死が憑キル夜

第一話 ヌバタマノ~夜、死神は集う

 

 

   

 

 

 

 トンネルは暗闇で満たされていた。

 車窓の向こうを白い蛍光灯が横切っていく。

 それとは対照的に、列車の中はオレンジの明かりで満たされていた。

 次のレールに車輪が乗りあがるたび、車体が揺れる。

 ガタン、ゴトン、ガタン、ゴトン……。

 やがて、外で闇の気配が変わった。青白いグラデーションが溶け始め、さながら白夜のごとく黒の色合いを薄めていく。

 夜空のようでも、月は見当たらない。たくさんの星が波打ち、光の粒子を散りばめる。

 近くの星は、車体にまとわりつくようにふわふわと浮いた。その正体は鬼火。

「……私、何をしてたの?」

 寝台車両で寝ていることを、私はふと自覚した。

 列車の内装はアンティーク風の意匠が凝らされていて、デザインは橙を基調とし、赤を主線に用いている。床には深紅の絨毯が敷かれ、さながら豪邸の一室だった。

 ランプはチューリップみたいな形で温かい光を溜め込んでる。

 窓の外では、これから列車が進むであろう線路が、うねりながら伸びていた。ジェットコースターのようにひっくり返るコースが、星空の向こうまで続いてる。

 しかし列車が縦横無尽に走りまわろうと、私の感じる重力は安定していた。一定の間隔で揺れこそすれ、ベッドごと逆さまになることはない。

 私は寝台で四つん這いになり、その小さな窓から外を眺めた。

列車の進行方向が変わると、星空のグラデーションに灰色の煙が掛かってしまう。とはいえ車両で火が上がったわけじゃない。

「そっか。汽車だものね」

 誰から教わるでもなく、私はすんなりと納得した。もうずっと前から『汽車』という乗り物を知っていて、その寝台で寝転ぶくらいには馴染んでる。

 汽車は私を乗せて、延々と走り続けていた。いつから蒸気を噴いていて、どこまで私を連れていくのだろうか。

「よく眠れた?」

 ノックもなしにドアを開けて入ってきたのは、ひとりの青年だった。半端な長さの髪がしっくりとくる中性的な顔立ちで、切れ長の瞳はどことなく凄味を秘めている。

 エイリーク=ハーウェルは、私のパートナーだ。気怠そうに壁にもたれながら、寝起きの私をじっと見詰めてる。

「どうしたの、楓? ぼーっとしちゃってさ」

 楓……あぁ、私の名前だっけ。

 そんな当たり前のことが頭に浮かんだ。

 楓、なんていう人間みたいな名前があるからややこしい。自分には家があって、家族がいて、放課後は電車で帰るものだと錯覚してしまう。

「早いわね、あなたは。万魔殿に着くのはまだ先でしょ」

 彼の好きな『上目遣い』とやらで睨んでやると、そいつは愉快そうに笑った。

「いつもみたいに、ちゃんと愛をこめて呼んでよ。エイリークってさ」

「だーれが」

 女たらしの軽い口ぶりに、私はムッと頬を膨らませる。

 エイリークに手を差し伸べられて、ようやく私はベッドから起きあがった。自力で。

「なんだ、起きちゃうの?」

「起こしにきたんじゃないの? あなた」

「せっかく男女がふたりきりで過ごす夜なのに……」

 冗談なんかに付き合っていられない。私のデコピンがエイリークの眉間を弾く。

「あいてっ!」

「ダラダラしてないで。飛鳥さんに見つかったら厄介よ」

 エイリークは額を押さえ、渋々とあとずさった。

「それは怖いね。最近の飛鳥さん、オレたちを目の敵にしてるから」

「……私もそうなのは否定しないけど。半分以上はあなたのせいだと思うわ」

 それでも口が減らないエイリークを、私はしっしっと払う。昨夜は眠たくてベッドに直行しちゃったから、まだブレザーなんだもの。早く着替えたい。

「どんどん冷たくなってくるね、楓は。前はそんなでもなかったのに」

「死神なんて、加減を知らないヤツばかりじゃない。私はまだ優しいほうでしょ」

 私はエイリークを押し出してから扉を閉め、鍵を掛けた。シワがよってしまっているブレザーを脱ぎ、似合っているのかどうかもわからないキャミソールを見下ろす。

 例のスケベなら、扉の向こうで聞き耳を立てているに違いない。

「ねえ、エイリーク! そこにいるんでしょ?」

「オレはずっといるよ。楓の傍にね」

「そういうのはいいから。それよりあなた、どうやって入ってきたのよ?」

 いくら疲れていたといっても、寝る前に私は鍵くらい掛けたはず。この変態とふたりの旅なのだから、警戒を忘れるはずがなかった。

 なのに今しがた、エイリークは平然と私の部屋に入ってきたわけで。

「車掌だからね。マスターキーは当然、オレのモノでしょ」

 あっけらかんと返され、短気な私はこめかみに青筋を立てる。

「あなたの魂も引っこ抜いてあげるわ」

「えっ? 優しくしてくれるならいいけど……あーでも、激しくされるのも、それはそれで美味しい気も……。楓はどっちのほうが好き?」

 脱いだばかりのブレザーを、すぐ着る羽目になってしまった。シャワーを浴びるのも、馬鹿を一発シバいてからでいい。

 私は妖刀・焔を握り締め、扉を開け放つ。

 エイリークは白刃の輝きにたじろぎ、笑みを引き攣らせた。

「あ、あれ? 仕事熱心だなあ、楓は。……まさか、オレがターゲットじゃないよね?」

「ちょっと変態を片付けとこうと思って。激しくされるのも好きなんでしょ?」

 ふたりの死神を乗せて、今日も地獄の汽車はゆく。

 

 

 

 

 

   第一話 ヌバタマノ~夜、死神は集う

 

 

 

 

 この世にはふたつの世界がある。

 昼と夜、光と闇。そして……人間と死神。

 昼と夜がそうであるように、人間と私たちも表裏一体だ。しかし同じ大地の表と裏に存在していながら、両者は決して交わることがない。

 表のほうでは人間たちが、地上という床に足をつけて生活していた。

 一方で私たち死神は、地表という天井に足をつけ、逆さまで暮らしてるらしい。

 この数百年のうちに人間の文明は急速に発達し、深海にさえ到達しつつあった。それでも彼らが『地獄』の深さまで来ることはない。

世界各地の地下線が地獄に繋がってるなんて、人間たちは夢にも思わないでしょうね。

 死神の運転する汽車だけが、その線路を経て、地表の表と裏を行き来する。

すべての路線は地獄の中枢である『万魔殿』へと集束し、従業員である死神は大抵、この近辺で暮らしていた。万魔殿は、百を超える数の尖塔が束になり、遠目には剣山をうず高くしたかのように見えるわ。

私とエイリークの汽車は最後のトンネルを抜け、万魔殿に到着する頃合いだった。先頭の煙突で煙を噴きながら、オレンジ色の街並みを悠々と駆け抜けていく。

 太陽が昇ることはないため、死神たちは街じゅうにランタンをばらまいていた。大小さまざまなカボチャのオバケが、悪魔気取りの瞳や口を光らせる。

 濃紺の空では星が瞬いていた。その正体である鬼火が、ランタンの中に迷い込む。

 カボチャのオバケたちは悪戯めいた陽気さをたたえ、今夜も街を賑やかしていた。夜空が底のほうだけオレンジ色で暖められる。

 間もなく汽車は煙を噴くのを止め、減速した。

万魔殿の二十一番ホームに入るとともに、ブレーキを擦りつける。

「……どう、楓。飛鳥さんは?」

「しっ! 今確かめるから」

 しかし私とエイリークはすぐには降りず、扉の陰で慎重に身を屈めた。

何しろ今回の旅でも、私たちは死神のお仕事をサボり倒しちゃったんだもの。これは職務上、大変よろしくないことであって、見つかるとまずい。

 大丈夫……こっちにはいないわ。

 エイリークに目で合図を送りつつ、問題の飛鳥さんを最大の感度で警戒する。

「だから、お土産を買おうって言ったんだよ」

「そんなので許してもらえるわけないじゃない。あの飛鳥さんなのよ」

 そこいらの死神なら、賄賂でいくらでも融通が利いた。もとより職務に真剣な死神など滅多におらず、飛鳥さんのように生真面目でいるほうが珍しい。

 ……いた!

 私は注意深く気配を探り、飛鳥さんの接近を察知した。

「あいつら、またか……」

汽車は到着しているのに私たちの姿がないことで、飛鳥さんは機嫌を悪くしてる。

 飛鳥さんは髪を短めに切り揃え、ブレザーの着こなしにも清潔感があった。襟元が全開のエイリークとはまったく逆の印象で、内面もそれを裏切らない。

悪目立ちしないための身だしなみらしいけど、ヤンキーだらけの死神の中では、かえって唯一無二の存在感を放っていた。眉目秀麗ぶりは女子の間で人気も高い。

「なんだ? 棺が空っぽじゃないか!」

 死神の汽車が運んでくるはずの荷を、私たちはひとつも積んでいなかった。旅先で遊び呆けていたんだから当然のこと。それも一度や二度じゃない。

飛鳥さんがやれやれと額を押さえ、溜息を漏らす。

「とっくに逃げたか……? 街に出られると、面倒だな」

 私とエイリークは姿勢を低くして、飛鳥さんの背後をそろっと通り抜けようとした。

 飛鳥さんの踵が偶然、煙草の吸殻を踏む。

「まったく。人間も死神も、こういう自分勝手な部分は変わらん……」

 それを拾おうと飛鳥さんが前のめりになったため、私と同じ高さの目線になった。はたと目を合わせ、お互い沈黙する。

「……ほう。そんなところにいたのか、お前たち」

 飛鳥さんの穏やかな笑みが白々しい。

「心配したんだぞ? 未熟なお前たちだけでは、いつも仕事にならんからなぁ」

 私とエイリークは飛鳥さんに気圧されるまま、あとずさった。

「や、やだなあ。今回はターゲットがゼロってだけで、お仕事はちゃんと……ねえ?」

「そっ、そうそう! 遊んでたわけじゃないんだよ、オレたち。飛鳥さんのお土産だって真剣に考えてたんだし……ってえ!」

 私の右足が『うっかり』、おしゃべりな相棒の爪先を踏む。

「つつつ……そ、そうだね。ポイ捨てはいけないね」

「話を逸らすんじゃない。まあ、煙草についても調査は必要だが……」

「オレ、昔っから煙草は苦手なんですけど?」

 飛鳥さんは含み笑いを浮かべ、おそらく私たちに課すペナルティの内容を吟味していた。女の私にさえ、廊下で三転倒立などという前時代的な罰を与えるひとだもの。

「何もお前を疑ってるんじゃないぞ、エイリーク。お前が吸わないのは知ってるとも」

「そ、それはどうも……犯人が見つかるといいね」

 エイリークは飛鳥さんに正面を切りつつ、左手を後ろにまわした。

その指が3からカウントダウンを始める。

じっとしてなさいよ。発動の座標を少し前に倒して……と。

飛鳥さんに勘付かれないうちに、私はエイリークの背中に魔方陣を描いた。悪戯心を刺激され、にやけそうになってしまう。

「煙草の件はほかでやるさ。観念したらどうだ? 今なら反省文で――」

 よし、今だわっ!

 私の魔力はエイリークの身体を伝達し、飛鳥さんの正面で爆ぜた。冷気のエネルギーが飛鳥さんの顔面を奇襲する。

「うおおっ?」

 咄嗟に顔を庇った飛鳥さんの右腕が凍りついた。

 すぐさまエイリークが飛び退き、全速力で私の手を引いていく。

「そういうわけだから、飛鳥さん、ごめんね!」

「ごめんなさ~い!」

 さすがの飛鳥さんでも、まさかエイリークの胸から魔法が飛んでくるとは思わなかったみたい。しかしまったく動じずに炎の魔法を振るって、こともなげに氷を溶かす。

「三秒以内に止まれ! 止まれと言ってる!」

 飛鳥さんは怒り心頭になって眉を吊りあげた。万魔殿の中であろうとお構いなしに、魔法の火球を次々と放つ。

「止まったって、お説教はするんでしょ? お兄ちゃん」

「誰がお前の『お兄ちゃん』だッ!」

 火球は寸分の狂いなく私たちに目掛けて飛んできた。私が屈んでやり過ごそうとすると、薄情なエイリークは手を放し、先にひとりで逃げおおせようとする。

「とんだ色男よね、あなたって!」

「あれ、今頃気付いたの?」

 エイリークを追って、私も改札を飛び越えた。空っぽの棺桶を蹴飛ばしながら、飛鳥さんの炎をかわす。偶然居合わせた骸骨のオバケやらモンスターたちも巻き込んで。

「またあいつらか! 飛鳥も来てるぞ、早く逃げろ!」

「みんな、ゴメン!」

 骸骨さんが落っことした頭を跳び越えつつ、私は階段の手すりを滑り台にして、一気に降りた。先行するエイリークに追いつき、インコースで隣へとまわり込む。

「へえ、やるじゃない。そんなにオレに置いてかれたくないわけ?」

「それどころじゃないってば! 飛鳥さん、そこまで来てる!」

 一方、追手の飛鳥さんは階段を丸ごと飛び降り、曲がり角でも減速しない。

「おい! 待たんか!」

 火球も続々と迫ってきた。

エイリークがブレザーを広げ、カエデの葉の護符を放つ。しかし飛鳥さんの火球のほうが威力が強く、即効の防壁ではほとんど耐えられない。

「一発で燃え尽きちゃうなんてね。さすが飛鳥さんの魔力だ」

「あなたの腕が落ちただけじゃないの?」

 エイリークも死神として相当の腕前なのに、飛鳥さんには敵わなかった。

それもそのはず、秋津飛鳥といったら万魔殿一の実力者。桁外れの魔力と天才的な術式のセンスを併せ持ち、ほかの死神の追随を許さない。

現に火球は完璧にコントロールされ、私たちの背中から外れることがなかった。万魔殿には一切傷をつけず、標的だけを猛追する。

「エイリーク、どっちに逃げる? 上? 下?」

 回廊を端まで駆け抜けたところで、私たちは咄嗟の二択に悩んだ。

 万魔殿の尖塔を登って空へと逃げるか、人ごみに紛れて正門を抜けるか。しかし決めるまでもなく、階段は上下ともに鬼火で埋め尽くされていた。

「まさか……?」

「してやられたね。飛鳥さんだよ」

 万魔殿一の実力者は、その実力だけで押し切ってこないところが手強い。罠に掛かった獲物を確認に来るように、両脇に業火を従えつつ、悠々と歩み寄ってくる。

「お前らのパターンなどお見通しだ。今回も逃げるものと読んで、な」

「オレと楓を捕まえるためだけに、通行止めにしちゃったわけ?」

 飛鳥さんは妖刀・火具土の白刃を抜き放った。私の妖刀・焔とは兄弟刀であり、本来は一対でひとつの刀らしい。

 打つ手のないエイリークが唇を噛む。

「まずいな。今回はマジで捕まっちゃうかもね……」

 私だって反省文は遠慮したい。延々とお説教を聞かされるのもきつい。

「あっ、飛鳥さん? あれ見て!」

「そんな古典的な手が通用すると思うか? 楓」

……最初の頃は、これで上手く逃げおおせたんだけど。

 私とエイリークが筋金入りのトラブルメーカーであると知っている以上、飛鳥さんに手抜かりはない。前方からは飛鳥さんが、後方からは鬼火がじりじりと詰めてくる。

 その状況下で、エイリークの視線は窓のほうを意識していた。隙をついて窓から飛び降りるつもりらしく、タイミングを見計らってる。

 なら、私も!

 ここが万魔殿の上階であろうと、死神の私たちには大した問題じゃない。私の場合は女子だからスカートが気になるくらいで。

 ところがエイリークは落ち着き払って、懐から妙なブツを取り出した。

 それは秋津楓に似せて作られた、フェルトのヌイグルミ。エイリークは手先が器用で、こと裁縫においては女子力を欲しいままにしている。

「これがさあ……」

 不意に私の右膝がカクンと曲がった。

「ひゃっ?」

「込めすぎたんだよね、オレの愛」

 うっとりと頬を染めながら、エイリークはヌイグルミを弄ってる。その手がヌイグルミの腕を曲げると、私の腕も同じように曲がった。

 立っていられない私は、土下座の出来損ないみたいな体勢になる。

「ま、まさか……それって」

 下手な呪いの藁人形よりも効いた。

「あとはよろしく!」

「ちょっと! まっ、待ちなさいったら!」

四つん這いの私を放って、エイリークは窓から逃げてしまう。

 問題のヌイグルミは階段のほうへと転がっていった。

「素晴らしい友情だな。感動したぞ」

 飛鳥さんが意地悪な笑みを浮かべ、頭を垂れるしかない私を存分に見下す。

「あ、飛鳥さん、タイム! タイムをください!」

「うむ。少し待ってやろう」

 こっちから睨みあげようにも、分身と同じ姿勢を強いられてしまって動けない。猶予をいただいたところで、屈辱のポーズが長引くだけ。

こういった悪趣味な呪いはエイリークの十八番だった。向こうには親友どころか恋人にまで格上げされてるらしいけど、そろそろ友達を辞めたい。

「お、お兄ちゃん? その、許してくれると……可愛い妹が喜びますよ?」

「勝手に兄妹にするな。あと、可愛いやつというのは逃げたりしない」

 私にあと百倍の色気があったら助かっただろうか。潰れたカエルみたいなポーズをしていては、可愛い妹というより、間抜けなガキんちょね。

 グルルル……。

 階段の鬼火をのけながら、一匹の白毛の狼が上がってくる。

嫌な予感がして、私はさらに青ざめた。

「げっ、クラトス?」

 思わず『げっ』なんて一言が飛び出てしまう。

 狼のクラトスは不愉快そうに瞳を細めた。気難しいタチで、飛鳥さんの顔まで睨む。

 グルル、ガウッ。

 飛鳥さんも対抗し、狼と火花を散らす。意志の疎通はできているらしい。

「ああ……非常に残念なことに、俺は楓の上司なんだ」

 クラトスは粗暴が荒く、同僚相手に喧嘩ばかりしていた。委員長気質である飛鳥さんとの親和性は限りなく低い。現にクラトスが私と喧嘩(肉弾戦)するのを、飛鳥さんが毎度のように仲裁している(肉弾戦で)。

 しかし今夜の飛鳥さんは、クラトスとの対峙をあっさり切りあげた。

「悪いが、可愛い彼女を待たせてるんでな」

 珍しく冗談を言いながら、無様な私を見下ろす。

 ……ガウ?

 だけどクラトスには冗談の意味が伝わっていない。クラトスは『可愛い彼女』とやらが私、秋津楓であることに、まったく気付いていない様子だった。

 エイリークもクラトスも、飛鳥さんもっ!

 頭に来た。土下座じみたポーズの恥ずかしさと悔しさも、怒りと同じ熱になる。

「女の子がこんなカッコで倒れてるんだから、少しは……ぎゃふんっ?」

 ところが不意打ちで頭を床に押さえつけられ、我ながら思いもよらない声が出てしまった。起きあがろうにも、物凄い力で全身を上から圧迫されている。

 かろうじて見えたのは、クラトスに踏まれたヌイグルミ。

「クラトス! それ踏まないで!」

 グルゥ?

 クラトスがヌイグルミを拾ったことで、ひとまず踏みつけから解放された。しかし狼にぞんざいに咥えられていては、生きた心地がしない。

「そ、そろっと! 死んじゃうでしょ、もっと丁寧に持ってってば」

 ガルル……ガウ!

 事情を知らないクラトスがヌイグルミを雑に弄るせいで、今度はお相撲さんみたいな構えを強制された。スカートなのに大股を開かされ、私は一気に赤面する。

 こんのバカ犬! あとでぶっ飛ばしてやるわ!

「クラトス、それを渡してくれないか」

 飛鳥さんの問いかけに、クラトスは嫌そうに一度は顔を背けた。ヤンキーと狼、両方の本能として、他人の言うことなど聞きたくないのだろう。

 下手に刺激しないでよ、飛鳥さん!

 クラトスの口には私の分身があるだけに、はらはらさせられる。

 しかし面倒事はもっと御免らしく、クラトスは素直にヌイグルミを手放した。

 ……ガウッ。

 珍妙なポーズの私には目もくれず、上の階へと消えていく。

 私に残された最後の希望は、素敵なお兄さんだった。偏屈なエイリークとはいえ、遊び程度の呪いで、そう複雑な術式を組みはしない。飛鳥さんなら簡単に破れるはず。

「ね、ねえ……お兄ちゃん? そのぉ、呪いだけでも解いてもらえない?」

 か弱い私は上目遣いで涙ぐむ。……わざと。

 だけど飛鳥さんはにやりと口角を曲げ、意地悪な笑みを浮かべた。

「まあ待て。反省してからでも遅くはない……そうだろう?」

 含みを持たせた言い方で、私の不安を煽り立てる。

「あ、飛鳥さん?」

「可愛い妹にはお仕置きが必要だな」

 

 

 飛鳥さんの汽車に乗せられ、正座で反省させられる羽目に。

 万魔殿でのお仕置きだったなら、とっくに逃げている。しかし運行中の列車に閉じ込められてしまっては、逃げようがなかった。おまけに例のヌイグルミが隣で正座してるせいで、私も姿勢よく正座してなくちゃいけない。

 車掌の飛鳥さんは余裕たっぷりに腕組みしていた。

「お前の大好きな説教もしてやろう」

「……はぁい」

 私は頭を垂れて聞くしかない。

 これもすべてエイリークのせいよ。私を囮にするため、わざわざ呪いのヌイグルミまで用意していたんだから、無性に腹が立つ。

「エイリークと仲がいいのは構わんが、お前はもっと落ち着いてだな……くどくど」

 最初のほうは拝聴していたお説教も、後半はほとんど頭に入ってこなかった。

「聞いているのか? そもそも、お前は悪戯だの喧嘩だの……」

 そんな私の集中力を見抜いて、飛鳥さんが真剣に始めからやりなおす。

 飛鳥さんに申し訳ない、と思わなくはない。からかってごめんなさい、くらいの罪悪感もあった。だけどそれを認めると、次から悪ふざけがしづらくなってしまう。

「許してよぉ、お兄ちゃん」

「だ・れ・が、お前の『お兄ちゃん』だ」

 お説教はなかなか終わらず、やがて窓の外で、鬼火の流れる向きが変わった。打ち上げ花火のように飛んでいくものだったのが、滝のように落ちてくる光景になる。

人間の世界と死神の地獄は、それぞれ同じ地表の『表』と『裏』になって、足を向け合っていた。もう一方の世界に行くには、身体を逆さまにする必要がある、というわけ。

 汽車は地獄から見て逆さまになり、地上の重力に順応しつつある。

 ……はあ。まだ続くのかしら?

それだけお説教が長引いているのを実感し、どっと疲れた。そんな私のげんなりとした顔を見て、飛鳥さんが肩を竦める。

「もうこんな時間か。楓、ちゃんと反省しておけ」

「は、はーい!」

「こういう時の返事だけはいいな、まったく。……ほら、動けるだろう」

 やっとヌイグルミの呪いから解放された。

 何時間も正座の姿勢だったせいで、あちこちが痛い。私は胡坐をかき、こそばゆいほど痺れついた脹脛をマッサージする。

 飛鳥さんは目元を覆い、溜息もつけて幻滅した。

「女がそんな座り方をするんじゃない。スカートで脚を広げるな」

「それって男女差別ですよ」

「常識の話をしているんだ。見てられん」

 秋津飛鳥という男性の価値観は少々古めかしい。私のスカート丈にも口を尖らせ、太腿が見えない長さを厳命するほど。

「俺と一緒だった頃のお前は、もっとしおらしかったぞ?」

「そうかなあ……」

 私は死神見習いだった頃、飛鳥さんに着いてまわっていた。今みたいにこうして一緒に汽車に乗り、人間の罪深い魂を集めていたの。

 その縁もあって、私は飛鳥さんの『秋津』という苗字を拝借することにした。皆が何かしらファミリーネームを持ってるのに、私だけ『楓』ひとつでは格好がつかないから。

 兄妹なんていうのは、単なる冗談。

 飛鳥さんは面倒見がよく、出自のはっきりとしない私のことを疎ましがらず、熱心に指導してくれた。魔法の扱い方を教えてくれたのも、このひとよ。飛鳥さんにとっては炎の魔法が、なぜか私にとっては氷の魔法になっちゃうけど……。

おかげで私も一人前の死神となり、今は相棒のエイリークと仕事をしている。

「飛鳥さん。縛ってでもエイリークを連れてくるから、エイリークにもお願いします」

「期待しているぞ。逃げた分も込みで、絞ってやるとしよう」

 飛鳥さんは踵を返しつつ、肩越しに私を呼びつけた。

「ちょうどいい。少し数が溜まっていてな、手伝ってくれないか」

 真面目に仕事をするひとだから、その量も多い。私が弟子を卒業した今でも、それは変わらないだろうな、と想像できた。

「いいですよ」

「助かる。終わったら、上でラーメンでも食わせてやろう」

「今日は頑張ります!」

 いつもの手に私は進んで乗せられ、ヤル気を出す。

 サボりのペナルティなら嫌がるところだけど、あくまで飛鳥さんのお手伝いなら、まんざらでもない。飛鳥さんと一緒だった、最初の二年間に戻ったような気分になれた。

 地獄の汽車は1両目が管制室であり、2両目は従業員、すなわち死神の待機スペースとなっている。そして、それより後ろの車両には荷を積んでいた。

 3両目に入ると、饐えたにおいで空気が淀む。

 細長い車両の両脇には、黒塗りの棺がずらりと立てかけられていた。列車とともに揺れて、ひっきりなしに音を立てるにしては、不気味な静寂に満ちている。

「彼らの出身地と残り日数を割り出しておきたいんだ。楓、お前は右の列を頼む」

「わかりました。……結構な数ですね」

 棺は一車両につき五十台ほど収納できた。これが4両目、5両目と続くため、棺の総数は三桁にも及ぶ。

 私はメモ書きのバインダーを片手に、ひとつずつ棺を開けてまわった。棺桶の中には、目隠しされ、さるぐつわまで嵌められた『罪人の魂』がいる。

 手足も拘束されており、身じろぐこともなかった。性別は問わず、若い者は十代の半ばから、老人に至るまで、老若男女が閉じ込められてる。

 そんな状態でも、棺の蓋が開いたことはわかるらしい。目の前の罪人は弱々しくも、さるぐつわを噛んで苦しげに呻いた。

「え、えぇと……カレードウルフ共和国の出身で、あと三十一日、と……」

 見ていられなくて、私は顔を背けてしまう。

 グロテスクなものを目の当たりにした際の、生理的な嫌悪感がひとつ。それを、ひとに対して感じてしまうことの自己嫌悪がもうひとつ。決して気分のいいものじゃない。

 これが嫌だから、という理由もあってお仕事をサボりがち。

「どうした? 楓」

 飛鳥さんは私と背中合わせになって、淡々と作業をこなしていた。

「なんでもありません。ちょっと、罪人と目が合った気がしただけです」

「目隠しされてるのに、か?」

 彼らは目隠しのみならず、耳栓まで嵌められている。

 何も見えない、何も聞こえない状態で、看守じみた私たちに積み荷扱いされるのは、どんな気分なんだろうか。

 地上の人間は死ぬと、その魂が地獄にやってくる。これが鬼火たちの本当の正体。

 しかし中には罪深さゆえに穢れた魂があって、ほかの魂や地獄を汚染してしまうの。負の感情を抱きながら死んだ人間の魂は、浄化が容易じゃない。

 そこで罪人の魂を引っこ抜き、汽車で四十九日間の地獄巡りをさせて、『生きている』うちに更生させる。それが私たち死神に与えられた役割だった。私たちは地上の各地を列車で駆けまわり、罪人の魂を集めたり、解放したりを延々と繰り返している。

 四十九日の旅によって、ほとんどの罪人らは己の罪を自覚し、更生したうえで地上へと帰っていった。ただし更生できないままタイムリミットを迎えた者には、処刑が待つ。

「飛鳥さん。最近……処刑ってしましたか?」

「いいや。お前が卒業してからは、まだ一度もないな」

 死神は処刑の執行人でもあり、私や飛鳥さんの刀はそのための道具だった。エイリークも大きな鎌を持っている。

 とはいえ私に処刑の経験はなく、飛鳥さんがするのを二回見ただけ。

「こいつらが猛省できるように監視してやってるんだ。脱落などさせんさ」

 仕事熱心な飛鳥さんは、これまでにたくさんの罪人を更生させてきた。タイムオーバーは彼らではなく死神の責任だ、とよく言ってる。

「こうして列車に乗ってるということは、本人に罪の意識がある、ということだからな。あとはきっかけ次第で、必ず地上に帰れる」

 それは正義感や責任感のみならず、飛鳥さんの特異性によるところが大きい。

「人間だったから、そんなふうに思えるんですか?」

 つい口を滑らせてしまい、私は気まずさに固唾を飲み込む。

「あ、ごめんなさい」

「気にするな。本当のことだしな」

 秋津飛鳥は今でこそ最強の死神でありながら、以前は普通の『人間』だった。罪人じゃないにもかかわらず、地獄の列車に迷い込んでしまったのを、スカウトされたという。

「あれからそろそろ十年か……。何も変わっていないのが怖いな」

 当時は高校生とやらだったらしい飛鳥さんは、ハイティーンの容姿を維持していた。地獄の住人になったことで寿命も延びたため、人間に比べて、歳を取るのも遅い。

 飛鳥さんは穏やかに笑った。

「人間のままだったら、今頃は結婚もしていたかもしれん」

「それって、好きなひとがいたってこと?」

「そういう縁はまるでなかったな。まあ、それだけいい女がいなかったのさ」

 人間としての人生を捨てる羽目になったのに、後悔を仄めかしたことは一度もない。それでも思うところはあるようで、ほんの一瞬、遠い目になった。

「あと十年経っても恋人ができなかったら、私が結婚してあげますよ」

「絶対にお断りだ。お前は妹でいい」

 私の冗談を、飛鳥さんは背中越しに一蹴する。

 私たちは髪や肌の色合いや質感が似ており、よく兄妹に間違えられた。だけど飛鳥さんが人間だったのに対し、私は目覚めた時から地獄の住人だ。そこが決定的に違う。

 私が目覚めたのは、ほんの三年前。

だから、死神稼業は飛鳥さんのほうがキャリアが長い。

「休憩にしませんか? 飛鳥さんのコーヒー、飲みたいなあ」

「始めたばかりだぞ。いいから黙って、手を動かせ」

「はあーい」

 今夜も汽車は煙を噴きながら、鬼火のトンネルをゆくのだった。

 

 

 翌朝、というには少し語弊がある。地獄には朝がなく、共通の時間という概念も存在しない。それでも私にとって、丸一日と言えるだけの感覚的な時間は経過していた。

 飛鳥さんと一緒に地獄に帰ってきてすぐ、死神の会合に直行する羽目に。私は万魔殿の大会議室で椅子をバランスよく傾け、ふんぞり返る。

「――なんてことがあったのよ、昨日」

 私の怒りに満ちた体験談を、友人のオルハ=エルベートは適当に流しつつ聞いていた。

「ふぅん、ひどい話ね。女の子を囮にして逃げるだなんて……死ねばいいのに」

 おしとやかな口からさらっとキツい一言が飛び出す。

 問題のエイリークは私の後ろの席で、椅子ごとひっくり返っていた。昨日の単独行動を忘れたみたいに声を掛けてきたので、グーでぶん殴ってやったのが、ついさっき。

「ねえ、楓……痛かったんだけど」

「痛くしてあげたの。そういうの好きでしょ」

 相棒を見捨てて逃げたんだから、一発で許してあげるのは慈悲よね。

 オルハが不機嫌そうにむくれた。

「そんな男、わざわざ構うことないわ。必要ないもの」

「生きていくうえでは不要ね、確かに」

 彼女のおかげで、私も意地悪な台詞をハイペースで思いつく。

 普段からオルハ=エルベートは品行方正である一方、他人に対して冷たかった。特に男子にはとことん厳しく、まともに会話が成立するのは、弟のヨシュアくらい。

 ただ私の場合は、万魔殿女子寮のルームメイトでもあるため、比較的仲良くしてもらっていた。あくまで比較的に。

「あなたもいけないのよ。エイリークごときに騙されちゃって」

「……面目ない」

 私は椅子を傾けるのをやめ、頭を垂れるように俯く。

 オルハはふうと一息ついた。

「変な暑さも、ましになってきたわね」

 万魔殿の一帯は年がら年中同じ気候であり、夏も冬もない。適度に雨が降る程度で、苛酷な秘境だらけの地獄では、過ごしやすい部類に入るだろう。

 もとより地獄は下層ほど『氷結地獄』と呼ばれ、寒いほうが安定していた。

 万魔殿があるここは、第一地獄カイーナ。地獄の中でもまだ浅い。

 この下に第二地獄アンティノラ、第三地獄トロメアなどが存在するらしい。そして、それぞれ上の層が下の層の蓋としても機能していた。

「地上のほうはもう秋じゃない?」

「そうねぇ。出るのも楽だわ」

 そんな地獄に対し、地上は地域によって気候が激変し、季節も異なる。北半球と南半球で、同時期に季節が逆転する、ということまであるそうだわ。

 地表を挟んで万魔殿の真裏にあるのは、霧湖町という名の街だった。万魔殿からもっとも近いため、私のように不真面目な死神が、遊び場として重宝している。

 そこは飛鳥さんの出身地でもあった。

 オルハがブレザーの長袖に指を引っ掛け、ぼやく。

「ねえ、こっちにも季節とか欲しいと思わない? 楓」

「どうして? 面倒なだけよ」

「夏と冬で制服が変わったら、面白いでしょ」

 死神には黒いブレザーの着用が義務付けられていた。決してデザインが悪いわけではなく、フォーマルな正装としての説得力もある。

しかしずっと同じ格好では、オルハみたいに敏感な女の子は飽きちゃうわけ。

「人間の学校じゃあるまいし……。せめて色だけでも選びたいわ」

「じゃあ、どんな服ならいいの?」

「それはもちろん」

 オルハはどこからともなく雑誌を取り出し、見せびらかした。そこには純白のフリルを花のように咲かせた、ゴシックロリータの少女が掲載されている。

「こういうやつ。可愛いでしょ! わたしが紫の着るから、楓は赤か緑で」

「ごめん。無理」

 瞳をきらきらさせるオルハの隣で、私は顔を引き攣らせた。

 オルハ=エルベートは私よりも小柄であり、華奢な身体つきをしている。ロングヘアは流麗に波打ち、肌もきめ細やかで、さながらお人形のような雰囲気をまとっていた。

そんな彼女だからこそ、喪服じみたブレザーでは物足りないんでしょうね。

 だけど私としては、制服のほうが有難い。手間よりも機能美を取るタチだもの。

「来月にはハロウィンだね。楓、仮装は決めた?」

 エイリークが起きあがり、強引に輪に入ってきた。さも当たり前のように女子の会話に割り込んでくる遠慮のなさも、毎度のこと。

「興味ないってば。大体あなた、去年も一昨年もサボってたじゃない」

「出し物も決めないといけないわね」

 エイリークを無視するオルハのスルーは安定している。

 万魔殿とその城下町では、恒例の行事としてたったひとつ、ハロウィン祭があった。人間の暦でいう十月の末に開催される。

 こればかりは死神全員が参加を義務づけられており、エイリークのようにサボるほうが珍しい。死神でなくとも地獄の住人、悪魔やモンスターも大勢が見物にやってくるわ。

 街じゅうに転がっているカボチャのランタンも、実はハロウィン祭の余り物。

「上の人間はあんまり騒がないのよね。ハロウィン」

 何気なく呟くと、オルハが意味深な視線を投げてくる。

「西洋は毎年大騒ぎよ。何ならわたしたちも仮装に混ざってみない?」

 彼女の提案はなかなか魅力的だ。

 けれども悪戯が好きなはずのエイリークが、口を尖らせる。

「それはだめ、絶対にだめ。楓は飛鳥さん以外の人間に関わっちゃだめなんだよ」

「三回も言わなくていいってば。あと、飛鳥さんはもう人間じゃないんだし」

 私たちは人間にあまり関わるべきではない。死神と人間は、裁く者と裁かれる者という関係にある。それは踏み越えてはならない境界線だった。

 飛鳥さんでもない限り、死神は裁くことを真剣に考えていないけど……。

「まあ人間のお祭りに参加なんてしたら、ママに怒られちゃうか」

 オルハのように親の存在がはっきりしているタイプは、幼い頃から『人間と関わってはいけない』と聞かされているらしい。

 地獄の住人でも、ひとや動物の形をしたものには大抵、親がいた。夫婦の間で赤ん坊として生まれ、人間と同じように育てられていく。

寿命は種族によってまちまちとはいえ、基本的に人間より長く、数百年を優に超える長寿もいた。ただし、ここで誰が何歳かを確かめる術はない。

死神の職場は年功序列じゃないんだもの。ごく一部の、それこそ飛鳥さんみたいな好事家……もとい努力家がどんどんのし上がっていく、成果主義に近い。

ほとんどの死神はヤル気ゼロだから、全員が同じランクでごった返していた。

 死神になる以前の段階には、見習いとして勉強するといった規定はあるものの、それ以降はまるで制約がなかった。辞めたいならいつでも辞めることができるし、続けたいなら延々と続けることもできる。

 そんないい加減なシステムのせいで、死神の人数が多すぎたり、少なすぎたりする時期もあった。十年前は人手不足も背景にあって、人間の飛鳥さんがスカウトされている。

「うるさいのよ、ママが。人間風情に負けてないで、高位の死神になれって」

「人間風情って、飛鳥さんのこと?」

 飛鳥さんの実力は折り紙つきで、万魔殿で知らない者はいない。

 オルハはふてくされ、やれやれと両手をひっくり返した。

「いいわね、楓は。うるさいのがお家にいなくて」

「ご飯とか自分で作らなきゃいけないのよ。そりゃ、毎日食べなくても大丈夫だけど」

 私たちにみなしごという概念はない。溶岩から生まれた炎の魔人や、泉から生まれた水の精霊なんて連中もいるんだし。そして私、秋津楓もそちらのタイプだった。

男女のつがいから生まれたのではなく、半ば自然発生的に生じたの。

「前世とか先代に当たるのが、たぶん楓にもいたんだろうね。それを捜して跡を継ぐってんなら、オレも手伝っちゃうよ」

「別にいいわ。興味ないし」

 おそらく先代が寿命をまっとうし、新しい魔人だか精霊として、秋津楓ができたのだろう。私の記憶は三年前、地獄の汽車の中から始まってる。

 万魔殿には私と同じタイプの種族も多かった。形がひとつに決まっていないものや、見た目に性別がないものは、概ねそれに当たる。

自然発生タイプでありながら、私みたいに『ひと』の形をしたものは珍しい。

そのため私には、家族という括り方もよくわからなかった。

「あなたの先代は雪女か何かでしょ」

「……あんまり嬉しくない」

「でも氷の使い手なんて、格好いいじゃない。氷結地獄っていうくらいだもの」

 死神はそれぞれ得意とする魔法の元素を持つ。飛鳥さんは炎で、私は氷、オルハは土で、エイリークは水といった具合ね。

こうして万魔殿で仕事をしていると、自然と魔力の扱い方が身に着く。それと並行して地獄の慣わしなども学べるため、遠方から子どもを寄越す親もいるほどで、中には魔王の息子なんていう実力者までいた。

「話を戻すけどさ、ハロウィンの仮装、女子はサキュバスってどう? 楓がボンデージでオレを誘惑してくれたりすると、嬉しいんだけどなあ」

「しないわよ。スケベ」

 冷たくしてもエイリークは喜ぶだけなので、刺々しい言い方は抑えめにしておく。

 オルハは頬杖のついでに溜息を漏らした。

「お祭り自体は嫌いじゃないんだけどね。地上の夏祭りなんかは楽しかったし」

「あなたの浴衣、可愛かったわ。さすがオルハって感じで」

「ふふっ。そうでしょ!」

 万魔殿の城下町にはカボチャのランタンこそあれ、まともな遊び場がない。喫茶店も、ブティックも、本屋も、映画館も。まさに『お祭りをしていない時の神社か公園』ね。

だから夏は地獄系の女子を集め、人間の花火大会に紛れ込んだりしてた。

「ちょっと、ちょっと! 聞いてないよ、オレ?」

 迷惑なことに楓主義者であるエイリークが、真剣に声を荒らげる。

 そんな彼を両手でどうどうと制しつつ、私は弁解した。

「女の子だけで行ったんだってば。あなたが着いてきたら、おかしいでしょ?」

「本当に女の子だけ、だったわけ?」

 私の交友関係になると、エイリークは疑り深い。同時に、それとはまったく別の理由で悔しそうに歯噛みする。

「浴衣、着たの?」

「えぇと……着てない、わよね? オルハ」

「せっかくのお祭りなんだから、あなたも着ればよかったのに」

 ナイス、オルハ!

 彼女が機転を利かせてくれたおかげで、エイリークも素直に引きさがった。

「そ、そうなんだ? ……それはそれで残念かも」

 本当はオルハたちと一緒に浴衣を着たんだけど、面倒くさいから秘密にしておく。

 エイリークは残念そうに天井を仰いだ。

「あーあ。結局、今年も楓を海に連れていけなかったなあ」

 私の水着目当てに毎日、それはもう毎日しつこく誘ってきただけに、夏には未練があるらしい。もちろん、そんなの私の知ったことじゃない。

「……そうだわ!」

 オルハがぱんっと両手を合わせた。

「もうじき十五夜でしょう? お月見なんてどうかしら」

 考えるまでもなく、私とエイリークは声を揃える。

「お月様がないんだけど」

「月がないよ?」

 地獄には太陽がないから夜が永遠に続くわけだが、それは月が存在する理由にはならなかった。窓の外では、濃紺の星空が薄い雲をまとっている。

「だから、地上でやるのよ。どう?」

 オルハの提案は大胆だった。

「なるほど。面白そう」

 私は二つ返事で賛成する。代わり映えのない日々に飽き飽きしていたところだったから、こじつけであっても、お誘いは嬉しい。

 そこまでは女子会のノリだったのに、またエイリークが絡んできた。

「オレも賛成。晴れるといいね」

「あなたは来なくていいわよ、エイリーク」

 無遠慮なエイリークを、オルハは拒絶したがる。

「まあまあ。仲間外れにしたら、こいつ、ひとりで泣いちゃうし」

 気まずくなっても困るので、エイリークに助け船を出してやることにした。なんだかんだでエイリークとの関係は、私が妥協することで続いている部分が大きい。

「あなたは鬱陶しくないわけ? まあ、いいわ」

 オルハは舌を吐きつつ、私の意見を尊重してくれた。実のところ、色男のエイリークがいれば女子を集めやすい、とでも考えたんでしょうね。

 気怠そうな死神ばかりの大会議室に、見知った顔が入ってきた。

「危ないことはするんじゃないぞ」

 ガルルッ。

 オルハの弟、ヨシュア=エルベート。それから飼い犬……もとい、飼い狼のクラトスだわ。クラトスもこれで正式な死神だったりする。

 ヨシュアはお姉さんのオルハではなく、最優先で私に声を掛けてきた。

「やあ、楓。大変だったみたいだね。秋津さんがぼやいてたよ」

「情報が早いわね」

 一方でクラトスはぷいっと顔を背け、冷めた調子で通り過ぎる。しかしそれは私に対する態度であって、飼い主であるオルハにはごろごろと懐いた。

「よしよし。満腹だから眠いって?」

 ガウッ!

 オルハに顎をくすぐるように撫でられ、ご満悦。彼女の膝にもたれ、あくびを噛む。

 いいなあ……私も撫でたりしたい。

 私はわざと余所見しつつ、クラトスの毛並みにこっそりと手を伸ばした。ところが狼は勘が鋭く、全身の毛を逆立てて吼え返してくる。私が触れる隙なんてない。

 ガウ! ガウッ!

「ご、ごめん。触らないってば」

「あははっ! 嫌われてるなあ、楓は」

 エイリークがさも愉快そうに私を冷やかした。

 クラトスは出会った頃から素っ気ない狼だったけど、私が無理に撫でようとしまくったせいで、今では取りつく島もない。

 それでも一匹狼を地でいくクラトスにはカリスマがあった。毅然とした顔つきと、粗暴でありながらも品格を感じさせる身のこなしは、狼の中でもダントツに輝いている。

 だからこそ、撫でたい。私だって気に入られたい。

 もうひとりの飼い主であるヨシュアが、私にこそっと耳打ちした。

「僕からクラトスに言ってみようか? 撫でたいんでしょ」

 大いに魅力的な誘いだわ。でもヨシュアの厚意に甘えてはいけない理由があって、私は迂闊に返事せず、お茶を濁す。

「ううん。これは私とクラトスの一騎打ちなのよ。卑怯な真似はしたくないし」

「……お願いだから、喧嘩はやめてくれよ」

顔馴染みが集合したところで、死神の会合が始まった。飛鳥さんや一部の死神は仕事中のため、欠席みたいね。私の隣はオルハが定位置で、エイリークは私の真後ろにいる。

 この面子が司会の話など聞くはずもなく、それぞれが適当に時間を潰していた。オルハは地上のゴスロリ誌を広げ、その膝元でクラトスはお昼寝。

 少し離れた席ではヨシュアがきょろきょろして、視線の先をぼかしてる。

 そして後ろのエイリークは、私の背中に何やら文字を書いていた。私の髪を遠慮なしにかき分け、その背を人差し指でくすぐる。

「なんて書いたか、当てて」

「死ね」

「……そんなこと書いてないでしょ」

 カタカナで『ス、キ、ラ、イ』だの書きやがった。

「どっちだと思う?」

「知らない」

 肩越しに振り向くと、優男の不敵な笑みが目につく。美形のせいで余計に胡散臭い。

「楓が思ってるほうが正解だよ」

 そして若干、気持ち悪い。

 やがて話を聞くだけ無駄な集会が終わった。議題は来月末のハロウィン祭で出し物がどうこう、だった気がする。去年とそう変わらないわね。

 汽車の整備に向かうべく、エイリークがすっくと立ちあがった。

「終わったら呼ぶよ。楓は遊んでていいから」

 私とふたりきりで旅行できるため、出発前のこいつはモチベーションが高い。

「あなただけに任せてられないってば。私も死神なんだし」

 もちろん私はエイリークに調子を合わせつつ、この男を飛鳥さんに売る気満々。昨日の今日で、見捨てられた件を忘れてやるはずもない。

「ね、ねえ。楓」

 ヨシュアが遠慮がちに割り込んできた。

「向こうで話したいことがあるんだけど……いいかな」

「……今じゃないとだめかしら」

 相手が彼だと、適度な距離を保っておきたい、と警戒してしまう。

 仕事の前に少しも時間がない、わけじゃない。それでも私は、ヨシュアとふたりきりになるのは避けたいがため、オルハたちに視線を向けた。

「さっさと行ってきたら?」

 だけどオルハは雑誌に夢中で、こちらに関心を示さない。クラトスも私を無視するに決まってる。そのうえエイリークまで、ヨシュアの接近を妨げてはくれなかった。

「大した話じゃないんでしょ? オレは先にホーム行ってるね」

 恋敵を挑発するような口ぶりにしては、呆気ない。

「……わかったわ。行きましょ、ヨシュア」 

私は小さな溜息をつき、渋々ヨシュアと一緒に会議室をあとにする。

万魔殿の回廊では、誰も片づけないカボチャのランタンが、あちこちで無造作に積みあげられていた。前から後ろから、死神がせわしなく行き来する。

 たまたま私の周囲に『ひと』の形の死神が多いだけで、いかにも死神らしい骸骨や、服を着たトカゲなんてのもいた。

 実はヨシュアやお姉さんのオルハも、私とは少し違う。

「こっちだよ、楓」

 ヨシュアが上機嫌になると、その頭の上に狼と同じ『お耳』が立った。毛並みのよい三角形がふたつ、ぴこぴことコミカルに動く。

 可愛いなあ……お耳だけは。

 ヨシュアたち姉弟もまた狼の一族であり、クラトスとは同族というわけ。

 人気の少ないテラスまで出て、ようやくヨシュアが切り出した。

「えっと、さ。楓って人間の映画とか、好きだよね」

「まあ……それなりに」

 淡々と受け答えする私とは対照的に、彼に落ち着く気配はない。舞いあがるまいとブレーキを掛けつつ、顔を赤らめてしまってる。

「友達に聞いたんだ。なんかすごく泣ける映画があるって」

 そこまで聞けば、私をデートに誘いたいことはわかった。映画が第一の目的なら、ひとりで見に行く選択肢だってあるもの。

「それって、恋愛映画?」

「え? そ、そうなる……かな」

 ヨシュアは恥ずかしそうに頬を染めた。お耳のせいか、お気に入りのご主人様に懐く、忠犬のイメージがしっくりくる。実際は狼なのに。

 それなりに好戦的な種族らしいけど、当の彼は温厚で、牙を剥くような素振りは一度も見たことがなかった。

エイリークみたいな嘘くさい優男でもなく、女子の間では地味に評価も高い。

 ただ、面白味がないのも事実だった。『いいひと』止まりのパターンだ。

「ごめんなさい。飛鳥さんに怒られたばかりだし、お仕事しないと」

 悪いと思いつつ、私は仕事を理由に誘いを断ってしまう。

 ヨシュアはしゅんとして、狼のお耳を俯かせた。

「そ、そっか……。僕のほうこそごめん。楓にも都合があるのに、誘ったりして」

「気にしないで。機会があったら、ほら、みんなで一緒に……」

 断った立場でフォローするのは苦しい。

 ヨシュアって、私のことが好きみたいなのよね……。それは私の自惚れじゃない。彼の優先順位において、秋津楓という女は間違いなく上位にあった。

しかし好きな相手を連れ出すくらいには積極的なくせに、いざふたりきりになると弱腰になって、撤退戦を始めてしまう。

「そういえばさっき、姉さんと何の話してたんだい?」

「ふぅん。狼の耳ってよく聞こえるのね」

そう悪くない雰囲気の中、彼が一歩引いてくれるのは正直ありがたかった。

私だって、好かれて悪い気はしない。しかしヨシュアのほうは、少なからず私に見返りを求めているのだから、どうしても双方の落とし所は違ってくる。

「オルハが、みんなで十五夜にお月見しようって」

「月がないじゃないか」

「だから地上で。あなたもどう?」

 オルハ主催のお月見なら、ヨシュアを誘うことに抵抗もなかった。デートを断った埋め合わせとして、使わせてもらう。

「面白そうだね、僕も参加するよ。あっ、もちろんみんなで、さ」

 ヨシュアが『みんな』という言葉を強調し、はぐらかす。それはデートに誘っているのではないよ、という定番の方便だ。彼の本音は表向きオブラートに包まれる。

 ほんとは私とふたりでお月見したいんだろーなあ……。

 それを臆病とは思わなかった。関係を破綻させるくらいなら、事なかれ主義でいたほうが気楽であって、その曖昧さに私も甘んじている。

「ちょっと、ヨシュア!」

 背後からヨシュアの頭を、誰かが雑誌でべしんと叩いた。

「あいて! ……あれ、姉さん?」

 クラトスを連れたオルハが、頬を膨らませる。飼い狼の嗅覚で追ってきたみたい。

「この子の世話はあなたの仕事でしょ! 忘れていってんじゃないわよ」

「ご、ごめん」

 お姉さんに敵わないヨシュアは、素直に頭を垂れた。

 けれども当のクラトスは、オルハのほうが好みらしい。名残惜しそうにオルハの足元にじゃれつき、切ない鳴き声をあげる。

 クゥーン……。

「情けない声出してないで。ヨシュアに可愛がってもらいなさい」

 それをオルハはぴしゃりと拒絶してしまった。クラトスの尻尾も垂れる。

 オルハ=エルベートは態度もでかいが、死神としての才能も申し分なかった。万魔殿では飛鳥さんに次ぐ実力者で、銃器の扱いにも長けている。

 それでいて幼い顔立ちと、容赦のない毒舌は、一部の紳士に好評だった。オルハの可愛いお口で思う存分に罵倒されたい、などという奇特な需要がある。

 エイリークみたいなのがゴロゴロいるわけね。

「ほら、クラトスは任せたから」

「え、ちょっと? 姉さん!」

 姉が飼い狼を弟にけしかけ、クラトスは渋々ヨシュアの傍についた。この珍妙な三角関係は、見ている分には面白い。

 おそらくオルハは私とヨシュアの関係を察してくれている。姉の友人に熱をあげるような初心な弟に、呆れているみたいだわ。

「あと耳は出さないのっ。コントロールできてないわよ」

「あれ? 出てる?」

 ヨシュアは自分で頭を触り、今さら狼のお耳が出ているのを自覚した。感情が昂ると勝手に出てくるんだって。それだけオルハのほうは落ち着いていることになる。

「じゃあね、楓、クラトス」

 優秀なお姉さんは踵を返し、早々に行ってしまった。

 呼ばれもしなかった弟が嘆息する。

「はあ……。怒らせるとおっかないからなあ、姉さんは。下手したら射殺されそう」

「弟相手に銃は出さないでしょ。いくらオルハでも」

 万魔殿の番付では一位が飛鳥さんで、二位がオルハ。三十位以下のヨシュアでは、オルハの相手は分が悪いどころか、もはや勝負にならなかった。

 かくいう私も実はちゃっかり九位にランクインしていたりする。勤務態度は別として、あくまで強さだけならね。

 ちなみにエイリークが七位で、クラトスは八位だ。私の実力は、そこの狼と拮抗しており、飼い主であるヨシュアは完全に立場がない。

「せめて十位には入りたいよ。姉さんには勝てないにしても、さ」

 決してヨシュア=エルベートが弱いんじゃないわ。勉強熱心な努力家で、知識の面では私やクラトスよりずっと上にいる。身体面でも狼の素質が働いて、タフだし。何より私の周囲では数少ない『常識人』である。

 とはいえ、死神の価値は生まれ持つ魔力の大きさで決まった。言ってしまえば『才能』の度合いであり、そこには努力では縮まらない差がある。

 ごくまれに優れた術式を自前で組みあげ、わずかな魔力で大きな魔法を操る天才もいるけど。飛鳥さんは持ち前の魔力の大きさに加え、その術式まで心得ていた。

「それじゃ僕も行くよ。お月見の詳細が決まったら、教えて」

「オッケー。またね、クラトスも」

 しょぼくれているクラトスを、ヨシュアが宥めながら連れていく。

 テラスで少し風に当たってから、私も持ち場に戻ることにした。汽車のメカニカルな整備はほとんどエイリークに任せてる分、中の掃除やら棺の管理は私が担当している。

 ふと、カボチャのランタンと目が合った。乱雑に置かれているだけで、誰のものでもない。手頃なサイズのそれを拾って、中を覗き込む。

 鬼火を追い出せば、即席のお面になった。

 こいつでエイリークを脅かしてやろうかな? ひっひっひ!

 カボチャのオバケに変身して、プラットホームへと急ぐ。化け物にしてはコミカルで愛嬌がありすぎるけど、見た目のインパクトはでかいはず。

 

「……何をやってるんだ? 楓」

「えっ? だ、誰のこと?」

 ところがカボチャのオバケは数分後、帰ってきたばかりの飛鳥さんと出くわして。一発で正体を見破られ、お説教を追加されるのだった。

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