破天荒行脚之巻~大聖不動明王伝~(前編)
日のいずる東方の地に争いあり。
百鬼夜行の物の怪が跳梁跋扈、それ魑魅魍魎とひとは言ふ。
妖魔に虐げられしはシャガルアの都、信仰は崩れ、世は乱れるが必定。
そんな折にて、獄中からいでしはひとりの巨漢。
坊主頭をぱしりと叩きて、こう言った。
まずは風呂、それから飯だ!
しばしの間、破戒僧の痛快なる小話にお付き合いを。
語るはシャガルアの巫女にあいなりまする。
御仏の都――そう呼ばれ、繁栄を極めた一大国家があった。
かつて聖者が苛酷な旅の末に訪れ、悟りを開いた土地だという。彼の教えは経典に収められ、やがて信仰を集めるに至った。それこそが御仏の都、シャガルア。
シャガルアは今や大陸東方の三分の一を支配下に置くほどで、その強大さは華皇国にも匹敵する。だが、シャガルアもまた盛者必衰の理から逃れることはできなかった。
十年前の妖魔大戦によって都は疲弊し、近隣諸国の間では反発が広がりつつある。御仏の教えも軽んじられ、ひとびとは次第に心の拠り所を失っていった。
その世を今一度正すべく、シャガルアの巫女ヒミカは法王より勅命を受け、護衛団とともに旅立つ。
そして半月に及ぶ旅の末、とある辺境の獄舎へと辿り着いた。
ヒミカの任務はハインという男を釈放し、シャガルアまで連れ帰ること。保釈金を支払うと、看守らはまるで商人のように揉み手を交え、愛想笑いを引き攣らせた。
「巫女様のご指示とあれば喜んで! どうぞ、どうぞ!」
「こっちだ、ハイン! 正面から出ろというんだ!」
しばらくして熊のような大男が姿を現す。
「ふう~」
坊主頭がつるんと照り返った。無精髭が伸び、強面の人相は山賊のようですらある。
法衣は着崩され、分厚い胸板が肌蹴ていた。大きな手が看守の頭を上から押さえつけ、ぐりぐりと無理やり撫でる。
「世話になったのお、オッサン! ワッハッハッハ!」
「二度と来るなよ? ぶち込まれるような真似は余所でやれ、余所で」
荒くれ者の破戒僧、ハイン。その悪名は今やシャガルアの都まで届いていた。
暴力沙汰や破壊行動は日常茶飯事、先月も米蔵を襲撃し、その場で御用となっている。当然、彼を逮捕するたびに僧兵は総力をあげ、負傷者も続出した。
だが、どこの獄舎も彼を制御できず、王様気分で寝床にされる有様。この獄舎も例外ではなく、釈放はむしろ歓迎された。
「あんたがおれを出してくれたんだってなあ。……なかなか美人じゃねえか」
圧倒されながらも、ヒミカははきはきと自己紹介を始める。
「私はシャガルアの巫女、ヒミカと申します。法王様より命を受け、あなたをシャガルアへお連れすることになりました。一緒に来てください」
法王の、ひいては都の目的はおそらく彼を更生させることだった。問題だらけの破戒僧とはいえ、腕っ節は強く、たったひとりで僧兵十人分の働きをする。妖魔と戦うにあたって、これほどの人物はほかにいないだろう。
「あなたの力が必要なのです。御仏に仕える身なら、なすべきことはおわかりでしょう」
しかしヒミカが真剣に話そうと、ハインは大きな欠伸を噛むだけ。
「ふあぁ……そんなことより、まずは風呂。それから飯だ!」
「……はい? あっ、ハイン殿!」
巨体でずんずんと地を踏み鳴らしながら、勝手に離れていこうとする。
「どこへ行くのです!」
「だから『風呂』だと言ったじゃないか。おれに用があるってんなら、待ってな」
釈放してもらったことに恩など、まるで感じていない様子だった。ヒミカも護衛団も唖然として、追いかけるのを忘れそうになる。
「ま、待ってください! あなたは私とシャガルアへ行くのですよ!」
「おーおー。風呂のあとも憶えてたらな」
投げやりな彼の後ろ姿には一抹の不安を禁じえなかった。
銭湯で一服したら、次は飯屋へ。
ヒミカの持ち金でハインは腹を満たしてしまった。
「ふ~! 食った、食った!」
「ど、どれだけ食べるんですか……」
護衛は煙たがれるため、ヒミカはひとりで彼と相席する。食べる量にも驚かされたが、それ以上に遠慮のなさには、もはや呆れてものも言えなかった。
お茶を飲み干し、ハインはおもむろに席を立つ。
「さあて。そんじゃ、おれはこれで」
「は……? ハイン殿、話を聞いてなかったのですかっ?」
ヒミカはお膳に両手をつき、声を荒らげた。
「法王様がお呼びなのですよ? ハイン殿には一刻も早く都に来ていただきたい、と」
「やれやれ、やかましい嬢ちゃんだなぁ」
「嬢ちゃ……わ、私は十九です!」
子ども扱いも癇に障り、大柄なハインを強気に睨みあげる。
ハインは肩を竦め、どかっと座りなおした。
「まあ聞け。ええと……あんた、名前はなんつったっけ」
「ヒミカです」
「じゃあ、ヒミカ。ちょいと落ち着いて考えてみろ? ここでおれが『力ずくで逃げた』ってことにしちまえば、いいじゃねえか」
思いもよらない提案をされ、ヒミカは目を丸くする。
「……どういう意味ですか?」
「わかんねえやつだな。おれは勝手に逃げた、あんたの責任じゃねえ。……それなら、あんただけでシャガルアに帰ったって説明はつくだろ? 誰もあんたを責めねえさ」
護衛団で連行したところで、この男がおとなしくするはずもなかった。明日には逃走されてしまう気がする。
それをヒミカが止められなかったとしても、当たり前のこと。むしろか弱い巫女に悪名高い大男を運ばせようとする、法王とやらの判断のほうがおかしかった。
「ですが、これは勅で……」
「勅だろーと何だろーと、おれには関係ねえ。あんたももっと賢く生きな」
ハインにしてもヒミカに従う気はさらさらないらしい。
実際、ヒミカも今回の任務には疲れ始めていた。慣れない長旅を強いられ、野宿の際は寝込みを妖魔に襲われたこともある。早く安全な寺院に帰りたい。
(……いいえ、その気持ちは護衛のみなも同じ)
だからといって、法王の命に背くわけにもいかなかった。
勅とはただの命令ではない。全身全霊をもって取り組むべき『使命』なのだ。これを怠慢ゆえに放棄したとなっては、ヒミカは直ちに巫女の資格を剥奪されるだろう。
「そんじゃあな」
「まっ、待ちなさい!」
立ち去ろうとする彼の道着を、ヒミカはしかと掴む。
経典の教えに背くことはしたくなかったが、ほかに手もなかった。
「今回の保釈はまだ『仮』のもの。私と一緒にシャガルアへ来ない限り、あなたはまた追われることになるんですよ? ハイン殿」
「脅しとるつもりか?」
脅迫など、敬虔な巫女がすることではない。それ以前に華奢な女がどう啖呵を切ったところで、彼のような巨漢には涼風に等しかった。
「私たちと都へお越しください」
それでも真剣に見上げてやると、ハインは根負けしたかのように折れる。
「……まあよいか。どうせ行くあてもないんだ、付き合うてやる。三日もすりゃあ、あんたのほうから『消えてくれ』と言うだろうしのぅ」
「そんなこと言いません」
「わかった、わかった。ただし支度くらいはさせてもらうぞ」
かつての聖者と同じくシャガルアを目指して。
巫女と破戒僧の長い旅が始まった。
☆
三日ほど一緒に過ごして、わかったことは多い。
ハインは荒くれ者ではあるものの、意外に博識で色々なことを知っていた。経典の教義にも精通し、梵字も達筆。外見からは信じられないほどの知性に溢れている。
肉体の鍛錬においても余念がなかった。朝は誰よりも早く起き、日課の身体作りで汗を流す。護衛団の僧兵たちでさえ彼の運動量には追いつけなかった。
また子どもに対しては穏やかでもある。
「ばいばーい、おじさん!」
「おれぁまだ二十三だ。オジサンなんて歳じゃねえんだぞ? ヘヘッ」
とりあえず彼が暴力を振るうような場面は一度もなかった。品行方正な僧侶には程遠いが、犯罪者というほど性根の悪い人物でもないらしい。
ハインがヒミカの容貌をしげしげと見下ろす。
「しっかし……あんた、そんななりで、よく都から身包み剥がされずに来れたのう」
ヒミカは絢爛な法衣をまとい、金の錫杖を携えていた。誰もが一目でシャガルアの巫女とわかる風体で、旅の道中はあちこちで食事や寝床の提供を受けている。
「御仏の慈愛はみなの心に通じているのですから。賊もいずれは己の所業を恥じ、悔い改めることでしょう」
しかしヒミカが真摯に信仰を説こうと、破戒僧は鼻で笑った。
「へえー。都の連中はあんたみたいな暢気者ばっかりかい」
「暢気者……とは、どういう意味でしょうか」
「わからんのか? あんた、妖魔大戦はもう終わったとでも思っとるんだろ」
十年前、大陸の南東部で大事件が勃発している。
突如として夥しい数の『妖魔』が現れ、シャガルアを脅かしたのだ。辛くも都は侵攻を免れたものの、シャガルアの領土は荒れ放題となってしまった。
都は天魔ラムーヴァを召喚することで、妖魔の軍勢を鎮圧。この戦いは『妖魔大戦』と呼ばれ、各地に無数の傷跡を残している。
「このあたりはまだ平和なもんさ。だが、もっと東のほうは酷いもんだぜ……さっきのと変わらねえ歳のガキが、素っ裸で物盗りしてんだからな」
ハインの言葉はあまりに現実離れしており、俄かには信じられなかった。
「そ、そのようなこと……妖魔大戦から、もう十年なのですよ?」
「妖魔大戦だけじゃねえだろ。復興したなんて言えるかい?」
だが反論もできない。妖魔大戦のあともシャガルアは次々と災厄に見舞われた。
災害、疫病、そして反乱――シャガルアの支配も今や揺らぎつつあり、遠方には離反を始めた国家もある。
それだけ『信仰』は力を失っていた。
「ここらでだって金がなけりゃ、食い物も足りてねえ。あんたの綺麗な『おべべ』を売り飛ばしゃあ、みんなが腹いっぱい食えるってのによ」
「……っ!」
「暢気にしてられんのは、あんたらだけさ」
着慣れたはずの法衣を急に重たく感じる。シャガルアの巫女に相応しい優美な装いが、罪深いものにさえ思えてきた。
「……………」
押し黙っていると、ハインが坊主頭をぽりぽりと掻く。
「おっと、悪い悪い。別にあんたを苛めるつもりはなかったんだ」
「あ、いえ……勉強になりました」
錫杖を握り締め、ヒミカは雑念を振り払った。
ハインが話題を変えようと目を逸らす。
「それにしても殺風景だのぅ。そろそろ田植えの時期のはずなんだが、なあ……」
一面の田んぼは乾いた土が剥き出しになっていた。水路もすっかり干上がっている。
農村の男たちは農具も持たず、無念の表情で肩を落としていた。
「何かあったのでしょうか……」
「かもしれん。……よし! おれが一丁、確かめてやろうじゃないか」
ハインが道着を脱ぎ、護衛の僧兵に無理やり預ける。
「ヒミカ、お前の法衣を貸してくれ。杖もだ」
「え? これを、ですか?」
首を傾げながらも、ヒミカは豪奢な法衣と錫杖をハインに手渡した。裾の丈はまったく足りないものの、ハインでもそれなりに高僧らしい風貌となる。
「ここで待っておれ」
彼はにやりと唇を曲げ、農民らに近づいていった。
「失礼。道をお聞きしたいのだが……」
「で、でっかい坊さんだなあ」
村人はハインの大男ぶりに気圧され、あとずさる。しかし身なりのよさから高位の僧侶と思ったようで、律儀に応じてくれた。
「ところで、何かお困りのご様子……拙僧にもお話くださらんか? なぁに、こんなものは旅の僧の気まぐれ。他言せぬこと、御仏に誓いましょうぞ」
ハインは恭しい物腰でヒミカの祈りを真似る。
「そうだなあ……坊さんなら、まあ」
「話してどうなることでもねえけどさ。実はここらの領主様が、先週……」
あらかたの事情を聞き終え、大柄な僧侶はもう一度祈りを捧げた。
「御仏の祝福があらんことを」
「オラたちなんかのためにありがとうごぜえます、お坊さん」
そして笑いを堪えつつ、ヒミカのもとへ戻ってくる。
「むふふふ……面白くなりそうだぞ、こいつは」
「ハイン殿? 彼らは何と?」
「領主の屋敷へ行くぞ! シャガルアの巫女ご一行として、挨拶もせんとなあ~」
まっすぐ都へ向かうつもりが、早々に寄り道することになってしまった。
ヒミカたちは領主シカログの豪邸を訪れる。
守衛たちはヒミカがシャガルアの巫女と知るや、態度を軟化させた。いそいそと領主に取り次ぎ、屋敷へと招き入れてくれる。
「おれとヒミカだけでいい。おぬしらは外で待っておれ」
またしても護衛の僧兵は遠ざけられ、ヒミカはハインとふたりだけになった。
「先に行ってろ。すぐに行く」
「は、はあ……」
そのハインも一旦離れ、先にヒミカだけ庭へと案内される。
言葉通り破戒僧はそそくさと戻ってきた。
「何をしてたんですか? ハイン殿」
「まあまあ。おれに任せておけ」
中庭の盆栽を眺めながら、領主のシカログを待つ。
農民の話によれば、シカログは最近になって上流貴族から錦鯉を譲り受けたという。しかし日照りが続き、池の水位も下がっていた。これでは鯉が死んでしまう。
そこでシカログは農村の水路に手を加え、自分の屋敷にだけ水が流れるようにしてしまったのだ。そのせいで農民は田植えもできず、途方に暮れている。
ヒミカとしても許し難い所業だった。
「説得でしたら、私が……御仏の慈悲をもってすれば、シカログ殿も改心するでしょう」
「寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。悪党が説法なんざ聞くわけねえだろ」
しばらくして、豪邸の主が縁側に姿を現す。
「よくぞ参られましたなあ、シャガルアの巫女様!」
シカログは歯を見せて笑った。
表向きはヒミカも無難な挨拶で応じる。
「突然の訪問、恐れ入ります。私はシャガルアの巫女ヒミカと申す者」
「いえいえ! 巫女様のお手伝いができるのでしたら、喜んで尽力致しますとも」
ヒミカのような聖職者の一行は、旅先でこのような歓迎を受けることが多々あった。それは無論、相手がのしあがるための伝手を求めてのこと。
シャガルアの巫女を助けたとなれば、箔もつく。
「長旅でお疲れでございましょう。今夜はぜひ我が屋敷でお寛ぎください。もちろん、お付きのかたにもお部屋を用意させますので」
「数々のご厚意、恐れ入ります。御仏もお喜びになりましょう」
そのことには世間知らずのヒミカも気付いていた。だから援助を受けるだけに留め、過度な接待などは断っている。
「ところで、巫女様。我が庭園はいかがですかな?」
シカログは草履を履き、縁側から降りてきた。
客を庭へと案内させたのは、自慢の中庭を披露するためらしい。小太り気味の家主とは打って変わって、庭の造りには繊細な趣向が凝らされている。
噂の錦鯉とやらも池で泳いでいた。
「もとは枯山水だったのですが、鯉を二匹もいただきまして、作り変えたのですよ。我ながら、都のご貴族様にもひけを取らないものと自負しております。ハッハッハ」
何も知らなければ、ヒミカも頷いただろう。
(確かに綺麗だけど……)
しかしこの庭は農民らの生活を犠牲にしていた。たかが鯉のために村の水路を独占し、田んぼを枯れさせている。
その事実を追求するべく、ヒミカは口を開いた。
「シカログ殿。あなたは農家のかたがたのことをご存知で……むぐっ?」
が、ハインの大きな手に口を塞がれる。
「いやあ、見事な庭園ですなあ! 盆栽の枝ぶりも立派ではございませんか」
「ほお! おわかりになりますか? ええと……」
「おっと、申し遅れました、拙僧の名はハイン。ヒミカ様の護衛を務めておりまする」
ハインはにっこりと朗らかな笑みを浮かべ、おべんちゃらを振るった。
「どうですかな? 今夜は拙僧らと一杯。この出会いを一日限りのもので終わらせてしまっては、御仏のお導きを無下にするというものですぞ」
甘い誘いにシカログも乗ってくる。
「ええ、ええ! 私もヒミカ様の説法を拝聴したく思っておりまして」
「ワッハッハ! 話のわかる御仁ですなあ、シカログ殿は!」
早くもふたりは意気投合してしまった。
残念ながら都の僧にも道を外れ、悪徳領主や資産家と癒着するような輩がいる。いたずらに民を苦しめ、自分たちは甘い蜜を吸っているのだ。
『寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。悪党が説法なんざ聞くわけねえだろ』
そのようなこと、本当はヒミカも身をもって思い知らされていた。
(ハイン殿、あなたはどうするつもりで……?)
ハインが急にぶるっと震える。
「……にしても冷えますなあ。どれ、ちょいと厠へ失礼」
「お待ちください。今、案内を……ん?」
しかし彼はシカログに構わず、ずかずかと池の傍へ歩み寄った。そして、あろうことか魔羅(まら)を出し、堂々と粗相を始めたのだ。
じょぼじょぼじょぼ~!
錦鯉は驚き、池の中を逃げまわる。
(……は?)
あまりに奔放な振る舞いにヒミカは度肝を抜かれ、目を点にした。シカログもあんぐりと口を開け、ハインの放水ぶりに唖然とする。
「……………」
家主の前で、屋敷の池に。
ヒミカにとっては『女性の前で』も加わり、時間が凍りつく。
「ふい~っ。さっきの茶がいかんかったの」
魔羅を引っ込め、ハインは次にシカログへと迫った。
シカログははっとし、怒りで顔を赤くする。
「ききっ貴様! なんという狼藉を……ヒミカ様、この男は何者でございますか!」
「わ、私にも何が何だか……」
「ええいっ、曲者じゃあ! であえ! であえ!」
家主の怒号が響き渡る。
しかし衛兵はひとりとして駆けつけてこなかった。
「……どうしたっ? 誰でもいい、こやつをひっ捕らえい!」
「そいつは無理ってもんよぉ、ご領主様。屋敷の連中にはちょいと『おねんね』してもらったんでなあ。実はあんたにお願いがあるんだ」
とうとうハインの手がシカログの首を掴み、力任せに持ちあげる。
「今すぐ水路を元に戻してくれんかのう? 田んぼが干上がってしもうてなー。農民も迷惑しとるんだ、これが」
「はっ、放さんか、貴様! わしを誰だと思っておる?」
爪先立ちの姿勢を強いられ、シカログは苦悶した。
「ん~? あんた、ご自分の立場ってのが、まだわかってねえみたいだなァ」
それでもなおハインは容赦せず、彼を逆さまに持ち替える。
そして彼の頭を、小便臭い池にどぼん。
「おわっぶ? へぶ、ごぼぼっ!」
「聞こえてっか? 水路を戻してくれっちゅう話よ。それ、もう一回!」
二度、三度と繰り返し、シカログを拷問する。
「おげえっ、やめ……こんなんで、えぶぅ、話ができるひゃっ!」
「あんたが独り占めした水だろーが。ほうれ、もっと飲め」
ヒミカは我に返り、慌てて制止に入った。
「お、お待ちなさい、ハイン殿! やり過ぎです!」
「まあ見ておれ。どうだ、シカログ? このままじゃ小便なんぞで溺れ死ぬぞ?」
ようやく池から頭を引き抜かれ、シカログは激しく咳き込む。
「ゲホッ! ゴホ! よ、よくもわしに……先生っ! コーマ先生ぇ~!」
不意に奇妙な影が庭を横切った。
それを見上げ、ヒミカはまさかと顔を強張らせる。
「なっ……よ、妖魔?」
屋根の上にはひとりの妖魔が佇んでいた。羽根を広げ、居丈高に声を響かせる。
「情けないやつめ、シカログ。……まあよい。こいつはオレ自ら葬ってやるとしよう」
人間と同等の知恵を有し、妖術に長ける魔の一族。妖魔大戦を引き起こした悪鬼が、シカログと結託していたようだった。
ヒミカは錫杖を掲げ、退魔の札を指に挟む。
「さてはあなたがシカログ殿を唆したのですねっ? 許しません!」
「フン。小娘の分際で勇ましいではないか」
それをコーマは涼しい顔で流し、屋根から降りてきた。
シカログが勝利の笑みを浮かべる。
「コーマ先生、こやつを懲らしめてくだされ!」
「安心しろ。すぐに片付けてやるとも」
妖魔は冷酷な目つきでハインを睨みつけ、鋭利な爪を舐めあげた。ハインのほうもシカログから手を離し、コーマを相手に構えを取る。
「……やはりな。この気配は妖魔のものであったか」
「私も戦います! ハイン殿」
「だから、あんたは黙って見てろ」
ハインとヒミカのふたりを前にしても、コーマは余裕を崩さなかった。
「やれやれ……女はともかく、男のほうは馬鹿だな。多少は腕に自信があるようだが、丸腰で妖魔のオレに勝てるとでも? フフフ」
「……………」
対し、ハインは沈黙に徹する。
コーマの爪が伸び、ハインの喉笛を貫くべく襲い掛かってきた。
「人間風情が! 挽肉にして、そこの魚の餌にして――ぶげっぱらあッ?」
ところが一瞬にして殴り返され、吹っ飛ばされる。コーマは屋根に激突し、瓦とともにシカログの傍へ落下した。
「ひいいいっ? コ、コーマ先生?」
ハインの拳が煙を燻らせる。
「大した雑魚だな」
またしてもヒミカは目を点にして、半ば放心してしまった。
(このひとは一体……?)
実体の希薄な妖魔を素手で張り倒すなど、普通の人間にできるはずがない。苛酷な修行の末、ひと握りの僧侶だけがその力を許される。
「どれ、もう一発いっとくか」
「アワワワ……」
さしもの妖魔もハインの巨躯を前にして、恐怖の色を浮かべた。
「ででっ出来心だったんですゥ! 神キドリの真似して、イイ思いをしようと……」
「わかった、わかった。続きは閻魔様に……ん?」
そこへ変わった風貌の青年が割り込む。
「初めに言葉があった」
彼は聖書を開きつつ、妖魔に聖水を振りかけた。
「それは神の言葉であった。汝、聖なる地より立ち去るべし、と」
妖魔の足元で魔方陣が浮かび、眩いほどの光を放つ。
「な、なんだこれは……ギャアアア~ッ!」
光の中で妖魔は塵と化した。青年は聖書を閉じ、一息つく。
「……ふう。おかげで簡単に片付けることができました。ありがとうございます」
「そのなりは……西方の僧侶か。さっきの退魔法も初めて見たぞ」
彼の力にはハインも目を丸くした。
「これは失礼しました。僕の名はロベルトです」
「おれはハインだ。で、こっちのが……ぼーっとしてねえで、お前も挨拶しろっての」
「あ、はい! 初めまして……シャガルアの巫女、ヒミカと申します」
はっと我に返り、ヒミカも自己紹介を済ませる。
領主のシカログはまだ腰を抜かしていた。
「コーマ先生が……お、お前らは一体、何者なのだ?」
ロベルトが愉快そうに笑みを含める。
「あなたがシカログさんですね。いいことを教えてあげましょう。残念ながら、あなたは低級の妖魔に騙されていたんです」
「わ、わしが?」
妖魔に踊らされているなど、彼は考えもしなかったらしい。
「さっきのような妖魔に神キドリは不可能です。ただ……あなたは妖魔に手を貸し、神キドリの秘術に失敗したことになります。ですから、近いうちにあなたには神キドリの贄だけが要求され、災厄に見舞われるでしょう」
プロの僧侶にまくし立てられ、シカログは蒼白になった。
「そっ、そんな! ど、どうすれば助かるんだ?」
「ほかのひとを災厄……要するに苦しみから救ってあげることですね。そうすれば、神キドリに失敗した分は帳消しにできます」
神キドリは知っているものの、彼の言葉にヒミカは首を傾げる。
(失敗したら、帳消し? 何を言ってるのかしら……)
シカログは平伏し、必死に頭を下げた。
「言う通りに致します! ですから、どうか今日のことは内密に~!」
「やれやれ。調子のいいやつだ」
ハインは坊主頭を撫で、橙色の夕空を眺める。
☆
そのあとはシカログ邸の近くで宿を取り、酒の席が催された。ハインとロベルトはすっかり意気投合して、上機嫌に盃を交わす。
「実は僕、東方のお酒が大好きなんですよ。この焼酎が飲みたくって、今回の任務を引き受けたくらいで……あっはっは!」
「わっはっは! なんだよ、お前さん、澄ました顔して笑い上戸だったのかい」
半刻と経たないうちに、ふたりとも顔が真っ赤になってしまった。
ヒミカは渋々、お茶で同席する羽目に。
「あまり飲みすぎないでください。明日も早いんですよ?」
「固いこと言うなって。そんなんじゃ男も寄りつかねえぞ? なんてなあ」
「女性といえば、ハインさんはどうなんですか? そっちのほうは」
ハインとロベルトはヒミカに遠慮もせず、いかがわしい話題で盛りあがる。
「おれはもちろん、こう……むっちりとだなァ」
「いいえ、胸は小さいくらいが……幼児体型なのを恥ずかしがったりしてですねえ」
「おいおい! お前、そっちの趣味はまずいんじゃねえの?」
また笑い声が響いた。
「わっはっはっは!」「あっはっはっは!」
ロベルトが男前なだけに、幻滅せずにいられない。
(男のひとはまったく……西方の教えはどうなってるんですか?)
とはいえ、ハインたちのおかげで事態は収束した。シカログはロベルトの言葉が真っ赤な嘘とも知らず、大急ぎで水路の工事に取り掛かっている。
おまけにシカログから口止め料として、結構な金をもらってしまった。ヒミカは断ったものの、ハインが大喜びで受け取ったことは、言うまでもない。
ひとしきり飲んで笑って、やっとロベルトも落ち着いた。
「ふう……いやあ、向こうだと『ロベルトに飲ませるな』って敬遠されてまして。こんなふうに飲んだのも久しぶりです」
「ハハハッ。理解者がいねえのはつらいよなあ、お互い」
「まったくですよ。……ところで、シャガルアの巫女がなぜ都を出て?」
ふたりから酒を遠ざけつつ、ヒミカはこれまでの経緯を明かす。
「こちらのハイン殿を一日でも早くシャガルアへお連れするのが、私の使命なのです」
「迷惑な話だぜ。まあ、こっちは保釈金を払ってもらっちまったからなあ……」
シャガルアの巫女がじきじきに獄中の囚人を連れ出した。およそ公にできることではなく、ヒミカにも後ろめたい気持ちはある。
「ロベルト殿はどうして東方へ?」
「わかりました。これも何かの縁、お話しましょう」
ロベルトは酒気を払いのけると、神妙な面持ちで語り出した。
「僕は『神キドリ』の実態を調査するため、西方教会より派遣されてきたんです」
その言葉にヒミカは息を飲む。
ひとびとは時に『得体の知れないもの』を『神』として奉り、崇めることがあった。やがてそれは本当に力を持つようになり、ひとびとに加護を与えてくれる。
だが、あくまで神を『気取って』いるに過ぎない。それはひとびとに信仰という見返りを求め続け、従わない者には災厄をもたらした。
「私も聞いたことはあります。古くは召喚術のひとつだったとか」
「それですよ。僕たちエクソシストは神キドリを一種の悪魔召喚ではないかと、懸念してまして……実は僕もシャガルアへ向かう途中なんです」
ヒミカにとっては眉唾もの。とはいえ都の史書にも神キドリの記録は残っている。
ハインが真剣な顔で呟いた。
「なるほど、合点が行ったぞ。妖魔大戦の『後始末』が残っとるわけだ」
「はい。おそらくすでにシャガルアの都は……」
話が見えず、ヒミカは首を傾げる。
「どういうことですか?」
「あんたはどこまで暢気なんだよ。妖魔大戦が終わっても、災害やら疫病やらが立て続けに起こっとるだろう? ロベルトはその原因を言っとるんだ」
夥しい数の妖魔を蹴散らし、シャガルアを救ったのは、かの天魔ラムーヴァ。ラムーヴァは法王らの呼びかけに応じ、七日に渡って死闘を演じたという。
「ラムーヴァが『神キドリ』だとしたら、どうですか?」
「――っ!」
突拍子もない事実を突きつけられ、ヒミカはお茶を零してしまった。
「ま、まさか……ラムーヴァ様はれっきとした『神』ですよ? 不敬なことは……」
「だったら、都のほうは今も穏やかだってのかい?」
「……それは、その」
反論しようにも、図星を突かれて口ごもる。
「そうではありません……。都では今、数多の妖魔が跋扈し……ひとびともシャガルアを『魔都』と恐れ、逃げ出すほどなのです」
領主シカログの一件を経て、ハインを都へ連れていく理由もはっきりとした。
彼は妖魔を素手で倒せるのだ。シャガルアで妖魔を掃討するにあたって、これ以上の適任者はほかにいないだろう。
しかしハインの言葉はヒミカの予想さえ超えていた。
「十年前の妖魔大戦のツケが返ってきた、というわけか……」
「……は?」
「だから、都で妖魔が悪さをするようになったのは、ラムーヴァの仕業ってこった」
神キドリは災厄をもたらす――先ほどの話とも辻褄は合う。
長きに渡る妖魔大戦によって、シャガルアは疲弊した。それを機に遠方の属国が次々と離脱し、シャガルア一強の支配体制は瓦解しつつある。
そのせいで、ラムーヴァへの感謝祭も延期されるばかりだった。
「ラムーヴァほどの力をもってしての神キドリです。このままでは、いずれシャガルアのみならず、東方の全土が災厄に見舞われることでしょう」
「まずいことになっとるのぉ」
ヒミカは青ざめ、瞳を強張らせる。
「で、では……こたびの一連の災厄は、すべてラムーヴァ様が……?」
「そうじゃねえ。妖魔大戦でラムーヴァをこき使うだけこき使って、あとは知らぬ存ぜぬでいるシャガルアの連中が、自分で撒いた種なのさ」
ハインとロベルトは硬い表情で口を揃えた。
「残念ですが、シャガルアは真実を公にはしないでしょう。それこそ、今も続く災厄の責任を認めることになるのですから」
「秘密裏に片付けようってわけだな。もう遅いと思うが……」
シャガルアの巫女としての矜持が揺らぐ。
(ラムーヴァ様が……シャガルアが、そんなことを?)
天魔ラムーヴァが神キドリであったこと。シャガルアの法王たちが保身に走り、隠蔽工作を進めていること。しかも自分はその片棒を担がされていた。
ハインがロベルトの盃に酒を注ぎ足す。
「どうだい? ロベルト、おれたちと一緒に来ねえか。こいつと護衛団の僧兵どもじゃ、辛気臭くてのぉ……お前みたいなのがいてくれっと、こうやって飲めるしなァ」
「誘っていただけるなんて光栄ですよ。ぜひご一緒させてください」
ロベルトも笑い上戸に戻った。
「どうです? 少し寄り道しては。この先に酒造で有名な街があるそうで」
「いいねえ! 金も手に入ったことだし、お楽しみと行くか」
(ほんとにもう、このひとたちは……)
真剣な雰囲気から一転して、酒飲みどもの宴会は続く。
☆
その夜は宿にて。なかなか寝付けず、ヒミカは風に当たろうと縁側へ出た。
そこでハインと鉢合わせになる。
「……あら? ハイン殿」
「奇遇だな。あんたも眠れないのかい」
彼は湯飲みを傍に置き、ぼんやりと月を眺めていた。
「今夜はよく晴れとる……西方でも、同じ月が見えるらしいな」
「もっと東の島国に、そんな歌を詠んだひとがいましたね」
それを思い出し、ヒミカはしとやかに口ずさむ。
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
ハインは目を閉じ、静かに聞き入っていた。
「……あんた、意外に男も口説けるんじゃないか」
「そ、そんなつもりでは……」
暴れん坊のはずの巨漢が、今夜は金色の月光に照らされ、敬虔な僧にも思えてくる。
「ロベルト殿は寝てらっしゃるんですか?」
「調子に乗って、つい飲ませちまってな。まあ強ぇみたいだし、大丈夫だろ」
彼はふうと息をつくと、まるで独白のように囁いた。
「……シャガルアに行かねえとなあ」
ヒミカははっと顔をあげる。
「その通りです! 力を貸してください、ハイン殿。都を救うために」
たとえラムーヴァの仕業であって、法王らに企みがあろうと、苦しい思いをしているのは都の民。彼らを救うことはヒミカの純然な願いでもあった。
「ハイン殿ならきっと多くのかたを救えるはずです」
「持ちあげるなって。おれは道を踏み外した『破戒僧』なんだぜ」
おそらく彼もなすべき使命を感じている。
シカログの件においても、やりかたはどうあれ、ハインのおかげで農民たちは困窮を免れた。またシカログに引導を渡すことはせず、反省の機会を与えている。
「聞いてもいいですか? どうして、あなたは牢の中に?」
ハインは懲りない調子ではにかんだ。
「凶作だってのに商人が米を独占してやがったから、米蔵を襲ったんだよ。ありゃあ傑作だったぞ? 商人のドラ息子が村人から必死に逃げまわってよぉ。わははっ!」
粗暴なようで優しくもある。
(これでお酒を飲まなかったら、いいひとなんでしょうけど……)
不覚にもハインに男気を感じてしまったのが、悔しかった。
再びハインは月を仰ぎ、上の句を口ずさむ。
夜風吹き 酒酔う友へ また勧め
下の句はヒミカが詠んだ。
木々赤に枯れ 美しき哉
顔を見合わせて、ふたりは笑いを堪える。
「……ふふっ、ごめんなさい。せっかくの歌が凡作になってしまいましたね」
「悪くねえさ。おれも下の句は考えてなかったしな」
そして一緒にもう一度。
夜風吹き 酒酔う友へ また勧め 木々赤に枯れ 美しき哉
これは友人と飲んだあと、秋の夜景を眺めてのもの。しかしハインの上の句には、彼の本心が見え隠れしていた。
さけようともへ、またすすめ。
避けようとも進め。
ハインほどの力があれば、いつでも逃げ出せる。それでもヒミカとともにシャガルアを目指すのは、彼にもまた何かしらの理由があってのこと――かもしれなかった。
調子が狂わないうちにヒミカは腰をあげる。
「それじゃあ、私はそろそろ……ハイン殿も早く休んでください」
「おうよ。また明日……ぬ?」
ところがハインは俄かに顔色を変え、ヒミカの肩を掴んだ。
「待て、ヒミカ。ちょっと脱いでみろ」
ヒミカはあんぐりと口を開ける。
「……は? ななっ、何を言ってるんですか!」
「そういう意味じゃねえ。あんた、自分の背中がどうなってるか、知らんだろ?」
ハインの言動には鬼気迫るものがあった。男が女を、などという雰囲気ではなく、かえって一抹の不安に駆られる。
ヒミカはおずおずと寝巻をずらし、彼に少しだけ背中を覗かせた。
「あ、あの……私の後ろに何か?」
「……まずいな」
ハインは溜息をつき、坊主頭をぱしんと叩く。
「起きてくれ、ロベルト! こいつは厄介なことになったぞ!」
「う~ん……どうかしたんですか? ハイン殿……」
真夜中に叩き起こされ、ロベルトは眠そうに目を擦った。しかしヒミカの背中を目の当たりにするや、一気に覚醒する。
「こっ、これは! アザが梵字に……?」
「ご丁寧に『贄』と書かれとるんだ」
背筋にぞっと悪寒が走った。ヒミカは青ざめ、肩越しに尋ねる。
「ハイン殿、梵字のアザとは……まさか、私の身に何か起こってるんですか?」
梵字とは神聖な文字であって、悪鬼の類が易々と使えるものではなかった。文字そのものが魔力を持つため、シャガルアでも一部の僧にのみ使用が許可されている。
「ヒミカさんを狙ってのものでしょうか? この呪いは」
「いや、旅の途中で『転嫁』された可能性もある」
ただの呪いではなかった。聖なる梵字を使っている以上、これは『神罰』に近い。
「そんな……神様のお怒りを買うなんてこと、私には身に覚えがありません! 何かの間違いではないのですか?」
「残念だが、あんたは標的にされとる。……シャガルアはあとまわしだな」
巫女の背中には恐るべき宣告が刻まれている。
『うら若き生娘よ。我が贄となれ』
夜空の月は厚い雲に覆われ、闇の気配が濃くなった。
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