お人形が見た夢

ACT.5   THE JOKER

 地獄の中枢・万魔殿にて、悪趣味号は突撃仕様への改修を終えた。私たちを乗せて、いよいよ出発する。目的地はシエルによって占拠された、ネヲンパーク。

私は寝台つきの車両で部屋を借り、穴の空いてるストッキングを剥がした。

「見ないでよ、テスタロッサ」

「我をなんだと思ってる? 下賤な輩と同じにするな」

テスタロッサは外に追いだして、見張りのついでに待たせてる。

悪趣味号にディーラー服のスペアがあったのは、運がよかった。いつもはカジノ風の車両もあるみたい。私は破れかかっていたほうを脱ぎ、新品を手に取る。

白のブラウスと、黒のタイトスカート。仕上げに襟元で蝶ネクタイを締めれば、カジノのディーラーらしい風貌になったわ。

 人形の髪型は固定だから、子どもっぽいツーサイドアップは変えようがない。

「お待たせ、テスタロッサ」

 着替えを済ませてから出ると、テスタロッサは露骨に顔を顰めた。私のディーラースタイルが気に入らないらしい。

「汝は我がマスターなのだぞ? もっと風格や品格が感じられるドレスを、だな……」

「うるさいわね。あなた、私のパパでも気取ってるの?」

 反論しつつ、私は久しぶりに両親のことを思いだした。娘が急に行方不明になって、心配してくれたのだろうか。伯母さんは泣いちゃったかもしれない。

「……ディーンのご両親はどうしてるんでしょうね」

「我の知ることではないな」

 一般車両はすでにほとんどの座席が埋まっていた。狼人間やら、定番の骸骨やらが混在しつつ、ネヲンパークへの到着を待っている。

 そもそも私が巻き込んでるってこと、みんなは知らなかった。正直に話したいけど、デュレンに『戦いが終わるまで黙ってろ』と口止めされてる。

それに私自身、ディーンとの決着に固執していた。誰にも邪魔されず、彼と戦いたがって、わざわざデュレンに作戦上の許可まで貰ってる。

地獄の存亡が掛かってるのにね。

作戦の目標は第一に、怨念を無限に吐き続けている地獄の穴を塞ぐこと。

第二にシエル、ディーンのふたりを無力化すること。ディーンはシエルに操られているわけじゃないけど、対象に数えられていた。

私は後者の作戦に参加し、デュレンとともに先陣を切るつもり。

待ってて、ディーン。今行くわ。

 かくして汽車はゆく。

おぞましい怨念で溢れ返る、阿鼻叫喚のテーマパークへと。

 

 

 昨夜の雨はまだやまず、今朝になっても降っていた。私はビニール傘を畳みつつ、いつもと同じバスに早足で乗り込む。

もうすっかり梅雨ね。降ったり、やんだり。おかげで先週は、バスの中でお気に入りの傘を忘れてしまい、安物のビニール傘を使う羽目になっている。

ビニール傘でも、最初の一回や二回は問題ないわ。だけど使い続けていると、どんどん張りがなくなって、骨も外れやすくなる。

 だからこそ思いきって、ちょっといい傘を買ったのに。

「あ、あの……」

 ごわごわのビニール傘に無理やりバンドを巻いていると、声を掛けられた。

少し年下の男の子、かな。留学先で黒い髪のひとを見るのは、旅行者以外では初めてかもしれない。身長は私より五センチほど低かった。

 彼がおどおどしつつ、見覚えのある傘を私に差しだしてくる。

「これ。先週、忘れてなかった?」

「あ、ありがとう!」

 嬉しい誤算に私は声を弾ませた。これでビニール傘を騙し騙し使わずに済む。

 ところが、彼はほかに傘を持っていなかった。ここまで私の傘を差してきたらしい。

「じゃあ、あなたにはこっちをあげるわ。傘、ないんでしょ?」

「えっ? あ……そ、そっか」

 男の子はかあっと赤面した。手持ちの傘がなくなることに、やっと気づいたのね。もじもじと格好のつかない様子が、なんだか可愛くて、気持ちが穏やかになる。

 私たちは傘を交換し、ついでに並んで立った。

「このバス、使ってるの?」

「う、うん。あの……割といつも、一緒なんだけど」

「ほんとに? ごめん、知らなかったわ」

 女子校に通ってるから、男の子とお話するなんて、いつ以来だか。

二言三言と話すうち、ハイスクールの校舎が見えてきた。

「それじゃ、またね」

 ほかのお客さんに混じって、私は先に降りる。

 小振りになってきた雨の中、バスは彼を乗せ、次のバス停へと向かった。一週間ぶりの傘を広げてから、私は彼の名前を聞きそびれてしまったことに、はっとする。

「……別にいっか。明日もまたバスで会えるでしょうし」

 だけど次の日から、男の子は姿を消した。

 

 

 闇夜に満たされた地獄の荒野を、デュレンの悪趣味号が突っきっていく。

 いよいよネヲンパークが近くなり、全員が戦闘体勢に入った。車内放送でジニアスの声がけたたましく響く。

「えー、この汽車ですが、止まりません! このままネヲンパークに突っ込みます!」

 汽車はむしろ加速し、勢いよく蒸気を噴きあげた。減速なんかしていたら、集中攻撃のいい的だもの。私たちは姿勢を低くして、衝撃に備える。

 先頭車両が人形の群れに突っ込んだ。

前の車両から順に跳ね、車輪がレールを踏み外す。車体はぐらぐらと揺れ、一度は横転さえしそうになった。

「行きましょう、テスタロッサ!」

「承知した!」

 忠実な下僕とともに私は窓から飛びだす。

 先にテスタロッサが地面を削るように着地し、すかさず私を受け止めた。

「マスターよ、カジノのほうだ。やつらの気配を感じる」

「魔王殿はもう崩れちゃってるものね」

 ネヲンパークは濃霧に覆われ、ネオンの光と人形の眼光の見分けがつかなかった。建物の陰からいきなり刃物が伸び、私たちを狙ってくる。

 強引に走り続ける汽車から、ネオンパークの悪魔たちも続々と躍り出た。

万魔殿の精鋭も加えた一団が、人形の群れと真っ向から激突する。

「走りなさい、クラトス!」

 一匹の狼が横殴りの旋風をまとい、敵陣の真っ只中を我先に突破した。ほかのメンバーもあとから続き、敵と戦線を押しあいへしあいする。

 デュレン=アスモデウス=カイーナは悪魔の翼を広げ、私の頭上を滑空した。

「おれについて来い、アンジュ! ディーンに会うんだろ」

「もちろんよ! テスタロッサ、一緒に飛んで!」

 テスタロッサがハヤブサとなって、私の背中と一体化する。その翼は私の背丈に相応しいサイズとなり、軽やかに風を切った。

 空中を先行するデュレンが、眼下の人形たちに火炎を投げつける。

「アンジュ、てめえは怨念をやれ! 散らすだけでいい!」

 戦死者たちの死霊はネヲンパークの上空に集まり、大波を打っていた。電気信号に酷似している霊体には、私たちの雷撃のほうが効く。

「サンダーストームッ!」

 稲妻の嵐が巻き起こり、進行上の怨念を一時的に蹴散らした。

 私の翼になっているテスタロッサが、思念波とやらで語りかけてくる。

「手加減はいらんぞ、アンジュ。第4サークル程度で片づく量でもあるまい」

「カードが足りないのよ! あなたも知ってるでしょ?」

 背中の翼と言い争ってると、真下から炎の龍と、さらに氷の龍まで咆哮をあげた。

「デュレン、ひとつ貸しだぞ!」

「あとでご馳走、期待してますから!」

 赤と青、二色の細長い龍が身を絡ませながら、怨念を食い破っていく。

 おかげで前方が大きく開けた。私はテスタロッサの翼をはためかせて、デュレンを追い抜くくらいのスピードでカジノを目指す。

「オイオイ、調子に乗ってんじゃねぇぞ? アンジュ」

「調子にでも乗らないと、ここから先は戦えませんってば、閣下!」

 ところが、街の中を強引に進んでいたはずの汽車が、急に減速した。カジノまで届くことなく、蒸気を噴くだけ噴き、とうとう停止する。

 それを掴むことで抑え込んでいるのは、巨大な『右手』だった。

デュレンがひらりと後転し、舌打ちする。

「親父ィ……」

 地中から線路を突き破って、悪魔の巨体が姿を現した。背面のフォルムは蠍のようだけど、ひとの形に近い。その瞳は真っ赤な狂気で満たされていた。

 あちこちにシエルの糸が繋がってる。

「あれがディーンのお爺さん?」

 魔王アスモデウスは変わり果て、息子のデュレンにさえ牙を剥いた。雄叫びだけでも砲撃となり、上空のデュレンや私を撃ち落とそうとする。

「暴れる分には全然元気じゃねえか、あのジジイ」

「ど、どうするんですか?」

 さすがにディーンの祖父に反撃はできなかった。シエルに操られているだけで、倒すべき本当の敵は、ほかにいるもの。

 アスモデウスが大魔法の詠唱を始める。

「いかん! マスターよ、第7サークルが来るぞ、早く止めるのだ!」

「止めろったって……かわすんじゃだめなの?」

「あれをかわせるものか! 何でもいい、妨害しろ! デュレン、貴様もだ!」

 珍しくテスタロッサが狼狽した。それだけで、アスモデウスの大魔法が絶望的に危険であることがわかる。

 デュレンが忌々しそうに唇を噛んだ。

「チッ! 魔力だけは現役のままじゃねえか……」

 アスモデウスは声高らかに詠唱を続ける。

 しかし魔王の大魔法は、不意の衝撃によって詠唱を中断した。アスモデウスの懐で、悪趣味号が再び蒸気を噴きあげ、がむしゃらに前進を試みる。

「モードチェンジ!」

 煙突つきの先頭車両が浮きあがった。蛇が鎌首をもたげるかのように、後続の車両がそれを支える。私もデュレンも、その機構に目を点にした。

「まさか? 閣下、あれって」

「おれに聞くな。あのバカ、おれの汽車に……」

 悪趣味号がものの見事に『変形』し、肥えたフォルムのロボットになる。

 車内放送のスピーカーが外に向けられた。

「アンジュ、デュレン! こやつはわしとジニアスに任せておけい!」

 キーンと耳障りなハウリングとともに、エリザの声が響き渡る。

悪趣味号にはエリザの意志が反映されていた。何であれ、糸一本で『自分の身体』にできる、エリザならではの戦法ね。

狸みたいな寸胴のロボットが、両目をビコンと光らせる。

 ロボットには脚がないものの、底面に車輪を並べ、機動力を確保していた。背面のバーニアが一斉に点火すると、天辺の煙突が煙を噴く。

その勢いが推進力となって加速をつけた。

「ゆくぞ、ジニアス!」

「出力97パーセント、攻撃目標……魔王アスモデウスっ!」

悪趣味号がジャバラ状の剛腕を振りあげ、魔王アスモデウスに手押し相撲を挑む。

 相手を捕まえたうえで、さらにすべての砲門が開いた。

「ネヲンパークは返してもらうぞ!」

 雨あられの弾丸が、至近距離からアスモデウスに殺到する。

「今のうちだ、マスター! あれほどの威力なら、魔王とて大魔法など放てまい」

「エリザ、ジニアス、ここは頼んだわ! 無茶だけはしないでね!」

 私はテスタロッサの翼とともに風に乗って、ジェットコースターのような軌道でカジノに急行した。すぐ後ろをデュレンも悪魔の羽根で追ってくる。

「……あんな改造、聞いてねえぞ。趣味が悪すぎるぜ」

「あなたが言うんですか?」

 エリザらの協力の甲斐あって、私たちは無傷でカジノへと到着した。屋上から侵入し、自力でエレベーターの通り道を駆け降りる。

 そのはずが、ゴンドラを運ぶガイドレールも歯車もなかった。真っ暗な空間が延々と広がっているだけで、テスタロッサの雷撃を灯にしても、底が見えない。

「こいつはアビスゲートだな。あいつら、地獄と地上を繋いじまいやがった」

「アビスゲート……私が二年前、飲み込まれた……?」

 今より二年前、すでに地獄で軟禁されていたディーンは、アビスゲートを用いて地上に帰ろうとした。しかし制御できず、地上から私を地獄に堕とすだけに終わった。

 アビスゲートに落ちた時、暗闇の中で一瞬、誰かとすれ違ったのを憶えている。あれがディーンだったのかもしれない。

 それが今、アビスゲートを通って地上を目指してるなんて……。

「さっさと閉じちまえばいいのに、開けっ放しとはなァ。あの野郎、よっぽどてめえを連れていきてぇようだぜェ?」

「……愛が重いです」

「ケケケッ! ディーンを取り戻そうっていう、てめえもなァ」

 デュレンとともに、底の見えない大穴を降りていく。

 不意に平衡感覚が狂った。

「きゃああっ?」

上下が逆さまになった私の腕を、デュレンが掴む。

「てめえにとっちゃ、もとの重力に戻るだけのことだ。落ち着きやがれ」

「は、はい。……もう大丈夫です」

 重力が反転してからは、テスタロッサの翼で真上に針路を取った。地上は近い。

 デュレンの双眸はおそらく私よりも正確に終点を見据えている。

「あの野郎が地上に出るのはまずいぜ。並の人間にゃ、魔王の力に耐えられねえ。だからやつの母親も、ディーンを地獄送りにすることには賛成したんだしなァ」

 考えもしなかった真相に私はぎくりとした。

「それじゃ……ひょっとして、ディーンを軟禁したのも?」

「半分は、な」

 もしかするとディーンは、デュレンに言葉通りの意味で『保護』されていたのかもしれない。またひとつデュレンへのわだかまりが解けていく。

「ディーンのやつに会ったら、とにかく時間を稼げ。おれたちの目的は、何より下の穴を塞ぐことだからなァ」

「塞げますか? あの穴……」

 蓋を開いてしまったのは私だけに、気がかりだった。

そんな私の不安を、デュレンの甲高い笑い声が一蹴する。

「その道のプロってのがいるんだよ。いいから、てめえはディーンとやりな」

 私たちはディーンとシエルを追って、進み続けるのが正しいらしい。

 しかしアビスゲートの中にも人形の群れが潜んでいた。どこからともなく刃物が現れ、俊敏な動きで私を狙ってくる。

 その合間からピエロの人形も現れ、チェーンソーを唸らせた。ケタケタと笑いながら、アビスゲートの闇に紛れ、私たちを取り囲む。

 デュレンがごきごきと拳を鳴らした。

「まさか、おれがてめえのお守りになっちまうとはなァ……いいぜ? てめえらはさっさと行きな。ディーンを引っ叩いてやりてぇんだろォ?」

 スピードを落とし、意図的に敵の注意を引きつけてくれる。

 このひとをもう敵視できなかった。

「ありがとうございます。……お願いします!」

「おれの分は残しておけよォ!」

 私とテスタロッサのコンビは敵の刃物をかいくぐり、風のように先を急ぐ。

「カードが足らん分は、我がフォローしよう。飛ぶくらいしかできなくなるがな」

「あとは私次第ってことね。任せて」

 禍々しい気配にどんどん近づいてきた。もうすぐディーンに会える。

 

 お人形さんを大切にしてくれた、心弱くも優しいあなた。

 お人形さんにとって、あなたは世界の中心だった。

 でも今、あなたは、お人形さんの小さな世界を壊そうとしてる。

本物の私を手に入れ、抱き締めるために。

 じゃあ、このお人形さんは偽物?

 この気持ちが偽物だなんて、言わせないわ。

 お人形さんにだって、あるのよ。こころってやつ。

 

アビスゲートの終点は、妖艶な雰囲気のダンスホールだった。ミラーボールがきらきらと回転し、薄暗い空間に魚群のような光の模様を泳がせている。

ステージの後ろは壁一面の大きなスクリーンとなっており、舞台の上には逆光が差していた。人物はシルエット程度にしか見えない。

だからこそ、後ろのスクリーンがその淫靡な光景を鮮明に曝けだしていた。

悪魔の美少女らがポールにしがみつき、切なそうに身をくねらせる。

「はやくぅ、ディーン様ぁ……もお、ガマンできないのぉ……」

「もっとご覧になってえ? わたひの、ダンスぅ」

いつかデュレンの指示でディーンを篭絡しようした、女の子のグループだわ。敏感そうに震えながら、ポールに頬擦りして、呂律もまわらない調子で囁く。

胸が零れそうなくらい大胆な格好で。

「な、なんなの……?」

 ぞっと嫌悪感が込みあげた。

 スクリーンには彼女らの悩ましい表情と、汗だくの胸元、弾む全身が順々に映しだされる。扇情的かつ躍動的なポールダンスは、甲高い嬌声を競うように響かせた。

 ステージの斜め前方にはテーブルとソファーが設けられ、宴の主が寛いでいる。

「アンジュが来たわよ、ディーン」

 シエルはソファーの後ろから、宴の主催者らしいディーンに抱きついていた。私の身体で、両腕をディーンの首筋に巻きつけ、抱擁を深める。

「……待ってたぜ、杏樹」

 新たな魔王がおもむろに顔をあげた。

上半身をほとんど露出させたスタイルで、ミラーボールの光の波を浴びている。右足と左足にはそれぞれ、ひとりずつ女の子を侍らせていた。

これがきっと、デュレンが最初に作りあげようとしていた魔王の姿なのね。

 彼をそんなふうに変貌させたシエルが、したり顔で微笑む。

「もうちょっとだけ待ってくれる? アンジュ。しえるにはまだカラダが必要なの」

 ここで自分の身体に固執したら、ディーンを止めるどころじゃなかった。私は人形の身体で銀色のおさげを波打たせて、シエルを睨む。

「ディーンに触らないで」

 私の嫉妬を煽るかのように、シエルがディーンの胸肌をわざとらしく撫でた。

「あらぁ? あなたが触ってるのと同じことでしょ、クスクス」

「杏樹の魂さえ回収できりゃいい。その人形を壊してな」

ディーンも拒絶しない。

 それがシエルの挑発とはいえ、頭に血が昇った。

「触らないでって言ったのよ、シエル!」

 私の怒号に呼応し、トランプが周囲に浮かんで、旋回を始める。

 ダイヤのカードが欠けていようと、テスタロッサによって魔力は極限まで高まった。青白い電流があちこちでショートし、火花を散らす。

「マスターよ、シエルの糸は我に任せろ!」

「お願い! 行くわよ、ディーン!」

 私が駆けだすと、ディーンも三本でひとつの鞭、フラガラッハを振りあげた。足元の女の子らを蹴りのけ、その鞭で私に狙いをつける。

「そんな身体、すぐに壊してやる! 好きに暴れろ、フラガラッハ!」

 こちらもハート、スペード、クラブのカードを剣の形に並べ、数を合わせた。猛毒を三方向から織り交ぜてくるフラガラッハを、三本のソードで凌ぐ。

「簡単に壊されたりしないわ!」

「チッ、テスタロッサめ、また邪魔を……」

 ディーンの背後からシエルが跳躍し、天井のミラーボールにぶらさがった。そこから繰り糸を放ち、私ではなく、悪魔の美少女らを狙う。

「そこまでよ、アンジュ! この子たちがバラバラになっちゃっても……?」

「そうはさせないっ!」

 私はディーンの鞭をくぐり抜け、ダンスホールの中央で、三本のソードを同時に床へと突き立てた。電流が走るとともに魔方陣が浮かびあがり、蒼い輝きを放つ。

 竜巻じみた勢いで雷撃がスパークした。

「ぐっ! 杏樹のやつ、ムチャクチャしやがって!」

「キャハハ! すごい、すごぉい!」

天井の崩落をかわしながら、ディーンもシエルもダンスホールから外に飛びだす。

テスタロッサが張った魔法障壁の下で、女の子たちは失神していた。

「助かったわ、テスタロッサ」

「汝の指示に従ったまでだ。本番はこれからだぞ」

 私の『彼女らを傷つけたくない』『手加減したい』という願いを、テスタロッサは絶妙なさじ加減で実現してくれた。これならディーンとも戦えるわ。

 私は翼を広げ、穴の空いた天井から、地上の夜空へと舞いあがる。

二年ぶりとなる本物の夜空では、赤みがかった満月が輝いていた。星は少ないけど、街のネオンは眩しいくらい。荘厳な時計塔が長針を動かす。

私の留学先だった。二年前と変わっていない夜の街並みを、上空から見下ろす。

ディーンが悪魔の羽根を広げ、時計塔の天辺まで軽々と飛翔した。

「どうだ? 人間に戻りたくなっただろ?」

「……そうね。ここで暮らしてたの、今では夢みたいに思うわ」

私も同じ高度まであがり、十メートルほどの間隔を空け、彼と睨みあう。

ほかにひとの気配はなかった。地獄の瘴気が溢れているせいで、抵抗力のない人間たちは深く眠り、悪夢にうなされてる。

翼を持たないシエルが、大時計の短針に糸を引っかけた。振り子のように勢いをつけ、私たちのさらに上まで跳ぶ。

「アーッハッハッハ! 最高だわ! 地上の空なのよ、アハハハハッ!」

 墜落でもしたら、肉体を失うのは私よ。しかし彼女は私の都合などお構いなしに、糸を張り巡らせて、危なっかしい空中遊泳を楽しんだ。

 ディーンが鞭に毒素を循環させながら、素手で引き絞る。

「邪魔をするなよ、シエル。杏樹には、オレがわからせてやるっ!」

「わからせてあげるのは、私のほうよ!」

私もトランプの剣を合流させた。周囲で三本のソードがバトンのように回転しつつ、高圧の電流を繋ぎあわせる。

いつシエルが割り込んでくるとも知れなかった。だけどこっちにだって、テスタロッサがいるわ。数のうえでは決して不利じゃない。

「クスクス……じゃあ、しえるがね、合図してあげる!」

 シエルが満月に向けて、カジノのコインを投げた。その一枚が放物線を描き、時計塔の天辺へと落ちてきて、乾いた音を放つ。

「決めるわよ、テスタロッサ!」

「そんな人形はもう必要ないんだ! 杏樹っ!」

 私とディーンは同時に武器を振りあげ、真っ向から激突した。螺旋階段の軌道で時計塔の周りを急降下しては、急上昇しつつ、すれ違いざまに攻撃を交える。

 フラガラッハの猛毒に触れれば、人形とて朽ち果てるわ。そのために私は間合いを余計に取り、攻撃のチャンスをふいにしてしまう。

「あの鞭が厄介ね。テスタロッサ、何とかできないの?」

「マスターよ、臆するな! 直接ディーンを狙え!」 

 私の剣には優柔不断もつきまとった。

 ディーンが魔王として覚醒し、ちょっとやそっとで死なないとわかっていても、二の足を踏む。テスタロッサが加減をつけてくれるとはいえ、全力になりきれない。

 相手はやっぱり……ディーンなんだもの。

 一方で、ディーンは私を『壊す』ことを躊躇しなかった。三本の鞭を毒々しい色で燃えあがらせ、私のボディーを砕こうとする。

「抵抗するんじゃない、杏樹!」

「するに決まってるでしょ! あなた、ほんとに私のこと好きなの?」

 幸い空を飛ぶのは、ディーンよりもテスタロッサのほうが格段に慣れていた。ハヤブサならではの加速で夜風を切り、頭上からの急角度で、私をディーンの懐へと放り込む。

 一時的に翼が外れたことで、私の身体は彼の鞭をすり抜けた。

「なっ?」

「そっちこそ、もうやめなさいっ!」

 私はディーンに肉薄し、平手打ちを放つ。

 それは電撃さえ伴い、彼の横っ面を強烈に引っ叩いた。ディーンが夜空を蛇行しつつ、時計塔の屋根へと落ちていく。

 同じく落下を始めた私のほうは、テスタロッサの翼が拾いあげてくれた。

「ど、どう? はあっ、思いきりブン殴ってやったわ」

 一瞬たりとも気の抜けない激戦に、人形の身体でも息を切らせる。

 ディーンは唇から一筋の血を流しつつ、上空の私に向かって構えを取った。だけどフラガラッハを握る手に力が入っておらず、毒の炎も小さい。

「杏樹……あんた、なんでこんなに戦うのが上手いんだ……?」

 さっきの平手打ちが封印を張って、ディーンの魔力を抑制しているはず。これでディーンは思うように魔法を撃てないし、フラガラッハも操れないわ。

 その攻防の一部始終を、シエルは含み笑いとともに見守っていた。水平に張った糸を中央でたわめながら、しゃがみ込んで、両手に顔を乗せる。

「なぁーんだ……ディーンって、この程度なの? しえる、がっかりしちゃった」

「あんたは手を出すなよ、はあ、杏樹との決着は……オレがつける」

 ディーンはシエルにちらっと目配せするだけで、私を気丈に睨みあげた。

「ふぅん? デュレンが連れてきた女の子はことごとく振っちゃったくせに、お人形さんにはとってもご執心なのね。クスクス」

「……デュレンの話はやめろ」

 それでも天敵の名前には敏感になってしまうらしい。

 ディーンの気を引きながら、シエルは異様に無邪気な声で笑った。

「教えてあげるわ。そっちのお人形さんも、デュレンの命令を受けて、あなたに近づいた女の子だったりするのよ? ウフフッ、アーハハハハハッ!」

 ディーンの顔つきが驚愕のものに変わる。

「な……ん、だって……?」

「どうしてあなたが知ってるの?」

 私も同じ形相になって、人形の瞳を強張らせた。

シエルの笑声が月夜の空に響き渡る。

「知ってるのよ、しえるは。ディーンを魔王にしたら、お人形さん、人間の身体がもらえるってお話だったんだから! 言っちゃった、キャハハ、言っちゃったぁ~!」

 私にその意志がなかったとはいえ、契約は確かに存在していた。

ディーンをおだてて魔王の座に就かせることができたら、デュレンが私に、報酬として人間の身体を用意する、と。

ディーンが震え、縋るようなまなざしで私を見上げる。

「ほ、本当なのか? 杏樹……デュレンとそんな約束、いつの間に……」

 私は高度を下げつつ、正直に白状した。

「……引き受けたつもりはないの。デュレンが勝手に言ってるだけ」

 下手に誤魔化しても、ディーンの不審を買うだけだもの。しかし信じてもらえなかったら、今度こそ私たちの関係は終わるかもしれなくて、怖かった。

 胸の時計がきりきりと痛む。

 大時計では長針がちょうど真上に差しかかった。人々の眠りを妨げない程度に、鐘の音が夜空に鳴り響く。その音色はエコーとなって遠ざかり、きっと満月まで届いた。

「嘘だ……」

 ディーンが俯き、フラガラッハをぎりっと握り締める。

「オレと踊ってくれたのも、あいつの命令だったってのか? そんなの、嘘だ……!」

 平手打ちで押しつけたばかりの封印が割れた。薄明るい月光が、彼のシルエットを邪悪な魔影として、おぞましく浮かびあがらせる。

「違うの! 聞いて、ディーン!」

「オレはっ! オレはあんたのことが好きだったのに!」

 シエルは笑い、ディーンは激怒し、私は絶望した。彼のフラガラッハが猛毒の渦を噴きあがらせて、私の視界を覆い尽くす。

 テスタロッサが翼をはためかせるも、私は動けなかった。

「マスターよ、離れろ!」

 かわす、という意志が働かない。そのせいでテスタロッサも自由が利かなかった。

 ディーンを傷つけた――その悔恨が私に虚無感をもたらし、手足が竦む。

「うわぁあああぁぁあぁああぁぁあああああッ!」

「ディー、ン……」

 腐食性の毒が私を飲み込んだ。

 毒の渦が夜空の高くへと巻きあがって、満月を目指す。やがて毒霧は晴れ、瘴気が漂うだけの陰鬱な夜空に戻った。腐ったようなにおいが鼻をつく。

「……どうし、て……あ、あなたが……?」

 私は人形の瞳をいっぱいまで開いた。

目の前に、あるひとの後ろ姿があったの。三色で染め分けた奇抜なヘアスタイルを、見間違えるはずもない。

「い、言っただろォ? おれは、に、人間のおんな、には……甘ェんだよ……」

 デュレン=アスモデウス=カイーナは、悪魔の羽根を燻らせながら、ふらふらと滞空を維持していた。魔具の猛毒を浴びたせいで、肌を焼かれたみたいになっている。

 毒を放ったディーンも驚き、呆然としていた。

「なんで、あ、あんたが……杏樹を庇う?」

「へへ、へ……」

 シエルが嘲笑を浮かべる。

「あらあら。お義姉さんにちょっと頼まれたくらいで、健気ね」

「うる、せぇ。あ、あのブス……のために、やったんじゃ……ねえ、ぞ」

 デュレンはふらつき、落下を始めた。

「テスタロッサ、急いで!」

「あの毒は感染する! カードを使え!」

 私はテスタロッサの翼で急降下し、カードの担架でデュレンを受け止める。

それから下のダンスホールまで慎重に降ろし、適当な瓦礫の上に寝かせると、デュレンの背中から羽根が消えた。

「心配すんな。お、おれを誰だと……げふっ、これくらい自己再生で、なんとか……」

「全然そうは見えませんよ。と、とにかく助けを」

「おいおい、まだ戦いは続いてるんだぜ? 甘ェなあ、てめえも……ヘッヘッヘ」

 苦悶に顔を歪めるものの、しゃべるだけの気力はあるみたい。でも、いつもの減らず口は強がっているようにも聞こえた。

「デュレン、あんた……」

 あとからディーンも降りてきて、離れた位置から様子を窺ってくる。

 猛毒に冒されたデュレンの身体には、触ることができなかった。私は頭をフル回転させて、可能性がありそうなディーンに助けを求める。

「ディーン! 解毒剤はないの? あなたの毒でしょ」

「あ、ああ……フラガラッハのここに」

 困惑しつつ、ディーンがフラガラッハの柄を開いた。解毒剤らしい小瓶が入ってる。

 デュレンはかろうじて頭をもたげ、ディーンに問いかけた。

「おい、てめえ……なんだって、アンジュにあんなもん、向けやがった……?」

「杏樹が……あんたの命令で、オレに近づいたって……いうから」

「あぁ、そういや言ったっけなァ。人間の身体をやるから、口説き落とせって。だがよ、こいつは身体がいらねぇんだと……ケ、ケケ」

 空笑いにも余裕がない。

「しゃべらないでください。今、解毒剤をあげますから」

 私はディーンから小瓶を受け取り、それをデュレンの口元へと近づけた。飲み薬で間違いはなかったらしく、デュレンが動悸の合間に口を開く。

 解毒剤を与えると、デュレンの両肩から間もなく力が抜けた。呼吸も穏やかになり、彼の魔力が肌の治癒を開始する。

「オレ、あ、杏樹を疑って……殺そうとしたのか……?」

 ディーンは両膝をついて、フラガラッハを離した。髪の色が赤から黒へと戻り、狂気を孕んでいた瞳も、やっと翡翠の色合いに落ち着く。

 私もテスタロッサの翼を外し、臨戦態勢を解いた。

「あなたは壊そうとしただけでしょ? 入れ物ってだけの、お人形を」

「……違う! 本当は壊したくもなかった! オレは、オレは杏樹と、ただ」

 子どもの悪戯を許すような私の言葉を、ディーンが涙声で拒む。

「オレはただ、杏樹と……普通に地上で暮らしたかった、ひぐっ、それだけなんだ! どうしてそれがだめなんだよ、うあ、あああぁああああ!」

 私の、人形の瞳にも涙が滲んだ。

 意固地な私でも泣きたくなったら、この身体は涙を流してくれる。それが悔しくて、恥ずかしくて、でも、ほんのちょっぴり嬉しい。

「私だって暮らしたいわ、あなたと。地上で……人間に戻って……」

 胸の時計がチクタクと時を刻んだ。ディーンの心とともに、私の心も動きだす。

 ディーンと一緒に地上に帰りたくないわけじゃなかった。だけど私を人形扱いすることのなかった彼に、モノみたいに扱われて、気持ちがわからなくなったの。

 一目惚れした女性の身体に、私の魂を入れて、傍に置くだなんて。

 だからきっと、私の魂が朱鷺宮杏樹の姿でディーンに会った時、お互い違うものを見てしまった。私は彼に男の身勝手さを、彼は私に女の意地を。

「ごめんなさい、ディーン」

「謝るなよ、オレが……あいつの姿に振りまわされちまって」

 久しぶりに喧嘩じゃない言葉を交わせた。

 その様子を『私の身体』が見下ろし、夜空に嘲笑を木霊させる。

「アハハハッ、仲直りしちゃうわけぇ? あーあ、ディーンもアンジュもつまらないわ。もっと激しく……いとおしく殺しあってくれないと、しえる、寂しくなっちゃう」

 私とディーンは立ちあがり、再び武器を取った。

 テスタロッサが青年の姿となって、私たちより一歩前へと歩み出る。

「我に命じよ、マスター。人形遣いシエルを殲滅せよ、と」

 それをディーンが慌てて制した。

「ま、待て! あれは杏樹の身体なんだぞ!」

「……わかっている。だがあの身体を取り戻すには、我が戦うしかあるまい」

 私やディーンでは、シエルへの攻撃を躊躇するのが目に見えている。

かくいうテスタロッサだって、加減を誤って、私の肉体を傷つけてしまう可能性はあった。それでも彼は私の下僕として、汚れ仕事を引き受けようとしてくれてる。

 仰向けのデュレンが、ディーンの裾を引っ張った。

「その必要はねえよ。チェックメイトは、ヘッ、済ませてあるぜ……」

 シエルが愉快そうに笑声をあげながら、下まで降りてくる。

「これはチェスじゃないのよ? キングのディーンを止めたって、まだクイーンのしえるがいるんだもん! アーッハッハッハッハ……ハ?」

 ところが着地するや、その挙動はぴたりと静止した。かろうじて瞳を震わせるだけで、四肢は完全に停止しちゃったの。

「ならばクイーンも取って、終わりとしようかの」

 アビスゲートを通って、ジニアスとエリザも地上までやってきた。

「あまり気分よくないね、これ。エリザ、ちゃんと見えてる?」

「もうちょっと右じゃ……うむ、それでよい」

ジニアスがエリザの頭を抱えてる。

 エリザの右の耳から、一本の糸が伸びていた。それは長く、長く伸び続け、シエルの背中へと繋がっている。

「エリザ……クスクス、やってくれたわね? 全然気がつかなかったわ」

「デュレンが上手いこと繋いでくれおってな。そなたの肉体は、今やわしの身体の一部というわけじゃ。観念せい、シエルよ」

 生粋の『生きた人形』であるエリザなら、糸一本であらゆるものを動かせた。悪趣味号のロボットも然り、人間の身体さえ、その制御下に置いてしまう。

 ディーンはデュレンにぎこちなく肩を貸した。

「……あんた、立てるか? オレなら毒も問題ないしな」

「へへへ、大した魔王サマだ。才能あるぜ、てめえは」

 私とテスタロッサも輪に加わり、全員でシエルを取り囲む。

 エリザは穏やかな調子で、シエルを責めなかった。

「そなたの憤怒、わからんではない。どうじゃ? ネヲンパークでおとなしくするっちゅうのなら、わしが恩赦のほうを交渉してやろうぞ。それに、そなたはレオナと……」

「フフッ! 優しいのね、エリザは」

 どこからともなく綺麗な音色が聴こえてくる。

 デュレンはディーンの肩を借りながら、夜空の月を見上げた。

「ヴィレッタのハーモニカか……ディーン、てめえにも聴こえるだろ? こいつがレクイエムだ。今頃、下の穴も塞がってるだろうさ」

「鎮魂歌……世界大戦の犠牲者たちも、これで?」

「そこまで万能じゃねえよ。あの死霊どもは、少しずつ慰めていくしかねえ」

 ハーモニカのものらしい切ない旋律に、私も静かに耳を澄ませる。

 ディーンのバイオリンと相性がよさそう。私のピアノは邪魔になるだけかしら?

 その音色を聴いて、ぼろぼろと涙を流したのはシエルだった。

「アハハハッ、アハハ……遅いのよ、何もかも。パパもママも壊れちゃってるのに、レクイエムだなんて。しえるは許さない……絶対、絶対に許さないんだから!」

嗚咽をあげながら、悲鳴みたいな声で叫ぶ。

「しえるにだって、ちゃんといるのよ? おいで、アルベリク!」

シエルの影が逆三角形に広がり、その中央から、奇妙な物体が姿を現した。真っ黒な水晶体に漆黒の翼が生えている。

雷の精霊テスタロッサが眉を顰めた。

「お出ましか。闇の精霊アルベリク……!」

アルベリクと呼ばれた球体は、翼を除いて無機質で、目も口もない。

「いかん! やつめ、シエルの魂を連れて逃げるつもりじゃ!」

 エリザが声を荒らげるも、私たちは虚を突かれ、動くに動けなかった。アルベリクが私の肉体から何かを吸いあげると、勢いをつけてはばたく。

「今夜のところはお開きよ。クスクス……また会いましょうね、アンジュ!」

シエルは闇の精霊とともに満月の夜空へと飛び去った。狂った笑い声が遠ざかっていき、あとはレクイエムの旋律だけが安らかに響き渡る。

「しくじったか。だがマスターよ、安心するがいい。闇の精霊アルベリクは、太陽を嫌うがゆえ、間もなく地獄に戻るだろう。地上が脅かされる心配はない」

「地獄はまた狙われるんじゃないの?」

逃げられちゃったけど……これで終わったみたい。

ディーンを取り戻すことができただけでも、私にとっては勝利だった。地獄の穴も塞がったそうだし、ひとまず当面の脅威は去ったはず。

やがてレクイエムも聴こえなくなり、地上の夜は静寂で満たされた。

 ディーンが月を見上げ、嘆息する。

「地獄が怨念でいっぱいになったら、この地上も……おかしくなっちまうんだな……」

 かつて勃発した、くろがねの世界大戦は、当時の人類を五分の一も死滅させた。犠牲者たちの怨嗟は今なお、地獄の深層を圧迫し続けている。

 地獄はこれ以上、穢れた魂を許容できない。そのために、地上の罪人を生きているうちに更生させてまで、負荷を減らそうとしていた。

「いつまで持つのかしらね、地獄は」

「……………」

 私が何気なく呟くと、ディーンは思い詰めた表情で、口を噤む。

甥っ子にもたれながら、デュレンがエリザに問いかけた。

「おい、エリザ。親父のやつはどうなった?」

「……すまぬ、ディーン、デュレン。魔王アスモデウスはわしが息の根を止めた」

「いやいや、とどめを刺したのは僕だって! とっておきの新兵器でね」

 頭だけのエリザを、ジニアスが無造作に振りまわす。

「こら、やめんか! 目がまわる!」

 ディーンは複雑そうな面持ちで溜息をついた。

「……そうか。結局、オレはまともに話もできなかったんだよな……」

曲がりなりにも祖父を失ったことで、戸惑っている。

「大したジジイじゃねえよ」

 それをデュレンが茶化した。怪我のほうは自己再生が進んでいるようね。

「魔王のくせに、器が小せぇんだよ。兄貴と姉貴の時も、血管がブチ切れて倒れやがったし。先が短いのは、親父もわかってただろうな」

お父さんが死んじゃったのに、デュレンはまるで気にしていない。

 私は博識なテスタロッサに小声で尋ねてみた。

「ねえ。悪魔って死んだら、魂はどうなっちゃうの? 地獄?」

「我にもわからぬ。まあ人間の魂も、最後はどうなるかわからぬことだしな……。生きている汝が考えることではあるまい」

 ……そんなものかしらね。

「それよりマスターよ。身体が生きているうちに、戻ったらどうだ?」

テスタロッサの唐突な言葉に、私はきょとんとした。

 エリザやデュレンも口を揃える。

「ここにあるのは正真正銘、そなたの身体で、今はからっぽじゃぞ」

「まさか人形のままでいいってこたぁ、ねえだろ?」

 胸の時計が針をくるくると回転させた。

 目の前には私の身体がある。今なら念願の『人間』に戻ることが可能だった。なのに躊躇してしまうのは、少なからず人形のボディーに愛着があるから、かもしれない。

この身体は二年もの間、私を生き永らえさせてくれたんだもの。最初のうちは戸惑いもしたけど、おかげでディーンと仲良くなれたわ。

 一方で、人間の身体には辛い思い出ばかり。家庭は崩壊し、私は追いだされるように異邦の地で暮らすことになった。

 人形でいるほうが幸せじゃないの……?

「ただし……じゃ」

みんなが私の答えを待って黙る中、エリザが口を開いた。

「そなたの地獄での記憶は、この身体にはない。おそらく……人間に戻れば、地獄での生活は、夢くらいにしか思いだせまいて」

「そ、そんな!」

 思いもよらないショックが、私を凍てつかせる。

やっと人間に戻って、ディーンと新しい関係を始められるのに。人間に戻ったら、私は彼との思い出を忘れてしまうっていうんだもの。

そんなの忘れたくないに決まってた。

 でも地獄の深層で失われたはずの身体が、今は手の届くところにある。

「テスタロッサ、ちょっとだけこのひと頼むよ。あんたなら毒も関係ないだろ」

「我は汝の下僕ではないんだぞ? ……まあいい、よこせ」

 デュレンの世話をテスタロッサに押しつけ、ディーンが私の傍へと歩み寄ってきた。

「あの……さ、杏樹。聞いて欲しいんだ」

真正面から私の肩を掴んで、唇を一の字に引き結ぶ。

「ど、どうしたの?」

 トラウマは克服できたみたいね。それが美少女たちとのいかがわしいスキンシップの成果かもしれないって思うと、ちょっと腹が立つ。

 エリザはやれやれと溜息を吐いて、ほかの面子に指示を出した。

「では、わしらはおなごたちの手当てでもしていようかの。ジニアス、向こうじゃ」

「へいへい。なんでもいいからエリザの身体、適当に持ってくりゃよかったよ」

 みんなが一旦離れていき、私とディーンだけになる。

 ディーンは顔を引き締め、私をまっすぐに見詰めた。情熱的であっても落ち着いたまなざしで、私の胸の時計さえ高鳴らせる。

「杏樹、オレ……魔王になるよ」

 そうなんじゃないかって、予感してた。

 事態を深刻化させてしまった罪悪感が、彼を決意させたのかもしれない。

けど、それ以上に責任感もひしひしと伝わってきた。罪人の魂を裁いていく人生を、覚悟したんでしょうね。

「それなら、私も手伝……」

「あんたは地上に帰るんだろ。そっちの身体で」

 二つ返事で一緒にいたがる私を、ディーンは淡々と諫めた。少し寂しそうに私の、人形の手を取り、包むように握り締める。

「たまには会いに行くよ。でも、やらなくちゃいけないことがあるんだ。父さんを地獄に連れ戻して、跡を継がせて……オレも地獄でもっと、さ……」

 デュレンに押しつけられるのでもなく、お父さんに押しつけるのでもない。彼の意志が魔王としての人生を選んだ以上、もう私が口を挟めることじゃなかった。

 でも寂しい。永遠の別れでなくとも、地上と地獄では遠すぎる。

「ひぐっ……」

 人形の瞳が勝手に涙を溢れさせた。

地上に帰ったところで、一緒に暮らせるわけでもない。

何より人間に戻ったら、私はディーンのことを夢にしか思いだせないのよ。今こうして触れている、彼の温かさは、きっと残らない。

「あなたと一緒に、学校……バスで、行ってみたかったわ」

「何度も行ったじゃないか」

「そうじゃなくて。ちゃんと、ふたりで……ばか」

 悲しみの理由をわかってくれない、鈍感な彼に、八つ当たりまでしてしまった。

 別れたくない。ディーンだけじゃない、エリザも、ジニアスも、デュレンも、ネヲンパークのみんなとも、これでお別れだなんて寂しすぎる。

 人間の私には何もないのに。

 むせび泣くしかない私を、ディーンが優しく抱き締めてくれた。

「目が覚めたら、出会いからやりなおそう。今度はオレが杏樹を口説くよ」

「……え?」

 艶やかな唇が、私の唇をしっかりと塞ぐ。

 初めてのキスだった。彼に愛されている実感が込みあげ、余計に涙が零れてしまう。

「ンッ、んぅぐ……」 

 涙が熱い。口づけも熱い。

このキスの感触も忘れてしまうことが、悲しかった。だけどディーンが、お人形さんの私を強く抱き締め、忘れないように、と囁くの。

「人間とか人形とか、そうじゃない。オレが好きなのは、杏樹だ」

「……好きよ、私も。ディーン……あなたのことが」

 私たちは告白の言葉を交わし、もう一度だけ、キスをした。

 あなたを愛してること、忘れたりしないわ。

「ん……はあっ」

 口づけを終えたのを見計らって、エリザたちが戻ってくる。

「そろそろ人間たちも目覚めようて……アンジュ、早ぅ人間の身体に移るがよい」

私とディーンは赤面し、わざとらしく目を逸らした。

「そ、そうだわ。エリザ、私の身体を使ってちょうだい。もともとあなたに用意してもらったんだし、左腕はあなたのものでしょ」

「それもそうじゃの。前のボディーが工房に残ってるとも限らんしな」

「ボクが調整してあげるよ。天才発明家としてね」

 エリザの頭を小脇に抱えながら、ジニアスが陽気に親指を立てる。

「ジニアス! もっと丁重に扱わんかっ!」

「なんだよぉー? そっちだって、悪趣味号に散々無茶させたくせにさあ」

 デュレンが自力で立ちなおし、破れかかっている上着を引き剥がした。まだ痛々しい傷跡が残っているけど、声には充分な凄味が効いてる。

「ジニアス、てめえ、あとで話がある。おれの汽車におかしな改造しやがって……。まさか自爆ボタンでふっ飛ばしちゃいねえよなァ?」

「ししっしてませんって! 先頭車両はちゃんとありますから」

「先頭車両しかねえのかよ」

 別れの時が近づいても、湿っぽくはならなかった。この面子では無理ね。

テスタロッサは腕組みのポーズで黙りこくっている。

「今までありがとう、テスタロッサ。思えば、あなたが最初の恩人だったわね」

「我は契約を遂行したに過ぎん。トキミヤ=アンジュ、汝はよく戦った」

 自然と私は笑顔を浮かべていた。

 涙はまだ乾かないけど。泣いてなんか、いられないもの。

 ディーンが私に向かって、手を掲げた。

「またな、杏樹」

「ええ。またね、ディーン」

 私は人形の身体で背伸びして、彼と一番上でハイタッチを交わす。

 

 さようなら、みんな。

 さようなら、ディーン。

 みんなのこと忘れちゃってたら、怒っていいから。

 

 ありがとう、みんな。

 ありがとう、ディーン。

 ひとりぼっちだった私と遊んでくれて。

 

 

 夢のような人形劇は終わった。

 

前へ     次へ

※ 当サイトの文章はすべて転載禁止です。