用時の状況など、詳細の提出も求められている。

(プロテクトが効かん件は伏せておけ。愛煌=J=コートナーの判断は正しい)

 今はね。そのうち尻尾を掴んでやるわ。

 いずれ緋姫のほうから行動を起こすことになるかもしれない。

 隣を歩きながら、輪は申し訳なさそうにぼやいた。

「今日は悪かったな、御神楽。その、足手まといにしかならなくて……」

「足手まといなんてことなかったわ。うちの紫月やクロードが規格外なだけよ」

「お前が一番の規格外だろ」

 彼の掲げたてのひらが、夏の日差しを遮る。

「それより、ラーメンでも食べていかないか? さっきのレストランは堅苦しくてさ」

「奢ってくれるならいいわよ。っと、お店は行き過ぎちゃったわね」

輪にしては気の利いた誘いだった。渡っていた横断報道を、途中で引き返す。

 ふと、見知った顔とすれ違った気がした。

「……沙耶?」

緋姫は立ち止まって振り返り、彼女の後ろ姿を探す。

 輪も足を止め、首を傾げた。

「誰かいたのか?」

「ううん、気のせいみたい。早く渡りましょ」

 青信号が点滅を始め、歩行者を急かす。

 沙耶がいたのは見間違いか何かと思って、緋姫は歩道へと駆け込んだ。

前へ     次へ

※ 当サイトの文章はすべて転載禁止です。