こいつらアイドル幻想神話
第二話 大阪は燃えているか
RED・EYEのディレクターがついに心労で倒れた。社長に長期休暇を申請し、ストレスだらけの仕事を投げ出してしまったのである。
もうバイト上がりの仮免マネージャーくらいしか残っていない。
わたしがやらないと。何とかしなくちゃいけないんだわ!
月島聡子・十七歳の心が折れた時、RED・EYEの歴史は幕を閉じる。
春休みを利用して、聡子は朝早くからRED・EYEのアパートを訪れていた。一階の空き部屋を共同の食堂とし、朝食の支度を整える。
「やっぱ日本人の朝飯はご飯と味噌汁だよなあ! 聡子ちゃん様々!」
不在がちな透も、聡子の手料理目当てに必ず帰ってきた。
「今までで最高のマネージャさんだよね」
志岐も機嫌よくご飯を頬張る。
「マネージャーの仕事じゃないんですよ? まったく。弟の世話だってあるのに」
「もぐもぐ。さっちゃん、おかわりー」
聡子を交えて皆で朝食が恒例になりつつあった。
そのはずが、今朝もタクトだけ時間になっても来ない。
またタクト君は……。
どうせまたアニメ観賞に夢中で、寝食を忘れているのだろう。
「志岐君、おかわり入れておきますから、タクト君を呼んできてください」
「しょーがないなー、タクトは。お~い、朝ご飯なくなっちゃうぞ~」
このアパートはスターライト芸能プロダクションの所有物件らしく、丸ごとRED・EYEに与えられていた。一階の部屋も自由に使えるため、101号室は食堂にして、102号室はRED・EYEの仕事用の衣装や道具置き場に。
プラモデル用の塗料は可燃性かつ毒性もあるため、調理場の真上などもってのほか。志岐の作業部屋は食堂から離れた103号室を当てた。
ボロアパートでも水道やガスといった最低限のライフラインは確保できる。
「聡子ちゃん、俺もおかわり。やっぱコンビニ弁当なんかより断然美味いな! 女の子の手料理ってやつはさ」
「ありがとうございます。しっかり栄養取ってくださいね」
とりあえずこれで、目に付く問題点はあらかた解消できたはず。
これまで聡子は、彼らほどの知名度なら相当稼いで、都内某所の高級マンションにでも住んでいるものと思っていた。
しかし若いタレントに巨額の大金を持たせては、もれなくトラブルとゴシップがついてくるわけで。手元に渡るお金を、システム面で巧みに制御しているらしい。
事務所も色々考えてるのね……。
感心する一方で、もう少しまともな不動産物件はなかったものか、と疑問もある。
「真奈美の作画が……監督は何をしてるんだ」
「はいはい。さっちゃん、連れてきたよ」
呪詛をボヤきながら、ようやくタクトも食堂にやってきた。上座にどかっと座り、上品ではあるが素早い箸の動きで、ご飯粒を平らげていく。
「……さて。三人集まったところで、私からみんなにお話があります」
改まって切り出すと、向かい側のタクトがくいっと眉をあげた。
「辞めるのか? マネージャー」
「違います! はあ……何人もこうやって辞めてったんですね。RED・EYEの、今後の戦略についてです」
出鼻を挫かれつつ、マネージャーはパンフレットをお膳の真中に置いた。
四月最初の日曜日に催されるマラソン大会について。募集期間は過ぎていたが、先方の厚意に甘える形で、すでにRED・EYEの参加を取りつけている。
「これってマネージャーの仕事なの?」
「私しかいないんですよ」
聡子とて越権行為の自覚はあった。だがRED・EYEのディレクターは心労でリタイアし、プロデューサーも入退院を繰り返しているのだ。
歴代のマネージャーもとうに全滅した。
何だってやってやるわよ、こうなったら!
RED・EYEを指導できる立場にある者が、聡子のほかにいない。
わかっていないメンバーのため、マネージャーはファンレターを読み聞かせた。
『本当に大丈夫なんですか? もう心配でたまりません!』
『ニュース見てビックリしました! 早く元気な姿を見せてください』
『次のライブは大丈夫なんですか?』
毎日のようにお見舞いの手紙が寄せられている。ライブステージで派手に倒れたのだから、ファンにとっては不安でならないだろう。
騒動を一段落させるため、にもRED・EYEの完全復活は急務である。
そこでマラソン大会に出場し、心身の健康をアピールしよう、というのが作戦の趣旨だった。心配性の叔父からも『聡子に任せる』とお墨付きを貰っている。
「マラソンで元気アピールって、いかにもパフォーマンスってカンジしない?」
「文句言わないでください。大体、原因はあなたたちのズボラな体調管理なんです。絶対に完走してもらいますから」
志岐と透は顔を見合わせ、観念したように溜息をついた。
「今回ばかりは反論できねえか。俺はいいぜ、身体動かすの得意だし。やるからには、当日に向けて走り込みしとかねえとな」
「10キロかあ……まっ、僕もサッカーやってたから、足には自信あるよ」
ライブで倒れたふたりは、渋々というほど後ろ向きでもなく、マラソンに乗り気だ。
透が肩をごきっと鳴らす。
「けどあんまり日がねえな。それまでにコンディション整えて……」
「マラソンで倒れたら本末転倒ですから。お願いします」
ふたりに関して、ひとまず問題はなさそうである。
しかしタクトはマラソン大会に興味を示さず、黙々と味噌汁をすすっていた。その態度だけで『オレには関係ない』という意思表示ができてしまっている。
「……タクト君、あなたも走るんですよ」
「は? オレは倒れていないぞ」
リーダーは聡子の言葉に耳を貸さず、仲間にも無関心だった。
「ライブはオレが繋いでやったんだ。感謝こそあれ、マラソンなんぞを強要される筋合いはない。まったく、大勢で走って何が楽しいんだか」
マラソンの存在意義を一言で片付け、箸を置く。
「飯はそこそこ美味かった。が、この程度でオレは釣れんな。ツンデレを気取るなら『実は料理が苦手』くらいのテンプレは守れ」
今朝も残さず平らげておきながら、文句はやたら多かった。
「待ってください、タクト君」
「話は終わりだ。昨晩の録画が俺を待っている」
タクトは早々に自室に戻ってしまう。
ほかのふたりは暢気にご飯をかき込んでいた。
「志岐君、透君! どうしてタクト君を説得してくれないんですか」
「ムリムリ。それにタクトが倒れなかったのは本当だもん」
「俺たちはライブの尻拭いをしてもらった立場だからな。何も言えねえよ」
できることならメンバー全員を走らせたいが、ハードルは高そうだ。
なんとかタクト君も参加させる方法ってないかしら……。
「練習着どこ置いたっけなあ。確か寝間着にして、クリーニングに……まあ俺はタクトの借りるって手もあるか」
「僕のは塗料だらけだよ。当日までに新しいの、事務所で買ってもらえるかなー」
透と志岐はマラソンに向けて、それなりに盛りあがっている。
志岐たちはジャージに着替え、アパートの前で合流した。帽子とサングラスで顔を誤魔化しているため、ぱっと見で芸能人とはばれないだろう。
この季節は花粉が飛びまくっているため、変装も悪目立ちしない。
「あれ? さっちゃんも走るの?」
サイクルジャージの恰好で聡子も足首をほぐした。
「あなたたちだけ走らせませんよ。言いだしっぺは私ですから」
彼らにマラソンを強要しておきながら、自分は悠々と観戦、ではマネージャーの信用に関わる。それに女子にとって、マラソンは決して苦しいだけのことではない。
「あ、わかった! さっちゃん、ダイエッ……あいた!」
「そーいうコトは思ってても言うんじゃねえよ」
口を滑らせそうになった志岐を、透の拳骨が諌めた。
「僕がチビだからって、みんなしてアタマ殴りやがって~。いいよなあ、さっちゃんは百六十あるんでしょ? 身長」
「百六十五ですね。でも、志岐君もそんなに低いってことは……」
「オトコで百六十ないってのはコンプレックスだよ。はあ、もう伸びないのかなあ」
志岐の背丈は百五十四センチで、ちょうど聡子の目線につむじがある。身のこなしが軽く、ストレッチ体操であっても跳ねるような躍動感があった。
「透もタクトもデカいから、僕だけチビに見えるんだよ」
「気にすんなって。お前、センターじゃないんだしさ」
百七十七センチの城ノ内透は、見るからに体格がよい。水泳で記録を持っているだけのことはあり、袖を捲ると、引き締まった腕の筋肉が照り返る。
どちらもスポーツ経験者で、アドバイスも適切。
「聡子ちゃんは毎日走ったりしてないよな。今日は軽く流すくらいにするか」
「足首はね、座ってやったほうがいいよ。間接に力を入れずに、こうやってほぐして」
「ええと、はい。こうやってまわすんですね。あ、気持ちいいかも」
聡子の身体も温まってきたところへ、配送業者のトラックがやってきた。
「おはようございま~す! 時間指定でこちらの……そうそう、タナカタクトさんに、お荷物のお届けにあがりました」
「あ、ちょっと待ってください。今呼んできま」
「待っていたぞ、真奈美ぃいいいッ!」
荷物の受取人が全速力で階段を駆けおり、ハンコを突き出す。
タナカって本名なのかしら……どうでもいいけど。
変装していなくとも行動が奇天烈すぎて、業者に気付かれることはなかった。
タクトがその荷物を抱え、開封以前から頬擦りするほど可愛がる。
「よしよし、コイツめ~。よく持ってきてくれた! 褒めてつかわす」
「あ、ありがとうございます。では……ぼくはこれで」
配達屋のお兄さんはトラックで逃げていった。
タクト君って一日中ステージのテンションなんだもの。普通の人がいきなり出くわしたら、ビックリするわよね。
このエネルギーが人気の秘訣かもしれない。
百七十五センチのタクトは、二十センチ近い身長差で志岐に詰め寄った。
「というわけだ。志岐、真奈美のガレージキットを作ってくれ」
志岐が露骨に嫌悪感を露にし、舌を吐く。
「えええ~? イヤだよ! パンツとか塗りたくないもん。大体、自分で組めないのに、なんでガレキ買っちゃうのさ」
「カラーレジンだから簡単と聞いた。だが、やはりグラデ塗装して欲しい。頼れるのはお前しかいないんだ、志岐! 礼ならする!」
タクトの執拗かつ一方的な頼みごとを、志岐は駆け足で振りきった。
「僕はロボットとスケールプラモしか組まないんだよ!」
「おい待て! 透の鉄道模型なら引き受けるくせに! 不公平じゃないか!」
「鉄道はスケールプラモでしょ! イ~ッだ!」
荒ぶるタクトの肩を叩くついでに、透も駆け出していく。
「諦めろ、タクト。お前は無茶を言いすぎなんだよ。美少女フィギュアがだめなヤツは身体が受けつけないようになってんだからさ」
状況を理解できず、マネージャーだけ置いてきぼり。
「ええっと……何のことかわからないけど、タクト君も走らない?」
「走ってる場合か! なんとか志岐を懐柔せんことには、真奈美との新生活が……謝礼で折れないならどうすれば……ブツブツ」
あまり深入りしたくないので、放っておくことに。
志岐たちを追って聡子もスタートした。今朝のところはジョギング程度に、軽く汗を流すだけ。会話の余裕も充分にあるスローペースで、志岐と透が前で並ぶ。
「まったくタクトのヤツは。作る楽しみを犠牲にしてまで、完成品を手に入れてどうするのさ。そう思わない? 透」
「俺も基本完成品だから、タクトの気持ちもわからなくはないけどな。メカ専門の志岐に美少女ガレキを作ってくれ、ってのは……」
ふたりの後を追いかけながら、聡子は首を傾げた。
「ガレキって何ですか?」
「え~~~っと」
透が思案げに唇を曲げ、お茶を濁す。
「ガレージキットの略称で……いや、説明しだすと長くなるし、聡子ちゃんには百パーセント必要のねえ知識だと思う」
「難しいプラモ、くらいでいいんじゃない?」
芸能界の用語ならまだしも、サブカルチャーに関しては何が何やら。
だめだわ。プラモデルの話なんてサッパリ!
これでは会話が続かないため、聡子から無難な話題を提供する。
「三人は付き合い、長いんですか?」
「タクトだけ別。僕と透は家が近所でさ。歳は離れてたけど中学も同じだし」
「こいつ、わざわざ私立の中学に着いてきたんだぜ」
志岐に続いて透、それから聡子も自転車に注意しつつ、歩道を曲がった。
「俺が中3で志岐は中1の時だったかな。ホビーショーで声掛けられてさ。試しに応募してみたら、なんかトントン拍子に進んじまって」
「そうそう! 受かってから、芸能界だって気付いたんだよね」
RED・EYEの面々はインタビューなどで出自を明かすことがない。重度のオタク趣味によるイメージダウンを避けるべく、事務所が制限を掛けているのだろう。
「まあほとんど井上さんの力だよ。あ、僕たちの最初のディレクターね」
「あの人は確かに凄ぇよな。タクトの素質を見抜いたりさ」
公園沿いを走りながら、聡子はほうと感心する。
なるほど……世間に評価されるかどうかは、ディレクターにも掛かってるんだわ。
聡子にとって、タレントとは自身の力ひとつでのしあがっていくものだった。しかし彼らを売り出す立場の人間もまた、タレントの才能を最大限に引き出せなければならない。いかなる原石も、磨いてやらないことには誰の目も惹かないのである。
「その井上さんって、今は? お仕事してらっしゃるんですよね」
スターライト芸能プロダクションで、井上という人物に心当たりはなかった。
「何年か前にスターライトプロから独立して、事務所作ったとか……バーチャル、っと、なんだったかな? そう、バーチャルコンテンツプロだ」
「女社長ってカッコイイよね!」
公園に入ってから、透たちが少しペースをあげる。
同じ女の人かあ……。
マネージャー業を始めたばかりの聡子にとって、敏腕な女性ディレクターの存在は、噂程度であっても尊敬の対象となった。
RED・EYEという素材を発掘し、大成功へと導いた、真の主役に思えるほどに。
アイドルユニットの育成……奥が深そうね。
そして真似事とはいえ、聡子は今RED・EYEの面倒を見ている。
仕事に興味が湧いてくると、自然と気持ちも前向きになった。
「ガンバリましょう! マラソン大会」
「いいね、その意気! そういや開催地はどこだっけ?」
「大阪ですよ。大阪城公園もコースに入ってます」
志岐と透も小旅行に乗り気だ。
「城のプラモを作ってみるのもいいなあ。ロボットアニメでよく出てくるし。ジオラマにしてさあ、ライトなんか仕込んで」
「もちろん東海道新幹線だろ? カメラの準備しとかねえとな」
ダンス慣れしているふたりは、ジョギングも軽い。
「また行方不明にならないでくださいね。ふうっ、この調子ならもう一周くらい」
聡子だけペースが落ち気味だったが、負けてなどいられなかった。
☆
結局タクトはガレージキットの件で拗ねてしまい、留守番に。聡子からも志岐にガレキとやらの製作を頼んでみたのだが、モデラーにも矜持があるらしい。
旅のスケジュールは、金曜の夜に新幹線で現地入り。土曜はリハーサルついでに実際に10キロ走り、本番に備える。
あとは日曜日の朝から走り、夕方には新幹線で帰る予定だ。
『大阪のお土産よろしくな、姉ちゃん』
「遊びに行くんじゃないのよ。火元には気をつけてね。それじゃ」
三日も家を空けるため、弟のことが心配ではある。しかしこの春から中学三年生になるのだから、姉が世話を焼きっ放しでいるのもまずい。
新幹線の中で、RED・EYEとそのマネージャーは椅子を向かい合わせ、三時間の快適な長旅に揺られていた。
ちょうど陽が暮れ始め、車窓が鮮やかな橙色に染まっている。
「こーいう仕事なら毎日でもしたいぜ。おっ、いただき!」
透は上機嫌にカメラを構え、すれ違う景色をフィルムに納めていた。
「ちぇー、透はいいよな。新幹線なんて退屈だよ。さっちゃん、なんかして遊ぼ~。しりとりとか山の手線ゲーム以外で」
「そうですね。まだ二時間以上もありますし」
鉄道マニアの透はともかく、聡子と志岐は暇でしょうがない。スタッフも同じ車両に乗っているが、ジェネレーションギャップが壁となる。
「月島さん、ほかのお客さんも乗ってるから、あまり騒がせないで」
「はい。すみません」
そもそも今回の仕事は、スタッフからすればRED・EYEの失敗の尻拭いだ。それにマラソン大会への企画を押し切ったのは、臨時マネージャーの聡子である。
叔父である副社長が無理を通す形になったため、聡子はスタッフに毛嫌いされるほどではないにしろ、歓迎はされていない。
はあ……足並みを揃えてもらえるはずもないか。
そんな聡子の気苦労など知らず、透たちは気ままに旅を満喫している。
志岐は携帯ゲーム機をふたつ取り出し、片方を聡子に持たせた。
「透のやつ借りるよー。さっちゃん、対戦しようよ」
「ゲームですか? 弟とたまにプレイするくらいで、あんまり上手じゃ……」
「チェスみたいなゲームだから、さっちゃんでも大丈夫だよ」
ゲーム機の液晶を見下ろした拍子に、聡子は眼鏡のホコリを見つける。
メガネケースを開くとメキッと音が鳴った。
「聡子ちゃん、それ壊れてんの?」
撮影が一段落したらしい透が、カメラの電池を入れ替える。
「こないだ落として、どっか割っちゃったみたいで……まあメガネケースくらい、いつでも交換できますし」
眼鏡を外すと、ふたりがアッと声をあげた。
「そういや僕、さっちゃんが眼鏡掛けてないとこって初めて見るよ」
「雰囲気変わるんだなあ。コンタクトはしないの?」
珍しそうに、聡子の素顔をまじまじと眺める。
普段から『真面目そう』『キツそう』と言われるのは、機能性を重視したスタイルや髪型のせいだろう。ヒラヒラしたものは苦手で、どうにも慣れない。
「コンタクトは怖くて。やっぱり眼鏡が一番ですよ、メンテナンスも簡単ですし」
ふと透が険しい表情になり、腕組みした。
「聡子ちゃんは眼鏡掛けてっから、タクトの大天使フェロモンに抵抗あるのか」
聡子はきょとんとして首を傾げる。
「大天使フェロモン?」
「タクトのファンってさ、眼鏡の子が少ないって気付いた? タクトは眼鏡っ子をいまいち愛せないから、大天使フェロモンが眼鏡っ子には直撃しないんだ」
志岐までおかしなことを言い始めた。かろうじて論理的ではあっても現実味がない。
「……意味がわからないんですけど」
「眼鏡なしでタクトは見ないほうがいいってこと、かな」
透はお茶を濁し、車窓へとカメラを向けなおした。
聡子と志岐の手元でもゲームが始まる。
「さ~て弱者をいたぶ……いやいや、ちゃんと手加減するからねっ」
「これ、弟とやったことあります。私、結構強いですよ」
「えっ、まじ?」
ゲームで志岐を連敗させながら、夜には大阪へ。
今夜のところはホテルにチェックインして、打ち合わせをするだけである。
☆
TRRRR!
寝室で寝ていると、内線がけたたましく鳴った。
「ん、う~ん……なあに?」
備え付けの目覚まし時計を近眼で確認したところ、時刻はまだ朝の五時前。
TRRRR! TRRRR!
モーニングコールを頼んだ憶えはないし、そうだとしても早すぎる。
「ふぁい……もしもし? はい、マネージャーの月島です……」
返事をしながら、聡子はウトウトと首で舵を漕いだ。
「っはい? はい、すぐ行きます!」
ところが緊急性を認識するとともに覚醒し、大慌てで髪を結ぶ。
何でも朝一番から、ホテルのフロントロビーに二十歳くらいの男性が転がり込んで、気ままに熟睡しているらしい。その顔立ちが霧崎タクトに似ているため、ここで宿泊中のマネージャー、月島聡子に連絡が入ったのである。
んもうっ、どうしてこう次から次へと!
おかげで眠気など一瞬で吹き飛んだ。寝巻に浴衣だけ巻いて、ロビーに直行する。
問題の人物はフロントロビーのソファを独占し、ボストンバッグを枕にして、悩ましい寝息を立てていた。
……セーフ! アニメのシャツじゃなかったわ。
聡子はほっと胸を撫で下ろし、ホテルの従業員らに頭をさげる。
「本当に申し訳ありません。ご迷惑をお掛けしました」
「いえいえ、とんでもないです! まさかタクト様の寝顔を拝見できるなんて……」
女性従業員は浮かれ、舞い上がっていた。
それほどに霧崎タクトのうたた寝には色気がある。まさしく神に起こされるのを待つ、艶かしいアークエンジェル。
「ン……あぁ、そこはっ」
寝返りの仕草ひとつで、女性従業員をくらくらさせて。
「敏感なんだ……ウッ、もっと優しく」
「あ~~~~~んっ! 私も夢で会いた~い!」
バラの香りでも含んでいそうな寝息が、旅先で早速ファンを増やしてしまった。
なんて夢を見てるのよ!
ファンの視線を警戒しつつ、聡子はこそこそとタクトの耳元で声を掛ける。
「起きてください! どうしてここにいるんですかっ!」
「誰だ? もう少し寝かせてくれないか、オレのエンジェルちゃん」
もう一度聡子は胸を撫で下ろし、安堵の息を吐いた。
エンジェルちゃんでほんとよかった……真奈美じゃなくって。
ここで彼が『真奈美』などと口走ろうものなら、一大事。
「月島さん! 何があったって?」
「ほんとーにすみません、部屋までお願いします!」
大事にならないうちにスタッフの男手を借り、志岐たちの部屋へと運び込む。
その部屋ではちょうど、早起きが日課の透がシャワーを浴びようとしていた。あわや最後の一枚を降ろす寸前で、躍り込んできた聡子と目がバッタリ。
「聡子ちゃ……おわあっ、ち、ちょっと待ってくれよ!」
「ごめんなさいっ! 緊急事態なんです!」
お互い赤面しながら、トラブルメーカーにも程があるリーダーを放り込む。
聡子は一旦寝室に戻り、せめて顔を洗ってから出なおした。
まったくもう、タクト君は!
RED・EYEのメンバーはどれも問題児だが、タクトのそれは常軌を逸している。ほかのふたりが可愛く思えてならない。
改めて、RED・EYEの寝室にて緊急会議である。
「お邪魔しますね、志岐君、それから透君も。おはようございます」
「おはよー、さっちゃん。むにゃむにゃ……タクトがいるんだけど、なんで?」
志岐の疑問は、聡子や透の疑問でもあった。
透はポロシャツのボタンを一番上まで無理に閉めている。
「……大丈夫ですよ。弟で見慣れてますから」
「そ、そう? ならいいけどさ」
透のベッドを占領していたタクトが、のっそりと起きあがってきた。寝癖さえ麗しい寝起きの顔で、シャツの隙間から妖艶に肌を覗かせる。
「天界の夜明けか……」
アパートに宿泊先などの書き置きを残してきたため、それを頼りに、夜通しで追いかけてきたのだろう。相変わらず行動力が凄まじい。
ただ、来るなら昨日のうちに、一緒に新幹線に乗ればよかったのに。
「タクト、どうやって大阪まで来たんだ?」
「オレは二十歳だからな。ひとりでも堂々と夜行バスに乗ってフィニッシュだ。ふっ、お前たちには刺激が強すぎる夜だった」
「一応言っとくけど、夜行バスは二十歳じゃなくても乗れっからな」
透のツッコミをものとせず、タクトが前髪をかきあげ、色っぽい吐息を吐く。
「ふう。まさか大阪とは思わなかったぞ。オレを出し抜いて、貴様らだけで夢の国に行くつもりだったんだろうが、そうはさせん」
「……夢の国?」
その右手が窓の向こうを思いきり指差した。
「オタクにとって第二の故郷! 大阪といえば日本橋だ!」
聡子の記憶にある地図が正しければ、人差し指は明後日の方向を向いているのだが。
仕事のために来てくれたんじゃないのね……はあ。
タクトが瞳を輝かせ、わなわなと震える。
「近年の秋葉原といったら、目も当てられん! オタクでもない連中がうろうろしてメイドを探す! 畑違いの業者がニーズの読めていない店を開く! 嘆かわしいっ!」
志岐はぽりぽりと頬を掻き、珍しくタクトと意見を一にした。
「まあ僕たちには歩きにくくなったよね。マスコミなんかもしょっちゅう出入りするようになってさ。欲しい色に限って、通販だと売り切ればっかなのにさあ」
「うむ、それもある。オレがちょっと霧崎タクトに似ているからといって、後ろからコソコソと! ストーカー規制法を知らんのか、あの連中は!」
オタク界の代表が真摯な表情で拳を握り締める。
「オレたちの秋葉原は、もうカテドラルTOKYOではなくなったんだ……」
RED・EYEらしく小難しい神話の用語も混ざって、聡子の平凡なボキャブラリでは理解が追いつかなくなってきた。
「えっと……つまり?」
タクトが大袈裟に両手を広げ、熱弁を振るう。
「つまりだ! そういったしがらみのない、こっちの日本橋で羽根を伸ばそう……というわけだ。これこそ天才の発想!」
声は態度とともにどんどん大きくなった。
「さあ! 震えるがいい!」
得体の知れない寒気が聡子を震わせる。
首元のボタンを外しつつ、透も納得気味に頷いた。
「……確かになあ。中学ん時みたいには出歩けねえし」
「そうだよ! いつも窮屈してんだもん」
兄貴分に釣られて、志岐も乗り気に。
長身の透が姿勢を正し、聡子を見詰める。
「マネージャー、リハは一発で決めるから、あとで自由時間くれねえかな?」
「え? 私が?」
まさか許可を求められるとは思わなかった。目を白黒させていると、タクトが不服そうに口を挟む。
「聡子の意見は却下だ。三次元のツンデレ、とかいう珍妙な女の言うことが聞けるか」
「あなたはまた……そうですね、ほかのスタッフにも話してみないとですけど」
マネージャーの頭の中で、本日のスケジュールが修正された。
モチベーションに繋がりそうね。透くんは新幹線を堪能できるし、帰りもあるからいいけど、志岐君は何も……うん、息抜きくらい。
これはタクトもマラソン大会に参加させる、またとないチャンスでもある。それに日頃は隠れて趣味に興じるしかない三人に、たまには開放感を味わわせてやりたい。
「志岐君たちなら、ぶっつけ本番でも走れそうですから……わかりました。リハーサルの後はオフにしましょう。ただし変装だけは入念にお願いします」
志岐と透が腕をクロスさせ、カッツポーズを組んだ。
「やりぃ! 第二のアキバなんだよね。確かブキヤもあるんだっけ」
「ヴォークス行くぞ! 鉄道専門のフロアがあるんだぜ!」
このふたりも下調べのほうはバッチリみたいで。
武器屋? 箱?
その方面はずぶの素人である聡子は、首を傾げるしかなかった。
☆
リハーサルが終わるや、RED・EYEの面々は日本橋へ。
見張り役として聡子も同行することになったが、今にもタクトが離れそうだ。
「四時になったら、この喫茶店で合流しましょう。忘れないでくださいね、タクト君」
「貴様はオレの保護者か?」
「……朝、昼、晩。誰がご飯を作ってるんです?」
さしものタクトも胃袋を支配されていては、無理に反抗してこなかった。
「くっ、紛い物のツンデレの分際で……オレに指図したくば、ロングの幼馴染みになって出なおしてこい」
「今から幼馴染みにはなれませんっ」
こんな会話をしていても悪目立ちしないあたり、ここは本物のオタク街らしい。道の角ではメイドがビラを配り、喫茶店の呼び込みに精を出している。
「では、五時にな」
「四時です!」
タクトは意気揚々と行ってしまった。
「しょーじき『萌え』って僕にはわからないんだよね。ほんとに恋愛感情なのかな? さてと……僕らはどうしよっか?」
「そうだなあ。俺と志岐でも行き先が大分違うから、別行動でもいいが……」
聡子には透や志岐が羽目を外さないよう、監視する役目がある。とはいえ、そこまで彼らのことを信用していないわけではなかった。
「私のことはいいですよ。今日は楽しんできてください」
「でも知らない街に女の子ひとり置いてくのはなあ。……よーし!」
閃いたように透が指を鳴らす。
「俺と志岐で、ひとり一時間ずつ聡子ちゃんと一緒、ってのはどうかな」
透の頭より高い位置まで、志岐がまっすぐ手を挙げた。
「賛成! ひとりでまわるのもなんか寂しいし。先に僕と行こうよ、さっちゃん」
その手で聡子の鞄を引っ張り、急かす。
「え? ええ、まあ……そうしましょうか」
「おい、志岐? 自分ばっか楽しんでないで、聡子ちゃんを退屈させんなよ。じゃあ一時間後に電話すっから」
「退屈なんてさせないよーだっ」
透は帽子を目深に被り、すたすたと歩いていった。ひとりで行きたい店があっての別行動かもしれない。
しばらく聡子は志岐とふたりで散策することに。
こんなとこ誰かに見つかったら、志岐君のイメージが……。
不安は尽きないが、志岐のテンションに水を差すのも気が引けた。
「どっから見てまわろーかなー。あっ、さっちゃんは?」
「わたしは特にないですよ。知らないお店ばかりで、というより……どれも同じに見えると言いますか」
「そっかあ。とりあえずブキヤに寄らせてよ」
土曜日の電気街は混雑しており、ほんの数メートルでもはぐれかねない。
しかも浮かれているせいか、志岐の歩くペースが早い。
「場所はわかるんですか?」
「へ? それは……」
聡子から手を繋ぐと、志岐がきょとんとした。俄かに顔を赤らめ、言葉を噛む。
「いやさっちゃん、それよりてっ、手を!」
「あ、ごめんなさい。離されそうでしたから、つい」
しかし離すと、志岐の表情があからさまにしょぼくれた。同い年にしては内面が幼く、すぐ顔に出るのが可愛らしい。中学二年生の弟とイメージが重なる。
「や、やっぱり繋ごうよ。マスコミもいないっぽいし、その、ちゃんと変装だってしてるんだからさ。いいでしょ、さっちゃん」
「わかりました。じゃあ、もう少しゆっくり歩いてください」
笑いを堪えつつ、聡子は少年みたいな彼と手を繋ぎなおした。年下の彼氏ができたら、こんな気分になるのかも。
私はマネージャーよ。マネージャーとして……。
自分まで浮つきそうになり、手足がギクシャクしてしまう。さっきよりペースを落としてくれているはずなのに、志岐にぐいぐい引っ張られるように感じた。
これを周防志岐のファンに目撃されようものなら、百万回は呪われるに違いない。
しかし国民的アイドルとのデートはお洒落なカフェでもなく、テーマパークでもなく、倉庫みたいに窮屈な模型店だった。
そこまで来たら、志岐のほうから手を離す。繋いでいられるスペースなどない。
「そうそう、こーいう店が好きなんだよ、僕。やっぱ実物見て選べるっていいなあ……品揃えも豊富だし。しまったなあ、ここで買ったら荷物になっちゃうかも」
レジの手前にも所狭しと商品が積まれていた。その向こうから店員が声を掛けてくる。
「ご自宅への郵送もできますよ。今日はどちらから?」
「えーと、東京から──」
「か、関東です! 入学式の前に、祖父に挨拶に」
危うく志岐が所在地を明かすところだったのを、聡子が割り込んで誤魔化す。
「そんな季節ですねえ。ご姉弟ですか?」
「ええ、まあ……」
嘘のせいで弟がひとり増えてしまった。
志岐がむすっと胸を張り、変装用のサングラス越しに姉を睨む。
「違うよ、僕の彼女。さっちゃんってば酷いなあ」
「ち、ちょっと、いきなり何を?」
慌てふためく聡子をよそに、志岐と店員が談笑を弾ませた。
「モケジョが彼女なんて羨ましいですねー。どういったのを作るんですか?」
「僕はやっぱロボットかな。スケールモデルもたまに作るんだけど、そっちでスキル磨いて、本命でメカ作るカンジ」
あれよあれよと話を進められ、モデラーたちのペースに乗せられてしまう。
「初心者で女性向けでしたら、ニッパーはこれとか。小型で軽く、手が小さいお子さんにもオススメなんですよ」
「そうそう、明日大阪城でマラソンするんだー。大阪城のキットある?」
「地元ですからもちろんですよ。上の階にございます」
聡子は会話の切れ目に『はあ』とか『ですね』と相槌を打つだけ。
ようやく志岐が買い物を済ませ、狭い店を出ることができた。外の混雑のほうがまだ解放感があって、背伸びもできる。
「……ふう。プラモデルが難しそうってことは、わかりました」
「そんなことないよ。さっちゃんも作ってくれたら、模型友達になれるのになあ」
志岐のほうはテンションを上げ、ご満悦。
しかし聡子は早くも疲れ始めていた。志岐が有名人であることを隠し通さなければならない、という義務も大きい。
透君のほうは大丈夫だと思うけど……。
マネージャーは声のトーンを落とし、人気アイドルの無頓着さを嗜めた。
「目立つのは控えてください。わたしが彼女って……誤解されたら大変なんですよ?」
「せっかく女の子と一緒なんだからさ、見栄張りたいじゃん」
志岐は悪びれた様子もなく、小粋にはにかむ。
見栄を張る? モテモテのアイドルが?
周防志岐レベルの美少年ともなれば、相手の女の子などよりどりみどりのはずだった。ところが当の本人はデートの真似事にすっかり舞いあがり、スキップまでする。
「次はどこに行こっかな~。あ、さっちゃん! こっちこっち!」
そんな彼に連れまわされて。
「ブラックホールって、自作のヤツよりやっぱ、こーいうの欲しいなあ」
二軒、三軒と。
「うわ~、実物はやっぱ参考になるなあ。塗装レシピもあるじゃん、どれどれ……」
だんだんと志岐は聡子を放ったらかしにして、ショッピングに熱中した。
ショーケースの展示に彼がべったり張りついているうちに、聡子は比較的常識が通じるお兄さんのほうにコールを掛ける。
「もしもし、透君? 合流の時間、少し早めてもらえますか?」
『オーケー。俺から志岐のヤツに電話入れるよ』
疲れただけでなく、人目も気になってきた。今の志岐は警戒心がゼロで、周囲の視線をまったく意に介さない。
アイドルが一般の女の子とお忍びデートなど、週刊誌にとって格好のネタだろう。
ほんと、あれくらいの情熱を仕事にも向けてくれたら……はあ。
自覚の足りない志岐は、店内が撮影禁止のため、塗装レシピをケータイに一字ずつメモ書きしている。クリアブルーが30パーセントやら、コート剤がどうやら。
それを透からの着信が妨げた。
「なんだよ、透? 今忙しい……えっ?」
デートの相手を忘れていたらしい志岐が、慌てて振り向く。
「ご、ごめん! さっちゃん!」
聡子は眼鏡の端をくいっと上げ、甲斐性のない少年を見据えた。
「志岐君、少し落ち着いて」
「ほんとごめんよぅ。こういうの久しぶりで、つい夢中になっちゃって」
志岐が素直に反省の色を浮かべ、聡子を見上げる。
「き、気にしてませんから。……透君と合流しましょうか」
上目遣いで謝られては、怒るに怒れなくなってしまった。マネージャーはやれやれと肩を竦め、志岐とともに路上に出る。
駆けつけてきた透は、真っ先に志岐の帽子を深くした。
「グラサン掛けてるからって、油断するなよ。秋葉原で撮られたことあっただろ」
「ちぇ。あ~あ、せっかく、さっちゃんとふたりだったのになー」
ふたりであることに意味のないデートはおしまい。
聡子は透にこそっと耳打ちした。
「すみません、志岐君も一緒でいいですか?」
「あ、やっぱり心配? 俺はいいぜ。まあ志岐のやつも、プロだからさ」
やはり透には常識がある。自由気ままな志岐を制御する術にも長けており、マネージャーの懸念はいくらか解消された。
「なんの話してんのさ、ふたりとも~」
「なんでもねえって。そうだ、聡子ちゃん。ちょっと買ってみただけなんだけど……」
志岐を窘めつつ、透が小さな包みを取り出す。
聡子に手渡されたのは、迷彩柄のメガネケースだった。
「……これは?」
「いや、その……こういう街だから、そんなのしかなくて。センスなくて悪い」
驚きのあまり、遠慮することを忘れてしまう。
「え、あっ、ありがとうございます」
メガネケースが壊れていたのを憶えていて、わざわざ買ってきてくれたらしい。鼻の下を人差し指で擦るのは、彼なりの照れ隠しなのだろう。
「ほんと使い捨てくらいでいいからさ」
「助かります。なんていうか、びっくりしましたよ」
まさかRED・EYEのメンバーから贈り物されるとは思わず、これが自分のメガネケースであることが未だに信じられない。
男の子にこういうの貰ったの、初めてだわ。
感心しつつ、聡子は新しいメガネケースを鞄に仕舞った。
透に見せつけられた志岐が悔しがり、頬をぷくっと膨らませる。
「ぼ、僕もなんか買ってくる! 今日の記念に!」
「押しつけがましいことするなよ。これだからお子様は」
「そんなんじゃないよ! 見てろよ、透よりすごいのプレゼントしてやっからな!」
そして透と火花を散らすだけ散らし、回れ右して駆け出してしまった。兄貴分に負けていられない、という弟根性が微笑ましい。
「俺たちも追いかけるとすっか」
「そうですね。見失ったりしたら大変です」
聡子は透と並んで歩き、さながら一組のカップルのように人ごみに溶け込んだ。
「私の弟もあんな感じなんですよ。すぐムキになったりして」
「わかるよ。志岐のヤツ、昔からすぐ俺と勝負したがってさ。まあ俺も姉貴がいる立場だから、あんま偉そうなことは言えねえけど。志岐にも妹がいるんだぜ」
信号を見ながら歩きつつ、帽子を被った少年を探す。
「志岐の妹はすげえマセてて……っと、そうじゃない。このネタはマズイような……」
落ち着き払っているようで、透は不自然にもぞもぞとしていた。頻繁にハンドブックを確認し、わざとらしく話題を変える。
「お、大阪もいいけど、京都なんかも面白そうだよな。はははっ」
「地図なんですか? それ」
聡子が何気なく指摘するだけで、透は狼狽した。
「えっ? いいいっいや、これは!」
ビクッと跳びあがった拍子に『それ』を落とし、青ざめる。
通行人に踏まれないうちに、聡子はその本を拾いあげた。
「初めてのデートで失敗しない五十の方法……?」
折り癖がついているページには、プレゼントについて詳細な指南がある。
いわく、実用的なプレゼントは無難ではあるが、相手に『使って』という強要にも思われかねないので、注意すること。
特別な関係でない限り、アクセサリーを贈るのは絶対に避けるべき。
別のページでは、重要度の高い箇所に赤線が引いてある。
「下の立場の、例えば弟や後輩なんかをネタにして、自分のイメージを上げようとするのはダメ。平気で他人を貶す人みたいに思われ……へえ、なるほど」
聡子も思わず納得してしまった。
「あ、あのさ? それはちょおっと参考にしたくらいで……」
彼氏を気取っていたつもりらしいイケメンが顔面蒼白になり、あとずさる。つまりプレゼントもトークも、この本を肌身離さないレベルで参考にしていたわけで。
「えぇと、結構いいこと書いてあるんですね」
フォローの言葉が思いつかない聡子は、とりあえず本を返した。
透の顔色が青から赤に変わっていく。
「しっ、しょうがねえだろ? 慣れてないんだよ! 彼女イナイ歴十九年だぜ? 退屈なヤツって思われたらどうしようとか、色々考えてんだ、これでも!」
城ノ内透の評価は、聡子の中ではそれなりに高かったのだが、この瞬間で地に落ちた。
「だって俺、オタクだし、モテたことなんてねえから」
「……は? あの、透君ってファンの子からモテモテですし、モテないこととオタクっていうのは、全然関係ないと思いますけど……」
聡子たちの傍を、一組のカップルが通り過ぎる。
「しょーろん拳のコマンドって難しくない? ラゴウ様使いたいのに~」
「部屋にアーケードスティックあるから、練習しようよ。教えてあげるからさ」
「ええ~? そーやってまた、連れ込もうとする~」
最悪のタイミングだった。
透が慟哭をあげ、セミみたいに電信柱にしがみつく。
「原因はオタクってことじゃなく、俺自身にあるってことかあ~!」
「ちょっとちょっと! 見てます、みんな見てますから!」
通行人はざわざわ、ひそひそ。
聡子は情けないイケメンを電信柱から引き剥がし、適当に場所を変えた。透の背中をどうどうと撫でながら、脳裏に疑問を巡らせる。
舞台に立つにしろ、カメラの前にしろ、タレントには『自信』が欠かせない。度が過ぎれば自惚れになってしまうが、それが備わっていないことには始まらないのである。
こんなに自信がないのに、どうしてアイドルなんてできるの?
そんな世界の頂点に君臨していながら、城ノ内透は初デートで虎の巻に頼りきり。ついには劣等感を白状し、聡子を引かせてしまっていた。
周囲の視線も痛い。
「無理にカッコつけなくていいんですよ。ほら、志岐君に笑われます」
「……そ、そうだよな。悪い、パニックになっちまって」
透は改めて立ちあがり、こほんと咳払いした。
「じ、じゃあゲームセンターでも行ってみようぜ。志岐のやつ、多分そういう方向で聡子ちゃんのプレゼント探してるだろうし」
可愛い弟分を踏み台にして、かりそめのプライドを保つ。
「ゲームセンターって私、プリクラくらいしか経験ありませんよ」
「プリクラ……俺、一回も撮ったことねえ……」
かに思えたが、トラウマにまたスイッチが入ってしまったらしい。
「しっかりしてください! ほ、ほら、鉄道のおも……模型を見に行きましょう!」
彼氏を励ますことに彼女が四苦八苦する、珍妙な光景になっていた。
そこへ生粋のオタクが颯爽と通りかかる。
「うむ、心地よい! ここは素晴らしい街だな」
霧崎タクトそのひとである。
両手には買い物袋をぶらさげ、いつの間にかパーカーがアニメヒロインのものになっていた。ずかずかと偉そうに歩くが、ぶつかった相手には礼儀正しい。
「これは失礼した。荷物が多くてご迷惑をお掛けする」
「い、いえ別に……こちらこそ」
あれだけ自信が有り余っているなら、透と志岐に少し分けて欲しいものだ。
次元の異なるオタクを目の当たりにすることで、透はやや持ちなおした。
「……様子見にいくか? タクトの」
「今会ったら、絶対に荷物持ちさせられますよ」
「だよな。ユニット結成から三年経つけど、あいつの行動はわかんねえ」
霧崎タクトの桁外れの行動力は、同じユニットのメンバーとて計り知れないとか。
四時になってから喫茶店で待っていると、十五分の遅刻でタクトが戻ってきた。満面の笑みを浮かべ、本日の成果を見せびらかす。
「つい買い込んでしまった。まさかナナノナナ様のライブ限定CDがあんな値で転がっていようとは……値段をつけたヤツは許しがたいが、オレの財布は救われた」
趣味に全力投球できるスタンスは、ほんの少しだけ羨ましい。
「お客様、ご注文は?」
「コーヒーを。ふう……なんだ聡子、貴様も随分と馴染んでいるじゃないか」
聡子はヌイグルミの群れに囲まれ、動くに動けなかった。志岐と透がUFOキャッチャーで競争し、乱獲した戦利品である。
「あ、あはは……郵送してもらうしかないですね。タクト君のも手配しておきます」
「気が利くようになってきたな」
志岐と透はタクトの荷物の多さに驚愕していた。
「どんだけ買ったんだよ! もしかしてこれ、トートバッグ自体も商品か? げえっ、スターライトプロで領収書切ってやがる」
「僕も趣味に散財するほうだけど、タクトのはヤバいんじゃないの?」
おたおたするメンバーを一瞥し、リーダーが勝者の面構えになる。
「ちっちぇえヤツらだな。そんなザマだから未だに彼女もできねえんだろ。ハア……可哀相な野郎どもめ。生まれてきたことを後悔しな」
同情と軽蔑を含めたまなざしが、寂しい男たちをなじった。
「お前だっていねえじゃねえか!」
「タクトだっていないでしょ!」
この手の客には慣れているらしいウェイターが、静かにコーヒーを置いていく。
「オレには真奈美がいるからな。毎晩添い寝してもらってるぞ」
アニメプリントの添い寝シーツで勝ち誇る男性など、今の今まで見たことも聞いたこともなかった。ここまでトバせるからこそ、アイドルとして大成したのだろうか。
「第一、オレはモテないんじゃなく、三次元に興味がないんだ。ナナノナナ様への気持ちも、恋愛感情というより……信仰に近いかな」
コーヒーにミルクを注ぎ込む色男に、聡子はひとつ疑問をぶつける。
「ねえ、タクト君。前から気になってたんですけど」
「ん? なんだ」
「ええと、その真奈美ちゃんと、声優のナナノナナさんだったら、どっちが好きなんですか? 確か真奈美ちゃんの声優がナナノナナさん、ですよね」
タクトはコーヒーにミルクを容器ごと落とし、両手で額を押さえた。
「……………難しすぎる質問だな」
「あの、コーヒーに」
「だがいい質問だ。オレもいずれ答えを出さなければならないと、今まで結論を先送りにしてきたが、それは現状に甘んじる男の勝手だったのかもしれん」
アニメの真奈美と声優のナナノナナが、霧崎タクトの天秤に掛けられる。
「う~む……真奈美か、ナナノナナ様か……」
透がこそっと聡子に耳打ちした。
「ど、どうするよ? 真剣に悩んでんぞ」
「聞いちゃいけないことだったんですか? もしかして」
「僕も気になるけど。ねえタクト、帰れなくなっちゃうよ? マラソン出るの?」
それはタクトにとって、マラソン大会の出欠よりも重大なことらしかった。
☆
一途な男が一晩考え抜いて出した結論が、アニメの真奈美ちゃん。
その気持ちに整理をつけるためといって、買ったばかりの声優グッズを聡子に押しつけたのは、今朝のことである。
「いいか? 聡子。オレは真奈美を選んだが、ナナノナナ様への信仰を忘れたわけじゃない。ナナノナナ様のグッズを粗末にするんじゃないぞ」
「ちゃんと取っておきますから。返して欲しくなったら言ってください」
「う、うむ。……だめだ、少し安心してしまった己自身を裁きたい。ギルティー」
マラソン大会の朝は快晴となり、スタートかつゴール地点でもある大阪城公園は、大勢のランナーで賑わっていた。
残念ながら桜のシーズンは過ぎたばかりで、木々はすでに青々としている。今年の桜前線は北上が早い。
「もう少し早かったら、綺麗なピンク色だったんですよね。ちょっと損した気分かも」
「桜か。幼馴染みとの出会いをやりなおせる季節だな」
「……ごめんなさい。私たち、相っ当価値観が違うみたいですね」
とはいえ桜なら、東京でランニングの練習ついでに眺めた。
志岐と透は二人一組で念入りにストレッチしている。
「さっちゃん、今日は一緒に走ろうね」
「待て待て! 今日は俺たちが『元気にやってます』ってアピールだぞ?」
マラソン大会の趣旨を忘れていないのは透だけ。
常識的ではあるのよね、透君って。
観覧席には女性ファンが詰めかけ、横断幕をずらりと並べていた。
『私の一等賞になって! 志岐クン!』
『透君、ファイト!』
RED・EYEのマラソン大会参加は申し込み期限を過ぎており、無理を通す形になったが、かえってよかったかもしれない。タクトたちと一緒に走りたがって、ファンが殺到するように出場し、怪我人が続出しても困る。
「よし、と。透君、志岐君、今日はガンバってください」
「任せてよ! 透、競争しよう!」
「ヘッ、手加減しねえぞ? 元サッカー部に恥をかかせてやらあ」
透と志岐はスポーツ経験者であって、今日のためにランニングも続けてきた。
しかしタクトがどこまで走れるのか、マネージャーは把握できていない。
「タクト君は走れそう?」
おまけに悩み事で夜更かししてしまったタクトは、ウォーミングアップもそこそこに、気だるそうに腕組みしている。
「走りきるしかあるまい。フルマラソンの四分の一、相手にとって不足なし」
とはいえ彼の底力には期待できた。
ほんとに何でもできちゃうのよね、タクト君って。
単にルックスがいいだけではない。霧崎タクトは天性のアイドル性を持つ。先日のコンサートで透や志岐が倒れた時も、窮地を救ってくれたのは彼の力だった。
「頼りにしてますよ。行きましょう!」
いよいよスタートラインに立つ。最初だけでもほかのランナーを近づけないように、スタッフは総出で陣取った。バイト上がりの聡子とて、壁のひとつくらいにはなる。
アイドルのサポートって、やりがいのある仕事かも……。
聡子にとって、主役を引き立てることは喜びになりつつあった。
パーンッ!
空砲が鳴るとともに、前列のランナーから一斉に駆け出す。
ところが一群の中からひとりだけ、全力疾走でどんどん飛び出していく馬鹿がいた。
「きゃ~~~! タクト様が一番よ!」
「ぐすっ、大阪まで来てよかったあ! もお最高!」
黄色い声援を聞くだけで、誰が一時的にトップなのかわかってしまう。
これはだめだわ……。
聡子は走りながら、がっくりとうなだれた。
森林浴しながら3キロ地点を越えると、最初は固まっていたランナーもばらけてくる。透と志岐はとっくに先に行ってしまったようだ。
「はあ、はあ……さすがに、はあ、追いつけないわね」
彼らのガードは体育会系のスタッフに任せて、聡子は自分のペースで走ることに。新米マネージャーなりに役目は果たしただろう。
意識的に背筋を伸ばし、早歩きくらいのスピードで並木道を駆けていく。
マラソンはペース配分が重要だ。10キロとなれば、体育会系の部活動は経験がない聡子にはきついロングランとなる。
志岐君たちに教わった通り、無理はせず……。
今回が初出場らしい年配のランナーには、徒歩でひと休みしている者も多かった。3キロ地点でそろそろ強がりができなくなってきたのかも。
聡子は足を止めず、自分を律するようにマラソンを続ける。
「ふう、ふうっ。これくらい」
今年はいよいよ受験であり、いずれ体力勝負になるのだ。四月から走って身体を鍛えておけることに感謝しつつ、有酸素運動で汗を流す。
しかし並木道の途中で妙なものを発見した。
ほかのランナーもそれを見下ろし、一度は視線を残していく。
「あれってさ、霧崎タクトじゃねえの?」
「たぶんな。って、ここまで全力疾走してきたのか? すげえな」
タクトは道の端で寝転がり、眩しい日差しをてのひらで遮っていた。ここにはカメラもないのに、無駄に詩的なポーズで自分に酔っている。
「ぜえっ、ぜえ、ギルティー……」
マネージャーはやれやれと足を止め、サボる堕天使をぺしんと叩いた。
「初っ端からあんなに飛ばすから、バテるんですよ」
「バ、バテたのではない。ぜえ、疲れただけで」
ポエムを口ずさむ余裕もないほど、疲労困憊らしい。それでも優美な仕草で前髪をかきあげ、地に堕ちたアークエンジェルを演じきろうとする。
「早く帰って、真奈美の胸に飛び込みたい……はあっ、オレもここまでか」
「それだけ喋れたら元気です。まだ走れますか? 誰か呼んできましょうか?」
おもむろにタクトは起きあがり、ぱんぱんと膝の土を払った。
「走ってるとな、こう、聞こえるんだ。ナナノナナ様のお声が……」
聡子には風と木々のざわめきしか聞こえないのだが。
「するとオレは気付いてしまう。オレは真奈美を選んだつもりでも、ナナノナナ様への未練を捨て切れていない、と」
彼の幻想世界への没入ぶりには、マネージャーも呆れるしかない。
どこまで突っ走っていくのかしら、この人……マラソンはこんなだけど。
付き合っていられない聡子はマラソンを再開することにした。それに、いつまでも彼と話し込んでいては、何と噂されるかわかったものではない。
「先に行きますよ? ゴールしないと、志岐君たちのサポートもでき……っ痛!」
だが一歩踏み出した途端、右の爪先に痛みが走る。
ついさっきまで何ともなかったのに。
アップなら透君に教えてもらって、ちゃんと入念に……どっかで無理しちゃった?
「どうした? 聡子」
「急に足が……」
靴も靴下も脱いで確認すると、足の中指が炎症を起こしていた。なぜこんなところが患部となったのか、スポーツ全般に疎い聡子にはわからない。
「じっとしていろ。……ふむ」
タクトが屈み、聡子の右足を診断した。
「摩擦熱で焼けたな。後で水ぶくれになるぞ」
「え? 摩擦の熱でこんなふうに?」
「実際は七十度以上まで上昇するらしいから、火傷もする。なぁに、これは怪我のうちに入らん。清潔にしていればじきに治るさ」
聡子は目をぱちくりさせ、その説得力に頷いた。
「……ありがとうございます」
単なる変人であるはずの彼が、妙に頼もしい。背の高さが日よけとなり、聡子の足を熱から遠ざけてくれる。
「とりあえず次のチェックポイントまで行くか。ここでは面倒見切れん」
不意に聡子の重心が浮きあがった。
タクトが両腕でマネージャーを抱え、走り出す。
「ちっ、ちょっと! タクト君、私なら歩けますから! 降ろしてください!」
唐突なお姫様抱っこに聡子は動揺し、タクトの腕の中であたふたした。
一般のランナーたちがお姫様抱っこを目撃し、息継ぎのついでにオーッと口を開く。物珍しそうに見られてしまって、猛烈に恥ずかしい。
「霧崎タクトじゃね? さっきの」
「抱えたまま走れるもんなのか? すげえな」
彼らの隙間を縫うように、タクトは軽々と大きな荷物を運んでいった。
タクト君が私を? どうして? なんで?
男性に抱きかかえられるなど初めての体験で、頭は混乱している。なのに胸は心臓を暴れさせながらも、きゅんとして心地よい。
「ほ、ほんと降ろしてください……こんなとこ、ファンに見られたら」
「馬鹿か。オレは人間界に遣わされたアークエンジェルだぞ。怪我をしているエンジェルを見捨てていくなど、できるか。ハア……それが眼鏡属性の貴様であってもだ」
タクトには余裕で軽口を叩かれた。
動揺しているのは自分だけなのが悔しい。
「怒りますよ? 本気で」
抵抗しようのない聡子は、彼と一緒に林道を抜ける。
けれども胸の高鳴りは一瞬にして、危機感によるものに変わった。開けた視界の両端には、横断幕を掲げたファンの女の子たちがずらり。
ひぃいいい~ッ!
戦慄のあまり聡子は青ざめ、せめて身体を小さくする。震えが止まらない。
「きたわ、タクト様よ!」
「タクト様~! あと5キロ、ガンバってくださ……」
ファンは霧崎タクトの腕の中という、天上界にもっとも近い特等席を目の当たりにした。そこを独占されているのを見つけ、逆上する。
「だだだだっ誰よ! あの女は! タクト様に抱かれてるなんて!」
「いやぁあああああああ! タクト様から離れなさいよ!」
横断幕がびりびりと引き裂かれ、コース上に乱入してくるファンも出始めた。
その中央をタクトが軽やかに疾走していく。
「今日のエンジェルちゃんたちは元気がいいな! オレに着いてこい!」
「着いてこないでぇええええ!」
聡子の悲鳴はファンの憤怒と慟哭によってかき消された。
「許せない! タクト様にあんなにべったり!」
「さてはタクト様目当てでマラソンに紛れ込んだわね? ルール違反だわ!」
嫉妬深い女たちの競争が始まる。
☆
「ゴ~~~ルぅ!」
ゴール地点の大阪城公園では、志岐たちがファンの声援に応えていた。先に志岐が走りきり、続いて透もゴールラインに駆け込む。
「ハアッ、ハア……負けちまったか。持久力と肺活量には自信あったんだけどな」
「僕の勝ちだねっ。はあ、気持ちいい~! 練習でも同じ距離走ってるのにね、やっぱ本番は独特の緊張感があるっていうかさ」
ライブで倒れた時の弱々しさは少しも残っておらず、歓声が沸いた。
「志岐くん、お疲れ様~!」
「次はわたしも透クンと一緒に走りた~い!」
ふたりの呼吸が整ったところで、リポーターがカメラとともに近づいてくる。
「お疲れ様でした! どうですか、走ってみてのご感想は」
透はタオルを肩にかけ、気前よく親指を立てた。
「最高の気分っス! 汗臭いのは、今くらいは許してくれよな」
「普段からスポーツされてるんですよね。ふたりとも、ほとんどペースを落とさずに完走できたんじゃないですか?」
志岐がひょいっと起きあがり、土を払う。
「サッカーだって何時間も動きっ放しだもん。みんな、心配かけてごめんね!」
ゴール済みの一般ランナーたちも、ふたりの活躍を称賛してくれた。
「いやほんと、実際速かったですよ」
「RED・EYEと一緒に走れて、楽しかったです」
女性だけでなく男性も、RED・EYEの持久力は本物だったと感心する。
「あとはリーダーのタクトくんだけですねえ。スタート直後の爆走にはびっくり……」
和やかなスポーツ交流の場へ、地を削るような音が近づいてきた。
ドドドドドドド!
普段着の女子や警察官が混じった、ランナーの大群だ。
「タクト様は? どこなの、ぜえ、タクト様ぁ~!」
「いい加減止まりなさい! キミたち、はあっ、危ないから!」
透と志岐は顔を見合わせ、あんぐりと口を開く。
「あのバカ……今度は何をやりやがった?」
「やばいよ! 透、逃げよう! もう一周してでも離すしかないって!」
「おい! こんなところでゴミ捨ててんじゃねえ、志岐!」
すばしっこい志岐が放り投げたドリンクを拾いつつ、透も必死に走り出した。
そんなふたりの後ろ姿を、聡子は車の中から見送る。
「ごめんなさい、ふたりとも……。どっ、どうするんですか、タクト君! こんな大騒ぎにしちゃって! マラソン大会がメチャクチャじゃないですかっ!」
タクトたちはコース上の救護車に乗り込み、ちゃっかり難を逃れていた。
「お前がしょうもない怪我をするからだろう」
「私のせいにしないでください!」
足の指の炎症ひとつで、大変な騒動だ。
ファンたちはタクトを捜し、あちこちで溢れ返っている。
「わたしも抱っこして、タクト様~!」
「あの子、いた? 見つけたらギッタギタにしてやる!」
物騒な会話が聞こえ、聡子は背筋を凍てつかせた。
どうして私がこんな目に?
それはもうゾンビだらけの街に置き去りにされたかのような心境で。
事態を収拾するため、大阪府警が緊急出動する。マラソン大会は荒れに荒れ、午後からの俄か雨によってようやく沈静化した。
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