Eternal Dance ~泣き虫で内気なデュオ~

第4話 白鳥の湖を訪れて

 十二月の下旬は、いよいよ劇団のクリスマス公演。

 響子ちゃんは舞台の練習で忙しくなっちゃって、会うに会えなかった。わたしと奏ちゃんも楽曲コンクールの二次審査に向けて、スタジオで練習してる。

 奏ちゃんのストリートライブには、まだ一度も参加できてない。けど、奏ちゃんは薄情なわたしに何も言わなかった。

 バレエスクールのレッスン場で演奏の練習をするのは、しばらくお預け。

 年明けに開催される劇団のオーディションを見据えて、奏ちゃんも工藤先生も、わたしのレッスンを優先してくれるの。おかげで『ジゼル』の第一幕は仕上がりつつあった。

 先生が満足そうに頷く。

「技術的にも問題ないわ。第一幕はもういいんじゃないかしら」

「やっぱりネックは二幕ってことになりそうね、伊緒」

 奏ちゃんはバレエの専門的な知識や技術こそないけれど、いつでも真摯に相談に乗ってくれた。正直、わたしひとりじゃ『ジゼル』を解釈しきれないから、頼もしい。

「二幕のジゼルは死者だからって、おどろおどろしくなっても、だめなんでしょ? えぇと、あいつ……ヒラリオンが殺されるシーンは、それでいいんだろーけど」

「よく見てるわね、朱鷺宮さん」

 この『ジゼル』の第二幕には、アルブレヒトの素性を暴いた、ヒラリオンっていう青年が、精霊(ウィリー)たちに殺されてしまう場面があるの。

 子どもの頃、劇団の舞台でこのシーンを見て、身の毛がよだつほど怖かったのを憶えてる。ヒラリオンだって、ジゼルのためにやったことだったのに……。

 バレエで定番の作品って、容赦ないのが多いかも。『白鳥の湖』だってそうだもん。

 わたしなりにジゼルの心情も想像はしてみた。

「やっぱりジゼルは、アルブレヒトを憎んでもいるんですよね? 死者の怨念って、自制できないっていうか……そういう怖さは欠かせないと思うんです」

 奏ちゃんが腕組みを深める。

「それでもアルブレヒトを庇っちゃう、愛の深さ……か」

わたしも奏ちゃんも、恋人なんていないし、死んだことなんてあるはずもなかった。ジゼルの想いは創作のものであって、きっと現実には存在しえない。

「ここまで来たら、もはやホラーっていうよりファンタジーだわ。先生は『ジゼル』、演ったことないんですか?」

「ないのよ、それが。公演で何度か見ただけね」

 子どもの頃に見た『ジゼル』がヒントになりそうなんだけど、第二幕の、ジゼルとアルブレヒトのパドドゥはあまり記憶にない。

 はあ……『くるみ割り人形』とかは、よく憶えてるのに。

 奏ちゃんはやれやれと肩を竦めた。

「まあ、ここで考えすぎても、さ。もうじき劇団の『白鳥の湖』もあるんだし、それを参考にしてからでも、遅くないでしょ」

「そうだね。舞台を見たら、いいアイデアが閃くかも」

 わたしも深刻になるのは止めて、今日のレッスンを切りあげる。

 工藤先生が苦笑した。

「うふふ。わかってるとは思うけど、公演のチケットは一枚、五千円よ」

「大丈夫ですよぉ。井上社長に経費で落としてもらいますんで」

 クリスマス公演の『白鳥の湖』は、バレエスクールのみんなも楽しみにしてる。

特に工藤先生にとっては、娘の響子ちゃんが役付きで出演するんだもん。期待してないわけがなかった。

 せっかくの公演、わたしと奏ちゃんだけっていうのは、もったいない。

「ねえ、奏ちゃん。ほかのひとも誘ってみて、いいかなあ」

「ん? 誰か誘いたい子、いるわけ?」

「えっと……同じ事務所の松明屋杏さん。どう?」

 オペラ歌手志望の杏さんなら、バレエの公演、興味持ってくれそうだよね。

 奏ちゃんも二つ返事で快諾してくれた。

「いいんじゃない? こっちも、リカでも誘ってみるわ」

「来てくれるのは嬉しいけど、朱鷺宮さんはコンクールのほうも、頑張ってね」

「はーい! それじゃ、着替えてくるから」

 わたしはタオルやドリンクを回収して、更衣室へと急ぐ。

 まずは劇団のクリスマス公演。で、年が明けたら、楽曲コンクールの二次審査がある。わたしのオーディションは最後だった。

 それに合格すれば、わたしは春から劇団候補生の一員になれる。

 ……あれ?

 着替えの最中で手が止まった。

 もし楽曲コンクールのほうにも合格して、プロデビューを前提にした音楽活動が始まったら? 劇団のバレエと両立なんて、できるの……?

 そう上手くいくはずもないと、楽観的には考えられなかった。だって、それは奏ちゃんの努力の結晶が、今度のコンクールで落ちちゃうってことだもん。

 わたしのオーディションだって、まだ結果はわからない。

「一緒にやってけるのかな、奏ちゃんと」

 胸がぎゅっと締め付けられるように痛くなった。

 奏ちゃんの夢はロックで……でも、わたしの気持ちは今、まっすぐにバレエに向かいつつある。わたしと奏ちゃんの目指すところは、違うんだ。

 奏ちゃんは傍にいるのに、寂しい。

「……だめだめ。もっと前向きにならなきゃ、オーディションの突破なんて……」

 わたしは気合を入れなおすつもりで、パンダのストラップを握り締めた。

 

 翌日、VCプロの事務所に寄ったついでに、杏さんを捜す。

 杏さんは会議室のほうで、NOAHのメンバーとテスト勉強してた。わたしと同じ頃に事務所入りしたらしい、高校一年の御前結依さん。

「わっかんないですよぉ、杏さん~」

「わからないって思うから、余計にわからないのよ。……あら、美園さん」

 杏さんはわたしを見つけ、朗らかな笑みを浮かべた。

「こんにちは、杏さん。それから……ゴゼンさん、ですよね」

 ゴゼンさんがむすっと口を尖らせる。

「私の苗字、ゴゼンじゃなくってミサキって読むのよ。えと、美園さんだっけ」

「美園伊緒さん、ね。ほら、リカの友達で、朱鷺宮さんっているでしょ。その朱鷺宮さんとデュオ組んでやってるそうよ」

 御前さん、何かを閃いたように指を鳴らした。

「似てない? 私たちの苗字、ミス・秋とミス・斧……どうですかっ?」

 あまりに唐突で、本気なのか冗談なのか、わたしには判断がつかない。一方、そんな御前さんに杏さんは慣れてるのか、はあっと溜息をついた。

「馬鹿なこと言ってないで。……ごめんなさい、美園さん。この子、数学が嫌で、現実逃避してるだけだから」

「そ、そうだったんですね」

 机の上には数式のテキストが広げられてる。

 わたしも数学は苦手。というより五教科全部、不得意だった。体育や音楽、家庭科は大の得意で、評価も貰えるんだけどなあ。

 一度はテキストに突っ伏した御前さんが、顔をあげた。

「……っと、美園さんは……」

「あなたたち、確か同い年でしょう? そう畏まらなくてもいいんじゃないかしら」

「そっか! なら、伊緒ちゃんでいいよね。私のことも結依でいいから」

 結依ちゃんと一緒にわたしも表情を和ませる。

「よろしくね、結依ちゃん」

「うん! えーと……伊緒ちゃんって、どんなことやってるの?」

 勉強会のはずが、おしゃべりになっちゃった。

結依ちゃんや杏さんはNOAHっていうグループを結成して、三ヶ月くらいらしい。でも、その間にドラマの撮影に参加したり、声優のお仕事をしたんだって。

「カルテットサーガっていうゲームで……」

「こらこら、結依? タイトルは教えちゃだめじゃないの」

結依ちゃんはまだ芸能界に入って、日が浅い。それを杏さんや、もうひとりのメンバーがフォローしつつ、NOAHは立派に活動を続けていた。

わたしも楽曲コンクールのことを話してみる。音楽関係の話題のせいか、杏さんは興味津々に声を弾ませた。

「一月に二次審査? やったわね! それって、わたしたちは見に行けるの?」

「関係者の応援でしたら、問題ないはずですよ。多分」

 松明屋杏さんに奏ちゃんの歌声を聴かせるの、ちょっと楽しみ。なんたって『アルトの歌姫』なんだもん。びっくりすると思うなあ……。

「で、バレエのほうはどうなの?」

「あっ、そうでした!」

 コンクールの話題に夢中で、忘れるところだった。わたしは公演のチラシを出し、数学のテキストにそれを乗っける。

「実は今度、劇団のクリスマス公演があるんです。見に行きませんか?」

 杏さんも結依ちゃんも瞳を輝かせた。

「すごいわ! 一度、舞台で見てみたかったのよ。しかも『白鳥の湖』だなんて……」

「わたしの友達も出演するんですよ。すごく上手なんです」

「えっ? 舞台に立つの?」

 結依ちゃんのほうは驚いちゃって。掴み取ったチラシを、凝視するほど。

「井上さんがチケット代を出してくれたら、いいんですけど」

「結依、リカも誘って、みんなで行きましょう! わたしだって見たいし、あなたにとっては絶対、勉強になるに違いないもの」

 杏さんったら、すっかり乗り気。オペラに造詣が深いひとだから、古典のバレエに拒否反応もないみたい。劇団の公演に誘って、よかった。

 結依ちゃんは少し不安そうにしてる。

「バレエって、一回も見たことないんだけど……それでも大丈夫?」

 バレエを知らないひとには、よくある懸念だった。

 とりわけ『白鳥の湖』みたいにストーリー性の強いバレエは、何の予備知識もなしに見ても、わからない部分が多い。せっかくの見どころを見逃しちゃうと思うの。

それに『白鳥の湖』は二時間以上もあった。

ここがバレエ観賞の、ハードルの高い面でもあるんだよね。

「予習はしていったほうがいいかも。あらすじくらいはチェックしておくとか。よかったら、バレエ教室のDVD、貸してあげよっか?」

「初心者のイロハくらいは勉強しておいたほうが、よさそうね。でも、先にDVDで『白鳥の湖』を見ちゃうのは、気が引けるわ」

 杏さんの言うことは、もっとも。

予備知識にしても、どのラインまでにしておくのかが難しい。このあたりは工藤先生に相談してみようかな。

「それなら『ジゼル』とか、ほかのをいくつか持ってきます」

「知らないタイトルね……じゃあ、お願いしようかしら」

 クリスマスシーズンは賑やかになりそう。

 

 

 昼間は芸能学校で昼寝でもするか、隣のリカとだらだらとダベる。

「調子いいみたいじゃない、そっちは」

「まーねえ。デビューコンサートもやっと決まったしさあ」

 このまま芸能界を辞めそうな雰囲気だったリカも、最近は精力的になってた。マーベラスプロからVCプロに移ったのが、よかったみたいね。

 かくいうあたしも顔に出てたらしい。

「そっちこそ、楽しそうじゃん」

「そりゃあコンクールの一次だって突破したし? おかげで、やる気は充分よ」

 楽曲コンクールは正直なところ、『だめかな』って思ってた。

 ソプラノからアルトに転向して、まだ日が浅いんだもの。伊緒にも手伝ってもらったけど、百パーセントの出来には程遠いって、自覚してる。

 でも、百パーセントにはできないってわかってたから、妥協もできた。伊緒のピアノが調子いいうちに収録して、投稿してみたの。

「二次審査って、いつ?」

「来月よ。年が明けてからね」

 一次選考の突破は嬉しい。けれども大きな問題がひとつ。

あたしは頬杖をつき、アンニュイな溜息をつかずにいられなかった。

「はあ……」

何しろ二次審査は、ステージで実演。

 しかもどうやら……どーやら伊緒、そのことを理解してないのよ。あたしもてっきり、わかってるものだと思ってたから、絶句しちゃったわ。

『次は動画で出すの?』

 あの子って抜けてるとこ、あるわよね……。

 つまり伊緒は、バレエのオーディションの前に、あたしと一緒に楽曲コンクールで舞台に立たなくちゃいけないわけ。

 楽曲コンクールで一度でも経験して、オーディションに臨めるなら、あたしとしても願ったり叶ったり。なんだけど、チャンスがなくて、なかなか言い出せずにいる。

「リカって、舞台経験はあったっけ?」

「どうしたの? 藪から棒に」

 かつての天才子役、玄武リカは、両手を頭の後ろにまわした。椅子に座ったままのけぞるだけで、こいつ、スタイルのよさが目に見えてきちゃうのが腹立つ。

「うーん……バラエティーの収録でギャラリーがいるのとか、ちょっとしたイベントで前に出たってのは、あるけど。そーいうんじゃなくて?」

「うん。ちょっとね……相方が本番に弱くて、困ってんのよ」

 伊緒も克服したいって思ってるはずで、あたしのストリートライブは見に来てくれるようになったわ。でも、人前でパフォーマンスって段階には、まだまだ遠い。

「二次は実演しなくちゃだし、バレエのオーディションだって……」

「えっ? 奏、バレリーナになんの?」

「違うってば。あたしじゃなくて、相方のこと」

バレエの話ついでに、あたしはクリスマス公演のことを思いだした。

玄武リカって、ちゃらちゃらしてる印象でも、実家は日本舞踊の家元だったりする。それなら西洋舞踊……バレエの公演を見て、感じ入るところもあるんじゃないかって。

「今月の下旬に大きな公演があるのよ、バレエの。一緒に見に行かない?」

「へえー。なんてやつ?」

「あれよ、『白鳥の湖』。どうせレッスン以外は暇なんでしょ」

 あたしの誘い方が気に入らなかったのか、リカが拗ねた。

「そりゃ時間はあるけど~。万年暇人みたいに言われると、面白くないってゆーかぁ」

 でもこいつ、今回の誘いは断れないはず。あたしはわざとらしく視線をリカに投げ、意地悪な笑みを見せつける。

「相方には松明屋杏と、結依も誘ってもらってんのよ。でもリカは来ないのねー」

「ちょっ、ちょっと! それを先に言ってってば!」

 リカは慌てて起きあがり、携帯のスケジュール帳を開いた。ちょろいわね、こいつ。

「でもすごいじゃん、奏のパートナー。公演に出るくらいでしょ?」

「違う、違う。相方……伊緒は今度オーディション受けて、劇団の候補生になれるかどうかってところ。その伊緒って子の友達が、何人か出るの」

「そなの? ふーん」

 リカに答えながら、あたしはふと、今後について構想を浮かべる。

 楽曲コンクールの二次審査は正直、厳しいわ。もちろん、プロを目指して全力でやってやるつもりだけど、俄か仕込みのアルトで勝ち進めるほど、甘くないはず。

 その一方で、伊緒のバレエには大きな可能性があった。もともと劇団員にも匹敵するレベルなんだもの。自然体でさえ踊れたら、合格は固い。

 響子も伊緒のことは『候補生になるためのじゃなくて、候補生同士で競いあうコンクールで踊るべき』って評価してたし。

 だから、伊緒の劇団入りが決まった時のこと、あたしも考えておかなくちゃ。

 さすがに劇団で猛練習しながら、あたしと音楽活動は、無理じゃない?

「さて……と。じゃあね、バレエ教室だから」

 チャイムが鳴るより先にあたしは席を立ち、ギターを担いだ。クラスメートや先生が驚いたのが愉快で、アッカンベーの舌だけ出してみる。

「あたしも帰ろうっと。待ってよ、奏ぇ」

 プロになるために入った芸能学校、どうでもよくなっちゃった。

 

 

 いよいよバレエ劇団のクリスマス公演となった。

 年末までの一週間、大劇場で催されるの。十二月になってからじゃ、予約できるか心配だったけど、三日目の公演で席が取れた。

 この日はバレエスクール繋がりの田辺さんや、響子ちゃんも出演する。

「工藤先生は井上さんと明日に見るんだって」

「ゆっくりしてるわね。先生にとっちゃ、娘の晴れ舞台なのに」

「うん。響子ちゃん、三日目と四日目に踊るから……って、今日でもよかったよね」

 ただしNOAHの三人とは席が離れちゃった。チケットの座席番号は、わたしと奏ちゃんは隣同士なんだけど、結依ちゃんたちは別のところ。

 開演までまだかなりあるから、劇場の傍の喫茶店で時間を潰すことに。

 わたしはまず玄武リカちゃんと向かいあった。

「あの、初めまして……奏ちゃんとデュオしてる、美園伊緒っていいます」

「知ってる、知ってる。結依と同いってことは、あたしとも同いじゃん。フツーに話してくれていいから、さあ」

 奏ちゃんに聞いてた通り、愛想がよくて、ひと懐っこい女の子みたい。でも天才子役の玄武リカと話せるなんて、やっぱり緊張しちゃう。

 奏ちゃんも、杏さん相手には少しギクシャクしてた。

「こうやって話すのは初めて、よね? あたしは朱鷺宮奏」

「わたしは松明屋杏。あなたのことは美園さんから聞いてるわ」

 奏ちゃんとして、杏さんには思うところがあるんだろーな。以前は同じ5オクターブの音域で張りあってる感じ、あったもん。

 そうとは知らない杏さんが穏やかに微笑む。

「わたしがびっくりするような歌声の持ち主、なんですってね。ふふっ」

 挑発されたわけじゃないけど、奏ちゃんは真っ赤になった。

「ちょっ! 伊緒、へんなこと吹き込んだでしょ!」

「え? わ、わたしなの?」

 四人でテーブルを囲んでいるところへ、五人目が遅れてやってくる。結依ちゃんはお家に電話するとかで、しばらく別行動だった。

「ごめん、ごめん。バレエを見に行くって、お母さんに話すの、忘れちゃってて」

 リカちゃんがにやにやと含みを込める。

「へえー? いつぞやのカノジョ、じゃなくってえ?」

「ち、ちが! やめてよ、リカちゃん? 伊緒ちゃんに誤解されるから!」

 ……ど、どういう意味だったのかな。

「今賑やかなのはいいけど、公演の最中は騒いじゃだめよ」

 聞こえなかったかのように、杏さんはしれっと紅茶に口をつける。

 リカちゃん、きらりと瞳を光らせた。どういうわけか結依ちゃんの腕にしがみつき、舌足らずな甘い声で、頬を染める。

「『白鳥の湖』ってロマンチックなやつなんでしょ? 手を繋いでてねえ、結依っ」

「え? そーいうものなの?」

「ちょっと、リカ!」

 途端に杏さんはテーブルに両手をつき、前のめりになった。

「結依が迷惑してるじゃないのっ。くっつくの、やめなさいったら」

「こんなの、ただのスキンシップなのにぃ?」

 わたしと奏ちゃんはついていけず、アイコンタクトとともに口元を引き攣らせる。

(女同士の三角関係ってわけね。伊緒もあんまり刺激しないで)

(話題、変えよっか)

 結依ちゃんのコーヒーが来たタイミングで、わたしはバレエの話を提供してみた。これから公演を見るんだし、ちょうどいいよね。

「わたしね、今度、劇団のオーディションで『ジゼル』を踊るんだよ」

 杏さんは落ち着き払って、普段の優等生然とした物腰に戻った。

「それならDVDで、結依もリカも一緒に見たわ。後半はかなり怖かったわね……」

「あたし、あらすじとか全然読んでなくてさあ。びっくり」

 やっぱり『ジゼル』には驚いちゃったみたい。

 奏ちゃんが手慰みにコーヒーカップを指でなぞる。

「そのオーディションってやつでさ、一幕のジゼルと二幕のジゼルを、両方やらなくちゃいけないのよ。それで、ちょっと行き詰まってるとこがあって……」

「……どういうことかしら?」

 オーディションの準備のほうは順調に仕上がりつつあった。ただし、第二幕のジゼルに関しては、まだヒロインの感情を表現しきれていないの。

 今のままでも、候補生にはなれるって、工藤先生は太鼓判を押してくれてる。

 けど、理解できてないものを踊るなんて、それこそ不可能だった。役の心情が宿っていないダンスは、たとえ技術面が優れていても、無味乾燥としたものにしかならない。

 リカちゃんが頬杖ついて、ぼやいた。

「あれ、なんでお墓から出てきたんだろ、ってさぁー」

「あんたはもっと集中して見なさいよ。集中」

「すぐ気付いたってば。ヒロイン、死んじゃってたのかーって」

 急に結依ちゃんが押し黙って、険しい顔になる。それを杏さんが覗き込んだ。

「……結依?」

「あ、ううん。ちょっと思ったんです。あのヒロインのジゼルって、自分が死んでるってこと、わかってたのかなあって……」

 わたしと奏ちゃん、はっとして顔を見合わせた。

「それだわ、伊緒!」

「うんっ!」

 ジグソーパズルの最後のピースが、やっと見つかった気がする。

 わたしたちは『ジゼル』の第二幕を、死後の世界と生者の世界の境界線として、ずっと考えてた。けど、それは第三者の視点に立ってのもの。

 恋人のアルブレヒトにしたって、精霊となったジゼルを、死者とはみなしていないのかもしれない。だから諦めきれず、焦がれ、殺されそうになりながらも追い求める。

「自分が死んだことに気付いてない、ジゼル……」

 それは唯一の正解ではないだろうけど、わたしの解釈には成り得た。

奏ちゃんも腑に落ちたようで、肩を楽にする。

「あんまり日もないし、その方向で固めていけば、いいんじゃない? 自分の墓があるのを見て驚くシーンとか、ダンスのイメージに盛り込んでさ」

「いいかも! それで進めてみるね」

 わたしたちだけで盛りあがっていると、結依ちゃんが首を傾げた。

「ええと……?」

「あ、ごめん。光明が見えたっていうのかな」

 杏さんは踏み込もうとせず、労いの言葉だけ掛けてくれる。

「気掛かりがなくなって、よかったじゃない。あとは『白鳥の湖』を楽しむだけね」

「はいっ! 響子ちゃん、どんなダンスするんだろ……」

 わくわくしてきちゃった。

 

 劇場の観覧席がびっしりと埋まる。

 開演の時間になって、照明が落ちると、観衆は水を打ったように静まり返った。放送で案内などが入り、わたしたちは携帯の電源を落とす。

 まずはオーケストラ楽隊の挨拶から始まった。一階席の一部に楽隊が陣取ってて、中央の指揮者が深々とお辞儀する。

 いよいよ……始まるんだ。響子ちゃんの舞台。

 壮大な前奏が響き渡る。暗闇の向こうで緞帳が開き、青白くライトアップされた舞台が覗けた。物語は王子の悪夢から始まるの。

 悪魔に白鳥をさらわれる、不気味なワンシーン。と思いきや、王子は目を覚ました。

 隣の奏ちゃんが固唾を飲む。

 わたしは両手を合わせながら、華やかな一幕を見詰めた。

 一度も立ったことのない、バレエの舞台を。

成人式を終えた王子は、すぐにでも結婚しなくてはならない。しかし乗り気になれず、彼は憂鬱な日々を過ごしていた。

家庭教師に勧められたこともあって、王子は湖へと狩りに出かける。

続いて第二幕。かつて王女の涙によってできたという、静謐な湖で、王子は白鳥の群れに囲まれた。中でももっとも美しい一羽に、心を奪われる。

悪魔の呪いによって白鳥に姿を変えられた、哀れな王女、オデットだった。

でもわたしは、ほかの白鳥の登場に胸を躍らせる。

優美なダンスで『大きな四羽の白鳥』の一羽を演じているのは、先輩の田辺さん。背の高さを活かしたダイナミックな動きで、湖の上を滑るように舞うの。

……田辺さんはもうあんなところまで行ってるんだ。

月夜の晩だけ、オデットは人間の姿へと戻って、王子と戯れた。

呪いを打ち破る方法は、恋をし、結婚すること。王子はオデットを妻に迎え、彼女を悪魔の呪いから救うことを誓う。

そこで一旦緞帳が閉じた。拍手喝さいが巻き起こる。

楽隊は全員が起立し、指揮者とともに静かに頭をさげた。まだ半分とも、もう半分とも言える感覚で、見てるだけのわたしたちにも心地よい疲労感がある。

「圧倒されちゃうわね、伊緒」

「すぐ始まるよ、第三幕」

改めて幕があがった。王子の花嫁を選ぶための、盛大な舞踏会が催される。

続けざまに色んな国のダンスが披露され、舞踏会のボルテージはどんどん高まった。リズムの小気味よいマズルカは、人数も多くて、舞台がダンスで埋め尽くされちゃう。

そして、ついに花嫁候補たちが登場!

六人の美女は一列に並びつつ、我こそはと華々しく舞った。六人で波を描くように足をあげ、重たそうなスカートさえ、ふわりと軽やかなターンに乗せる。

演技中はメイクが濃くて、前髪をあげてるから、誰が誰だかわからないかも。

「左から二番目が響子ちゃんだよ」

小声で奏ちゃんに教えつつ、わたしは花嫁候補らの、たおやかなようでしたたかなダンスに見惚れた。響子ちゃんの笑顔にライトが当たる。

(あなたは見てるだけで、いいのかしら?)

響子ちゃんの声がした。そんな気がしただけ……でも響子ちゃんのダンスは、あたしの本能へと強烈に訴えかけてくるの。

バレエスクールの先輩たちが劇団の公演に出演することは、今までにもあった。だけど今日の舞台には、わたしと同い年のバレリーナが立ってる。プロとして。

ちょっと前まで、わたしと同じラインにいた、みんなが。

花嫁候補らはエネルギッシュなダンスを競いあった。三人ずつ、前列と後列を入れ替えながら、ロングスカートでリズミカルな波を打つ。

壮麗にして美麗な舞踏会に、わたしたちは酔いしれた。これでも王子の興味を引けないなんて、どうかしてる――そんなことまで思えるほどに。

 

 悲しくも優雅なクライマックスを経て、分厚い緞帳が降りた。

 パチパチパチパチ!

総出の拍手が響き渡る。わたしの瞳にはじんわりと涙さえ溜まっていた。

 もう一度緞帳が開いたのは、カーテンコールのため。王子とオデット、家庭教師の三名に楽隊の指揮者も加わって、拍手に応える。

 わたしも奏ちゃんも、しばらく呆然としちゃってた。

 舞台が終わったこと、頭ではわかってる。だけど、もう少し余韻に浸っていたくて、立つ気になれないの。きっと、奏ちゃんも一緒。

「こうやって生で見ると、全然違うわね。ほんと……あたし、今、びっくりしてて」

「うん。三幕の響子ちゃん、動きにキレがあって、すごくよかったし」

 プロならではの、ひとりひとりの演技力に驚かされもした。

第四幕の、オデットと王子の三十二回転だって、単にまわっただけじゃない。王子の失意とオデットの絶望とが絡みあう、躍動的だからこそ物悲しいシーンだった。

 わたしにはできない。

 何十人ものプロが一致団結して作りあげた、最高の舞台。楽隊のオーケストラも、ストーリーを大いに盛りあげてくれた。

 ほかのお客さんも余韻に引かれながら、席を立つ。

 ふと、奏ちゃんが満面の笑みを浮かべた。

「……あたしね、たった今、新しい夢ができたわ。聞いてくれる? 伊緒」

 もしかして、プリマになりたいとか……いやいや。奏ちゃんにはロックがあるもん。

「なぁに?」

「でっかい夢よ。あたしがロックシンガーになるくらいに、ね」

 奏ちゃんの瞳が、わたしの顔を溶かすように映し込む。

「さっきみたいな大舞台で、伊緒がプリマになってさ。あたしは『友達が主役なんだぞ』って、偉そうに見てんの。どうよ?」

 俄かに胸が高鳴った。

身体じゅうに熱いものが流れ、わたしを目覚めさせようとする。

バレリーナになりたい。響子ちゃんたちと同じ舞台に立って、踊ってみたかった。もちろん、公演には奏ちゃんを招待するの。

「その時は奏ちゃん、一番前に座って欲しいな」

「あはは! そうこなくっちゃ!」

 わたしは奏ちゃんと初めてハイタッチを交わした。

 

 年の瀬も奏ちゃんは朝から、いつもの駅前でストリートライブ。

 けど、今日はわたしもキーボードを持ってきた。ふたりでセッティングして、駅からお客さんが出てくる頃合いを待つ。

 今回もギャラリーが集まってくれる保証なんてなかった。わたしの拙いキーボードが足を引っ張って、奏ちゃんのパフォーマンスを台無しにしちゃうかもしれない。

「いくわよ、伊緒。ワン、ツー、スリー、フォー!」

 ギターの旋律が堂々と響き渡る。その後ろで、わたしも鍵盤をなぞった。

 ひとりじゃないんだから、きっとできる。

 それにコンクールに向けて、奏ちゃんとは毎日、練習してるんだもん。楽曲コンクールの二次審査が、ステージでの実演だったことには、驚いたけど。

 舞台に立つこと、怖がってられない。

 遅れがちだったわたしのキーボードも、乗ってきた。奏ちゃんの巧みなギターにギャラリーは足を止めて、輪になる。

「おっ、またあの子じゃん! ちょっと見ていこうぜ」

「隣の子は? デュオでやってたんだ?」

 まだまだわたしの演奏はぎこちなかった。でも、それを自覚できるくらいには冷静で、奏ちゃんのギターについていける。

 これがわたしの、初めてのステージ。

 小さいかもしれないけれど、わたしにとっては大きな一歩となった。

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