Eternal Dance ~泣き虫で内気なデュオ~

第2話 アルトの歌姫

 VCプロで活動がある日は、溜息が出ちゃう。

 この前の日曜日、奏ちゃんを放って逃げたことも、わたしの後ろ髪を引いた。奏ちゃんは内気なわたしのために、ああやってチャンスを作ってくれたのに……。

「奏ちゃん、いるかなあ……」

 VCプロが借りてるスタジオで、わたしは奏ちゃんを捜してた。

顔を会わせづらいけど、ずっと避けてもいられない。悪いのはわたしだから、ちゃんと謝りたかったの。

許してくれるかな? 奏ちゃん。

 だけど、またストリートライブに連れてかれても困る。井上さんにも一度お話して、アイドル活動を辞めさせてもらおうって、わたしは考え始めていた。

 みんなの前で歌ったり踊ったりするの、無理だもん……。

 バレエで役に立候補できないのも、臆病な性分のせいだって、自覚はあった。子どもの頃、一回だけ群舞に加わったのが精一杯で。

『怖いから、出たくない? あなた、何しに来たのよ』

 舞台にあがる以前のところでリタイアしちゃった。

緊張のしすぎで、足が動かなくなって。背中に冷や汗をかいて、涙まで出てきたの。

『ぐすっ、わたひ、ここで待ってるぅ』

『ツーマンセルの群舞なのよ? あなたがいないと、私も踊れないじゃないの』

 心電図みたいに震えてて、踊れるわけがない。

 あの時の響子ちゃんには、本当に悪いことしたよね。

 そんなことを考えながら、わたしは音響スタジオを覗き込んだ。ちょうど奏ちゃんが練習してるところで、ギターをかき鳴らしつつ、マイクに唇を近づける。

 カジュアルな服装も相まって、さまになってた。

「眩しい街の中、ひとり佇む――」

 だけど、声はおかしい。あからさまに裏声になってた。

「ショーウインドウに泣き顔が、うっ、ゴホッ!」

 俄かに咳き込んで、ギターの手も止まってしまう。奏ちゃんはスポーツドリンクを喉に流し込むと、演奏を再開し……同じことを繰り返した。

 いつもの奏ちゃんじゃない。鬼気迫る表情で、喉を按摩する。

「ほんとに出ないわけ? もう二度と……」

 とても声を掛けられる雰囲気じゃなかった。

けれど、奏ちゃんの瞳にはすでにわたしが映ってる。気付かれてたみたい。

「……入ってきなさいよ、伊緒」

「う、うん」

 奏ちゃんは自嘲気味に笑うと、スポーツドリンクをゴミ箱に放り込んだ。

「こんなので喉を濡らしたって、出るわけないのよ。昔のような綺麗な歌声は、ね」

 観音怜美子のライブのあと、奏ちゃんが泣いてたのを思いだす。

『あたしだって……あれくらい、歌えたのに……っ!』

奏ちゃんの唇がわずかに震えた。

「あたしね……半年前まで、音域が5オクターブあったの」

 懺悔じみた響きが、わたしを困惑させる。

 有名な歌手でも、出せるのは2、3オクターブだって、聞いたことがあった。5オクターブで歌えるなんて、まさしく天賦の才能に違いない。

 だけど、奏ちゃんの声は男の子みたいに低くて。高音域は出るはずもなかった。

「病気で喉を痛めちゃってさ。もう出なくなっちゃったのよ、声」

 奏ちゃんが悔しそうに唇を噛む。腕組みのポーズにも力が入りすぎて、上腕に指が食い込んだ。その瞳がギターを、まるで遠くにあるように見詰める。

「バンド仲間ともそれっきり。あたしにはもう、このギターしか残ってないの」

 さっき張り替えたのか、デスクの上では、古い弦が弓なりに曲がっていた。奏ちゃんの宝物らしいギターはぴかぴかに輝いてる。

 長い沈黙に空笑いが染みた。

「あはは……悪かったわね、伊緒。あんたに度胸をって前に、まずはあたしが、声をなんとかしろって話なのにさ。ほんとカッコ悪い……」

 奏ちゃんの瞳で涙が光る。

「奏、ちゃん……」

 わたしには何も言えなかった。

 踊れるのに、舞台にあがるのを怖がって、立候補もせず。そのスタンスは時に、バレエ仲間の逆鱗に触れることさえあった。

 怪我をして、オーディションに出られなくなった子も、いたんだもん。

『どうして立候補しないのよ! チャンスだって思わないの?』

 工藤先生の娘さん……バレエスクールで一番上手で、同い年でもあったせいか、わたしのことをライバル視してた。その子も怪我をした時、今の奏ちゃんと同じ顔をしてた。

「今日はもう帰るわ。音合わせは今度にしましょ」

 奏ちゃんは俯きながら、淡々とギターをケースに戻す。

「じゃあね、伊緒」

 わたしは別れの挨拶もできず、立ち竦んでいた。

 歌手の命である美声を失った、奏ちゃん。

それでも音楽を続けようとする姿は、逞しいというより弱々しかった。多分、歌手生命の終わりに納得できなくて、気持ちの落としどころを求めてる。

 でもわたし、今の今まで不思議に思ってた。奏ちゃんが作った曲って、どうしてあんなに高音域ばかりなんだろ、って……。

「あら、もう空いてるの?」

 わたしひとりだけの音響スタジオへ、誰かが入ってきた。存在感が薄いらしいわたしにようやく気付いて、あとずさる。

「と、ごめんなさい。とても静かだったものだから」

「いえ。えぇと……確か、同じVCプロのかた、ですよね?」

 事務所で何度か見かけたことあった。彼女が胸に手を当て、自己紹介してくれる。

「わたしは松明屋杏。最近結成したばかりの、NOAHのメンバーよ」

 その名前にびっくりしちゃった。わたしは慌てて姿勢を正す。

「はっ、初めまして! 美園伊緒です。あの、まだわたし、ええっと……」

「そう固くならないで。わたしもVCプロに来てから、そんなに経ってないもの」

 杏さんは上品な調子で笑った。

 わたしが新人だってことは、一目でわかったみたい。

「あなたはひとりで活動してるの?」

「その……ふたりでやってるんですけど、ちょっと……」

 わたし、緊張感ではらはらした。

松明屋杏さんといったら、世界的にも高名なオペラ歌手の娘さん、なんだもの。頬に手を添える仕草ひとつを見ても、麗しくて、長い髪には艶があった。

わたしは大急ぎでスタジオを片付ける。奏ちゃん、弦を処分するのを忘れてた。

「すぐ空けますから、待っててください」

「こっちもまだメンバーが揃ってないから、いいわよ。今はあなたの持ち時間なんだし」

杏さんはにこやかに微笑んで、踵を返そうとする。

「じゃあね。えぇと、美園さん」

お母さんと同じオペラ歌手を目指してるだけあって、とても綺麗な声だった。

「……あ、あのっ! ちょっといいですか?」

わたしは咄嗟に杏さんを呼び止める。

「何かしら?」

「聞きたいことがあって……杏さんだと、音域は何オクターブくらいあるんですか?」

我ながら唐突な質問。なのに、今までになく自然と言葉が出た。

「そう、ねえ……」

杏さんがスタジオの窓を開く。秋も深まり、風はすっかり涼しくなっていた。

「よく聞かれるの。前は自信満々に『5オクターブです』って答えてたわね」

 奇しくも5オクターブの音域は、奏ちゃんと同じ。

「でもそれは、出せるってだけ。ちゃんと歌として使えるのは……そうね、3オクターブもないんじゃないかしら」

 杏さんの台詞は単なる謙遜には聞こえなかった。

「わたしもね、高音域を出せばいいってものじゃないって、最近わかったのよ。大事なのは声を自慢することじゃなくて、きっと、歌を表現することなんだわ」

バレエでも同じことが言える。

アチチュードを何回転も決めたって、どんなに脚を柔らかく曲げたって、それは『技』でしかないの。現に五回転できる子が落ちて、二回転しかできなかった子が受かる、なんてオーディションもあった。

 大切なのは、その技で、何を表現するか。

 作品の世界観や役の喜怒哀楽を、ダンスで表現できなくちゃならないの。

だから、これみよがしに『技』を決めたところで、それがバレエの演目にそぐわないものなら、評価はされなかった。

 窓の外を眺めていた杏さんが、髪をかきあげ、苦笑する。

「……ふふっ、なんてね。実はわたしもまだ、その表現っていうのが掴めなくて、手探りだったりするの。とても難しいわ」

「はい……」

 この『表現力』っていうのは、単にレッスンで得られるものでもなかった。

 例えば恋する乙女を演じるなら、実際の経験は別にしても、恋愛感情の機微を知ってなくちゃいけない。それを如実に表現できるかどうかで、完成度は断然、違ってくる。

「それじゃあ失礼するわ。またね、美園さん」

「あ、はい。ありがとうございました」

松明屋杏さんは和やかに微笑むと、今度こそスタジオをあとにした。

 奏ちゃん……。

プロのロックシンガーを目指してる奏ちゃんは今、大きな壁にぶつかってる。そして、ひとりぼっちでもがき、苦しんでいた。

わたしだって、怪我でバレエを辞めなくちゃいけないってことになったら、絶対に耐えられない。舞台に出てればよかった、なんて後悔もするかも。

 わたしにできることって、あるのかな……?

奏ちゃんのいないスタジオで、わたしは黙々とピアノを弾いていた。

 

 バレエスクールに行っても、奏ちゃんに会えない。

 工藤先生も心配してくれてた。

「朱鷺宮さんったら、急に来なくなっちゃって……美園さん、何か聞いてない?」

「いいえ……すみません」

 バレエを始めても、すぐに辞めてっちゃうひとはいる。でも奏ちゃん、バレエに何かを感じてるようだったし、教室のみんなともそれなりに打ち解けてた。

「朱鷺宮さん、まだまだ身体は硬いけど、筋はいいのよ。もったいないわ」

 工藤先生の口癖も飛び出す。

 もちろん、奏ちゃんを徹底的に指導して、プロのバレリーナに育てあげようってわけじゃなかった。プロになることだけが、バレエのすべてじゃない。

 でも奏ちゃんは目指してる、歌手で『プロ』を。

「……あの、すぐに戻ってくると思います。待ってあげてください」

「ええ。あなたが連れてきた、初めての友達だものね」

 わたしの胸で、日に日に気持ちが膨らんだ。

 奏ちゃんの力になりたい。歌手を目指して、歌って欲しいの。

 きっと……すごく上手なはずだから。

「友達のことも大事でしょうけど、自分のことも考えなさいね、美園さん。候補生へのオーディションはまだ受けつけてるんだし」

「え? あ、はい」

 オーディションのことをすっかり忘れてたわたしは、瞳を瞬かせた。

 いつものレッスン場でウォーミングアップしてると、お客さんがやってくる。工藤先生の娘さんで、劇団のほうに移っていった、響子ちゃん。数か月ぶりの再会だった。

「響子ちゃん!」

「相変わらず馴れ馴れしいわね。美園さん」

 バレエがとても上手だから、わたしとしては尊敬してるんだけど……響子ちゃんはわたしに対して、ちょっぴり高圧的。

「さっさと実績作って、劇団に来なさいよ。ここのバレエじゃ物足りないでしょ」

「物足りないだなんてこと……レッスン、楽しいよ?」

「どうかしら? 劇団に来たら、そんなこと言えなくなると思うけど」

 バレエスクールのみんなはジャージ姿の中、響子ちゃんだけレオタードだった。身体のラインがわかりやすいから、練習着としても正しい。

 響子ちゃんはにやりと唇を曲げた。

「今日はあなたにニュースを持ってきたの。劇団のクリスマス公演が『白鳥の湖』だってこと、知ってるわよね?」

「うん。田辺さんが、大きな四羽の白鳥を演るって……」

 十二月の下旬には劇団のクリスマス公演がある。

 しかも今年は『白鳥の湖』。バレエに縁のないひとでも知ってるほどの代表作で、誰がどの役を演るのか、このバレエスクールでもたびたび話題にのぼった。

 それだけに役の競争率も高いはず。とりわけヒロインの白鳥『オデット』は、まさにバレリーナの憧れだもん。

「実は私、花嫁候補のひとりに選ばれたの」

「えええっ?」

 わたし、びっくりして、思わず大声を出しちゃった。

 響子ちゃんが結婚するのかと思って……そうじゃない。『白鳥の湖』には、王子様の花嫁候補として、お姫様たちが踊るシーンがある。

響子ちゃんは自信家の表情で、謙遜にしては、あからさまに勝ち誇った。

「といっても、二日間だけね」

 劇団規模の公演になると、日によって役者が変わったりするの。何しろ人数が人数だから、欠員が出た際、代役を立てられるようにもなってた。

 一週間のクリスマス公演のうち、響子ちゃんが舞台に立つのは、二日だけ。

「すごい……ほんとに?」

「本当よ」

 それでも役付きを踊るなんて、俄かには信じられなかった。

 確かに響子ちゃんは実力派のバレリーナで、技術力も表現力もずば抜けてる。

 けど花嫁候補の役は、技術があっても難しい。ほかのお姫様と一緒に踊るんだけど、完璧に息を合わせちゃ、だめなんだよ。

 理由のひとつは、お姫様たちはそれぞれ違う国の出身だから。もうひとつは、ほかの花嫁候補を出し抜いて『私こそが王子様の花嫁よ!』って、アピールするシーンだから。

 それでいて、統一感が破綻しないように踊らなくちゃいけない。

「田辺さんにばかり、いい格好はさせないわよ」

 響子ちゃんの勝気な笑みが弾む。

 決してお母さんのコネなんかじゃなく、実力で大舞台に立つ、響子ちゃん。わたしも嬉しくなって、気の早い応援に力を込めた。

「響子ちゃんのダンス、楽しみにしてるよ。頑張ってね!」

「あなたねえ……そこは悔しがるとか、ないわけ?」

 ところが響子ちゃんは溜息をつき、まじまじとわたしを見詰める。

「私も田辺さんも、もうそんな次元にいるのよ。そこでしか踊れないバレエを、思う存分にやってるの。美園さん、あなたももっと貪欲になるべきだわ」

 お祝いムードは一転して、わたしにとって息苦しいものになってしまった。

「バレエスクールで『白鳥の湖』ができる? 『ジゼル』が演れる?」

 バレエの大作はどれも、五十人はくだらない大人数が必要になる。『白鳥の湖』だと、侍女の白鳥だけでも三十人にのぼった。

それも日ごとに交替でやるから、二倍、三倍の人数にもなっちゃう。

 そんな世界で生き残る自信、わたしにはない。

「三十二回転ができるあなたが、何をやってるのよ、ほんと」

「で、でも……」

 しかし響子ちゃんは遠慮なしにわたしに聞かせた。

「ライバルと戦いたくないとか、負けるのが恥ずかしいっていうのなら、問題外よ? オーディションはね、作品の完成度を上げるために、やるものなの」

 もっとも大切なのは『みんな』でひとつの舞台を作ること。

それは主役も端役も同じだって、工藤先生も言っていた。役ごとに立候補者を審査するのも、出し物のクオリティのためで、個々人の勝ち負けを持ち込むべきじゃない。

「選ばれた以上、私は演るわよ。最高の花嫁候補を」

 響子ちゃんの覚悟を目の当たりにして、胸に疼きのようなものが込みあげた。

 羨ましい?

わたしも舞台で踊ってみたい、なんてふうに思ってるの……?

「さあ! レッスンを始めましょうか」

 間もなく生徒が集合し、工藤先生もやってきた。響子ちゃんは先生の傍までさがる。

「知ってるひとも多いでしょうね。この子は私の娘、響子よ」

「……こんにちは」

 響子ちゃんならではの不愛想な挨拶が懐かしい。

「娘を贔屓ってつもりはないんだけど……たまには劇団員の踊りを、みんなにも見てもらおうと思って。響子、『ジゼル』第一幕のバリエーション、行けるわね?」

「当然よ、お母さん」

 みんなの視線を堂々と浴びながら、響子ちゃんはレッスン場の中央に立った。屹然とした佇まいで曲を待ち、全身で緩やかに波をつける。

 爪先が真上に弧を描いた。柔らかい身体だからこそ、ダンスも優美に映える。

足音はほとんど聞こえなかった。あたかも浮かんでいるかのように軽やかで、見入ってしまう。みんな、響子ちゃんのリズミカルなダンスに酔いしれた。

 第一幕のジゼルは、恋する乙女。

 ところが響子ちゃんのジゼルには、大胆にも恋を成就させようとする『雄々しさ』があった。表情や指の使い方が違えば、ジゼルの印象もがらりと変わるの。

 響子ちゃん、また上手くなった……?

 単に自身と実力を持ち合わせてるだけじゃなかった。響子ちゃんのバレエには、何度も舞台に立ったからこその、なんていうか、凄みがあって……。

その経験がないわたしは圧倒されるばかり。

 響子ちゃんのダンスが終わると、工藤先生は肩を竦めた。

「ご苦労様。随分と小生意気なジゼル、だったわね」

「お母さんの好みじゃないって、わかってるわよ。技を見せる構成にしたもの」

 わたしが前に踊ったジゼルは、『恋する乙女』をそのまま演じただけ。

 響子ちゃんがちらっとわたしを見据える。

「今度のオーディション、お題は『ジゼル』なんでしょう? 見に行くわ」

 今のダンス、みんなに披露したものじゃなかった。

わたしへの挑発……だったんだ。

響子ちゃんの、何かとバレエを勝負事にしたがるところは、少し苦手。競争があってこその完成度っていうけど、わたしはやっぱり戦いたくないもん。

工藤先生が響子ちゃんを窘める。

「美園さんを刺激するの、やめなさい」

「はぁい」

 響子ちゃんの華麗なダンスを見たせいか、わたしの身体は疼いていた。みんなで楽しく踊りたいっていうワクワク感とは、もっと別の……緊張感が胸を熱くする。

 やがていつもの練習が始まった。前半のうちは鏡の前でバーに掴まり、しっかりと基礎を固めるの。響子ちゃんは先生と一緒に指導にまわった。

「響子には新しい子を見て欲しかったんだけどね。美園さんのお友達」

 奏ちゃんの話題になって、響子ちゃんは首を傾げる。

「ふーん。美園さんが連れてきたってこと?」

「初めてのことでしょう? 朱鷺宮さんっていって、ロックシンガーやってる子。すごくいい声してるのよ、美男子がしゃべってるみたいで……」

 はっとして、わたしは片足を上げきったところで、ポーズを止めた。

「先生っ! 今、なんて?」

「……足を降ろしてからにしたら? 美園さん」

 改めて練習を中断し、先生に詰め寄る。

「奏ちゃんの声のこと、話してましたよね。さっき、いい声がなんとか、って……」

「ええ、そうよ。あの声で歌うんでしょう? ぜひ聴いてみたいわ」

 わたしの勘は当たってるのかもしれなかった。

奏ちゃんの声は、喉を傷めたガラ声なんかじゃないんだ。新しい『才能』が、奏ちゃんの中で開花するのを、待ってる。

「ごめんなさい、先生! VCプロに行ってきます!」

「今から? しょうがないわね」

 居ても立ってもいられず、わたしはレッスン場を飛び出した。

「お母さん、VCプロって?」

「私の友達がやってる、芸能事務所よ」

「芸能……って、あ、あの子がアイドルに~っ?」

 響子ちゃんの驚く声が聞こえたような。

 

 VCプロの社長室で、井上さんはちょうど誰かと電話中だった。

「ちょっと待ってて、伊緒。……じゃあ、撮影の件はそんな感じで。例の子も参加させるから、怜美子にもよろしく言っておいてちょうだい」

 間もなくその電話も終わる。

井上さんはわたしの、練習着姿(ジャージにスカートを巻いたやつ)を一瞥し、眉を顰めた。『責めるつもりはないけど、わからない』って顔してる。

「この時間はバレエ教室じゃなかったの?」

「ちょっと抜けてきたんです。どうしても、井上さんに聞きたいことがあって」

 わたしは深呼吸を挟んで、単刀直入に問いただした。

「奏ちゃんの今の声。どう評価してるのか、教えてください」

 それだけで、井上さんは察したみたい。

「あなたの思ってる通りよ。きっと」

 冷めてるコーヒーに口をつけ、一息入れてから、朱鷺宮奏の評価を明らかにする。

「確かにあの子は高音域の歌声を失ったわ。でも、その代わりに、とんでもないモノを手に入れたの。女の子には珍しい、超低音域の歌声を、ね」

 奏ちゃんの声を、男の子のように感じたことはあった。だけどガラ声だって思ったことはない。むしろ渋みがあって、聞き惚れそうになるもの。

「奏にはまだ自覚がないし、マーベラスプロも気付いてないんでしょうけど」

「じゃあ、井上さんはそれがわかってて、奏ちゃんをVCプロに……」

「ええ。病気で喉を傷めたって件は、気の毒に思ったけどね。あの子の発声練習を聴いた時、見つけた! って思ったの」

 井上さんは奏ちゃんの真価を見抜きつつある。

「高音域で歌える子は、いくらだっているわ。松明屋杏のレベルは例外にしてもね。でも低音域で歌える女の子は、ほとんどいない」

「ど、どれくらい、すごいんですか?」

 胸がどきどきと高鳴る。聞く前から、期待は確信となっていた。

「うちの松明屋杏をソプラノの歌姫とするなら、奏はまさしくアルトの歌姫。松明屋杏とパートデュエットさせたら、面白くなると思わない?」

 アルトの歌姫。

そのフレーズがわたしに衝撃をもたらす。

「ギターの腕は人並みだけど、それで培った音感とリズム感は、大したものだわ。作曲のセンスもいいし、歌わなくても、やっていける可能性はあるでしょうね」

「でも奏ちゃんは歌えるから……」

「そう。完全無欠の歌手になれるのよ、あの子は」

 嬉しくて、瞳にうっすらと涙が滲んだ。

 奏ちゃんとはまだ知り合ったばかりで、親友って言えるほど近い存在じゃない。けど、奏ちゃんが壁を乗り越えられるとわかって、ほっとした。

 まるで自分のことのように。

「よかった……奏ちゃん、歌えるんだ」

「あとは本人次第よ。今の声のほうが希少だって、認識してくれれば、ね……」

 力になりたかった。あと少しで殻を破れる、奏ちゃんのために。

わたしにできることがあったら、やりたい。ううん、やらなくちゃいけなかった。

「井上さん、今日は失礼します。わたし、あの」

「好きになさい。あなたは奏のパートナーだものね」

 待ってて、奏ちゃん。

 わたしが助けてあげるから!

 

 

 芸能学校であたしは一番後ろの席に追いやられてる。

 隣で寝ているのは、同じ目に遭ってる運命共同体の、玄武リカ。昔は天才子役として名を馳せたけど、今は世間からも忘れられつつあった。

「起きてんの? リカ。もうじき放課後よ」

「ん~? まだ鳴ってないじゃん、チャイムぅ」

 芸能学校の授業が、リカにとっては退屈でしょうがないのよ。天才子役様には、映像の構成やカメラワークなんて知識は、とっくに骨の髄まで染みついてる。

 音痴だけどね、こいつ。

「あんた、NOAHってやつのメンバーになったんだっけ。レッスンは出てんの?」

「出てない、出てない。杏ってのがさぁ、出ろ出ろってうるさくて」

「あんたがさぼるから、うるさくもなるんでしょ、それ」

 この調子だもの。余所の転入試験に備えての勉強も、してるわけがない。

 あたしはさり気なく呟いた。

「辞める時は一緒に辞めるから、言って」

「……へ? あぁ、うん」

 運命共同体から気のない返事が返ってくる。

 あたしの言った『辞める時』は、芸能活動の終了、かもしれなかった。歌えなくなった以上、作曲や演奏で誤魔化していても、悔しいだけ。

 次にギターの弦が切れた時が……なんてことを考えてる。

 伊緒のセンスに惚れ込んで、一緒にやろうって誘っておきながら、この体たらくよ。結局、あたしは限界寸前のところで、悪あがきをしていたに過ぎない。

 やがてチャイムも鳴って、クラスメートがばらけ始めた。リカが嬉しそうに席を立つ。

「結依からメール来てんじゃん!」

「あー、この前、キーボード運ぶの手伝ってくれた子だわ」

「知ってんの? 面白いっしょ、あの子。ダンスゲーがメチャ上手くてさあー」

 こいつが特定の誰かに入れ込むのって、初めてじゃない?

「じゃーね、奏」

「はいはい」

 ご機嫌なリカを見送ってから、あたしも席を立った。

 やっぱり、ちゃんと伊緒に話そう。あの子にはバレエだってあるんだもの……腐ってるだけのあたしに付き合わせてちゃいけない。

 しかし学校を出ようとすると、見知った面子に出くわしてしまった。

「よう、奏。一ヶ月ぶりになるか」

「……ナオヤ、シンジも?」

 以前は一緒にバンドを組んでいた、ベースのナオヤと、ドラムのシンジ。キーボードのマリは来てないみたいね。

 この一ヶ月、ずっと避けていたから、居たたまれなかった。でもナオヤは、そんなあたしを頭ごなしに批難せず、穏やかに切りだす。

「マリも心配してるぞ。……喉はまだ治らないのか?」

「もう治らないって、言ったでしょ?」

 あたしのやたらと低い声に、ナオヤもシンジも驚いた。だけどシンジのほうは、ナオヤほど落ち着いてはいられない性分のせいか、苛立ちを隠さない。

「辞めるのか戻ってくんのか、はっきりしろよ。コンクールの募集も始まってんだろ」

 あたしはシンジとも、ナオヤとも目を合わせず、ぷいっと顔を背けた。

「戻らないわ。VCプロで、もう新しい子とデュオ組んでるし」

「はあっ? んだよ、それ!」

「やめろ、シンジ!」

 前のめりになって声を荒らげるシンジを、ナオヤが制す。

「……とにかく今日は、顔だけでも見ておきたかったんだ。また来るよ」

「もう来ないでったら。あたし、ここ辞めるから」

 あたしはふたりを拒絶するしかなかった。

朱鷺宮奏がボーカルでいられたのは、高音域の美声があったから。それがなくなってしまっては、マイクを握る資格もない。

 シンジは容赦なく毒を吐いた。

「けっ! 勝手にしろ。お前の作る曲にも、いい加減、嫌気が差してたとこだしな」

「お、おい、シンジ?」

「本当のことだろ。歌のキーばっか高くしやがって、おれたちの演奏はこいつの引き立て役になってたじゃねえか。マリもぼやいてたぜ」

 あたしの作曲が第一に『あたしの歌声』を優先してたってこと、ばれてる。

 バンドのことなんか二の次で、自慢の歌声をコンクールでアピールしなくちゃってふうに思ってた。プロのミュージシャンになるために。

「今はお前の曲をマリでも歌えるように、調整してんだ。キーも抑えてな。勝手に抜けといて、文句言うんじゃねえぞ?」

「……わかってるわよ、そんなこと」

「もうやめろ、ふたりとも。帰るぞ、シンジ」

 険悪な雰囲気になり、ナオヤは半ば強引にシンジをあたしから引き離した。

 ナオヤたちがいなくなって、あたしは立ち尽くす。芸能学校の生徒は、棒立ちのあたしに見て見ぬふりをしながら、和気藹々と下校していった。

 これが孤独。今はリカも傍にいないから、痛いほどに感じる。

 

 自己満足でいい……なんて、あたしは思えない。そんな月並みの言葉を落としどころにして、納得するには、前に進みすぎてしまったもの。

 音楽のことを綺麗さっぱり忘れるには、ね。

 今でも欲求が燻ってる。いろんなひとに聴いて欲しい。聴かせてやりたいって。

 でも、それは無理なんだと、わかってしまった。肝心の歌声を失っては、あたしのロックは永久に成立しないから。

 誰でも歌えるようにキーを落として、再構成?

 そんなことしたら、それはもうあたしの、理想のロックじゃない。

 だけど……そうでもしないと、そもそも『あたし』が歌えなかった。自分で歌うことのできない曲ばかり書いては、屈辱の味を噛み締める日々。

 今日はスタジオで、伊緒のピアノと音合わせの予定だった。

 ……そろそろあの子も解放してあげないと。

「こんにちは、奏ちゃん」

 伊緒は先にスタジオ入りしてて、準備を済ませてた。いつもはもたもたしてるのに、今日に限って、やる気十分にピアノでスタンバイしてる。

「早いわね、伊緒。学校は?」

「急いで来たの。奏ちゃんにお話したいことがあって……」

 あたし、ピンと来た。

 やっぱり芸能活動を辞めたいんじゃないかしら? 伊緒には第一にバレエがあって、芸能活動は度胸をつけるためのものだって、井上さんも言ってたし。

 あたしもそれでいいと思った。バレエでまだチャンスがあるこの子を、いつまでも、あたしの我侭に付き合わせてちゃいけないでしょ。

 あたしにできることは、伊緒を応援してあげることだけ。

「わかってるわよ、伊緒。あなたにはバレエがあるものね。オーディションに向けて準備するなら、早いほうがいいわ」

 あたし、なるべく穏やかな言葉を選んだ。怒ってないってことを強調する。

「ううん。そのことじゃないの、奏ちゃん」

 ところが今日の伊緒は、やけにはきはきと口を開いた。

楽譜のコピーをあたしに見せつけ、言い放つ。

「これ、今から一緒に歌って欲しいんだ」

 あたしはその楽譜を眺め、俄かに顔を赤くした。

「なっ……!」

あたしのロックを『誰でも歌えるように』改変されていたんだから。

今のあたしでも無理なく歌えるように……!

「どういうつもりよ、伊緒っ!」

 スタジオにあたしの怒号が木霊した。今までの悔しさや苛立ちも、まとめて爆発しちゃって、もう自分じゃ抑えきれない。

 でも!

「あたしの曲をなんだと思ってるわけ? 勝手なことしないで!」

 でも許せなかった。自分の楽譜を好き勝手に弄られて、笑っていられるミュージシャンなんて、いるわけがない。伊緒はあたしの逆鱗に触れたの。

 なのに、伊緒は態度を改めなかった。

「いいから、歌って」

 いつになく生意気になって、荒れるあたしをじっと見詰める。

「よくないわよ! あんた、同情でもしてるつもり? ひとの曲、勝手に書き換えて、しかも『歌え』って? 冗談じゃないわ!」

 あたしは鍵盤を叩くように前のめりになって、伊緒に詰め寄った。

「どうしたのよ? いつもみたく謝りなさいってば!」

 それでも伊緒は、瞳に涙を溜めてるくせに、鍵盤から指を離そうとしない。

「お、お願い……一緒に歌って。奏ちゃんが歌ってくれたら、わ、わたしも……今度のオーディション、出るって決めたから」

「な……何よ、それ」

 あたしは額を押さえ、はあっと長い息を吐いた。

 結局、この子はあたしのこと、何もわかってない。今も『わかった気になってる』だけで、あたしをこのガラ声で歌わせようとする。

 ついさっきまで、伊緒を応援するつもりでいた気持ちは、消え失せた。

「……いいわよ。ただし一度だけね。歌い終わったら、二度とあたしに関わらないで」

 侮辱に耐えながら、あたしはギターを構え、ピアノを待つ。

 伊緒は覚悟を決めたような顔つきで、白と黒の鍵盤に向かった。ピアノの凛とした音色にあたしのギターが合わさって、楽譜を再現していく。

 

 眩しい街の中 ひとり佇む

 

 歌は低いトーンから始まった。いつもは甲高くあったものを出しきれないせいで、ピアノにもギターにも飲まれそうになる。しかし伊緒のピアノはキーを下げない。

 

 ショーウインドウに 泣き顔が映った

 

 まるでアルトパートを歌ってるみたいだった。あたしの喉は無理なく、音階をどんどん下げていける。いつしかあたしの声だけ、鍵盤を左に向かってた。

 

 捜してたダチを やっと見つけ

 涙のワケを誤魔化す 苦し紛れの枯れた声

 

 歌える……?

 あたしの枯れきった声が、俄かに潤ってきた。高い音は出ない。けれども、低い音域に入るや、つっかえていたものがなくなって、驚くほど簡単に出てしまうの。

 男の子にしては綺麗な女声、ってやつ?

 ……ううん、もうそんな次元じゃない。あたしの声はアルトの旋律となって、むしろピアノもギターも支配しつつあった。そこに伊緒の歌声も重なる。

 

 お節介なFRIEND 見透かされてる

 わかったふうな笑みがむかつく

 

 あたしも口を大きく開けて、伊緒とデュエットをはもらせた。

 スタジオにあたしたちの新曲が響く。女の子同士のデュエット、じゃない。あたしの歌声が雄々しい色気を伴って、あたかも『男女のデュエット』を作りだす。

 

 お節介なFRIEND あたしも知ってる

 あんたもやっぱり寂しいんでしょ

 

 おかげで、女の孤独を歌ったはずのロックは、甘いラブソングになってしまった。あたしは演奏の手を止め、嗚咽を漏らす。

「うっ、あうぅ……」

 歌えたんだもの。

ちゃんと、綺麗な声で、あたしのロックを。

 瞳から大粒の涙がぽろぽろと溢れてきた。両手でも受けきれず、ギターまで濡れる。

「ね? 奏ちゃん」

「ひっぐ! ごめん……伊緒、ごめんなさい……っ!」

 謝ったのは、あたしのほう。

 さっきは伊緒に『謝りなさいってば!』って凄んだくせに。あたしは涙で唇を濡らしながら、伊緒に何度も謝るしかなかった。

「ごめん……ぐすっ、伊緒ぉ」

 カッコ悪い。自分勝手で、惨めで、情けない。

 

 音楽に絶望してたあたしを、伊緒は救ってくれた。この子は決して意気地なしなんかじゃない。あたしのために、勇気を振り絞ってくれたんだからさ。

 ありがとう、伊緒。

 あんたの度胸、認めてあげる。

 

 

 バレエスクールにやってきた奏ちゃん、今日も元気がありあまってた。

「おっはよー、伊緒!」

「えへへ。こんにちは、奏ちゃん」

 バレエを始めて、早二ヶ月。まだ身体が硬いのは仕方ないにしても、基本のフォームは見るからに上達してた。足はあまり上がらなくても、姿勢の均整が取れてるの。

工藤先生も奏ちゃんがお気に入りみたい。

「この調子で続けてれば、次の春には発表会に出られるわよ、朱鷺宮さん。ほかにも高校デビューの新人がいるから、一緒にやってみるといいんじゃないかしら」

「あたしにはちょうどよさそうな目標ですね、それ」

 奏ちゃん、週二だったレッスンを週三に増やして、練習に励んでた。楽曲コンクールに向けて、曲も収録しなくちゃいけないはずなのに、バレエに時間を掛けてくれるんだ。

 そんな奏ちゃんがわたしを見て、にやりと唇を曲げた。

「ちょっと、伊緒? ぼーっとしてないで。あんたこそ練習しないと」

「え? でも、わたし……」

「出るんでしょ? オーディション」

 待ってましたとばかりに工藤先生が瞳を輝かせる。

「本当っ? やる気になったのね、美園さん!」

「あの、先生? そのぅ」

 わたしが『あの、その』と言ってる間に、奏ちゃんが話を進めちゃう。

「この間、あたしと約束したんですよ。……ねえ、伊緒? ま、さ、か……あたしにあんなこと言っといて、自分は嫌、なんて言わないわよねえ?」

 うぅ……言い返せない。

 わたし、奏ちゃんにどうしても歌って欲しかったから、『歌ってくれたらオーディションに出る』なんて、勢いで出まかせを言ってしまった。

 工藤先生はすっかりそのつもりで、上機嫌。

「全員でフルサポートするわよ、美園さん! 劇団でプリマになって、このスクールを有名にしてちょうだい」

「先生ってば、それが本心ですか?」

「当然でしょ。元生徒がプリマになったら、大繁盛、間違いなし!」

 奏ちゃんと工藤先生、早くも意気投合しちゃってた。

 わたしはもうオーディションに出るしかないみたい。でも、奏ちゃんだって大きな壁を乗り越えたんだもん。今度はわたしがバレエで頑張らなきゃ。

 ……挑戦してみよう、オーディション。

 そこにはきっと、わたしの知らないバレエがある。

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