傲慢なウィザード #1

ACT.01 最強のイレイザー

 年端もいかない少女は、地下の廃棄物処理場でうつ伏せになっていた。もうどれくらいの時間、同じ姿勢でいるのだろうか。何かしらの断片が頭に浮かんでは、消える。

 あたし……何してたんだっけ?

 パパとママに会いたい……。

 手足に力が入らない。自分の身体が、自分のものとして感じられない。しかし『死』に向かっていることさえ、少女は理解できていなかった。

 何も見えない。何も聞こえない。だから、何もわからない。

「……頃合いだな」

 闇の向こうから誰かが語りかけてきた。

「さらわれた末に捨てられるとは、つくづく運のないやつだ。まあ、こうして私に拾われるのだから、むしろ運はいいのかもしれんが」

 女性にしては低いアルト調の声が、少女の意識を揺さぶる。

「お前が弱ってくれんことには、私も手を打てんからな、悪く思ってくれるなよ。……といっても、わからんか。お前は幼子である以前に、自我が崩壊しかかっているものな」

「だ……れ……?」

 弱々しい少女の呻きに、声の主は驚いた。

「ほう? その状態で、私の声が届くとは。ふっ、怖がることはないぞ」

 幼い身体に俄かに力が漲ってくる。

「お前は私になるのさ。いや、私がお前の一部になる、といったほうが正しいか。さあ、ここを脱出するとしよう。お前にはそれができるはずだ……」

 もう一度、少女は問いかけた。

「ママなの?」

「母親になり損ねた女さ。我が名は、ルイビス」

 その名から記憶は始まる。

 

 

 

 

 

 逆さまにひっくり返っている。

床は頭上にあって、天井が足元にあった。

 いくつかの会社がオフィスを構えているビルであって、外見は何の変哲もない。ところが内部は上下を反転させ、黒ずんだ霧とともに、異様な雰囲気を漂わせていた。

 それでも自販機は営業を続けている。逆さまになっているせいで、缶コーヒーも一度は『上』へと落ちたが、ジャンプで手に取ると、本来の重力に従った。

「ふう……」

 壁にもたれながら、ブラックコーヒーで一息つく。

 ケイウォルス高等学園の一年一組、御神楽緋姫は、コーヒーはブラックと決めていた。味そのものよりも、ブラックなら通を気取れるのが、気に入っている。

あたしったら、誰が見てるわけでもないのにね。

その風貌は高校生らしく指定のブレザーを着用していた。髪は肩にかかる程度の、長めのボブカットで、飾り気よりも機能性を優先している。

黒のストッキングは緋姫のトレードマークにもなっていた。この恰好で動きまわる機会が多いため、スカート対策の一環として、日頃からストッキングを穿いている。

 時刻は昼過ぎのはずで、蛍光灯も点灯しているにもかかわらず、ビルの中は日陰のような薄暗さに染まっていた。窓の外に街は見えず、無限の闇だけが広がる。

雑魚の気配はないようね。でも……。

緋姫はふと敵意のような禍々しさを感じた。

ここはもう普通のビルではない。上下の逆転に加えて、構造を書き換えられ、複雑怪奇な迷宮へと形を変えている。

「はあ。面倒なことになったわね」

 一息ついたあとは、溜息が出てしまった。

緋姫自身、どちらから来たのかを憶えていない。突然のアクシデントに見舞われ、仲間たちとはぐれたのは、十分ほど前のことだった。

「紫月とクロードなら、これくらい大丈夫でしょうけど……」

この異常な空間で、緋姫たちに課せられた任務は、第一に生存者を保護すること。第二に、『逆さまの現象』を引き起こしている元凶を突き止めること。

緋姫が一服していると、巨大な影が近づいてきた。人間を丸飲みにできそうなくらいのサイズで、酸性の涎を垂らす。

形状は蠍に近いが、単純に『化け物』といったほうが正しい。

化け物は緋姫を見つけ、鋭利な牙を剥いた。

「せっかちね。これ飲み終わるまで、待っててくれてもいいじゃないの」

しかし緋姫は眉を少し上げただけで、驚かない。まだ少し中身が残っている缶コーヒーを、頭上で逆さまになっているゴミ箱へと放り込む。

「さてと……スペル・分析!」

怪物に向かって右手をかざすと、半透明のフィルターが浮かびあがった。それを通して覗き込むと、周囲の地形データとともに、対象の詳細が表示される。

危険度・C、フロアキーパーの可能性・高。

「さっきのやつと同じ個体ね。まっ、こんなのが何匹もいても、困るけど……」

蠍の化け物は怨念めいた唸り声をあげた。鋏を叩きつけるだけで、ビルが揺れる。

 緋姫はヘアピンを抜き、それを拳銃へと変化させた。手際よく弾丸をリロードしたら、利き手の左で、銃口を怪物に向ける。

「今度はこっちから行くわよ! ほらっ!」

 先制の弾丸が敵の足元を掠めた。怪物が目を赤々と光らせ、敵意を剥き出す。

 すかさず緋姫は方向を変え、駆け出した。魔物から一直線に距離を取りつつ、得意のスペルアーツを廊下に仕掛けていく。

 怪物は蛇腹を駆使し、戦車のような勢いで猛追してきた。その図体には窮屈な通路でもスピードを落とすことなく、器用にすり抜けてくる。

 しかし知能は低いらしく、緋姫の張ったトラップを次々と踏み抜いた。

「トラップ・ボムとトラップ・ニードル、発動!」

高まりきった魔力が爆ぜ、魔物の胴体をかちあげる。さらに左右の壁面から、銀色のスピアが飛び出した。蠍の腹部を縫い止めるように交差し、接近を足止めする。

しかし優勢にあっても、緋姫は安易に喜びを浮かべなかった。

「……威力が足りなかったみたいね。さすが、危険度Cともなると」

 残りのトラップは捨て、間合いを取りなおす。

 怪物は節足をバネのようにたわめ、巨体を前方へと弾ませた。重量が響き、今は足元で『床』となっているビルの天井に、亀裂が走る。蛍光灯もいくつか折れ、点滅した。

予想はしてたけど、やっぱり並のレイじゃないわ!

 敵のデータを更新しながら、緋姫は拳銃で残りの蛍光灯も壊す。だが、その程度では時間稼ぎにならず、化け物は夜行性らしい目を赤々と光らせた。

スペルアーツをメインとする緋姫のバトルスタイルでは、接近戦は分が悪い。拳銃も護身用のもので、今回の相手に致命傷を与えるほどの威力はなかった。

 魔物がビルの壁を抉り取って、破片を投げつけてくる。

「……ヤバいっ?」

 防御系のスペルアーツが反射的に発動し、バリアを張った。飛来する破片を連続で受け止め、脇に逸らす。しかしその反動は衝撃を伴い、緋姫を後ろへと弾き飛ばした。

「きゃあぁ!」

 かろうじて受け身を取ったものの、左手から拳銃が離れる。

 それを好機と見たのか、怪物はみるみる距離を詰めてきた。こちらが体勢を立てなおすには、あと数秒足りない。にもかかわらず、緋姫の表情には余裕があった。

「……ナイスタイミング!」

 逆さまの扉を突き破って、仲間が躍り込んでくる。彼は背丈ほどもある大型の盾を、真正面に構え、怪物の突進を力ずくで食い止めた。

「無事かい、お姫様!」

 貴族風の爽やかな顔が、緋姫を茶化すようににやつく。

「クロード! 『お姫様』はやめてって、言ってるでしょ?」

「仰せのままに。……お、姫、様っ!」

 シールドの裏側で、金色の髪が光沢を放った。学園指定のブレザーには目立ったアレンジもないのに、王子然とした風格をまとっている。

 クロード=ニスケイアは盾を前面に押し出し、蠍の化け物と相対した。

「アイギス! 踏ん張ってくれよ」

 シールドが輝きを増すとともに大きくなり、巨体の突進を阻む。

 その隙に反撃しようとする緋姫だったが、今度はクロードの盾が邪魔になった。盾そのものには透明感があって、視界は広いものの、これではこちらの攻撃も届かない。

「お姫様も押してくれ!」

「オッケー! スペル・旋風!」

 クロードの閃きを察し、緋姫はスペルアーツで『背後』に突風を放った。それを逆噴射として、正面の敵に盾を押し込む。

「これなら行ける! お姫様、もっと強く!」

「だからその呼び方、やめてって言ってるでしょ!」

 ついには魔物の巨体を押し返した。推進力となった暴風が、ビルの中を荒らす。

廊下の端まで達すると、側方から、もうひとりの仲間が素早く仕掛けた。

「捕らえたッ!」

 蠍の節足が千切れて、ばらばらに飛ぶ。

 黒髪の青年は刀を振りあげ、続けざまに胴体へ斬りかかった。

「この一太刀で決めるぞ、朝霧!」

 霧をまとった刃が、怪物の脇腹を引き裂く。泥のように濁った血液が四散した。

劣勢を悟ったらしい敵が、残った足で逃走を始める。

緋姫は前に出て、スペルアーツで追い打ちを掛けようとした。

「スペル・氷結……だめだわ」

 しかしスペルアーツを詠唱している間に、逃げられてしまう。逆さまのビルは今、迷宮と化しているため、一度逃げられると追撃は難しい。

「深追いは禁物だろう」

「そうね。さっきはありがと、紫月。グッドタイミング」

 紫月は前髪をかきあげ、仏頂面をほんの少しだけ緩ませた。

「姫様に怪我がなくて何よりだ。心配したぞ」

「ごめん。……それはともかく、その『姫』って呼ぶの、ほんとヤメテ」

 緋姫は苦笑いで口元を引き攣らせる。

 クロードは警戒態勢を改め、移動には邪魔な盾を消した。

「はぐれていた間に民間人を発見したよ。負傷してるから、向こうで休ませてるんだ」

「すぐに行くわ。案内してもらえるかしら」

「もちろん。仰せのままに」

 お姫様扱いを聞き流しつつ、緋姫はふたりとともにビルの一室を訪れる。その隅では女性がひとり、腹部から血を流し、苦しそうに呻いていた。

 クロードが声を潜め、緋姫に耳打ちする。

「毒にもやられてるようだよ。おそらく、さっきのレイに……」

「あれに襲われて、この程度で済んだんなら、まだ運がよかったのかもね」

 緋姫は彼女の衣服を裂き、痛々しい傷口を確認する。

「クロードは念のため、アイギスを張っておいて。紫月は周囲の警戒をお願い」

「了解だ。手当ては任せたぞ」

 緋姫の右手が温かい光を発した。

「スペル・解毒……と、こっちはスペル・治療……」

 左手も同じように光って、負傷者の傷口を優しく包み込む。

 小慣れた緋姫でも、複数のスペルアーツを同時に扱うには、並々ならない集中力を要した。それだけに、解毒と治療の併用は効果も高い。

 しばらくすると、負傷者の息遣いが緩やかになった。顔色に血の気が戻ってくる。

 緋姫は安堵し、顔をあげた。

「……ふう。応急処置はできたわ。このひとを連れて脱出しましょ」

「なら僕が運ぼう。女性の扱いなら任せてくれ」

「はいはい」

 クロードが負傷者を慎重に背負い込む。

 紫月は刀『朝霧』を構えながら、前衛に立った。

「さっきのやつが戻ってくるかもしれん。くれぐれも油断はするなよ」

「ええ。あれがこのカイーナのフロアキーパーに違いないわ」

 中衛の緋姫も索敵の範囲を広げ、警戒に当たる。後衛は負傷者を背負ったクロードという隊列で、一行は逆さまのビルを進んだ。

「あたしが八階から七階……じゃない、九階に『落ちた』んだっけ」

「出口は上だぞ、姫様」

 スペルアーツで踏破済みのエリアを表示し、行き止まりのルートを排除していく。ビルが逆さまになっているため、出入り口の一階は緋姫たちの上方にあった。

 今朝までは普通のオフィスビルだったものが、今は大小さまざまな化け物が徘徊する、怪異の迷路と化している。

 化け物は『レイ』と、迷宮化した建物や地区は『カイーナ』と呼称された。カイーナとは地獄の呼び名でもあるらしい。

 警戒の態勢で進みながら、緋姫はぽつりと漏らした。

「……戻ったら、怒られちゃいそうね」

「お姫様には前科もあるから、しょうがないさ」

「フォローしてくれないわけ?」

 緋姫たちの今回の目的は、民間人の保護が最優先。

 しかし先ほどの大型レイに遭遇した時、戦いを仕掛け、緋姫だけはぐれてしまった。今しがたの交戦は二度目となる。

本部から『戦闘せよ』という指示は一切なかったにもかかわらず。

 幸い民間人を救出できたが、それとこれとは別の問題だった。下手をすれば、ひとつのミスによって全滅していた可能性もある。

 カイーナとは地獄。生きている者の世界ではないのだから。

 

 

 学園の地下には『ARCケイウォルス司令部』が秘密裏に存在する。

 そこへ戻ると、案の定、叱られてしまった。

「――だ、か、ら! ついでみたいにレイと戦ったり、破損アーツを集めたりするの、やめなさいって何度も言ってるでしょ!」

 緋姫たちの上官にして、ARCケイウォルス司令部の若きリーダー、愛煌=J=コートナー。大抵は腕組みのポーズで司令室に常駐し、部下の動向に睨みを利かせている。

 本人は美少女を自負し、現に端麗な容姿を誇っていた。麗しいロングヘアに、スレンダーなプロポーション、それから高飛車な性格も、男子の人気は高い。

 ただし緋姫には時折、敵対心のようなものを感じさせた。

「自信があるのはいいけど。部活ってレベルじゃないのよ、イレイザーの任務は」

「……はぁい」

 緋姫は『気をつけ』の姿勢だけ取って、聞き流す。紫月とクロードは緋姫を一切フォローせず、清々しいほどに裏切ってくれた。

「こんなふうに言ったら問題発言になるけど、イレイザーの損耗率だって低くはないの。特に、御神楽? あなたの強さはあてにしてるんだから」

 愛煌のほうも、緋姫が真面目に聞いていないのを見抜いている。そのせいで話は余計に長くなり、今回の任務とは関係のない、個人的な不満まで聞かされた。

「スペルアーツを全種使えるなんて、ほんっと規格外よ? この私でさえ、マジシャン系をちょっと使える程度なのに」

「スナイパーがマジシャンのスペルアーツも使えたら、充分でしょ」

「マジシャンもヒーラーもスカウトも使えるあなたに、言われたくないわよ! あと、私にはちゃんと敬語を使いなさいったら」

 話が脱線し始めたタイミングで、オペレーターがやんわりと仲裁に入る。

「まあまあ、司令。御神楽さんも引き際は弁えてますよ。深追いはせず、民間人の保護を優先したわけですし。あ、彼女も命に別状はないそうです」

 周防哲平は眼鏡を掛けたインテリ系の男子で、緋姫と同じ一年生だった。愛煌、クロード、紫月は二年生として、平時は学園生活を送っている。

「それよりお昼です。ご飯を食べないと、午後の授業と睡眠に差し支えますね」

「居眠りが当然みたいに言わないでちょうだい」

 彼の間延びした物言いには、周囲を脱力させる効果があった。愛煌はやれやれと肩を竦め、説教を切りあげる。

「はあ……周防に免じて、これくらいにしといてあげるわ。生徒会の仕事もあるし」

ケイウォルス高等学園は、表向きはそれなりに名の知れた名門校だった。理事長の孫である愛煌=J=コートナーが生徒会長を務め、学園の風紀も安定している。

同時にここは、近隣のカイーナ攻略の拠点でもあった。

 対レイ怪異捜査機関、略してARC。この組織はカイーナという異変に巻き込まれた民間人の救出や、レイの討伐を目的としている。

レイとは本来、東方の言葉で『心霊』を意味しており、特に悪意があるものを指した。いわゆる悪霊として、歴史上では戦後より、世界じゅうで猛威を振るっている。

レイに火器の類はまったく効果がなかった。対抗できるのは、さまざまなアーツを使いこなす、御神楽緋姫たちのような『イレイザー』のみ。東洋に由来があるようで、もとは慰霊士や除霊士と呼ばれていたものが、イレイザーに転じている。

巷の心霊スポットは大抵、カイーナの前段階であり、各地で秘密裏にイレイザーが対応に当たっていた。次元が逆さまになるほど規模の大きいものは、ARCの指揮のもと、長期的な探索がおこなわれる。

「戻ろうか、お姫様」

「そうね。午後の授業は出ないと……」

 緋姫は両手で伸びをしつつ、エレベーターで上にあがった。

今日は朝イチで授業を抜け出し、出動する羽目になっている。教師は事情を知っているものの、クラスメートにはすっかり『サボリ魔』扱いされていた。

それでも学園の生徒で隊を編成しているのは、緊急時の集合が早いため。カイーナでは民間人よりイレイザーのほうが、レイに狙われる傾向もあり、迅速さが求められた。

「紫月たちはお昼、どうするの?」

「俺は弁当がある」

 エレベーターでは紫月もクロードも、何気なく階数の表示に注目する。

「僕と一緒に食べるかい? お姫様。中庭にでも席を用意させるよ」

「勘弁して。目立つのは嫌なの」

 比良坂紫月とクロード=ニスケイアは、御神楽緋姫よりひとつ年上の二年生だが、敬語はいらなかった。ふたりとも、ブレザーのリボンの色を見るまで、緋姫を二年生か三年生と思っていたらしい。

 そんなに落ち着いてるかしら? あたし。

 地下のフロアは一般の生徒には隠されており、緋姫たちがエレベーターで一階まで上がってきたことには、誰も気付かなかった。

「ねえ、知ってる? 駅前のビル、なんかの事件で立ち入り禁止だって」

「多いよね、行方不明とかさあ。三組の中嶋くん、まだ見つかってないって聞いた?」

イレイザーやレイのことも、世間では噂程度のことでしかない。

一高校生として、緋姫は気持ちを切り替えた。

「あたしは学食に寄ってくわ。じゃあね、ふたりとも」

 ちょうど昼休みの時間帯で、食堂は大いに混雑している。購買部のほうでも人気のパンはほとんど売り切れていた。出遅れたのは間違いない。

 身長が百七十センチ台の紫月やクロードは、皆の目を引いた。特に女子は目をきらきらさせて、チャンスがあれば近づいてくる。

「比良坂先輩、こんにちは! 昨日は部活をお休みされてたので、心配しました」

「すまない。急用が入ってしまってな」

 比良坂紫月は剣道部に所属し、試合などでは次鋒を務めていた。勤勉かつ頑固な人となりは少々近づき難いものの、部員の信頼はあつい。

「それじゃあ失礼します。比良坂先輩、また放課後に」

「ああ。お前たちも、昼はしっかり食べておけ」

 しかも料理が得意で、姉に教わったらしく、主婦のお手本のようなお弁当を毎日手作りしていた。女子力は御神楽緋姫より高い。

「たまに女子部員で、食事を抜くやつがいるんだ。まったく……」

「ダイエットしてるんでしょ」

「それはわかる。だが、断食は賢い痩せ方とは言わんだろう」

 紫月と同じ二年四組の美男子がはにかんだ。

「僕らのところは男子クラスだからね。女の子の発想がわからないのさ」

 クロード=ニスケイアは由緒ある貴族の息子であり、眉目秀麗な容貌が目立つ。普段から甘い笑顔を絶やさず、女子はもちろん、男子にも顔が広かった。演奏部に在籍してはいるものの、実家の用事などで頻繁に抜けるため、幽霊部員となっている。

「……クロード、君はいつものか?」

「おっと、ゼゼーナンに連絡しないとね。天気もいいし、中庭で食べようかな」

 クロードは携帯電話で執事を呼び、手短に昼食の指示を出した。

 二年の男子クラスにいる美形といったら、このふたり。周囲の女子はクロードの麗しさと紫月の気高さに惹かれ、興味津々に様子を窺ってくる。

 ただし緋姫にとっては厄介な色男たちだった。

「それじゃ、お姫様。また一緒に学校サボろうね……ふふっ」

 クロードの人目を憚らないウインクが、緋姫をぎくりと強張らせる。

「は? ちっ、ちょっと!」

「行こうか、紫月」

「うむ。例の件、進展があったら連絡を頼むぞ、姫様」

 一同の視線は、彼らにお姫様扱いされる御神楽緋姫に集中した。

「またあの子よ、一年の御神楽とかいう……クロード様の何なわけ?」

「比良坂先輩まで『姫様』だなんて、ショックぅ」

 こういう時の皆は、当事者に聞こえるように囁くものだから、居たたまれない。緋姫はなるべく周囲を刺激しないよう、そろそろと券売機の列に加わった。

 はあ……クロードったら。

 ARCケイウォルス司令部で、緋姫たちは『第六部隊』に所属している。

 愛煌=J=コートナーは全体の指揮に当たり、作戦の立案や出動を指示。御神楽緋姫は第六部隊の隊長を務め、現場では一定の采配を認められていた。

 まっ、紫月やクロードなら、あいつとも上手くやれるでしょうけど……。

学園の生徒で構成されているチームも多い。近々、第四部隊からこの第六部隊に異動となるメンバーも、同じ生徒だった。

 本日の昼食は魚がメインの、B定食。

「御神楽さん、少し多めに入れといたからね」

「ありがと、おばさん」

 小柄なせいか、今日も量をこっそり割り増ししてもらえた。週五のペースで通っていると、不愛想な緋姫でも、食堂のスタッフとそれなりの関係が築けるらしい。

 たくさん食べて大きくなれ、って歳でもないのに……。

 先に食べ終わった生徒が席を空けたところへ、緋姫はゆっくりと腰を降ろした。

「随分と遅いお帰りだな」

 向かいの席から、ぶっきらぼうに声を掛けられる。

彼は顔を背けつつも横目でじっと睨んできた。

 しまったわ……いたのね、こいつ。

 心の中で溜息をつきながら、緋姫は素知らぬ顔で箸を持つ。

「なんでそこに座るんだ、御神楽」

「そんなのあたしの勝手でしょ? 輪」

 ここで別の座席に逃げるのは面白くなかった。同じB定食というのも苛立たしい。

 輪は眉を顰め、溜息とともに箸を休めた。

「昼飯のあとで、様子を見に行こうと思ってたんだが……何かあったか?」

「食堂よ、ここ。その話はナシにして、ダ、ア、リ、ン」

 この男子の名は真井舵輪。御神楽緋姫の『お姫様』にもひけを取らない、恥ずかしい愛称の持ち主で、よく女子から『ダーリン』とからかわれている。

「……オレにまで『姫』って呼ばれたいのか、お前」

「冗談よ、冗談」

 輪とは同じ一年一組で、イレイザーの同僚でもあった。輪のほうはイレイザーになってから、すでに一年ほどが経過しており、それなりに場数も踏んでいる。

 対して緋姫の実績は、まだ三か月ほど。そのくせ、緋姫のスペルアーツが桁外れに優れていることが、気に入らないらしい。

 愛煌といい、輪といい……。

ただ、輪はキャリアの割に実力がいまひとつだった。レベルアップが思うようにならない悔しさも、緋姫への苛立ちとなっているのだろう。

「また勝手なことをしたんじゃないだろうな?」

「ノーコメント」

 今朝の出動について、緋姫は口を噤む。

 素っ気ない態度を取ってしまう自分にも、不仲の原因はあった。

 どうにも最初の出会いがよくない。もとは輪がイレイザーとして、民間人の緋姫を救助するはずだった。ところが緋姫自らレイを撃退し、逆に輪の危機を救ってしまった。

「とにかく場所が場所なんだから、話はあとでいいでしょ」

「どうせ誰も聞いてないさ」

 凛が額を押さえるようにして俯く。

「最悪の話なんだが。やっぱりオレは、お前の隊に入ることになるとさ」

「……最悪ね、それは」

 緋姫も食べかけの焼き魚定食に視線を落とす。

 今までは別の部隊だったため、摩擦も少なくて済んだ。しかし今後は行動をともにする羽目になるのだから、早くも頭が痛い。

「あたしの隊に来るからには、あたしのやり方には妥協してよね。カイーナで口論なんてしてられないの、あなたにだってわかるでしょ?」

「善処するさ。お前がおかしな作戦を言い出さない限り、な」

 とはいえ紫月やクロードは輪を快く迎え入れるだろう。緋姫だけ意地を張って、険悪な雰囲気をずるずると引きずりたくもなかった。

 何より人数が増えることは、緋姫たちにとって大きなプラスとなる。

「あなたのアーツの特性とか確認しておきたいから、今週のどこか、空けておいて」

「わかった。オレは部活に入ってないから、いつでも構わないぞ」

 カイーナの調査では、四、五人で隊を編成するのが基本だった。前列と後列に分かれ、前衛はスキルアーツを、後衛はスペルアーツをメインにして戦う。

 スキルアーツとは、武具を実体化させたり、直接攻撃の威力を高めるアーツのこと。

紫月なら刀の『朝霧』、クロードなら盾の『アイギス』。緋姫の拳銃『アーロンダイト』もスキルアーツとなる。

 そしてスペルアーツとは、いわゆる魔法に近かった。攻撃系はマジシャン系、治癒系はヒーラー系、支援系はスカウト系と、三種類に分類されている。

 突風を起こしたり、ターゲットを氷漬けにするのが、マジシャン系。

 解毒や治療をおこなうのが、ヒーラー系。

 敵の識別や現在位置の把握、ほかにトラップを用いたりするのが、スカウト系。

 愛煌=J=コートナーは例外として、スキルアーツに特化したイレイザーは、スペルアーツを使用できない例がほとんどだった。

 また、ひとりのイレイザーが使えるスペルアーツは、一種類の系統に限られる。

「あなたがスペル系だったら、よかったんだけど」

「確かにそれなら、前衛と後衛にふたりずつ配置できたな」

 盤石の布陣とされる編成では、前衛にふたりのスキルタイプを、後衛に三人のスペルタイプを置いた。後衛にはマジシャン系、ヒーラー系、スカウト系をひとりずつ配置する。こうして役割分担を明確にすることが、作戦の成功率や隊の生還率に直結した。

 ところが第六部隊は今、たった三人で編成されている。前衛の紫月とクロードは定石としても、後衛の仕事は緋姫がひとりで受け持っていた。

 緋姫にはすべてのスペルアーツが使えるため。

「まあ、前が三で後ろが一っていうのも、悪くないだろ」

「そう思うしかないわね。あたしの負担は増える一方なんだけど……」

 小声で話しつつ、緋姫は輪の容貌を何気なく眺めていた。輪はクロードほど煌びやかでなくとも、端正なルックスの持ち主で、気取った振る舞いもない。第四部隊は学園の女子らと輪の編成だったため、色っぽい話もあったのだろう。

 やがて食堂の生徒も減ってくる。輪は先に定食を食べ終え、席を立った。

「午後の授業は出ろよ、御神楽。オレはフォローしない」

「あなたのフォローなんかいらないってば」

 緋姫はなかなか立つ気になれない。遅刻上等で予鈴を待つ。

 

 本鈴が鳴っても、緋姫は一年一組の教室に戻らなかった。

 気分転換のつもりで屋上に出て、昼過ぎの眩しい太陽を見上げる。

「ふう……」

 ARCがヘリなどを運用するため、屋上は開放されていた。軍用機じみた輸送機も、一般の生徒らは愛煌会長の自家用ヘリと思っているらしい。

 出動もないのに授業に出ないのは、正真正銘のさぼり。けれども今は教室でうたた寝する気分でもなかった。貯水槽の陰で仰向けになり、青空の白い雲をぼんやりと数える。

「暑くなってきたわね」

 じきに夏休みという時期なのに、まだ緋姫はクラスメートと打ち解けることができずにいた。むしろ緋姫のほうから距離を取っている。

 御神楽緋姫は諸能力が抜きん出ており、それゆえに孤立しやすかった。普通にしているつもりでも、周囲の人間を『負かして』しまう傾向にある。

 中学生の頃、助っ人で入ったソフトボール部では、わずか一ヶ月でレギュラー枠を奪取した。模試では上位一桁に入り、望んだわけでもない推薦を断っている。

 そのような人間は称賛される一方で、反感も買いやすかった。

『先輩を差し置いて、もうレギュラー? どういうつもりよ、あの子』

『推薦、蹴ったんだってさ。だから御神楽は性格悪いって、言ったじゃない』

 同じ失敗をしないよう、ケイウォルス高等学園ではなるべく目立つのを避けている。授業をさぼってやり過ごすのも、ひとりでいるほうが気楽だから。

 水泳部にも『泳げない』から所属していた。

なのにイレイザーとして、全スペルアーツを使いこなす、などという規格外の力を発揮してしまっている。

 その原因に心当たりはあった。

「あなたのせいなんでしょ? ルイビス……」

おそらく幼少の頃に巻き込まれた誘拐事件も関係している。

 二週間ぶりに『彼女』の声が聞こえた。

(己が才能に溺れてもよいのだぞ? 緋姫。すべてはお前の力なのだからな)

「嘘ばっかり。スペルアーツのこと、前から知ってたみたいじゃないの」

 いつからか緋姫にはルイビスという女性の霊が憑依している。

 アーツの力に目覚めた時も、彼女の声がした。逆さまになった映画館で、輪が大型のレイに苦戦するのを眺めていた、あの瞬間。

 アーツの使い方を教えてやる、と。

 拳銃にアーロンダイトと名付けたのもルイビスだった。

(部隊名に『ネメシス』はどうだ? まだ決まってないんだろう、フフフ……)

「そんなの喜ぶのは哲平くんだけよ。第六部隊ってわかれば、何でもいいんだけどね」

 誘拐事件がきっかけで、緋姫は幼少期の記憶の大半を失っている。

 両親は行方不明らしく、しばらく伯母のもとで世話になったのち、現在は学校近くのマンションでひとり暮らしをしていた。親の残した財産が学費や生活費となっている。

 ルイビスがいなかったら、卑屈になっていたかもしれない。

 彼女の含み笑いが耳の中に触れた。

(名前といえば、お前の能力にちょうどいいものを思いついたぞ。あらゆるスペルアーツを極めた者……ウィザード、はどうだ?)

「マジシャンと同じでしょ」

(そいつは手品師のことではないか)

 小難しい単語を使いたがる彼女にしては、悪くない。現に『ウィザード』という名は、マジシャンよりは格式の高い叡智を感じさせてくれる。

「ウィザード……」

 呟くと、傍でルイビスとは別の声がした。

「魔法使い……いえ、魔導士ですか?」

「えっ?」

 緋姫は起きあがり、屋上に先客がいたことに、ようやく気付く。

 ルイビスとの会話を聞かれてしまった。とはいえ、そう焦ることでもない。

「あたし、変なこと言ってたかしら? たまに独り言、言っちゃうのよ」

「わかります、それ。わたしも声に出ちゃったりするんです」

 リボンの色からして、同じ一年生だった。おっとりとした印象で、深窓の令嬢のようなたおやかさをまとっている。

この子に比べたら、愛煌司令がお嬢様ってのも嘘くさく思えるわ。

 艶の綺麗なストレートヘアが微風を受け、さらさらと波打った。律儀に正座しており、同い年の相手にも礼節を欠かさない。

「もしかして……一組の御神楽さん、じゃないですか?」

「あたしのこと知ってるの?」

「有名ですよ? 授業を抜けたら帰ってこない、一匹狼だって。……あ、ごめんなさい。馬鹿にするつもりはなかったんです」

 正座の姿勢からでも頭をさげようとする彼女に、ふと親近感が芽生えた。

 午後の授業が始まっているにもかかわらず、緋姫たちはここで時間を潰している。今から教室に戻って悪目立ちする、などという選択肢もなかった。

「あなたは真面目そうなのにね。授業はいいの?」

「三組、五時限目は体育ですし……体操着、忘れちゃいまして」

 共犯であることを確認しあってから、改めて緋姫のほうから自己紹介を切り出す。

「あたしは御神楽緋姫。緋姫、でいいわよ」

「九条沙耶です。じゃあ、その……わたしのことも、沙耶、でお願いします」

 沙耶は照れくさそうに笑みを浮かべた。

「たまにここで寝てますよね、緋姫さん。そろそろ暑くなってきましたけど……」

「梅雨も終わったものね。もうじき期末試験で、夏休みか」

 試験前のせわしない時期に、自分も彼女も何をやっているのだか。

「今日は水泳部に顔出そうかしら」

「……水泳部って、春の間はどうしてたんですか?」

「さあ? あんまり行ってないから、あたし」

 沙耶ととりとめのない話をしているうち、風が止んだ。彼女の横顔が憂いを帯びているのを見つけ、緋姫は声のトーンを落とす。

「心配事でもあるの?」

 間を置いてから、沙耶は静かに『はい』と頷いた。

 ひょっとすると、さぼり仲間の緋姫に気付いて欲しかったのかもしれない。彼女の口が初対面の緋姫に胸中を打ち明ける。

「急に怖くなることがあるんです。わたしが、わたしじゃなくなるみたいで」

 むしろ初対面だからこそ、話してくれたのだろうか。

「何だか抽象的ね」

緋姫はあまり踏み込まず、さっきと同じ腕枕の体勢で寝転ぶ。

「あたしにもあるわよ、そういうの。ほんとは変な悪霊が、あたしの身体を乗っ取って、好き勝手してるんじゃないかって」

(変とは何だ、変とは)

 どうして彼女に共感できるのか、わからなかった。沙耶のほうは前々から緋姫を知っていた一方で、緋姫は今しがた、彼女の名前を聞いたばかり。

 おそらく性格もまるで違う。なのに『同じ空気を持っている』気がした。

「……あなた、前にどこかで、あたしと会ったことないかしら?」

「えぇと……ないと思います。すみません……」

「あ、いいの。気にしないで」

 また気持ちのいい風が吹いてくる。

「教室には戻らないんでしょ。ゲーセンでも行かない?」

「えっ? でも、制服ですし……」

「それもそうね。捕まっちゃうのがオチか」

 緋姫が青空を眺めていると、沙耶も思い切ったように仰向けになった。午後の太陽を直視しないように目を向け、セルリアンブルーの大空に五感を投げる。

「気持ちいい……」

「でしょ? 屋上ではこうするものよ」

 さぼりの先輩を気取りながら、緋姫は耳を澄ませた。

 ルイビスは何も語らない。風の音だけが聞こえる。

「……沙耶?」

いつの間にか沙耶は寝息を立てていた。おかげで緋姫の独り言になってしまう。

「こんなところで寝たら、日焼けしちゃうわよ?」

 もう少しだけ初夏の陽気を満喫してから、起こしてあげることにした。

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