百番目の寵姫
第一話 流血のエチュード
濃厚なバラの香りがする。
赤、青、紫。鮮やかな原色が、かき混ぜ途中の絵の具みたいに入り乱れていた。中でも青いバラには、わずかに銀色めいた輝きがある。
その茎には棘があり、植物でありながらも奇妙な凶暴性を秘めていた。
お花畑にしては閉塞感がある。仰向けになっていると天井が近い。自分が天蓋つきの豪勢なベッドで寝ていることに、レティシアはようやく気付いた。
……あたしの部屋じゃない?
身体は見慣れないシルクのビスチェをまとっており、倦怠感が残っている。
靴はなく、素足だった。くるぶしにはバラの茎が巻きついていて、棘がちくっと刺さりそうになる。それほど長時間この体勢でいたのだろうか。
しかし手も足も、爪は綺麗に磨かれており、光沢さえ放つ。
あたしは……うっ?
思い出そうとすると、頭にずきっと痛みが走った。それでも痛みの隙間を探し、少しずつ記憶の糸を手繰り寄せていく。
レティシアはベッドで寝転がったまま、頭痛が引くのを待った。芳しいバラの香りに包まれながら、深呼吸して、身体に血液が循環しているのを実感する。
ここがどこかはわからない、けれど予想はできた。
やっぱりあたし、あの時?
ふと穴が空いたような感覚が胸元をすり抜ける。真っ青になってレティシアは我が身をかき抱き、血の気が引く冷たさに耐えた。
信じられない疑問がレティシアを戦慄させる。
どうしてあたしは生きてるの?
頭が痛い。
花壇のようなベッドの上でレティシアは蹲り、時間を遡っていった。
第一話 流血のエチュード
のどかな昼下がりだった。
蒸し暑かった夏は過ぎ、小春日和の日差しが気持ちいい。あと半月もすれば麦の収穫時期で、村の皆は準備に追われていた。
サーシャ村は都心から遠く、これといって目立った特産品もない。山間を北に抜けた先にある湖畔で、三百人足らずの村人がひっそりと暮らしている。
地図の上では『カレードウルフ共和国』という国の支配下にあるが、国家間の国境線は現在、意味を成していない。
大陸全土が混乱の最中にあっても、サーシャ村は安穏として、季節の変化と戯れるだけの余裕があった。戦略的価値がないおかげで、平穏な日々を送ることができる。
レティシアは厚底のブーツを履き、しっかりと靴紐を結んだ。
「気をつけるんだよ、レティシア。あの城に近づいてはいけないからね」
心配性の母が同じ注意を何回もする。
「大丈夫だってば。もう子どもじゃないんだから」
ハーウェル一家はここで小さなハーブ屋を経営していた。近辺で珍しい薬草を採取できることもあって、まれに城下町のほうから注文も来る。
父は調合に精を出し、母は営業を担当していた。ひとり娘のレティシアはハーブの採取を手伝っている。
母親は頬に手を当て、申し訳なさそうに呟いた。
「年頃の女の子が、いつまでも家でお手伝いなんてねえ……」
「ほかにすることもないんだもの。そんなに気にしないで、お母さん」
レティシアはブーツを履き終え、空っぽの籠を片手に立ちあがる。
結婚適齢期に差し掛かった女性は、好奇心で城下町に行くか、早々に結婚するかのどちらか。相手がいなければ、縁談が来るまで実家で花嫁修業でもするのが恒例だった。
子どもの頃は手伝いなど無関心だったが、遊び相手が減るにつれ手持ち無沙汰になり、今はこうして両親のサポートをしている。
「軍手を忘れずに。ナイトガベラってのはね、本当に」
「ほかのハーブだって危ないものはあるわよ」
娘のお遣いは日常茶飯事なのに、今日に限って母がはらはらするのも無理はなかった。調合で手が離せない父に代わって、レティシアは今から猛毒の花を摘みにいく。
しかも『湖』のほとりまで。
「なるべく早く帰っておいで。ナイトガベラは少しでいいから」
「わかってるってば。じゃあ、いってきます」
湖の傍が危険なことくらい、レティシアもわかっている。しかし同時に『自分は大丈夫』という確信もあった。村人も誰もが同じことを思っている。
お母さんは心配のしすぎよ。
ハーブ屋のひとり娘は肘に籠を引っ掛け、我が家をあとにした。
サーシャ村は小さな山村であり、住人は皆、レティシアをよく知っている。
「レティちゃん、お店のお手伝いかい? 感心、感心」
「こんにちは。あとでお薬持っていきますね」
挨拶を交わしつつ、レティシアは艶やかなロングヘアを波打たせた。
髪の色は母譲りのモーブで、瞳の色は父譲りのグリーン。顔立ちは父親に似ているらしいが、レティシア本人にはピンと来ない。
「うちのタリサも、レティちゃんくらい落ち着いてたらねえ……」
「もうすぐお見合いでしたよね、タリサ」
「あのオテンバが何かやらかすんじゃないかって、主人とそんな話ばっかりさ。その点、レティちゃんは安心だよ」
絶世の美少女というほど大袈裟な器量はないにしても、レティシア=ハーウェルの評判は高かった。親が童話のお姫様にちなんで付けた、『レティシア』という名前の響きがよいせいかもしれない。シンデレラやスノーホワイトのお仲間である。
挨拶もほどほどにして、レティシアは北の湖を目指した。履き慣れない作業用のブーツで坂をくだり、獣道を踏みしめる。
噂をすれば何とやら。
「はあ~。もう来週かあ……」
その道中、友達のタリサがうろうろしているのを見かけた。そわそわと落ち着かない様子で、腕組みしたり、それを解いたりしては、意味深な溜息を落っことす。
これは『見かけたら声を掛けて、励ましてあげてください』と主張しているのと同じ。レティシアはやれやれと肩を竦め、悩める友人に歩み寄った。
「タリサ、まだ悩んでるの?」
こちらに気づかなかったらしい彼女が声をあげ、大木の幹に背中をぶつける。
「レティシア? ど、どうしたの、こんなところで」
「あたしの台詞よ、それ。あたしはハーブの採取でちょっと、ね」
最近のタリサは上の空でいることが多く、見ていて危なっかしかった。料理の最中に火傷してしまい、レティシアが包帯を巻いてやった記憶も新しい。
それほど深刻に悩む理由は、レティシアにとっても他人事ではなかった。
「いよいよ来週なのよ? お見合い。はあ……どんな顔して会えばいいのか。服だって決めなくちゃだし、話題も考えとかないと」
レティシアもタリサも十七歳で、結婚の適齢期に差し掛かっている。無論、貴族みたいに家柄だの爵位だのとは関係ない身分なのだから、恋愛は自由。
けれども相手がいないことには始まらない。
サーシャ村の男子は大抵、村の外まで勉強や修行に行ったのち、お嫁さんを連れて帰ってくる。レティシアたちと同世代の男子もその慣習にならって、今は村にいない。
そうなると、村育ちの女子は余ってしまう。人並みの恋愛を経て結婚したくても、身近に相手がいないのでは、どうしようもなかった。そのために、理由をこじつけてでも街に行きたがる女子は少なくない。
ところがタリサは都会行きを両親に反対されてしまった。
「こればっかりはしょうがないわよ。あたしだって、反対されちゃうだろうし」
数年ほど前から大陸全土の情勢が不安定になり、新聞によると小競り合いも頻発している。戻ってこない息子たちの安否についても、皆の心配するところだった。
悩めるタリサが、声のトーンを落とす。
「それはわかってるけど……。納得できるかは別でしょ?」
彼女は恋愛願望を満たされることなく、村に居残って縁談を押しつけられる、という夢のない結果となった。
「いいひとかもしれないじゃない」
「あなたも同じ気持ちを味わうのよ? レティシア」
レティシアにとっても、明日は我が身のことかもしれず、意識はしている。
一足先に縁談を持ちかけられたタリサは、すっかり悩みに暮れていた。相手は遠方の技師で、都会慣れした女性より、田舎育ちの素朴な女性と会いたいらしい。そこには国家間の混乱を裂け、安全な山村で暮らしたい意図もあるのだろう。
「や~だ~!」
タリサが大木にしがみつき、無理やりにでもよじ登るふりをする。
その背中をレティシアはよしよしと宥めた。
「結婚なんてそんなものだって、お母さんも言ってたわよ」
「夢がないこと言わないで。うう……もう来週なのよ? 嫁入りが決まったら、しばらく村を出なくちゃならないし」
「それはそれで楽しんじゃえば? ほら、汽車にだって乗れるじゃない」
縁談といっても貴族のそれではないため、断ることもできる。しかしよほどの事情でもない限り、縁談は両親とともに前向きに応じるべきであって、結婚まで進めるもの。
「ギャンブルばかりする男だったら、レティシア、どうする?」
「まだそうと決まったわけじゃないでしょ」
「浮気癖がすごくって、三人も四人も愛人がいたりとか」
「どんな美男子に嫁ぐつもりなのよ」
タリサみたいに往生際が悪いパターンのほうが珍しい。
勿論、親友として彼女の相談に乗りたかったが、レティシアには仕事があった。
「帰ってから聞かせて。服を選ぶの、手伝うわ」
「ありがとう。ごめんね、レティシア。同じこと何回も聞かせちゃって」
「気にしないで。次はあたしなんだもの」
近いうちに自分も縁談を進められ、知らない男性と結婚を前提に付き合うことになる。タリサのことは他人事ではなく、むしろ自分の今後を考える、いい機会だった。
「私にレティシアくらい胸があったら、恋愛だって……」
「あたしを怒らせたいの?」
ふざける余裕があるなら、放っておいても大丈夫だろう。
レティシアはタリサと別れ、北の湖へと向かった。
「変なのが出たら、すぐ逃げなさいよ~!」
タリサの大声が背中にぶつかる。
サーシャ湖は一年中、深い霧で覆われていた。本来は美しい湖のはずだが、水面に重たそうな霧が立ち込め、ただでさえ謎めいた景観を曖昧にしている。
湖の畔まで来て、レティシアは目を凝らした。霧の中には古城がうっすらと見える。
その城が湖の中央にあるのか、向こうにあるのか、距離感が掴めない。単なる蜃気楼に過ぎない、といって調査を切りあげる学者もいた。
いつからかサーシャ村の人々は、湖上の城を『霧の城』と呼んでいる。
冒険家や旅人が城の噂を聞きつけて、興味本位で近づくことはあった。ところが小舟でいくら進んでも、元の場所に戻ってきてしまうという。
結果が少し違ったのは、カレードウルフ共和国からやってきた調査団だった。十隻ものボートで出発した翌朝、装備を奪い取られた恰好で戻ってきたのである。しかも彼らは何も憶えていなかった。
霧の城は未だ謎に包まれている。
レティシアも知的好奇心を刺激されつつ、真実に迫れないことが悔しかった。
だが村の人々は、そしてレティシアも、あえて知ろうとしない。
──湖の近くで、変死体が出るんだってさ。
噂を思い出し、レティシアはぞくっと肩を震わせた。
湖の傍ではまれに奇妙な死体が発見される。あちこちに齧られたような跡があって、皮膚は真っ青に変色し、血液は残っていないとか。その死体は村人ではなく必ず余所者で、大抵は犯罪者だった。
霧の城の仕業、と皆が思っている。
ただ、おかげでサーシャ村は退屈なほど平和だった。
サーシャ村のような山中の田舎は、犯罪者が逃げ込むには都合がよい。国の警察機構が行き届いていないため、略奪の標的にもされやすいだろう。
しかし後ろ暗い連中は、何者かに喰われて死ぬ。
村に自衛力がなくても、霧の城を下手に刺激さえしなければ、サーシャ村は安寧の日々を過ごすことができた。
それで満足すべきだ。短絡的な知的好奇心は持つべきではない。
「気になっちゃうんだけどね、やっぱり」
霧が漂う中、レティシアは慎重に足場を探した。
ここから先は道がなく、草むらが湿地帯のようにぬかるんでいる。注意して歩かないと足を滑らせ、洋服が上下ともに駄目になるのは目に見えていた。
「よいしょ、っと」
目的のナイトガベラは厄介な場所にしか生えない。こういった湿気の高いところで、新月の間のみ、採取することができる。およそ月に一度しか採取の機会がないため、毒の花とはいえ、娘の手も借りたいわけである。
湖の畔では、見るからに毒々しい花が咲いていた。花の周りではナイトガベラの猛毒にやられたらしい蝶が数匹、動かなくなっている。
「スズランだって毒だし……」
そんな気休めを呟きつつ、レティシアは籠を置き、軍手を嵌めた。
触れるだけで毒素に冒されはしないが、その取り扱いで慎重が過ぎることはない。根は残して一本ずつ採取し、籠に詰めていく。
この近辺に群生しているナイトガベラはハーウェル一家が独占していた。
新月のうちに採取できる量など知れているが、もっと人手があれば、相当な利益になるだろう。それでも村人は湖に近づこうとしなかった。
ここはもはやサーシャ村ではなく、霧の城の領域なのかもしれない。澄んでいるようで淀んでいる嫌な空気が、レティシアの第六感をざわつかせる。
早めに片付けて帰ろう……。
まだ籠に余裕はあったが、レティシアは早々に切りあげることにした。このような場所にひとりで長居したくない。
最後の一本、と思って花の茎にナイフを差し込む。
「……ひっ?」
その瞬間、喉で声がつっかえた。
ナイトガベラと思って掴んだのは、人間の指。毒の花は死体を苗床にして、腕から血液を抜き取るように咲いている。
慌ててレティシアは手を離し、ナイフも籠も落とした。
「きゃああああッ!」
摘んだばかりのナイトガベラが、ぬかるみにべちゃっと散乱する。
たった一度の悲鳴で息が乱れてしまった。
「はあ、はぁ……どうして、こんなところに……」
目の前にあるモノの正体を、すぐには理解できない。理解できるわけがない。
何気ない日常の中に、異常な光景が飛び込んできた。噂に聞いていた変死体が、ナイトガベラに埋もれている。
破れた衣服からは青白い手足が食み出していた。血の気はまったく感じられない。仰向けに転がり、何かを見てしまったように目を見開いている。
レティシアは瞳を強張らせ、三回目の嚥下でようやく息を飲んだ。
「気持ち悪い……」
亡くなった人間をそのように思うなど、冒涜かもしれない。
だが、その男性の形相はあまりに恐ろしい。もし彼と同じものを見てしまったら、と想像するだけで、全身に怖気が走ってしまう。
このひとは一体何を見たの?
何を知ってしまったの?
恐る恐る確認すると、上腕に噛みつかれたらしい跡があった。ローストチキンが千切れるみたいに裂け、赤黒い筋肉が露出している。
お父さんを呼んでこないと……。
ナイトガベラの採取どころではなく、レティシアは急いで立ちあがった。
誰かに報せなければ。父でなくとも、村の大人を早急に連れてくる必要がある。
ところが、自分を真似て『立ちあがる』気配が背後にあった。
──まさか?
冷たいものが背筋を駆けあがり、うなじまで鳥肌立つ。
心臓が鳴るにつれ、恐怖が膨らんだ。
ここで振り向いたら、見てはいけないものを見てしまうだろう。振り返らず走ればよいことを直感する。なのに、思うように足が動いてくれない。
後ろに立ってるのが、あの死体だったら?
そんなわけ……そうよ。気のせいに決まってるわ。
レティシアは意識的に長い息を吐いた。傍に霧の城があるからといって、頭が勝手に異変と結びつけようとしたに過ぎない。
振り返って何もなければ、拍子抜けして終わること。
緊張しつつ、レティシアは視界を水平にずらすように振り向く。
ふと目が合った。
そこで倒れていたはずの男性と。
「グルル、ルゥ……ウアアアァアッ!」
男が唸り声をあげ、レティシアに目掛けて腕を振りおろす。
「きゃあああっ?」
かろうじてレティシアは飛び退き、それをかわした。だがぬかるみに足を取られ、転倒してしまう。スカートに染みる泥の感触が気持ち悪い。
男はふらつきながら、レティシアににじり寄ってきた。目を真っ赤に光らせて、怯える少女を獲物として見据えている。
まさに怪談に出てくるゾンビであり、レティシアはその名を知っていた。
人喰い鬼、ノスフェラトゥ。
今まで食い散らかされてきた犠牲者の成れの果てから、村人は事件をノスフェラトゥの仕業だと想像している。
相手の動きはのろかった。すぐに立ちあがって逃げれば助かる。
「い、いや……こないで……」
しかしレティシアの四肢は強張り、少しも動けなかった。最初の攻撃をかわせたのが嘘だったかのように、今は身体に『動け』という信号が伝わらない。
戦慄のあまりレティシアはかちかちと歯を鳴らした。蒼白になって涙を滲ませ、化け物の接近を、恐怖と嫌悪感で拒絶する。
逃げなくちゃ。
早く逃げなくちゃ!
レティシアの唇から赤い鮮血が流れた。
逃げ……。
化け物の右腕が槍のように尖って、レティシアの胸を貫く。
自分の身体に異物が突き刺さっているのを、レティシアは涙だらけの瞳で見下ろした。心臓の位置を貫かれ、見たこともない量の血がどくどくと溢れる。
「がふっ? うあ、ぁ……ごほっ!」
咳き込むたび、口からも血のあぶくを吐き出す。もはや呼吸などできなかった。
血液とともに体温が抜け落ち、寒くなる。強すぎる痛みを感覚しきれず、頭の中は朦朧としていた。倒れたレティシアを中心に、真っ赤な水溜りが広がっていく。
狂った化け物は奇声をあげていた。
それが笑い声なのだと、なんとなくわかる。
最期に自分は怪物の餌になるらしい。また涙が流れ、口の中で血と混ざった。
とても苦い。こんなの美味しくない。
だから……食べない、で……。
「血のにおいがしたから来てみれば。運がなかったな、女よ」
化け物の断末魔と、知らない男の声が聞こえた。
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