死が憑キル夜

第五話 チハヤブル~神、憤怒

 地上のほうでは紅葉が色づき始めた頃――。

 十月下旬、地獄は伝統であるハロウィン祭の当日を迎えた。普段はカボチャの残骸が転がっているだけの殺風景な城下町も、ジャック・オー・ランタンの群れで賑やかに。

 月のない地獄の夜空に向けて、花火が打ちあげられる。

 大通りには屋台が所狭しと並び、お客さんの呼び込みを競っていた。コミカルなオバケの仮装でハシャいでる死神も多い。

 ハロウィン祭には万魔殿の外部からも、地獄の住人が大勢集まった。

第一地獄カイーナで年に一回開催される、盛大な慰霊祭。それは誰にも救済されることなく地獄へと落ちてきた、人間の魂を慰めるためのものらしいわ。

もちろん大半の死神はそんなこと気にしていない。むしろ忘れて、真夜中のお祭り騒ぎに夢中になってる。

けれども私は『人間のため』というニュアンスに引っ掛かりを感じていた。万魔殿のテラスから城下町を眺めつつ、次の花火を待つ。

私の隣には珍しくデュレン閣下がいた。今日はいつにも増して髪の三色が明るい。

「デュレン閣下は見に行かないんですか? お祭り」

「初っ端からトバしてちゃあ、もたねえだろォ? こういうのはなァ、盛りあがってきたところで飛び込んでやるのがいいのさ」

 このひとの性格と体力からして、ぶっ通しで騒ぎ倒すものと思っていたけど。デュレン閣下はテラスの柵にもたれ、気怠そうに頬杖をついた。

「火が通るのをじっくり待つんだよ。ポップコーンみたいになァ……」

新しい花火が上がり、濃紺の夜空に七色の煌きを放つ。その音は波となって広がり、私の身体にもびりびりと伝わってきた。

こういう花火を、人間は真夏の夜に見るのね。

「そーいやァ、楓。地上のほうはお前の季節じゃねえか。ヘヘヘ」

「カエデ、ですね」

デュレン閣下が私の横顔をちらりと眺め、意味深に囁いた。

「お前は知ってんのか? 秋のコウヨウってやつが、どんな色をしてるか、よォ」

私は首を傾げ、手前に流れ込んだ髪をかきあげる。

「赤色に決まってるじゃないですか」

 漢字で『紅葉』と書くのだから、赤色に決まっていた。葉によっては黄色だったり橙色だったりするが、それは『緑を青と呼ぶ』程度の誤差で、一般的には赤で正解のはず。

 ただしデュレン閣下に限っては、黄色だ、いや橙色だ、と言いかねない。

「そうだ。赤色さ」

 しかし今回はひねくれた回答が返ってこなかった。

「死んだ葉にしちゃ、綺麗な色がつきやがる。……もしかすっと、生きてるうちは見向きもされなかったやつが、最期におれたちの目を引いてんのかもなァ」

「どうしちゃったんですか? デュレン閣下」

 今夜のデュレン閣下に私は違和感を憶え、疑問符を浮かべる。このひと、斜に構えてるのはいつものことだけど、センチメンタリズムとは無縁だもの。

「にしても……紅葉の色を、よく知ってやがったなァ」

「はい? 常識ですよ、それくらい」

「色だけじゃねえ。月見の時もそうだ。お前は知ってるのさ……秋ってやつを」

 デュレン閣下の言いまわしはいちいち要領が掴めなかった。化粧に厚みのある瞳で、私を見詰めながら、にんまりと口角を吊りあげる。

 その視線を、私はふいっと脇に流した。

「ここで三年も死神やってたら、上の……霧湖町の風習だって自然に身につきますよ」

 エイリークの汽車で目覚め、そのまま万魔殿に来たのが、三年前のこと。それから飛鳥さんのもとで二年間見習いをして、死神になったのよ。お仕事とプライベートの両方で、霧湖町にはもう何十回も行ってる。

 それだけ通っていれば、四季の変化くらい知ってて当然でしょ。

「ちょいと言い方がマズかったか? 要は、お前は秋ってやつの本質を知ってるってことだ。飛鳥みたいになァ」

 デュレン閣下の一言が、頭の中でエコーとなる。

 飛鳥さんみたい……それって、人間みたいってこと……?

「紅葉の色くらい常識ですってば」

 動揺を隠しながら、私は抑揚をつけずに言いきった。

おかしなことが立て続けに起こるせいで、判断力が落ちているだけよね、きっと。

大きな花火がいくつも上がり、オレンジ色の城下町を七色に照らす。

「おれは行くぜ? ヤボ用もあるんでなァ」

「飛鳥さんたちの出し物、あとで見に行きますね」

 デュレン閣下はひらひらと手を振り、行ってしまった。

 私はひとりでテラスに残り、賑やかな大通りを何気なく見下ろす。

 ジャック・オー・ランタンは鬼火を宿し、瞳を爛々と光らせていた。普段は肌寒い地獄の夜空が、今夜は大勢の熱気で温められてる。

「……あ、うぅ?」

 足元が少しふらついた。テラスでそれはまずい、と私は回廊まで引き返す。

やっぱり変だわ。あれから……。

先週、銭湯の帰りに倒れてからというもの、本調子ではなかった。今は熱も引いて、倒れるほどじゃない。だけど魔法をまったく制御できずにいる。

丁寧に術式を組んでも、思うように氷を作り出せないの。と思いきや、不意に暴発し、手頃なものを氷漬けにしてしまうこともあった。

 ――クスクスッ。ただの人間に使えるわけないでしょ?

 背後で女性の笑い声がする。

「誰なのっ?」

 振り返ってみても、誰もいなかった。

 その声は花火の音でかき消され、それきり気配を眩ませる。けれども『ただの人間』という端的なフレーズは、私の耳にずっと残っていた。

 これまでに私は二回も『人間だった』頃の夢を見ているせい、だろうか。

 現実にそんなはずはない。なのに、夢の中で自分が住んでいた部屋や、公園の雰囲気には、強烈な既視感があって、網膜にありありと焼きついている。

 私は三年前、半ば偶発的に『生じた』地獄の存在よ。その時にはすでに今の、人間の女性でいう十六、七くらいの容姿だった。

 しかし本当は私が人間で、十六、七くらいの頃に地獄に連れてこられた、としても辻褄が合ってしまう。それこそ、欠けたパズルのピースを最後に嵌めるみたいに……。

「……何考えてるのよ。私はそう、死神なんだもの」

 死神の秋津楓であるという認識も、ズレを生じつつあった。夢の中で私は『咲耶』と呼ばれ、それを受け入れている。

 そして『楓』は、あの死神がくれた魔除けだった。カエデの葉もジュースの銘柄も鮮明に憶えているのに、夢で会った死神の顔だけは、どうしても思い出せない。

「エイリークが戻ってきたら、相談してみようかしら……」

死神は参加を義務付けられているにもかかわらず、一昨年も去年も、エイリークはハロウィン祭に姿を見せなかった。

ところが今年、彼が傍にいないことで私は物足りなさを感じてる。エイリークも劇に出演するから、今年こそは一緒にまわれる、と期待しちゃってたのかも。

エイリークがいないからハロウィン祭に気が乗らない、なんてことはないけど。私があいつに惚れてるんじゃなくて、あいつが私に惚れてるんだもの。

「あーあ。ハロウィン祭のムード次第では、恋人にしてあげてもよかったのにな」

そんなエイリークの顔を思い浮かべると、胸騒ぎがした。ときめくような類の鼓動じゃない。言い知れない不安を、私の胸は直感してる。

 大賑わいのハロウィン祭とは裏腹に、私の面持ちは沈んでいた。

 

 

 万魔殿の中も模擬店だらけで、熱気が充満している。タコヤキやフランクフルトの屋台から、射的や輪投げといった定番のゲームまであり、皆が一喜一憂していた。

 慰霊祭の『祭』の部分ばかり肥大化した結果なんでしょうね。

 劇の開演まで自由行動だけど、急いで行くあてもない。とはいえ、こうしてただ歩きまわっているだけでも、充分に雰囲気を楽しめた。

「待ってよ、楓!」

 ヨシュアがタコヤキを抓みながら、私のあとについてくる。

 私とヨシュアは友人であって、決して恋人の関係じゃない。しかし今夜の彼は私を見つけてからというもの、一向に傍を離れようとしなかった。

「クラトスはどうしたの?」

「あいつは騒がしいのが好きじゃないからね。そのへんで休んでると思うよ」

ハロウィン祭はエイリークが不在のうえ、お祭り気分も手伝って、初心なヨシュアでも積極的になれるみたい。

私は頑なに断るほど冷たくもなれず、彼に気を持たせてしまう関係が続いている。

 しかし私の気を引きたがるくせに、こいつは配慮のまわらない男でもあった。

「ねえ、ヨシュア。私にはタコヤキくれないわけ?」

「え? あっ、ごめん! ちゃんとあるから」

 指摘されてようやく、タコヤキの残り半分を差し出してくる。

 これがエイリークなら『俺が食べさせてあげる』もしくは『楓が食べさせてよ』のどちらかになっていた。あの色男はそういう駆け引きが得意だから、胡散臭い。

 対するヨシュアは素朴な好青年であって、それは別段悪いことじゃなかった。異性との関係に計算や嘘を挟むのが不得手なため、こちらとしては安心できる。

 すぐ傍の射的屋で、カランカランと鐘が鳴った。

 的になっている景品の中に、私はゲームセンターで見たのと同じウサギのヌイグルミを見つける。前のは白色だったけど、景品のは黒色だわ。

 いつぞやエイリークを焚きつけたように、今夜はヨシュアを煽ってみる。

「あのウサギ、欲しいな~」

「へえ……。あっ、そうか! ちょっと待ってて」

 さっきタコヤキで失敗したばかりのヨシュアが、はっとした。ここはカノジョのためにカレシが働く場面であって、デートのつもりなら、なおさらのこと。

「僕が取ってみせるよ」

 後ろ髪を引かれながら、私はヨシュアの実直さを嬉しく思ってしまう。

 我ながら酷い女ね、私って……。

 いつも内心ヨシュアをエイリークと比較して。エイリークなら私にこんなふうに接してくれるわ、と厚かましくも認識したいだけのくせに。

 そんな私の気も知らず、ヨシュアは射的屋に正面を切った。ハロウィン祭用の金券をピストルと交換し、猟師のごとく狙いを定める。

 ところが、ウサギのヌイグルミには先に別の弾が命中した。しかも二発、三発と。長いお耳が揺れ、重心を失ったヌイグルミは呆気なく転がり落ちる。

「あ、あれ? 姉さん?」

 その景品を勝ち取ったのは、ゴスロリ少女のオルハだった。今夜は豪奢な紫のドレスを身にまとい、狼のお耳を生やしてる。その右手には射的屋のピストルがあった。

「拳銃の扱いで、わたしに勝てると思った? ヨシュア」

 オマケの一発がヨシュアの額を撃つ。

「あいてっ! 姉さん、僕は景品じゃないよ」

「あなたみたいな景品、いらないに決まってるでしょ。……ほら」

 オルハは受け取ったばかりの景品を、すぐ後ろの小さな女の子へと手渡した。女の子はヌイグルミを抱っこしつつ、オルハのスカートをひしと掴む。

「まさか、ドレスを着せたくて誘拐……」

「違うってば! 楓、わたしを何だと思ってるわけ? ハロウィン祭を見に来た、どっかの親の子どもよ。迷・子っ」

 ぶっきらぼうに言ってのける割に、オルハは迷子の女の子を優しく撫でていた。だけどウサギのヌイグルミを譲渡してしまったのを、少し後悔しているふうにも見える。

「わたしが取ってあげたんだから、感謝しなさい?」

 女の子はウサギさんと一緒に頷いた。

 もう……オルハったら!

 私はお腹に力を入れ、笑うのを必死に我慢する。ここでオルハをからかうほど悪趣味なつもりはないもの。

「あとはあなたに任せるわ、ヨシュア。迷子センターに連れてってあげて」

「ええっ? でも僕、今は楓と一緒にまわってるんだけど……」

「どっちがついてたって、同じでしょ」

 オルハは咄嗟に口元を押さえ、私の視線をやり過ごした。迷子の顔を覗き込んで、あることないことを言って聞かせる。

「いーい? こっちのお兄さんに何かされたら、大声あげるのよ。ちゃんとした死神さんが、こんなやつ、すぐに殺してくれるから」

「ま、待って! 僕にもまだ弾が」

 ヨシュアは慌てて射的に挑み、呪いの藁人形なんぞを獲得してしまった。

「……いる? 楓」

「いらない」

 そして意気消沈したようにうなだれ、迷子の女の子とともに人ごみに紛れていく。

 身長差のありすぎるカップルを見送ってから、私は続きをオルハと見てまわることに。

「あげちゃってよかったの? ウサギさん」

「ヌ、ヌイグルミはあれだけじゃないし。別にいいんだってば」

 オルハがつんとして、頬を膨らませる。それはいつもの彼女であって、さっきのような違和感はもうなかった。

『どっちがついてたって、同じでしょ』

 おそらくオルハとヨシュアの姉弟は、私を監視している。先週倒れてからというもの、私の生活には必ずオルハたち、もしくはクラトスの視線があった。

 今日のハロウィン祭でヨシュアが誘ってくれたのも、デートのためだけじゃない。

 それだけ心配してくれてるのかしら? しかしクラトスに至っては、私に近づく者まで神経質に警戒しているほど。

「……エイリークから連絡は? 楓」

また、何かにつけてエイリークのことを聞いてくる。

「ううん。何も」

「そう? あいつが来たら、教えてちょうだい」

エイリークにまるで関心がなかったオルハさえ、その動向を気に掛けていた。

 私とエイリークの関係を興味本位で探っているのとは違う。そうだったらヨシュアまで根掘り葉掘り聞いてくるはずがなかった。

 オルハたちの挙動不審に、私だって気付いてないわけじゃない。気付いていないフリをしてるだけ。

 おそらくオルハのほうも、そんな私の疑心に勘付いていた。

「秋津飛鳥のところにでも行きましょうか。出し物してるんでしょう?」

「確か別館のほうよ。楽しみだわ」

 そんなに不安になることじゃないわ。オルハやヨシュアが過敏になってるだけよ。

 お互い腹の探り合いにならないように、第三者のもとへと向かう。

 万魔殿は別館も派手に飾りつけられ、お客さんで混雑していた。飛鳥さんの出し物はその一室を占有し、壮麗な装いで人目を引く。

 床には絨毯が敷かれ、テーブルには総レースのクロスが掛けられてあった。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「お、おじょ……?」

 執事の出迎えに圧倒されつつ、私とオルハは格式高い店内へと案内された。ドレス姿のオルハはともかく、いつものブレザーでいる私は肩身が狭い。

「さすがデュレン=アスモデウス=カイーナが噛んでるだけのことはあるわね」

「ほんとにそうだわ。余所のはもう、文化祭レベルに見えちゃいそう」

 先に席についたオルハが、きょとんと小首を傾げる。

「ぶんかさい?」

「ほら、中学生とか高校生がやる――」

 私も席についたところで、長身の執事がメニュー帳を持ってきた。

「ご、ご注文をどうぞ……お嬢様」

スクエア型の眼鏡の向こうで、切れ長の瞳が私から逃げるように目を逸らす。

 飛鳥さんだった。タキシードを着て、ほかの誰より一段とスマートに決まってる。襟元にはクラバットを詰め、グローブまで嵌めた、徹底した凝りようだった。

 道理でお客さんに女子が多いわけだわ。オルハも呆れてる。

「秋津飛鳥って、こういう遊びにも乗るほうなのね」

「俺ひとりだけ嫌がるわけにもいくまい。デュレンのやつが会議にサキュバスをぞろぞろ連れてくるから、おかしな方向になってな」

 デュレン閣下の一族は七つの大罪のうち『色欲』を司っているらしいわ。お色気要員らの暴走を飛鳥さんが懸命に抑えた結果が、この執事喫茶というわけね。

「でも楓、こんなのはカネと権力でモノを言わせただけよ。わたしたちの舞台で、それを証明してあげましょ」

 本日の劇に自信満々なオルハが、飛鳥さんと火花を散らす。

 飛鳥さんが中指を眼鏡のつなぎ目に当てた。

「ほう……? ヒロインの役は楓だそうじゃないか。楽しみにしているぞ」

 意地の悪い視線がちくちくと、私の引き攣った表情を刺激する。

「み、見にこないという選択肢は……」

「ないな。何しろ、可愛い妹の晴れ舞台だからな」

 日頃の仕返しとばかりに、お兄ちゃんに容赦はなかった。こんなことなら、飛鳥さんの前でもっと真面目に振舞っておくべきだったわ。つまり全部エイリークが悪い。

「じゃあ、飛鳥さん。ホットケーキセットと、執事とトークタイムもください。指名できるんですよね、こういうお店って」

「どこで憶えたんだ、そんなこと? 言っておくが別料金だぞ」

「そこはオマケしてくださいよぅ。せっかく妹が来てるんですからー」

 私がいつもの上目遣いで見詰めると、飛鳥さんはやれやれと溜息をついた。

そんな嘘くさい兄妹のやり取りを、オルハは気にも留めない。

「わたしはこっちのショコラケーキと、コーヒーはホットで。特に指名とかないから、楓が好きに選んでいいわ」

「じゃあ飛鳥さんにします。いいでしょ?」

「……少々お待ちください。お嬢様」

 私たちが『お嬢様』である以上、執事の飛鳥さんは逆らえないわけで。しばらくして、飛鳥さんはコーヒーの香りとともに戻ってきた。

 ところが私の注文したホットケーキがなく、代わりに豪華なパフェになっている。

「厨房担当が、彼女が来てるんならこれを持っていけ、とさ」

「わあっ、ありがとうございます!」

 私は両手を鳴らして、美味しそうなパフェに瞳を輝かせた。

 不思議と飛鳥さんとなら、恋人同士と勘違いされても気にならない。飛鳥さんのことが好き、というわけじゃないけど、ずっと前から知ってるような居心地のよさがあるの。

 オルハは不満げに口を尖らせた。

「ちょっとぉ、秋津飛鳥? わたしにはサービスないの?」

「お前のショコラケーキはすでに当店の最高級品なんだ。それで納得してくれ」

 お嬢様の相手をするため、飛鳥さんは傍で律儀に佇んでいる。あくまで使用人の立場だから、主と同じテーブルについてはいけないらしい。

「デュレン閣下はいないんですか?」

「ああ、あいつは席を外してる。甥っ子が遊びに来てるんだと」

 残念ながら執事のデュレンは不在だった。

「わたしはいいけど、楓お嬢様を放っておいて、どういうつもりなのかしら」

「俺から言っておこう。楓がデュレンの執事姿も見たがっていたとな」

 言伝がなくても、劇の時間になったらちゃっかり客席の最前列にいる予感がする。

 飛鳥さんは溜息をつき、クラバットの内側に空気を送り込んだ。見た目は爽やかだけど、着ている分には蒸れるみたい。

「それにしても執事喫茶とは……まったく。普段は人間の世界に興味を示さん連中が、どうして、こういうネタだけは押さえてるんだ?」

 ほんと、死神は娯楽に貪欲だわ。携帯電話まで流行っているし。

 オルハがコーヒーカップを指でなぞる。

「ねえ、秋津飛鳥。人間のハロウィンはどんなのかしら?」

 人間の、と聞いただけでどきりとした。

 飛鳥さんの視線が天井を仰ぐ。

「霧湖町ではメジャーな行事じゃないから、何とも言えんな。ただ、万魔殿で今やってるこれは、ハロウィンというより、人間の世界でいう『文化祭』に近い」

 不意に頭の中で、妙な光景がフラッシュバックした。

『何ですか? 秋津先輩。私、さっさと帰りたいんですけど』

『クラスの出し物に参加しないなら、当日は俺とパトロールでもせんか? 鳴海』

 飛鳥さんと同じ顔の、学ラン姿の男子生徒が、私に問いかけてくる。

「……楓? どうした?」

 目の前の飛鳥さんと声がだぶって、反響した。

「う、ううん。このコーヒー、美味しいなあって……」 

 私は作り笑いを浮かべ、思ってもいない感想で間を繋ぐ。

 飛鳥さんの前だからなのか、オルハは私の不調を見逃してくれた。

「確かにいい味だわ。秋津飛鳥、このコーヒー豆、どこで仕入れたの?」

「霧湖町からひと駅行ったところに、豆を挽いてる専門店があるんだ。お前たちの休みがかぶった時にでも、教えてやろう」

「場所さえわかれば、ヨシュアに買いに行かせられるわね」

「自分で行きなさいよ……」

 おしゃべりのついでに、オルハのケーキも私のパフェも形がなくなっていく。次第に私の不可解な不安も有耶無耶になっていた。

「っと。あまり遊んでもいられないんだ。すまない」

新しいお嬢様がたがいらっしゃったので、飛鳥さんは眼鏡を調え、出迎えに。

私とオルハはコーヒーで適当に時間を潰してから、席を立つ。

「ちゃんと台詞は入ってる? 楓」

「……おかげさまで」

 舞台劇という羞恥プレイの開演時間も迫っていた。

 

 

 万魔殿の議事堂がハロウィン祭のステージとなっており、今は骸骨さんたちがメタルを演奏している。舞台裏の楽屋では音が何重にも反響して、曲に聞こえない。

 私たちの『ロミオとジュリエット』はこの次だ。

 ヒロイン役である私は、オルハ手製の深紅のドレスに着替えを済ませた。舞台映えするようにラインストーンが散りばめられ、あらゆる角度で輝きを放つ。

 髪にも優美な波をつけ、秋津楓はさながら深窓の令嬢となった。ドレスはスカートの中にパニエがあるほどの徹底ぶりで、踵の高い靴も履く。

 オルハが瞳をきらきらさせた。私の手を取り、うっとりと恍惚の笑みを浮かべる。

「最高よ! まるで楓じゃないみたいだわ」

「あ、ありがと……」

 褒め言葉にしては辛辣で、素直に喜べなかった。

 オルハの勢いに押されているところへ、ロミオが絢爛な姿を現す。

「楓! ど……どうかな」

 エイリークが不在のため、ロミオの正体はヨシュア=エルベートとなった。

少し自信のなさそうな面持ちで、威風辺りを払うほどじゃない。それでも王子様ばりの格式高い衣装が、端正な顔立ちにしっくりときている。

「ちゃんと似合ってるわよ、ロミオ」

 あまり焚きつけるべきじゃないけど、私は正直に褒めた。緊張されっ放しでも困るし。

 ヨシュアのモチベーションが見るからに上昇する。

「ありがとう! ジュリエット、今日はお互い頑張ろう」

「え、ええ」

 ヨシュアの前向きなアプローチに、たじろいでしまった。話を逸らしたくて、つい私はこの場にいないひとの名を挙げる。

「飛鳥さんも来るって言ってたわ。たぶん、デュレン閣下も……」

「どうだっていいじゃない。それより写真、撮りましょ!」

 オルハはカメラをセットし、ヨシュアを押しのけたうえで私とツーショットを決めた。いつぞや彼女が言っていた通り、オルハが紫で、私は真っ赤なドレス。

 それは淡いバーミリオンを基調としつつ、より明度の鮮やかなカーマインで、私の華奢なボディラインを扇情的に彩っている。

 飛鳥さんのと対になってる妖刀は、舞台の袖に掛けておいた。私たちはそこで待機し、ステージが空くのを待つ。

やがてメタルの演奏が終わり、分厚い緞帳が降りた。

 監督のオルハが指揮を執る。

「本番よ! 気合を入れなさい!」

 コンサートの楽器と入れ替わるように、劇の大道具が速やかに並んだ。その最中に背景の樹がべきっと折れてしまい、はらはらさせられる。

それを応急処置しつつ、第一幕が調った。私は出番まで袖で待機ね。

天井のランタンが消えると、闇の中で客席がざわつきながらも静まり返った。

「続きまして、舞台劇『ロミオとジュリエット』です!」

 無数の拍手が群がるとともに、緞帳が開く。

 ジャック・オー・ランタンの視線がライトとなって、舞台を照らした。いの一番に登壇する羽目になったヨシュアは、震えてしまっている。

「か、かのキャピュ、キャピレット家の娘がいかほどの娘か、見てやるとしよう!」

 ……ロミオが噛んだ。

 だけどジュリエットとして、わからなくもない。ジュリエット=キャピュレットという名前は『ト』が連続していて語呂が悪く、読みにくいもの。

 私たちの劇は、原作者が怒りそうなくらいストーリーを端折っていた。雰囲気だけでも味わえれば、私たちもお客さんも及第点というわけ。

 袖からこっそり窺うと、客席の最前列に飛鳥さんとデュレン閣下が見えた。デュレン閣下に威圧感があるせいで、隣の席は空いている。

 そろそろ出番ね。

 先に出たヨシュアが緊張しているおかげで、後から出る私のほうは幾分、気楽になれた。ヨシュアのぎこちない台詞に苦笑しながら、今のうちに深呼吸する。

 そして眩しいステージへとあがって。

「私の視線を引き止めてしまったあなたは、誰なのでしょうか? いえ、どうかお名乗りにならないで。名前などあっては、私もあなたもきっと不都合ですから」

秋津楓はヒロインになった。

「名もなきレディよ。今夜は踊っていただけますか」

 ヨシュアが私の手を引き、舞台の中央へとエスコートしてくれる。

 あれ? ヨシュアって格好いい?

 きょとんとしてしまい、次の台詞を忘れそうになった。

「つ、月が微笑んでいるうちに帰らねばなりません。お優しいかた、今度はきっと、おひさまとともに私をお尋ねくださいませ。私の名は……ジュリエット=キャピュレット」

「おぉ! 愛するひとの名が、キャピュレット家のご令嬢だったとは!」

 最初はぎこちなかったヨシュアの身振り手振りも、迫真の演技となってくる。たとえ演技であっても、私の恋人役でいられることが、きっと内気な彼を奮闘させていた。

 私の好きなひとの名が、エイリーク=ハーウェルではなくヨシュア=エルベートだったら、この劇の完成度も高くなったかもしれない。

だけど私は、本来ロミオを演じるはずだったエイリークを待っている。それがヨシュアにどれほど残酷で、どんなに失礼なことかわかっていても。

 その気持ちがヨシュアの手を取ることを遅らせた。たかが演技なのに。

「……ジュリエット?」

「そこまでだよ、ロミオさん」

 真上から、ヨシュアではない男性の声が割り込む。

 私とヨシュアは上を仰ぎ見て、ほとんど同時にその名を呼んだ。

「エイリークっ?」

「エイリーク!」

 ランタンを吊るしてある網目状の足場に、エイリークが悠々と佇んでいる。

彼はそこから飛び降り、私の傍へと直行してきた。ロミオに見せつけるように私の肩を抱き寄せ、含みたっぷりにはにかむ。

「ごめんね、ロミオさん。ちょっとオレ、ジュリエットに大事な用があるからさ」

 観客はこれも演出のひとつと思ったようだった。突然のエイリークの乱入に私は戸惑い、ジャック・オー・ランタンに見詰められながら、うろたえる。

 ところが舞台の袖からオルハが飛び出してきた。拳銃アーロンダイトを抜き、その危険な銃口をエイリークに向ける。

「そこまでよ、エイリーク! 話を聞かせてもらうわ!」

「君を疑ってるわけじゃないんだ。正直に話してくれないか?」

弟のヨシュアも武器こそないが、構えを取った。

 ふたりの鬼気迫る表情は演技じゃない。オルハたちに包囲されているのが、どうやらエイリークであることに、私は驚きと動揺を禁じえなかった。

「ど、どうしたの、オルハ? エイリークがまた変なイタズラでも……」

 当事者らしいエイリークは澄まし顔で、しれっとする。

「イタズラといえば、そうかもね」

 観客も異変を察し、俄かにざわつき始めた。

最前列の飛鳥さんが立ちあがり、オルハたちを下がらせようとする。

「落ち着け、エルベートの姉弟。これは何の騒ぎだ?」

「すみません、秋津さん。やむを得ない事情ってやつなんです」

 一方で、デュレン閣下は脚を広げたまま座っていた。あくまで観客に徹し、このトラブルの成り行きを見守っている。

「慌てるこたぁねえよ、飛鳥。別に誰かが死ぬわけじゃねえ」

「デュレン、お前……何か知っているな?」

 劇の仲間も武器を取り、次々と包囲網に加わった。あらかじめオルハが段取りを決めていたに違いないわ。

「観念しなさい、エイリーク」

 エイリークの腕の中にいる私だけ、現状を把握できない。

前々からエイリークの悪戯に皆が怒ることはあった。だけど、今は緊迫感で息が詰まりそうになるくらい、全員がエイリークの一挙手一投足に神経を尖らせている。

「エイリーク、彼女を放すんだ」

 ヨシュアは昂ぶりつつある感情を、理性で抑えているようだった。狼の耳を逆立て、エイリークの涼しげな顔を攻撃的に睨む。

「へえ……お前って、番犬にはもってこいかもな」

「いいから放せっ!」

 純朴なヨシュアは、エイリークの挑発に反射的に乗ってしまった。

それをオルハが叱りつける。

「乗せられてんじゃないわよ! ……さっさと楓を解放することね。あんたの持ってる術式は、こっちでとっくに解析済みよ」

 仲間たちの持っているカエデの葉が、オルハの合図ひとつで燃え尽きた。

あのカエデの葉はエイリークの呪符だわ。飛鳥さんに次ぐ実力者のオルハ=エルベートに掛かれば、術式の無効化くらいは造作もない。

「降参するんだ、エイリーク!」

 ヨシュアとオルハは前後から同時に間合いを詰めてきた。

「ちょっと待ってってば! エイリークがどうしたっていうの?」

 私にはエイリークに守られる理由もなければ、エイリークを庇い立てる理由もない。

 エイリークの悪戯が原因なら、前もってオルハが私にも話を通してくれるはず。ところが彼女らは、私に教えることをせず、虎視眈々とエイリークを待ち構えていた。

「よく聞いて、楓。エイリークはあなたに何かを隠してるの」

 オルハの指摘に心当たりがないわけじゃない。

いつだってエイリークは本心をはぐらかすんだもの。自分の気持ちに首輪をつけ、私のもとまで決して届かないようにしている。

 こわごわと見上げると、エイリークは申し訳なさそうにはにかんだ。

「ごめん……楓」

 笑みのようで笑みではない、ニヒルな表情に寂しさが浮かぶ。

 こいつは嘘が下手ね。

「掴まってて。すぐ終わらせるから」

「……うん」

 私はオルハたちではなく、エイリークの言葉に従った。

 どこからともなくカエデの葉が大量に現れ、紙吹雪のように舞台を覆い尽くす。

「うわあっ! か、身体が?」

 カエデの葉は背後を取るようにして、ヨシュアや仲間たちに張りついた。すると彼らの四肢が動かなくなってしまう。間一髪で回避できたのはオルハだけ。

「さすがにこの数は……ないわね。やるじゃない」

「相手にすると厄介なやつが多いからさ。特にオルハ、あんたのアーロンダイトとは、正直やりあいたくないんだよね」

 カエデの葉は舞台からみるみる溢れ、観客が慌てて逃げ始めた。

迫りくるそれを、飛鳥さんが炎で繰り返し焼き払う。

「見てないで手伝え、デュレン!」

「仕方ねえなァ……まっ、飛鳥の手伝いならしてやるぜェ」

 デュレン閣下も飛鳥さんに並び、魔力の旋風でカエデの葉を散らした。このふたりが最前列にいる限り、お客さんは巻き込まれずに済む。

 ステージの床にビシッと亀裂が走った。

ガルルル!

何かが床を突き破ってきて、エイリークと私に勢いよく飛びかかる。

「クラトスっ?」

「ちっ、下にいたのか!」

 クラトスは風の魔力をまとい、エイリークを切り裂こうとした。だけど寸前で、私を見つけて驚き、闘志に満ちていた目を見開く。

 クラトスにとっては、私の位置が誤算だったに違いない。ターゲットのエイリークに私が近すぎるせいで、奇襲の動作が鈍り、カエデの葉に捕らわれてしまった。

 ガウッ、グルル……!

 私を抱きあげながら、エイリークがクラトスから距離を取る。クラトスの奇襲までは予想していなかったみたいで、息が荒い。

「危なかった。やっぱとんでもないね、こいつら」

 その手が印を切ると、つむじ風が起こった。カエデの葉が数を増やしながら渦巻いて、私の視界からヨシュアやオルハ、飛鳥さんたちを消していく。

「逃げるんだ、楓!」

「楓! 騙されないで!」

 私の耳はカエデの葉が擦れる音に埋もれた。

 

 

 カエデの葉がなくなると、夜風がじかに頬に当たる。

 いつの間にか私はエイリークによって、万魔殿の屋上へと連れてこられていた。城下町のほうはハロウィン祭で賑わっているのを、やけに遠くに感じる。

 尻餅をつく体勢の私に、エイリークは正面からにじり寄ってきた。少し屈んで、ドレスのフリルを拾うように撫でる。

「ちょうどこの時期だったんだ。オレが……君に酷いことしたのは」

「だから毎年、ハロウィン祭に来なかったのね」

 私は我が身をかき抱きつつ、エイリークをねめあげた。

 エイリークの表情は落ち着き払っている。それが覚悟を決めた男の顔つきに思えてしまい、私の予感は灰色の不安に染められた。

「楓……いや、咲耶」

 彼に呼ばれたのが、自分であって自分でないことに、私ははっとする。

 三年前、汽車の中で目覚めた私に『楓』という嘘の名前を吹き込んで、死神にした人物こそ、エイリーク=ハーウェルだわ。

 ……なら、私は誰なの?

 すでに頭の中で答えが揃いつつあって、怖い。

考えるのが嫌になって、思考を閉ざそうにも、目の前の残酷で自分勝手な死神がそれを許してくれなかった。

「思い出してもいいよ、咲耶。すぐにまた忘れてもらうからさ」

 エイリークの取り出したカエデの葉が、二メートル大のサイズになる。それは私の背後にまわり、魔力の糸で、右手と左手を別々に絡め取った。

「きゃあっ? エイリーク、これは?」

磔にされる格好で、私は起立を余儀なくされる。

 赤みの指す月光が全身に行き渡った。夜風だけではない冷たさが震えをもたらす。

 ……どうして月が?

 地獄の夜空に『月』なんてあるわけがない。濃紺色の空には亀裂が入り、向こうから、鮮血のような赤色が滲み出ていた。

「いきなりごめん。でもオレは、こうするしかないんだ」

 エイリークは俯き、長い前髪で目元を隠す。

「もう一度やりなおそう」

「やりなおすって……意味がわからないわよ、それ」

 拘束に抗いながら、私は疑問を返した。

 私たちは始まりそうではあったけど、まだ何も始めてないじゃない。

 恋人としての関係を目前にして。手編みの手袋だって、渡していないどころか、まだ糸を決めてさえいないのに。

「どうしちゃったの、エイリーク! これもいつもの悪ふざけ、そうなんでしょ?」

 私の混乱をよそに、彼はぶつぶつと呪文を唱え始めた。

「手袋のことは、また頑張って咲耶と約束するよ」

「そうじゃなくて! ちゃんと教えて、答えなさいよ! エイリーク!」

 磔台から黒いもやが溢れ、私の首と腰、膝の高さにまとわりつく。

「エイ、リ……うあぁ、あああああ!」

「もう一度、忘れてくれ……!」

 頭の中でずきっと痛みが生じた。瞼の裏で閃光が走り、私の意識をさく裂させる。

 ――この期に及んで、まだ私を弄ぶつもり?

 私の声が聞こえた。

 ――いいわよ。今度は私がお前を弄んであげるわ!

 私のものではない、私の声が聞こえる。

 身体中が電流で焼かれたみたいに打ち震えた。衝撃が私の意識を虚空へと放つ。

「いやあぁああああああッ!」

 悲鳴のような音を立てて、カエデの葉が真っ二つに裂けた。

 エイリークがようやく顔をあげ、ぎくりとする。

「まさか?」

 私は真横に跳ね飛ばされ、エイリークから離れたところに転がった。上半身を起こした拍子に、くらっと眩暈がして、胃の中身を戻しそうになる。

「うっ、んはあ……はぁ、どうなったの……?」

 疲労感はあったものの、意識はあった。自分が誰なのかもわかる。

 三年前にこの姿で生まれ、死神となった、秋津楓。

 だけどもうひとり、私と同じ顔をした女性がいた。どこかで見覚えのあるセーラー服を着ていて。残ったカエデの葉を引き裂き、その残骸を万魔殿の夜空へとばらまく。

「やっと自由になれたわ。世話になったわね、エイリーク」

 もうひとりの私は、現実で初めて私と目を合わせ、酷薄な笑みを浮かべた。

 憎悪で満たされた自分の顔がそこにある。瞳にはおぞましい憎しみだけが宿ってる。

「そうね。あえて鳴海咲耶、と名乗ろうかしら」

 彼女もまた、私だった。

人間だった頃の私、鳴海咲耶。

「そ、そんな、ほんとうに咲耶なのか?」

 エイリークがうろたえ、あとずさる。親から罰を与えられる子どものような顔で。

 咲耶は瞳を赤々と光らせた。有り余る魔力を最大限に発揮し、吹雪を呼ぶ。

「私を地獄に連れ込んだ報い、受けてもらうわよ。フフッ……惚れた女に殺されるなら、あなたも本望でしょう? 筋金入りのマゾヒストだものね」

 瞬く間に吹雪は雹の大群となり、細長い渦を巻きあげた。それが龍の姿となり、青白い巨体を夜空で誇らしげにうねらせる。

 咲耶は一振りの刀を抜き放ち、氷龍を意のままに操った。

「かつて第二地獄アンティノラで発見された、氷の魔剣。これが影雪月花よ。あなたを殺すために手に入れておいたの」

 しかしエイリークは抵抗しなかった。両腕をだらんと垂らし、無防備な的になる。

「エイリーク? 逃げて!」

「逃げないよ。これが結末なら、それでもいい」

 彼は咲耶ではなく、私に向かって弱々しく微笑みかけた。

「楓……お前に殺されるんならさ」

 記憶にあったエイリークの笑顔がすべて、その悲しい笑みで上書きされていく。初めて会った時からずっと、私のことをそんな顔で見ていたんだって思い知らされる。

「やめてっ、咲耶! エイリークを殺さないで!」

 懇願するばかりの自分自身に、ふと違和感が生じた。

 咲耶の暴挙を止めたいなら、こちらも魔力で対抗すればいい。だけど私の右手は魔法をひとつも放つことなく、ただ闇雲に咲耶を制止したがっていた。

 人間では魔法を使えないから。

 私は……人、間……?

 そんな私の戸惑いを見透かすように、咲耶がにやりと口角をあげる。

「あなたは死神になってからの人格だから、憶えてないんでしょうね。人間だった私は、そいつのせいで人間の世界から切り離され、記憶まで奪われた」

 人間の価値観に馴染んでいられるのも、私が死神ではなく人間だったからだ。

 心を抉り抜くほどのショックは、私の五感を麻痺させた。瞬きすらできず、自分の視界にある現実を受け入れるのに、抵抗さえ生じる。

「ウソ、でしょ?」

 愕然として、呆然とした。今までの自分は、皆と同じ死神であることに安心感を抱いていたのかもしれない。それがかりそめに過ぎなくて、胸を空虚感に貫かれてしまう。

 私は誰、私は誰、私は誰……!

 疑問は頭の中を巡り、わかりきっている答えを何度も素通りしようとした。しかし人間であった時の記憶がフラッシュバックし、はっとさせられる。

 むしろ死神としての自分のほうが夢に思えた。

「どうして……どうしてっ!」

 頭を抱えて蹲る私を、咲耶が哀れむ。

「すべてエイリークのせいよ。こいつが私を傍に置きたいがために、私を連れ去った。十年もの間、飽きもせず、よく弄んでくれたわ」

 咲耶の氷龍が雄叫びをあげた。ばらっと一瞬、冷たい雹が降る。

「じ……十年?」

「人間の私に地獄の魔力を順応させるのに、七年掛かったのよ。憶えてないの?」

 視界がぐにゃりと歪んだ。平衡感覚も失われ、立つに立てない。それほど私は咲耶の言葉に動揺し、瞳を強張らせている。

「あなたが記憶を取り戻しそうになったから、また消そうとしたのよ」

 エイリークは一言も口にすることなく俯いていた。二本の脚で立っているのに、まるで人形みたいに動かず、前髪を垂らすだけ。

 騙されていた私と、騙していたエイリーク。

 動けない私たちを嘲笑うかのように、氷龍が空で旋回する。しかし氷龍は威嚇するのみで、エイリークを襲いはしなかった。

私と同じ姿の咲耶が、エイリークの首筋にしがみつく。

「ずっと考えていたのよ? あなたがもっとも苦しむ方法を……」

 エイリークの胸元を独占しつつ、彼女は私に視線を投げた。邪悪なその瞳が、人間の私に本能的な戦慄をもたらす。

「な、何を考えてるの? あなた」

咲耶もまた私だからなのか、彼女の考えることが自然とわかってしまった。

「クスクス……やり返さなくっちゃいけないでしょう? こいつは私を七年も鎖に繋いで! 散々玩具にしてくれたんだからッ!」

 氷龍が唸り声をあげ、逆さまの稲妻となって夜空を突きあげる。

 月の位置にあった赤い亀裂が、破片をばらまきながら広がった。群青色だった夜空に血の色が染み渡り、夕焼けみたいな色合いになる。

 風に乗ってきたカエデの葉も、赤みがかったオレンジ色に染まった。

 大穴となった亀裂の向こうから、強大な気配が込みあげてくる。この第一地獄カイーナよりも深い、第二地獄アンティノラが口を開いた瞬間だった。

「さあ、来なさい。エイリーク」

「オレは……咲耶と……」

 その向こうへと、咲耶がエイリークを連れていく。エイリークは彼女に抱き寄せられるままで、恭順も拒絶もしなかった。

私ひとりだけ取り残される。

「楓! 無事か?」

 万魔殿の屋上まで一番に駆けつけてくれたのは、元人間の飛鳥さんだった。四つん這いで気落ちしている私の頬を軽く叩いて、抱き起こす。

「ここにいてはいかん、飲み込まれるぞ!」

「飛鳥さん、私……」

 視界の端で涙が滲んだ。死神でいた時は一度も流さなかった涙が、たまらなく熱い。

「私も人間だったの。飛鳥さんと同じ、うあぁっ、わああああああああッ!」

 飛鳥さんの胸にしがみついて、私は泣きじゃくる。

赤ん坊が癇癪を起こしたみたいに。

「何があったんだ? 楓」

「ひぐっ、エイリークが……わた、し、なにもしらずに……っ!」

慰められながら、私は弱っちい『人間』なんだと自覚した。

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