お人形が見た夢

ACT.4   KING OF LUST

 目がちかちかする。

 いつしか私は、見覚えのない場所にいた。窓は分厚いカーテンで閉めきられ、部屋の中は淡いピンクの色合いで満たされている。

 同時に五人は座れそうなくらい大きなソファーが、中央にあった。腰掛け程度しかない低めのテーブルには、お酒のボトルが散乱している。

 ソファーの後ろは透明のパーテーションで仕切られ、お風呂が丸見えだった。

「なに余所見してんだ?」

 その気配を察した時には、ソファーでいかがわしい一団が寛いでいた。ひとりの青年がゆったりと腰を降ろし、その両隣と、足元を含め、美少女を四人も侍らせてる。

 女の子たちは際どい水着の恰好で、彼にべたべたと甘えていた。

「ディーン様ぁ、もっと可愛がってくんないとぉ~」

「次はわたしでしょ? ディーン様、なんだってしますぅ」

 淫蕩に過ぎる光景が繰り広げられる。

 真中にいるのは、半裸のディーンだった。女性には触れないはずのてのひらで、可愛い恋人たちの髪を梳いたり、背中を撫でまわしたりしてる。

 なのに、私には嫌悪感が少しも込みあげてこなかった。嫉妬さえない。むしろ羨ましく思って、知らず知らずのうちに見惚れてしまう。

「突っ立ってないで、早く来いよ」

 さっきからディーンが声を掛けているのは、どうやら私らしい。

 私も大胆な水着を一枚着けているだけで、普通の下着よりも布地の面積が少なかった。無性に恥ずかしくなって、我が身をかき抱く。

 ところが、その身体は人間のものだったの。黄金色のストレートヘアが、朱鷺宮杏樹の瑞々しい肉体を流麗に飾り立てる。

 ほかの女の子たちが不平不満を口にしても、私にはもう聞こえなかった。

「お前がいないと、始まらないだろ……?」

妖艶に微笑むディーンに手招きされると、何も考えられない。足が勝手に動いて、ふらふらと歩み寄っていく。

 私はおずおずと輪に加わり、ディーンに正面から抱きついた。触れるのが怖かったのは最初だけで、彼の腕に包み返されると、安心感さえ芽生える。

 ディーンはほかの女の子を宥めつつ、私を一番に抱き締めた。艶めかしい手つきで私の金髪をのけ、肌を蹂躙し始める。

「いい子だ……お前の好きなようにしてやるよ、シエル」

 ――クスクスクス!

 無邪気な笑い声が私の唇から溢れた。

 

 私室のベッドで私は飛び起き、一秒のうちに覚醒する。

「……ゆ、夢だったの……?」

 汗をかくことのない人形の身体さえ、異様に火照っていた。胸の時計は秒針の回転がやけに速く、おかげで息も荒い。間違いなく、さっきの夢のせいだわ。

 自己嫌悪に駆られ、両手で頭を抱え込む。

 なんて夢だったのかしら……。

 これじゃあ、まるで私が欲求不満みたいじゃない。夢の中とはいえ、あんなディーンを喜んで受け入れてしまったことに、罪悪感さえ抱く。

でも、心のどこかで私は、ディーンに抱かれた時の感触を再現しようとしていた。自らの手で人形の身体を撫でまわしたくなる。

『いい子だ……お前の好きなようにしてやるよ、シエル』

 しかし胸の昂ぶりは呆気なく引いた。

ディーンの求めている女性は朱鷺宮杏樹じゃなくて、シエルという女の子。ううん、私の身体でさえあったら、中身は誰でもいいのかもしれない。

 そんなふうにディーンを貶めている自分が、ますます嫌になった。

 彼はまだ、あの肉体が私のものだって知らない。シエルが何者かも、おそらく。

「人形遣いシエル……」

 デュレンによると、シエルはかつて地獄で大きな争いを起こし、魔王アスモデウスの精神を乗っ取った末、崩壊させたという。

魔王アスモデウスが姿を現さないのも、ほぼ廃人と化しているせいだった。

 そのために急きょ跡継ぎが必要になり、デュレンはディーンを強引に推している。

 しかしデュレンが教えてくれたのはそこまでで、シエルの正体や力についての情報はなかった。ジニアスの怯えようからして、聞いてまわるわけにもいかない。

「あの子も人間らしいけど、もしかして私と同じように……?」

 わからないことだらけ。

 あれから雷雲地帯に行っても、テスタロッサには会えなかった。ディーン絡みのことになると、あの尊大なペットは居留守を使う。

 ただ、今日はエリザが真相を話してくれる約束だった。シエルについては今以上の情報が得られるはずよ。でも私は、その予定をディーンに伝えていない。

 あれが私の身体なんだって知られるのが、怖くて。

 ひとりでいたら、どんどん深みに嵌まりそう。気分転換にシャワーでも浴びて、早めにカジノのお仕事に向かうことにした。

 

 

 相変わらず賑やかなカジノで、人間の魂もワインの香りに酔いしれている。

 ブラックジャックのテーブルは閑散としていた。魂がふらっとやってきては勝負を挑んでくるんだけど、長続きしない。私にゲームの余裕がないせいね。

「ふう……」

 今日はディーンも来ておらず、話し相手がいなかった。たまにこうして離れ離れになると、私のほうが彼に依存してるんじゃないの、と痛感する。

 暇潰しにひとりでソリティアをしていると、誰かがスペードの7から下を動かした。

「おはよ、杏樹」

「え? あ……おはよう、ディーン」

 向かい側にディーンがやってきて、いつもの定位置に腰を降ろす。

 彼の腕時計は午前九時を過ぎた頃を指していた。確かに『おはよう』ね。

「昨日さあ、魔王殿で気の合うやつと知りあったんだ。ヨシュアってやつで……」

「地獄の住人嫌いのあなたが? どういう風の吹きまわしよ」

「いや、なんか……友達の女の子にプレゼントしたいけど、何がいいか教えてくれって。オレ、どんなふうに思われてんだろうな」

 ディーンは普段より多弁な物言いで、機嫌もよかった。だけど私は、夢で見たほうの彼を思いだし、赤面してしまう。目を合わせていられない。

「そのひとに聞いてみれば、いいんじゃないの?」

 あからさまに顔を背けると、ディーンは不愉快そうに頬杖をついた。

「なんだよ、感じ悪いな」

「ご、ごめん。私にだって色々あるのよ……」

 自分がシエルになって、あなたに抱かれる夢を見ちゃったの、なんて話せるわけがないでしょ。我ながら勝手だと思いつつ、ディーンの視線をかわす。

 そのくせ、彼が向かいの席にいてくれることに、私は安堵もした。

私の視界にディーンがいて、ディーンの視界に私がいる。それだけで満たされる単純さが、ちょっぴり情けない。

「ところで、さ。杏樹……話があるんだ」

「なぁに? 改まっちゃって」

 ディーンは頬杖をやめ、私を真正面に見据えた。

「オレと付き合ってくれ」

 思いもしなかった告白に度肝を抜かれ、私はトランプをばらまいてしまう。

「ちっ、ちょっと?」

 いくらなんでも唐突すぎた。井戸端会議の流れで出てくる話じゃない。

 私は落ち着くために咳払いをしてから、カジノの喧騒の中、慎重に耳を澄ませた。

「あなた、今、な、なんて言ったの……?」

「だから……交際を申し込んでんだよ」

 ディーンのほうは平然としてる。

 対して、私は顔が真っ赤になるのを抑えられなかった。胸の時計がカチカチカチカチと鳴りまくり、冷静になりたい心情とは裏腹に、浮ついた動揺ばかりが加速する。

「じ、冗談やめてってば。私は人形なのよ? わかってるでしょ」

「わかってる。でも、オレは人形でも構わない」

 ばらしたトランプを集めるに集められず、手が震えた。

 そこにディーンが優しく手を重ね、私を落ち着かせようとする。

「オレは杏樹がいいんだ。愛してる」

 愛なんて大袈裟な言葉が、私の心を一瞬のうちに満たした。それがほかでもない私に向けられていることが、恥ずかしくて、でも嬉しい。

「私と一緒になったって……だめよ、ディーン。子どもだって作れないのに」

 自分自身を否定するのは、彼の気持ちを確かめるため、かもしれない。

「地獄の住人にはさ、種族が違いすぎたって愛しあってるカップルもいるだろ? オレは杏樹とそうなりたいんだ」

「ま、待って! シエルはどうするの? ずっと見てたって……」

 シエルを引き合いに出せば、踏み留まってくれると思った。それでもディーンは蕩けるような瞳で私を見詰め、逃がしてくれない。

「あの子のことは心配してるだけだよ。オレが愛してるのは、杏樹だ」

「愛し、て……」

 もう降参するしかなかった。私は俯き、弱々しい声を精一杯に絞りだす。

「す……少しだけ、考えさせて? た、たぶん、オーケーすると思うんだけど……」

 心臓があったら、絶対に死んじゃってた。代わりの時計でさえ、壊れそうなくらい音を鳴らし続けてるんだもの。

 告白だけ済ませて、ディーンが席を立つ。

「じゃあ今度会った時にでも、返事聞かせて。待ってるからさ」

「う、うん……」

 私はとうとう顔を上げられなかった。

 ディーンに告白された? 私が? 本当に?

 疑問が次から次へと押し寄せてくる。ソリティアの続きどころじゃない。このテーブルに彼が来てから、五分と経っていないのに、私の世界はひっくり返ってしまった。

 それこそ地獄にやってきて、重力が逆さまになったくらいの衝撃。

 熱の引かない頭が、やっと回答を導きだす。

 これで私とディーンは恋人同士?

 人形だからという理由で、ずっと一定の距離を保っていた。憧れこそすれ、いたずらに求めはしなかった。でも今は女性として、心の底から満たされつつある。

 次に会った時、なんて言えばいいのかしら……。

 す、好きよ?

あ……愛してる?

 冷静になるためにもトランプをデッキに戻すけど、また派手にばらまいてしまう。

 私は真っ赤な顔を両手で覆い、熱が引くのを切に願った。

 

 まだ頭がボーッとしてる。

 ディーンに告白されて、不覚にも私は舞いあがってしまっていた。にやにやしないように両手で頬を叩き、気を引き締める。

 お仕事が終わったら、ひとりでカジノの最上階へ。

「お待たせ、エリザ」

「よう来た、アンジュ。……ディーンはどうしたのじゃ?」

 執務室で待っていたエリザが、人形の首を機械みたいに傾げた。

 もちろんシエルに関する情報をディーンに伝えたくない、という意図はあった。でも今はそれ以上に、ディーンと顔を会わせられる度胸がない。

「ち、ちょっと都合がつかなくて」

「まあよい。行くとしようぞ」

 エリザが私を連れて、エレベーターへと逆行する。

「嬉しそうじゃの。よいことでもあったか?」

「そ、そんなところよ」

 私は緩みがちな頬を軽く叩いた。特殊な素材のおかげで表情が豊かだと、かえって困ることもあるのね。

「……ね、ねえ、エリザ。変なこと聞くけど……人間と人形の恋愛って、どう思う?」

 歩きながら、エリザは肩越しに振り向いた。

「素晴らしいことじゃ。恋愛……というわけではないが、わしも地上にいた頃は、人間のおばばと住んでおった。ああいう関係は心地がよい」

「初めて聞いたわ、そんなこと」

「そしてシエルもな。人間と人形っちゅう話については、やつも当事者じゃ」

 その名に私は笑みを消し、今度こそ気を引き締めなおす。

「聞かせてくれるのよね? エリザ」

「ああ。じゃが覚悟せい。そなたはネヲンパークの闇を知ることになろう」

 私たちが乗り込んだエレベーターは、下ではなく、屋上よりさらに上へと上昇した。窮屈なゴンドラが浮きあがり、地獄の夜空へと吸いあげられていく。

 地獄は逆さまになっているから、上に行くほど深い。この空の上には、さらなる地獄の深層があるはずだった。

 いつからか上昇の感覚もなくなり、鬼火たちの星空がぐにゃりと歪む。

 身体中に怖気を感じ、私は思わず目を瞑った。

「……着いたぞ」

 エリザの声が私を揺さぶる。

 恐る恐る目を開けると、視界を橙色に染めあげられた。

大きな建物の中らしく、窓から夕焼け色が差し込んで、充分に明るい。そのあちこちで作りかけの人形が放置され、工具も散乱していた。

 エリザがいやに低い声で呟く。

「ここが人形工房……かつてネヲンパークにあった、人形の工場じゃ」

 見るからに、すでに工場としての機能はなかった。時間に置き去りにでもされたかのように、最後の瞬間を止めたままになっている。

……寂しい場所だわ。

 無性に悲しくなってきた。人形の身体が何かを感じ、泣いているのかも。

「私の身体もここで作られた、ってこと……?」

「その通り。正確には、ここで損傷の少ないボディーを探しての。よもや左腕のスペアがとうとう見つからんとは思わなんだが」

 禁忌に触れることへの罪悪感が、私の背筋をなぞりあげた。それをエリザに語らせようという自分本位を押し通してしまっているのも、悩ましい。

「教えてちょうだい、エリザ。覚悟ならできてるわ」

「うむ……」

 エリザはまだ組みあがっていない人形を、右腕だけで拾いあげた。

「かつて地獄で、人間の魂を人形に入れる、という遊びが流行ったのじゃ。亡者の魂は人形として目覚め、地獄の者どもも持てはやした」

「そんなことしたら、悪霊になっちゃうんじゃ……?」

 地獄で『人形』が禁止されているのは、死者の魂が憑依しやすいからよ。健全な魂でも偽りの身体を手に入れることで、急に暴走してしまうことがある。

「じゃが、当時の住人はそこまで考えとらんかった。生きる人形は増え続け……ネヲンパークで人形を持たぬ者はおらぬほどになった。それを、あやつは許さなかった」

 天井を見上げていたエリザの視線が、床へと落ちた。

「そなたのその髪の持ち主、ヴィレッタよ。やつは人間の魂を弄ぶ真似を嫌うて、人形狩りを敢行したじゃ」

「わ、私の髪のひとが……?」

 ヴィレッタというひとの判断は、たぶん間違ってない。魂を玩具にする行為に制裁を加えたのは、むしろ正しいと思う。でも……そうして虐殺が始まったんだわ。

「シエルは地上から地獄に堕ちてきた、人間のおなごじゃった。闇の精霊に救われ、地獄の重力をものとしてな……人形の両親に育てられたんじゃよ」

 ふたつの点が一本の線で繋がった。

人形狩りと、シエルの狂気。

 私は蒼白になりながら、残酷な真実を解きほぐす。

「人形狩りで両親を殺されて、復讐を……?」

「それだけではない。シエルは己が母親と父親が人形っちゅうことを、壊されるまで知らんかった。バラバラになった両親を目の当たりにして、知ってしもうたんじゃ……」

 残骸を抱えるエリザの右手が、小刻みに震えた。

 地獄の住人が人形に魂を移し、遊んだこと。それをヴィレッタが、殺戮という方法で制裁したこと。そのどれよりも、シエルの狂気は悲しくて、苦しい。

「あやつが狂ったこと、わからんでもない。それでもわしはヴィレッタらとともに、シエルと戦い、やつの魂を第三地獄トロメアまで後退させた」

……その戦いで、ディーンのお爺さんが?」

「デュレンに聞いたか? そう、やつは魔王アスモデウスを再起不能とし、魂らの循環を鈍らせおったのじゃ。人間の年月でいったら、おおよそ十年前……になるかのう」

 胸の時計にちくりと痛みが刺さった。

 ディーンが地獄へと連れてこられた原因も、一部はシエルにある。けど、シエルには地獄に復讐するだけの事情があって、おそらく今も牙を剥いている。

 どこからか人形が持ち込まれて、悪霊騒ぎが続いていたのも、シエルの仕業ね。

 彼女は地獄の深層で『私の身体』に乗り移って、表層まで戻ってきた。……だったら、このあたりも通過してるはず。

「クスクス……」

 あどけない笑い声がした。

 エリザが右腕だけで構え、残骸の山を睨みつける。

「そこにおるんじゃな? シエルよ」

「ずっといたわ。あなたたちが来てから、ずっと。ずーっと……フフフッ!」

 前方にゆらりと青い炎が現れた。それがひとの形を成し、朱鷺宮杏樹を描きあげる。

 夕焼けを浴びることで、金色の髪に赤みが差した。本来は私のものである相貌には、邪な笑みが張りついている。

 ドレスは渋い紫色を基調とし、可憐なフリルをまとっていた。スカートを摘んで恭しく会釈するさまは、貴族令嬢のそれに近い。スラッシュの入ったアームカバーが、フリルの多い恰好にもスタイリッシュな印象を添える。

「久しぶりね、エリザ。それから……お人形さんのアンジュ」

 ステップを踏むだけで、シエルの位置が瞬時に変わった。踊るようにドレスを旋回させながら、私たちの背後にさえ、あっさりとまわり込む。

「後ろじゃ、アンジュ!」

 私とエリザが焦って振り向くも、彼女はもとの位置に戻ってしまった。本当は最初から一歩たりとも動いてなかったのかもしれない。

 懐のトランプに手を伸ばしつつ、私は『自分の肉体』を睨みつけた。

「……ひとつ聞かせて。その身体はどうしたの?」

「あぁ、やっぱりあなたのモノだったのね! 何年か前に堕ちてきたの。おかげでね、しえる、また動けるように……地獄を壊せるようになっちゃったぁ!」

 私の肉体は地獄の深層へと落下し、そこで魂だけのシエルに奪われたらしい。

 エリザが作り物の瞳を強張らせる。

「なんと……あれがアンジュの身体であったか。とうに滅んだものと」

「しえるが拾ってあげたのよ? とっても綺麗で、でも敏感で、しえるが弄ったらすぐ痛くなっちゃう、可哀相なカラダ……キャハハハッ!」

 私の背中を冷たい怖気が襲った。自分の身体を玩具にされている恐怖と、屈辱とがない交ぜになって、奥歯を噛みあわせる。

「私の身体よ。返して」

 私はトランプを三枚まとめて引き抜き、そのカードに電流をまとわせた。

 エリザはドレスの袖を裂いて、戦闘用の『左腕』を振りあげる。それはカマキリの前足ような刃で、敵を刈り取るための形だった。

「ここから人形を持ちだしておったか。これ以上はさせんぞ」

肘に当たる関節が三か所もあり、リーチも長い。

 しかしシエルは眉ひとつ動かさなかった。誘惑的に瞳を細めながら、自らドレスに指を掛け、胸元を少しだけ覗かせる。

「あらあら、だめじゃない、エリザ? アンジュのカラダなのよ、これ」

「ぬぅ……」

 私の肉体は人質となってしまった。これでは私も、エリザも、シエルに攻撃を仕掛けることができない。私のトランプも、繋いだ電流を一旦解く。

「邪魔しないでね? しえる、エリザは壊したりしたくないもの」

 シエルは右手を掲げ、指先から放射状に繰り糸を放った。人形の残骸が一斉に吊りあげられ、ミノムシの群れみたいに並ぶ。

「これからねえ、しえる、お人形さんたちとネヲンパークで遊ぶの!」

 復讐者の笑声はみるみるトーンを高くした。

「遊んで、壊して、遊んで、やっぱり壊して、また遊んで、メチャクチャにして……クスクス、ぜんぶ、ぜぇーんぶ、ぜっえーんぶ! 最後は壊しちゃうんだからあっ!」

 無邪気な声とは裏腹に、狂気めいた憤怒が伝わってくる。人形の肌でもびりびりと感じ取れるほどで、膝の震えは一向に止まらなかった。

 この子、ほんとに狂ってるんだわ。

 私の肉体が相手では攻撃のしようがなく、エリザがじりじりとあとずさる。

「ここで食い止めねばならんというに……」

 でも私が諦めさえすれば、攻撃だってできるはず。

「気にしないで、エリザ。私にはちゃんと、人形の身体があるんだもの」

 私の安易な妥協に、エリザは声を荒らげた。

「投げやりになるでない! そなた、人間の肉体を捨てる気か?」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ? それに……ディーンは、私が人形でもいいって。愛してるって、言ってくれたから」

 本当は私だって、人間の身体を取り戻したい。ディーンとちゃんと愛しあいたい。

 けど彼は、人形の私を『愛してる』と言ったわ。

たとえ永遠に人間の肉体を失うことになって、ディーンにまで辛い思いをさせることになっても、私は彼の言葉を信じたい。恋人として、信じたいの。

シエルが酷薄な笑みを浮かべた。

「ふぅん……だそうよ? 王子様ぁ」

 彼女の繰り糸が足元の次元を貫通し、人形ではないものを引っ張りあげる。

 私は愕然として、はらりとカードを落とした。

「ディ、ディーンっ?」

 手足に糸を巻かれたディーンの凄惨な姿に、目を見開く。

 にもかかわらず、ディーンは笑顔だった。さっき告白してくれた時とまったく同じ表情で、ボイスレコーダーみたいに繰り返す。

「愛してるよ、杏樹。愛してるよ、杏樹。愛してるよ、杏樹……」

 くらっと眩暈に襲われ、私は自分が膝をついたこともわからなかった。嬉しいと感じたはずの言葉が、無味乾燥なものとなって、それきり意味を成さなくなる。

「すごい手品でしょ? しえる、人形じゃなくっても操れちゃうの。この王子様、アスモデウスと神経のパターンも似てたし……クスクスッ!」

 告白されたんじゃなかった。

ディーンはシエルに操られていただけ。

事情を知らないエリザが、私に早く立つように呼びかける。

「ど、どういうことじゃ? アンジュ、敵の前じゃぞ! しっかりせい!」

でも私は真っ青になって、全身を強張らせることしかできなかった。人形なりに掴みかけた幸せを、ないがしろにされ、作り物の瞳に涙さえ滲ませる。

「あ……うぅ……」

悔しい。愛の告白が偽りに過ぎなかったことが。

 ディーンの後頭部に繋がっている糸が切れると、その瞳に生気が戻った。

「……オ、オレは一体? なんだ、ここは?」

 ディーンが一番に真正面の私を見つけ、エリザにも気づく。

「杏樹、エリザ! どうしたんだよ、ふたりして……シ、シエルか?」

 彼は傍らのシエルにも目を見張って、驚いた。

「お、おい? あんた、なんでオレを縛ってるんだよ」

「あら、ごめんなさい。あなたもきっと、攻めるタイプだものね」

 うろたえるディーンの頬を、シエルがあやすようにひと撫でした。途端にディーンの顔色が悪くなり、病的なほど息を乱す。

「か……はあっ」

 女性に触られたせいだわ。呼吸困難に陥って、吐息の代わりに涎を垂らす。

 ディーンはくたっと虚脱し、糸に吊りあげられるままとなった。シエルは容赦なしに彼の上着を開いて、首筋、鎖骨、胸元へと手を這わせていく。

「なぁんだ、このカラダでも触っちゃだめなのね。でも、女の子に失礼じゃない?」

「やめ、てくれ……オ、オレは」

 ディーンを縛りあげている糸を、エリザが鎌で切断しようとした。

「よさんか! そやつは、おなごに触られとうないのじゃ!」

 しかし糸はびくともせず、逆に鎌のほうを雁字搦めにされてしまう。シエルの繰り糸はさらに伸び、エリザの首と右腕まで拘束した。

「ぐっ? お、おのれ……」

「邪魔しないでったら、エリザ。何の話だったかしら……フフッ、そうそう」

 シエルが私の顔で淫靡に微笑む。

「こんなに怯えちゃ、女の子に……ううん、アンジュに失礼よねぇ?」

 はっとして、私も疲れきった顔をあげた。

言いまわしの意図がわからなかったらしいディーンが、拘束の中でも首を傾げる。

「はぁ、あ……杏樹に失礼って、どうぃ……うあっあぁ!」

 シエルの無遠慮な愛撫に耐えかね、その身体は汗だくになっていた。彼女の手つきに恐怖どころか戦慄して、わななく唇が唾液の泡を噛む。

「だって、そうじゃない? このカラダ、ほんとはそっちの子のモノなんだもの」

 ディーンの瞳が、人形のほうの私をまじまじと見詰めた。

「え? 杏樹の身体……?」

「……………」

 私は肯定も否定もできず、唇を噛む。

 シエルの嘲笑がけたたましく響き渡った。

「アハハハハッ! その子はね、お人形さんのくせに、あなたのことが好きなのよ。でも残念ね、人間に戻れたとしても……ディーンはあなたを受け入れないわ」

 彼女の指がうなじをなぞるだけで、ディーンは痙攣さえ起こす。

「あうっ、ぐ……ぃい!」

「あなたが触っても、こんな反応しかしてくれないのよ? 可哀相なアンジュ!」

 目の前が真っ赤になった。屈辱の分だけ激情も勢いを増し、力を漲らせる。

 よくも……よくも! よくもよくもよくも!

 秘めやかな恋心を暴かれ、嘲笑され、憤怒は一気にピークへと達した。私はシエルを睨みつけ、警告のつもりで、そこらじゅうに雷撃をばらまく。

「ディーンから離れなさいよッ!」

 人形の残骸は半数が焼かれ、消し炭になった。

 エリザが声を張りあげる。

「落ち着くのじゃ、アンジュ! やつに乗せられてはならぬ!」

「黙ってられるわけないでしょ? ディーン、すぐに助けてあげるわ!」

 シエルはディーンから離れ、工房の天井近くまで跳躍した。その高さで糸をサーカスのように張り巡らせ、足場にしたうえで、私を冷ややかに見下ろす。

「いいわよ、相手してあげる。クスクス……!」

「雷鳴よ、轟け! 我が叫びの代弁者となり、天に仇なす反逆者を灰燼と化せ!」

 ダイヤの十三枚すべてが、私を中心に旋回を始めた。その軌道が魔方陣の円周となり、青白い電流をのたうたせる。

「よせ、アンジュ! よせと言うに!」

 エリザの制止に構わず、私は最大火力の雷撃を完成させた。

青い稲妻が龍の姿となって、頭上のターゲットに目掛け、咆哮をあげる。

「ライトニングドラグーンッ!」

雷龍はL字の角度で上昇し、暴れるようにシエルに食らいついた。

そのはずが、寸前でシエルを避け、工房の天井を突き破る。

「とんだ素人さんね。こんな簡単な手に引っかかっちゃうなんて……フフフ」

 微弱な電流を帯びた糸で、私のライトニングドラグーンを逸らしたんだわ。電気である以上、より流れやすい方向へと導かれてしまう。

 ライトニングドラグーンは目標を失い、夕焼け空へと放たれた。一直線に駆けあがり、上空のおかしな亀裂にぶつかる。

 シエルは感嘆し、エリザは叫んだ。

「精霊クラスの力なら充分でしょ? さあ、こじ開けなさい!」

「まずい! あっ、あれは地獄の蓋じゃ!」

 怒涛の雷撃が亀裂に大きな負荷を掛ける。茜色の空はガラスみたいに割れた。

青白い雷龍がもがきながら、向こうへと飲み込まれていく。

「……な、ん、なの……?」

 私は半ば呆然自失としながら、その異様な光景を目の当たりにした。地獄の空に穴が空いて……。そこから、悪霊の群れが溢れてきたの。

 かろうじて我を取り戻したディーンも、空を見上げて慄く。

「杏樹……は、早く、逃げろ……っ!」

 黒ずんだ魂の大群が、洪水のごとく流れだした。

彼らの怨恨はさながら合唱となり、鼓膜がない人形の私の耳さえ、震わせる。

 死ニタクナイ、殺シテヤル、許シテ、次ハオ前ダ、殺サナイデ、裏切リ者メ、コノ子ダケハ、アイツノセイデ、モウヤメテ、モット泣ケ、死ネ、娘ヲ返セ、ナンデコンナ目ニ、ミンナ死ンデシマエ、怖イヨ、誰カ母サンヲ、苦シイ、助ケテ――。

「いやあぁああああああああッ!」

 私はおさげごと頭を抱え、蹲った。心を蝕まれるほど真っ黒な恐怖に駆られ、かちかちと歯を鳴らす。人形の瞳なのに、冷たい涙が止まらない。

 絶望的な怨嗟の中で、シエルの笑い声が木霊した。

「アーッハハハハ! アハハハッ! さすが、一度は地獄を傾けた亡者さんたち! 七十年経っても、まだこんなにドス黒いままだなぁんて、アーッハッハッハ!」

 私は慄然とするばかりで、顔も上げられない。身の毛がよだつという感覚を、この身体でも思いだし、蒼白になって震えてしまう。

 エリザが淡々と呟いた。

「そう……七十年前、地獄にさえ混沌をもたらした、忌々しい戦争。あれはすべて、くろがねの世界大戦の犠牲者なのじゃ……」

 かつて地獄さえ飽和させた、戦争の犠牲者たちの怨嗟が無限に響く。

 何も解決できてなかったのよ、きっと。処理しきれない亡者の魂を、地獄の奥底に閉じ込め、蓋をしていたに過ぎない。

 穢れた魂が増えることに地獄のシステムが神経質になっていたのも、このため?

「地獄だけでなく地上までも滅ぼすつもりか、シエル! やめ――」

「うるさいわね、お人形さん」

 反抗を続けるエリザを、シエルの糸が苛烈に絞めあげた。

右腕と首がべきりと折れてしまう。

「エ、エリザっ!」

 私が何もしないまま、できないまま、首と腕のない胴体が倒れた。エリザの頭部が床を転がりつつ、忌々しそうにシエルを睨みあげる。

「おのれ……厄介な糸を繰りおって……」

「大丈夫なの? わ、私……私のせいで、あなたが」

 私は青ざめながら、エリザの頭を拾いあげた。幸い人間のような出血はなく、エリザの意識もはっきりとしている。

「そなたのせいではない。空のヒビも、前に見た時より大きゅうなっとった。やつに破られるのも時間の問題じゃったろうて」

 それでも私のせいに思えた。激情に駆られ、絶望と混沌の蓋を開けてしまったの。引き金を引いたのは、私……。

 ディーンは糸が食い込もうと、前のめりになった。

「逃げてくれ、杏樹! 頼む、あんたまで……あんたまでそうなったら、オレは!」

 私の身を案じ、切に叫んでくれる。

「好きにするといいわ。どこに逃げたって同じでしょうけど、お人形さん」

 シエルが一瞬のうちに降りてきて、ディーンの傍に立った。

「さあ王子様、しえると行きましょ? あなたなら少しは怨霊どもに、言うことを聞かせられるはずよ。クスクスッ、一緒に壊しちゃいましょ、地獄を」

「……うっ?」

 ディーンの後頭部から背中に掛けて、シエルの危険な糸がぷつっと刺さる。

「地獄を潰せば、あなただって地上に帰れるわ。そしたらね、このカラダは、アンジュに返してあげる。……どう? 寂しがり屋の王子様」

「アンジュを、に、人間に……?」

 悪魔の誘惑だわ。

 これに応じるようなら、ディーンはきっと私を『異性として』意識してる。でもシエルの誘いを受け入れてしまったら、地獄は怨霊によって崩壊する。

 エリザの頭を抱きかかえながら、私は必死に叫んだ。

「い……いらないっ! 私は人間の身体なんて、いらないから! ディーン、私のことを考えないで! 同情しないで……お願いよ、ディーン!」

瞳が熱い涙を溢れさせて、人形に過ぎない私の相貌を、虚しく濡らす。

 シエルは今までになく優しい手つきで、ディーンの肌へと触れた。

「ほらぁ、アンジュのカラダだって思ったら、楽でしょ? あの子なら、あなたをもっとあったかくしてくれるわ」

「あ、杏樹が……オレは、かはっ、ぁ、杏樹と……」

 ディーンの瞳が妖しい金色に輝く。

「強情ね。お人形さんのこと、好きなくせに」

 その瞬間、彼に繋がっているすべての糸が千切れた。髪は淡いバーミリオンに染まり、コウモリみたいな一対の、骨張った羽根が背に広がる。

 それはディーン=アスモデウス=カイーナの目覚めだった。

「……ああ、そうだ。オレは地獄が気に入らない。でも、杏樹のことは気に入ってる」

 彼は人間の青年から、魔王の嫡子へと変貌を遂げてしまった。もうシエルに触れられても動じず、眉ひとつ動かさない。

「さあ、王子様? あのお人形から、アンジュの魂を抜いておかなくっちゃ……」

 シエルに唆され、ディーンは冷たい視線で人形の私を見下ろした。

 いつもの優しい目じゃない。私が人形であることを、冷血なまなざしで蔑む。

「来いよ、杏樹。お前がいないと始まらねえだろ」

 夢で聞いた、艶めかしい言葉だった。

 けど私だって、一度はシエルに乗せられ、地獄の蓋を開いてしまったのよ。頭だけのエリザも、私が本当にするべき判断を支えてくれる。

「騙されるでないぞ、アンジュ!」

「……わかってる。あんなの絶対にディーンじゃないもの」

 エリザを抱えつつ、私はエレベーターの手前まであとずさった。しかしエレベーターは歯車が外れ、私たちを乗せることなく落下してしまう。

 もうどこにも逃げられない。

「ディーン! 正気に戻って! あなた、また操られてるのよ!」

 私の声はディーンに届かず、シエルが微笑む。

「クスクス、やあね、アンジュ。しえるはキッカケを与えただけ……ねえ、王子様?」

「オレを爺さんと同じに思うなよ。操られはしない、これはオレの意志だ」

 ディーンはシエルの囁きには即答して、おもむろに鞭を振りあげた。その鞭が三本に分かれ、毒々しい緑色の液体をまとう。

「あれはフラガラッハ……? そなた、それほどまでに力を」

 魔王アスモデウスだけが使える魔具だわ。ありとあらゆる毒を操り、生物だけでなく、無機質を腐食させることも可能らしい。つまりあの毒は、私たち人形にも効く。

対する私たちは丸腰で、カードを切る余裕もなかった。

「……ごめん、エリザ」

 それが私の、最期の一言。せめてエリザだけでも逃がしてあげたいけど、私には愛するディーンと戦う覚悟がなければ、その術もない。

「そなた、ディーンのことを……」 

「うん。好きなの。人形のくせに、いつの間にか、ひっく、好きになっちゃって」

 鞭を振るうディーンの姿が、涙のせいでぼやけていく。

 不意に眩い閃光が弾けた。

 とめどない落雷が怨霊の群れを散らし、人形工房を揺るがす。

「きゃあああっ!」

 悲鳴をあげたのは、シエルのほう。ディーンがひび割れた空を見上げ、吐き捨てる。

「チッ。まだあいつが残ってやがったか」

 大きな影が夕焼け空を駆け抜けてきた。青い電流をまとった巨大なハヤブサが、私の頭上で雄大な翼を広げ、いななく。雷の精霊、そして私の下僕として。

「無事か? マスターよ」

「テスタロッサ?」

 雄叫びとともに、またも稲妻が降り注ぐ。

ディーンたちは咄嗟に魔法障壁を張って、雷撃を凌いだ。

「とんだナイトがいたものね。あなただって、今の地獄は嫌いなんでしょ?」

 挑発的なノエルに目掛けて、テスタロッサがさらに稲妻を放つ。

「我こそはトキミヤ=アンジュの剣なり!」

目を開けていられないほどの稲光が連続した。

 だけど精霊は契約上、マスターの命令なしには戦闘行為を許されない。あくまでシエルらの動きを封じる程度に抑え、もどかしそうに催促する。

「マスターよ、我に命じよ! 汝の肉体まで滅ぼしはせぬ!」

「で、でも……」

 まさか『ディーンと戦え』なんて命令できない。

 それよりもエリザを助けたかった。

「私たちを連れて、逃げて! これが私の命令よ、テスタロッサ!」

「ぬう……承知した」

 テスタロッサが渋りながらも指示に従い、私たちを光で包む。

「待ちやがれ、てめえ! 杏樹は置いていけ!」

 ディーンが激昂し、勢い任せに鞭を振るった。しかしフラガラッハの猛毒は電流で焼かれ、テスタロッサの羽毛にも届かない。

「ゆくぞっ!」

ハヤブサが落雷を瞬発力とし、弓矢のごとく飛翔する。

 私はエリザの頭を抱えつつ、テスタロッサの大きな背にしがみついた。

 

 

 人形工房の下をすり抜け、やがて地獄の表層へと戻ってくる。

 やっぱり精霊には、地獄の階層を行き来できる能力があるんだわ。テスタロッサに乗せてもらえば、地上にだって帰ることができるみたい。

「ディーンを帰してくれてもよかったのに……ケチな精霊ね」

「ふん……魔王の孫が地上に逃げて、解決する問題でもなかろう」

「お利口なペットね、ほんと」

 薄情な下僕の態度に呆れているうち、ネヲンパークの全景が見えてきた。闇夜の中、テーマパークは妖しい霧に覆われ、異様な気配を漂わせてる。

 がらがらと轟音が響いた。北の魔王殿が崩れ、砂塵の中央へと沈んでいく。

ディーンたちの仕業なの……?

 私の腕の中から、エリザもネヲンパークを見下ろした。

「悪霊どもがネヲンパークに充満しとる。あれが見えるか、アンジュよ」

 遊園地の敷地内では、壊れた人形たちが手足をぐちゃぐちゃに繋げ、闊歩していた。道化のように奇抜な衣装を着て、奇声とともに凶器を振りまわす。

 住人の姿は、少なくとも屋外には見当たらなかった。

破壊の形跡はどこにもないわ。それがかえって、私たちの街が人形たちに占領されてしまったことを実感させる。

 テスタロッサはネヲンパークに着陸せず、再び高度をあげた。

「ここには降りられんだろう。あてを探すぞ」

「ええ……お願い」

 その背に乗って、私は銀色のおさげを波打たせる。

 とにかく休める場所がないと……。

ネヲンパークの外には殺風景な荒野が広がり、細長い線路が延々と伸びていた。夜が明けることはないため、ネヲンパークから離れるほど、地面を視認しづらくなる。

これが本来の地獄なのね。死者の魂が堕ちてくるだけの、寂しい世界。

 もう私とエリザ、テスタロッサしか残っていないのかもしれない。

 そんな不安を抱きつつ、私たちは線路に沿って飛んだ。地獄の夜空は風が冷たい。

「どうして私の居場所がわかったの? テスタロッサ」

「汝が魔法を使ったおかげで、正確な位置がわかった。まさか第6サークルを本気で放つとは、我も肝が冷えたぞ。無茶をしたものだな」

「あなたが教えた魔法でしょ」

 ふとエリザが暢気にぼやいた。

「うぅむ……わしの身体の中には、おばばの時計があったんじゃがなぁ」

「地上でお世話になったっていう? ……あっ、だから、地上の時間を知ってたのね」

 あれだけ時間にルーズな支配人が、私と同じ1から12の時計を知っていたなんて、俄かには信じ難い。でも、そんなことが言える彼女の余裕に、私も少し救われた。

「そういえば、私も……日記帳があるのよ」

「あの落書き帳か? 汝は楽器といい、絵といい……」

「勝手に読まないでくれる?」

 テスタロッサのぼやきには腹が立つ。

 しばらく飛ぶと、灯を漏らしながら走っている、長蛇の汽車が見えた。

 でかでかと女性のイラストがペイントされたあれは、デュレン=アスモデウス=カイーナの『悪趣味号』に違いないわ。蒸気を噴きあげ、寂れた地獄を滑走していく。

「テスタロッサ、あそこに降ろして」

「了解した」

 向こうも私たちに気付いたのか、一時的に減速を掛けてくれた。私が飛び移ったら、テスタロッサも青年の姿になって、一緒に三両目に乗り込む。

 汽車の中ではジニアスが迎えてくれた。

「無事だったんだね、アンジュ! 心配してたん……エ、エリザっ?」

 私の腕の中にエリザの頭部を見つけ、うわっと仰天する。

「ジニアスよ、すまんが、身体を用意してくれぬか」

「あ、平気なんだ? びっくりさせないでよ」

 ジニアスはエリザを引き取りつつ、真剣な表情で、ネヲンパークの異変を語った。

「急に雲行きが怪しくなったと思ったら、悪霊の大群が降ってきてさ。整備中だったこいつに乗って、逃げてきたってワケ」

 汽車にはネヲンパークの住人も大勢乗ってる。

「閣下がみんなを乗っけてくれたんだぜ? 危なかったな~」

「あのひとが……?」

 横暴で残忍なデュレンが、これだけの救助活動をしただなんて信じられなかった。でも現に悪趣味号は、急きょ増やしたらしい後続の車両を、持ち前の馬力で牽引してる。

 狭い車内で乗客が左右に分かれ、その人物に道を空けた。髪を三色で染め分けてるひとなんて、私の知る限りではひとりしかいない。

「よお、アンジュ。その有様じゃあ、こっぴどくやられたようだなァ」

「……乗せてくれて、ありがとうございます。閣下」

「てめえは貴重な戦力だからなァ? ケケケ」

 デュレンは瞳をぎょろっと転がし、私ではなく、私の従者を睨みつけた。テスタロッサは対抗せず、関心がなさそうに目を伏せる。

「ここじゃ狭ぇな。先頭まで来い」

「エリザは僕が預かっとくよ。大丈夫、こっちは任せて」

 私たちは車両をふたつ抜け、蒸気機関の手前まで進んだ。腰を降ろし、ひとまず人形の身体を休める。火がくべられているエンジンの周りは、熱気が凄い。

「てめえらに茶はいらねえなァ」

 デュレンの軽蔑的な言いまわしに、テスタロッサが眉を顰めた。

「何を言う。我がマスターは紅茶をご所望だ」

「おれの汽車にはコーラしかねえんだよ」

 この忠実な下僕は、私をお姫様とでも思ってるのかしらね。

 汽車は線路を一直線に駆けていた。方角からして、地獄の中枢機構である万魔殿を目指してるみたい。鬼火たちも同じ方向に逃げていく。

 デュレンが煙草を咥え、火をつけた。

「聞かせろ。何があった?」

「はい。シエルに襲われて……」

 固唾を飲んでから、私はおもむろに口を開く。

 人形工房でシエルの待ち伏せに遭ったこと。そこで地獄の蓋が開き、夥しい数の悪霊が溢れてきたこと。ディーンが魔王として覚醒してしまったことも、正直に打ち明ける。

「我からも話そう。やつはフラガラッハを自在に操っていたぞ」

「オイオイ……うちの魔具じゃねえか。おれでも扱いきれねえってのによォ」

 ネヲンパークの一帯は悪霊で汚染されてしまった。このまま怨念の流出が続けば、いずれ地獄の全土が慟哭で満たされるわ。

 テスタロッサが腕組みを深め、呟く。

「くろがねの世界大戦……あの愚かな戦いが、地獄の理さえ捻じ曲げるとは、な」

 私も学校の歴史で習ったことがあった。今より七十年前、世界中を混沌に陥れた、最初で最後の世界大戦。その戦火は人類の五分の一を死滅させたという。

 戦災者たちの魂は洪水となって地獄に押し寄せた。受けきれなかった地獄は、それを深層へと閉じ込め、封印したんでしょうね。

 そして罪人を更生させるシステムを作りあげ、穢れた魂の絶対量を減らそうとした。

おそらく今の地獄は、黒ずんだ魂があと少し増えるだけでも、パンクする。

「おれたちの平和ボケも大概だったがなァ? 人間どもの魂を使った、タチの悪ィお人形遊びの結果が、シエルの反乱だ」

 ところが地獄の住人は鎮魂を疎かにして、人間の魂を玩具にし始めた。やがて『人形狩り』がおこなわれ、シエルは人形の両親を壊されている。

 かくしてシエルは狂気に目覚め、十年前、魔王アスモデウスを再起不能とした。

 ディーンが地獄へと連れてこられたのが三年前で、私が堕ちてきたのは二年前。事件と悲劇は連綿と続いている。

 私はひとつ、重大な事実を明かさなければならなかった。

「……私の身体が下まで堕ちていたんです。シエルは私の身体を使ってました」

 白状すると、デュレンが片方の眉をあげる。

「んだとォ? なるほどな……しかし本来の身体じゃねぇんなら、やつも前ほどの力は出せねぇだろ。テスタロッサ、てめえなら勝てるか?」

 テスタロッサはデュレンには振り向かず、淡々と自信のほどを述べた。

「シエルの力は未知数だ、断言はできぬ。しかしディーン=アスモデウス=カイーナよりは、我のほうが上だろう……」

私たちにとって、もうディーンは『敵』なの?

デュレンが車窓から上半身を乗りだし、煙草の煙を水平に噴く。

「さっさと蓋を閉じるしかねえ。万魔殿で戦力を整えたら、一気に攻めるぞ」

 その判断はおそらく正しかった。地獄の蓋を閉じないことには、今回の異変は収拾がつきそうにないもの。

ただしそのためにはシエルを、そして彼を倒す必要があった。

「どうしても、ディーンと……戦うんですか?」

 胸の中で密かに、時計の針が軋む。

 汽車も一定のリズムで揺れた。私が黙りこくっている間も、時間は過ぎていく。

「……振っちまうってんなら、殺せばいい」

 弱気になる私を、意外にもデュレンは責めなかった。

 私は目を丸くして、いつだって残酷なだけの男を見上げる。

「振る、って?」

「知らねえよ。とにかくてめえらは、でかい戦力だ。万魔殿に着くまで休んどけ」

 デュレンは窓の外に煙草を捨て、運転席へと戻っていった。汽車が俄かにスピードを上げ、灰色の蒸気を噴きまくる。

 ディーンと戦うってことは、ディーンを諦めるってこと、よね。

 私にできるの……?

 たとえ私がやらなくても、ほかのひとが彼と戦う。それを……見ていられる?

 私は三角座りで小さくなり、膝を抱え込んだ。出て欲しい時に限って、涙は少しも流れてくれない。さっきはシエルたちに傷つけられて、泣いていたはずなのに。

 傍らのテスタロッサが涼しげに私を覗き込む。

「怖れるな。我と汝に敵などない」

「力の問題じゃないの。これは私と……ディーンの問題」

 泣きそうな顔を見られたくなくて、私は頑なに俯いた。戦いが終わるまで、ここで座り込んでいられたら、とさえ思ってしまう。

「戦いたくないのよ」

 自棄になりつつある私を、テスタロッサはいつになく饒舌に励ました。

「我は決して、汝の代理ではない。汝が戦わぬというなら、我も戦わぬ。……だが、汝が戦うというのなら、我は汝の勝利を約束しよう」

 あなたは何もわかってないわ、テスタロッサ。本気で愛してるひとと、本気で戦えるわけないじゃない。私はもうディーンの前に立つことさえ怖いの。

 テスタロッサが初めて、私のおさげに触れる。

「……やはり汝は人間だな。人形ではない」

「ただの人形になりたいわ」

「その感情もまた、人間ゆえのものだ。……眠れ。あやつに会わせよう」

 生意気な下僕に慰められながら、私は瞼の部品を伏せた。

 

 

 闇の中を、電流の閃きが駆け巡る。

 それは回路のような模様となって、足元をぼんやりと浮かびあがらせた。今は目を閉じているのではなく、開いているのを、私は無意識のうちに自覚する。

「怖れることはない。汝の魂とあやつの魂を、チャネリングしてやったに過ぎん」

 テスタロッサの声が聞こえた。

「チャネ、リング……? チャンネルを合わせた、ってこと?」

「汝は理解が早いな。生者に近い魂は、電気信号によるところが大きい。なればこそ、我が力で干渉も可能なのだ」

 私や罪人らのように『まだ生きている』者の魂は、情報としての電気を帯びている。悪霊が家電に障害を起こすのと同じね。だから悪霊退治でも、私の電撃が有効なの。

 自分の身体を見下ろし、私は目を白黒させた。

「……これは?」

 人形だったはずの身体が、人間の肉体に戻っている。髪も銀色のツーサイドアップじゃなくて、実に二年ぶりとなる金色のストレートヘアだった。

留学先の制服まで着てる。

「汝は今、何の器も持たぬ。それは汝の魂が発する、朱鷺宮杏樹という情報だ」

「よくわからないわ。信号だの、情報だの……」

 ここはテスタロッサが用意した特殊な空間であって、眠っている間に、私の魂だけが連れてこられたみたいね。単なる夢にしては、意識も思考もはっきりとしてる。

 じゃあ、顔も戻って……?

 自分の目では確認できない顔を撫でていると、人影が近づいてきた。

 ディーンだわ。ただし髪はバーミリオンに染まって、瞳も妖しい輝きを宿している。

 ここでは本来の容貌になるんでしょ? 現に私は銀髪の人形ではなく、留学生の朱鷺宮杏樹になっている。

けれどもディーンの魂は、魔王アスモデウスの後継者としての風貌を誇っていた。彼にとっての本当の姿が魔王であることに、私は戸惑いを禁じえない。

「ほんとに……あなたなの?」

 彼のほうも驚き、困惑していた。

「もしかして、あんた……シエルじゃなくって、杏樹……なのか?」

 目を強張らせるほど見開いて、本当の私を凝視する。

 私は足首を捻り、その場でくるっと一回転した。金色の髪が流れるように波打つ。

「ご覧の通りよ。二年前は、こんなだったの」

 その金髪は私にとってコンプレックスだった。両親に不仲をもたらし、幼い私に孤独を味わわせた、嫌な色。

「……この髪、あんまり好きじゃないのよ」

あまり見せたくもなくて、せめて毛先だけでも掴んで、隠す。

「本当に杏樹、だったんだな……」

 そんな私のおぼつかない姿に、ディーンの視線は釘付けになっていた。熱いまなざしで見詰めるどころか、まじまじと見惚れ、私を緊張させる。

「いつも一緒にいる杏樹が、あのひとだったなんて。オレは……嬉しいよ」

 甘い言葉を囁かれ、胸がとくんと高鳴った。時計なんかじゃない、血の通った心臓の感覚が、私の気持ちを勝手に盛りあげようとする。

魂が鼓動しているのね。

 ディーンに求められているとわかって、嬉しかった。人間に戻ったら、きっと彼は忌々しいトラウマを振りきって、私を抱き締めてくれるに違いないわ。

 私だって、この両手で彼を抱き締めたい。

 しかし私の脳裏には、ディーンの嘘の告白がこびりついていた。恋愛を半ば諦めていた私に、彼がシエルに操られながらも言ってくれた、あの言葉。

『オレは人形でも構わない』

 あれはシエルが私を苦しめるための嘘だったって、わかってる。それでも私は、人形としての自分と、魔王になりきれない彼との、ありもしない恋に固執してしまっていた。

「ねえ、ディーン。あなた……私のことが好きなの?」

 自惚れじみた女の問いかけに、ディーンが一拍の間を置いて、頷く。

「好きだ。だから、あんたには触れた気がする」

 胸の鼓動がまた跳ねあがった。ディーンのたった一言が、私の感情を荒らす。石を投げ込まれた泉のように、喜びという波紋が広がっていくの。

 愛してもらえて、嬉しかった。ちょっと恥ずかしくもあった。

 でも……彼のほうは人間になった私を受け入れてくれても、私はまだ、魔王になった彼を受け入れられずにいる。

「……私が元の身体に戻れないとしても?」

 ひねくれた女の問いかけに、ディーンは即答した。

「何を言ってるんだ? あんたはもうすぐ、今みたいな人間に戻れるんだ」

 彼の瞳は、人間になった私だけを見てる。

 お人形さんの私を忘れてる。

「オレがお前を人間にしてやる。シエルが信用できないってんなら、オレがあいつをお前の身体から追いだしてやるさ、杏樹」

 ディーンが私の肩に触れようとした。けど、今はお互い身体がないから、ジェスチャーだけの空振りになってしまう。

 彼への想いを募らせた、この二年間、私はずっとお人形さんだった。やっと手を繋げるようになって、ささやかな喜びを知ったばかり。

その二年間を大切な思い出として、日記に仕舞い込んでいるのは、私だけ……?

「早くネヲンパークに来いよ、杏樹。オレと一緒に地上に帰ろう」

ディーンは地獄での時間を捨て去ろうとしていた。彼にとって、地獄での日々は屈辱でしかなかったのよ。軟禁され、魔王の跡継ぎを強要されて。

私との『お人形さんごっこ』も、恥辱の一環だったのかもしれない。

でも、それでも私は、ディーンとの『お人形さんごっこ』が好きだったの。

悪霊退治で泣きそうになったことも。

自慢の手料理を振舞ったことも。

ダンスパーティーで初めて手を取りあったことも。

すべては、そう、愛する彼と一緒だったから。

「もういつでも帰れるんだぜ、地上に。今度はちゃんとアビスゲートも繋がった」

「あなた……そんなに地獄が嫌い?」

 せっかちな魔王を見据えながら、私は人間の口を開いた。

「シエルのせいで地獄はメチャクチャなのよ。下のほうから悪霊が溢れて、このままじゃ上のほうだって、いっぱいになっちゃうわ」

「関係ねえよ。オレたちが地上に出たら、まとめて蓋をしちまえばいい」

 ところがディーンはつまらなさそうに吐き捨てる。

「……ほ、本気で言ってるの?」

 私は血の気が引くほど青ざめ、耳を疑った。

 くろがねの世界大戦の戦死者たちは、七十年が経った今も地獄を圧迫している。地獄が罪人を生きているうちに更生させるのも、これ以上は穢れを許容できないからよ。

 戦死者の怨念が上層まで充満したら、ほかの無垢な魂もすべて汚染されてしまうわ。カウントダウンはもう始まっている。

「地上のみんなも、死んで地獄に行ったら、巻き込まれるのよ?」

「それくらい、あとでどうにでもなる。ついでに地獄も滅ぼせるんだ、いいだろ」

 ディーンは軽い興奮状態に陥っていた。赤い髪が燃えるように揺らめく。

「死んだやつらに振りまわされて、たまるか」

 死者をないがしろにする心のない一言が、私の嫌悪感を逆撫でした。ディーンがずっと魔王の跡継ぎを拒んでいた、本当の理由を察し、一度は疑う。

「あなた、もしかして……単に魂を慰めるのが嫌、ってだけじゃないの……?」

 ディーンの顔色が変わった。図星を突かれた驚きと、本心を見透かされた戸惑いが、ありありと表情に浮かぶ。やっぱりこいつは嘘がつけない。

「そ、そういうのじゃねえ!」

 彼を貶めるつもりはなかったのに、ディーンは過敏なほど苛立った。

「あれだよ、デュレンの言いなりになるのが癪で……」

まるで母親に悪戯を知られた子どもみたいに、なりふり構わず、荒々しい。その態度がかえって余計に嘘を証明している。

「魂の罪を裁くことも、したくなかったのね」

「うるさいっ!」

 後ろめたい本心を暴かれ、ディーンは声を荒らげた。

 私は一歩後ろにさがって、大きな息を吐く。

「私だって嫌よ? 悪霊退治なんてウンザリだし、罪人を裁くなんて、もっと御免だわ。あなたが嫌なら、私も一緒に嫌がってあげる。だから格好つけようとしないで」

「か、格好つけてなんか……」

 ディーンは言い返さず、おそらく言い返せず、唇を噛んだ。

「どうしてだよ、杏樹? その姿のせいなのか? これじゃ、まるで別人じゃないか」

「私を着飾るだけのお人形さんとでも思ってたの? ほら、嫌な女でしょ」

 私は人間の顔に自嘲を浮かべる。

 彼が一目惚れしたという人間の私と、彼が惹かれたという人形の私。同一人物であるにもかかわらず、そのふたつは合わさることがなかった。

私の人格が人間の姿でいても、ディーンはさっきのように見詰めてくれない。俯くどころか膝をつき、両手で頭を抱え込む。

「なんだってんだよ、あんたは……?」

「お願い、ディーン、もとのあなたに戻って? 人間の身体なんて、私はいいの。いつものあなたとトランプでもしていられるなら、それで……私は充分だから」

「あんただって、人形ってこと、ずっと気にしてたじゃないか」

 驚いて顔をあげる彼に対し、私はしれっと言ってのけた。

「知らないわ。そんなこと」

本当は……人間に戻ってディーンと結ばれたい。抱き締めたい。抱き締められたい。そんな欲求が私を駆り立て、本音と建前を葛藤させる。

 しかし私は、自分でも呆れるくらい嘘が上手かった。

「あなたの人形でいさせて、ディーン」

 きっと、すべてが嘘じゃないから。お人形さんとしてディーンの傍にいることも、私は心の底から望んでいる。

 ディーンは愕然として唇をわななかせた。

「何が気に入らないんだよ、杏樹? 人間に戻って、地上に帰って……そんなに地獄が大事だっていうのか? オレを散々苦しめやがった、この地獄が!」

「ここはもう私の故郷なの。地上に行くなら、シエルと行けばいいじゃない」

「バカ言うな! 地獄はじきに悪霊で満たされちまうんだ、脱出するしかないだろ!」

 何もかも見捨てて愛の逃避行に洒落込めるほど、私は愚かじゃない。

 彼の言う通り、地獄は危険な状態にあった。私にとっては人間の身体を取り戻す、千載一遇のチャンスも重なっている。

だけど、エリザやジニアスらを見捨てることなんてできない。あのデュレンでさえ、ネヲンパークの人々を見限らなかったのよ。

 私はデュレンばりに、あえて下品な言いまわしを選んだ。

「身体をやるからついてこい、って? デュレンがあなたにやったことと同じね。女の子で遊ばせてやるから魔王になれ、っていうのと」

「あ、あいつと同じにするな! オレは」

「同じよ。私が食いつくしかない餌をぶらさげて、言うこと聞かせようとしてる」

 私とディーンの間に亀裂が入る。

 ディーンの瞳が狂気を深めた。憤怒の形相を浮かべ、賢しい女の私を睨む。

「……もういい。だったら力ずくで人間に戻してやるだけだ。人間に戻ったら、あんたもそんなこと言えなくなるだろうしな。人間にさえ戻せば……」

 緊迫感に息を飲みながら、私も睨み返した。

「私を人間にしたって、あなたはこうして嫌な女と、また会うだけよ」

「違う! オレが愛してる杏樹は、優しい杏樹は……お前なんかじゃないッ!」

 視界のあちこちで電流が弾け、ショートを起こす。

 

 

 私は汽車の中で腰を降ろし、テスタロッサの肩にもたれかかっていた。

すぐ傍では蒸気機関がごうごうと唸っている。

「……目が覚めたか、マスターよ」

 テスタロッサが私の髪らしい人形のおさげを、ひと撫でした。

 煌びやかだったブロンドは、落ち着いた色合いの銀髪に戻ってる。今だと、こっちのほうがしっくりくるわね。身体も人形になっている。

「テスタロッサ、さっきの聞いてたの?」

「うむ。あれでよかったのか?」

 私は寝る前と同じ三角座りの姿勢になった。

「いいのよ、あれで。ディーンだって、魔王の力でおかしくなってるだけでしょ?」

「全部が全部そうではない。だが、魔王に目覚めたことで、少なからず己の精神に歯止めが利かなくなっていよう」

 所詮、私とディーンは人形と人間。結ばれることはない。

 だったら私が人間になればいい? ディーンと対等になって、結ばれる?

 でも今は地獄の崩壊が迫っていて、彼はそれを見限ろうとしていた。さらには地獄に悪霊を閉じ込め、地上から隔離しようとまでしてる。

 そうすれば、一時的に地上は無事でいられるかもしれない。しかし私たちが寿命を全うし、再び地獄へと堕ちてきた時、そこに死者を慰めてくれる者はひとりもいないわ。

 いずれ私たちも悪霊となって、永久に苦しむことになる。

 ……ディーンを止めなくちゃ。

 シエルもね。たとえ私の身体を殺すことになっても。

「テスタロッサ、力を貸して」

「無論だ。我の意志と力は、常に汝とともにある」 

 私の意志は決まった。

人間には戻らない。温かい地獄を守るために。

そして、胸の時計さえときめかせる、ディーンへの想いを大事にしたいから。

「半殺しにしてから説得すればよかろう」

「……酷い名案ね、それ」

 お願い、ディーン。

 

 私のことが好きなら、お人形さんでも愛して。

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