トライアングルサモナー ~召喚士の恋人~

第6話 黄昏の決戦

 茜色の太陽は西の山間へと沈みつつあった。

 ツォーバ王国は防衛網を張り、天界と魔界、双方からの襲撃に備える。北はロイドの騎士団が、南はリュークの奇兵団が守りにつき、索敵に神経を尖らせていた。

 だが、総攻撃が始まるような気配はない。北の空から天使は降りてこず、南の海上から悪魔の船団が現れることもなかった。

 ロイドがペガサスで、リュークもワイバーンで、城の屋上へと一旦戻ってくる。

「静かすぎるね。リューク、君のほうは?」

「何もねえよ。ウォーロックのやつ、でまかせ言ったんじゃねえのか?」

 王国の民はすでに東に抜け、城下町から退去していた。城の屋上から一望できるオレンジ色の街並みは、不気味なほど静まり返っている。

 みんなは大丈夫かしら……?

 アンナやアスタロッテらは民とともに、ここを離れた。

しかし再三の進言にもかかわらず、クレハ女王は頑なに逃げようとしない。夕空のもと椅子に腰掛け、険しい表情で黙りこくっている。

「……………」

その老いてなお屹然とした存在感は、無言であっても兵の士気を高めた。ツォーバの代表者としての気高い矜持を、若きフランにまざまざと見せつける。

やっぱりすごいわ、女王様って……。

下僕を契約で従えているだけのフランには、真似できそうになかった。

 ロイドが屋上の陣営を見渡す。 

「フラン、ウォーロック殿はどこに?」

「お城にいるとは思うけど……お爺ちゃん、気配がないから」

 祖父は『やることがある』と言って、今朝から姿を見せていない。

 北の夕空を鳥の群れが横切っていった。未だ敵は現れず、時間だけが過ぎていく。

 このまま戦争は起こらないのが一番よかった。そんな願望が皆の頭にもよぎっているのだろう。フランは女王から預かった懐中時計を見下ろし、平穏な夜を待つ。

 クレハ女王の瞳がきらりと光った。

「出てきなさい」

その人差し指がおもむろにフランの背後を指す。

「……女王様?」

「そこにいるのはわかっていますよ。主神オーウェル、冥王ハーディアス」

 フランはぎくりとして、間合いを取りながら振り向いた。ミノタウロスが即座にフランの前に立ち、斧を構える。

 後ろにいたのはメタトロンとルキフグスだった。

「お、お逃げください、フラン様、ロイド様! ぐっ、ぐぅう……ッ!」

「わたしの中に入ってくるな! ぐあっ……があぁああっ!」

どちらも苦しそうに胸元を押さえ、発作に陥る。異様な言葉を発しながら、ふたりはくずおれ、ついには動かなくなった。

 ロイドが慎重にメタトロンへと神槍グングニルを向ける。

「まさか、この威圧感は……オーウェル様なのか?」

 リュークも魔剣カラドボルグを抜き、ルキフグスを睨みつけた。

「ご本人が来やがったな? 冥王のジジイめ」

 メタトロンが白い羽毛の翼を、ルキフグスが黒い皮膜の羽根を広げる。それだけで衝撃波が起こり、ミノタウロスの後ろにいるフランも、踏ん張らなければならなかった。

「ふたりとも、あたしの契約下にあるはずよ? どうして……」

「ハハハッ! 未熟者め、この程度ではネクロマンサーの足元にも及ばんぞ」

 うろたえるフランをよそに、ルキフグスが夕空に高笑いを響かせる。

 メタトロンも表情を別人の、おそらく主神のものに変えた。自身の指が思い通りに動くのを見詰めながら、ほくそ笑む。

「フム、天使の身体も悪くない。さて……地上に降りたのも十六年ぶりか」

「この十六年、ネクロマンサーの戯言に付き合ってやったのだ。もう邪魔はさせぬ」

 メタトロンとルキフグスと対峙するべく、クレハ女王が腰をあげた。老いた身体を杖で支えていようと、中立の王としての威厳を放つ。

「あなたがたがいらしたことは、かえって好都合です。ミーシャ様とジニアス様の忘れ形見が綺麗になった姿を、こうしてお見せすることができるのですから」

 彼女の視線がちらっとフランに向いた。

「……大丈夫よ、ミノタウロス。心配しないで」

フランは腹を括って、前に出る。

「ご紹介に与りました、フラン=サモナーです。初めまして……『お爺様』方」

 育ての親である骸骨以外を祖父と呼ぶことに、抵抗はあった。しかし主神や冥王の孫だという事実は、この場においてこそ、重要な意味がある。

 メタトロンもルキフグスも、十六歳のフランをしげしげと眺めた。

「ほう、我が娘ミーシャによく似ている。髪の色合いは特にな」

「娘は父親に似る、というだろう? よく見ろ、この顔つきはジニアスの名残だ」

 祖父同士の張りあいに、一同は息を飲む。

 天と魔の血を引き、両方の力を併せ持つ、唯一無二の存在。それは、凌ぎあいを続けながらも拮抗していた天界と魔界のバランスを、大いに傾ける可能性があった。

 ルキフグスが不機嫌そうにリュークをねめつける。

「さっさと連れてこい、と命令したはずだぞ? リューク」

「焦るんじゃねえって、言ったじゃねえか。こいつにだって都合が……」

 同じようにメタトロンもロイドに視線を刺した。

「我が威光をこの娘に届ける、と豪語していたのは、お前ではなかったか? ロイドよ。よもや魔界の王子と手を組んで、ツォーバの防衛にまわるとは」

「万一に備えてのことです。あのウォーロックから、総攻撃、と聞きましたので」

「フン。これ以上、お前に任せてなどおけんな」

 賢者が予知したような総攻撃の気配はない。とはいえ、主神と冥王が現れたことで、城の屋上は緊迫感に包まれていた。

 本当に主神と、冥王……なんだわ。

前に立つフランも息が詰まりそうになる。

「フランよ、天界に来るがよい。わたしのもとでフラン=オーウェルとなり、この大地も海も、我らの崇高な秩序で正すのだ」

「違うな、おれと魔界に来い。フラン=ハーディアスを名乗らせてやる。ククク……世界が待っているぞ? おまえを女王として迎えることを、な」

 フラン=サモナーを未熟者と見下しながら、両者はフランの獲得に固執した。語るほど躍起になって、口達者に誘いを投げかけてくる。

「さあ、我が孫娘フランよ!」

「そいつに騙されるな、フラン!」

 彼らにとって、フランにはそれだけ大きな価値があるようだった。賢者がフランを『心臓』に喩えたのも、あながち間違いではないのかもしれない。

 クレハ女王が杖で足元をトンッと叩いた。

「……この子がどちらを選ぶにせよ、あなたがたはまた、この地上で戦争を始めるのでしょう? それはミーシャ様とジニアス様の望むところではありません」

「だから十六年も待ってやったのだ! もういいだろう!」

 気の短いらしい冥王が癇癪を起こす。

「フラン=サモナー、いや、フラン=オーウェルに使命を果たす時が来ただけのこと。地上の蟻の分際で、我々と同じ目線で語ろうなど、頭が高いわ!」

 主神も声を荒らげ、怒気ひとつで空気を震わせた。

 フランを庇うようにロイドとリュークが躍り出て、それぞれ一度は武器を降ろす。

「オーウェル様! なにとぞ、ご猶予を!」

「まだフランは何も知らねえんだよ。あと一年くらい待ってやっても……」

 王子たちの宥めるような口出しが、いっそう気に食わなかったのか、メタトロンとルキフグスはともに怒号をあげた。

「「ふざけるなっ!」」

 メタトロンが右手を掲げ、金色の指輪を光らせる。

ルキフグスの左手にも銀色の指輪があった。

「ま、まさか……」

見覚えのあるそれに、フランはぎくりと瞳を強張らせる。持ち主であるはずのリュークとロイドもはっとし、指輪のない手で武器を構えなおした。

「てめえ、いつの間に? そいつは俺が貰ったんだぜ!」

「お待ちください! その指輪は、フランの力がないことには」

 主神も冥王も唇の端を吊りあげる。

「お前たちでは持て余すのも、無理はない。だが我々なら、この指輪からフランの術式に干渉し、ウォーロックの召喚術を……フフフッ!」

「思いのままに使えるというわけだ! ネクロマンサーの十八番を、な!」

 ふたつの指輪が波動を放った。

 夕空が裂け、向こうから怒涛の雷が落ちてくる。城下町の大通りには亀裂が入り、そこから赤い溶岩が噴き出した。城がぐらぐらと揺れ、皆は一様にたじろぐ。

「きゃあああっ!」

「み、みなの者! 今すぐ剣を……」

 クレハ女王も号令どころではなく、杖の置き場を迷わせた。

 空の裂け目をくぐり抜け、天使が大挙として押し寄せてくる。同時に巨大なドラゴンが地面を突き破り、灼熱の溶岩にまみれながら、獰猛な咆哮を轟かせた。

「あの天使たちは……ウラヌス隊を呼んだのかっ?」

「カオスドラゴンだと? 冥王の野郎、ここを潰す気かよ!」

 メタトロンがふわりと浮遊し、天使の軍を統べるように、その中心で翼を広げる。

「ハーッハッハッハ! これがウォーロックの召喚術か、素晴らしい!」

 ルキフグスも城の屋上から離れ、カオスドラゴンの頭部に乗った。

「貴様らのウォーゲームとやらの真似事みたいで癪だが……ククッ、仕組みは大体わかったぞ。もうネクロマンサーの専売特許にさせん」

 フランたちの本陣は、天使の群れとドラゴンの巨躯によって、逃げ場なしに包囲されてしまう。あとはメタトロンらの命令ひとつで、全滅という結果が見えていた。

 ミノタウロスの傍らで、フランは悔しさを噛み締める。

 そんな……お爺ちゃんの魔導なのに……。

 ウォーゲームの時とは違い、召喚を丸ごと肩代わりさせられたのではなかった。おそらく門外不出の術式を暴かれ、自己流で用いられている。

「さて、フランよ。我が孫娘よ。どうする……?」

 メタトロンの囁きが暗示めいて聞こえた。

 ルキフグスも声のトーンを落とし、フランに脅しをかけてくる。

「おれと来るなら、ほかは見逃してやらんでもない。ただし、おまえが天界につくというなら、カオスドラゴンの炎でそいつらを灰にするまで」

「魔界を選べば、我が忠実なる天使たちが、ことごとく罰をくだすと思え」

 どちらを選んだところで、もはや戦闘は避けられそうになかった。もとより主神と冥王は互いを『敵』と認識している。

「無理よ、あたしには……」

とても選べなかった。クレハ女王たちを犠牲にする、という選択肢がそもそもない。

 天界と魔界の勢力を撤退させ、全員で生き残る方法。その方法こそ偉大な賢者に授けて欲しかった。だが依然として、頼みの祖父は現れない。

「……メタトロンよ。余興を思いついたぞ」

「なんだ? ルキフグス」

 彼らのやりとりにフランはふと違和感を覚えた。

 どういうことなの? 主神とか冥王って、本当は一体……?

主神には『オーウェル』、冥王には『ハーディアス』という名があるはずなのに、彼らは憑依対象のメタトロン、ルキフグスと呼びあっている。

「このままフランを悩ませていては、夜になってしまうわ。この場は双方の王子に任せてみるのは、どうだ? クックック」

「なるほど。こちらのロイドと、そちらのリュークで、決着をつけるわけか」

 メタトロンは天界の王子ロイドに、そしてルキフグスは魔界の王子リュークに、淡々と冷酷な命令をくだした。

「ロイドよ。リュークを倒し、フランを迎えよ。ならば、今回は兵を退いてやろう」

「リューク、おまえもだ。ロイドを殺し、今度こそフランを奪え」

 ロイドとリュークの顔に驚愕の波が走る。

「僕が……君と?」

「ロイドと戦え、だって……?」

 唐突な提案にはふたりとも戸惑った。ちらちらとフランのほうを窺いながら、相手に武器を向けることを、互いに躊躇う。

ロイドはリュークを、リュークはロイドを、ライバルでありながらも友人として認めていた。それがわかっているからこそ、フランも困惑し、おいそれと口を挟めない。

ロイドとリュークで決闘だなんて……!

 天界の王子と魔界の王子は間合いを取りつつ、神妙な面持ちで黙りこくっていた。その緊張感に痺れを切らしたらしいメタトロンが、魔法のビジョンを浮かべる。

「ええい、さっさと始めよ!」

 そこにはアンナとアスタロッテの現状が映し出された。遠方の丘の上から、不安そうにツォーバ城のほうを眺めている。

「お前に焦がれていたのは、この女だったか。フフフ、天の雷で黒焦げにされたくはあるまい? ならば、グングニルでリュークを貫くことだ」

「オ、オーウェル様っ!」

 都合が悪いことを暴露されたとばかりに、ロイドが取り乱す。

 リュークもルキフグスになじられ、業を煮やした。

「みなまで言わずとも、わかるな?」

「悪趣味なやつらめ……チッ」

 いたいけなアスタロッテがリュークに好意を抱いているかは、わからない。ただ、懐かれているリュークとしては、アスタロッテを見殺しにできるはずもなかった。

 ロイドのほうはリュークよりも青ざめている。

「……本当なの?」

「すまない。僕は君のため、彼女を拒み……彼女を傷つけた」

 その告白を聞いた途端、フランの平衡感覚が揺らいだ。

 アンナが密かにロイドに好意を寄せていたことが、ショックだったのだろうか。アンナに同情したのかもしれない。だが、ロイドがアンナを拒絶したという事実に、恐ろしくも安心してしまっている自分がいた。

 気付かなかったわ、全然……。

 アンナの友達を自負していたつもりなのに。

 そんなフランの自己嫌悪を感じ取ったのか、ロイドはリュークをまっすぐに見据え、グングニルを構えた。神槍の刃がヒュッと風を切る。

「やるしかないようだよ、リューク」

「……本気か? てめえ」

「僕は君に二度も負けてるんだ。三度目は勝って、フランを手に入れる」

 ロイドの吹っ切れたような気迫に、リュークも魔剣カラドボルグで応じた。

「しょうがねえな。ただし、俺がここで殺るのは、ロイドだけだ。ほかの連中に手出しはなしだぜ? 冥王のジジイ。もちろん主神もな」

「ち、ちょっと待って! ふたりとも……」

 止めようと前のめりになったフランを、ミノタウロスが制する。

「ミノタウロス? どいてったら」

「ンモォー(男の勝負だ)」

「それどころじゃないでしょ! このままじゃ、ロイドとリュークが……!」

 ほかの者も押し黙り、決闘が始まるのを待っていた。これでは割り込むこともできず、フランはせめて、両手を祈るように合わせる。

 ロイド、リューク、お願いだから……無茶はしないで!

 先に動いたのはリュークだった。

「いくぜっ!」

前に踏み出すとともに跳躍し、ロイドの頭上から奇襲を仕掛ける。魔剣カラドボルグはリュークの意志を受け、変幻自在に宙を舞った。

ところがロイドは魔剣に構わず、神槍グングニルでリュークの着地を狙う。

互いの脇腹を刃が掠めた。それが皮切りとなって、応酬が始まる。

「て、てめえ……まじかよ?」

「君のほうこそ。僕はフランが欲しいんだっ!」

 グングニルとカラドボルグが続けざまに打ちあって、鋭い金属音を響かせた。ロイドの刺突は前後の間合いに、リュークの斬撃は左右の間合いに強い。

その交差点で刃がぶつかり、リードを奪いあった。

「悪く思うなよ、ロイド!」

 リュークが宙の魔剣を手に取りつつ、ロイドの突きをしゃがんで、いなす。

 しかしロイドはそれを読み、刺突の動きを途中で変えた。棒高跳びの要領でグングニルをバネにして、リュークの頭上にまわる。

「型に嵌まっただけの槍だと思ってくれるなよ、リューク!」

「くっ? てめえ、まだそんな力が」

 バック転で間合いを取りなおそうとするリュークを、さらにロイドの槍が追撃した。

 ミノタウロスの腕にしがみつきながら、フランは声を張りあげる。

「もうやめて! ちゃんと選ぶ、あたしが選ぶからっ!」

 どちらかを失うなど、耐えられなかった。優しいロイドも、無邪気なリュークも、フランにとってはかけがえがない。必死に声を搾り出し、涙ながらに訴えかける。

「ロイド! リューク! もうそこまでに……」

 だが、ふたりの王子は戦いに熱中し、フランの悲痛な言葉さえ聞き入れなかった。クレハ女王やミノタウロスは固唾を飲んで、決闘の成り行きを見守っている。

「これで最後だ、リューク!」

「させるかっての! いい気になってんじゃねえぞ!」

 ロイドとリュークは全身の力をたわめ、突撃に弾みをつけた。西の山間に夕陽が沈みゆく中、ふたつのシルエットが真っ向から激突する。

 ところがロイドも、リュークも、刃を交えることなくすれ違った。

「……けっ、本気かと思ったぜ!」

「そいつは僕の台詞だ!」

 ロイドの神槍がルキフグスを、リュークの魔剣がメタトロンに狙いをつける。

 彼らが芝居を打っていたことに、フランはようやく勘付いた。

 ふたりとも、このために決闘のふりを?

 マスターさえ倒せば、召喚によって呼び出された天使やドラゴンも消え去る。この四面楚歌の状況を打開するには、もっとも効果的な一手だった。

 ところがルキフグスは眉ひとつ動かさない。

「そんなことだろうと思っていたぞ、天界の王子め!」

 あらかじめ準備していたらしい暗黒の魔法を、ロイドに目掛けて放つ。まさか、とフランが振り向いた時には、メタトロンがリュークに稲妻を打ち込んでいた。

「隙を見せたのは貴様のほうだ、魔界の王子よ!」

 突撃の姿勢だったロイドもリュークも、撃墜され、くの字に折れる。

「なんだと? うおおっ!」

「ぐぁあああっ!」

 ふたりの王子は武器を落とし、人形のように崩れた。彼らが魔法で撃たれる、ほんの一瞬の光景が、フランの網膜に嫌というほど焼きつく。

「ウ……ウソでしょ……? だ、だって」

絶望の色を浮かべるフランをよそに、メタトロンは不機嫌そうに眉を顰めた。

「……フン。この機に魔界の王子を葬ってやるつもりだったが、貴様も同じことを考えていたとはな。小憎らしいやつめ」

「痛み分けか、つまらん」

 同じ表情でルキフグスも吐き捨てる。

 クレハ女王は老いた美貌を怒りで染め、わなわなと震えた。

「なんということを……主神に冥王ともあろう者が、このような真似を」

「先におれたちを騙そうとしたのは、そいつらだろうが。さて……遊びは終わりだ」

 アンナとアスタロッテのビジョンがかき消える。その最後の表情は何かに驚くかのようで、フランは真っ黒な不安を禁じえなかった。

「我が天の怒りを知るがよい! 地上の虫けらども!」

メタトロンが指輪を掲げると、天使の群れが一斉に動き出す。

「焼き尽くせ! フランを残し、すべてを!」

ルキフグスの指輪に呼応して、カオスドラゴンは灼熱の炎を吐き散らした。あっという間に城下町に火の手がまわり、ツォーバ城を孤立させる。

陽の沈んだばかりの夜空が、下から赤々と染まった。天使が流星群のごとく飛来し、ツォーバ王国軍へと襲い掛かっていく。

「ひ、怯むな! 女王陛下とフラン様をお守りしろ!」

「殺ラネバ、コッチガ殺ラレルゾ! 戦エ!」

ロイドの天界騎士団と、リュークの魔界奇兵団も、巻き添えを食った。フランの下僕であるゴブリンやオークたちも応戦するものの、後手にまわって、追いつかない。

目の前で不意に爆発が起こった。

「きゃあああっ!」

華奢なフランは宙に投げ出され、気を失う。

 

目が覚めた時には、ツォーバ城は瓦礫の山と化していた。

「う、うぅん……あたし、どうなった、の……?」

なのにフランだけは無傷でいる。ミノタウロスは深い傷を負い、血まみれになりながらも、フランを固く抱えていた。

「ミノタウロス? あなた……左目が!」

「ン、ンモォー」

 周囲には瓦礫とともに兵の亡骸が転がっている。ある者は天使の槍に貫かれ、ある者はドラゴンに踏み潰されたあとだった。フランは戦慄し、真っ青になる。

 ……どうして、こんなことに?

 十六年の平和は一日にして終わった。話に聞いていただけの凄惨な地獄絵図が、フランの視界を埋め尽くす。炎のせいで、息をしているだけでも熱い。

 今は天界のウラヌス隊と魔界のカオスドラゴンが凌ぎを削っていた。すでにツォーバ王国軍には関心がないらしい。城下町を勝手に戦場として、さらに炎を巻きあげる。

 ロイドとリュークは仰向けに横たわっていた。

「ロイドっ! リュークっ!」

フランはミノタウロスの腕を降り、ふたりのもとへと駆け寄る。

「しっかりして! あたしよ、わかる? お願いだから、返事を……」

「……き、君かい? フラン……」

 かろうじてロイドの声が聞こえた。リュークも苦しげに血を吐いて、のたうつ。

「ちくしょ……せっかくてめえが、ゲホッ、合わせてくれたってのによぉ」

「僕たちが浅はか、だったのか? フラン……すまない」

 決してふたりのせいではなかった。主神や冥王の威圧的かつ不遜な態度からして、最初からフラン以外を消すつもりだった可能性が高い。

 そのうえ召喚術の極意を奪われ、総攻撃に用いられた。

フランの心で、経験したことのない絶望と憤怒が波を打つ。この戦闘だけでも、大勢の下僕を死なせてしまった。その罪悪感もまたフランを痛いほどに打ちのめす。

「ごめんなさい……ひっく、ごめん、なさい……!」

 相棒のミノタウロスまで重傷を負った。それでも誰も自分を責めないのが、悲しい。

「泣いている場合ではありませんよ、フラン」

 よろよろと杖を頼りに歩み寄ってきたのは、クレハ女王だった。ドレスは煤け、靴も片方がなくなっている。

「女王様? でも、あたしは……」

 そのような女王の身を案じる余裕さえ、今のフランにはなかった。涙を溜めた瞳で彼女を見上げ、自分が座り込んでいることに初めて気付く。

「それよりロイド殿とリューク殿です。おふたりとも、さすが、天と魔の系譜にある王子ですね。それほど血を失ってもなお、わずかに生命の息吹を感じます」

「世事はやめろ……冥王の直系なんざ、はあ、反吐が出るぜ」

 まだ悪態をつく余力が、リュークにはあった。

 ロイドが頭をもたげ、歯軋りする。

「僕らはここで、終わり……なのですか?」

 ふたりとも無念の表情で、そう遠くない死を待つほかなかった。

クレハ女王が目を閉じ、回答を躊躇う。

「ひとつだけ、方法があります」

その背中で紅蓮の翼が羽根を散らした。フェニックスが炎のごとく召喚される。

「この子があなたたちに力を……いえ、命をくれるそうです」

 生命を司る精霊フェニックスには、死者を蘇らせるという奇跡の力があった。ただし、かつてクレハ女王が迷ったように、『ひとり』しか救うことができない。

「ロイド殿か、もしくはリューク殿か」

 天使の軍勢がカオスドラゴンを取り囲むような状況の傍らで、フランはまったく別のことに息を飲んだ。混乱していたはずの頭が、残酷なくらいに冷静さを取り戻す。

 誠実で優しい天界の王子か、無邪気でぶっきらぼうな魔界の王子か。

「どちらかなんて……無理です。選べません……っ!」

 片方を見殺しにすることなど、できなかった。

ロイドを選べばリュークを失い、リュークを選べばロイドを失う。だが、どちらかに決めなければ、両方を死なせるだろう。

 かといって、どちらかに割りきれるほど、怜悧にもなれない。

ひとの命は数で帳尻を合わせられるものではなかった。それを痛感しながら、フランはどうしても『選べない』と、かぶりを振る。

「ほかのみんなだって、あたしのせいで、たくさん死んでるのよ? そんなことができるんなら、みんなを生き返らせて! フェニックス!」

「無茶を言うでない、フランよ。じゃが、ふたりを助ける方法は、ないわけではない」

 遠まわしな物言いが聞こえた。ないわけではないのだから、あるということ。

瓦礫の陰から祖父がゆらりと現れる。

「お爺ちゃん! どこにいたのよ、こんな時に……」

 ところが全知全能であるはずの賢者は、手足を鎖で繋がれていた。

「おぬしらを見捨てたこと、言い訳するつもりはない。それでも、わしにはやらねばならぬことがあった。フラン……おぬしに、わしの力のすべてを継承させたいのじゃ」

鎖が鈍い光を放つ。

「お爺ちゃん? 継承って……?」

 フランは涙ぐむ瞳を瞬かせて、鸚鵡返しに呟いた。

「天と魔、双方の力を併せ持とうと欲すれば、わしのように身を滅ぼす。言葉通りにな。じゃから、おぬしには基礎しか教えることが叶わんかった」

 祖父が骨の手で印を結ぶ。すると鎖が放射状に伸びきり、賢者の四肢を拘束した。

「わしはこの世の理から外れた者。ゆえに、わしが主神や冥王を討つことは、許されぬ」

「主神と、冥王を……」

 忌々しくもある名が聞こえたのか、瀕死のリュークが身じろぐ。

「お、俺が、ぶっ殺してやる……ネクロマンサー、その力、俺によこせ……!」

「だめ、だ……リューク、君ひとりで戦わせなど……僕も……!」

 ロイドも満身創痍の身体を起こそうとした。声は掠れ、今にも消え入りそうになる。

「わしの持てるすべてと、フェニックスの力が合わされば、ロイドとリュークを救うこともできるじゃろう。……なぁに、わしは滅びはせんから、そこは安心せい」

「ふたりとも助かるのね! じゃあ、すぐに」

 フランは立ちあがり、賢者の傍まで駆け寄った。降って湧いた希望に縋りつく。

「……両方を選ぶ、か」

 ところが祖父は、もったいぶるのではなく躊躇って、術式を始めようとしなかった。

 その真意を察したらしいクレハ女王が、おもむろに口を開く。

「生命があるべき姿を、魔導の力で偽るのです。ロイド殿とリューク殿は、二度と普通の人間には戻れなくなる……そうでしょう? 先生」

「さすがはわしの一番弟子よ」

 フランの希望は瞬く間に色褪せてしまった。祖父が非情な回答を口ずさむ。

「ふたりを召喚術の下僕とし、フラン、おぬしが使役するのだ」

 ロイドとリューク、どちらかひとりを『人間』として蘇らせるのか。それとも、ふたりを『人間以外』のものとして、獣のように従えるのか。

どうしてこんな選択ばかりなの……?

 瓦礫の山の上空で、天使たちの雷撃とカオスドラゴンの火炎が激突した。

 決めあぐねている時間もない。メタトロンかルキフグス、この激戦を制したほうが、今にフランを奪いに来るだろう。

 ロイドは屈辱の涙を浮かべながら、新たな契約の主に懇願した。

「お願いだ、フラン……僕たちに、はあ、戦う力をくれ……。冥王だけじゃ、ない……主神オーウェルにも、君を渡し、なる……ものか」

 リュークも血に汚れた唇で、うわごとのように呟く。

「いいぜ……俺も。ここでお前を守れず、死ぬくれぇ、ならよ……」

 祖父はウォーロックとして、またネクロマンサーとして、ふたりに釘を刺した。

「本当によいのか? フランの下僕となったら、おぬしらは女と結ばれ、家庭を築くこともできん。いずれフランがほかの男と愛しあうのを、黙って見守ることになろうぞ」

「……ヘッ、そいつはキツイな」

「同感だ。少し……悩んでしまったじゃ、ないか……」

 フランにとっても、ロイドやリュークを生涯の伴侶として選ぶことは叶わない。

 主神と冥王の血を引きながらも、娘は両親の想いを受け継いで、地上の平和を願った。その結果がツォーバ王国の崩壊と、仲間たちの死。

「……ごめんなさい。ロイド。リューク」

 フランは涙を拭くと、意を決し、祖父と向かいあった。

「お爺ちゃん、力をちょうだい」

「うむ。フランよ、我が叡智を糧として、真の『召喚士』となれ!」

 鎖で雁字搦めとなった賢者の叫びに呼応して、無数の魔方陣が浮かぶ。

 魔方陣は蜂の巣穴のように並んで、瓦礫の山を立体的に包囲した。その中央で賢者が真っ白な光に焼かれ、断末魔を轟かせる。

「天の王よ! 魔の王よ! とくと見るがよい、我が召喚術の神髄を! フラン=サモナーの敵にまわったこと、悔やむがよいぞ……グハアァアアアッ!」

「お、お爺ちゃ――」

 フランの全身に熱いものが流れ込んできた。滝のようなエネルギーが体内を駆け巡り、フランの魔力を変容させていく。

 上空のメタトロンとルキフグスが動きを止めた。

「……なんだ?」

「この力は召喚術……なのか?」

 城のあった一帯が眩い光で満たされる。

 その光の中でフランは、ロイドと、リュークと、温かい手を取りあった。フェニックスの炎が燃え盛って、血の色の死を焦がし、命の色へと塗り替える。

 光の中から一頭のペガサスが飛翔し、いなないた。その背に跨るのは、天界の王子ではなくなったフランの下僕、青髪のロイド。

「いくぞ、グングニルっ!」

 全身全霊のエネルギーをグングニルの槍に集束させて、カオスドラゴンへと真っ向から突撃する。巻き込まれた天使どもは、羽根をもがれた蜻蛉のように散った。

 稲妻をまとった怒涛の一撃が、カオスドラゴンの胸元を貫く。

 それはほんの十秒足らずの出来事だった。ルキフグスが初めて戦慄を浮かべる。

「ば、ばかな……?」

 カオスドラゴンは骨格だけとなっても、火炎の息を猛毒の息に変え、動き続けた。だがロイドは驚くことも怯むこともせず、猛攻を重ねていく。

「フラン、僕に力を! 君を守るために!」

 ロイドの怒りがさらにグングニルを輝かせた。ペガサスの足でカオスドラゴンの首筋を駆けあがり、顎の下を、槍で強烈に叩きあげる。

「なぜだ? グングニルよ、ロイドに従うというのか……?」

 桁外れの強さを目の当たりにして、メタトロンはありありと戸惑っていた。天使の布陣を後退させながら、天界の王子が敵なのか、味方なのか、見極めようとする。

「暇なら、俺が遊んでやろうか?」

 ところが天使の群れの中に、赤髪の男が紛れ込んでいた。魔剣カラドボルグを水平に一振りしただけで、周囲の天使がばらばらになる。

「リューク? 貴様なら、我が雷で焼かれたはず……」

「おかげさまで肩凝りは楽になったかな? 次は俺の番だぜ、ハエ野郎!」

魔剣カラドボルグは十メートル大にまで巨大化し、旋風をまとった。竜巻のような勢いで、天使どもをまとめて薙ぎ倒す。

「き、貴様っ! この我に剣を向けるとは!」

「うるせえ! 頼むぜ、フラン! 俺にも力を!」

 かろうじて魔剣から逃れたメタトロンを追って、リュークも羽根を広げた。悪魔のように禍々しいシルエットとなり、魔剣とともに、天界の主を猛追する。

 メタトロンの行方を、ロイドのペガサスが遮った。

「逃がしはしない!」

「ロイド? わたしに逆らうというのか、王子の貴様が!」

 グングニルがメタトロンの翼を掠める。

 意表を突かれたメタトロンは、空中で体勢を崩した。そこをリュークが捉え、魔剣カラドボルグを旋回させる。

「ゲームオーバーはてめえのほうだ!」

「このわたしが、貴様らなんぞに……グオオォオオオオッ!」

 魔剣がメタトロンを一刀のもとに両断した。美しいだけの翼が散り散りになる。

 召喚の主が敗れたことで、天使の軍勢は忽然と姿を消した。一方、カオスドラゴンは骨のみとなっても、巨体を維持している。

 まだルキフグスの召喚術が効力を維持していた。

「メタトロンのやつめ、見誤ったな。さすがはネクロマンサーの召喚術……おれの知らない極意が隠されていたのか、それとも……ククク、激情の成せる業か」

 ロイドたちにカオスドラゴンを差し向け、ルキフグスは瓦礫の山へと降りてくる。

 そこではフランが膨大な魔力を蓄えていた。偉大な賢者にも引けを取らない威圧感を、ルキフグスにまざまざと見せつける。

 空から落ちてきた金色の指輪が、フランの目の前で弾けた。

「あなたの指輪も返してもらうわ」

「メタトロンを撃退したからといって、おれについたわけではないのか……まあいい」

 残すはルキフグスに奪われた、銀色の指輪。

 ルキフグスが剣を抜いて、にやつく。

「マスターのおまえさえ止めれば、ロイドもリュークも恐れるに足らん。所詮は女、どうとでもなる。そう、おまえの召喚術は、おまえ自身が弱点なのだ」

 カオスドラゴンと交戦しつつ、ロイドとリュークがともに声を荒らげた。

「君は弱点なんかじゃないさ!」

「見せてやれ、フラン!」

 フランはこくりと頷き、両手を前に差し出す。

右手のあたりで空間が裂けた。利き手の左手が、そこから壮麗な剣を引き出す。

 ルキフグスはたじろぎ、顔を強張らせた。

「そ、それは鋼の精霊エクスカリバー! そんなものまで呼べるのか、貴様!」

フランの左手に掲げられたエクスカリバーが、神々しい輝きを放つ。

 ルキフグスの動きが俄かに鈍った。

「今です、フラン様! わたしが押さえているうちに……っ!」

 本来のルキフグスが冥王に抵抗し、身体を縛する。

「ちいっ、どいつもこいつも!」

「ありがとう、ルキフグス。そして……ごめんなさい」

 フランは感謝と謝罪を囁きながら、エクスカリバーでルキフグスごと暴君を貫いた。冥王の断末魔が夜空に木霊する。

「おのれっ、召喚士ども……! だが、これで終わったと思うなよ? おれは……おれたちは、がはっ、グアアァアアアアアアッ!」

 カオスドラゴンの巨躯は砂のように崩れ、瓦礫の一部が埋もれた。

 ルキフグスは消え、銀色の指輪だけが地面に残る。そのリングにひびが入った。

 城下町のあちこちでは、まだ煙が燻っている。群青色の夜空にも灰色の煙が立ち込め、星は見えなかった。どうにか月の位置だけはわかる。

「……終わったのね」

 ツォーバ王国の勝利は、決して輝かしいものではなかった。フランは膝からくず折れ、エクスカリバーをがらんと落とす。

 一部始終を見守っていたクレハ女王が、フランを労う。

「よくぞ戦ってくれました、フラン=サモナー」

「でも……」

 虚無感のあまり、胸は穴が空いたように感じられた。勝利の余韻はなく、肉体的にも精神的にも疲労が圧し掛かってくる。

 そんなフランのもとへ、ロイドとリュークが降りてきた。

「フラン! 無事かい?」

先にロイドのペガサスが着地し、翼を休める。

「冥王の野郎を追い返したんだな。やるじゃねえか」

 リュークも羽根を引っ込め、気怠そうに伸びをした。その勝気な微笑みが、フランの気持ちを少しだけ楽にしてくれる。

「なんとか、ね。だけど、ほかのみんなは……」

「まあな。俺だって、こんなの喜べねえよ」

 ロイドは慎重にミノタウロスの具合を診ていた。

「君がフランを守ってくれたんだね。すまない、ミノタウロス」

目を逸らしたくなるほど凄惨な有様になってしまったが、フランもおずおずと歩み寄って、傷の深さを確認する。

「腕のほうは治療魔法で治せると思うわ。ただ、この左目はもう……」

「ンモォー(気にするな)」

 満身創痍でありながらも、ミノタウロスは穏やかに笑んだ。残った右目の優しさに、フランは申し訳なさとともに親しみを覚える。

 この戦いでツォーバの兵は七割が戦死した。あらかじめ脱出したはずの民も、城下町の外で巻き込まれたかもしれない。アンナたちの安否が気になる。

「女王様、みんなを助けに行きましょう」

「それには及ばぬよ、向こうも決着がついておる。……アスタロッテの勝ちじゃ」

 骸のひとつが起きあがってきた。フランに魔導の力のほとんどを継承したせいか、賢者にはこれまでのような、厳かな雰囲気はない。右のアバラと左の足は折れている。

「アンナとかいう娘に魔導具を持たせたのは、賭けじゃったが」

「……お爺ちゃんは大丈夫なの?」

「ヒヒヒッ! 今度こそ死ねると思うたのに、生き残ってしもうたわい」

 祖父は手頃な瓦礫に腰を降ろし、一息ついた。

「わしのことより……ロイド、リューク。おぬしらはどうじゃ?」

 ロイドとリュークはもはや人間ではなく、フランの下僕としてのみ生きている。その証拠にふたりには契約の首輪が繋がれていた。

リュークが頭の後ろで両手を組む。

「お前の番犬になっちまったな。まっ、死ぬよりはいいさ、ご主人様」

「なるほど、君が僕らのご主人様か。ハハハッ、それはいいね」

 ロイドも朗らかに相槌を打つ。

「で、でも……! あたしのために、あなたたちは……」

 しかしフランだけは、ふたりを下僕としてしまったことに責任を感じていた。

 ロイドやリュークのことだけではない。下僕を駒とし、戦わせることの意味を、あまり考えたことがなかった。

だが、それは自分の目的のため、皆の命を使うこと。得意の召喚術を、今では恐ろしく罪深いものに感じる。賢者のほかに使い手がいないのも頷けた。

「どうか思い煩わないでくれ」

「お前じゃねえ。これは俺たちが選んだんだ」

 俯いて顔をあげることができないフランの右手を、ロイドがそっと取る。左手のほうはリュークが取って、誓いのキスを捧げた。

「……ほら、僕は何も変わらないだろう? フラン」

「俺もな。これからはお前の第一の下僕として、暴れまわってやるよ」

 ふたりの間にミノタウロスが割り込んでくる。

「ンモォー(第一の下僕はオレだ!)」

「わかった、わかった。誰もお前の仕事は横取りしねえって」

 頬に一筋の涙が流れた。

「うぅ……ロイド、リューク……ミノタウロスも、ひっく、ありがとう……!」

 涙腺が壊れてしまって、堰き止められない。優しく慰められることで、初めて自分の心が悲しみで満たされているのを実感する。

「こんなご主人様で、ごめんなさい……うえぇ」

 嗚咽を漏らしていると、リュークが大雑把に頭を撫でてくれた。

「泣くなよ。アホ面で笑ってるほうがいいぜ、お前は」

 ロイドは心配そうにフランの顔を覗き込む。

「泣いてもいいさ。僕らのマスターである以前に、君は女の子なんだから」

 天界の王子ロイドと、魔界の王子リューク。

 そして地上の召喚士フラン。

 ひとりの女とふたりの男は今、魔導の契約によって結ばれた。ロイドとリュークはフラン=サモナーと運命をともにするだろう。フランの寿命が尽きる、その日まで。

 やがて夜空の煙も晴れ、月がこうこうと輝いた。

 クレハ女王が物憂げに星空を眺める。

「天と魔の争いがまた始まってしまいました……。この地上は彼らに踏み荒らされるしかないのでしょうか? 先生」

「そうはさせぬ。そうはさせぬよ、我が娘がな」

 フランは決意を込め、月に誓った。

「主神も冥王も、あたしが……ううん、あたしたちが倒すわ」

 主神オーウェルと冥王ハーディアスは倒れたわけではない。両者とも、いずれフランを狙ってくるはずだった。三つ巴の戦いはすでに始まっている。

「ロイド、リューク、あたしに力を貸して」

「もちろん。主神は僕が討つ」

「俺が次の冥王になってやるよ。それなら安心だろ」

 地上の夜明けは遠かった。

 


 

 

 

エピローグ お爺ちゃんより

 

 

 

 

 

 十六年間の休戦を経て、天界と魔界の戦争は再び始まった。地上の有力な国家は天界、もしくは魔界の側につき、果てのない争いを繰り広げている。

 だが十六年の平穏は、決して無駄ではなかった。地上のひとびとは平和を切に望むようになり、独立のため、立ちあがりつつある。

 その先頭に立つ少女の名は、フラン=ツォーバ。

ツォーバ王国の若き女王として、また稀代の召喚士として、『反乱軍』を率いていた。天界にも魔界にも屈することなく、地上の独立のために戦い続ける。

 昨日から降っていた雨は、ようやくあがった。早朝の青空に綺麗な虹が架かる。

「フラン、少し寄り道してはどうかな? 向こうに大きな河があるんだ」

「おっ、そいつはいいなぁ。こう暑いと参っちまうし」

 ロイドはフランを気分転換に誘い、リュークも能天気に調子を合わせた。しかしフランは彼らの思惑を見抜き、適当にあしらう。

「あたしのお弁当を食べてくれるんなら、いいわよ」

「……ご容赦いただきたい」

「悪かったっての」

 どうせ『ご主人様』の水着でも拝もうと思ったに違いない。召喚の下僕にしてからというもの、かえってふたりは男性として、フランに遠慮しなくなってしまった。

 奔放なリュークならまだしも、実直なロイドまで。

「ンモォー(人間のオスはくだらんな)」

「あなたもオスでしょ。ふふっ、そろそろお嫁さんを探さなくていいの?」

 ミノタウロスのぼやきがおかしくて、笑いが込みあげた。

 おかげで、世界の命運を掛けて戦っているのを、忘れそうになる。

「ただいま~、フラン」

「フラン様! 街の様子を見てきました」

 アスタロッテとアンナのペアが、ペガサスで偵察から戻ってきた。アスタロッテは魔導士として、アンナは狙撃手として、フランに付き従っている。

「東の要塞で、両陣営の睨みあいが続いているようです。思いのほか、魔軍の守りが厚いのでしょう。おそらく天軍は増援を待っています」

「先に魔軍を挟み撃ちにしちゃう?」

「介入は様子を見てからにするわ。向こうにも、犠牲者はあまり出て欲しくないもの」

 今度の戦いも難しくなりそうだった。

 召喚術を駆使すれば、圧倒することはできる。だが非情な戦い方はフランの望むところではなかった。聡明なクレハ女王の後継者としても、ツォーバの名を穢せない。

すでに祖父は戦線を退いていた。魔導の力はすべてフランにある。

「あっちの河でしばらく休みましょうか。アスタロッテ、水遊びしたいんでしょ?」

「うんうん! フランってば、わかってるぅ!」

 リーダーのフランは今後の方針を決め、雨上がりの清々しい空を仰いだ。

「だから白だよ、リューク。ご主人様に似合うのは純白しかない」

「わかってねぇなあ……黒がいいんだよ、黒が。ちょっと背伸びした感じでよ」

「……あなたたちは見張りに決まってるじゃないの」

 相変わらず下僕の男どもがうるさい。

 

 

 賢者の物語が、そこで途切れる。

 しばらくの間、彼は押し黙り、手慰みに煙草に触れることもなかった。

「……ふむ」

書きかけのページを破り、蝋燭の火にくべる。

「こんな悲劇にするつもりはなかったんじゃよ。もっと少年が胸を躍らせるような、少女が憧れるような……王道のストーリーであって欲しかった」

 聞き手の姉妹はもう続きを催促しなかった。じきに夜も明ける。

 一息入れたことで、賢者は落ち着きを取り戻した。自慢の娘の物語は、自分にとって、辛いものでもあったらしい。

「とまあ、こうしてフランは、十六にして旅立ち……すべての戦いが終わった時には、二十一になっておった。そこまで語っては、また夜になってしまうでな」

 語るべきことはまだまだ多かった。

 地上の各地で精霊と召喚契約を果たしたこと。ふたつの大国を相手に立ちまわり、ツォーバの名を世に知らしめたこと。

魔界へと突入し、冥王と激戦を繰り広げたことは、まだ語るに早い。

 ただ、オチを知られているものを波乱万丈に語って聞かせるには、準備が足りていなかった。あらゆる叡智を積みあげた賢者でさえ、即席では満足に語りきれない。

 アンナが弓を引く話だけでも、小一時間は掛かりそうだった。

「そろそろお開きとしようかの。おぬしらも長話に付き合わされて、疲れたじゃろ」

 姉妹は顔を見合わせながら、おもむろに席を立つ。

 南の内海に面する小国家、フラムツォバ。その国名には『フランは中立なり』という意味があった。天と魔の大戦が終わってなお、フランの魂は受け継がれている。

 そんな先祖の英雄譚が、姉にとってはあまり面白くなかったらしい。

「あれだけ気を持たせておいて、ね。ふん」

 けれども妹のほうは続きが気になるのか、一度だけ振り向いた。

 賢者の書斎はすでに扉を閉ざしている。

「どうかしたの?」

「なんでもないのよ、姉さん」

 

 それきり姉妹が彼の書斎に行き着くことはなかった。

 地下迷宮のどこかで今も、作家気取りの骸骨はペンを走らせている。

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